横浜市営バス(以下「市バス」とします)は1928(昭和3)年11月10日に開業しました。 1928(昭和3)年というのは、市内の交通の面でいえば、横浜駅が高島町から現在の場所に移転し、市電(路面電車)の横浜駅前~生麦間が […]
横浜市営バス(以下「市バス」とします)は1928(昭和3)年11月10日に開業しました。 1928(昭和3)年というのは、市内の交通の面でいえば、横浜駅が高島町から現在の場所に移転し、市電(路面電車)の横浜駅前~生麦間が […]
横浜市の市域は、1901(明治34)年から1939(昭和14)年まで6回にわたって拡張してほぼ今の姿になりましたが、とりわけ’27(昭2)年と’39(昭14)年の第3次・第6次の拡張が規模の大きい […]
横浜市電ははじめ、1904(明治37)年に神奈川~大江橋間で、横浜電気鉄道という会社の路線として開通しました。神奈川~大江橋というのは、別の言い方をすると、東海道線に当時あった「神奈川駅」の前と桜木町の初代「横浜駅」の前 […]
横浜市の市内交通統制の方針は基本的に県の受け入れるところとなり、民営の免許申請はほとんどが認可されませんでした。しかし横浜乗合自動車の路線(横浜駅前~桜木町駅前~伊勢佐木町~長者町五丁目~長者町一丁目~浦舟町~八幡橋~杉 […]
市バス開業時の路線の一つの根岸線(桜木町駅前~地蔵坂上~滝ノ下:1節)は、現在の21系統(桜木町駅前~元町~山元町~市電保存館前)の前身にあたる路線です。そしてその根岸線の路線のうち、山手町の地蔵坂から競馬場(現在の根岸 […]
『横浜市営交通八十年史』によると、開業の前年の路線計画案の段階では三ッ沢線・根岸線・日野線がなく、小港線も小港までは行かずにホテルニューグランドで終点で、その代わりに桜木町駅~桟橋~横浜橋~桜木町駅の循環路線が含まれてい […]
鶴見区で最初の市バスは生麦~滝坂~鶴見駅西口~下末吉という路線です(図の8の左半分)。これは1929(昭和4)年5月にはすでに計画されていましたが、開通できたのは’31(昭6)年の大晦日でした(*1)『八十年 […]
開業時の7路線のうち、三ッ沢・井土ヶ谷線は主立った系統になっていたようです。1931(昭和6)年に登場する18人乗りの新型車両がまず両線で使われたということが、『市電ニュース』(No.31)という当時の広報でわかります。 […]
鶴見駅の海側(東口側)の相次ぐ路線拡張とは反対に山側(西口側)への市バス路線の新設は、平地の下末吉・末吉橋と滝坂方面にとどまっていました。そして丘陵地の東寺尾方面は市バスの路線計画そのものがなく、この間に鶴見臨港鉄道(現 […]
1931(昭和6)年から’34(同9)年頃の間は、鶴見周辺以外に目立った路線新設はありませんでしたが、その間にあって’33(昭8)年9月に市電終点の杉田から杉田駅前を経て峰までを結んだ「峯線」の新 […]
1935(昭和10)年は、関東大震災からの復興を記念して「横浜大博覧会」が開かれた年です。’31(昭6)年の満州事変に始まる不穏な時代ではありましたが、’37(昭12)年7月に日中戦争が起こるまで […]
1936~37(昭和11~12)年は、戦前の市バスの全盛期と言えます。 ’36(昭11).3には、保土ケ谷橋~横浜駅前と横浜駅前~本牧の直通運転を解消してそれぞれを延長し、保土ケ谷側は保土ケ谷橋~横浜駅前~関 […]
路線の縮小は1944(昭和19)年になるとさらに進みます。3月からは桜木町駅前~豆口や保土ケ谷~(井土ヶ谷)~弘明寺など、市電路線に近接しない路線も休止することになり、鶴見周辺の工業地帯以外の路線では、桜木町駅前~(小港 […]
ここまで戦前の路線の変遷を見てきましたが、一方で、『八十年史』には、1928(昭和3)年の7路線の開業に続けて計画決定し、免許申請までこぎつけた23区間の路線が表で挙げられています(*1)『八十年史』pp.307-308 […]
ここであらためて、保土ケ谷橋~野毛坂~豆口(*1)路線図や乗車券の表記は「豆口」だが告示では「根岸豆口」。戦後はどちらも「豆口」となっている。線(豆口線)と、元町橋~関内回り線を取り上げます。 12節で紹介したように、関 […]
戦後は、関内・関外や本牧・根岸など市街地が広範囲にわたって進駐軍に接収され、また住宅が空襲により焼失したことで、郊外と中心部との間の輸送が必要になりましたが、郊外へ路線を持つ民営バス各社もまた、車両を失い、燃料が不足して […]
民営バス路線の臨時運転に続く相互乗入協定によって、市バスは戦前に果たせなかった新市域(1927(昭和2)~’29(同14)年の合併地域)への路線拡大を行うことができたのは前述のとおりです。しかし喜んだのはむし […]
現在の市バスの系統番号制は1949(昭和24)年11月に定められたものが基礎になっていて、以来連綿と受け継がれて今に至っています。すでに触れたように(8節)戦前にも制度はありましたが、主に事務上の整理が目的で、しかも何度 […]
1932(昭和7)年に民営路線を買収・再編成して開通した鶴見駅前~安善町線(7節)は、現在の同じ区間を走る27系統と違って、下流側の潮見橋を渡っていました。途中にあった「於舎子治(おしゃもじ)稲荷前」(*1)戦後は「おし […]
28系統は、1951(昭和26)年5月(*1)28系統の新設は『のりあい自動車』では’50(昭25).5、『八十年史』では’51(昭26).5となっているが、『八十年史』が正当。の新設当初、開港の […]
1950(昭和25)年4月に開通した20系統は、戦前の豆口線と、開業当初からの保土ケ谷線を継いだ「関内回り線」(以下関内循環)との、両方の路線の後継にあたるものだといえます(1節・12節・15節参照)。 開通時の20系統 […]
1950(昭和25)年までで戦前戦中に起源のある路線は概ね再開し、最後に残ったのは、戦時中に埋立地の工業地帯を中心に新設された、大黒町~生麦~内路~菊名橋線、大黒町~六角橋線の2つの路線(12節)、そして京浜電鉄との取り […]
戦後の復興から神武景気の時代へと向かう1950~54(昭和25~29)年は、5年間で27もの系統が開通しました(20系統~46系統)。 このうち8つは直接間接に戦前戦中の系統に起源を求めることのできるもので、それ以外の1 […]
昭和20年代後半(1950~)の新設系統には、前節のような純粋な新設路線のほかに、戦前に大きく広がった市域の各方面を目指して、すでに民営バスが運行している区間やその周辺に新たに加わってその後平成に至るまで長く運行されたも […]
市バスの「1系統」はどこを走っているのだろう、と思ったことのある人は案外多いのではないでしょうか。実際のところ、「1系統」は2007(平成15)年10月で基本的に神奈中バスに移行してしまっていて、市バスとしては中山駅前~ […]
市バスでは、よく知られているように、いわゆる「途中止まり」や多少の分岐などを同一の系統番号の中に含めます。これらを原則的に異なる系統番号で表す神奈川中央交通や、同様の傾向の強い東急バスとは対極的な付番方法です。 このこと […]
現在の横浜駅が油槽所の跡地に作られたことは以前にも触れました(11節)。そして駅ができてからも西口に広がっていた空地は、戦時中は海軍が使用し、戦後は大半を米軍が接収して資材置場になりました。そのころの西口は「裏口」と呼ば […]
戦後の横浜駅西口にはじめて市バス路線が乗り入れたのは1952(昭和27)年3月で、31系統の市役所前(*1)現・二ッ谷町~大口仲町~六角橋線が、六角橋から栗田谷・松本経由で延長しました。そして、続いて4月には34系統(横 […]
昭和30年代(1955~)に入ると20年代中頃のような広域的な路線新設ラッシュはひとまず落ち着き、しばらくは路線の見直しが中心になって、新設の場合はよりきめ細かい路線や既存系統のバリエーションが目立つようになってきますが […]
20節では1950(昭和25)年から28系統が保土ケ谷橋~桟橋(*1)現在の「大さん橋入口」(旧・大桟橋)付近間の運行を始めたことに触れました。しかし、この時はまだ大桟橋や横浜税関をはじめとする港湾施設が米軍に接収されて […]
26系統(Ⅱ)(横浜駅前~横浜港シンボルタワー・本牧車庫前)は、長年市バスきっての看板系統でした。近年は、2004(平成16)年のみなとみらい線の開通や「あかいくつ」の人気によって、26系統は山下公園・大桟橋一帯への交通 […]
1980年代の中ごろ、57系統という1日1往復しかない系統があって不思議に思っていました(*1)’87(昭62)年の保土ケ谷車庫前の掲示の記録には2回とあるが、その数年前に見た時の記憶では確か1回だった。。区 […]
現在の32系統(32系統(Ⅱ))が、野毛山と久保山の間の狭い道路が原因で1963(昭和38)年12月に大きく路線を変えたことを29節で紹介しましたが、実はその後の変遷も時代が映っていて面白いものです。 ’63 […]
昭和30年代(1955~64)には車が急に普及しだしました。『ちんちん電車』の110ページに、県内の自動車保有数の表とともに戦後の各種の法整備で道路が整っていったことが書かれています。そしてその表を見ると1955(昭和3 […]
1960年代は、国鉄根岸線の桜木町~磯子間が’64(昭39).5.19に延伸、東海道新幹線および新横浜駅が同10.1開業、東急田園都市線が’66(昭41).4.1開通、横浜線・東神奈川~小机間が& […]
前節では、親系統が大量に新設された時代を、1961~65(昭和36~40)年度と、’66~’72(昭41~47)年度の2つに分けましたが、ここではこの両方の期間を通して、地域ごとにその姿を見ていき […]
前節の続きです。 横浜線・田園都市線沿線 中山駅周辺や、1966(昭和41).4.1に開通した東急田園都市線に関連する系統のほかに、必ずしも沿線人口の多くない路線ながら市境付近と市内の拠点駅を結ぶ87系統(Ⅰ)・88系統 […]
1972(昭和47)年3月までは横浜にも路面電車(市電)がありました(3節)。紺色と白のツートーンカラー、またはクリーム色に明るい青色の帯(*1)紺と白は’60(昭35)年頃までで、クリームに青帯は自動車が増 […]
ここからは市電の順次廃止に伴うバスの代替系統を少し詳しく見ることにしますが、市電は、全廃計画が始まるより前の1965(昭和40)年4月に、国鉄根岸線延伸開通に対応した効率化として11系統(六角橋~横浜駅前~桜木町駅前~麦 […]
前節の続きです。 1968(昭和43)年 1968(昭和43)年9月1日 ’68(昭43).8.31で、六角橋線・弘明寺線・根岸線の全線と井土ヶ谷線のほぼ全部などのあわせて12.43Kmが一度に運行を終了し、 […]
前節の続きです。 1969(昭和44)年 前年までの廃止で、市電の運転系統は次のようになっていました。 1969(昭和44)年6月1日 ’69(昭44)年は3段階で進められ、まず、阪東橋~吉野町三丁目間(0. […]
前節までで市バスの系統番号はいよいよ100を超えました。そこで、ここでは一旦休んで、現在の市バスの系統数はいくつあるのかということを考えてみようと思います。 『横浜市交通局事業案内』には、2017(平成29)年3月31日 […]
神奈中バスや東急バスなどの系統番号は、フォーマットが「ターミナル名の頭文字+数字2~3桁」(*1)Wikipediaによると東京バス協会が1972(昭和47)年に導入した形式。になっているというところ以外に、付番方法の面 […]
系統番号のついでにもうひとつトリビア的な話を続けます。 系統が増えればいろいろ偶然もあるもので、たとえば、鶴見と新横浜の間の系統が41と104という似た番号になっている例があります(6と13はおいておきます)。そしてここ […]
1972(昭和47)年3月31日の市電全廃に向かうその地下では、’68(昭43)年10月から地下鉄の建設が始まり、’71(昭46)年3月から試運転が行われていました。そして’72(昭4 […]
地下鉄開通の話のついでにもう一題続けます。 市営地下鉄ブルーラインの正式な路線名称は、あざみ野~関内が「横浜市高速鉄道3号線」、関内~湘南台が同「1号線」です。しかしながら、接続点の関内駅が開業した横浜~上永谷間の延伸当 […]
現在の港南区にあたる地域の昭和30年代中ごろまでの市バス路線は、横浜駅前~大船駅前間を鎌倉街道で結ぶ2系統と、吉原で別れて平戸に向かう30系統のほかは、臨時運転の40系統(Ⅰ)(弘明寺~日野公園墓地循環)と48系統(Ⅰ) […]
今から振り返ってみると1970~80年代は現在のような近代的なバス車両やサービスの基礎が築かれた時代であったように思います。’72(昭47)年度の導入車両から座席が現在と同じ前向きになり、’73( […]
昭和40年代ごろまでの市バスの終点停留所名は、駅や車庫などのターミナルでなければ、町名や公園・埠頭名などが第一に使われる傾向があって、「日野」「峰」「安善町」「奈良町」「元石川町」「鉄町」など多くが町名になっています。そ […]
横浜市営バス開業90周年のお祝いの日にちなんで、内容はこれまでと重複するところもありますが、市バスで一番長寿の系統を探してみようと思います。 1928(昭和3)年11月10日の開業の時に設けられたのは7路線6系統でした。 […]
横浜線の十日市場駅前に立つと、23系統が5つの方面へ7つの行先で出ていきます。ここではこの複雑な23系統がたどってきた展開と、関連する65系統(Ⅱ)について取り上げます。 23系統の起源は1950(昭和25).10に開通 […]
23系統が、本来の中山駅前~長津田駅前~奈良北団地系統とは別に、十日市場駅と霧が丘・若葉台方面の間のもう一つの大動脈になったのは、1981(昭和56)年9月に霧が丘公園前経由を郵便局前経由に変更してからのことだと考えられ […]
41系統(鶴見駅西口~川向町折返場ほか)は市バスの中でも一二を争う多面的な系統です。前節の23系統と並んで一見さんを戸惑わせて憚らない複雑さで、両者は市バス系統の双璧ならぬ「双壁」といった感があります。そして41系統は2 […]
2017(平成29).6改正の時刻表で41系統の鶴見駅西口発の構成を見ると、新横浜駅前行きが全体の半分強の60本、川向町折返場が49本、そして深夜に港北車庫止まりが3本の計112本となっています(平日、以下同じ)。また逆 […]
1963~64(昭38~39)年に集中的に開通した磯子周辺の系統(36節参照)は、現在の形に落ち着くまでに何度か形を変えています。ここでは現在の路線図からはつかみにくい磯子台・汐見台・屛風ヶ浦周辺の路線にスポットを当て、 […]
汐見台方面への系統がほぼ屛風ヶ浦駅前経由に移ったのは、おそらく1975(昭和50).7のことです。この時63系統は芦名橋・屛風ヶ浦駅前経由の循環から、(汐見台ストアー前/洋光台1丁目/磯子駅前)~造船所前という送迎バス風 […]
ここまで1980年代前半に至る路線の展開や系統の変遷を地域や時代などに着目して見てきましたが、短期間で廃止と新設を繰り返した「6系統」はその都度断片的に見るだけにとどまっていました。そこで、流れが落ち着いたこの節であらた […]
昭和の終わり近くの時代、乗っていたバスが終点のはずのバス停を通り過ぎてそのまま走り続け、驚いたことが2度ほどありました。路線図に示された終点の先に、描かれていない路線が実はまだ続いている、という場所があったのです。こうし […]
市バスの系統の中には不定期に必要に応じて運行される臨時(随時)運転系統があって、現在の系統表では37系統(横浜駅西口~三ッ沢グランド前)、49系統(Ⅱ)(横浜駅前~大桟橋客船ターミナル)、150系統(Ⅱ)(横浜駅西口~国 […]
市バスの循環系統には、外回りと内回りが同じ番号であるものと異なる番号になっているものとがあります。このうち201・202系統はトロリーバスの当初の系統番号101・102系統の連想で決められたもので、また旧76・98系統の […]
「ブルーライン」という愛称がもともとは2階建てバスの路線のことだったのはご存知でしょう。その元祖ブルーラインの運行開始は1984(昭和59).4.1でした。3月には横浜公園で当時の細郷市長のテープカットで盛大な発車式があ […]
1985(昭和60)年3月14日に地下鉄が横浜~新横浜間(7.0Km)と上永谷~舞岡間(2.0Km)を延伸開業しました。舞岡~戸塚間(1.6Km)はもう少し後で’87(昭62).5.24です(*1)戸塚駅は国 […]
磯子駅前・新杉田駅前と、埋立地の金沢区鳥浜町にある「入国管理局前」の間を結ぶ61系統(Ⅱ)(現在は交通局の子会社の横浜交通開発の路線)は、かつては、同区並木・幸浦・福浦にまたがる広大な金沢埋立地の全体においても中心的な位 […]
117系統は現在でこそ幸浦1丁目近くの藤森工業前で戻るものが平日に2本(2017(平成29)年4月改正ダイヤ)あるだけですが、本来は新杉田駅前~幸浦1~金沢卸団地~金沢工業団地という南北縦断の系統で、その支線が、藤森工業 […]
14系統は2007(平成19).3の大規模再編の前までは新子安駅西口~梶山で、一部が新横浜駅前まで運行されていました。その戦後の歴史は1949(昭和24)年の滝坂~下末吉間の復活に始まり(19節)、’57(昭 […]
現在の16系統は、鶴見駅の東側の中でも、潮田を中心とする15系統より北寄りの、市場や栄町通、平安町方面を比較的ピンポイントでカバーする系統になっています。しかし昭和時代は、ちょっと大回りで、どことなくはっきりしない感じの […]
前2つの節では鶴見周辺の系統を見てきましたが、ここでは同地域におけるそれ以外の小さな変遷の積み重ねを簡単にまとめます。 13・126系統 13系統は、50節で触れたメインの鶴見駅前~一の瀬・綱島駅前のほかに、現在は毎時間 […]
1965(昭和40)年に計画が発表された港北ニュータウンは、’83(昭58).8に先行する南側地域(第2地区と呼ばれる)の「街びらき」が行われ、同じ月に最初の市バス路線が開通しました。それ以前のこの地域のバス […]
華々しく300番台が設定された港北ニュータウンの系統でしたが、続く系統の登場までは3年前後かかりました。1986(昭和61)年になって、6月にようやく302系統が新横浜駅前~新開橋~北川橋南で、12月に303系統が新横浜 […]
1970年代(昭和45~54年)は港南区などの大規模な住宅開発による路線新設があった割には全体としての系統の新設は比較的落ち着いていましたが、’80年代から’90年代初頭(昭和55年~平成初め)に […]
1980年代の話がほぼ終わったところで、今から30年前の’89(平1)年3月(’88(昭63)年度末)現在と、60年前の’59(昭34)年3月(’58(昭33)年度末)現在 […]
1989(平成元)年3月現在の系統表の続きです。見方については前節をお読みください。バス停名称は適宜略記しています。 以上です。
1989(平成元)年は、市制100周年・開港130周年の記念の年でした。1月7日に昭和天皇が崩御されたため一時は派手な行事が控えられましたが、3月25日からみなとみらいで「横浜博覧会(YES’89:Yokoh […]
横浜博が終わった後のみなとみらい地区に最初に開通したのは1990(平成2)年2月の125系統(横浜駅前~本牧車庫前)で、その経路は「横浜美術館前」(*1)現・ぴあアリーナMM(旧・みなとみらい大通)。同停留所につき以下同 […]
地下鉄3号線新横浜~あざみ野間(10.9Km)は、1993(平成5)年3月18日に開業しました。 ’66(昭41)年に国の審議会の答申を受けた最初の計画の時は、現在とは異なり、港北ニュータウンを貫く地下鉄路線 […]
1993~94(平成5~6)年度は市バス路線の全体で系統や路線の整理が行われ、番号単位でも14の系統が姿を消しました。そして特にこのうちの10の系統は’94(平6)年度の廃止です。これは、’05~ […]
少し時代が戻りますが、ここで1974(昭和49)年度の路線再編成計画を取り上げます。 市電・市バスは、昭和30年代の国の公共料金抑制策によって運賃が据え置かれる中、交通環境の悪化や物価水準の上昇などによる急激な経費増大で […]
1994(平成6)年度には市バス始まって以来の規模の系統の廃止が行われました。 しかし見直しはその前にすでに始まっていて、’93(平5)年度は4つの系統(番号単位)と、2つの分岐の系統が廃止になっています。 […]
1994(平成6)年11月7日に青葉・都筑区が新設された際には、前年の地下鉄あざみ野延伸時に大きな運行系統の変更を行っていたにもかかわらず、近接するエリアで再び広範囲に路線の統合を含めた再編が行われました。しかも行政区の […]
1994(平成6)年度には「交通事業経営健全化委員会」(76節)の最終答申がありましたが、この答申は必ずしも縮小ありきではなく、効率化とともに新たな需要の掘り起こしを求めていました(*1)『八十年史』p.476。また市の […]
10系統(市電保存館前~磯子駅前~峰:当時。以下同じ)と93系統(磯子駅前~氷取沢(ひとりざわ))は、市バスの一般路線で「車掌」の姿を見ることができた最後の系統でした(*1)93系統は’07(平19).4から […]
市バス路線エリアの南の端で神奈中や江ノ電のバスに埋もれながら細々と運行されてきた40系統(Ⅱ)(港南台駅前~清水橋~本郷台駅前)が、1998(平成10).1でついに廃止されました。この系統はそもそも2系統の古い形(横浜駅 […]
2003(平成15)年11月、相模鉄道バスの旭3系統・横浜駅西口~(保土ケ谷駅東口・永田町)~児童遊園地線が廃止になり、市バスが53系統(Ⅱ)(横浜駅西口~平和台折返場)を新設してその跡を引き継ぎました(関連:44節)。 […]
横浜~元町・中華街間4.1Kmを結ぶ横浜高速鉄道みなとみらい線が開通したのは2004(平成16)年2月1日で、市バスもこれに合わせて一部系統の変更と廃止を行いました(*1)年報では2日付としているが、筆者が掲示をメモした […]
戦後の神奈川区とその周辺の市バス路線は、三ッ沢・大口・子安方面の戦前・戦中の路線をベースとしながらも、1950年代の整備と商業地化で突如発展した横浜駅西口を新たな中心点として、比較的早い段階で急速に拡張・充実してきました […]
図は前節の再掲です。 ※ 以下では「三ッ沢総合グランド入口」を「三ッ沢グランド」と略記します。 12系統(Ⅱ)・38系統(Ⅱ)・108系統(Ⅰ) 現在の38系統(Ⅱ)(横浜駅西口~六角橋北町~内路~鶴見駅西口)に至る流れ […]
市バスの系統数(系統番号単位)は1992(平成4)年度で148を迎えた後、’94(平6)年度に一旦138まで減少しますが、その後再び増えて’02(平14)年度には155になっています(*1)『横浜 […]
2006(平成18)年度に入ると再編関連の発表は鳴りを潜め、かわって6月に決定された地下鉄の路線愛称(ブルーライン・グリーンライン)が話題になりました。ところが、7月1日に突如発表された新聞記事(*1)『神奈川新聞』平1 […]
廃止に次ぐ廃止のひと月が過ぎ、2007(平成19)年度は暫定運行系統8つ(新設5、既存3)を含む129の系統で始まりました。しかしここにはまだ5つの移譲予定系統と、「生活交通バス路線維持制度」で市バスの運行が継続した13 […]
「あり方検討委員会」の答申からまだ1年余りの2005(平成17).2に初めて試行運行された「超深夜バス」は、平日の横浜駅西口を24時半過ぎに出発し、横浜線の終電出発後の東神奈川駅西口、小机・鴨居・中山の各駅前を経て十日市 […]
付図として、開業から1962(昭和37)年までの運行系統の変遷について筆者が検討し作成した図を公開します。 戦争の時代をまたいだ運転系統の大きな変動は’50年代後半(昭和30年代初め)でほぼ落ち着き、R […]