第46話 ガラスの少年①
「怒っているわけじゃないの。でも、人の物を盗むのは悪い事なのよ。分かるでしょう? だから素直に謝りましょう。ね?」
諭すように優しく語りかける言葉に思わず「うん」と頷いてしまいそうになる。蠱惑的で甘美な響きが耳孔を震わすが、九重雪兎は躊躇なくそれを否定した。
「ボクではありません」
「じゃあ、どうして九重君の机に入っていたの?」
「しりません」
本当に知らないのだから、そう答えるしかない。
目の前の教育実習生の顔に困惑が浮かぶ。
九重雪兎という少年が一言謝罪すればそこですぐに終わるはずの話だった。実際、怒ってなどいないし、こういうことをしたのは自分に関心を持ってくれているからだと嬉しく思っていたくらいだった。だから配慮もなく教室内という場所で接してしまったことに、教育実習生の氷見山美咲は後悔を覚え始めていた。
「もう! 九重君。貴方はどうして正直に言わないのかしら? 貴方がやったことは万引きと同じで窃盗なのよ? 犯罪なの。大人になれば警察に逮捕されるようなことをしたの!」
「そうですか。でも、それはボクではないので」
「九重君!」
「す、涼香先生、落ち着いてください。私は怒ってはいませんし、言って聞かせればきっと九重君だって分かってくれますから。ね?」
「なにを言われても、ボクではないので分かりませんけど」
「素直に認めなさい! ご両親に連絡しますよ!」
「どうぞどうぞ」
「九重君!」
三条寺涼香が声を荒らげるが、目の前の少年はまったく動じることがない。自分が悪いことをしたという自覚を一切持っていないようだった。子供にはしっかりと善悪の分別を付けさせる必要がある。教師とは勉強だけを教えれば良いという存在ではない。
より良い人生、輝かしい未来を歩むために、子供達が真っ直ぐ成長できるよう指針となり導いてあげることも、三条寺涼香は教師の義務だと思っていた。そしてその第一歩となるのが小学校だ。
小学校の教師は、ある意味では家族のように接することも必要だ。集団の中での生活、上下関係といった自覚が出てくる高学年と違い、低学年になるほどその傾向は強くなる。
教育実習生として、このクラスに来ていた氷見山美咲の私物が九重雪兎の机から見つかった。掃除の時間、生徒が机を運んでいるとき九重雪兎の机の中から零れ落ちたことで発覚した。別に高価なものでもない。それがないと困るというものでもなかった。化粧道具とも言えないような、鏡のついた小さなコンパクトだ。
動機としては、氷見山美咲のことが気になって、つい彼女の私物を手に取ってしまったというところだろうか。先生をお母さんと呼んでしまうことがあるように、小学生の低学年という多感な時期の少年少女達にとって、教師という存在は特別だ。ほのかな好意を持ってもおかしくはない。
だからこそ、当初は三条寺涼香も氷見山美咲もそれくらいの軽い認識だった。授業が終わり、帰りのSHで彼に尋ねる。彼が一言「ごめんなさい」と言えば、「もうしちゃ駄目よ」と笑って彼の頭を撫でる。それで終わっていたのだ。笑って済ませられる、そんな些細な出来事のはずだった。
だが、そんな目論見とは裏腹に彼は真っ向から否定した。自分の非を一切認めようとしない。こうなると話は変わってくる。教育者として、生徒を正しい方向に導かなければならない。人の物を盗むことは悪いことだと、九重雪兎という少年が認識しない限り、これからも同じようなことを繰り返してしまうかもしれない。
そうなれば彼の人生は暗く後ろめたいものになってしまう。彼の担任として、一人の教育者として、そんなことにはさせないという使命感が三条寺涼香にはあり、そしてそれは氷見山美咲も同じ気持ちだった。
そう思い言い聞かせるが、どれだけ言葉を重ねても彼は謝らない。それどころか罪を認めようともしない。徐々に苛立ち声を荒らげてしまったが、それでも九重雪兎は平然と受け止め無表情のままだ。
「本当に連絡しますからね! 良いんですね?」
「しつこいなぁ」
「涼香先生、そこまでしなくても……」
「私達が言って聞かせられないなら、ご両親に叱ってもらわなければなりません。九重君がしたことは犯罪なんです。このままだときっとこれから苦労します」
「ですが……」
「美咲先生、お優しいのは美点ですが、それだけでは教師は務まりませんよ。素敵な先生になりたいんですよね?」
「はい……。子供達が好きなので」
「だったらここは心に鬼にしないと」
「そう……ですね。本当はこんな風に大事にはしたくありませんでしたけど……」
まだSHの途中だった。教室にはクスメイト達も全員残っている。長引くSHに先にSHが終わった硯川灯凪が教室の外、不安げな表情を浮かべながら待っていた。
「おはなしはおわりましたか? ひーちゃんが待っているので早く帰りたいんですけど」
「終わっていません! いい加減素直に認めなさい!」
「なにをですか?」
「九重君、あのね。人の物を盗むのは悪いことなの。君がやったことは泥棒なのよ。とってもいけないことなの」
「さっきも聞きましたし、ボクではないので言われてもわかりません」
「美咲先生、親御さんに連絡しましょう」
「涼香先生……。それしかないんでしょうか……」
「もういいですか? ひーちゃんが待ってるので帰ります」
すぐに終わるはずだったSHは一転、不穏な空気に包まれ始めていた。長引くSHに飽きたのか何人かが「泥棒だ泥棒ー!」と囃し立て始める。今になって三条寺涼香と氷見山美咲はこの場でこの話をしたことを完全に後悔し始めていた。完全な失態。
小学生とはえてして敏感だ。この場で終わるはずだった些細な出来事は、長引いたことによって、深くクラスメイト達に記憶として刻み込まれてしまった。「九重雪兎は泥棒である」そうしたマインドがクラス内に蔓延すれば、それがそのままイジメに繋がる危険性もある。
本来なら彼を職員室や空き教室に呼び出して個別に対応すべきだった。彼にしても、このような形で晒し者にされて傷つかないはずがない。無表情を装っていても深く傷ついているはずだ。クラスメイト達の前で認めろと迫ったことが失敗だった。他の場所で彼一人に問い質せば、彼だって素直に認めていたかもしれない。きっと意固地になっているだけ。恥ずかしいだけ。そうさせてしまったのは自分達の対応の甘さだと痛感してしまう。
三条寺涼香とて、まだまだ経験の浅い教師でしかない。全てを上手く出来るはずもなかった。自身の認識の甘さに内心で舌打ちしてしまう。このまま追求を続けるのは得策ではないと、そう判断するしかなかった。
「九重君、家でご両親にしっかり何が悪かったのか聞いてくるように」
決して九重雪兎を嫌っているわけではない。大切な大切な教え子だ。未来ある少年だ。むしろこれは彼を心配してのことなのだ。その気持ちが伝わって欲しいと願いながら、教室から出ていく九重雪兎の背中を三条寺涼香と氷見山美咲は見つめていた。
‡‡‡
「ひーちゃんごめんね。遅くなって」
「ううん。大丈夫だよ。でもひどいよ! ゆーちゃんがそんなことするはずないのに!」
全てを把握しているわけではないが、それでも一連の様子を廊下で見ていた硯川灯凪は、ぷんぷんと怒りながら繋いでいる右手とは反対の左手をブンブン上下に動かしていた。怒りを表現しているらしい。
「ひーちゃんは信じてくれるの?」
「あたりまえだよ! わたしとゆーちゃんは幼馴染なんだよ。ゆーちゃんがそんな悪いことするはずないって、わたし知ってるんだから」
「ありがとね。ひーちゃん」
「えへへ」
はにかんで笑うその表情に九重雪兎の心も軽くなる。
「それにしても、なんでボクの机に入ってたんだろ……」
「わかんない。拾った人がゆーちゃんのだと思ったのかな?」
「うーん。でもああいうの女の子しか持たないよね?」
「ママも持ってるよ!」
「だよね」
登下校はいつもこうして二人だった。他愛ないことを話しながら歩いていると、すぐに目的地についてしまう。普段通りの日常。それでも九重雪兎はこの時間が好きだった。大切なものだと思っている。
ふと、なにか引っ掛かるものを感じて歩みが止まる。
「あれ?」
「どうしたのゆーちゃん?」
「美咲先生は昨日の放課後になくなったって言ってたんだ」
「そうなの?」
「うん。でも、おかしいよ。ボクは昨日もすぐにこうしてひーちゃんと帰ってたでしょ」
「いっしょに公園で遊んだよね!」
「じゃあやっぱりボクには盗ったりできないじゃないか」
コンパクトが昨日の放課後に盗まれたというのなら、自分にそれをすることは不可能だ。
「そうだよ! ゆーちゃんはわたしと一緒だったもん!」
「ひーちゃんと帰ってるとき、いつものお店の前を通ったよね。それと山本のお爺さんとも会ったし」
人通りが多い道を歩けば、それだけ色んな人と出会う。犬の散歩をしていたご近所さんやお店の店員さん、知らない人もいれば顔見知りもいる。だとすれば、昨日そうして出会った人達の全てが、自分が犯人ではないという証明になる。
「帰ったら、行動記録をつくろう!」
「ゆーちゃん、またなにか思い付いたの?」
「うん。ひーちゃん今日は遊べないけどいいかな?」
「わたしも手伝います!」
「大丈夫だよひーちゃん。そんなに時間かからないと思うし、今日は遅くなっちゃったから、また今度遊ぼうね」
「そっかぁ……」
しょんぼりと、まるで感情を表すようにツインテールが垂れ下がる。硯川灯凪はとても分かり易い少女だった。
家に着くと、名残惜しそうに繋いでいた手が離される。
去来するほのかな寂しさ。少しだけ体温の高いその手の温もりは、自分はここにいていいのだと、いなくならなくていいのだと言ってくれているようで。だから九重雪兎はこの時間が好きだった。
「じゃあね、ひーちゃん。また明日」
「うん。ゆーちゃんもバイバイ!」
いつまでも、その手を繋いでいられたら良いのにと、ただそう思うことだけしかできなくて。
‡‡‡
20時を過ぎた頃、電話が鳴った。
それがなんの電話か九重雪兎には分かった。母親の九重桜花も帰宅している。
電話受けながら、徐々に九重桜花の表情が困惑に満ちたものになっていく。漏れ聞こえてくる会話から相手が担任の三条寺涼香であることは疑いようもなかった。
姉の九重悠璃も怪訝な表情でその様子を眺めていた。
電話が終わると、探り探りといった様子で桜花が口を開く。もともとそれほど家では会話が多くはない。それどころか必要なこと以外、殆ど話さないというのが日常だった。
そしてそうなったのはすべて九重桜花が原因であり、自らそれを自覚していた。だからだろうか、最愛の息子であるはずの九重雪兎に対して、どう接すれば良いのか、どう声を掛ければ良いのか、そんなことが九重桜花には分からない。子供に対してどう相対していいのか分からない。
だから、間違う。
決して本心ではないはずなのに、そんなことが言いたいはずじゃないのに。
「雪兎あのね。今の電話、担任の先生だったんだけど、教育実習で来ていた先生の物を盗ったりしたの?」
「なにそれ」
眉間に皺を寄せて剣呑さを隠しもせず、悠璃が呟く。
「盗ってないです」
「でも先生がそう言っていたわ。今日、何があったの? 教えて? 欲しいものがあるなら言ってくれていいのよ。なんでも買ってあげる。だから盗んだりなんてするのはダメよ?」
「駄目、それは――!」
慌てたように悠璃が何かを制止しようとするが、無駄だった。
「そっか。やっぱり信じないんだ」
ポツリと九重雪兎が呟く。それはまるでただの事実確認。
抑揚などない、なんの感情も感じ取れない、いつもの九重雪兎がそこにいた。
しかし、その言葉を聞いた桜花と悠璃は、ハッキリとそれが失敗だったことを理解してしまう。また間違えたのだと、気づいてしまう。最初に掛けるべき言葉を誤ったことは明白だった。
「迷惑をかけてごめんなさい。でも、ボクはなにも盗ってないし、欲しいモノもありません。すぐに解決してみせます」
リビングから自分の部屋に戻ろうと席を立つ。
「ま、待って! 違うの。話を聞きたいだけで疑ったわけじゃなくて――!」
「雪兎、私は信じてる! アンタはそんなことしないって」
「べつに無理して信じなくてもいいです」
「無理なんてしてない! 私はいつだってアンタのこと――!」
「そうですか。ありがとうございます」
言葉とは裏腹な態度。去っていく背中がこれ以上の言葉を拒絶していた。虚しさだけがその場に残る。
何があったのか分からないまま、ただ茫然とすることしかできない。
もしかしたら、最初から信じてあげられていれば、なにか教えてくれたのかもしれない。助けを求めてくれたのかもしれない。自分は盗っていないと言っていた。だったらどういうことなのか。食い違う意見。
本来ならそれこそが息子に訊くべきことであり、その齟齬を埋めることが親の役割だった。にも関わらず、息子が盗んだことを前提にしてしまった。母親である自分は絶対に息子の味方になってあげないといけなかったのに、またこうして息子を裏切った。
後悔しても遅かった。「やっぱり信じないんだ」そんな言葉を呟いた。最初から母親であるはずの自分が信じるとは思っていなかったのだろうか。そして事実その通り、自分は信じなかった。息子は自分のことを良く分かっていると、皮肉気にそう思うしかない。
「どうしていつもいつもいつもいつも!」
怒った悠璃もまた自分の部屋に向かう。
悠璃が抱えるやり場のないフラストレーション。悠璃もまた大きな傷を負っている。
壊れている家族関係。
それを作ってしまったのは自分で、家族の団欒なんてなくて、いつだって本心を伝えることすら出来ず、こんなにも想っているのに空回りばかりしてしまう。
「すぐに解決してみせますって……何をするつもりなの?」
息子はいつでも有言実行だ。何も分からないまま、何も知らないまま、きっとまた一人で全て抱え込んで終わらせてしまうのだろうか。どうせ信じない自分なんて頼らずに。だったら、何の為にいるんだろう。自分は何をしてあげられるんだろう?
「信じてあげることも出来ないのに、私にしてあげることなんて……」
母親とは、これほど無力なものなのだろうか。
「雪兎……」
愛しいその名前を口に出しても、答える者はもうこの場にはいなかった。
‡‡‡
「ヨシ!」
思わず、ヘンテコな指差しポーズをしてしまう。
余っていた画用紙に記憶にあるまま書き出して作ったのは昨日の行動記録だ。どうせならと思い、放課後だけではなく、昨日一日その時間に何をしていたか、何処にいたか、誰といたかを詳細に書き出した。これを見れば自分が犯人ではないことが分かるし、そのときどきで会っていた人に聞けば、放課後に盗むことなど出来ないことは明らかだ。
誰が何のために自分の机に入れたのかは分からないが、自分ではないことが分かればそれでいいと九重雪兎は思っていた。
「ひーちゃんには感謝しないと」
こんなものを作ろうと思ったのも、幼馴染である硯川灯凪が信じてくれたからだ。彼女だけが自分を信じてくれた。だから無実を証明したいと思った。
いつだって、この世界は敵だらけだ。
それでも、たった一人だけでも信じてくれる人がいるなら生きていける。
砂漠の中に一粒だけ存在している、そんな宝石のような大切な相手。握った手の温かさだけが、九重雪兎が今こうして生きることを諦めていない理由でもある。
これで解決したと気分良く眠りにつこうとする九重雪兎は知らない。
悪意はいつも知らないうちに進行していて、彼を決して逃さない。