言及すべきかずっと悩んできましたが私自身の立ち位置を明確にするため触れておこうと思います。
私はこのように自分自身に問う事はあっても他者にそれを要求しようとは思いません。ましてそれを持って他者を断罪することもしませんし、できません。
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会話
返信先: さん
私は10年前までキリスト教会という狭い世界で生きていました。
私が牧師になりたての頃にセクシャルマイノリティに対する牧師の差別文書問題や差別発言が相次ぎました。
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レビ記 18:22 あなたは女と寝るように男と寝てはならない。
これが根拠となった聖書の箇所です。
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ながらく教会は聖書を持って相手を殴りつけていたわけです。
しかし、私はこれを持ってセクシャルマイノリティの人を断罪などしません。自分の中心に置くべきは聖書でしょうがその解釈、使われ方に普遍性などなかったからです。
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人のする事に完全はなし得ない。
ゆえに人は祈り、世の中をこましにしていこうとする。
私の師の言葉ですが私もそう思います。
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当事者の怒り、思いはその人の物であると私は思います。
しかし、それを尊重する事はあっても、それが絶対無二であるように振舞う事はできません。
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反差別とはこうあるべきでこうしなくてはならない。そう言った考えや思いを持って他者を殴りつけにする事と聖書を持って相手を殴りつけにする事に違いはあるのでしょうか?
私には同じように思えます。
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もちろん、教会でも宗派、教派またその中ですらも考え方を異にする事はありますし、互いを批判する事もあります。
しかし、一つの目標があるがゆえに多様な文化や思想が構築されていったわけです。
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受け入れられない考え方に賛同しない自由、合う合わないで変えられる自由があります。
ですが年初からの出来事を見ていると私たちは何に縛られているのかと言う思いをしました。
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こうあらねば、こう言わねば、こう付き合わなければ。
先人たちの残していったスタンスや考え方が間違っているとは思いませんが、それが絶対という事はないと思います。
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マーゴさんのアプローチは失敗だったかもしれませんが方向性のひとつだと思っていますし、断罪する事は私にはできません。
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批判は構いませんが、それをもって何をしても良い訳ではない。
まして、人権侵害なんてもっての他だと思います。
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