第44話 神代汐里②
どうすればいいのだろう?
幾ら考えても、答えは見つからない。
ただ何処かで分かっていた。
きっとその答えは一人では見つからないものだと。
自分だけでは辿り着かない。
だから分からない。
いつも一人だったから。
それが普通にだったから。
一人には慣れている。嫌われることにも、敵意を向けられることにも慣れているから。
孤独な日常はとても心地良く甘美で安心できる。
勉強をした。家族にこれ以上迷惑を掛けたくなかったから。
身体を鍛えた。巻き込まれるトラブルを切り抜けるために。
何かを学ぶことは必要だったからそうしただけだ。誰かに期待したことも、誰かを求めたこともない。
今まで、本心から望んだものがあっただろうか? 心の底から願った何かがあったのだろうか?
もしあったとしたら、それはまだ何も知らず無垢なままでいられた頃のほんのひと時だけの幻。
いつしかそんな日々が当たり前になり、自然になった。普通で、ありきたりな平穏。
だから思うんだ。
どうして、どうしてもう少しだけ早く――
かつて少年が伸ばした手は振り払われ、今、少女から伸ばされた手を掴むことができない。
交わらない平行線。
だから今日もただ一人、少年は見つからない答えを、誰に頼ることもなく導き出す。
それが間違っているのか正しいのかも分からないまま。
どうして、いつも手遅れになってからしか始まらないんだろう。
‡‡‡
「なにしよっか? 私、あんまりゲームとか得意じゃないからなぁ」
「じゃあビンゴでもやるか? まずはビンゴシートの作成から――」
「二人でやるゲームじゃないよねそれ!?」
「景品用意してないもんな」
「そういうことじゃないんだけど……」
「じゃあまずは数字を1から500まで」
「絶対揃わないよ! 何時間やるつもりなの!?」
あれこれ思案した結果、普通に堕ちものパズルに決定した。良く知らないが、パズルを完成させてキャラクターを堕としていく恋愛ゲームらしい。なんなんだよそれは! 思わず確認してみると、聞いたこともない謎のメーカーだった。呆れながらも意外と盛り上がりつつ4人目のキャラクターを快楽堕ちさせた頃には、良い時間になっていた。
「カルボナーラでいいか?」
「ユキの料理食べるのも久しぶりだね!」
濡れた服は乾燥機で乾かした。材料を確認し、手早く料理を作る。
汐里はそんなに自炊が得意ではないらしい。というより、いきなり一人暮らしを始めて何でもすべて自分でやらなければならない環境に置かれたんだ。自炊にも徐々に慣れていくだろう。台所を見れば四苦八苦している様子が伺える。
「ほれ。コンビニ食ばっかりとかは止めろよ」
皿に盛りつけ、テーブルに並べる。簡単クッキングだが、昼食には遅く、夕食というには早い微妙な時間帯だった。夜また食べることを前提に量を少なめにした。なんといっても神代汐里は成長期である。SUGOI DEKAIし。これくらい食べてもどうということはないはずだ。
「一応、ちゃんと頑張ってはいるんだよ……成果に乏しいだけで」
「なんだかんだ一人分だと面倒だしな。ま、そのうち慣れるよ」
「そうだよね! いただきます」
食べ終わり、食器を洗い終わると汐里がおずおずとした様子で話しかけてくる。
「なんかさ、こういうのって良いよね。一人暮らしだからかな。夜とか、少し寂しくなったりすることもあるから、誰かがいてくれるの嬉しいんだ」
「そういえば夏休みは実家に戻らないのか?」
「パパとママからも帰ってくるように言われてるし、そのうち帰ろうかなって思ってるよ」
汐里が壁に貼られているカレンダーに目を向け、困ったような笑顔を浮かべる。一人で気楽な生活か実家で至れり尽くせりの生活か、案外悩みどころなのかもしれない。
「確か一人娘だったよな。親御さん心配してそう」
「あはは。毎週電話してくるし、過保護だよね」
「そんなもんだろ。うちの母さんも過保護で毎日のように俺の部屋に寝にくるしな」
「さっきも気になってたんだけど、どういうことなの!? 過保護の域を超えているよ!」
むしろ俺が知りたい。ここに来て頻度が激増している。何がそこまで母さんを駆り立てるのか。しかも既に俺の部屋に居座っている姉さんと微妙に牽制し合っているのも謎だった。お願いですから、仲良くしてください。
「この生活を選んだこと、後悔してないか?」
「そ、そんなことないよ! 今だって毎日楽しいし。あのままお別れなんて嫌だったから……」
スッと汐里の瞳が俺を捉える。誰とでも仲良くなれる天真爛漫な少女は、いつしか影を落とすようになっていた。些細な変化。それでも彼女に近い人物なら、感じ取れるくらいには大きな変化でもある。
「私、ユキが好き。償いたかったからだけじゃない。一緒にいたかった。それだけは分かって欲しいの」
どこまでも真っ直ぐに、逃げ道を塞ぐようにその言葉が届く。だから答えをださなければならない。単に気に病んでいるだけなら、その必要はないと伝えて距離を開ければ解決するはずだと思っていた。
嘘告のままだったら良かった。汐里の気持ちを蔑ろにする最低な感想。だが、決意の宿るその瞳は、もう二度とそんな誤解をさせないと突き付けてくる。
どうやら何人かに好意を持たれているらしいと知った。俺にはハーレム漫画の主人公のような鈍感さも器量もない。あんな風に無自覚に振舞い続けるようなマネは到底できそうもない。
好意を向けさせたまま、いつまでも気づかないで保留したままでいるのは残酷だ。誰にとっても時間は等しく流れる。青春という限られた時間を、いつまでも俺に縛り付けておくことは罪だった。輝かしい時間を送る権利は誰にだって存在している。そしてそれを奪う資格は誰にもない。
だから、伝えよう。何も飾らず、事実だけを。その答えが傷つくものだとしても、汐里は汐里の青春を送るべきだ。
否定も保留も傷つけることには変わらない。傷の大小が変わるだけだ。それでも、ずっと曖昧にしたまま希望や期待を持たせ続けて気持ちを弄ぶようなことはすべきじゃない。
「汐里、君の告白は受けられない」
ハッキリと息を吞む音が聞こえる。
一瞬、泣きそうに表情が歪むのを見ないフリはできなかった。
「私じゃ隣にいられないのかな? やっぱり硯川さんじゃないと駄目なの?」
「灯凪にも同じことを伝えるよ」
「……え? ど、どうして……?」
――言いたくない、言わせないでくれ!
心のどこかでそんな葛藤が渦巻いていた。
それでも、それを口に出さなければ納得は得られないのだと分かっている。
「……好きになれないから」
それがたった一つの本心だった。
「わ、私のせい? 私があんなことしなかったら……!」
大きな瞳に滲ませた涙をそっと指で拭う。
「違うんだ。君は何も悪くない。全部俺が悪いだけなんだ。憎んでくれていい。嫌ってくれていい。だから、君もそろそろ前に進め」
「やめてよユキ! そんなことできない……」
「君はモテる。素敵な相手だってきっと見つかる。あのサッカー部の奴みたいなのは論外だが、爽やかイケメンみたいな良い奴もいるしな」
「他の誰かじゃ駄目なの! 私が好きなのは――」
「マネージャーも秋の大会までにしよう。君の贖罪はもう終わったんだ。十分助けてくれた。色んな運動部から誘われてるんだろう? 君に期待している人が大勢いる」
「なんで……。一緒にやろうよ! ユキがいなかったら意味なんてない!」
過去なんてどうでも良かった。怪我をしたことなんて元から気にしてもいない。これは単なる別れ話だ。告白されて断った。何処にでもあるただそれだけのよくある一コマ。それが複雑に絡み合ってしまった。本来二つの事象は異なり、過去の清算はとうに済んでいた。
「今までありがとう」
「嫌……離れたくないよ……」
縋るように手が頬に触れる。
どうすれば彼女は前に進めるようになるんだろう。どうすれば過去を振り払える? 嫌われればいいのだろうか。こんな最悪な人間を好きになったことが間違いだったと、気に病む価値などないのだと、彼女が汚点だとそう思えるようになれば――
「神代汐里、俺はずっと君が嫌いだった。もう近づかないでくれ」
「ユキ……?」
そのまま汐里を振りきり、玄関に向かう。
外に出ると、厚く覆った雲は過ぎ去り、日差しが戻りかけていた。
「だから、サヨナラだ」
振り返らないまま、小さく囁く。どうあっても、悲しませることになるのは分かっていた。それでも幸せになって欲しいと思うのは矛盾なのかもしれない。誰かを好きになれれば、汐里を好きになれる未来もあったのだろうか。いずれにしてもそれはIFでしかなく、答えのない答えだ。
告白を受け、それを断るだけでこれほど辛いというのに、一度関係を結んだ後、浮気するなど、相手をどれほど傷つけることになるのか想像もつかない。とてもじゃないが、俺にそんなことはできそうにない。やはりおっさんはクズだ。母さんがあれだけ嫌うのも良くわかる。
俺はハーレム主人公になどなれない男、九重雪兎である。
‡‡‡
「フラれちゃった……」
ユキがいなくなり一人に戻った部屋の中、椅子に座り込みぽつりと呟く。目から溢れた涙が頬を伝い濡らしていく。誕生日プレゼントとして買って貰ったランニングシューズを箱から取り出し、履いてみる。ピッタリだった。
嬉しい思い出と悲しい思い出。統制の取れない釣り合わない感情。
「嫌いだって……。そうだよね。好きになってもらえるはずなんてないよね」
三度も彼を傷つけたのは自分だ。自分で自分の言葉を否定して、その後、怪我をさせた。大切な大会の直前に怪我をしたユキを、部活の顧問もメンバーも責めた。それだけ期待が大きかった。結果を残せるのではないかと一生懸命だった。だからだろう、ついそんな言葉が口をついてしまったのかもしれない。
でも、ユキは私が原因だと一言も言わずに、私を怪我からも責められることからも護ってくれた。ただ黙ってなじられるままに言葉を受け止め、バスケを辞めた。言い訳なんてしなかった。それから二度とバスケ部に顔見せることはなく、後輩への引継ぎにも現れなかった。言い過ぎたと反省したのか、顧問や男バスのメンバーが謝罪に行ったけど、何も変わらなかった。
全部、私が引き起こしたことだ。嫌われていて当然だ。そんな相手、好きになるはずなんてない。付き纏う私を煩わしいと感じていたのかもしれない。嫌いだと初めて真正面から告げられた。そう思っていた。でも、ユキは――
「諦めきれないよぉ……」
ユキがいつも通り無表情でそれを口にしたなら、私はそのまま素直にユキの言葉を受け入れられただろう。本心から私を嫌っていると信じられた。もしかしたら、諦めることができたかもしれない。
でも、それを口にするユキの表情は、今までに見たことがない辛く苦しそうだった。絞り出すように言われた嫌いだという言葉。だから分かってしまう。それが優しさなのだと。偽りの本心なのだと。どうしても徹しきれない優しさが残っている。
だからかな。嫌いだって言われたのに、言葉で否定されたのに、気持ちは膨らんでいく一方で、好きだという気持ちが抑えきれない。でも、どうすればいいか分からない。私はユキの心に届かなかった。きっと硯川さんを選ぶと思っていた。幼馴染で昔、ユキが好きだった相手だから。
でも、そんな硯川さんにも同じことを伝えると言っていた。どうして? じゃあユキは誰が好きなの? そうだ彼の言葉を思い出せ。何と言っていた。ユキは自分を偽るのが下手だ。素直と言っていいかもしれない。どんな言葉も正直に口に出して取り繕わない最強のメンタル。だから分かることもある。
「――好きな人……いないのかな?」
好きになれないと言っていた気がする。他に好きな人がいるわけでもなく、そしてそれは硯川さんでもなく、もっと違うもっと根本的に異なる理由があるような……。
往生際が悪いよね私……。
何度も何度もユキから言われた。もう気にしていないと。実際にその通りなんだと思う。ユキが気にしていないと言ったのなら、本当に気にしていないのだ。彼はそういう性格だ。それでも私がしてしまったことを償いたかった。
「そっか。私、怒られたかったんだ……」
どうして今になって理解してしまうんだろう。どうして今まで気付かなかったんだろう。バカな私はいつだって遅くて、後悔だけがそこにある。ユキは優しい。その優しさが私を縛っていた。それを今、解放してもらったんだ。
何も返すことができない。ただ私は怪我をさせて護ってもらっただけ。何もさせてもらえない。無力感に苛まれた。だから追いかけた。一人暮らしを選んでまで彼と一緒にいたかった。
でも、ユキはそんな私が自分を犠牲にしていると感じていたんだと思う。だからあんな風に拒絶した。違う、そうじゃないの。自分自身で償いだけじゃないと言いながら、私はまだ良く理解していなかったのかもしれない。自分の気持ちを。贖罪でも償いでもない、ただ純粋に彼が好きなんだ。混ざりけなしの純真な気持ち。もう一度ぶつけさせてくれないかな?
前に進めと言われた。それはきっと過去ではなく未来を見ろってことだよね。でもさ、その未来にユキはいてくれないの? そんなの嫌だよ。これは私の問題じゃない。彼の問題。私じゃ届かない。答えが見つからない。
「でも、ユキだけでも辿り着かないんだよ?」
きっと同じ結論に硯川さんも辿り着く。
ユキが硯川さんを受け入れないと答えても、きっと私と同じように諦めない。
彼がどんなに一人で考えても、彼の言葉で諦めさせることはできない。
何故ならそれは彼だけではなく、私だけでもなく、二人の問題。
二人で出した結論でしか納得などできないのだから。