NHK広島 核・平和特集

広島の32歳 新聞記者「一郎」1945年8月1日~15日のツイート

2020年12月25日(金)

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NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の日記などをもとに、当時の社会状況や人々の暮らしを3つのTwitterアカウントで発信してきました。
ここでは、広島の新聞記者「一郎」の1945年8月1日~15日のツイートをまとめて掲載しています。8月6日は原爆が投下された日、8月15日は終戦を告げる玉音放送があった日です。
当時「一郎」が勤めていた新聞社は広島市中心部にあり、広島市の隣町の自宅から通っていました。
※被爆された方の日記には事実誤認などが含まれている場合もありますが、戦争の時代の社会状況を伝えるため、ご本人の記述や当時の新聞紙面などにもとづき掲載します。

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【1945年8月1日】 17:59
今日から煙草の配給が一日五本から三本になった。天気が良く、温度計に目をやると三十三度近くまで上がっている。暑い、煙草もない。なかなか気分転換もできない。
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【1945年8月2日】 17:59
赤紙が来た。

【1945年8月2日】 18:04
とうとう来るべきものが来た。
三つ折りの召集令状には、八月十七日午前八時に中国一〇四部隊へ参着するよう書かれている。五年前に応召したときの衝撃も感動もない。報道か、穴掘りか、特攻要員か。どの道をとっても落ち着く先は最悪以外にない。

【1945年8月2日】 18:30
電話で局長と部長に令状が来たことを報告。今後について、「八月十日までは平常通り出勤し、五日と十日の防衛当直には当たる」ことを決める。

【1945年8月2日】 19:59
牛田の母に召集を告げる。驚かせたり失望させたりせぬよう「長い出張に行くようなもの」と言うと、覚悟していたのか、明治八年生まれの母はゆっくりと、幼い頃から何度も言われてきた言葉を繰り返した。

【1945年8月2日】 20:04
「お上の命令ならしょうがないよのう。悪いことをせんように…人に迷惑をかけんように…。体に気を付けて早よう帰ってきてくれんさいや。戦争がすんで兄ちゃん二人も早う解除になってくれりゃええのにのう」。

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【1945年8月3日】 9:02
中国新聞社国民義勇隊にとうとう出動命令が出た。八月四日から八日まで、水主町県庁一帯の疎開作業に毎日八十人の隊員を出せという。ただでさえ軍に取られて人手がないというのに、無茶を言ってくれる。

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【1945年8月4日】 14:59
上司が義勇隊本部に直談判。おかげで、わが社の出動人数は一日本社四十人、支局員六人とほぼ半減となった。私も八月八日まで建物疎開に動員される予定だったが、水原くんが「君には召集令状が来たから」と代わってくれるという。ありがたい。

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【1945年8月5日】 21:24
今夜は防衛当直。局長以下十四人の社員とともに社に泊まっている。この中にはあす早朝から義勇隊として建物疎開に参加する者もいる。私は代わってもらったが、ご苦労なことだ。

【1945年8月5日】 23:04
小夜食として全員に茶碗一杯の雑炊と湯のみ半分のハートウイスキーが支給される。
下戸の同僚と目が合い、酒と雑炊を交換する。願ったり叶ったりだ。
湯のみを舐めながら昔話に花が咲く。

【1945年8月5日】 23:57
先ほど少数機が瀬戸内海上へ入ったとのことで警報が発令されたが、間もなく解除。やれやれと皆で胸をなでおろす。

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【1945年8月6日】 0:09
また空襲警報だ。ほんの一機だか二機だかが上空を出たり入ったり。こんな神経戦にはうんざりだ。ビラでも撒きに来たのか、気象観測にでも来たのか。

【1945年8月6日】 7:34
よく晴れたいい朝だ。「中国軍管区上空に敵機なし」と警報も解除。
これならわが社の義勇隊の疎開作業も予定通り行われるだろう。
さて、私は家に帰って朝食にしよう。

【1945年8月6日】 7:58
当直明けのひと眠りといきたいが、ひとまず汗でも拭いてくつろぐ。
今日は暑くなりそうだ。

【1945年8月6日】 8:14
ん?

【1945年8月6日】 8:16
爆発したっ!何か

【1945年8月6日】 8:18
家が土まみれ。口ん中も
何が。妻は義姉は??

【1945年8月6日】 8:18
ガラス全部吹っ飛んでいる!障子も全部
畳と天井板が持ち上がっている

【1945年8月6日】 8:19
妻、義姉、無事、無事
とてつもなく凄まじい、衝撃だった
背中を堅い座布団で叩きつけられたような

【1945年8月6日】 8:20
座敷で寝ていた妻、足首に小さな裂傷。ガラス片によるもの
方方の家から叫び声、怒号がする
ただ事じゃない

【1945年8月6日】 8:22
外は大騒ぎ。隣家、近所の住民がみな空を指差している
なんだ?あれは!


【1945年8月6日】 8:22
廣島市内の方面
みるみる、真っ赤な雲が、みるみる盛り上がっていく。とてつもなく巨大。西北上空。

雲の横を白い落下傘がゆっくりと流れていく。あいつか?あれがもう一発来るのか?

【1945年8月6日】 8:25
東洋工業の工員たち、こちらへ踏切を渡り遁走してくる。なんとみな血みどろ
女子挺身隊「お母さぁーん」と泣きわめきながら走り去っていく
ひどい

【1945年8月6日】 8:26
「アメリカがガソリンまきよった」 「ガスタンクか弾薬庫がやられた」みな言いあっている
市内に行かなければ取材しなければ。
間違いない、大変なことが起きている。
とんでもないことが。

【1945年8月6日】 8:27
防毒面、防空頭巾、鉄兜
これだけでいいのか。いやこれでいい
早く行かなければ

【1945年8月6日】 8:34
府中町茂陰付近国道沿い。民家及び町工場軒並み倒壊
何があった
火災がないということは、ガスタンクの爆風か

【1945年8月6日】 8:39
大洲橋東側、倒壊家屋につき自転車不通
ものすごい数の人々が走ってくる。こっちへ。全身血染めの男。まっ黒い顔に白い目の…男か女か判別不能
すれ違った中学生の顔、皮膚がめくれ肉がむき出しに。

【1945年8月6日】 8:41
市内に向かうほど負傷者の様相、残酷さ増す
入市できない、北へ迂回するか
いや、社長邸がほど近い。

【1945年8月6日】 8:42
待て、仮にこの爆発が一発の爆弾によるものなら
いつぞや軍監局長が話していたウラン爆弾ではないだろうか…
これは大変なことになるかもしれない

【1945年8月6日】 8:54
府中町埃宮下、山本社長邸半壊
社長はガラス片により背中に負傷も御無事
「本社あたりがやられたらしい。電話も通じず誰からも連絡がない」
師団勤務中のご長男も消息なしとのこと

【1945年8月6日】 8:55
当然のごとく、社と御子息の様子を知りたいとのこと
大洲付近から市町側の被害が大きい旨、社長に報告する
比治山方面からなら入市できるかもしれない

【1945年8月6日】 9:14
夢遊病のように歩く兵隊、わずかなぼろぎれを腰から垂らした女、瓦礫の横にうずくまる重傷者、皮膚がめくれた両手を幽霊のように挙げている子供

【1945年8月6日】 9:19
火だ!大正橋は越えるも百メートル先、段原一丁目、火の海
家屋、電線電柱により道路寸断
くさいっ!なんだこの臭い

【1945年8月6日】 9:20
血へどを吐き血便を出して死んでいる幼児がいる
血みどろの赤子を抱き狂い叫ぶ母、肩口から白い骨が覗いている老人
炎がバリバリと音を立て向かってくる。とてもここからは入市できない

【1945年8月6日】 9:29
救出できたと思ったが、中年女性は亡くなった。
段原大畑町、そこまで火が来る
被害状況掴めず
高台だ、比治山の山頂だ

【1945年8月6日】 9:44
比治山山道。町側からの負傷者の行列続く
はみ出た腸を抱え持つ人、力尽きて横たわる人、点々と
男か女かわからない。めくれた皮膚、真っ赤な肌、真っ黒な顔。顔。顔!

【1945年8月6日】 9:49
木が焼ける匂いが強い。山頂は目の前

【1945年8月6日】 10:04
廣島全滅

【1945年8月6日】 10:07
廣島が…ああ町が燃えている。
一面の炎と黒煙。見通しなし。流川あたり、右手に見えるはずの我が社屋も判然とせず。
あんな所まで行けるのか?

【1945年8月6日】 10:08
地獄。汗で体はずぶずぶに濡れている。

【1945年8月6日】 10:09
市内へ入るには北へ回るしかない
廣島駅だ、行けるのか

【1945年8月6日】 10:19
負傷者の列に、産経の唐津君がいた。重傷
紙屋町で電車ごとやられた。
お化けのような黒焦げの顔なのに、壊れたカメラを悔やんでいた

【1945年8月6日】 10:20
町中では他の記者の姿も見なかったという。安否不明
早く入市しなければ
唐津君、無事でいてくれ
自転車どこに停めた

【1945年8月6日】 10:24
くそっくそっくそっ自転車がパンク

【1945年8月6日】 10:31
ここもか!廣島駅も…!火の手すぐそこに

【1945年8月6日】 10:50
さっきまで腕の中に小さな子供がいた

【1945年8月6日】 10:50

町へ向かう途中、電車の終点にて瀕死の女が子を抱いたまま倒れこんでいた
子供はワンワン泣いていた、無事だ
「預かるぞっ、いいなっ」
母親の耳元で怒鳴って、子を抱え、逆方向の東練兵場へ走った

【1945年8月6日】 10:51
東練兵場救護所、負傷者の中に子を残し、また駅前へ引き返した。
先ほどの母親はもう動かなかった、ぴくりとも

【1945年8月6日】 11:04
大須賀町、火の海 
栄橋か常盤橋からなら市の北側に入れるが、無理か

【1945年8月6日】 11:05
走って突っ切れるか
しかし、どこまでこの烈火が続くのかわからない、防毒面でもつのだろうか
川沿いに突っ切ろう、行くしかない。とにかく水、頭から水を浴びれば行ける、のか
いや、服が燃えれば猿猴川に飛び込めばいい

【1945年8月6日】 11:10
まとわりつく炎を振り払い、大須賀町を一気に突っ走る。
むせ返る煙と熱気。防毒面が燃えて喉に火がつくよう

【1945年8月6日】 11:12
栄橋、不通
たてがみを燃やしながら、馬が立ったまま死んでいる
柔らかなものにけつまづく。老女のような姿が、断末魔の手を差し出している

【1945年8月6日】 11:12
対岸の泉邸裏、何百人もの追い詰められた裸体、川面に連なり漂う死体、死体、死体
栄橋の橋脚にしがみつく男女の群れ…がうつろに空を見上げている

【1945年8月6日】 11:21
常盤橋の向こうも炎が猛り狂っている
渡れないっ、無理だ無理だ

【1945年8月6日】 11:22
喉が燃える!
苦しい!
焼け死ぬ!!!

【1945年8月6日】 11:27
あれはなんだ!
たけり狂う炎が、メリメリ、ゴーッと音を立てながら猿猴川の水を巻き上げている
地獄だ。大焦熱地獄。

【1945年8月6日】 11:29
あぁ…命がある!
払った火の粉が今も体に残るよう
膝が笑う

【1945年8月6日】 11:35
饒津神社に逃れる。
ここも、むごたらしい負傷者で埋め尽くされている
「水をくださーい」「お母さーん…」「苦しい…」「助けて…」
樹木八裂き、石灯籠は飛ばされ、台座のみに
膝が笑って立っていられない、石垣に座り込む

【1945年8月6日】 11:39
家を出てどのくらい経ったのか。空が暗い、もう夕方か。
朝、庭で体を拭いていたのがついさっきのようにも、何年も前のようにも感じる。
今何時だ、腕時計がない。家に忘れてきたのか、落としたのか。
考えるのもおっくうだ

【1945年8月6日】 11:42
すぐそばの路上で男女が言い争っている
将校服の若い軍人と、もんぺ姿の頭から血を流した女だ

【1945年8月6日】 11:43
「お前たち軍人のやり方がわりいけえ、こういうことになったんじゃ。わしゃあ恨むぞ…子供や主人をどうしてくれるっ!」
「それはアメリカにいうことじゃ。自分らは責任とっていつでも切腹してみせますぞ」
「そうじゃ、腹を切れっ!くやしいーっ!」

【1945年8月6日】 11:54
白島一帯、炎が途切れる気配なし
市内入りはいったん諦め、北上し実家に向かう
母や甥姪の顔が浮かび、立ち上がる

【1945年8月6日】 12:04
神田橋東詰、家屋延焼中
県道を北へ進む。
対岸に火の手がちらちらとし、火に追われた負傷者たちが河原に転がっている。何百人も。

【1945年8月6日】 12:23
牛田の実家、損傷
ああ、めちゃくちゃだ。ガラス障子が破れ、戸棚が粉々になり、家じゅうに物が散乱している。大声で呼んでも誰も現れない

【1945年8月6日】 12:35
不動院へ向かう
ちょうど実家裏口で隣家の主人が、皆そこに避難していると教えてくれた。

【1945年8月6日】 13:03
生きていたっ!
「おじさん、ここよ、ここ」猿宮下の藪で甥と遭遇、母も
私の顔を見た途端「一郎っ!」と母がワっと泣き出す。社で死んだものとばかり思っていたそうだ。

【1945年8月6日】 13:04
母も、他の甥姪たちもガラスの破片で微傷で何よりだが
ただ今朝、学徒動員に出かけた姪の生死が分からない

【1945年8月6日】 13:05
聞けば、いま午後一時だという。
そう聞くと急に腹が減る。
今朝から何も食っていないと言うと、ご近所さんがむすび二つとトマトをくれた。

【1945年8月6日】 13:22
トマトを口に含む。

【1945年8月6日】 13:24
皆によると、むごたらしい負傷者が、兵隊も男女の区別もなく列をなして戸坂国民学校へと向っているそうだ

【1945年8月6日】 13:24
戸坂国民学校には第一陸軍病院の分院があり、軍医も看護婦もいる。
今朝の義勇隊動員を私と代わってくれた水原君。それに社長御子息。彼らに会えるかもしれない。
同僚たちの安否が知りたい

【1945年8月6日】 13:54
戸坂へ向かう道中。点々と横になる重傷者たちの顔を一人一人覗く。将校や兵隊に声をかけ、軍管区司令部の情報収集をして歩く
しかし、求めている顔には出会えず

【1945年8月6日】 13:55
夢遊病者のように歩く中学生、 血のついたぼろ切れを恥部の前にぶら下げた裸足の女
直射日光の下を自力でよくもここまで逃げてきたものだ
しゃがみ込んだ十歳ほどの子供が皮膚のめくれた両手を幽霊のように上げている。声をかけるが立てない

【1945年8月6日】 14:20
子供を抱えて、戸坂国民学校に到着。軍医に子供を預けた
「お父さんかお母さんが来るまで頑張るんだぞ」
そう言ってはみたが、軍医は体の三分の二ほどが火傷したら助からんと言う。
なんとかしてやってほしい

【1945年8月6日】 14:29
戸坂国民学校はうめき声と水を求める声で充満していた
教室、校庭、付近の草むらに至るまで負傷者で一杯だった
ここには尋ね人も、有益な情報を持つ者もいなかった。やはり、軍管区司令部に行かねばなるまい。
戸坂から市内へ戻る。

【1945年8月6日】 14:49
工兵橋の傍、県の水田事務官に呼び止められる。怪我なく無事。
廣島駅で芸備線を降りたところでやられ、今から深川の自宅を目指すとのこと。
水田さんはこう言った
「ほんまに鬼畜のようなことをしやがったですねえ」

【1945年8月6日】 15:11
神田橋を渡り入市。白島九軒町から逓信局前、京口門に至る。
町を包む猛火は落ち着き始めたが、瓦礫の下や電柱、大樹の根元からは幾つも炎が噴き出している。
熱いが、火を避けながら進めば何とか通り抜けられそうだ

【1945年8月6日】 15:17
廣島城、消失。跡形なし。
薄煙の向こうに山々が見える。恐ろしく近くに山がある。

【1945年8月6日】 15:27
西練兵場。防空壕の中は負傷した兵士で満員だ。
壕から漏れた負傷者が灼熱の太陽に火傷した肌を焼かれている。「兵隊さーん」と私を呼ぶ声に、日よけをかけ、水筒の水を飲ませてやった。

【1945年8月6日】 15:41
廣島城の軍管区司令部、楼門も灰に。そこに銃剣を構えていた衛兵の姿もない。
楠や桜、柳など城を彩っていた樹木は裂けて焼けただれている。壊れかけた橋の下の堀で元気に泳いでいた鯉が、白い腹を見せて浮かんでいる。

【1945年8月6日】 15:43
…あれ?あの男は。

【1945年8月6日】 15:49
米兵だ
司令部の芝に、後ろ手を紐で縛られた白人の大男が横たわる
もしや、数日前に撃墜されたB24の搭乗員ではないか。
広範囲に鬱血している。容態を確認する

【1945年8月6日】 15:49
あたりを見渡すと三十メートルほど向こう、堀の横の焼けたユーカリの大樹にもたれかかった兵士が、こちらをじっと見ている。
後ろめたくなり、とっさに米兵から離れる

【1945年8月6日】 15:50
話しかけようと思い、近づいた。
兵士は、既に絶命していた。
見開いた眼は前方を凝視し、鼻から下は真っ黒。口は大きく開かれていた。

【1945年8月6日】 15:54
ユーカリの樹にもたれたところで命が尽きたのだろうか。目の前にいる米兵を睨みつけながら死んでいったのだろうか。恨み言の一つも言おうと、口を開いたのだろうか。
兵士と同じように大樹にもたれる。私は水筒から水を飲んだ。

【1945年8月6日】 15:56
彼の最後の言葉は、水をください、だっただろうか。それとも、お母さんと呼んだだろうか。
「熱かったのう…」
そう言って、水筒の水を頭から注いだ。
私はもう一度水を飲んだ。何度も、飲んだ。

【1945年8月6日】 16:05
将校がいる。松村参謀長…か?

【1945年8月6日】 16:09
司令部があったあたりまで行くと、焼け跡に松村参謀長が腰を下ろしていた。三角巾で腕を吊り、裸の上半身は切り傷だらけ。私が記者であることを確認すると、何か情報はないかと尋ねてきた。中国軍管区の上層幹部はほとんど戦死したという。

【1945年8月6日】 16:17
今まで見てきたものと、我が社も全滅かもしれないこと、軍事記者も殉職と思われること。ひととおり報告する。
司令部として、この廣島の状況を正式発表してほしいと伝える。

【1945年8月6日】 16:24
参謀長は言う
「“中国軍管区司令部発表…六日午前八時過ぎ敵B29二機は廣島市を攻撃、落下傘により新型爆弾を投下”。…なぁ、被害はどの程度と言うべきか?」
「“廣島市は全滅”…ですか?」
「馬鹿を言うな!“市内に相当の被害を生じたり” だ」

【1945年8月6日】 16:27
「市内に相当の被害、相当の被害」
松村参謀長の発表を復唱する。先ほどの道を引き返す。
急げ、少しでも早く、原稿を入れなくては。
中国新聞本社へ向かうことにする。

【1945年8月6日】 16:34
瓦礫に埋まった道をかき分け、本社のある流川方面へ。
町が、消えている。
これが相当の被害か?

【1945年8月6日】 16:46
やはり。
中国新聞社本社の中国ビル、全焼。
真っ黒に焼け焦げ、窓の跡から薄煙が噴き出ている。

【1945年8月6日】 16:49
玄関口に同僚の鎌倉記者が腰を下ろしていた。彼も今、ここまで来たそうだ。
「お互いやられんでよかったのう。…社内に二、三の死体がある。早出の人らしい」。

【1945年8月6日】 17:10
三階の編集局、まったくの灰に
焼けただれた階段を登る。机や器具、新聞、書籍などでごたごたしていた局内だが灰しかない。
木切れで古新聞や書類の燃え残りをつつくと、パっと炎が上がる。

【1945年8月6日】 17:11
ここで、昨夜同僚とウイスキーを飲み、昔話をした。
今朝、爆弾が投下されたほんの三十分前まで私はここにいた。
死んでいたかもしれない。でも、私は、生きている。

【1945年8月6日】 17:31
昨夜は、社の真向かいにある寮に泊まった人間もいたはずだ。
瓦礫の下を掘ってみよう。そう思い、鎌倉記者に声をかけた。

【1945年8月6日】 17:53
「熱い! 今掘るのは、とても無理じゃ」と鎌倉記者。
隣に立ち、近寄ることもできない瓦礫の熱気を感じた。

【1945年8月6日】 17:54
あっ…そうか

【1945年8月6日】 17:55
あの司令部発表は、もう活字にすることは出来ないのだ…

【1945年8月6日】 17:56
今日目の当たりにしたことも、何も伝えられない
玄関石の上にへたり込む
焼け跡と、死体の群れが目の前にある
どうしてこうなった?

【1945年8月6日】 18:12
目の前の交差点に、焼けていない死体が並んでいる
水原君はいないかと近づく。「磯崎芳子」の名札。
最近入社したタイピストの女性だ。
可愛らしいと評判だった顔は目の下から顎にかけてぱっくりと切れ、奥歯が覗いている。

【1945年8月6日】 18:46
一人一人の顔を確認したが、水原君はいない。
横たわる消防士がかすかに動き、水を欲した。
水筒の水を口に入れてやると、美味しそうにゴクゴクと飲んだ
その後、口と鼻から黒い粘液を出し、息絶えた。

【1945年8月6日】 19:13
社長邸に報告に向かわなければならないが、体が言うことをきかない。
太陽はいつの間にか沈み、空が茜に染まっている。
あちこちでまだ、狐火のように炎が燃えている。

【1945年8月6日】 19:17
今朝突然に起こった爆発。そして次から次へと目の前に現れた想像を絶する残虐。
どうして、どうしてこうなったのだ…
私にはわからない
汗と土埃の結晶がへばり付いて、頬に手をやると、ざらざらと落ちた。

【1945年8月6日】 20:09
再び山本社長邸へ。
状況報告と司令部発表の原稿を渡す。
幹部や支社局長が集まり、明日からの朝日、毎日への代行印刷依頼や疎開させた輪転機の稼働、社員の生死などについて話し合っている。
やつれた社長の目は血走っている。

【1945年8月6日】 21:42
帰宅。
妻が整理や掃除をしたらしく、戸、障子、天井、壁などの大きな破損個所を除くとだいたい片付いている。
汚れた衣服を脱ぎすてて風呂に入る。温かさが体を包んだ。
湯船の中で、自分でも分からぬような声が出た。

【1945年8月6日】 21:43
「君には召集令状が来た。僕が出よう」
本当なら今朝、当直明けの私は義勇隊として建物疎開に出るはずだった。水原君が代わってくれたから、こうして生きている。
明日再び廣島入りし、仲間の生死を確かめる。
それは 生き残った者の義務である。

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【1945年8月7日】 6:59
社長宅に集合。麦藁帽と長袖シャツ。弁当と水筒持参。 昨日の光景が頭をよぎる。あの爆弾の前では、鉄兜も防空頭巾も何の意味もない。さあ生存者の捜索だ。

【1945年8月7日】 7:15
「あの、私も夫を捜させてください」
同僚と二人で出発しようとすると、社長ご子息の夫人が声をかけてきた。胸には大切そうに救急用の医薬品を抱いている。 必死の形相だ。三人で入市することにする。

【1945年8月7日】 7:29
地獄のパノラマは今日も続いている。
道路わきに干魚のようになった焼死体。海面を満ち潮とともに上がってくる裸体の群れ。性別の見境もつかぬ重傷者のうめき声。

【1945年8月7日】 7:41
路上の死体はトラックや大八車で収容が始まっている。しかしまだ至るところに転がっている。記者でありながら、この凄惨さを活字にすることができないとは。
しっかり目に焼き付ける。いつかのために。

【1945年8月7日】 8:19
熱い…!
今日も気温は三十度を超している。炎熱の中、水を飲みながら歩きに歩く。たまに吹くジメッとした風にむせ返る。死体を焼く臭い、焦げくさい臭い、その他散乱している腐敗死体の臭い、そういったものが一斉に襲ってくる。

【1945年8月7日】 10:31
「なんぼう歩き回っても無駄じゃ。ご子息は直撃されて灰になっとる」
同僚は休みたがる。しかし、夫人の耳には入らない。ただひたむきに前へ前へと向かう。夫にめぐり会いたい一心だろう。
その姿を見て、妻の顔が浮かんだ。

【1945年8月7日】 10:34
もし私が昨日、義勇隊として建物疎開に出動していたら、妻も今日はこのように、無数の死体と負傷者の中を必死になって探し回っていたことだろう。あの痩せ細った体で。

【1945年8月7日】 13:00
ここもか…。
矢賀を振り出しにいくつかの仮設救護所を回ってきたが、どこも収容しきれていない。息の止まったものはすぐ外へ運び出され、負傷者も簡単な応急手当を受けているに過ぎない。

【1945年8月7日】 14:59
社長ご子息も水原君も見つからない。
夫人はカーキ色の軍服姿を見ると、駆け寄り顔をのぞく。

【1945年8月7日】 15:09
積み上げられた広場の死体は、着衣に名札のないものは性別と推定年齢を控え、急ごしらえの焼き窯に運ばれる。
折り重なる全ての犠牲者に家族がいることだろう。しかし、名無しで、誰にも気づかれず、灰にされていく。

【1945年8月7日】 19:39
本社にたどり着いた。
玄関前では、生き残った社員たちが同僚や家族の消息を受け付けている。よく机と椅子が残っていたな。九階で奇跡的に焼け残っていたらしい。
水原くんの顔を探すが、見当たらない。

【1945年8月7日】 19:59
良かった…!
水原君は生きている!

【1945年8月7日】 20:01
水原君は家屋の下敷きになっていたが抜け出し、川に浸かって難を逃れたそうだ。今朝祇園の自宅に向かったはずだという。まずはホッとする。

【1945年8月7日】 20:14
消息を教えてくれたのは北山業務局次長。
昨日の義勇隊の指揮者だった御仁だ。眼鏡をなくして顔の形も変わっている。体じゅうにたくさんのかすり傷を負っている。

【1945年8月7日】 20:15
北山局次長の話。
「天神町の建物疎開作業に取り掛かろうとする矢先にやられたわ。わしは家屋の陰になっとったんじゃが、ほとんどの隊員は火傷で皮膚がただれ、誰が誰やら分からんようなった」

【1945年8月7日】 20:16
「火と煙に追われて、生きとるもんは川に飛び込んだ。家の下敷きになっとるもんもおったが、火が足元まで迫って来とって、どうしようもなかった。川にも竜巻や火柱が出て、泳げんもんから水の中へ消えていった。わしはほんまに申し訳がない…」

【1945年8月7日】 20:17
責任感の強さから弱る体を気力だけで動かしていたのだろう。局次長はかなり疲れているようで、まともに歩けない。犠牲になった隊員のことを一通り報告すると、同僚に手引きされとぼとぼと去っていった。

【1945年8月7日】 21:24
今日は、矢賀、尾長、中山、戸坂、可部、祇園、古市、長塚、己斐。観音、江波、そして鶴見橋から大本営跡へ。
確かに歩き回ったはずなのだが、馴染みの光景は失われ、まるで別の町だ。

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【1945年8月8日】 7:42
紙面はないとはいえ、自分に今できることは取材しかない。
市の中心部で唯一焼け残った東警察署が昨日から臨時の県庁になっている。わずか十人ばかりの署員で、猛火の中、負傷をおして建物を守り抜いたという。早速向かうことにする。

【1945年8月8日】 8:11
臨時県庁前にも運びきれない負傷者が並ぶ。

知事は出張中で無事だったが、夫人を亡くし、二十数名の部課長たちが死亡し、または負傷した。軽傷の部下とともに陣頭指揮にあたる姿は顔面蒼白だ。その心情を思うとまともに見ることができない。

【1945年8月8日】 9:29
他社にも渡すようにと知事諭告を受け取る。以下抜粋。
「廣島県市民諸君よ、被害は大なりといえども之戦争の常なり。断じてひるむことなかれ」
「速やかに各職場に復帰せよ」
「戦争は一日も休止することなし」

【1945年8月8日】 9:30
中国地方総監府にはもう行政能力はなくなった。
大塚総監は戦死、副総監は重傷も、現在も指揮にあたっている。
総監は上流川町の官舎で家の下敷きになって殉職。助けようとする家族を「犬死にするんじゃない!俺に構わず行け!」と叱咤したそうだ。

【1945年8月8日】 16:56
新聞社に戻る。
明日から、朝日と毎日が代行印刷する中国新聞が島根から届くとの知らせ。
大本営は昨日午後、廣島の惨状を「新型爆弾による相当の被害」と発表したそうだ。
廣島市は全滅、とはならなかった。

【1945年8月8日】 17:09
ここまでの被害情報をまとめる。昨日訪ね歩いた社長ご子息をはじめ、社の人間四十名以上死亡。親友や多くの仲間を失った。廣島市内では、二十万人以上死んだとも聞く。とはいえ、市全体が吹き飛ばされたのだ。正確な数字など数えようがないだろう。

【1945年8月8日】 17:10
〔死亡〕
山本利編集局長
広実正編集局長
小迫周蔵工務局長
佐々木(旧姓 藤井)猪勢治編集局次長
西村静一前編集主査
法安雅次主筆
横山隆二庶務部長
長尾一郎事業部長
立石佐一郎管理部長
中村正男業務部次長
宮武松三郎印刷局機械部
(続)

【1945年8月8日】 17:11
〔死亡〕
宮本軍一校正部次長
串本繁製版課長
山田光造可部支局長
矢田茂防府支局長
尾崎義之小野田支局長
ほか四十数人

〔重傷〕伊藤音三郎総務局長、藤勇哲編集局総務、広谷千代造校閲部長、橋本令一活版部次長 ほか不明

【1945年8月8日】 17:12
和田博、仲伏一之、三好友太郎ら親友も亡くなった。三好君は幟町の自宅で本に埋まり白骨になっていたそうだ。旬報の三木芳郎や県政の山田俊秋もだめだろう。

【1945年8月8日】 17:22

なんだか体の調子がよくない。それも当然か、連日遭遇してきた驚天動地の異変と炎熱下の捜索とで疲れ切った。今日は社長宅に寄らず、このまま帰宅しよう。

【1945年8月8日】 19:14

帰宅。家族は留守。疲れで火を起こす気になれず、冷や飯で食事を済ませた。
久しぶりに机に向かう。紙面はなくとも、今日までに見たものを日記に書き留めなければ。

【1945年8月8日】 19:24
「熱い」「暑い」毎日だった。
この三日間に見たものは人間のすることではない。有史以来桁外れの暴挙だ。

【1945年8月8日】 19:25

「鬼畜米英」
日記帳に自然と書いた。私は、これまで大本営がどんなに強調しても、この言葉を原稿に書いたことは一度もなかった。しかし今回の行為は「鬼畜」の仕業としか思えぬ。
女も、子供も、老人も、病人も、一緒にまとめて殺された。

【1945年8月8日】 19:27

日本が白旗を上げる日はこれで早まるだろう。
それにしても、この戦争を始めた軍、軍と結託した官僚と財閥は、この無防備の国民をこれからどうしようというのか。

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【1945年8月9日】 9:05

昨夜十時二十五分から約一時間にわたり、B29約五十機が福山を空襲。焼夷弾約五万個を投下。臨時廣島県庁に入った報告によると、中国新聞福山支局を含め全市の大半が焼失。

【1945年8月9日】 9:59

昨日から山陽本線廣島ー横川間開通。応急処置として廣島ー宇品間に臨時乗合自動車が運行開始。市内電車も己斐ー西天満町間が営業を始める。
廣島市内の被災銀行と保険会社は日本銀行広島支店で共同営業を開始。
しかし、かつての日常とはほど遠い。

【1945年8月9日】 14:57
疲れが溜まっているのだろうか。熱が下がらず、下痢が続いている。
どうせ取材しても記事にできる場所はない。今日は帰宅することにする。

【1945年8月9日】 17:59

ラジオから「ソ連、対日宣戦を布告」の報。
中立条約はどうなったのだ。
ああ、これで日本の敗北は決定的になるだろう。

【1945年8月9日】 19:30
布団の中でうつらうつらしていると、加藤部長が寄ってくれた。その表情は虚ろだった。
「今日午前、B29が長崎にも新型爆弾を投下した…」
六日に目の当たりにした地獄が蘇る。絶望のみ。

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【1945年8月10日】 9:30
昨日はせんじ薬と番茶以外喉を通らなかったが、今朝は空腹を覚える。おかゆ半分とトマト三切れ食べて、ようやく人心地がつく。
召集も近いし、私が出兵している間の妻と義姉の身の振り方も考えたい。今日は休養することにしよう。

【1945年8月10日】 17:57
ソ連軍は兵力を逐次増強して満州北部を制圧。朝鮮、樺太国境を侵犯して南進している。
日本海上でソ連機十四機を撃墜したそうだ。
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【1945年8月11日】 12:29
今日も休養。
しかし布団の中にいると、あの日遭遇した様々な光景が脳裏をよぎる。
段原で出会った女性の声が今も耳の奥で聞こえる。
「兵隊さーん…」
崩れた屋根の隙間に埋もれる彼女は、私に助けを求めた。

【1945年8月11日】 12:30
私は言った。
「待っていなさいよ、今なんとかしてあげるから」
防空頭巾や上着を脱いで、瓦や垂木を一つずつ取り除いた。
最後に残った重い柱を持ち上げると、彼女はゆっくりと這い出してきた。

【1945年8月11日】 12:31

無事助けられたと安堵した次の瞬間。
横腹の傷口から、樽の栓を抜いたようにどっと血を吹き出し、女性はそのまま声もなく死んでいった。
ああ…。

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【1945年8月12日】 9:29

下痢が止まり食欲も出た。出勤する。

【1945年8月12日】 12:34
わが社の新聞は九日から朝日、毎日、島根新聞社による代行印刷で発行されているが、その期間は原則一カ月と決まっている。社長は輪転機を疎開させている温品に工場を置き、自力での発行を目指すと決めたようだ。

【1945年8月12日】 15:27
本社焼け跡では、同僚たちが鉛筆と紙の代わりにメガホンを持ち、ニュースを口伝えで知らせる「口伝隊」として活躍している。被災市民に廣島の現状を伝え励ますため、新聞は発行できなくともやれることがある。

【1945年8月12日】 17:52
有事には憲兵隊で編成する予定だった口伝隊だが、軍服の信用が無くなり、新聞社員らが代わることとなった。
傷病者の収容場所、救援食糧、被害状況などを伝え歩く。
最後に「何も心配ない」と付け加えるが、気休めなのは皆十分に分かっている。

【1945年8月12日】 19:14

廣島を壊滅させた新型爆弾は、「原子爆弾」であったようだ。
わが国の決戦兵器が必死の体当たりであることを悲しむ中で、期待されていた新兵器の神風は、敵方に吹いた。

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【1945年8月13日】 16:09
私の召集に備え、妻と義姉を再疎開させる。
義姉は長女が嫁ぐ小屋浦へ。妻と私は牛田の実家へ身を寄せる。あの日以来の牛田は、死体の大半が片付けられ、通りの瓦礫の整理も進んでいる。

【1945年8月13日】 22:04
ここまでうめき声が聞こえてくる。
実家の隣家では、長男が徴用先で被爆し背中一面に火傷を負ったそうだ。
大の男が夜中にこれだけの声を出さねば我慢できない。いったいどれほどの痛みだろうか。

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【1945年8月14日】 12:27
この期に及んでまだ、戦えというのか。
近所に住む徴用工の山田さんが、数日前に徴兵されて即日九州へ連れていかれたそうだ。軍は最後の手段として、軍需工場の壊滅でだぶついた労働力を本土決戦の矢面に立たせようとしている。

【1945年8月14日】 18:05
夕方、府中の自宅まで醤油と油の瓶を取りに行く。こうした品物はいま通貨的な価値を持つようになった。おそらく金か闇米に化けることだろう。
沖縄陥落以来、闇取引はほとんど公然の秘密だ。日本人は闇の面で一億一心にさせられている。

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【1945年8月15日】 9:09

晴れ。明後日から応召。
この先いつまで続くものか、そしてどこに配属されることになるかは分からぬが、私も軍隊の一員となる。今日は社長と社の仲間たちに一通り挨拶して回ることにする。

【1945年8月15日】 12:01

何だ? 放送局の跡に数名が立ち止まって何かを聴いている。

【1945年8月15日】 12:02
「天皇陛下のご放送」だという。
陛下は、このように澄んだお声だったのか…。

【1945年8月15日】 12:05
ガーガーと途切れ途切れで…よく分からんな。
新たに残虐なる爆弾…朕が帝国政府をして…遺憾の意…?
「いったい何の放送ですか」と隣のご婦人に聞かれたが、こっちが知りたい。

【1945年8月15日】 12:09

…堪え難きを堪え忍び難きを忍び…
「一億玉砕せよとおっしゃっているんでしょう」
…万世のために太平を開かんと欲す…
「そうじゃない。降参じゃろう…どうもそうらしい」
町の人の会話と、ラジオの音声が重なる。

【1945年8月15日】 12:11
この放送が本当に陛下のお言葉なら…
ポツダム宣言を日本が受諾したに違いない。
しかし…それにしても…降伏というものは、こんなに簡単に…?
いや、考えてみれば開戦も、ラジオの大本営発表と詔勅から始まった。

【1945年8月15日】 12:39

終わった。
よく聴き取れなかったが、「帝国政府をして共同宣言に応ぜしむる」「万世のために太平」ははっきりと聞こえた。やはりこれは、敗戦の詔勅なのだろう。

【1945年8月15日】 13:20
「今の放送は本物か?」
逓信局に行き大声で聞くが、庶務課員たちはぼんやり宙を見つめたまま。中年の課員の肩をゆすると、彼は頷き、無気力に答えた。「…あの重大放送で日本の敗戦は決まったんでしょうかねえ」。
決まったのだ。

【1945年8月15日】 13:24
逓信局の一階には、負傷者たちが枕を並べていた。彼らは敗戦のことを知っているのだろうか。口から漏れるのはうめき声だけ…。

【1945年8月15日】 13:26
日本は、負けた。

【1945年8月15日】 19:04
「戦地の兄さんたちも聞いたかのう」
「元気に帰ってほしいのう」
夜、牛田の実家で敗戦について話す。
三本のろうそくの炎が柔らかい。暗闇で空襲に恐れる必要はもうないのだ。みんなの心もなんとなく明るい。

【1945年8月15日】 19:30
「これからどうなるん?」
皆から聞かれ、私はポツダム宣言の紙面を手に、説明をした。その間、戦争に負けた悲しさと、束縛から解放される嬉しさが交互に私の心を捉えた。

【1945年8月15日】 19:32
「軍隊は完全に武装を解除されたのち、兵隊は各自の家庭に復帰」
私も明後日召集だが、間も無く復員になるだろう。私がかつて思ったこともない大きな福音だ。

【1945年8月15日】 19:33
「日本国民の間に民主主義的な傾向の復活が強化され、宗教、言論、思想の自由、ならびに、基本的人権の尊重を確立」
新聞も変わるのだ。自由に書いていいのだ。

【1945年8月15日】 19:35
いや、待て。戦争に敗れたのに、このような恩恵が本当にあるのだろうか。日本人を奴隷にするための一時的な甘言ではないか?

【1945年8月15日】 19:35
いやいや、民主主義の国が二枚舌を使うはずはない!

【1945年8月15日】 20:29
これからは、暗い夜が、明るくなるのだ。
二、三軒先の家ではお経を派手に読む声が響く。もう一軒先からはレコードの流行歌。
賑やかな景色に自然と頬が緩む。

【1945年8月15日】 20:32
しかし母は憤る。
「なんでひと月ほど前にやめとかんかったかのう。もっと早うやめとったら、あのむごい大勢の人殺しはなかった。勝つ見込みもないのに…」。
人間無理をすると必ずバチが当たる、は母の口ぐせだが、今日はやけに響いた。

【1945年8月15日】 22:00

あの日こちらを見つめていた数々の目が脳裏をよぎる。
ユーカリの木の下で兵隊が死んでいた。
真っ黒に焼けただれた鼻。大きく開かれた口。
かっと見開いた目は、私を見ていた。
日本は、負けたのだ。

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※1945年当時の日記などをもとにTwitterで伝えてきたこのプロジェクトの目的は、戦争の記憶が薄れつつある中、若い世代に被爆体験を継承し、戦争の時代の社会状況についてリアリティーをもって伝え、考えていただくことにあります。
「一郎」のモデルは、1945年当時、広島の新聞記者だった大佐古一郎さん(32)です。広島ゆかりの若い世代が大佐古さんの日記を読み、その味わいを大事にしつつ、現代の感性を加味し、想像を膨らませて書いています。日記のほかに当時の新聞やインタビュー取材なども参考にしています。時間は、日記などをもとに推定しました。