日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

 ◇   ◇   ◇

鶴岡は人情味あふれる性格が大きな魅力だった。人間関係を重んじ、選手個々の心理を読みながらチームを掌握した。岡本伊三美、広瀬叔功、野村克也、皆川睦雄、森下正夫らファームで若手を育てながら勝ち抜いた。

南海で野村をファームから登用したのは鶴岡だ。峰山高(京都)の野球部長から無名選手だった野村を紹介する手紙が届いた。元NHK報道部チーフディレクターとして取材にあたった毛利泰子は、鶴岡本人から野村を視察した際の話を聞かされている。

「鶴岡さんは『西京極球場に(プロ野球監督は)わししかおらんかったんじゃないかな』とおっしゃっていました。経済的にも恵まれていないと伝え聞いた親分はスカウトの富永(嘉郎)さんに『野村に3年辛抱する気があるなら、うちのテストを受けに来いと言っといてくれ』と言い残して帰ったようです」

1954年(昭29)に南海入りした野村は、3年目の春にハワイキャンプのメンバーに入った。ブルペンキャッチャーだった男が戦後初の3冠王に育ったのは、野村という若手を見初めた“ツルの一声”が原点だ。

77年に野村は記者会見で監督解任に鶴岡が裏で動いたと指摘。毛利は、当時NHK解説者だった鶴岡に「(親会社の)電鉄に打ち消してもらったらどうですか」と持ち掛けた。広島から帰阪してNHK大阪放送局を訪れた鶴岡は、同局幹部と大阪・難波の南海電鉄本社に出向いて協議している。その後、球団代表の森本昌孝が鶴岡の介入を否定、野村も「発言には行きすぎがあった」と謝罪し、広瀬監督が誕生した。

1990年から4年間法大監督だったのは、昨年8月11日に急逝した鶴岡の長男・山本泰。今回の取材の中で山本は、東京6大学選抜チームがハワイ遠征した際、現地のショッピングセンターで、野村夫人のサッチーこと沙知代と会った当時を語っていた。

「たまたまお母ちゃん(沙知代氏)と会ったんですよ。あまり面識はありませんでした。『うちの主人は鶴岡さんに足を向けて寝たことはございません。よろしくお伝えください』と言われたんです」

鶴岡にそのことを伝えると「おやじは『ばかたれが、知るか!』と苦笑してましたね」と振り返った。

「(06年以降の)ある年、(マリナーズスカウトとして)久米島の楽天キャンプを視察したとき、ブルペンで野村監督から『おいっ、ヤス。なんでおやじはおれのこと怒ってんねん!』と言われたので『そんなんぼく知りませんよ。おやじのとこ行って聞いてくださいよ』とそんな会話をした。隣にいた(元阪急監督で評論家の)上田利治さんが腹を抱えて笑ってました」

かつての確執はすでに氷解していたのかもしれない。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

連載「監督」まとめはこちら>>