甲子夜話
《甲子夜話巻四》 

《甲子夜話巻九》 

《甲子夜話巻九》

先年谷風梶之助と云し大関の相撲有ける。横綱を免されて。寛政の上覧にも出たりし大力量の大男なり。 或時。何ごとか其弟子のことに就て立腹し。其者をつれ来れ。搏殺すべしとて怒ける時。楼上に居たれば。 多の弟子どもかはるがはる楼に出て詫を言へども承引せず。後は誰にても取扱ふ者を搏殺すべしとて弥怒りければ。 寄就く者なかりける。一人才覚ある弟子工夫して。谷風が妾の年十七なる有しを頼で。あの如く怒られては致方なし。 何とぞして機嫌を直し。楼よりつれ来れと云へば。妾心得て楼に上り。谷風の手を執り。弟子中一同に御詫申候。 下におり給はれとて手を引下りたれば。谷風応々と言ながら。少女に牽れて楼より降り。事済しけるとぞ。 後のその弟子ども云しは。かく多き角力の力も。少婦一人には敵せられずとて。皆々彼才覚に伏しけるとなり。

《甲子夜話巻十》

今の角力。大関に玉垣額之助と云は剛強なる男なり。一年瘡を患たるとき。その弟子角力に云ふ。 膿血を捺し出すべし。然らば速に愈んと。弟子強く押に忍びず。柔かに押したれば。玉垣怒り。役に立ぬ奴かな。 申付に違はゞ頭を打砕んと云ければ。弟子ども怖れて。力を極め膿血を捺出し。乃疾愈けると云。 蜀関羽が臂を劈し類にて。壮士の気度ありと云べし。名将伝云。羽嘗為流矢所中。貫其左臂。 後瘡雖愈。毎至陰雨。骨嘗疼痛。医曰。矢鏃有毒。毒入于骨。当破臂作瘡。刮骨去毒。然後此患乃除耳。 羽便伸臂令医劈之。時羽適請諸将飲食相対。臂血流離。盈于盤器。而羽割炙引酒。言笑自若。

《甲子夜話巻十》

今。戸田川と云ふ角力は。肥大なる男にて力量もあり。久く予が家に出入る。これが言と聞く。若人と闘争に及ぶとも。 裸体に褌をしめて立向はんには。仮令棒の類を以て頭背を撲打たるゝとも。痛苦は曾て不覚。然ども刃あるものを持来るもの有ときは。 赤手は迚も対すべからず。因て武士の輩は懼るゝのみと云し。尤なる言分んなり。この初夏。予が園中に角力場を取建て。 かたや開を為たるとき。鳥越邸より。いと大なる台に。大なる鯵焼たると。栄螺のつぼ焼と。鮓とを沢山に積て贈たり。 因てそのまゝ来集りし角力に与へければ。忝しとて取敢へず食せしが。酒飯をも具せず。箸とも云はず。 皆々魚は手に握り。骨ながら食ひ。貝は其まゝ汁をすゝり。さしも大台に山盛せしを。一時に喫し尽せり。 壮強の力士ども目ざましかりしことなりけり。

《甲子夜話巻十一》

総て相撲は東西より立向ひ居てとること常なり。然に上覧のときは東西ともまづ上面に向ひ并居て。行司団扇を揚ると即立合と云。 因てなれざる間はとりにくしとなり。寛政上覧の度。谷風梶之助西の関なり。小野川喜三郎東の関なり。 何れも横綱を免されし無双の男にて。其頃世に鳴し関取の此度上覧のことゆへ。諸人眼をつけ居たりしが。 立合ふとき谷風やつと言て立つと。小野川まつたと云て不立。行司即勝相撲谷風とて西方に扇を揚たり。 諸人皆不審に思ひ。谷風は思はず面目を得しが。小野川は心得ぬことに思ひ。退き出て行司に其仕方を尋たるに。 行司答るは。全体相撲は其気の勇を尚ぶ。やつと言ふにまつたと受るは気に勇なし。是を気の負と謂ふ。 常の勧進場などは雑人の視る処なり。上覧の場に於て如斯き所作曾てなきことなりと判したれば。流石の小野川一言もなく閉口赤面せしとなり。 この行司は吉田追風と云て。古代より頼朝卿の頃よりとか聞けり行司の故実相伝の家にて。 今細川侯の熊本家士なり。上覧のときはわざわざ国より出て行司を勤るとなり。 小野川は久留米侯の相撲にて内々は士分のよし。追風は名家とて。真に行司の詞とも云べく格別のことなり。

《甲子夜話巻十四》

奥州南部は相撲の土俵場を円形にせず。方形に置て其角々に四本柱を建つ。又行司も常の上下は著ず。 能狂言に著せる太郎冠者の上下と同制なるを。腰の帯まで当て著す。但麻にはあらず。純子。錦。等花麗なるものを用ゆ。 而常の如く角力のとき土俵を回歩して勝負を視ることはせず。見物所の向ふの正中に立ゐて動かず。 勝負の団扇を揚ると云。諸邦の相撲とは殊なり。蓋し古風の遺れるか。又彼侯の中の行司。其首たる者は禄三百石と云。 常に場に出るものは皆其弟子なり。又相撲人立合ふとき。力足とて踏ことも。南部にては土俵の外にて踏み。 夫より内に入りて角力すと。以上吾相撲の朝雪。其場を経ての話なり。又大関。関脇をとる者は。 銘々刀を持て土俵の傍まで行て。夫より角力すと。皆常と異なり。

《甲子夜話巻十七》

鶏狗の闘は人も常に知る所なり。この頃豕闘のことを聞けり。ある所に豕二頭を畜ふ。一は肥大なり。一は稍小なり。 二つとも庭前に居たるが。何ごとかありけん。小の方大に戯るゝを。大は忿りたる体も無りしが。小の方に向て牙を露はし。 ごうごうと云ふ。小も同じくごうごうと云つゝ。鼻を指向ると見へしが。互に鼻を突付けて。ふくふくと鼻息あらく吹ながら。 にらみ合様にて。砂を吹立つゝ。かなたこなたへ鼻端にて押歩くこと数廻なり。始めは中庭にていどみたるが。 大は避んとして横に行くを。小は逃さじと鼻を指属。鼻を並べて倶に押行き。其処にて又暫く挑合ふ。その時も喰合ふことはなく。 唯向ひ合て。鼻を地に着て。互にふくふくと息を吹立て。牙を露して睨み合ひ。時々互に歯を叩きて。かちかちと音を出し。 歯を噛では又息を吹立て押合ふのみなりき。如斯しつゝかなたこなたへ押行き押廻り。始終鼻を属合せて。互に逃すまじとせり合ふさま。 角力人の土俵の中に跪居て。取組んとて息合ひを待に似たり。其間。頭上より項通りの毛怒り立て。尾を揺かし。 合闘のこと半時許。頃しも七月半ばにて。秋暑甚しき日中なれば。口より白泡を出し。喘で苦げなれども。 引去るべきさま曾てなし。然るに大の力や勝りけん。小の頷下に鼻を入て。横さまに牙にてすくひ揚んと為る勢なりしを。 小は掛られじと四足を堅め。胸腹を地にすり着けて。身を横さまに押かけながら。大の鼻を入れじと構る体なり。 大いよいよ勢を奮ひ。小の腹下を牙にて数遍すくひ揚んとすれども。小強く居しばつて牙を入れさせず。 是より稍はげしく狂争して。牙にて掻裂んとせしが。大は怒て小の頬を噛めば。小も又噛み。互に口吻を喰裂かれ。 血流て殷々たり。遂に小は負色になりて。漸く引て。下水を溜る腐漕に落入て。頭ばかり出して喘居たり。 大は快げに息吹立つゝ。あせるあせる尾を揺がして去れりと。見たりし人の話なり。常には争ふ姿も無くごうごうと云て食を求るの外なき者なれども。 闘ふに至ては烈きものと見ゆ。畜中の沈勇なる者と云可きか。

《甲子夜話巻四十二》

豊太閤の北野大茶湯のことは諸書に見ゆ。此頃予が角力。錦。上京して北野松梅院開扉のことあるに値ふ。 其時宝物とて人に見するものゝ中に。大茶湯の場に豎し制札あり。乃写して還り予に示す。
一ハ横一尺五寸バカリ
竪正中ニテ一尺一寸ホド
其文。
 来る十月朔日。北野松原におゐて茶の湯興行せしむべく候。貴賤によらず。貧富に拘はらず。望之面々来会せしめ。一興を催べく。美麗を禁じ。 約を好み。営申べく候。秀吉数十年求置候諸具。飾立置べく候条。望次第見物すべき者也。
  天正十五年八月
一ハ横三尺五寸バカリ
竪正中ニテ一尺五寸ホド
其文。
  御定之事
。北野之森におゐて。十月朔日より十日之間に。天気次第に御茶湯被成べき御沙汰に付て。 御名物共残らず相揃させられ。数寄執心之者に見せさせらるべきため。かくの如く相催させられ候事。
。茶湯執心之者は。若党。町人。百姓以下によらず。釜一つ。つるべ一つ。 のみ物一つ。茶はこがしにてもくるしからず候。引さげ来しかるべき事。
。座敷の義は松原にて候条。畳二畳。
 但し侘者はとぢつけ。いはなきに而も苦しからず事。
。遠国之者迄見せさせらるべき之儀。十月十日迄日限御延被成候事。
右は仰出され候義。侘者をふびんに思召候処。此度罷出ざる者は向後におゐてこがしをもたて候義。 無用との御異見に候。罷出ざる者の所へ参り候族までもぬるものたるべき事。
但遠国之ものによらず御手前にて御茶下さるべき旨。仰られ候事。
奉行  福原右馬允
    蒔田権介
    中江式部大輔
    木下大膳亮
    宮木右京大夫
この札檜材と覚しけれど。年古煤汚して分らず。且年号を記せし方。更に古色あり。文字隠々と隆起して。余は剥落す。雨露にさらす者の如し。一枚の方は然らず。
豊臣譜云羅山撰。天正十五年五月。秀吉陣于薩州。島津義久降。秀吉宥之。西州平。 七月。秀吉出筑前箱崎。同月十七日。遂帰大阪。勅使来慰労之。秀吉移居于聚楽。使秀次居京都邸。又云。 十六年十月。秀吉於北野松原催茶湯。為見都鄙好茶者之風情。茶器之好悪也。先是標命書於処々街市。使預于北野之茶湯。 故京都泉堺。遠近嗜茶者、大喜咸来と。是にて観れば薩摩の軍終り。七月京に帰るの後閑あるゆゑに。八月に至り。茶会の挙ありしなり。 因て標書の文に。十五年八月を以てすれど。茶会ありしは十六年の十月なれば。その札の剥落せしも。期年に過る風雨を経し故なるべし。

次項に接続す。

《甲子夜話巻四十二》

是も同人の北野にて見たる話なるが。社殿の中に古の絵馬額数枚あり。何れも竪五尺ばかり。横六尺余もあらん。 最も古るきは頼朝卿の納られしものと云。夫より下は尊氏卿一枚。織田右府。 豊臣太閤二枚。内府秀頼二枚あり。何れも金を押したる者と覚しけれど。 塵汚煤墨。その色剥滅して見へ難し。然ども処々纔に金色の残れるあり。ただ尊氏の絵馬。上に奉納の字を存し。 下の其諱見ゆ。その余は文字有れども分がたし。又曰。神祖の御奉納も有らんと審視せしが。これ無しとなり。

《甲子夜話巻四十四》

世に知れたる関取の角力。緋威と云は芸州の産なり。近頃年老て。予が中の角力。錦の方に寓せり。予も年来知る者ゆへ。 時々呼て噺させし中に云しは。彼れが故邑の在郷三里ばかりの村に老狸あり。常に人と交語す。容里俗と異ることなし。 緋威も屡々相対すと。狸碁を善す。相手窮思すれば。輙。凡夫かなしや。目は見へず抔云てこれをる。 総じて人の如し。因て或はこれを困しめんとて。傍人戸を閉し障子を塞ぐに。その寸隙より出去ること幻影の若くにして。 遂に留ること能はずと。又或は戯に陰嚢を披きて人に覆ふ。人驚て脱逃せんと為れば。いよいよ包結してこれを笑ふ。 其状また人と違はずと。又或人。これに弟子ありやと問へば。弟子有りと雖ども此辺にはなし。たゞ隣村なるちんば狐のみ我が弟子なり。 然ども未だ人に対して言語すること能はず抔話せり。予疑て信ぜずといへども。時に錦も亦傍に在り。嘗て共に芸州に往てその人を知ると云へば。 虚妄ともしがたし。又この狸よく古昔のことを語る。大率茂林寺の守鶴老貉の談に類す。然れば芸狸も長寿の者か。 又隣のちんば狐は。里人時々これを視ることありと云。

《甲子夜話巻四十四》

これも緋威が話しは。先年京より帰る道中。桑名に宿りしとき。自余の角力取は皆。妓を買に往き。己れ一人留守をしてゐたるに。 風呂所の漕樋の下より鼠出たり。其大さ猫ほどもあり。緋威。是を捕んと。かの漕に追こめたれども見へざれば。 其口に魚網を張り。湯を樋につぎ入れたれば。鼠驚き出て網に羅れり。よつて捕へ。多葉粉に唐辛をまぜて吹かけたれば。 口よりは出せども中々よわらず。再遍かくせしかば。息絶たりしが。やがて復蘇りたれば。 もしこれを放さば。定て夜中仇をなすべし。殺にしかず迚。脇指を抜たれば。亭主聞つけてかけ来り。平伏して。 何卒これを御助け下さるべしと云故ゑ。緋威云。この大鼠。今殺さずんば害あらん。何にして止るやと問へば。 御不審尤なり。是には子細あり。その子細は。某は養子なり。この家養子をすれば頓て出。終に居つく者なし。 某も初めは知ずして来りしが。其夜ふせりゐると。何か物音するゆゑ目を覚し見たれば。大さ円盂ほどもあらん黒蛇の。 身を半ば立にして向ひ来る。側に臥たる養母を見れば。夜衣を引かむりてあり。斯くすると大鼠二匹出て。 某が臥たる辺を終夜旋りてありたれば。この蛇遂に来りつくこと無くして夜明けたり。かゝれば此鼠はこの家の主護なり。 夫ゆゑ助命をかへすがへすも乞申すなりと云へば。緋威是を聞て。きみ悪く思ひたれど。流石力士と云るゝ者。 弱みを見せてはすまず。又放しなば。返報に荷物など喰はれんも外聞あしゝと思ひ。明朝この家を出立し後放すべしと云て。 其夜は気丈なる顔をしてこはごは枕元に置き。翌朝に至り。亭主に渡し発足せしとぞ。この家は酒屋久大夫と云て今に有り。 この久大夫も去年迄は達者にて居たり。又その後桑名の町焼亡せしが。又其所を通行せしゆゑ。久大夫が方に立休ひ。 かの大鼠は何かにと聞たるに。焼後は何地へ往しや見ずと南。

《甲子夜話巻四十五》

或る宴席にて聞く。世には嗚呼の者もあり。加久と云し市井の婦に。侠気つよくして。奕場などにて所謂グワヱン長髪の輩も。 この婦の前にては一言を発する者なく。皆閉口せしとぞ。又或者。目の当り見しとての話は。この婦。臀に蟹を入墨にして。 両手陰戸を開かんと為るさまの形なりとぞ。又或角力が語りしは。回向院に相撲ありしとき。その出小屋の裏家にこの婦住み居しが。 角力小屋の者これを聞て。皆その出小屋を去て。居る者なかりしとぞ。角力取も懼るゝこと如此。又聞く。 この婦銭湯にゆきて還るときは。何つも裸身に緋縮緬の褌ばかりにて大道を行けり。又或時は道路にて。行く行く尿をしながら豁歩して。 路人に慙ることなしと。又婦。ある質屋にゆき。赤裸になりて衣を典せり。時に店の者ども。陰処の露れたるを咲ふ。 加久曰ふ。陰戸何かにして可咲きや。世の女に総て陰戸はなきや。又吾が陰門。人と異なりや抔。大に罵て止まざりければ。 店の者も畏れて銭を与へし上に。質に取し衣服までを還へせしとぞ。実は婦のたくみたる仕わざなりしとぞ。 十八巻に云たる湯島の婦女与志の比ひか。

《甲子夜話巻四十六》

浪花の相撲年寄に。藤島岩右衛門と云あり。若き時角力取にて。後に年寄となる。角力は上手にて。 諸手も心得たる者なり。今年七十四なるが。気体健かにして。今に裸になりて弟子にとり方を教ゆとなり。 予が角力朝雪は。もとこの藤島が弟子なり。因て去夏。これも予が角力錦。黒柳が上京の後。浪花に抵りしときも。 大に悦て日々に習慣せしめ。彼角力はかくすれば勝つなど云聞かせたりしが。両人とも其如して勝を得しこと多かりしとぞ。 其練達如斯し。この藤島が云しは。総じて角力取の浴するとき。弟子にからだを洗はすることは。角力人は肥大肉満にして手肩に及ばず。 又洗身に不自由なれば。止むことを得ずして。人を頼んで汗沙の汚を洗ふ。然るを今の角力は。はや弟子の一二人ももつに至れば。 其者をして手足までこれを洗はしめ。己れはたゞ安坐するのみ。其人はこれ関取の所為と思ふべけれども。 我が目より見ては。死人を人の洗ふに同じと云へりとぞ。真に矍鑠たる一老夫なり。

《甲子夜話巻四十七》

緋威が語りしは。某が在所芸州に狩ありしとき。士分の者の鉄炮早落して。鉛子農夫の背に中りたるが。 三の穴所より乳上三寸ばかりの所にぬけたり。然れども其人死せざりしとなり。奇らしければ。緋威も立寄り。 念を入れ見たりと云き。何なるにてかく障らざるにや。尚尋ぬべし。

《甲子夜話巻五十一》

予少年の頃。久昌夫人の御側にて聞たりしをよく記憶してあれば。茲に書つく。芝高輪の片町に貧の医住めり。 誰問ふ人もなく。夫婦と薬箱のみ在て。僕とても無きほどなり。然るに一日訪者あり。妻乃出たるに。家内に病者あり。 来診せらるべしと曰ふ。妻不審に思て見るに。身ぎれいなる人の。帯刀して武家と見ゆ。因て夫に告ぐ。 医出て。某固より医業と雖ども。治療のほど覚束なし。他に求められよと辞す。士曰。然らず。必ず来らるべしと。 医固辞すれども聴かず。乃麁服のまゝ随はんとす。見るに。駕を率へ僕従数人あり。妻愈々疑て。薬箱を携る人なしと以実て辞す。 士曰。さらば従者に持しめん迚。薬箱を持して医を駕に乗せ行く。妻更に疑はしく。跡より見ゐたるに。 行こと半町もや有んと覚しき頃。駕の上より縄をかけ。蛛手十文字にからげたり。妻思に。極て盗賊ならん。 去れども身に一銭の貯なく。弊衣竹刀何をか為すらんと思へども。女一人のことなれば為べきやうもなく。 唯かなしみ憂て。独り音づれを待暮しぬ。医者は側らより駕のを堅く塞て。内より窺ふこと能はざれば。 何づくへ往とも知らざれど。高下迂曲せるほど凡十余町も有るらんと覚しく。何方につれ行くかと案じ悶たるが。 程なく駕を止めたると覚しきに。傍人曰く。爰にて候。出たまへ迚。戸を開きたるゆゑ。見たるに。大造なる家作の玄関に駕を横たへたり。 医案外なれば。還て駭きたれども。為方なく出たるに。その左右より内の方にも数人并居て。案内の人と行ほどに。 幾間も通りて。書院と覚しき処にて。爰に待ゐられよと。その人は退入たり。夫より孤坐してゐるに。良久ありても人来らず。 何かにと思ふに。人声も聞こへざる処ゆゑ。若や何なる憂きめにや遇ふらんと思ふに。向より七八歳も有らんと覚しき小児。 茶台を捧て来る。近寄りて見れば。未だ坊主あたまなるに。額に眼一つあり。医。胸とゞろき。果して此所は化物屋鋪ならんと思ふ中。 この怪も入りて。また長け七八尺も有らん大の総角の。美服なる羽織袴を着。烟草盂を目八分んに持来る。 医愈々怖れ。怪窟はや脱する所あらじ。逃出んとするも。行く先を知らず。兎や為ん角やせんと思廻らすに。 遥に向を見れば。容顔端麗なる婦の。神仙と覚しく。十二ひとへに緋袴きて。すらりすらりと過る体。医。心に。 是れ此家の妖王ならん。然れどもかれ近依らざれば。一時の難は免れたりと思ふ間に。程なくして一人。 継上下を着たる人出来て。御待遠なるべし。いざ案内申すべしと云。医こはごは従行に。又間かずありて。 襖を障て人声喧し。人云。これ病者の臥所なりとて。襖を開きたれば。その内には酒宴の体にて。諸客群飲して献酬頻なり。 医こゝに到ると。一客の曰。初見の人。いざ一盃を呈せん迚医にさす。医も仰天して固辞するを。又余人寄て強勧す。 医辞すること能はず。乃酒盃を受く。時に妓楽坐に満て。弦歌涌が如く。俳優周旋して舞曲眼に遮る。医生も岩木に非ざれば。 稍歓情を生じ。相倶に傾承時を移し。遂に酩酊沈睡して坐に臥す。夫より医の宅には。夫のことを思へども甲斐なければ。 寡坐して夜闌に到れども。消息なし。定し賊害に遭たらんと。寐もやらで居たるに。鶏声狗吠。暁を報ずる頃。 戸を敲く者あり。妻あやしみて立出たるに。赤鬼。青鬼と駕を舁て立てり。妻大に駭き。即魂も消んとせしが。 命は惜ければ。内に逃入りたり。されども流石夫のことの捨がたく。暫しして戸隙より覘たるに。鬼はゝや亡去て。 駕のみ在り。又先の薬箱も故の如く屋中に入れ置たり。夜もはや東方白に及べば。立寄て駕を開たるに。 夫は丸裸にて。身には褌あるのみ。妻死せりと伺ふに。熟睡して鼾息雷の如し。妻はあきれて曰。地獄に墜たるかと為れば左もなく。 盗難に遭たるかと為れば醺気甚し。狐狸に欺れたるかと為れば。傍に大なる包あり。発て見れば。始め着ゐたりし弊衣の外に新衣をうち襲て。 襦袢。紙入れ等迄皆具して有りたり。然れども夫の酔覚ざれば。姑く扶いれ。明朝やゝ醒たるゆゑ。妻事の次第を問に。 有し如く語れり。妻も亦その後のことを語り合て。相互に不審晴れず。この事遂に近辺の伝話となり。誰知らざる者も無きほどなりしが。 誰云ともなく。是は松平南海の徒然を慰めらるゝの戯にして斯ぞ為られしとなん。この時彼老侯の居られし荘は大崎とか云て。 高輪遠からざる所なる故なり。又一目の童子は。その頃彼の封邑雲州にて産せし片わなる小児なりしと。 又八尺の総角は。世に伝へたる釈迦ヶ嶽と云し角力人にて。亦領邑に出し力士なり。又神仙と覚しき婦は。 瀬川菊之丞と呼し俳優にして。その頃侯の目をかけられし者なりしとぞ。

《甲子夜話巻五十二》

この前。行智来り云ふ。今日深川八幡の境内を通りたるに。仮小屋あるを取くづしゐたれば。何ゆゑ小屋を解やと問へば。 近頃力もちする者ありて。百貫目の石を頭上にさし扛ることにて。これも一人ならず数人よりて。相撲の如く関。関脇。小結とて。 その人々の力量を見せけるより。諸人も群湊してこれを観たり。これ社に奉納の石なり迚。その小屋なり。 又それを解し訳は。この程かゝる群衆の中。年六十余と覚しき痩たる小おやぢ。その石の傍に寄り。両手をさしのべ。 軽げに目通に持て。二三遍あげさげして向へ擲出し。さても各は能く持るゝよとて。出去けるにぞ。かの力夫の輩も畏駭き。 この老夫ただ人に非ずとて。其事を停めしかば。かく仮屋も取ほごす也と。行智が聞くに答しとぞ。

《甲子夜話巻五十七》

緋威と云し角力。今は年老て角力を止め。名を弟子の錦に譲り。赤翁と改称す。この翁安芸の産。清和源氏の流裔にて。 古文書も伝へて由緒ある者と聞く。家居も頗る広しとぞ。緋威になりしもの。今年赤翁を訪て安芸に到りたれば。 赤翁が居は何にと尋しに。彼国の山家にして里民も甚朴鄙。某到れる後。主翁喜の余り所貯の鳥銃を出し赤翁角力のときより頗る武事を嗜み。 常に武具を身辺に置き。旅行には必ず甲冑一領を随へたりし者なり。これを家夫に命じ。遠客の饗に雁を打来れと言含む。 その夫頓て一鳥を携へ来る。見るに鶴なり。乃その皮を剥ぎ。肉を喰ひ畢て。羽足の如きは潜に土中に埋めたりとぞ。 鶴は領侯鷹場の為に打捕ることの禁なる故なり。禁を犯す心にもあらず。雁。鶴をも家夫などは弁ぜざるほどの魯愚の俗なりと。 芸は中国繁華の地なるが。辺鄙は亦如此の風の所も有けらし。

《甲子夜話巻六十二》

柔咄と云書を見るに。曰。上略享保の始迄は。相撲両人土俵の中に中腰に立居て。 行司団扇を引と取組しことなり。然るに其団扇の引かたに依怙も有ること抔ありしより。 此八角相撲の名。この八角と云は。鏡山と云し者の後に出て。鏡山は関口流の柔術を学び。 相撲に工夫練達せし者なり気の練と云ことを工夫し。両人とも下に居て。互に心の相逢ところにて取結ぶこと成りし。 去れば綾川。七ッ森。源氏山の類も。八角に学びて。行司の法を善くしたりと。然れば今の角力は皆。 鏡山。巻瓦。八角が流にして。古の相撲のとり方には非じと。父翁咄し給ひし。余若年の頃見たりし時は。 前角力などは。皆立かゝりゐて取たりしが。近頃はみな下に居て取かゝる也。去ればこの下にゐて取るより。 角力の心きたなくなり。幾度も幾度も。まだまだと立合はざる者多し。殊に近頃小野川抔は。谷風との取組いついつにても隙どりて。 最見苦しかりし。去ればにや。その取組の清きは。宮城野丈助なり。向よりかゝれば待てといはず。直に立合し。 其弟子の錦之助も然為たりしかば。其立合を宮城野流と云し。然れば取口損ありて。毎度負になりしことも有れど。 其心は清くこそ有りける。これを見れば。角力の体さへ百年に及ばずしてかく違へり。柔咄は文化九年に輯録せし者なり。

《甲子夜話巻六十三》

聞く。紀州東照宮の御祭礼は大造なる御事にて。殊に美観なりとぞ。その中何かなる御ことにや。神輿の通行に当て。 紀侯御輿前に平伏せらる。此時に御輿前に於て二十番とか相撲あり。その間紀侯平伏ゆゑ。相撲人もこれを恐れ。 双方より走り向ひ。行司団を挙ると忽ち勝負し。見るうちに数番の相撲畢りて廼神輿渡御あるとぞ。珍しきことなり。

《甲子夜話巻六十三》

予先年。参府の蘭人に逢ひき。その時懇意の者一両輩を誘往たる中に。修験行智もあり。渠が筆記せし所の紙片。 篋底に有りしを。この頃見出しぬれば爰に挙ぐ。
今年文政五年壬午二月廿四日。兼て仰せ下さるゝ事有しかば。原庭の御館に参り。老公に陪侍して。石町長崎屋荷蘭人の旅舎に到り。 蛮人に対問す。同じく従ふ人には。荻野八百吉。山口桓之助。荻野董之助。行智也。今年参向の蛮人三人。 加比丹。名は。ヤンゴツクブロンホーフ。年四十三歳。其次筆者。ヤンオーフルネイハンヒッスル。廿三歳。 医者。ベンテルレンキ。三十九歳。各猗子によれり。老公席に臨み給へば。三人立て迎へ。跪て稽首し。 礼辞を演ぶ。老公遠来の労を慰し給へば。訳人陶長甚左衛門傍に在て旨を伝ふ。蛮人欽て厚誠を謝し奉る。 曰ふ。肥前の地は往昔蘭人始て我国に入時。まづ舶を寄るの地なれば。今に至ても古昔の恩義を臆ひ。欣慕し奉ると。 訳人其事を伝て公に申す。公歓び聞の旨を仰せ給へば。蛮人稽して謝し奉る。蛮人の服。 外衣の下に莫大小を着て。所々金具を以て固めたれば。起居に便無らん事を察し給ひ。猗子に着べき由を仰せ給へば。 蛮人謝して猗に着く。公まづ行智に問こと有ん由を仰給ふ。因て訳司に就て。
(中略)
。又問。角力は如何。
答云。無し。本国に於て武事を習はす。人数を指揮して戦はしむることを教ゆ。 騎馬。歩卒一人打の術をば専らと為さず。故に其業も伝ふること少し。
(中略)
かくて時移れば。公彼が応対に疲やせんと覚し憐れ。安慰の御言給はれば。蛮人も皆忝き由。訳司を以て申す。 公帰り給ふ時に。三人共立て送り出。別を惜み奉る。言の葉さへ通ぜぬ異域蛮戎の人と云へども。人情誠意の及ぶ所。 我に信あれば。彼も亦実情を見はすなど。路すがら語り合へり。御館に還入らせ給ひ。其より我等は荻野が宅に到り。 亥刻過る程家に帰りぬ。今日は兼て願ひ思し西人に対問のこと。皆公の鴻沢を被る所。日頃の宿思こゝに足れり。 因て夜も寝られず。つとめて昨夜の有らましを書つけ侍る。廿五日行智。

又問…問者は山口。

《甲子夜話巻六十五》

印宗和尚。久く鎌倉に居しとき目撃せしとの話なり。毎年七月廿四日には建長寺に開山忌の法会あり。 この時。宗徒大集して誦経す。その前に必ず相撲数番あり。まづ本堂の庭正面に四本柱を構へ。土俵を円置し。 近郷の人聚来してこれを興行す。いつもこの相撲畢らざれば。法式始らず。因て昼前より相撲始り。 誦経は夕方に及んで為とぞ。何なる事の起りか。
又円覚寺も。毎年九月三日開山忌の時同前にして違ふことなしと。両寺の開山。建長は大覚禅師名道隆冉氏。 円覚は仏光国師名祖元許氏。ともに宋人なり。かたがた何かなる所以なるか。

《甲子夜話巻七十》

徒然草に。されば女の髪筋にてよれる綱には。大象も能く繋がると有る。宜なり。既に第九巻に記せし。 横綱を免されし大力の大関谷風が十七になる妾に牽れたる如く。その後雷電と云し。 長七尺にして大剛力の大関予も嘗て識れり。面は馬の如く。長は鴨居を越たり。信に多力者なりし。 或時歌妓のために頬を撲れ。あいたゝと云て。目を瞑りたり。傍人笑はざるは無かりしと。又或ときは少婦に謔れたるに。 この婦雷電の胸を衝たれば。即後ろへ倒れたりと。玉垣勘三郎語りし。尤なることなり。徒然草に云へる所。 自ら警むべく慎むべきはこの惑なりと思合せぬ。

《甲子夜話巻九十》

天祥院殿この荘に退老し坐ませしときは相撲の力者共多かりし。その後松英院殿老居おはせしときは力士の沙汰聞及ばず。 又祖公御隠居の御ときはこの者共はあらざりし。予退老せし後。天祥院殿の御蹤の慕はしく思ひしかど。迚も諸家の上に出づべき力士も有まじ。 たゞ小わらはの相撲を置て慰まんとて。三都に名高かりし緋威と呼ぶ相撲にこのこと語りたれば。某が許に幼少より養たる小童あり絹島幸太郎。 是を参らせん迚。年十五なる小わらはをぞ進めたり。迺召て邸中に置き。年々と彼場にも出したるが。未だ十年を経ざるに。 いつしか取揚げて今は幕の内となり。大関とも席を並ぶる男と成りて。三都に贔屓の人も多かることに及べり。 因て昔天祥院殿の相撲の名を思出て錦と呼しが。遂にその先達の名を譲られて。今は緋威と更めつゝ東都に時めきけり。 錦もと京師の産にして。一人の妹あり名は伊和。固より相見は為ざれども。彼地の舞児にて。 今は人に嫁して妓舞は止めぬとぞ。一年錦が彼地へ上るとき。江戸紫に染たる帛に白糸紋縫はせたる衣を贈りしに。 其こと忝なし迚文もて謝しけるが。その辞の優く覚へたれば。卑しき業の身にしてかくも申綴りぬと。茲に書のす。
 おもひきや。かく隔りまいらせぬる身を。よくもおぼしも捨たまふらで。いともかしこきおゝせごとにかたじけなきに。 おそれみをも不顧。せめてつたなきふでして心ゆくばかりをまふしのぶるにこそ。さるは手になれし扇もいつしか秋の風たちて。 たへかねしあつしさもこの頃はすこしわするゝばかりに候。まつとよ君の御あたり。いと御たいらかに渡らせ給ふるとや。 つばらに承りさもらへば。こよなふ嬉しうなん。はたこたびはからざりき。あさ露の玉の御こと葉にそへて。 むらさきのゆかりゆかしきまでにそめなし給ふ衣恵み給ふる。うれしさたとふるにものなし。うからやからうちこぞりつゝ。 めでくつがへり忝うなん侍りぬ。もしみあたりの御さた候はゞ。よきに取なしおゝせ上てよ。つばらにいやきこへあげとうさもらへども。 元よりつたなきふでの跡。ひとしほわかりがたふこそと思はれぬを。よきにおしはかりたまへかし。はたあになる男もかはらぬみめぐみの厚を幾重にも申尽しがたふ忝うなん。 こもよきにおゝせ上てよと。ぬかづきおがみす。あなかしこや
いわ子
  上 人々御ひろう

《甲子夜話巻九十八》

当五月。隈本侯の国元より大男来れりと取沙汰す。角力年寄。勝浦が弟子となるなど聞たり。
 長け七尺三寸 足の太さ一尺三寸五分
貫目三十五貫五百目食一日に一升七合余
酒一度に一升を飲む衣三反余を着る
牛をまたぐと云人呼んで牛胯と云とぞ。この牛をまたぐに因てか
牛は大獣なれど。馬よりは脊ひくし。されども大男子なり。これにつき憶ひ出せば。予が少年のとき。 雲州侯の角力に釈迦嶽と云大男ありき。久しきことゆゑ。長も何も覚へざるが。其頃回向院にて相撲興行ありしとき。 予其門前市店の楼にて。両国橋を釈迦嶽の渡るを見るに。その長け衆人の頭上に抽出たること。馬上の人と云て可なり。 又予十一二歳の頃。久昌夫人に随ひて箱根の温泉に往き。小田原に宿せし時。釈迦嶽も上京するとてその駅を通行せしが。 予道に出て。その側に立寄見しに。予が頂上かの帯の下にありき。年少にはありしが。是を以て其大男なることを知るべし。 或人より聞く。この男。長大には似ぬ小量者にて。常に人中に出ることを厭ひゐれど。かく巨貌ゆゑ。 出れば人とり囲て堵をなす。かくすれば都下は住がたし。一日も早く帰国したし抔言て。涕泣するとぞ。 率この類なりと。嚮に隈本侯東勤の従者として。侯の薙刀を持て出府せしとぞ。又或人曰。この妹もあるが。 同じく巨婦なりと。果して然るか。
又彼男の掌形とて移写せり。予も小兵と云ふにはあらぬが。予が掌に一増陪。何にも大兵なりける。
   掌形

手形の写を載す。今略之。

《甲子夜話続編巻一》

既に前篇九十八巻に。肥後国に出し巨人のことを云ふ。又頃林子の言に。六月某が宅にかの巨人来れり。 因て居間の入側まで呼入れ熟視し。居あふ者ども尺をとりしに。
 身の長七尺三寸 手裏八寸五分
足裏一尺一寸身重さ三十二貫目
衣着丈五尺一寸肩行 二尺二寸五分
袖  一尺九寸
羽織三尺八寸
坐しながら手を伸せば鴨井に及ぶ田舎間なり。立てば頭長押の上に出で。 手指天井にとゞく其席の天井。鴨居上より三尺五寸なり。但長押とも。 予め聞しよりも巨大に見えし。
又曰。年少の時。雲州の釈迦嶽を見。辛未の西行に。対州にて朝鮮の軍官許乗を見る。此度にて三度なるが。 其大はこの男なると覚ゆ。又この巨人。気の弱きことは珍しきばかり也。人前にて物を喫することを厭ひ。 第一は手をつき首を俯れ。恐入てのみあるを。やうやうにすかして安坐せしむ。とかく途中にて人に観らるゝを甚嫌ひ。 成たけ外出せず。大家より云来るとき主人の命にて強て出門する体のことと。又附添の者なくしては。一人にては何かなる席へも出かぬるとぞ。 我が宅へは彼藩の儒官野坂源助。従来我が門人なれば附添ひて来れり。廼我諄々と。人に恥べきのわけ無きことを説聞かせ。 この後は誇り顔に人前に出よと諭せし迚大笑しき。古への防風氏なども存外に小心の人なりしか迚又笑ひし。
又曰。巨人の傍に子弟等かはるがはる起見るに。培の泰山に於るが如し。我もさらば長競せんとて。 起て巨人と並び立て腹を斥て云。誰か二人を体解して見ん。一臓一腑大小何かならん。たゞ胆ばかりは我がもの大なるべし迚呵呵す。

《甲子夜話続編巻二》

角力取は年々東西を旅行すること常なるが。吾内の緋威。奥の南部辺に往き。帰て話すには。世の小荷駄は皆男馬を用ゆ。 南部辺は皆女馬を用ゆ。緋威。躬重きこと三十四貫目。因て牝馬の力。遠きを致すこと能はず。故に十里余の行程。 駅馬を出すこと二三にして事を弁ず。又外に荷物を負ふ者は一二を当て。一身に馬八匹を備ふと。又可咲は。 かく牝馬に乗て行くに。その子馬の小なる者。母馬に随ひ行くと。是ら曾て行旅の体ならずと云き。

《甲子夜話続編巻十四》

肥後の大男のことは前編九十八。続編一既に記せり。然るに又菊池左大夫が詩とて宇示せりこの菊池は。 世に五山と称して詩人なり。名は桐孫。字無弦。五山堂と号す。又娯庵と号す。曰。
執御秉鈞才不同。世間誰復弁雌雄。非耕而飽真堪貴。喚汝何妨称巨公。
輿不能擡馬不勝。肉量幾量酒論升。幾人来立巌墻下。頭額纔能可服膺。
公門争引飽恩霑。満院春風隔翠簾。空向箋頭留手跡。臙脂押出五峰尖。
出門無処避黄塵。四面堵墻囲一身。臥泛専舟知妙算。虚望瞞得満城人。

《甲子夜話続編巻十五》

前に云ふ。観世大夫が能と謂ふことを予に尋ねたるに。予もとより知らざれば。其ことを答たる由を記しき。 夫より松屋に問て。答へし云云を茲に述ぶ。
按に。能は芸能の義にて。散楽の輩。その技能を施すよりいへる名なり。三代実録に。新伎散楽。競尽其能。また散楽雑伎。 各尽其能。西宮記に能優。文安田楽記に能芸などあるを考わたして知べし。さて能の字は。態の字にも耐の字にも通ひて。 音タイ。又ドウなるを。皆ノウと訓ならへり。さて猿楽番謡の能は。東山殿の比。観世観阿弥が造り定たる也といへり。
続日本後紀三の巻承和元年正月の条に。辛未。主上内宴於仁寿殿。教坊奏態。中貴陪歓云云
同年五月の条云。戊午。天皇御武徳殿。令四衛府馳尽種々馬芸及打毬之態云々
三代実録七の巻貞観五年五月廿日の条に。命雅楽寮伶人作楽。以帝近侍児童及良家稚子為舞人。大唐高麗。更出而舞。新伎散楽。競尽其能云々
同書卅八の巻元慶四年七月の条に。廿九日辛巳晦。御仁寿殿覧相撲。左右近衛府。逓奏音楽。散楽雑伎。各尽其能云々
西宮記七月十六日相撲式の条に。吏部王記。天慶三年閏七月十三日云々。相撲了。能優一番云々
南留別志五の巻に。能は元の雑劇を擬して作れるなり。元僧の来り教たるなるべし。こればかりの事も。此国の人のみづから作り出せるわざにてはあらじかし云々
和事始五の巻礼楽門。猿楽の条に。今世の能と云ものは。東山殿の時。観世観阿弥始てこれをなせり云々
庭訓往来諸抄大成扶翼猿楽の条に。能と云は。猿楽の能芸也。番謡の能は。東山殿の比より始ると云。是は笑ふべき事もなければ。猿楽の本意に違たり云々
玉勝間九の巻能といふ楽の条に。西宮記相撲の条に。相撲了。能優一番。とあり。能優は猿楽のたぐひと聞えたり。 近き世に能といふ名はこれなるべし。此能字は音態なるべきに。のうといふはむかしより誤れるにや。
俳諧歌論一の巻能優の条に。字彙頭書に。能奴登切。技能也。荀子。能有所合謂之能。と注せしごとく。技能によりたる名也。 また態といへるもおなじくて。続日本後紀に。教坊奏態とあるは。説文に。心能其事。然後有態度也。とも注せしをおもふに。その技に堪能なる義をとりていひたる也。 さてノウとよべるは。奴登切。音獰なれば。呉音にては奴といふべきに。乃にかよはせいふは古語例おほき音便にて。乃の仮名にも能字を書るなどおもふべし。
文安田楽記に能芸。糺河原勧進能記に能など見え。蜷川親元日記に能の事おほくあり。もと芸能才能の能なり。 菅文時の封事三箇条に。量能授官官乃理。択材任職職乃循。とも見ゆ。
毛詩小雅賓之初筵の章に。籥舞笙鼓。楽既和奏。烝烈祖。以洽百礼。百礼既至。 有壬有林。錫爾純。子孫其湛。其湛曰楽。各奏爾能。賓載手仇。室人入又。酌彼康爵。以奏爾時。云々
鄭箋に。子孫各奏爾能者。謂既湛之後。各酌献尸。尸酢而卒爵也云々。注に。能如字云々。 疏に。正義曰。以此論祭祀。而曰。子孫各奏爾能。故知謂既耽之後。各酌献尸也。尸尊神之象。子孫敢献之。是其能也。 礼献必有酢。故知尸酢而卒爵也云々
字彙肉部に。音寧。詩小雅。各奏其能云々
周礼二の巻大宰に。四曰使能云々。注に。能多才芸者云云。 同書十二の巻卿大夫に。而興賢者能者云々。注に。能者有道芸者云云。 同書卅四の巻大司寇に。上能糾職云々。注に。能能其事也云々。 同書卅五の巻小司寇に。四曰。議能之辟云々。注に。能謂有道芸者云々
荀子王霸篇に。足以容天下之能士矣。云々。注に。能士者材芸也。
同書正名篇に。知所以能之在人者。謂之能云々。注に。知所能在人之心者。謂之能。能才能也云々
又云。能有所合謂之能云々。注に。能当為耐。古字通也。耐謂堪任其事。耐乃来乃代二反云々 史記孟嘗君伝に。長者無他伎能云々
同書亀策伝に。至今上即位。博開芸能之道。悉延百端之学。

天慶三年…天慶二年。

《甲子夜話続編巻十六》

文化中。浅草寺に始て角力興行のことありし頃とよ。三島社門前賤夫の妻。骨なし子を産む俗にくらげ子と云。その前。我は阿波侯の先祖蓬庵なり。 暫く汝が胎内を借ると。夢に見たり。其頃又阿波侯のこの侯は老後敬翁と称せし人なり夢にも。蓬庵告られて。暫し彼町の賤婦にやどると見へしと。 侯より賤夫に密かに問はれしに。その夢違ひなければ。其子に内々にて賜ものなど有り。折から相撲興行あるゆゑ。幸なりとて。一日侯相撲を観に来らるべし。 其ときかの子を密に携へ謁せしむべしとなり。賤夫心得て。約束の日その場に至る。此日雨降て相撲なし。夫婦恭しく子を懐きて。その場の薦張を穿て内に入る。 人々その状を怪で窺ふに。空屋に夫婦入て。尊者に対するの状なり。又前に進上物と覚しきもの有り。賜物と覚しきあり。進物と覚しきは。真の菓子肴の類。 賜物と見ゆるは。腐艸朽木の類なり。人々これ正しく狐に欺れしならん迚。夫婦に暁し知らす。両人始て心づき家に帰り。狐蠱のことを悟り。前に賜はりし物を出し見るに。 真物半にして。草根木枝も亦半也。因てますます疑を生ぜしに。阿波侯にも此ことや聞へけん。その後は音づれもなくなり。かの骨無子も夭没す。 夫婦頻りに祟を懼れ。三島祠の境内に狐祠を小営し。阿波侯の賜物を売代なし祭資とせしが。今もその小祠は在りとぞ。近頃或人の話に聞けり。所謂怪神を語るの類。呵々。

《甲子夜話続編巻二十五》

相撲にカハヅガケと云手あり。是にいろいろなる説あり。全体の形は。下なる者。相手を抱て上に揚るを。相手左手にて下なる者の頸をまきしめ。 左足は下なる者の右足の内より膕の所へからみて。下なる者の体を揚るに従て。足を引挙る故。後は左一足になるまゝ。 相手の為に反倒さるゝなり。其ときは何れが上になり下になる。分らざる故。是を十死の手と云て。勝負を定めざることなり。 因て下なる者は。抱へて方家を持出だすを志し。相手は土俵の中にて反倒すを旨とす。故に下なる者。 相手を抱挙て持出せば。下なる者の足土俵を踏出せど負とは為ず。相手を持出せしなれば。相手負となる。 これ行事の故実なりと。成るほど尤なることなり。就ては。下の者持出す間だに。相手反倒すこと恊はざれば。 是非なく負るゆゑこれは石川兵庫語れり。此人四千石を領せしが。角力には達せし男なり。 予嘗文字友たり。以下の言も同人の話なり。近頃はホグレと云ふ手を取り。下の者相手を抱へ。 将に足を踏出さんとする機会に。相手頸膕の手足を放すと。我は方家の中に残り。彼は足を土俵に外すゆゑ。 下なる者負となるとぞ。是も亦一理。尤なる手也。
   相撲大全と云へる書の図
世人云つたふる名高き手也。しかれども河津が仕初し様におもへる人多し。左にあらず。股野とすまふせしに。 河津は無双大力にて。股野をさしあげける時。股野。河津にかけし故に。カハズガケといふ。 また野が手也。委は古記につまびらか也。古老は。此手は上古より有て蛙ガケといふ。然るに河津。股野すまふのとき。 此手出来りし故に。混雑せりといへり。よつて両説を用ゆ。
大全に古記に詳なりと云しは。定めし曾我物語なるべし。この中。奥野の角力の事と云条には。
河津は前後相撲は是が初めなれば。様もなくするすると歩みより。股野が抜んとあひしらふ所を。右の肱をつと延べ。 股野がまへほろを掴んでさし除け。あらくも働らかば。手綱も腰も切れぬべし。暫く有てむずと引寄せ。 眼より高く指上。半時ばかり有りて。横さまに片手を放ちてしとゝ打つ。股野は頓て起なをり。相撲に負るは常の習らひ。 何んぞ御分が片手わざと云ければ。河津云ひけるは。以前も勝たる相撲を御論候間。今度は真中にて片手を以て打申たり。 未だ御不審や候べき。御覧じつるか人々といふ。
此の如くなれば。彼カハヅガケの手。この両士の取組より起りしと云も。証とし難し。又蛙の字を用ひしこと。 上古よりのことと云ふは。春後水中にて蛙の組合てあること往々あり。其さまよく似たれば。蛙ガケと謂はんこと然るべきか。 取組かた勝負の次第は。河津。股野がことはこの相撲の手には用ひられず。但々類せし耳。亦かの相撲のときより河津ガケの名起しも無きにあらず。 要するに勝負のことは前説に違ふことなくして。徒名称の一定せざる已。

《甲子夜話続編巻二十六》 

《甲子夜話続編巻三十四》

この極月廿二日官令あり。其文に曰。
切支丹宗門之儀。従先前雖為御制禁。今度於上方筋右宗門之由に而異法行ひ候もの有之。即被処厳科候。 就而者右宗門之義。弥可被遂御穿鑿之条。銘々無油断相改。自然疑敷もの有之ば。早々其筋え可申出。品に寄御褒美被下。 其ものより仇をなさゞる様に可被仰付候。若見聞におよびながら隠し置。他所より顕わるゝにをいては。 其所之ものまでも罪科に可被行候。
右之趣。向々え寄々可被達候。
   十二月
過し頃上方筋にこの如きことありしと仄にきゝしが。果して実事なり。近頃我が中に儒生の寄寓せる者。 上京して還りし者あるに。此ことを問へば。京師。江州等にかの宗門の者出来て召捕れしと。却て当地にて風説は聞しが。 上京せしときには是等のことは聞き候はずと。
又吾が荘中に居る角力の宅に浪華の客あり。若くは知れるやと問へば。曰ふ。京八坂の辺に六十余の嫗あり。 其辺辻堂に何か本尊を置き祈祷をなすに。霊験ありて病死の者蘇生し。願請の事恊はざる無し。その余不思議のこと多かりければ。 諸人皆信仰して。かの嫗繁昌の身となり。貨財恒に足れり。嫗の家に少年の男あり。人察するに。嫗と姦通すと云。 或とき嫗その男を伴ひ伊勢へ参宮す。男の衣服尤も華麗にして人目を驚かす。因て官吏これを見とがめ。 帰路を要し。伏見の追分にて召捕ふ。それより御吟味あるに。吉利支丹なる件々露顕せしかば。直に浪華へ連下り入獄す。 かの嫗は何かなることにや。歯を。爪を抽き。厳しく禁固せられ在りと。又件の願望叶し輩。 追々宗門に帰依せし者数多く。召捕られ入牢し。其人凡八百余人とぞ聞ゆ。但し是は彼宗風に随へる者の親類を合せたるかと。 又この親類妻子は町預けに為たると云。
 右のこと専ら流行せしはこの三ヶ年以前にて。召捕へられしは去春の頃かと云。又かの嫗は拷問ありても少しも貪着せず。 全く吉利支丹の邪道を行て何の障苦も無き体なりと風説す。
又。予が中なる角力が文通を茲に出す。
京都洛東八坂と申処に。致店借候婆々有之。右之者居間之奥に神仏を祭り。占方様之伺事仕候処。能合申候と申事に而。 日々数人つどひ申候。其内に同意の者をかたらひ候事に哉。其者去る亥年。伊勢参宮仕候を。下拙も途中にて見請申候。 緋縮緬。紫縮緬の類つゞり合候下着。上着は京都西陣織ものゝ類にて。廿四五才之男と自分同衣装に御坐候而。 男は両刀にて候。婆々と申は年頃六十歳位。宿々金銀沢山に遣ひ参り候由。供は三十歳位。下女風呂敷包を脊追参り候分。 跡に而承り候処。右様之事よりあやしく候而召とられ候由。不残右男より申上候由にて。京都町人之内も段々被召取。 右一条如何之事に候哉。大坂御役所様御掛りに而。町人ども皆々大坂え参り候。一昨年より只今に相済不申候。 町人主は牢者妻子并親類迄町分御預けに相成。昨春頃凡七八百人も大坂え牢者いたし候抔と申風聞御坐候。 過半牢死之者も。亦は町分へ御下げに相成候者も有之趣に承り候得共。右婆々は如何体之御せめ有之候而も。 一向弱り不申由も承候得共。何事も実意相分り不申候。
 前々より写本に相成。かし本に致し候右宗門本。亦は天草記抔も見当り候得ば。夫々御とがめ有之候故。 本屋に而も不残火中などいたし候様ほゞ承候。亥年より昨春頃迄は。京町々。右うはさ而已に候得共。其後一向沙汰無之候。乍併今以相済不申よしに御座候。
○右の中に。嫗が歯をぬき爪をぬきたると云ことは何かなる責か。実事ならば。昔しもかゝることは有ける。耶蘇天誅記に見へたるは。
一。寛永年中。吉利支丹宗門の男女。国々より搦めとりて江戸へ引来り。品川表鈴が森の浪打際に。活ながら逆さまに釣り置て。 潮の満来る時は自ら頭を波に浸して暫時息絶。又汐の干去る時は自ら甦るがごとくす。是仏経に所謂救倒懸に均し。
一。寛永年中。江戸に於て乞丐或説に癩病人と云るは全く非なり百人余り。吉利支丹宗門たるに依て。 浅草鳥越の辺に虎落を結びて其中に追込み置。食を与へず飢殺しにして。直に其土地を掘りて埋まれしと也。

《甲子夜話続編巻三十六》

再編笑話
(中略)
一。先年平戸に在しとき聞く。市中に前句流行して。他邦より宗匠来り点をする。前句に伏勢がと云句なるに。或者。 力を出して比たりと附けたるを。巻にして諸句と宗匠に見せたれば。其者の附け句高点にして書抜になりたり。 其者に巡達したるに。其者云ふ。是は思ひ依らず高点となり辱なし。されども我が句は。力を出て比たりと云たり。 然るを此巻には。筆者誤つて。刀を出て比たりと書ぬと云へば。宗匠聞て。畢竟伏兵ゆゑ。深草密樹の裏など。 敵を待つの久しき。徒然に堪へず。潜かに腰刀を抜て比んも。情実を得たれば高点とは成しぬ。若し力を出して比んには。 力腕圧の類。全く伏兵の態に非ず。かゝれば一点も下す句ならず迚。還て笑具となれり。

再編笑話…「一冊入手仕候。是は今春之冊子之始めに笑初の訳にて御加御坐候へかし。浄本被遣候節ゆるりと再読可仕。先一過之儘返上仕候。正十三」頭書あり。

《甲子夜話続編巻三十七》

一友人云ふ。近来本庄にて拳戯盛んに行はれ。其会を為る処あり。拳台とて。それに手をのせ拳をうつ。 その手へ装束ありて。甚華麗なることと聞く。是その本源も有りて流行となれり。今一世の風すべて此の如し。 実に狂人所為とも謂ふべし。公は能く世間のことを知て。毎事書記に遺漏なし。然るに未だ此一事に及ばざるは不審なり。 予聞。笑て答ふるには。予は隠者なり。奚んぞ世上のことを知らんや。退て左右及某々に問ふ。
某曰。
(斜翁。山の手の人。拳の名人。今既に没す。其門生五百人に及ぶと。斜翁の碑。三囲祠の境内に在り。
(海田祐輔。今江戸一と云。又名人。石町に住し。医を業とす。
(半月。舛屋源四郎の手代。茅場町に住す。今祐輔を配して両大関と呼ぶ。
(菊千。始め俳優市川団之助の弟子。今浅草広小路の料理茶屋。亦今上手と称す。関脇と呼ぶ。去臘拳会の開筵ありと云。
(亀丸。北の同心葛岡五郎右衛門。又当時の上手。幕の内と称す。
某曰。三囲の碑。高さ四尺。横五尺六寸。赤色の石。
 銘云。崎陽車応生東遊。以善酒令鳴于世。今也則亡。詩以悼之。一場之歓已矣。十手令厳乎。 憶昨戦其拇。酣歌敲玉壺。南畝
ひらく手の五は勝なり梅のはな   車応
碑陰に刻す。野崎車応主は。俗称を清蔵といふ。酒席の拳をよくせし人なり。辛未のとし正月廿三日。八十四歳にして終る。 本所永隆寺に葬り。法名を春教院車応居士と号す。今はた此道を得たる人々の名を碑陰に彫て。長く世に伝へんことを希ふのみ。 于時文化九年壬申春建之。志願。良夜 士明。この次ぎ三十六生の名を三重に記し。合て百八人に及ぶ。碑面朦朧よみ難し。今略す。
左右曰。拳会と云は相撲場の如し。大関。関脇など称し東西に分り。その場には小さく四柱を竪。土俵を設け幕を懸。 其形屋の東西に臂をすゑて拳を為す。勝負は十拳に限る。因て紫檀。其外唐木などにて予め算木を造り。錦織物の類なる袋に納め持出でゝ。多算の方を勝とす。
又呼声には。一二三四。漢和の音を交へ。イヽ。リヤン。サン。スウ等。漢音なれば拳を伏せ。ヒトツ。フタツ。ミツヽ。ヨツヽ等。 和声なれば拳を開く。若し漢和の声呼。拳の伏開違ふことあれば。拳は勝と雖ども勝とせず。
又。一三。或は五七など。同数を連呼するときは。始めイヽ。次はヒトツと。交替すること也。和漢ともに累声を禁ずるとぞ。
世に拳稽古と題せる小冊あり。拳戯の諸法を謂ふ。其中。算木。。拳場の図を出す。迺移写す。
左右の中目撃す。白銀町三四町の間の横町石町三町目裏に当るに。戸口に拳稽古所と標札を出したる家あり。 その家内を覘ひたるに。主人は不在と覚しきが。薬箱見ゆれば医師なるべし。さすれば町所も違はざれば。 前記せし海田祐輔なるべし。又主人の子と覚しく年十二三なる総角。その門生と見ゆるに拳戯を誨ゆる体なり。 両人の間に小机を置き。人々の側に小器に水を盛りて。呼声繁く息きれたるときは。一口づゝ飲で咽を濡したり。
其門生に芸妓と見ゆる者二人。男子一人。かの総角にいりかはりて頻りに戦ひしが。三人とも総角に勝つこと能はざりし。 その男女嘆じて。どうもそなたにはほつても勝たれぬと云へば。総角の答へに。始から上手はなし。御精いでば随分上手にならんと挨拶せりとよ。 この少年は主人の子にして。標札の旨は得たりし者なるべし。
前に友人の本源と云しことは。我が荘の近く。川上の辺に別業を設る権家は。拳の名手なりとぞ。誰と打ても負たること無しと沙汰せり。 今世に時めくを以て。自ら一統にこの戯流行となれるか。郭林宗折角巾の流亜なるべし。如何。

車応…「斜翁。車応同人。音通ず」頭書あり。
算木。。拳場の図を出す…今略之。


《甲子夜話続編巻四十一》

林蕉山曰。この五月始のこととか。新御番衆にて中山信濃守が組なる。石津九兵衛が勇武を振ひしは感賞すべきことなり。 右は夕方泊番に出るとて。本町通りを。小侍一人。挟箱持。草履取の仲間二人召連行しとき。大男なる町人の酒に酔しが。 四人連立て道を遮り。通りたる跡へ行かゝりければ。小侍声をかくれども。町人ふりかへりも為ざりしを。 手を出し避んとせしを見て。町人怒り。この小僧めがと。罵て打擲し。道路へうつぶせにして踏蹴などせしかば。 仲間二人は恐れて何づ方へか去りぬ。九兵衛しばしが間は立て見居しが。小侍の苦み果なかりければ。頓て進みより。 一人の脇腹を蹴れば。急処にや中りけん。其まゝ倒れて起もあがらず。外の一人九兵衛に組つきしを。者の見ごとにはるか向へ真仰に抛出しける手際。 天晴なることにて。往来の人もやつと声を発して感じたり。其者は抛られたるまゝ気絶ぬ。余の二人是を見て。 たまらじとや思ひけん。逸足出し常盤橋をさして走去しを。九兵衛逐て行き。二人の首筋を左右の手にて後より掴み。 両人一同に捕て伏せ。其上に乗り。提緒を以てくゝし揚げ。引立て。自身番へ連行き町役人に預けぬ。往還にて見ゐたる者。 驚感ぜざるは無かりけり。その酔徒四輩はみな其町の者なりければ。町役人ども多勢出てさまざま詫歎けれども。 九兵衛は。我は泊番に出る路なり。手間どりては刻限も違へば。兎も角も為よとて。小侍を連つゝ直に登城しけり。 後に聞けば。此人駿府勤番より新御番に入りし者とぞ。素より武芸の覚へも有る輩にて。常々相撲を好み。 緋威と三番の相撲に。一番は勝つ位の取手にて。兜山などは手にたらぬと言と聞く。嗚呼。今の柔弱なる世風の中にては。 何にも快意なる人にて有りけれ。某も未だ其人を見識らず。知れる人の言に。魁梧なる偉丈夫なりと。さも有ぬべし。

《甲子夜話続編巻四十一》

寛政の初め梓行せし相撲隠雲解と標せし一冊あり。作者は行事式守某なり。此書相撲の故実より始め。 寛政三年辛亥上覧の事を詳記せり。其中相撲之批判と云条に。
偖己が腹中の一物見ゑざるが故に。我恥辱を知ず。真剣の勝負を為に及んでは人明に是を知る。中略古人の云伝を聞に。 立合て行事団扇を引て。取組待と云事なし。是は延享の頃。八角。谷風。立合の時初て待と云しことを聞。 尤陰嚢隠と名附て。廻しの垂も一尺も下たり。今は少も下ず。如斯なるが故に作法乱れて恥を知らず。 尤安永の頃迄は待無に取人も間々見へたり。懇望の方は能知所なり。今は上手有て。名人無し。人皆利口にして。 一図の人稀也。此所は其人の罪に非ず。悲ひ哉。時勢の然らしむる故也。夫勝負の論ある時は。東西の年寄行事三人立合て。 数年の業の妙術掛分る秤。三人ともに掛合せて。毫釐も依怙なく是を分る故に。古法に権衡の決する処。 必四拾八手に出ず。右四拾八手の内。何々と云手の名に競て。四分六分七分三分と相分る也。中略然れども止事を得ざる事ありて曲て古法を乱す。 今改る時は却て禍と成事あり。悲哉。其本を不弁。相撲を業とする者。中略常に相撲の古を有道に就て正し。 行義作法。相撲の格式相守。必下れる世の流俗に従ひ邪路に入べからず。今の有様を見るに。時勢と云ながら。 業は未熟也と雖。大兵にして其形能れば。是を関にし。曲て皆敬ふ。去ば事の意味甚疎く。身の程も忘れ。 我意を振ふ。略伝に曰。力在て法を蔑にするは乱の階也。力有て法に随ふは治の具也。夫又一に決焉とあり。 力在てと云事は。誠の役取と云心。法を蔑にすると云は。行事年寄の言葉に洩て用ず。是作法の乱れの始なり。 又は階は多く登人あつて下知ならざる也。力在て法に随ふ時は治世之道具作法古来の如くならん。唯一筋に是を守れと云事也。 今の立合の如くなれば。行事の団扇邪魔に成る。双方気改る故に立所を失ふ。其本修らざる故に。手前の勝手計を見て論多し。 年寄行事心腹の秤に掛らざる故に。判断更に決せず。行事も亦古法を失て曲たるに随ふ。譬ば取者は強き時は。見物群集をなす。 渡世たるが故に第一是を善とす。爰に於て法も自ら乱る。略伝に曰。不易行事官。故に世々不艱相撲して。行事を艱しとす。 中略行事官易からずは。本相撲の司也。相撲を艱しとせずとは。世々関取は続けども。 行事の一人は出来にくしと見ゆ。尤なること也。実に今の相撲は古法にあらず。既に寛政度に。大関小野川。 谷風の勝負を。行事吉田追風の。小野川は気負と称し。谷風は気勝と称し。谷風勝となりたり。これ小野川待つたと言しゆゑとぞ。 当文政十三年夏の上覧には。大関阿武松。稲妻。立合のとき。行事木村庄之助なりしが。稲妻は直に立合たるに。 阿武松待てと云て。右ゆゑ再び立合ひ。稲妻負たりしを。御前にても御気色よからざりしと内外の取沙汰なりし。 何にも下れる世の風にや。
これに就又一話あり。予品川へ往くとき。侍婢を従へゆく。これ等が駕を舁く夫の云ぶんを侍婢が聞て語れるは。 一婢先に行くと。後なる駕夫杖をたてゝ。先なるを待つべしと云ふ。かく云ふこと屡々なり。其とき先駕の夫。 後を顧りみて云には。度々待々と云。阿武松では有るまひにと。聞く人皆大笑すと。

《甲子夜話続編巻四十四》

寛政三年六月十日
一。明十一日。於吹上上覧所相撲上覧有之。
六月十一日
一。今四時之御供揃に而。吹上上覧所え被為成。相撲上覧有之。高家雁之間詰。御奏者番。布衣以上御役人。何も見物被仰付之。
寛政三五月。松平越中守様。本多弾正大弼様え。細川越中守様御家来吉田善左衛門御呼出。御尋に付。御勝手え差上候書付之控。
一。相撲起りは天照太神の御時より始り。朝廷に而は垂仁天皇御宇。相撲之節会行はれ候得共。 未其作法不正。争のはし而已罷成。勝負の裁断定がたく。聖武天皇。神亀年中奈良之都におゐて。近江国志賀清林と申者を召。御行司被定而より。 相撲之式委しく相備り。子孫相続之処。多年之兵乱打続。節会行はれ不申。志賀家も自然と断絶仕候。
一。後鳥羽院御宇文治年中。再び相撲之節会可被行処。志賀家断絶之上は。御行司可相勤者無之。 普く御尋御座候処。拙者元祖吉田豊後守家次と申者。越前国罷在。志賀家之故実伝来仕候旨達叡聞。被叙五位。追風之名を賜り。 朝廷御相撲之司。御行司之家と可被定旨置之旨蒙勅命。此時召合に用ひ候木剣。獅子王の御団扇を賜り。代々相撲節会之御式相勤申候処。 又候承久の兵乱発り。節会も中絶仕候。
一。正親町院御宇永禄年中。相撲之節会行はれ候節。十三代目追風罷出。如旧例相勤申候。
一。元亀年中。二条関白晴良公より。日本相撲之作法二流なきとの御事に而。 一味清風と申御団扇。并烏帽子。狩衣。袴。唐衣。四幅袴被下置候。其後天正年中。信長公。秀吉公。 東照宮御代には慶長年中於駿府度々御角力の式相勤申候。
一。十四代目追風。朝廷御相撲之式相勤申候。元和五年紀州於和哥山。東照宮御祭礼御相撲の式御頼によつて。 御祭礼奉行朝比奈惣左衛門殿諸事申談相勤申候。依之御刀一腰拝領仕候。
一。十五代目追風に至。朝廷御相撲の節会も自然に御中絶に成行申候。二条御家には相撲に付而御懇意之筋目有之。 他え罷出度段奉願候処。願之通相叶。万治元年当家え罷出申候。
一。元禄年中。常憲院様。牧野備後守様え被為成。相撲上覧之節。彼方様御家来鈴木梶右衛門と申仁入門之御頼有之。 将軍家上覧之式一通致相伝。品々拝領物仕候。
一。元祖より拙者迄都合十九代。前文之通禁裏其外之御方様より追々拝領之品々今以持伝。相撲之故実等伝授仕来候。
一。諸国之行司并力士共え之免許。拙者家より代々差出来候。
右之通御座候。以上。
  亥六月          吉田善左衛門
   上覧相撲之式
一。最初方屋に幣七本建。藁莚敷。神酒。供物等三方に乗せ供置。司之行司司之行司と唱る事は吉田氏に限り申候罷出。 方屋祭有之。相済。脇行司弐人東西より罷出。神酒を和合して東西え別れ。四本柱之根に神酒を納め。 元之通三方に乗せ。神酒三方。供物三方ともに東西え引入畢る。幣不残引入申候。藁莚は白張着之者罷出引之。 左候而司之行司。方屋開仕相済退去。夫より東の相撲弐拾壱人罷出。方屋入仕引取。次に同様相済。亦拾人罷出。 方屋入相済。関取壱人廻し上に横綱をしめ。方屋入仕候事。
 但相撲方屋入之節者。行司召連罷出申候。且関取方屋入之節は。添相撲取弐人罷出申候。
右相済西の方も同断。
 但残る七拾四人は取組之用意仕候に付。方屋入不仕候。
一。相撲打留めに三役。
   結勝え   扇子二本遣す
関脇勝え弓弦遣す
関勝え弓遣す
右請取渡有之相済候事。
   但関相撲行司は吉田追風相勤候事
一。方屋内に相撲合行司壱人。四本柱之四隅に行司四人出居候事。
一。手摺通りえ年寄四人宛。東西え罷出居候事。
一。相撲中。吉田追風御場所え罷出居候事。
一。筆頭行司。脇行司。都合三人代る代る罷出居。外に帳付之者弐人麻上下着罷出居候事。
一。東西え力水手桶壱つ宛出置候事。
一。東西え仕丁壱人宛罷出。相撲取え水をあたへ。且方屋之内砂をならし申候事。
右之通御座候。
   別紙
一。司之行司         吉田 追風
 但素袍烏帽子着帯剣。行司之節。唐衣四幅袴着帯剣司之行司方屋祭并開口之節は狩衣大紋着用。 尤素袍に而も相勤来候。但此度御相撲之節は素袍着仕候
一。筆頭行司
  脇行司
   但素袍烏帽子着帯剣。
一。木村庄之助以下行司都而素袍烏帽子着帯剣。
一。年寄麻上下着無刀。
一。仕丁白張着無刀。
一。相撲始り候以前。吉田追風方屋におゐて開口。
   以上
    相撲勝負
     勝
     負
     行司        見蔵
 (吉野山 (錦 野 (与佐海 (岩ヶ崎
桂 山尾上松老 松森ヶ崎
 (金 碇 (荒見崎 (安宅山 (今出川
竜ノ崎千年川桜 野和田川
 (荒 滝
角ノ森
     行司        庄太郎
 (清 川 (鳴 沢 (由良戸 (都 山
角田川鳴見川立 川朝日野
 (岩手山 (鷹ノ川 (筆ノ山 (入間野
松尾山上総野柴ノ森片男浪
 (御所島 (鳴 戸 (淀 渡 (時津風
初瀬島若ノ浦雲 林黒 雲
 (熊野川 (浜野川 (荒 沢 (香取山
戸 崎浜 風綾 川竜ヶ鼻
 (荒 海
     行司        秀五郎
 (常盤川 (千渡浜 (諏訪森 (
緑 川雲の浦袖の浦荒 馬
 (杉ノ尾 (関ノ川 (玉の井
阿曾ノ森荒 滝荒 熊
     行司        伊之助
 (伊吹山 (鈴鹿山 (伊勢浜 (真 鶴
鷲ヶ嶽岩ヶ関獅子洞簑 島
 (出水川 (友 鵆
戸田川関の戸
     行司        庄之助
 (梶ヶ浜  (錦 木 (宮城野
出羽海雷 電鷲ヶ浜
   中入後
     行司        見蔵
 (緑 山 (八汐島 (奈良山 (荒獅子
荒瀬川越 柳伊勢ノ浜柳 川
 (あけぼの (鷹ノ羽 (紅葉山 (二見山
江刺山金ヶ崎名取川三保ヶ崎
 (湊 川 (鶴ヶ岡
須磨の関増見川
     行司        庄太郎
 (加茂川 (八雲山 (神楽岡 (住の江
荒 鷲飛鳥川乱獅子外の海
 (袖ヶ浦 (広田川 (更 科 (和田海
高 尾桐ヶ崎越ノ浪秋田川
 (不破谷 (若 崎 (琴ノ浦 (通り矢
御崎川手間関室ヶ関三浦潟
 (宮戸川 (黄金山 (梶ノ尾 (甲斐関
鬼 嶽山 分荒 汐富田川
 (島ヶ崎
不破関
     行司        嘉七
 (象ヶ鼻 (岩ヶ洞 (神撫山 (松 島
広 渡立 波温湖嶽滝ノ音
 (岩ヶ根
厳 島
     行司        伊之助
 (鳴 滝 (芝 渡 (名艸山 (和田原
稲 川鬼 勝越ノ戸増見山
 (伊達関
盤井川
     行司        庄之助
 (柏 戸  (陣 幕
九紋竜西雷 電
     行司        吉田追風
 (谷 風
小野川
   〆
岩城予州留守伝聞。
谷風。小野川勝負は。最初行司合せ声もかけ不申内取結。双方之気合迄見合せ。行司合声迄懸け候処。 小野川殊外油断之様子に而。取結不申候付。其儘勝負付申候。右は任古例。相撲油断之事に付。小野川負に取計申候。右之通御坐候。以上。
  六月十一日   細川越中守内吉田善左衛門
 右之趣は。其場に而町御奉行御指図に而。御徒目付を以勝負之訳御尋有之。御答書右之通に候由。
此時谷風。小野川は横綱の角力なり。この免許と云こと。吉田氏の所授と云。免状写。
一。横綱之事
 右は谷風梶之助相撲之位に依而授与畢。以来方屋入之節迄相用可申。仍而如件。
 寛政元年十一月九日
本朝相撲之司御行司
十九代
吉田追風

《甲子夜話続編巻五十五》

この春よりか。勢州の御蔭参りと云こと。繁昌の沙汰日々に聞たるが。この冬の初めより稍々少くなりつゝ。今は言ふ人もなし。武都には及ばざりしも喜ぶべし。頃ろ一僅冊を観る。廼編す。
   観御蔭参詩并序
 按御蔭参。以慶安三年庚寅。為権輿矣宮川夜話。御蔭。猶漢言光庇也。 参者何。参謁大神宮也。蓋爾時。行客相喚。皆曰御蔭。故時人謂之御蔭参耳。其月日始末。参謁多寡。余未詳考。 厥後。及宝永二年乙酉。御蔭参極多。閏四初九。至五月念九。五十日間。凡三百六十二万人。其多之至。 一日間得二十三万人玉勝間。明和八年辛卯。復有此行。始干初夏八日。至仲秋初九而止。 其間一百二十日。参謁者。凡二百七万七千四百五十人御蔭参日記。或曰。終於八月十九日。 凡四百四十一万九千人。一日登十九万九千者。此為盛之極云神異記。此前説。則日多十日。 数過一倍。未知孰是。蓋皆宮川渡口所舟量之而挙其大数耳。其余航海。直抵大湊等埠者亦頗衆矣。今茲。文政十三年庚寅三月之末。 阿波人。首倡御蔭。泉摂和之。遂及諸州。陸続継至。於是閏三初五。両宮祠官。於祠前。始授神符。人各一枝。 其数若干万。自此漸加云。今已旬余。来賽日盛。未知其数登幾万。又至何時而止耳。建以来。 有此挙者凡四。其間相距。率六十年。殆似有定数也。一日余携児輩。登八太山。々臨孔道。路上光景。一目可殫。 来往之夥。頗為壮観矣。因録其所目撃。并所耳聞者。以作此篇。皆取諸実跡。非敢誇言云。
宇遅山神太神祠。徳輝万古照華夷。山田原頭豊受宮。恩高誰不推。 祀典自古無軒輊。称内称外類。西筑東奥南曁朔。朱門白屋尊若卑。 不択寒暑不憚遠。迭来迭去尽虔祈。今茲庚寅閏三月。阿人首倡知為誰。
注。行路相伝。阿波徳島有一童子。年甫七歳。数請謁太神宮。父母不聴。一日忽失所之。 後経数日。童子来帰。曰。児頃参宮。阿波去伊勢。百数十里。非七日間所能来往也。父母疑而不信。童子曰。信矣。 児乗白馬来往。未嘗覚疲矣。所乗馬。即繋其籬下。父母往視之。籬下有竹馬。帯着神符也。父母駭以為神之所使也。 即日起身赴伊勢。隣里郷党伝而奇之。相継而発。遂及闔国云。或云。某家有乳母。数請参宮。主人不聴。一日乳母出而不帰。 所養小児。飢而死。棺葬已畢。適乳母負児帰来。謝曰。頃私参宮。敢謝不告。主人驚且怪之。乃発児処而視之。 棺中惟有神符。不見其屍。主人以為神奇。即日起程云。嗚呼。何者奸徒。作此伎倆。不惟欺愚蒙。足以擾衆心。 非可悪甚乎。古曰。仮於鬼神時日卜筮以疑人者殺。其斯之謂歟。余因謂。自古仮神仏以惑人者。一廃一興。無時而無之。 余幼時。聞稲垣地蔵。香火頗盛。継而有岩内及相州観音。又有大蔵寺地蔵。大沢大明神寺。近有須川稲荷。 其所感動。殆及十余里。但彼皆所仮者微矣。故不久而止。今又有御蔭参。所仮尤尊矣。故其所動者亦広矣。 雖感有広狭。其本出奸民之計則一也。雖則出奸計。一旦能動人者。蓋有神賛襄之耳。不則。豈能至如是乎。
千百結伴始麕至。自此諸州競追随。或自学舎或隴畝。卒然升途糧不齎。相喚相呼称御蔭。 都人市女及村児。笠記郷貫腰佩杓。
注。行客皆戴笠。々前録神号。傍記郷名。又書御影字。 腰挟小木杓。々亦記神号及御影等字。此皆平日。行乞来拝者之所為也。人賤之曰抜参。今也不惟抜参。雖服盛装者。 亦皆傚之。未解為何故也。
一夥一団掲表旗。々々挙凡紙為幟。或剪紅帛或猩緋。各競異装駭人目。或扮猩々或虎姿。
注。村人賤客。大率剪白紙為幟。々記神号及郷名。或有截彩紙為旒者。 甚至猩緋絨為幟。幟竿黒漆。旆以貼金瓢。若貼銀弾丸等。或掲紅絹傘。或擎五彩灯。或有一火一様。打扮猩々担大酒甕来。 或有一群数十。皆服黄斑衣装猛虎形者。各自標異。競駭人目。事頗猥褻。奢麗亦甚。
蝉連魚貫来不已。一日二日々倍。富商大賈郷里豪。乞銭与酒賑飯糜。 小民亦醵銭与米。幾開粥院于中逵。又有貨郎魚估担子。又有耕牛樵馬助人疲。
注。市客担轎者。大抵身服花紬。紙緞抹胸。紅帛為褌。或有頭戴小冠。 身穿白衣。擬廟祝者。或有長袖黄帯。結仮面。作女者。或有紅褌盛妝。襲以旧繿縷者。 競作異装。華靡頗甚。官禁止之。
或茶或鞋麗不百。随分各自務恵施。
注。恵則恵矣。然非義者之恵也。何則。我於行客。猶秦之視越。彼其肥瘠。 非所嘗関也。且一簟食。一枚銭。彼得之。不以為甚喜。彼不得之。又不以為窮也。而施者寡而受之者多。則積小成大。 一家所費。遂至千万之多矣。若分之郷党。救其緩急。則感恩者深。而所以為儀又大矣。富商郷豪。不知出於此。 区々務小恵。雖情属屋烏。其不知義也亦甚矣。
一日余登旗山上。
注。旗与八太。国読相通。
下視孔道此嗟咨。西村東落笠相接。紛若群蟻慕羶移。須臾千百不暇数。綿々延々無断時。 肩摩轂繋誠非虚。衽幕袂帷不我欺。這箇山道猶如此。況復東南来往滋。
注。東指洞津。南指田丸也。此行也。行旅道於田丸者為多。八太駅次之。 若夫津府。則京畿諸州皆道于斯。則比八太亦為多。八太村西。有大仰川。杉谷某。聞之舟人。曰。頃日所渡。 雖較有増減。大抵日及三万人云。則東南二道之多。可推而知耳。
不知一道日幾万。総向山田入宇遅。郵亭村舎無容処。往々露宿満翠微。
注。近有官命。市店村家。皆許舎客。然来往之多。猶不能給。有露宿者云。
街巷填咽迷向背。或有難群泣路岐。鼠窃乗間狗偸起。拐騙児女盗行笥。乃命坊正与村長。 夙夜巡按若逐麋。房銭船貨低其価。轎夫馬隷戒姦私。
注。駅舎馬隷等。貪直頗甚。行客患之。官為定其価。榜之街巷。曰。 房銭一夜百三十二銭。惟托薪炊者。三十二銭。一轎一里。直百七十二銭。一馬一里。直二百銭。但三人累騎者。云々。 其余貨直。大率准之。官府所由及坊正里長等。分部巡按。若有犯制者。随即罰之。不敢肆赧。
或逓唐子或輿病。待客有恩坊姦威。
注。婦女離群。稚子迷途者。不勝其多。故市街村巷。為開舗司。以待之。 若有唐子。則掲其郷里姓名。以俟来索。若無索者。駅站送去。罹疾病者。亦従此例。
恩威兼行不惟我。沿路牧伯亦師々。維昔宝永明和際。来賽之盛存口碑。幼時聴作昔時話。豈料今日親見之。此挙果否称神旨。
注。赤堀俊卿曰。此挙也。奸民所為。而戻於大神之旨尤甚矣。何則。子而不告親。 民而不辞長。私廃講習。縦輟耕耨。使父母有倚門之憂。君長有失時之慮。且其拝神也。皆一時客気。殊無感戴之誠。 則神豈之乎。凡吏於土者。須早諭而禁之。原文国字頗長。今節録其意。
亦惟昭代属雍熈。雍熈已踰二百年。安寝飽食恩無涯。若夫神符降人屋。
注。神符降於東街及幸街。又降戸木村。其它往々有之。但符製与両宮所頒頗異云。 余聞之京人恵美某。曰。神符降京者亦多。所司代松平伯耆君。命官吏按之。捕得奸民数人。深譲其姦詐而赦之。 既而下令曰。爾後有神符降。即附清火而沈之水。莫敢有隠焉。嗚呼賢哉。所司公。惟此一事。亦足以窺偉政之端也。
行路又伝種々奇。
注。大森某曰。聞之兵庫人。云。吾郷有角抵某者。平日負力。不信神仏。 聞人謁伊勢。則常譏笑之。一日神符降其家。以為奸民所為。乃焚而棄之。忽身体萎縮。不得動矣。衆以為神祟。 潔斉為謝。於是漸愈。得自食飲云。松坂有売花者。一顆直五銭。旅童誤以為三銭。 既食而欠二銭。主人責而罵之。偶有一僧。為倍之。即日闔家寝病以死。部田村売醴媼。倍其直而之。 得利頗多。忽発狂疾。凡如此類。不一而足。大抵謬伝妄説。非可敢信者也。
奇談荒唐非可信。総出姦民射利為。由来神道崇正直。猶且人情騒如斯。有人儻行隠与怪。 揺天動地未可知。所以朝廷禁蛮教。朝令夕申固其宜。古人有言治慮乱。道心惟微人心危。一旦蜂起誰得禦。 触類備預莫失機。聞説辛卯年大旱。秋針枯尽田拆亀。只願今秋風雨和。邪欧窶稼若茨。 黎民長被神明沢。終身相楽脱寒飢。
文政十三年庚寅閏三月十七日
久居 春江河原田寛 撰
文政十三年庚寅御蔭参宮川渡口。所舟量之。而日報小林奉行者也。上指田丸津。下指小股津也
三月晦日
二百人閏三月朔
千人  二日上二千人程
下千人
三日六千人
五千人
四日一万六千人
一万人
五日二万三千人
三万七千人
六日二万三千人
四万二千人
七日一万三千人
四万二千人
八日一万三千人
四万六千人
九日一万六千人
三万九千人
十日一万三千人
四万二千人
十一日一万五千人
四万人
十二日一万四千人
三万八千人
十三日一万二千人
四万人
十四日一万三千人
四万二千人
十五日一万四千人
五万人
十六日一万九千人
七万五千人
十七日二万人
八万人
十八日二万千人
七万六千人
十九日二万四千人
八万五千人
廿日二万三千人
八万五千人
廿一日二万四千人
八万七千人
廿二日二万三千人
八万七千人
廿三日二万六千人
九万人
廿四日二万八千人
十万人
廿五日二万七千人
十万人
廿六日二万八千人
十二万人
廿七日二万三千人
九万八千人
廿八日一万八千人
九万三千人
廿九日一万八千人
九万八千人
凡二百二十八万千二百人
其余。遠尾三人。航海直達大湊神社。川崎而不渉宮川者頗多。不知其幾万人云。
四月中。雖較有増減。大抵与閏月同。五月六月参謁頗減。七八月又頗加。九月殆止。

夥…「夥恐顆之誤」頭書あり。

《甲子夜話続編巻五十八》

淇園詩集に。紀立山異人事と云長篇あり。左に挙ぐ。この中身生元弘時新田麾下云云の句あり。又次に城中三人与一犬の句あり。 此事太平記の文を見れば。畑六郎左衛門時能がことなり。又この時能。太平記には流矢に中て死せりと有れど。 実は然らずして落行たる者なり。迺詩句に見へたり。又この畑が落行しことは。これを計るに暦応二年の頃と覚ゆれば。 淇園が没する文化四年仲夏にして。此間四百六十九年なり。されば畑が命数。この際を以て為ても。殆ど五百歳。神僊とすべし。太平記の文併て下に列す。
   紀立山異人事
立山絶頂出雲霄。上無一毛沙迢迢。近有大阪好奇客。胆壮独往窮幽椒。当巓両株巨杉聳。杉下草舎。火未消。 似有人常為棲止。心抱猜疑。且逍遥。俄見然一老至。身躯魁岸行。 恠謂。無乃為偸窃。客進跪伏言自昭。千陳万謝始信実。中出物類崖蜜。与客充饑亦自餐。 咀嚼味甜似食栗。羲輪時已沈虞淵。山下巌峻比如櫛。是険黒固難行。盍且次宿待明日。 炉辺吹火防風寒。草蓐掩囲用情悉。中宵促坐問主人。君為神仙。将隠逸。叟道身生元弘時。新田麾下效駆馳。 勤王兵戈多反覆。東征西伐竟輿尸。心憤将星隕北地。孤城奮義拒賊師。城中三人与一犬。苦戦由己出神奇。 糧尽勢極振不得。揚言命為流箭堕。夜深決別伏剣出。一身潜匿免万危寄生唯在雲外山。行止不離榛間。 渇飲渓間飢果実。麋鹿豺狼常為斑。春花爛秋葉赤。幾千甲子往復還。此身何曾生羽翼。 峭壁絶巌不須攀。子来到此幸逢我。如他安知無神姦。名嶽之上異物紛。子行莫犯魑魅群。大坂客子謹奉教。 天明相辞下白雲。京人昔有池無名。喜探奇勝尋山行。曾在冨嶽逢此客。親聞是話畏心生。入山不敢仰山頂。 過林懼有精霊詞。嘗来斎頭談此奇。夜窓灯孤光正
太平記巻二十二   畑六郎左衛門事
去程に。京都の討手大勢にて攻下りしかば。杣山の城も被落。越前。加賀。能登。越中。若狭五箇国の間に。宮方の城一所も無りけるに。 畑六郎左衛門時能。僅に二十七人籠りたりける。鷹巣城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は。去年杣山の城より。 平泉寺へ越て衆徒を語ひ旗を挙んと被議けるが。国中宮方弱ふして。与力する衆徒も無りければ。是も同く鷹巣城へぞ引籠りける。 時能が勇力。氏政が機分。小勢なりとて閣なば。何様天下の大事に可成とて。足利尾張守高経。高上野介師重両大将として。 北陸道七ヶ国勢七千余騎を率して。鷹巣城の四辺を千百重に被囲。三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は。武蔵国の住人にて有けるが。 歳十六の時より好相撲取けるが。坂東八箇国に更に勝者無りけり。腕の力筋太して。股の村肉厚ければ。 彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して。生涯山野江海の猟漁を業として。年久く有しかば。馬に乗て悪所岩石を落す事。 恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て。千里に不疲しも。是には不過とぞ覚へたる。水練は又馮夷が道を得たれば。 驪竜頷下の珠をも自可奪。弓は養由が跡を追しかば。弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。謀巧にして人を眤。気健にして心不撓しかば。 戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事。樊周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば。彼が甥に所大夫房快舜とて。 少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて唇なる大力あり。又犬獅子と名を付たる。不思議の犬一疋有けり。 此三人の者共。闇にだになれば。或は帽子の甲にを着て。足軽に出立時もあり。大鎧に七物持時もあり。様々質を替て。 敵の向城に忍入。先件の犬を先立て。城の用心の様を伺ふに。敵の用心密て難伺隙時は。此犬一吠吠て走出。敵の寝入。夜廻も止時は。走出て主に向て尾を振て告ける間。 三人共に此犬を案内者にて屏をのり越。城の中へ打入て。叫喚で縦横無礙に切て廻りける間。数戦の敵軍驚騒て。城を被落ぬは無りけり。 夫犬は以守禦養人と云り。誠に無心禽獣も報恩酬徳の心有にや。中略されば此犬城中に忍入て。機嫌を計ける間。 三十七箇所に城を拵へ。分て逆木を引。屏を塗たる向城共。毎夜一つ二つ被打落。物具を捨て馬を失ひ。恥をかく事多ければ。 敵の強きをば不顧。御方に笑れん事を恥て。偸に兵粮を入れ。忍び忍び酒肴を送て。可然は我城を夜討になせそと。 畑を語はぬ者ぞ無りける。中略三十余箇所の向城の兵七千人。取物も不取敢。岩根を伝ひ木の根に取付て。 さしもの嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り。切岸の下にぞ着たりける。され共城には鳴を静めて。事の様を見よとて閑まり却て有けるが。 已に鹿垣程近く成ける時。畑六郎所の大夫房快舜。悪八郎。鶴沢源蔵人。長尾新左衛門。児玉五郎左衛門。五人の者共。 思々の物具に。太刀長刀の鋒を汰へ。声々に名乗て喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと油断して。そゞろに進み近づきたり。 前懸の寄手百余人。是に驚散て。互の助を得んと一所へひしひしと寄たる所を。例の悪八郎。八九尺計なる大木を脇にはさみ。 五六十人しても押はたらかしがたき大磐石を転懸たれば。其石に当る有様。輪宝の山を崩し。磊石の卵を厭すに不異。 斯る所に理を得て左右に徼し。八方を払。破ては返し。帰しては進み。散々に切廻りける間。或は討れ。或は疵を被る者不知其数。 乍去其後は弥寄手攻上る者も無て。只山を阻川を境て。向陣を遠く取のきたれば。中々兎角すべき様なし。 懸りし程に。畑つくづくと思案して。此儘にては叶まじ。珍しき戦ひ今一度して。敵を散すか散さゞるか。二つの間に天運を見んと思ければ。 我城には。大将一井兵部少輔に兵十一人を着て残し留め。又我身は宗徒の者十六人を引具して。十月廿一日の夜半に。 豊原の北に当たる伊地山に打上て。中黒の旗二流打立て。寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て。鷹巣城より勢を分て。 此へ打出たるは不思寄。豊原平泉寺の衆徒宮方と引合て。旌を挙たりと心得て。些も足をためさせじと。同二十二日の卯尅に。三千余騎にてぞ押寄られける。 寄手初の程は敵の多少を量兼て。無左右不進けるが。小勢なりけりとみて。些も無恐処。我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門。 敵外へ引へたる程は態とあり共被知ざりけるが。敵已に一二町に責寄たりける時。金筒の上に。火威の冑の敷目に拵へたるを草摺長に着下て。 同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮。熊野打の頬当に。大立揚の臑当を。脇楯の下まで引籠て。四尺三寸の太刀に。三尺六寸の長刀茎短に拳。 一つ引両に三つの笠符。馬の三頭に引懸させ。塩津黒とて。五尺三寸有ける馬にの冑懸させて。 不劣兵十六人。前後左右に相随へ。畑将軍此にあり。尾張守は何くに座すぞと呼て。大勢の中へ懸入。追廻し懸乱し。八方を払て四維に遮りしかば。 万卒忽に散じて。皆馬の足をぞ立兼たる。是を見て尾張守高経。鹿草兵庫助。旌の下にて。無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも。 あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて。魚鱗に扣へて。兵を虎韜になして取籠。一人も不漏打留よやと。透間も無ぞ被下知ける。 懸しかば三千余騎の兵共。大将の諫言に力を得て。十六騎の敵を真中にをつ取籠。余さじとこそ揉だりけれ。 大敵雖欺。畑が乗たる馬は。項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば。鎧の鼻に充落され。 蹄の下にころぶをば。首を取ては馳通り。取て返しては颯と破る。相順ふ兵も皆似るを友とする事なれば。 目に当る敵をば切て不落と云事なし。其膚不撓其目不瞬勇気に。三軍敢て当り難く見へしかば。尾張守の兵三千余騎。 東西南北に散乱して。河より向へ引退く。軍散じて後。畑帷幕の内に打帰て。其兵を集るに。五騎は被討。 九人は痛手負たりけり。其中に殊更たのみたる大夫房快舜。七所まで痛手負たりしが。其日の暮程にぞ死にける。 畑も臑当の外。小手の余り。切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば物の数とも不思けるに。障子の板の外より眉さきへ射籠られたりける白羽の矢一筋。 何と脱きけれ共。鏃更に不脱けるが。三日の間苦痛を責て。終に吠へ死にこそ失にけれ。凡此畑は悪逆無道にして。 罪障を不恐のみならず。無用なるに僧法師を殺し。仏閣社檀を焼壊ち。修善の心は露計もなく。作悪業事如山重りしかば。 勇士智謀の其芸有しか共。遂に天の為にや被罰けん。流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。

《甲子夜話続編巻六十四》

この七月。世の魂祭と云時。予も月下に心を澄しゐしに。邸外なる女児の歌謡するを聞て。予が若かりし頃ろ。 久昌夫人の語り給へることの心に浮ぶしを。書しるし侍る。
この女児の謡ふことは。世に盂歌と呼で。この時に至ればかく歌謡するなり。皆行歌なり。然るに予が少年の頃と思ひ比ぶれば。今は稍々稀になりて。この頃は。徒其時を違へざるばかり也。
右に因て。まづ行歌の文を挙ぐ。されどもこの文を観るに。昔に非る者ある乎。
   盂歌
盂々盂は今日明日ばかり。あしたはよめのしほれ草。あしたはよめのしほれ草。しほれた草をやぐらにあげて。下から見ればぼけの花。下から見ればぼけの花。
むかふに見えるは躍り子じやなひか。躍りがあらばせり合もふそ。せり合はりやひまければはぢよ。いしでもなげてけがでもすれば。てんでの親のめいわくよ。てんでの親のめいわくよ。
むかふのお山のすもとり草よ。ゑんやらやつとひけばおてがきれる。おてのきれたにやお薬りやなひか。石々菖蒲大わう根が薬。夫より外にや薬なし。夫より外にや薬なし。
むかふのお山に何やらひかる。月か星か夜ばいぼしか。月でもなひが星でもなひが。しうとめごぜの眼が光る。しうとめごぜの眼が光る。
 右四歌は。予が邸内に住む角力玉垣が母の臆せし所。この婦年六十二。
今日此夜御大儀でござる。お宿へ帰つてお休まれ。お宿へ帰つてお休まれ。お宿はどこよ。お宿はどこよ。一の丸越て。二の丸越て。三の丸あきに堀井ほつて。 井どは堀井ど釣辺は金。釣辺の竿は大和竹。大和の竹に蜻がとまつた。やれ飛べ蜻。それ飛べ蜻。飛ずば蜘が網をかける。飛ずば蜘が網をかける。
両国橋や長い。両国橋や長い。夫より長いはすいぎよう橋よ。すいぎよう橋へお船がついて。お船の中に誰々御坐る。右近様や左近様や。お中にござる紅葉様。お中にござる紅葉様。紅葉女郎はきりよふよき女郎。 きりよふよき女郎に髪ゆて進上。島田がよひかから子がよひか。島田もいやよから子もいやよ。御城ではやるおさげ髪。御城ではやるおさげ髪。さげた髪へちどりを付て。あちらむけ千鳥。こちらむけ千鳥。あら面白や花千鳥。あら面白や花千鳥。
今年の盂は目でたい盂よ。稲に穂が咲穂に穂がさいて。俄に庫が十五建つ。俄に庫が十五建つ。十五の庫に三女郎さまをなご。見よたが女子。見よたが女子。見よはぬとてもゑんじやもの。見よはぬとてもゑんじやもの。
 右三歌は。亦邸内なる医者の老婦。六十七なるが云ふ。
左の歌も亦。邸内某の老婆が記せし所。前哥の後へつづくなり。婆年八十三。
ゑんじやと思ふて腰かけたらば。大じのひめが三つにわれて。一つは京へ一つは奈良へ。一つは置てお目にかけよ。お目にもかけよが衡にかけよ。衡にかけて十三文目。衡にかけて十三文目。
 以下の三歌。老女豊野が臆す。豊野年七十二。
盂の盂の十六日に。お閻魔様へ参ろとしたら。珠数の緒がきれて鼻緒がきれて。南無釈迦如来手で拝。南無釈迦如来手で拝。
今日今夜ご大儀でござる。奥じや三味線中の間じや躍。お台所までが笛太鼓。お台所までが笛太鼓。
切子切子切子の灯籠。切子の灯籠はどなたのお細工。お若衆様のお手ざいく。お若衆様のお手ざいく。
この歌どもは。みな老輩昔よりの覚へ伝へなり。今謡ふものは半は違ふ。又増加なる有り。言多く卑し。因て爰に記せず。人の知る所なればなり。
又斯の歌を観るに。唱哥と答哥あることと覚ゆ。ことは下に云ふべし。
唱哥と謂ふは。盂々盂は今日明日ばかり。翌日はよめのしほれ草。翌日はよめのしほれ草。これ唱哥なり。答哥とは。しほれた草をやぐらに上て。下から見ればぼけの花。下から見ればぼけの花。」是れ答哥なり。
又。向ふにみへるは躍り子じやないか。躍があらばせり合もうそ。是れ唱哥なり。せり合ひはり合ひ。まければ恥と云ふ以下は。是れ答哥なり。余は推て知るべし。 此こと先年久昌夫人の語り給ひしは。我は年十六にして初て此邸に来りぬ。その前市中に住し頃は正しく盂躍を見き。是れ此時に至れば。市間にいく群も躍とて出立つ。 其体は女子の十歳を下とし。十一二三に至つて。相列て前隊とし。十四五より十七八九の者後隊として。市陌を連行す。このとき後隊先づ歌つて。
 盂々盂はけふあすばかり。と唱ふれば。前隊これに附けて。
  あしたはよめのしほれ草あしたはよめのしほれ草。と和す。かくして。他の群これを聞くときは。嘲て曰。
 しほれた草を矢倉に上て。下から見ればぼけの花。下から見ればぼけの花。と哥ふ。これ答哥たる所以。かくして。又他群を見ること有れば。迺後隊より歌て。
 向ふに見ゆるは躍子じやないか」と云へば。前隊つけて。
 躍があらばせり合もふそ」と云とき。他群哥て云ふ。
 せり合はり合負れば恥よ。石でも擲てけがでもすれば。てんでの親の迷惑よ」と云て。終に双方相接り。強き方。弱き方を押破つて通り行く。其とき揚哥して云。
 向のお山の相撲取草よ。ゑいやらやと引けばお手がきれる」と。同音声に叫ぶ。敵隊の答哥に。
 お手の絶たにや御薬やないか云云」と云て過ぐ抔。今はかゝる体なることは無きぞと。物語り給ひき。かゝるとき男子とては数隊の中一人も雑ざることなりしと。此時の風俗は。 市中女児の群行さへも正しきことにして。戦国の余波尚存し。義勇の気かゝる婦女子のうへにも見へたり。
又玉垣が祖母の言しは。己れ六七歳の頃は麻生白銀の辺に居しが。この盂躍には。誰々も盂帷子とて。伊達紋あるを染て着し。間々は袖長きも有りて。 紅き襷を掛け。六七歳より十四五ばかりの女子。手を引連れ。前には稚き者を立て。後隊には年多き者を陳ね。其中盂太鼓と云を持つ者ありて。 これを撃つつ高哥して行く。一町づゝの躍り。途中にて行逢ふときは。互に押し合ひて。弱き方手を離せば。其隊を押し脱て進み行く。その時には後隊なる女子ども放哥して。
 先立お衆のお声がひくひ。もちつと高く頼みます」と唄へば。前隊同音に声を揚て哥ひ過しと。是も亦夫人の御話と同事なり。その増略に至つては。聞者言者の委遺なりき。
右の中盂太鼓とある物は。今寺社の境内など賈店には有る也。予が少時は専ら児戯の具なりしが。盂躍と云ことも無く。これを弄ぶ者は猶更なりしが。今は又賈店にも有ること稀なり。因て末に其図を出だす。
又近来種彦と云者の著したる還魂紙料と云へるに。往々この太鼓のことを挙ぐ。
云。享保廿年の印本に。団太鼓とて。団の如くなる太鼓にて拍子とりて諷ふ。又云。延宝八年の印本に。近年いつしか止て。衣裳を改てあるく子供はなく。漸々二三人連て歩行ことにはなりし。 夫故団太鼓并云云。売あるく事も止し。又云。此製江戸に起る歟。今盂太鼓といふものは。則団太鼓なり。
予曰。この盂太鼓は。其形団扇に似たるゆゑかく呼べり。其始は申楽の小鼓。大鼓などの片皮に柄をすげてや用ひけん。其製并に其形図を見て知るべし。
   当時存する盂太鼓の図
右云云の時世を考るに。久昌夫人十六歳にて邸に来らせ給ふと云に拠ば。夫人の卒年と御齢とを以て推すに。享保十八年以上の事なり。 又玉垣の母六七歳の頃と云を以て考るに。この婦今存在すれば。六七歳は安永の四五年なり。未だ近し。然ればこの頃までも盂哥は尚盛んなりし也。是より後漸今に至ては既に絶たりと云べし享保十八年より今辛卯に至て九十九年
又盂哥の中に。
 両国橋は長い長い。夫より長いはすいぎよう橋よ」と云あり。江戸砂子に拠るに。両国橋長凡九十六間。万治年中に始てかゝる。始は大橋と云ひ。 後両国橋と云と。すいぎよう橋今詳かならず。然れども。江都に両国橋より長きは有るべからず。同書に云。永代橋長凡百十間余。元禄九年始て架。 その以前は深川の大渡しとて。船渡し也と見ゆ。又かの哥の文に拠れば。彼処舟渡しのときのことか。さすれば永代橋以前はすいぎよう橋と呼しか。 又この哥。元禄の後に起ること知るべければ。享保の前のことなるべし。
追記す。前に盂哥の近頃まで未だ盛んなりしことを云しが。又吾邸中舎婢の年六十七なるが。五十年前のこと覚へゐしにも。上野山下坂本のあたり。 本郷などにても。彼の女児の盂哥にて右に於て行争せしことありしと。因てその老婆が五十前を算すれば。天明元年に当り。其年齢十七歳なり。然れば明安の頃まではかく有ける。 予惟ふに。このことの衰へたるは。かの女児の争ひ。遂に男子に逮び。闘打喧嘩に至りしより。市尹の禁令出たるまゝ。今の如くには成りしなる当し。尚質さん乎。
又かの哥の中に。今日今夜御大儀でござる。奥じや三味線中の間じや躍。お台所まで笛太鼓と云者は。正しく証すべき者あり。是れ近古川船の様を謡へるなり。
この画者は。宮川長春なるべし。長春は正徳享保中の人と云へば。今に至て百有余年。稍古昔とす。

まづ行歌の文を挙ぐ…「此御記事。甚おもしろき事にて御坐候。懐古撫今之情不堪感念候。御文詞。例よりもよろしくとゝのひ可申上事無御坐候」頭書あり。
当時存する盂太鼓の図…今略之。
追記す…「此冊亦不可賛一字」頭書あり。
この画者は…画あるも今略之。


《甲子夜話続編巻六十七》 

《甲子夜話続編巻七十三》

予が角力某は京人。或年の帰府に搨板一紙を携上る。見るに一の大字にして。加藤清正の書と云。熟視するに。疑ひ無きに非ず。 されども亦偽とも定めがたし。其板木の持主は京都糸問屋綿与と思ふに綿屋与兵衛か云人なり。この家の祖は佐々木承禎なりと云。
 其書の再摸
見機動随
時発鬼神
無測其妙
是軍法奥義

藤原清正 印

《甲子夜話続編巻八十四》 

《甲子夜話続編巻八十六》

予が中の相撲年寄玉垣。業のことに就て。総房を経て野州へ往き帰れるとき。予に自記の小録を示す。この玉垣は摂の産にて。其業には似ず。 少く文雅を好めり。因て予が年来古の妓舞を述るを知て然する也。
 曰ふ。下総国葛飾郡古河の辺。中田村光了寺は。門徒宗にて。什物に静御前白拍子の舞衣有之。 蝦夷錦。胸に金糸にて日月の織紋あり。外に九寸五歩。手道具等品々有之。此こと白川楽翁様の御聞に入。 先年御入有之。古舞衣。片袖御所望に而。御借り請に相成り。其代として。御紋付御ふくさ二重箱。 白川少将と御しるし御奉納有之候。
この舞衣は。予も先年日光参詣のとき。この寺道傍なれば。立寄りて親く視たり。されども蝦夷錦には非ず。 薄き織もの也。縫紋のさまは。成るほど唐物とや云べき。夫より後。光了寺勧化の為迚。此品々を江都に携へ出たることありて。 其折も複視たるゆゐ。委しく図をなし紙形をも造置しが。今其所在を失ふ。他日索得ば後へに補はん。又白川少将のふくさも見たり。 是はかの言の如にして。薄紫に白紋字なりし。この余は予が日光道記の文あり。既前編に出したれど。見合のため。爰に再び挙ぐ。
寛政十一年道之記みちはやや中田に到れり。此駅のうちに光了寺といふあり。其寺の門前に静御前の旧跡としるしたる牌をたてたり。 いかなる迹にや。たちよりて覧ばやと思ひしが。速く利根川を渡らんと。この旧跡は人を留て尋させ。巳の刻ばかりにや。 栗橋の駅舎に休ふ。此時光了寺に遣たりし人返来ければ。いかにと聞に。静が帝より賜りし舞衣とてあり。 年古りて。たゞ一片の帛のみあり。羅にいろいろの糸もて紋繍たりしが。今は皆おち去て山の象。雲鶴など残れり。 又義経の与へたる物とて。長九寸も有べき。縵理にて平一面なる短刀あり。柄も鞘もなく。素鞘にこめたり。 身には金の脛巾をかく。これは昔の遣れるものにて。鞘は後のものと見ゆ。
又光了寺に板施する縁記の所云は。一年後鳥羽院の御宇に。大に旱魃し。田圃草木も枯果むとして。国民の愁大方ならず。 因て貴僧高僧を召れ。雨乞執行せさせ給へども。一滴の潤ひ無かりしかば。公卿詮議の上。一百人の舞姫を集め。 神泉苑に行幸なりて。法楽の舞を行はせ給ふ。九十九人迄舞けれども。其験し無し。終りに至りて。静已に舞はんとせし時。 忝けなくも御桟鋪の御簾の内より御衣を賜る。乃静是を着し舞ければ。雨降こと夥しかりしとぞ。是を蛙蟆竜の舞衣と号す。
 玉垣曰。中田村と古河との間に。しあん橋と云有り。静御前奥州へ下向の節。しあん致され候て。 武州葛飾郡栗橋在。伊坂村にて死去なされ候。其塚の印とて。大木の杉有り。太さ私五廻り半。凡三丈余と申すこと。
又玉垣が記せし所あり。是は不用のものながら。暫時にして古今の違あり。予が此辺を経しとかはれば。こゝに姑く写す。
 垣記す。この碑は。御郡代中川飛騨守。御代官中村八太夫手附。宍戸三蔵に命じてこゝに建つと。
この碑は。御能触山田嘉膳建つと。俗碑云に足らず。されども棄るに忍びず。
寛政道の記に。又聞く。静御前を葬し処とてあり。粟餅うる家の辺りより踏分けて。纔に入る。墓のしるしの石とては無く。 たゞ杉一樹立たり。大さ七囲ばかりも有なんと。僧の語りたると云など聞て。のこり惜く思ひたるが。中略川を左に見て行に。 爰にて聞けば。静女がしるしの杉は中田にはあらで。此ほとりに在といひたり。
又静が終りし処。諸書の所云一ならず。義経記に所載の略は。静。芳野にて義経に別れ。還て都に在りしを。 此時身なりしこと鎌倉へ聞こへ。梶原が言に依て。頼朝。静を呼下し。静。鎌倉に於て男子を生しを。 頼朝命じて由井の海へ沈めしが。静は明年都に還り。其翌年。歎の余り自ら落髪し墨染の身となりたるに。 尚も愁や増りけん。其次の年。秋の暮に身まかりしと。されば此年は何年やと考るに。文治五年なり。何を以て知る。 曰。義経記に曰。其母磯禅師が言に。静十五の年。初て義経に遇せらると。此年は。諸書の所云を推て算考するに。 元暦元年とす当し。是より六年にして静廿歳なり。この年を文治五年とす。然れば諸書の所載。静又義経の事蹟と恊ふ。 されども其没る所は。義経記は都として。諸書の所云は。多く東国のこととす。彼是一ならず。今弁ずる遑あらず。 因て諸書の所云の全文を左に聚鈔す。視者茲に依て択め。
義経記。静。鎌倉へ下ることの条禅司申けるは。静十五の年までは。多くの人々仰られしかども。 なびく心もさぶらはざりしかど。院の御幸に召具せられ参らせて。神泉苑の池にて雨の祈りの舞の時。判官に見え初められ参らせて。 堀川の御所に召され参らせしかば。たゞ仮そめの御遊のためと思ひ候ひしに。わりなき御心ざしにて。人々あまたわたらせ給ひしかども。 所々の御住居にてこそ渡らせ給しに。堀川殿に取をかれ参らせしかば。清和天皇の御末。鎌倉殿の御弟にて渡らせ給へば。 是社身に取ては面目と思ひしに。今かゝるべしとは。かねて夢にもいかで知り候べきとて。さめざめと泣ければ。 御前の人々是を聞て。鎌倉殿の御前をも憚からず。こし方より今迄の静が身の上を。おめず臆せず申たり申たり迚。各ほめ給けり。
同書。静。若宮八幡へ参詣の条さすが鎌倉殿御前にての舞なれば。面はゆく思ひけん。 舞かねてぞ休らひける。二位殿は是を御覧じて。去年の四国の波の上にてゆられ。芳野の雪にまよひ。今年は海道の長旅にて痩衰て見えたれ共。 静を見るに。我朝に女有とも知られたりとぞ仰せられける。中略白拍子の上手なれば。心も及ばぬ声色にて。 はたとあげてぞ唄ひける。上下嗚呼と感ずる声。雲に響く斗りなり。中略二位殿より御引出物種々賜はりしを。 判官殿の御祈の為に若宮別当に参りて。堀の藤次が女房もろ共に打連てぞ還りける。明くれば都にとて上り。 北白川の宿所に帰りて有れども。物をもはかばか敷も見いれず。憂かりし事の忘れ難ければ。問ひ来る人も物憂し迚。 唯思ひ入てぞ有ける。母の禅師もなぐさめかねて。いとゞ思ひ深かりけり。明暮持仏堂に引籠り。経を読て。仏の御名を唱へて有けるが。 かゝる憂世に長らへて。何かせんとや思ひけん。母にも知らせず。髪切りてそりこぼし。天竜寺の麓に草の庵を引結び。 禅師もろ共に行ひすましてぞ有ける。姿心人に勝れたり。惜しかるべき年ぞかし。十九にて様を替へ。次の年の秋の暮には。 思ひや胸に積りけん。念仏申し。往生をぞとげにけり。聞く人。貞女の志を感じけるとぞ聞へける。
○光了寺縁記に。然るに義経。頼朝卿之御中。不和となり。落人と成給ふ。静は義経の思ひ人なれば。鎌倉へ召れ。 義経の御行方を問給へども。しらざる故。御暇賜はりぬ。静其後。義経東妻に忍び居給ふよしをほの聞。御行衛を尋んと。 侍女琴柱を召連。当国下辺見と云里迄下り。往来の人々に義経の御行衛を尋ぬれば。義経は去頃。奥州高館にて空しく成給ふと語るを聞。 悲しびに堪ず。是非陸奥迄も尋行んと。心を尽されし甲斐もなければ。かくて憂世に在んより。剃髪染衣の身と成て。 御菩提を吊んと。橋を越て前橋と云里にかゝり。迷ひ来りし道の験にと。柳を結び置。爰より又都の方へと志し給ふとなり。 此所を静帰りと云。夫より利根川を越。伊坂と云里に到り給ひしに。いとゞさへ秋は悲しき習ひ成に。深き歎に沈まれて。 旅の労れや増りけん。はかなくも道の辺の草葉の露と消給ふ。琴柱。泪とともに煙となし。墓の印しに一本の杉を植置ぬ。 今に是を一本杉と云。静。今はの際まで持たりし彼舞衣。并守り本尊。義経都を出し時形見に賜はりし懐剣とを。 菩提の為に当寺に納め。今に什物となりぬ。
 小白按るに。東鑑。文治五年閏四月晦日。義経於陸奥衣川舘。与泰衡合戦。義経家人等雖相防。 悉以敗績。義経自殺。云云年三十一。此ことに拠れば。静が没る。文治五年なること知るべければ。 義経没するは初夏にして。静の死するは秋なれば。路行の人に尋聞しと云こと。かたがた由有る也。
○東鑑に拠るに。静が鶴岡の神前にして白拍子を舞しは。文治二年四月八日のこと也東鑑の文略茲。 是より同年七月廿九日。静男子を産す。頼朝命じてこれを殺す。其文に云く。
静産生男子。是予州息男也。依被待期。于今所被抑留帰洛也。而其父。奉背関東。企謀逆逐電。其子若為女子者。 早可給母。於為男子。今雖在襁褓内。争不怖畏将来哉。未熟時断命条。可宜之由治定。仍今日仰安達新三郎。 令弃由比浦。先之新三郎。御使欲請取彼赤子。静敢不出之。纒衣抱臥。叫喚及数尅之間。安達頻譴責磯禅師。 殊恐申押取赤子与御使。此事御台所御愁歎。雖被宥申之。不叶云云」静年十七。
是等。古昔の事情然るべきこと也。されども天の酬報。頼朝の子孫長からざる。実に神祖の御徳治に及ばざること。幾層なるや。
又是らに因て考れば。静が胎を受けしは。文治元年の十月なるべし。此年義経。春は屋島の戦。冬に至ては鎮西に向ひ。 吉野に匿るゝ等。奔走の際なり。静年十六。
   追記
剣巻云。関東より重て討手上洛の由聞へければ。義経五百余騎。船に乗て西海へ趣き給へ共。大風に逢つゝ。 難波の浦にさすらひ。静と云白拍子ばかりを具して。芳野山へ入。其後北陸道にかゝり。奥州まで落下り。
○東鑑文治元年十二月八日の条。
吉野執行。送静於北条殿御亭。就之為捜求予州。
同書十五日の条京都北条の飛脚申状
次予州妾出来。相尋之処。予州出都。赴西海之暁被相伴。至大物浜而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。 其夜者宿天王寺。予州自此逐電。于時約日。今一両日於当所可相待。可遣迎者也。但過約日者。速可行避云云。 相待之処送馬之間。乗之雖不知何所。経路次三箇日。到吉野山。逗留彼山五箇日。遂別離。其後更不知行方。 吾凌深山雪。希有而著蔵王堂之時。執行所虜置也。者申状如此。何様可計沙汰畢。
義経記。静。鎌倉へ下る事の条大夫判官四国へ赴き給ひし時。六人の女房達。白拍子五人。 総じて十一人の中に。殊に御心ざし深かりしは。北白川の静と云白拍子。吉野奥まで具せられたりけり。都へかへされて。 母の禅師がもとにぞ候ける。判官殿の御子を妊して。近き程に産をすべきにてありしを。六波羅に此事聞こへて。 北条殿。江間の小四郎を召て仰合られけるは。関東へ申させ給はでは叶ふまじとて。早馬を以て申されければ。下略
同条に。去るとても愚かなる子かや。姿容ちは王城に聞へたり。能は天下に隠れなし。とにかくに諸共に下らんと思ひ。 預りの武士の命をも背きて。歩行はだしにてぞ下りける。幼少より召使ひしさいはう。そのあまと申ける二人の婢もの。 年頃馴し主の名残をおしみて。なくなくつれてぞ下りける。近家も。道すがら様々にいたはつてぞ下りける。 兎角して都を出。十四日鎌倉に着たり。此由申上ければ。静を召て尋べき事有とて。大名小名をぞ召れける。 和田。畠山。宇都宮。千葉。笠居。江戸。河越を初として。其数をつくして参る。鎌倉殿には。門前に市をなして夥たゞし。 二位殿も静を御覧ぜられんとて。幔幕を引き。女房其数参り集り給けり。藤次ばかりこそ静を具して参りたれ。 鎌倉殿。静を御覧じて。優なりけり。善哉。弟の九郎だに愛せざりせばとぞ。思召ける御景色に見え給けり。 母の禅師も二人の婢者も。御前へは参りえず。門前に泣居たり。鎌倉殿是を聞召て。門前に女の声して。 さも高声になき叫ぶは何かなる者ぞと御尋有ければ。藤次承り。静が母と二人の下女にて候と申ければ。鎌倉殿。 女は苦しかるまじ。こなたへ召せとて召れけり。鎌倉殿仰られけるは。殿上人にはみせ奉らずして。など九郎にはみせけるぞ。 其上天下の敵に成参らせたる者にて有にと仰られければ。禅師申けるは。静十五の年までは以下文前に見ゆ
○予云ふ。以上の書に拠て思ふに。頼朝の静に於る。惨酷見るに忍びず。因て想ふに。是れ梶原が怨に由て義経を讒すると。頼朝の娼嫉に起るが如し。
 東鑑に拠るに。義経。梶原。逆櫓の争は。文治元年元暦二年也。改元す二月十八日とす。
○逆櫓のことは源平盛衰記に云。判官殿大物の浦にて船揃して。軍の談議有けるに。梶原景時申けるは。船に逆櫓と申者を立候ひて。 軍の自在を得るやうに為候はゞやと申けり。判官。逆櫓とは何といふ事ぞと問ひ給へば。梶原。逆櫓とは。船の舳に艫へ向けて櫓を立候。 其故は。陸地の軍は進退逸物の馬に乗て。心に任せてかゝるべき所をば駆。引べきおりは引も易き事に侍り。 船戦は。押早めつる後。押戻すはゆゝしき大事にて侍るべし。敵強らば。舳の方の櫓を以て押戻し。敵弱らば。もとの若く艫の櫓を以て押渡し侍らばやと申たりければ。 判官。軍といふは。大将軍が後にて。駆よ攻よと云ふだにも。引退くは軍兵のならひ也。況やかねて逃じたく為たらんに。 軍に勝なんやと宣へば。梶原。大将軍の策の由と申すは。身を全ふして敵を亡ぼす。前後を顧みず向ふ敵ばかりを討取んとて。 かねをしらぬをば。猪武者とてあぶなき事にて候。君はなをわかげにて。か様には仰せらるゝに社と申。判官少し色損じて。 いざとよ。猪はしらず。義経は唯敵に打勝たるぞ心地は好き。軍といふは。家を出し日より。敵に組て死なんと社存ずることなれ。 身を全ふ為んの。命を死なじと思はんには。元より軍場に出ぬには如ず。敵に組んで死するは武者の本也。 命を惜みて逃るは人ならず。されば我殿が大将軍受賜りたらん時は。逃給ふけして。百挺千挺の逆櫓をも立給へ。 義経が船には忌々しければ。逆櫓と云事聞とも聞じと宣給へば。当り近き兵ども是を聞て。一度にどつと笑ふ。 梶原。由なき事申出してけりと赤面せり。判官は。そもそも景時が義経をむかふ様に。猪にたとふる条こそ奇怪なれ。 若党ども。景時とつて引落せと宣へば。伊勢三郎。片岡八郎。武蔵坊等。判官の前へ進出て。已に取て引張るべき気色なり。 景時是を見て。軍の談議に兵共が所存を述るは常の習ひ。善き義には同じ。悪きをば捨。何にも身を全ふして。 平家を亡ぼすべき計ごとを申景時に。恥を与へんと宣へば。却て敵は鎌倉殿の御為には不忠の人や。但し年頃は。 主は一人。今日は又主の出きにける不思議さよとて。矢指くはせて判官に向ふ。子息景季。景高。景持。続て進む。 判官腹をたてゝ。太刀を取て向ふ処に。三浦義澄。判官を抱き止む。畠山重忠。梶原を抱て動かさず。土肥実平は源太を抱く。 多々良能春は平次を抱く。各申けるは。此条互に穏便ならず。倶争其詮なし。平家の漏れ聞かんも嗚呼がましし。 又鎌倉殿の聞こし召されんも。其憚り有べし。当座の興言苦しみ有べからずと申ければ。判官誠にと思ひて。 鎮まれば。梶原も勝に乗に及ばず。此意趣を結びてぞ。判官遂に梶原に弥々讒せられけれ。判官は都を出し時も申し様に。 少しも命惜しと思はむ人々は。是より上り給へ。敵に組んで死なんと思はん人々は。義経に属と宣へば。 畠山重忠。和田義盛。熊谷直実。平山季重。渋谷繁国。子息繁季。土肥真平。子息遠平。佐々木高綱。金子家忠。 伊勢義盛。渡辺昵。鎌田満政。佐藤継信。弟忠信。片岡為春。武蔵坊等。判官に付き。梶原は逆櫓の事に怨を含み。 判官に属軍せんこと面目なしと思ひければ。引別れて三河守に付て。長門国へ向ひけり讒梯
平家物語には。去程に渡辺には、東国の大名小名寄合て。抑我等船軍の様は未だ調練せず。何かゞ為んと評定す。梶原進み出て。 今度の船には逆櫓を立候はばやとぞ申す。判官逆櫓とは何んぞ。中略東国の大名。梶原に恐れて高くは笑らはね共。 目引鼻引ぎゝめきあへり。其日判官と梶原と已に同士軍せんとす。され共軍はなかりけり。同上此書。讒すべきと云文はなし。されども。人夫れこれを想へ
義経記。静。鎌倉へ下る条鎌倉殿。梶原を召て。九郎が思ふ者に。静と云白拍子。近き程に産すべき由也。 何かゞ有べきと仰られければ。景時申けるは。異朝をとぶらひ候にも。敵の子を妊して候女をば。頭を挫き骨をひしぎ。 髄を抜かるゝ程の罪科にて候なれば。若し若君にて坐し候はゞ。君の御行衛こそ覚束なく思ひ参らせ候へ。 都にて宣旨院宣を御申して社下し給へ。又讒侫由怨
義経記。上略鎌倉は是ぞ仏法の初なり。勧修坊折折ごとに。判官殿御中なをり給へと仰られければ。 安き事にて候とは申給ひけれ共。梶原平三。八ケ国の侍の諸司なりければ。景時父子が命に従ふ者。風に草木の靡く風情なれば。 鎌倉殿も御心に任せ給はず。讒深し
同書既に前に見ゆ鎌倉殿。静を御覧じて。優なりけり。善哉。弟の九郎だにも愛せざりせばとぞ思召ける御気色に見え給ける。頼朝好色。而其惨酷たるは。弟の為にするに非ずや

御入有之…「この御入有之と云は。侯退役の後。その領邑白川順視の暇を賜はりし旅中のことなり」頭書あり。
この舞衣…「舞衣。予が先年視たりしときの書留あり。云。・地色黒く見ゆる。・太麻の如きもの。・摸様高縫にてつゞれの錦の如し。・縫紋を又ぬひつけたる也」頭書あり。
私五廻り半…「・私の五廻とは。自れが手にて五囲と云意なり」頭書あり。
御郡代中川飛騨守。御代官中村八太夫手附。宍戸三蔵に命じてこゝに建つと…碑図あり。今略之。
御能触山田嘉膳建つと…これも碑図あり。今略之。
当国…「当国は。下総なり」頭書あり。
橋を…「下辺見村思案橋是也。爰にて静。とやかく案じ煩ひし故の名といへり」頭書あり。
静帰り…「当寺より三十丁程にあたり。結び柳今にあり」頭書あり。
一本杉…「木の廻り二丈余。栗橋の裏伊坂村に有。当寺より十余丁」頭書あり。
守り本尊…「阿弥陀如来」頭書あり。


《甲子夜話続編巻九十三》 

《甲子夜話続編巻九十九》

八戸侯の角力秋津風。江戸相撲をしまひ。国に下り相撲興行せんとし。数人例の如く連れて往たるに。彼の地大に凶作にて。食物なく。甚しきは餓死も有る程なり。 夫ゆゑ相撲どころでは無く。漸く頼みて廿俵の米を獲て。興行はせしが。初日の見物三十余。二日は四十に足らず。かゝれば節角所得の米も喰竭し。 為方なく同所を引払ひ。他領に移り興行し。僅に旅用は償ひ江都に返る。因て予の心計より。四十日も早く帰着せりと。
かの飢餓のゆゑを尋るに。領中金銀有りても。換ゆべき米更に無く。就ては旅舎も人を宿さず。商估は一切売買を停て。徒家居して自分々々の貯にて朝夕を送る。この上は餓ゆるを期と秋津風話れり。
又更に一層を聞けば。其前。家格になき金紋先箱。且長刀を随ゆることを望まれ。其階梯にや。黄円三万を上られし。所謂権門の入費にかゝり。もとは本国より出たる物なれば。 其の引き詰まり国にたゝり。用意の囲金も出すべしとの令にて。又皆積粟をも売散せしの翌年なれば。かゝる凶作に遭ひ。何にも操合に困り果て。斯の如き窮迫に至りしと。聞くまゝにこれを識せり。

《甲子夜話続編巻九十九》

世には理外かと思ふことあり。或時聞たるは。一婦あり。過つて縫針を足の裏に践たてたるに。深く入り半は折れて遂に出でず。 痛甚しかりしが。為ん方もなければ其まゝにして打過たるに。其後は総身の中所々疼たること数年なりしが。或とき肩上に腫物出きて疼悩む。 依て医者を頼みて。膏薬を施たれば。膿をもち。尋で口あき。膿汁出たる中に一物有り。見るに。先年足跖にたてたる折針なり。 人々驚き。当人は益々不思議を為したりと。これ足なるもの中身を廻り。終には肩上より出る。何かなる道理や。
又予が角力人の弟子に。幼年のとき銭を口に容て。遂に呑こみ腹中に入る。然るに年長るに随て其腕を見るに。 嘗て呑たりし銭。腕の皮底に朦朧たり。これを撫るに。実にその銭なりと。口より入たる者。腕の肉中に移るものか。不審なること也。
又長崎の人話る。先年のことにて。彼地の老夫肩に瘤を発せしが。日を追て大きく成りて。後は難ぎなれば。 外科に見せたるに。瘤をきり毒を去らば治すべしと云に任せ。迺ち瘤をきりたれば。瘤中より種種の魚骨夥しく出たり。 人因て其由を聞くに。この老人。若年の頃より魚物を食ふことを嗜み。毎に骨を遺さず。人皆奇とせり。然るにこの積骨体中に在て。遂に斯の疾を発せしかと。この理奈ん。

《甲子夜話三編巻三》

去年のことなりし。春の頃か公方様大納言様亀井戸天神へ成らせられ。童相撲上覧有らんと取沙汰して。予が相撲年寄玉垣に其掛りを達し有て。彼の社頭に土俵場をしつらへ何か其次第まで組立たるに。 いつしか御沙汰止てける。其時の童名付とて有しを茲に写すこの名付故ありて爰に出さず。下に弁ず。 又其頃坊間にて錦絵に搨板せしをも又移写す。
夫より年も立て。今茲の四月四日には浅草観音に御成ありて。境内にて又童相撲上覧と取沙汰す。予仮初のやうに聞ゐしが。 其後玉垣に用事ありてこと問ふ次でに。御成のときの土俵場は何にと問ふに。殊に壮麗なる由を云ふ。 予云ふ。さらば御成畢て其御場所を見ること協ふべきや。玉垣云。協ふことは諸人とも勿論なれども。 還御後は忽ち何何も取崩して。中々乱妨たり。若じ前日は終夜守番ゆゑ。夜に入て潜に立越給はゞ。 縦に巡観有らるべし。其掛りのことゆゑ彼場所は進退自由なり。因て場所より迎に参るべし。必ず来視給ふべしと云こしたり。 迺待ゐたるに。初更の頃玉垣到る。予因て微行して浅草寺に往く。夜陰のことなれば仁王門は鎖して入れず。 玉垣予め心得たることなれば左傍某社の内に駕を置き。是より徒行して伝法院の境内より御成路を経て。観音本堂の側に到るに。 闃として一人無し。是より相撲場に到れば。其構四柱天井回俵等常場と異ること無しと雖ども。荘設見つべし。 西東に青竹を以て欄とし相撲人出入の道とす。玉垣云。正日には西東の欄傍菊花を植ゆと今時節に非ざれば造り花を用ゆ。 これ内府公御幼齢上覧御吉例の故事と云。又童各頭に菊花を挿む。これも古節会の旧文に拠る抔。然れども前日の雨後ゆゑ。 土地泥濘草履を以て歩すべからず。因て窃に木履を着けり。この本堂の左側扉前にして。上覧所の前には新に高台を構へ。 廻欄降廊を設く。其下相撲場なり。下臨して上覧なり。厳重知るべし。されども夜暗黒。纔に挑灯二張を持たりしかば委曲を見るに由なく。 是より別処に赴たるに。此境は芸花の翫供に備へたるにて。草木の鉢植秋星の如く。盛観筆に尽すべからず。 一草一木の品。植る所の盂器。珍或は奇。頗る豪奢を極むと云べし。其さきに又仮山の状をなす。これ水泉に依に非ず。 平地に木石を布列て其趣を作す。松柏梅竹。其余見つべき物。皆其根を筵包して石に添ひ。怪石異巌。萍散雲合。 木に扶て佳景を成す。其数百を以て算するに尚余有り。此境を出れば。寺内奥山に在る所の比店を洒掃して観花の処とす。 所謂挿花会なり。花瓶数種。竹筒あり銅盤あり。其品の円方楕斜。見て究むべからず。亦その花形花品も筆に述がたし。 然ども皆世に謂ふ遠州流なる者也。嚮に相撲場を観しより。此に至て行歩すること思ふに一二里程なるべし。 自から覚ふ阿房の宮内に迷へるかと。迺境内を出て還る。時已に夜半に到れり。この夜は宵より雨催して。 時々降たれば。明日のほど何かゞ成んと退思たるが。暁頃より雨弥増て。 四日は御成も御延引との御沙汰なり。我が輩は天気ながら諸人の設待無になりしこと恐入て居たるが。 五日復六日に御成と聞こへたれば。予先日の余波ありて其夜再び往き見たり。然るに今夜は先夜に増り諸所の壮観益倍せり。 晴星も半を現じ山中も路途歩すべし。明旦に到ては。朝日杲々殆んど夏景の如し。因て当日は相国様亜相様御機嫌克く御成有て。 還御と聞へしは時には先だちたり。隠倫も蔭ながら説び奉る。
是より人のとり沙汰するを聞録す。
相撲名付前に所云は。去年のものにして。今失せり。こゝに所挙は。今年の名記なり
十五才若柳 繁松  大関大石 政治郎十五才
十四才東野 銀蔵関脇荒雲 金治郎十四才
十五才冨ヶ岡 仙之助小結松ノ尾 秀治郎十三才
十四才春風 倉吉前頭玉梅 舛太郎十四才
十三才草摺 繁治郎前頭若竹 権太郎十三才
十四才満月 金治郎前頭栄松 倉蔵十四才
(以下略)
又其日の取組とて玉垣示す。迺こゝに附す。其日の勝負は尚しるすべし。
   取 組
 亀の井 玉の森
絹 笠玉 緑
矢 車白 藤
名取川糸 桜
青 柳八重桜
放 駒宮 垣
亀ヶ崎花 湊
綾 車高 砂
花 霞若 松
山 桜都 鳥
若 駒勇獅子
舞 扇錦 川
春日野友千鳥
花 筏明保野
八ッ橋総 角
鶴の尾男 石
金 簾東 雲
桜 木明石潟
玉 椿小松崎
満 月栄 松
草 摺若 竹
春 風玉 梅
 是より三役
富ヶ岡松の尾
東 野荒 雲
若 柳大 石
 結
又後日に窃見とて往たるときは。山奥に上野の宮の御植木屋とて在て。其内をも玉垣導たり。 盂翫鉢植数種を陳て見つべきさま也しが。夜陰のことなれば毎に夢裡の看なりし。予が少年の頃は箇様の処は有らざりしが。これも四五十年間の桑海のみ。
又同前のとき。相撲場の別処に源水独楽うちの所迚幕打廻せしあり。こゝは空地なりし。 この源水は松井氏にして久く田原町に住で。已に先朝の御頃より御覧の沙汰は予も是迄度々聞たり。嘗て先考の召て其技を覧給ふとき。 予も傍観せり。成るほど奇態妙術委曲を尽せり。当日は亜相様此技を上覧ありたるとき。相撲御覧の後なれば定めし内旨有りてか。 童ども皆々裸体にてかの場に打集り独楽うちを見物せしと。これ御慰にも成りて。且は童どもも有難きことども也。
前日御場所を見しとき玉垣云しは。御成御延引に就て。子供下され御用意の饅頭御不用の旨迚。 二百九十とか玉垣へ下されたるが。御芳意の物ゆへ。相撲子供へ配分為る抔云しが。御成御当日は。復々五百。 仰渡し有りて下されたり。因子供へ申聞けたれば。皆々有難がり争寄て手手に拝取たれば。忽に其数竭て。 玉垣は一つも戴得ざりしと当日下されの饅頭。長棹に納。前夜半に持来る。然るに其数多ければ彼地の名主へ引渡しになる。 名主甚損失を恐れ。終夜不睡にて守りたりと
又玉垣示す。当日行司の言立なりと。其言鄙陋杜撰見つべけれど。小児の口上相応なるべし。 思ふに十三歳なる者の口上か。又は別児か。
   行司言上文
乍恐童相撲の始りは人皇五十六代清和天皇草刈童を召合。頭に花を頂。相撲を為取。御遊覧被為有。 左右より童の出し道を花道と名附たり。今日御遊覧に奉入も其朝廷之御余風にして寿御代の万々歳と奉祝詞。花合童相撲上覧に備え奉升。
又当日の勝負を示す。左に写す。相撲の手も上に記せり。
   取 組
押切亀の井 玉の森
下手投絹 笠 玉 緑
矢 車 白 藤
押切名取川 糸 桜
さばをり青 柳 八重桜
放 駒 宮 垣下手投
亀ヶ崎 花 湊押切
綾 車 高 砂はたりのそと
花 霞 若 松双方疲れ引分
山 桜 都 鳥外繋
若 駒 勇獅子押切
頭捻舞 扇 錦 川
春日野 友千鳥踏越
花 筏 明保野
八ッ橋 総 角双方疲れ引分
鶴ノ尾 男 石
金 簾 東 雲突手
桜 木 明石潟押出
玉 椿 イタミ
小松崎
引分
満 月 栄 松押切
草 摺 若 竹
春 風 玉 梅
   是より三役
押切富ヶ岡 松野尾
東 野 荒 雲突付
押出若 竹 大 石
   納
予も親く見しに。かの形屋の広さは例の場よりは狭きやうに覚ゆれば。玉垣に問ふに。 並よりは一尺余も狭かり。是に依りかの土俵も常よりは小ぶり也。小児の場なれば也と。然るに前日の雨にて初度御延引後。 俵濡て後日御成のとき不都合なりしを。前夜半に心つきて評議せしに。其日暁過までに新調せば当日の相撲行なはるべしと評定して。 空俵を求るに斯如く小形なる俵無し。因て俄に浅草近郷の農家に令て。藁を以て新に三十余の小俵を作り成し。 早朝は土俵全備せしと。この時人皆御威勢なりと称せし。
これも御威光のことか。予が予め彼の山内を潜行せしとき。山内の勧請の神祠在る中。 疱痘神の祠ありしを。亜相様いまだ御疱痘まへなれば迚。彼祠は官の御幕もて打囲み。巡行の人目に触ざる体に成したり。何れよりの指揮なるか。
人云ふ。御成のときは総御供は仁王門まで随奉り。この内は奥の御供のみなれば。 亜相様御遊行も思召すまゝなる由。又上覧に備へし物の中に。大なる水槽にめだか小魚の名数千口を放ちたる有り。 殊に御悦にて網もてすくひ給ひて御慰ありしと。
又奥山の外田原にして御放鷹ありて。亜相様御拳にて雉子二羽を獲給ひしと。 このとき相国様には。奥山の境近き高みの空店に入らせられ。御床机に御腰めされて御場の有さまを遠望なし給ひしと伝聞す。
又玉垣云。先日御成のとき御気色に応じ給ひしや。復々内府様恒之允殿同日御成有るべし。 因て暫く相撲童は放帰すまじき由内命有りしが。来る十八日抔この御成有るべき由聞ふ。
前に童相撲の口上杜撰なる旨を言しが。其数類聚国史を観るに。其事有り。然れば。玉垣拠る所ある也。 されども花道と云。挿頭のことは国史見る所なし。
清和天皇貞観三年六月廿八日辛未。天皇御前殿。観童相撲。先是近臣分頭相折。各為左右。以右大臣正二位兼行左近衛大将藤原朝臣良相。 為左方首。以大納言正三位兼行右近衛大将源朝臣定。為右方首。左右標。并楽人相撲童等。経左右仗下。入住殿前。九番相撲。云々
廿九日壬申晦。帝御南殿。観童相撲。如昨儀。
四年七月五日壬申。天皇御前殿。観童相撲。其儀一如去年。
六日癸酉。亦御同殿。観童相撲。
五年七月八日戊戌。天皇御南殿。観童相撲。
六年七月廿日甲辰。天皇御前殿。観童相撲。

錦絵…今略之。
相撲名付…番附を貼附せられたり。
四股名の太字は勝力士を示せるなり。本来斜線を以て示せるものなれども表示し難き故、斯く表示す。四股名の誤りもあれど、訂さず。


《甲子夜話三編巻五》

予が中の玉垣は。童相撲のことにて御鳥見の輩とは別て懇に申合けるゆゑ。自づと聞く間じき御前辺のことも耳に入れり。 総じて御成のときは。御行路の所は予め道造りを為すことなるを。当上様にはケ様の処は御嫌なされ。還て行難き田径畦路などを御好み御通りありゆゑ。 其思召を察問奉るに。知る者有りて曰。高位に在給ひても。治平の御時とて狼藉非常のほどは計がたければ。或は艱難なる場をも御歩行御試おかるゝとの御心なる旨。 因て泥土の中と雖ども聊か厭はせられず。然るゆゑに乎。道造り等は還て思召に応ぜざるより。今は自然と徳廟御時代の如く。道造り等は無き形に成ゆきたりと。 是ら聞奉るも。大名の輩覚悟の本たるべし。

《甲子夜話三編巻五》

嚮に四月六日。相国様。亜相様浅草寺に於て童相撲上覧のことを記す。夫より内府様。初之丞君御一同御覧有るべしとのことなりしが。 其月の廿五日に。先日の如く上覧あり。其ときの童取組。勝の手付け左の如し。
   取 組
外足亀の井 玉ノ森
絹 笠 玉 緑出投
矢 車 糸 桜
踏込名取川 白 藤
青 柳 宮 垣突手
放 駒 花 湊押切
押切亀ヶ崎 八重桜
綾 車 高 砂はたりのそく
花 霞 都 鳥首投
山 桜 若 松乗繋
行司 黄村辰之助
若 駒 錦 川外繋
春日野 勇獅子持出
舞 扇 明保野疲引分
花 筏 友千鳥上手投
持出八ッ橋 男 石
金 簾 総 角
鶴ノ尾 明石潟
行司 黄村新治郎
桜 木 小松崎押切
玉 椿 東 雲疲引分
満 月 若 竹押切
寄身悶草 摺 栄 松
春 風 松野尾投縺
   是より三役
行司 黄村辰之助
出投富ヶ岡 玉 梅
東 野 荒 雲
押切若 柳 大 石
   結
玉垣話す。初之丞君は仁愛の御質に坐すが。上覧のときもかの童を悦び給ひ。御側近く召て彼是と御言葉をも掛られ。 相撲畢て独楽上覧のときも。御側に召て見物を命ぜられ。菓子などまで賜はりしかば。素より小児のことゆゑ。 恐懼の思もなく。角力姿に羽織を着て随ひ奉り。已に奥山辺までも従ひ奉りしとぞ。是に就ては。其父母もこれを伝へ承り。 彼君の仁恵を深く銘じ。感涙して有難がりしと。一家仁なれば一国興仁とはこれ等をば申すべし。

四股名の太字は勝力士を示せるなり。本来斜線を以て示せるものなれども表示し難き故、斯く表示す。

《甲子夜話三編巻五》

頃日何か忙はしく覚ゆる中。往々耳底に留ること有れば茲に随筆す。
(中略)
又予が相撲年寄。相撲のことにて。この春大火以前より脇坂侯寺社奉行の邸に屡立入りて聞には。 其頃の模様には。八町堀松屋とか云に。法華宗祖師日蓮ならんの像有りて。諸人群聚参詣し。日時に蕃昌せしを。後はその宿所も。 寺院めきたる造作に町役人より願ひ出たるが起となり。祖師の像を質したるに。埒もなき訳なれば。早速に道場は取払ひ。 町人は其家業の営専なるべし抔奉行の沙汰有りしと。予思ふ。前にも云如く。法華の権人彼の宗を興す企なるに。かゝる祖師の質も。 権人の意に触るべき注文なり。又或入道の云けるは。竜野侯は心願ありて。かの権人が進退すると。左すれば此挙は戻るべきか。 抑外人の聞く所は皆齟齬の言のみ。又或儒生の言には。鴻臚間部侯は学才比なき方なるが。彼宗信仰にて。 実家の父最上氏の大病に。自からかの法の加持に往かれしを。最上の家臣が目撃して嘲しと。聞者は言者に如かず。一咲。
(中略)
幸崎屋と称するは。米賈の富る者なり。始め二ツ目に住しが。失火のことに坐して今は深川に住す。 この家に出入する角力人の見及びしは。近頃南部の俵米を船上せり。因て不審して。南部当年は殊に饑饉なりと聞しが。何かにして斯くやと問へば。 是れ南部米に違ふことなし。総じて南部の領地は百里にも過る処なれば。地方に就き豊凶斉しからず。故に凶里は饑すれども。 豊郷は然らず。さればこの廻俵は善処の物なりと。吾邦も管見の及ぶ所に非ず。
又朝川が塾生に。南部人二人。津軽人一人居しが。南部産両人は。同領の者なれど語言通ぜず。還て津軽生と南部人とは能く弁ず。 朝川訝がりて其故を聞けば。南部の二人は同領なれども。地方隔遠なれば自から言語も殊なり。津軽と南部は所に依りては封域を接せり。 然る故に其隣近の俗は皆然りと。是等に拠て北鄙の広沃想ふべし。是も聞くまゝに識せり。故友津軽侍従が嘗て語りしは。今に津軽の奥には。 上古の蝦夷種を存せりと。これ等政化の及ばざるも却て不窮の基なるか。

《甲子夜話三編巻八》

浪華も亦西方の一都会なり。一年角力緋威の西行に。彼地より一図を示す。覧るに梓行のものなり。外標して云く。 難波新地松野尾之図と。其庭裡林泉の景を写す。山水の奇観殆ど絶勝なるべし。ただ遠境往き見ること能はざるを歎ず。 因て茲に冊に移して人に示す。然れども彼地四天王寺の如きは。往古より屡々其処を遷すと雖ども。其霊蹟に至ては不朽に伝へん。 この松野尾の如きは。若し或は阿房の厄に遭はゞ。忽桑田と同じからん。故に風流の為に甚これを惜む。迺ち書に筆して。来世昇平の忠告とす。
  又この図摂州名所図会と照すに。難波新地の中松野尾と云を見ず。又天王寺の辺に松屋亭在て。亦林泉有り。然ども其処を殊にす。因て今疑を存してこれを記す。
又三才図会に拠れば。天王寺は東生郡。難波新地は西生郡。然るときは別処か。
難波
新地
松野尾之図
  報条
月雪花のをりをり。御筵会のためにさいつ頃より席を設け候ひしが。御意にかなひ。日々御興宴とだえなく。 庵主の幸甚これに過ず。雀躍の思ひをなし侍る。然るに座料の御斟酌にこゝろを労し奉らむと恐れ入候へば。 左の如くあからさまに定価をしるし候なり。されば李白家陸羽家ともに御かはらせなく。賑々しく御枉駕なし給はんことをあるじ梅暁。敬てねぎ奉る。
浪花なんば新地 松野尾
菊の間    金一朱鶴の間     金二朱
さつきの間  銀三匁亀の間     金二朱
池の亭    金一朱桜の間     金二朱
同かこひ    同断 但し御供部屋付
小山の亭    同断中二階     金二朱
滝の亭    金二朱 但し御とも部屋料理場御
 つかひ被成候節は金二百
 疋に御坐候
大山の芝    同断
小座敷     同断大座敷    金二百疋
亭坐しき    同断 但し御供部屋料理場御
 つかひ被成候せつは金
 三百疋に御ざ候
同かこひ   同一朱
同二かひ   同二朱大二かい   金二百疋
茶坐しき   同百疋 但し御とも部屋料理場
 御つかひ被遊候節は金
 子一両に御坐候
同かこひ   同一朱

難波新地松野尾之図…二図あり、図略之。一図は「浪華松野尾茶店之図」と題す。他図には「数畝林泉供雅興 一楼風月助懐 思古 印 印」「まつの尾の常盤の庭をみすはやな なにはの春はけしきのミかハ 観松」とあり。

《甲子夜話三編巻十一》

笹山閣老は。職に居て忠誠謹厳。人苞苴を納るれども受ずと聞しが。頃年計らず近親となりて。熟知するに。何にも世人所云の如し。又聞く。 閣老始は二男にて有ける故予も親しく覚へゐるに。閣老の父侯も野州と称して予が勤初の頃。雁班に在られ。嫡子を伯州と称し。 美少年の総角にてありしが。間もなく卒して。今の野州嫡子となる。尋で先野州は退老せられき。当野州は出勤のときより。前髪なく仕られしを。 予能く憶へおれり。さして身をも検束せず。游冶放蕩なりしとぞ。父野州の家督となると。幡然として慎重堅固の人と為なられしと又予。 故野州のことを記憶すれば略云なり。長け矮く温朴なる人にて有りし。時々閣老の勝手などにて行会ても。言少く華奢なること無き質なりしが。 其ほどは予も年若く。浮華を好たるときにて。近邸池田の隠居長閑斎が住居にて邂逅せし折から。游宴の席にて。俳優の儕相集り。杯行相交る。 其頃の御蔵奉行俳名狸腸と云し人など。人形を倶々に使ひ。人形哥舞伎の黒人も打交はり。自から為らるゝ体なり。 其ときの浄瑠璃は。二つ蝶々と云て。濡髪長五郎と称せる相撲取。勇力の所なり。斯る人なりけれど。文学を好まれて。 退老の後。春波と云坊主衆伽に出づ。予も此者は懇に出入せしが。笹山へは屡々戦国策の講釈に往など云し。彼家にて五氏大学衍義補を蔵刻せしなど。故侯好書の遺徳と云べし
又彼侯の医が肥州に話りしは。閣老家督の後も何か活気にて。飼鳥抔多く。その余にも游翫数ふべく有しかば。家臣等何かゞと念ひゐしに。奏者か寺社かの命蒙し日より。断然と絶て。夫より今の如き堅固の人と成られしとぞ。
又是は別事ながら。因に記るす。かの臣金森与左衛門野州の昵近出頭の者話りしは。笹山の城は神祖の御指図にて出来しと伝ふ。然るに方角皆宜しからず。 第一大手の門北向にして。其余も総て斯に類す。又大坂御陣のとき。合戦今少し長くならば。この城に御退坐あるべき迚。御座所等過半出来せしが。存外に大坂落去早くせしかば。御退城なく済たりと。因て今も御座所等其まゝ在りと云。

《甲子夜話三編巻十四》

この三月廿四日の事なりし。一両年も約せし京の客ありて。幸ひ花も盛りなれば。斯の日と訂めて招きたりこの客は。知恩院宮尊昭法親王の児にて。桃丸 山科 と云し人なり。家司松室近江守。其余数輩従ひ来れり。 遠来の客。殊に少年の人にして。宮の御聴にも達せしことなれば。徒に止むべきならねば。笠懸け挟物の騎射など設け。畢て花下の亭に筵し。酒肴を陳ね饗せしに。折から南の風吹立て。芳飛の賞をなし歓飲せしほどに。 近市に打鐘の声聞こへたり。火災なりと覚しくて。主客驚き其処を問はしめしに。遠方にして。南風は上風。芝辺の方患なしと答たれば。人々大に心を安んじ。愈々献酬屡にして。秉燭の後。初更を過ぎ。興未央なるに。随従促して還退に到れり。
この前臣等が言には。火所は紀侯麹坊の御館なりと。予云ふ。さらば名物の達磨門の御邸ならん。定めし御門扉も烏有となりしと。其夜は酔態安に就きたるが。翌早聞けば。今御居館なる喰違の御邸なる由。予又思ふ。先侯前大納言殿恩在職の中には。 予も勤職なりしが。吾が古先公達の御例に依て。殊に御懇遇を蒙り。屡々彼の御館への出入し。其経営をも。奥間に及んで皆視知りたれば。其結構の一時に灰燼となりしと思へば。 頓に涙を催すも又更なりきこの災の初めは。未の半刻よりにして。春秋亭の宴中なりし。夫より鎮火と覚しかりしは。時の半過て。水月軒の興裏なりき
又夫より追々聞けば。かの災は。御館の後宮長局とかより出火して。猛風に吹かれ。御殿の分残りなく焼亡し。臣舎二棟とか焚しと。風聞す。
このとき事急なれば。内宮及外殿も殊に騒動して。内宮の女婢混躁せしが。その通用門の外通路を止めたれば。蒼皇狼狽の際。火亡の女ども多かりしと。是等のことは。何つも云触らす流言にして。其実は知らず。
又かの火災所よりは。余町を隔てゝ御宝庫とか在り。周廻は練塀にて囲み。其中に建たりしが。御殿の焼亡過て。時移り。別にかの庫火を発し。悉く焚滅せしと。是等も虚説か。 若し実ならば。定めし神祖御伝への器。并に文書。南竜公の御遺物等。祝融に奪はれ去りし物多かるらんと。入らざる思に悲歎せり。 又。是より一層を上りて聞けば。其前日廿三夜のことなる由。丸の内閣老方の門扉に。何れも紙札を貼何かにしてか。独り松平防州の門には貼らず。定めし夜明に成りて。急ぎ遺せしかと。其文に曰。
          安藤祐之進内
              小塚三右衛門
          久野健之允内
              浅羽源太兵衛
              同  新太郎
           三浦将監内
              鈴木 弥太郎
              高木八右衛門
 当御屋鋪非道之御取扱に付。私共立行がたく。近近風烈之砌焼払可申者也。
 この文は。出入の下坐見源太郎。親しく視て告る所なり。又吾が留守居手代り宮川は。目の当り見たり。曾て虚説には非らず。
右のこと。実に妄語ながら。其明日かゝる烈風。御殿残りなく焼払ひしこと。其符徴とせんも可なり。若し巧とて。斯くも届くまじ。然らずんば。紙札は天魔の所為なるか。 訝し。又。我が内の角力は紀州出の者有れば。其日火災と聞くと。駆て彼邸に到り。救火の手伝せし者あり。是等が話りし趣。
紀侯御館失火の元は。奥御広鋪より出たるが。強風ゆゑ御殿へ吹かけ。竟に尽焼に逮ぶと。是より通用御門。奥御門の在る方。長舎二棟焼亡す。其他の舎は火及ばずして。鎮火す。
其とき火防の者など大勢にして。救火も届くべきを。常体の家作ならば。取崩し火先を取断て防火すべきを。大造なる営作。其うへ材木丈夫にして結構なしたれば。容易に取崩できず。これ等焼亡の助となりしと。
又御殿中は。御家中の人多勢御物を持退き。御紋つきの長棹。其外の御器。夥しく持出し。抜勲の働きなれど。急火猛風。なかなか数々の御物なれば。焚亡の御品余計なりしと見受けぬと。
このとき御家中の人言を聞くに。皆曰ふ。さてもさても斯く結構なる御作事の御殿。かゝる焼亡とは。誠に実に恐入たり迚。夫而已申合て。残念の容体なるを見及たり。
御庫は。二所焼失と聞たるが。何を御蔵有る御庫なりしは知らずと。
紀侯退き給ひし所は。彼邸中青山御殿と云ふ処なりと予も先年御園中遊覧を許されしとき。親く覧しが。徳廟未だ藩邸に在らせられしとき。住給ひし御所かと思はる。されども年歴ぬれば慥ならず
或人より又一説を聞く。かの火災のときは。長局御広鋪ばかりには無く。御殿向処々より一時に燃出たるが。多く床の下より焼いでたりと。実事なるか。抑も前の貼札よりして。附会せし流説か。
又云には。彼の御邸内に何かの仏堂あり。其堂中の床下に。常に盗棲ゐたるが。これが彼の火変を起せしと。予思ふ。是何たるゆゑか。執しめざる話也。総じて世上都下の語は。一犬吠形百犬吠声の類なり。察すべし。
    ○
又予が角力。邸隣に住む者の宅に。紀第より使の者来れるに。彼の角力が子問ふには。人離なる御宝庫の焼たるか。答に。なるほど御庫一軒火入りて燃立ちたるが。早速とり消したり。よき御物を蔵めし所にてはなし。此余御庫は焼失なしと。是等前聞と違ふ。
又老中方の門扉の貼札のことを問しに。是は知らずと答へし。成ほど是等は。大家遠方。知らざることも有るべし。
かの火災のときは。角力の子も馳つけ往たるに。夕七ツ頃より。暮頃鎮火までゐしが。御殿処々より火を発せし如くは見へず。 全く御広鋪の方より出火して。こゝ風上なれば。御殿の方風下に吹かけて。烈風ゆゑ。平推しに焼通りたる体なりと。是は目撃の言。亦前話と違ふ。
又曰。彼の前第にて言ふには。婦女の多く焼死たりしとは聞こへず。されば亦前説信じ難し。
又或人云ふ。彼火災のとき。諸人群走の際。奥向か。火鉢を踏覆し。火飛散し。この火燃揚りたりと。是等は。馳つけたる御館入りの市人話れり。

この…天保6年。
山科…割註の割註なり。
安藤・久野・三浦…「安藤。久野。三浦の三氏は。皆紀侯の老臣なり」頭書あり。


《甲子夜話三編巻十七》

江都の御城は。始め太田道灌の棲し処なりしは。世普く所知なり。然るに其頃は。御城の中に静勝軒と云し燕息の処ありし。 今も不士見御宝蔵のあたり其趾なりと。荻長は其地の御番を勤む。或とき予其地方を問ふに。これを図すこの図最も粗なり。不可観。されども知れる人の為と。其まゝを写す
(中略)
因に記す。享保十八年の頃より書伝し書に。昔昔物語と標せるあり。記して云。昔は牛込に舟入なし。万治の頃。 松平陸奥守へ仰付られ。大川より柳原通堀通し。御茶の水の下通り。吉祥寺脇通り。水戸殿前堀通し。牛込御門際迄堀貫。牛込へ舟入やうに成。 その堀あげし土を以て。小日向。小石川。築地出来。武士屋鋪と成。此築地出来ざる以前は。赤城明神より。目白不動まで住家一軒もなし。 畑ばかりにて有しが。是より武士屋敷町家も出来たる由。此時の堀割。昼夜三年にて出来す。三年の中。夜は明るまで夜中。昼は終日なり。 昼夜人足の普請止こと無之。前に云し。万治の頃松平陸奥守と有るは。所謂政宗のことかと思ふに。 其孫綱宗少将なりし藩翰譜云。万治三年。伊達が一門。并に家子郎等一同に。綱宗病に犯されて。 国務に堪ざる由を披露す。彼等望請に依て。彼嫡子亀千代丸。年纔二歳なるに国を賜ひ。綱宗籠居すべき由を仰下さる。 江戸砂子。水道橋の条に。万治年中。松平陸奥守殿鈞命をうけて。御茶の水を堀割り。浅草川に落る。これを神田川と云。」然れば綱宗の堀し所なり。 されども此川筋を堀し始めは。政宗。猷廟と対碁のとき。政宗の言し言葉により此こと前編第四巻に見ゆ。 堀穿の助役を命ぜられしと云へば。斯事の最初にして。綱宗は其躬行の放逸ゆゑ。今にて云はゞ。其科代に命ぜられしならん。 夫と云も。此頃の老臣は皆忠良なれば。科代皆御当家御為にせられしなり。見つべし。今大城の堅は。綱宗の大忠功にして。又政宗の志を継しと云べし。
又因に云ふ。予が角力の子。正しく聞て云ふ。今深川に住する商估。仙台侯の出入なる者あり。五十人扶持とか与ふ。此商の先は。綱宗助役のとき。 更に綱宗の費用を弁して。一手にして其功を遂し者なりしと。因て仙台より。今に格別の扱にして。一昨年奥羽飢饉にて。出入の諸町人へまで。 其年の加扶持を減ぜしときも。この商の手当は。聊も減ずること無かりし。蓋し旧功に酬ひらるゝ所なりと。是等もかの御堀穿に与る一事なり。 されば其頃の上下商輩までも。義気渾て一男子也已。
 又曰。かの深川の商。綱宗少将。游女高尾に邂逅せし一件に就。この商も拘ること有る由前人聞説す。 されどもこの城穿鑿のことに与らざれば。茲に贅せず。

これを図す…今略之。
享保十八年…「自享保十八年。至今天保六年。百三年」頭書あり。
吉祥寺脇通り…「吉祥寺脇云云。吉祥寺は。開山青岩和尚。太田道灌建立なり。江戸砂子云。往古は今の和田倉御門の内に在り。 五世用山和尚のとき。神田に移さる。夫より明暦三年。洞察和尚のとき。今の駒込の地に遷さる。江戸志云。 今の水道橋は。吉祥寺当時表門の橋なりし。故にかの橋を。今も吉祥寺橋と云」頭書あり。
政宗。猷廟と対碁のとき…「考るに。政宗の晩年。猷廟御盛年。台廟も御在世なり」頭書あり。


《甲子夜話三編巻十七》

天祥院殿は好客喜士。故に武功達芸の者を招致。皆遂に我が臣となる。相伝ふ。領国壱岐の産に一丈夫あり。身の長け人に過ぐ。 公因て渡良左衛門と呼ばる。渡良は壱岐の郷名なり。又今平戸薄香と云処に。此者の墓石を建つ。石高さ七尺許。 前面法号を刻せず。渡良左衛門の名姓を刻す。人言ふ。彼の男没して。其身尺を以て墓石の高さとす。蓋し公の命ずる所也。 又壱州国分村天神の境内に。渡良左衛門等身の石と云在り。其高七尺余と。されば此男の身長は七尺に過たりけん。
又此男。始は賤卒にてや有けん。和州が家の伝へは。退入殿俗称織部。退入は致仕の号。天祥公の第二子江都に於て分家の後は。 其外行には鎗を持て駕前に従たりしに。或とき途中に所謂大八車ありて横だはりたるを。邪魔なり迚。両手車を挙て道側に移したりと。其力量知るべし。
又或貴家。この大兵を聞及ばれ。召て其前に出づ。侯これに巵酒と大鰕とを賜ふ。渡良既に一升を飲む。 侯曰。能復飲乎。渡良乃又一升を傾け。大鰕の肉殻を食尽し。謝して辞せり。侯謂て壮士とす。帰て又具に天祥公に申す。公殊に悦色ありしと。
又藤邸和州居邸の私称。その故あり。今茲に略すの人伝ふ。彼蔵器に渡良が佩刀あり。柄長さ一尺五寸二歩余。 鞘は三尺九寸六歩余。中刃これに随ふ他は准じて知るべし。殊に巨刀なり迚。その刀装を細注して示せり。 予迺曰。これ渡良が刀と為んか。疑ふらくは非ならんとて。藤邸の蔵簿を覧せしめるに。果して野太刀と記して。 渡良がことに及ばず。又上邸鳥越の私邸を云にも。今平戸の旧蔵を携来れるに。又野太刀有り。 其尺け。刀装中刃に至てもこれと異ることなし。然るときは天祥院殿の時。遠く法印公の朝鮮に用ひられしを。 伝修して新に二振を造られしが。一は退入殿に与へられけんも計り難し。藤邸の刀茎には。濃州関住藤原□□兼法作とあり。 鍛冶考を閲するに。関兼法三人あり。時代上は永正。次は大永。下は永禄。且曰。子孫代々同名多しと云。然れば是法印公の用ひられし者か。 又天祥公のとき。子孫に命じて造られしか。吾が祖先と雖ども。百年上のことは。天眼に非れば測り難し。因其実を得んには。後世の畏を頼めり。
又。藤邸の老人云伝ふ。かの渡良は。退入殿の鎗夫に命ぜられ。退入君の外行には。武庫なる大刃の鎗を執て。 かの巨刀を帯し。馬脇に従ひしと。人これを望めば。退入君馬上の長と。其高さ斉しかりしと。予聞て思ふに。予が少年の頃。 雲州侯の角力。世に聞こへし釈迦嶽なる者は。身の長七尺に余れり。予この頃は身卑しかりしかば。回向院にして相撲ある毎には。 其門前の市楼に登て人行を観しに。両国橋上を渡る群行。釈迦嶽の頭。馬上の人と斉しかりし。然れば藤邸古老の話。 全く誣ならじ又退入君。この頃は中奥御番にて。御籏本の勤なりしかば。前に駕辺と云ものは誤にして。こゝに馬上と云し者正し

藤邸の刀茎…「藤邸の銘は。下の如し。されども文字朦朧分ち難し。たゞ彷彿による。上邸は。総て銘無きが如し。されども。器簿兼法の作なることを録す。銘も亦彷彿たるか」頭書あり。

《甲子夜話三編巻二十九》

戯謔のことも。書貽さざれば後の世には知れず。さてこの春の末より。予が荘の河北。浅草寺の境内に。異国船を大造して船長さ十二間余。幅三間半と云。 奇巧を尽し。種々の采飾を加へたるを。見物に出すと聞く。予窃に思ふ。此物若くは拠る所有て造るか。 されば採る所有る者かと。陽は遊観と称し。微行して往き視る。且思ふ。何に隠淪の分とて。白昼に人目をも羞ざるは。官辺をも憚らざる挙動ならんと。 予が角力の玉垣は。先年童相撲上覧のとき。内旨を蒙て。かの寺内には懇遇の者多かれば。これに命じて。其ことを計らしむ。玉垣迺彼寺の代官と云に憑て謀に。 流石は代官にて。議するには。昼分は諸人群詣其数を弁ぜず。因てこれを避んこと協はず。然れども暮鐘の時に至れば。 寺法皆人を出門せしめ。是より境内に入ることを禁ず。因て君は時の頃より。寺詣として入門し給はゞ。 昏暮に及ばゞ。常の如く門鎖べし。又戯場の者へは。某謀て其人を留め置くべし。すれば夜陰といへども。随意に観覧し給ふべし。
予因て。前に裏方の随身門より入り。又後房の女員は。表方の雷神門より入らしむ是等は。内実の誠は無くして。徒浮華評説の為に懇求す。予因て従ふ。蓋し是れ大慈大悲心。 又かねて請約せし。能役者の輩は。相倶に予に従て入る。されども時未だ晩ならず。逡巡せんよりと。山奥の茶店を求て憩ふ。 幸なる哉。この店の主は婦にして。先年戸田川と呼し角力。久しく予が荘に寓せしむ。其婦にして。予も時には面染の者なり後戸田川。生国甲州に退居す。婦も随て行く。然るに戸田川没。婦因て生里に帰て居れり。 予を見て走り進み。久闊を伸て床下に拝伏す。予も亦疎遠を以て対ふ。是より追従の人来り集り。共に日没を待つときに又一婦あり。破瓜に過ぐ。頗美なり。来曰く。妾は嘗て品川の釜半を主とす。因て時には。君公の下坐に周旋せしこと屡なり。今故有て茲に帰り。迺この近辺に住す。尊過を聞て貴眉を拝せんことを乞。戸田が婦に憑て伴はる迚。戸田が婦これを介す。予因て亦引見る。 頃は五月十五日にして。境外の眼下。曠田の緑稲敷平かに。青波連揺す。予を始め観る者皆心を悦ばしむ。然るに梅天のことなれば。細雨を催し。来往の遠人傘笠を用ゆるを見る。 予及び皆憂ふ。幸なるかな。天復霽を呈し。日猶ほ桑楡に懸る。忽ち代官来り告ぐ。曰ふ。嚮に戯場に夜に及んで観を為し給はんことを請しが。慮はず雨降て。境内の詣人悉く散ず。請ふ今来観せられば。夜ならずして縦覧を計らん。 予及び数人。傘を投じ。晴装にして皆赴く。其儕は。扈従の用人。近習等は茲に記せず。女員には。何緒年四十二。 今枝肥州の妾。四十四。榊白拍子。三十二。八百瀬肥州の傅。四十九。 今菊白拍子。三十。錫鼓。三十二。駒津白拍子。今病廃。二十五。富唄。二十六。 鎧唄。二十五。小倉鼓。十九。吉二十四。倉次笛。十五。 小菊小舞。十一。富喜笛。四十一。筆次婢。二十。千同。二十。 磯同。十五。この余に。金剛大夫が脇高安彦太郎。観世大夫座。狂言鷺権之丞。銀杏八幡別当修験行智。倶に往く。 芸花岩五郎は年二十予が僕徒と称して従ふ。夫より出行くに。代官前行し。寺の軽吏左右に分行す。予固辞せしむれども。聴かず。 夫より戯場に到るに。先づ浪華天保山の勝景とて。大なる筵屋の裡に入る。視るに。大なる人形三つ品坐す。皆漢婦なり。一は箏。一は木琴。一は小鼓を携ふ。 其奥天保の景を摸作せり。見るに足らず。聞く。常は三器合奏するなれど。今日は不意なれば為さずと。これは予め。代官。予にこの戯曲を為んことを云たれど。 予かの唐船に非ざるを以て。肯んぜず。因て然り。こゝを出て。又一大屋に入る。爰は世の謂ふ忠臣蔵の人形。初段兜名香の状より。十段夜討の状に及ぶ。 其観路回転の際。種々の造構あれども。凡俗見るに足らず。唯従扈婦女輩の観に当るのみ。終に爰を出て暫く行けば。彼の唐船の大筵屋なり。固より巨構にして。 入口の上に大像三つ立てり。一は楊貴妃。一は玄宗帝。一は顔の武服なり。思ふに禄山か。皆飾装尽せりと雖ども。共に見るに足らず。 因て其場に於て施す梓版の者あり。茲に移写して其戯の次第を弁録す。
右船。大略は図と異ならず。されども中々艦艨の造とは云難く。徒観覧の為に美巧を聚むと思はる。其次第は。まづ舳櫓の上に立てる唐人。始は喇叭を手に携へたるが。 来人を見て迺これを吹く。其声の曲節に随て手回旋す。次は船上屋ありて。図の如く男女並び坐す。唐男まづ銅鑼を撃つ。女は三弦を弾ず口上の人云ふ。所謂蛇皮線なりと。見るに胴の体鱗痕有り。 次女。腰前に小鉦羅列す。歌曲に随て撥を以て廻敲す。其音交錯文聞あり。総じて筵屋の裡に葦簾を垂れ。其内に唱哥弦鼓の者居り。偶人の舞容曲手に随て。 隠よりこれと楽奏す。次又唐人の舞躍する有り。歌曲動揺咲ふべし。この偶後に隠るゝに。忽又出現する者有り図には煙気の中に在れども。 これは描の趣なり。一婦幼児を抱く。婦最美にして手にを持ち。弄して児に視す。其愛状真の如し。児も亦覩悦の情。人を喜ばしむ。児婦遂に亦板底に没す。
図には帆を張たるが。見しときは然らずして。檣のみ立てり。黒漆高きこと丈余なるべし。昆侖奴一人あり黒身白髪。檣を攀て升る。 杪頭に到り図には。杪頭に雲形又幡の如きもの有り。予が視しときは。斯の如き物は無かりしと覚ゆ。暫く作所あり。又帆を伝ひて降り。舳頭に及んで止まる。
次は重楼の処あり。最壮麗。内に主人と覚しき者居る。思ふに玄宗帝か。玉管を引て煙を喫す。火管を伝ひて。煙気を発すること尋常吹管者の如し。奇巧なり。 船漸艫に及ばんとして。禿童子立てり。両手に銅拍子を執て拍舞。其態見つべし。忽焉として後に倒る。更て一漢婦の双手に長白布を曳く者現はる。簾内歌唱合楽す。 偶布を縦にして其躬回旋起踞し。布貌如虹。如流。如輪。如波く。自在にこれを曳く。この伎畢て亦忽隠る。是より艫頭の楼上。障子を開くに又。図煙気を描く。亦非なり。 裏に寿星在て。大さ人の如く。長頭に団扇を掩て睡る。傍人口上者。福禄御隠居様。この業日々の繁栄にて甚疲態。迺熟眠時を移すと言て。起給へ起給へと言へば。寿星稍眦解す。 其状人と異ならず。顔容生るが若し。或人云ふ。この偶中人在てこの動作を為すと。何にも誣ならじ。竟に寿星眼を開けば。口上者又曰ふ。御隠居様は婦女を好ませらる。 今見物の中。孰れの婦か善しと指給ふと云へば。寿星扇を振て。羞を含の貌を為す。予思ふ。蓋し予が見物を諷嘲するかと。従侶に聞けば。常日毎時斯の如しと。我れ笑て過ぐ。 船の艫辺柁を持する処。獣面等皆珠玉を欺て飾れり。観茲に至て終れば。戯場を出づるに。尋常の出入する。狭口窮路して入る処は。傍に見て。かの筵壁を毀て門の如くし。 我が主従爰より出づ。時に戯場を司令する者。小大悉く地に伏す。従行の者窃に云ふ。恐くは御成に劣らじ。予聞て夭言とし。戒慎恐懼。早く寺内を去り。女侶を前駆せしめ。 又随身門より出て。駕を率へ徒歩して。伴従の客と話行し。思はず酉宵に帰り。荘内に飲宴して。安に就く。
   往文有り茲に追附す
   五月十二
衡改
猶々近日浅草寺奥山世俗評判之唐船を観に参る筈に仕候。白昼は憚候条。以夜陰可到と存候。冀くは林夫子と同伴と思候が。迚も不協と思断絶す。  以告  林答可笑

梓版…「阿蘭陀誘参舩」図あり。今略之。

《甲子夜話三編巻三十三》

同氏和州の馬乗某は。嘗て鍛冶橋の御厩。曲木又六郎方へ内弟子となり。十年ほども居たり。其語るに。総じて御厩は。御馬預の住居処までも。一切官営の場ゆゑ。 何時も修復有るべき前には。予め絵図等出来て。これを御目附視て。場所一見のときは。たゞ巡行して。顧もせず。言無くして過ること通例なるを。 今の大草能州町奉行御目附なりしとき。この御厩修復見分として往しに。曲木が住所の辺に到て。間内に木工馬も有り。壁上には。 竹刀又弓など掛て有しを見てこの刀弓などは。思ふに軍御修練のとき。稽古のため用意して。時々に馬術の事に備る為めか。 その煤ぼりて無用の体なるを顧み。大草言には。古に謂ふ。太刀は鞘に弓は袋にと。実に今泰平の目出度き御代なり迚。笑過せしを。曲木も従行して慙色有りしと。 されば和州が馬乗も。大草が器量を尋常ならずと思ひたる由なるが。果て当時東都の市尹として。時々美名も世間に聞ふと。
予が相撲年寄玉垣が話る。頃米賈ども云。銭百文の米四合にては。米家難義なれば。三合五勺にして売出たくと。町奉行所へ願ひ。 度々に及べど協はず。然るを推返し願たれば。奉行の答に。さらば願のまゝに致すべし。免し迚はせず。其上は。定めし諸人も亦難義して。多勢群党し。 米家を破却乱暴に及ぶべし。其節に逮ばゞ。奉行所より迚は。一切救糾の沙汰あるまじ。其心得なるべしと有ければ。米賈恐怖して。直揚の言止しと。
 玉垣曰。御奉行の沙汰道理なり。若し米家奉行の御言を用ひず。諸人破乱の時に至らば。我が輩は弟子角力共多く率行。累米の中。二十俵三十俵を掠奪せんこと容易なり。米賈の懼れしこそ。我輩の不仕合なり迚。笑ひし。
平戸の吏。江都へ来る途にして聞しとは。浪華の酒賈。沽酒の価一合を五分ンとか。一匁とかに揚たくと願出たれば。酒の分は。 願ひ通り高価苦しからずと指図済たり。因て格別に高価に売たれば。時節窮せしゆゑ。居酒店。煮売酒家の戸々。一向に。立寄飲酒の者絶へ。還て損となり。復び直下を願ひ出たりと。当時彼地の町奉行は。跡部山城守。堀伊賀守と云。

《甲子夜話三編巻三十五》

去年甲州にて。里人一揆してもの騒ぎに就。官辺より。謂ふ穏密として。御小人目附某かの地に往たり。其人帰し後。予が角力某。かねて懇なるに因て。 ゆきて彼是と物語せし中。小目彼一揆のこと云出でゝ曰。其とき彼輩多勢うち集り。何とか云へる山中に寄籠りゐしを。捕べきに及ぶと雖ども。多勢なるうへ。人々鉈鎌などの刃物持ゐ。御代官の者共は。 素より無人なるに。兵器も具せず。敵対難ぎなる所。御代官井上が十左衛門手代。元〆某とか。村々を見巡りたるに。壮なる者どもは総て一揆に組し。其家に残りゐるは。皆老幼のみなれば。 是等を誘出し。俄に高張紙昇の類を多く造り。一揆のさまに出立て。夜陰に一揆が籠りゐる山下に到り。喊声を作したれば。一揆は聞て同気の者又来りしと心得。 数人山下へ出来れるを。御代官の者共。其人を一揆が後へ廻し。数人を捕へたり。此とき一揆思ふは。喊声を作せし数人も。今は疑て寄合かね。遅々の中。斯く多く捕れたり。 因て手代より詰問するは。一揆ども農具なれども。皆々刃物を持ゐる体は。我人数へ手向する志やと云へば。答に。然らず。 実は飢に迫りて斯くの如き体なれば。曾て御代官へ手向の心なしと云を聞きて。さらば大勢の者穏に為さば。夫々に飢ざる御手当を下さるべし。 就ては捕へしも皆免すべし迚。縄を解き。且言ふ。手向ひの心なしと云へども。其証なし。因て人々持ゐる刃物の類は速に出すべしと。懇諭して。もとの山中に放ちたれば。 其信義にや感ぜし。一揆ばら言合はせしと覚しく。其後鉈鎌の類を数十束として携来る。御代官方これを取収め。 是より御代官の人数を以て。三百人余めし捕へ。一時に入牢せしめたり。是この手代一人。僅の小策に依て。小勢を以て多人を獲たること。 手柄抜んでたり迚。小目帰府のうへ。上達は為し置たり。この小目の外にも間牒は諸々より出たれば。還らば皆向々より達し出づべし。 さらば其手代は。特進にも及ばんかと。小目角力に話ると。

去年…天保8年。

《甲子夜話三編巻四十》坂賊聞記 乾

左の云云。又某の所示。迺移写す。此間は。浪華の記事霏々として案頭に集る。筆謄即行。
 (中略)
  大坂加番土井能登守殿家来医師雨宮宗寿方より。御目見医師兄方え之状
上略扠此度大坂表之珍事。定而御地に而も風評可仕。誠に不慮之大変に而御座候。 先荒増未虚実分り不申候。当十九日朝五半時頃。天満天神裏之方に出火御坐候趣に而煙見へ候処。次第に強く相成。 四ツ時頃に相成候処。御鉄炮奉行御用之趣に而。山里御多門に御坐候御鉄炮百五十挺。火縄玉薬共御出候に付。 何事歟出来候哉と奉存候処。前夜跡部山城守殿屋敷え町与力之内大塩平八郎と申者忍入。跡部之御子息を殺候由。 尤五人斗忍入候趣に御坐候。乍去山城守殿には別条無之。夫より奉行屋敷に而は用心致候趣。尤前方より少少知居候事と相見。 両町奉行与力同心。火事羽織に而早朝より天満橋を往来致候由。其内右大塩平八郎。自分屋敷隣家与力屋敷へ火を懸。 百姓共を集め騒動に及び候。尤前日百姓には施行を致候間。明十九日には桜の宮と申所え参候様申聞置而。 参候節俄に一味可致噺有之。同類は町与力五騎。同心十人程。其外浪人者。角力も有之由。右火を付候後は。 車仕掛火矢に而市中一面に焼立候。少に而も火辺え寄候者有之候は。鉄炮に而打留候間。近辺え寄候事出来不申。 焼次第に御坐候間。八時頃には一面之大火に相成候。右に付。両町奉行は不申及。御城代よりも人数出。双方より大筒小筒に而打合候間。 鉄炮之響夥敷。御城内えは一面黒煙掛り。大手口。京橋口。玉造り口共柵を結廻し。人数を出し。鉄炮。切火縄。 鎗は鞘を除き。御本丸よりは具足を出し。只今合戦初り候勢に御坐候。此方様に而も弓。鉄炮。長柄等取調。 御持場極楽橋之上は土俵を組。大筒を仕掛。敵を待居候勢ひに御坐候。火事は弥火勢強。翌廿日。右同断。 尤廿日暁。尼崎。高槻より人数出張仕。大手前え陣取申候。右之次第に候間。私事も初而具足と申物を掛申候。 廿日夕方。此方様に而も京橋御定番替り被仰付。京橋を御固に相成候に付。御本丸より御貸具足三十領出。 皆々具足之上へ火事羽織着申候。御曲輪外に而は鉄炮之音不止。実に大変に御坐候。漸々廿一日暁七時鎮火致し。 六時頃には山里丸え引取申候。廿日昼頃跡部殿屋敷へ盗五人斗切込候由。未だ賊の在家はしれ不申候。同日夕方。 火勢少々衰へ候処。内本町え炮烙火矢打込。夫より又々大火に相成候。賊兵今朝は守口と申所へ引取候趣に御坐候。 風説まちまちに而。訳は分り不申候得共。兎角跡部殿を敵取様子に承り候。二日二夜少も眠り不申。飯も大結びに而。 誠に兵粮とに御座候。今日は御小屋へ引取。少休足致候に付認候間。乱筆不文御免可被下候。又跡より委細可申上。 先は無難に御坐候間。御案事被下間敷候。猶後便可申上候。恐惶謹言。
  二月廿一日昼過認    雨森宗寿
   雨森宗益様参人々御中

《甲子夜話三編巻四十三》坂賊聞記 追加

予が角力玉垣は。もと浪華の産。其甥。かの乱後。彼地より都下に来れるが。話る。 塩賊乱暴のとき。大阪富豪の町人は。何れも手ひどき目に遭し中。天王寺寺屋五兵衛は。其時店に五万両なるか出し置しを。 棒火矢を打込まれたれば。逃去るとき金子持退こと能はず。其まゝ弃置たるが。三万両は火に焚。二万金は何者か奪行しか。 盗も半。思はぬ幸に値しも半ばなるかと。此余に富家の庫をば炮火せし中。持伝へし名器珍宝の類。数多焼亡に及びしと。風聞す。 又焼亡の刻。賊徒大勢来云ふ。人は退くべしと云て。逐立つゝ。逃後に焼火せしゆゑ。怪我横死の者は絶て無かりし。 されば平八は義賊仁盗と目べきか。

《甲子夜話三編巻四十三》坂賊聞記 追加

亦忠行の子上る。曰。父病間なるときこれを写す。既に病なるに及で筆すること能はず。 某をして代書せしむと。視るに。半は其子の書する所。予悲涙。茲に写して其志を達す。
 これ亦加番井伊侯の臣。次で贈る所の状なり。
一。先便申上候一揆之儀。残党追々被召捕候。頭取大塩行衛未相知不申由。
一。騒動之節御固之御人数荒増左之通。
吹田村へ伊予松山御人数
手塚山へ岸和田御出馬
守口へ御代官根本善右衛門様御出張
西ノ宮へ薩州様御人数
鴫野
平野
京橋玉造御組
西町奉行前高松御人数
一。徒党之面々荒増左之通
頭取
東町奉行
跡部様御組与力
大塩平八郎
養子同 格之助
十八日夜宿番之処。事露顕に付。
小泉円之助一同跡部様御寝所へ忍
入。討留損じ。迯出大塩に告候由。
くらがり峠に而首縊相果候由。
同組瀬田済之助
十八日夜済之助一同宿番之処。御
寝所え忍入候処。御用人之忰に
被討相果候。
小泉円之助
渡辺良左衛門
庄司義左衛門
御弓方上田五兵衛様
御組小頭
竹上万太郎
玉造与力大井伝次兵衛次男
守口名主
角力取綾   川
淡路丁医師
継父藤井清吾
藤井鎌助
東御組渡辺梶五郎
右之外。百弐三十人有之と申事候得共不詳候。
一。大塩平八郎召捕候者は。為御称美銀百枚。米弐百俵可被下旨。御触有之候由。
一。右徒党之内。藤井鎌助は六歳之時より大塩に被養。当年十四歳に相成候。十九日にも鎖帷子を着し。岩城升屋前迄附参候処。味方に死人多出来。 おそろしく相成。鎖帷子をぬぎ下水之中へ隠。其後継父清吾方へ参候処。同所にも難差置。御堂辺之親類方へ遣し候得共。是にも差置がたく。近在へ遣し置候処。被召捕候由。
右之外にも種々風説記置候得共。事長く今便差上兼候。重便入御覧可申候。
   三月朔日

忠行…吉川忠行。
御固…「この固め云云。前記未だ無き所」頭書あり。
伊予松山…「松平隠岐守」頭書あり。
岸和田…「岡部内膳正」頭書あり。
高松…「松平讃岐守」頭書あり。
吹田村へ~高松御人数…「是等皆。大坂にて藩邸の近処。又領邑の近き処なり」頭書あり。
御用人…「この用人と云は。増上寺中。予が宿坊雲晴院の檀家にて。跡部も亦彼院に縁ある家ゆゑ。かの用人より云越。雲晴院よりく聞たり」頭書あり。
綾川…「左右の曰。この綾川と云は。近頃まで。予が角力玉垣が家に来て。修行相撲したる者と云ふ。然るを今聞けば。由なきことに与して。其終を汚せしは。憐むべきこと也」頭書あり。


《甲子夜話三編巻四十三》坂賊聞記 追加

○前に忠行が病間に得たる書の。加番侯来状の中。角力綾川が賊に与して自尽のことを記す。予因て頭書して其終を憐みしが。其後玉垣に。云含ること有て晤語せし中。この綾川のことに及ぶ。 垣云ふ。綾川曾て死せず。予曰。奈ん。垣云ふ。この者常に狡気。其日は出火と聞て。識る人も有れば。かの与力町を指て行しが。半塗にして賊輩に逢ふ。 もとより識人なれば。此車炮台の車を挽くれよと云。綾川後難を憚つて。一旦は否みたれども。若異義に及ばゞ。討たるべき体なれば。 止ことを得ず輓て赴きたれど。行先懼しく覚へて。半途に大漕ある処に逃入り。形を慝し脱れぬ。夫より身処を憂へゐしが。或る角力年寄名忘る云には。 素より賊と約束せし者にも非ず。因て身を潜めば。却て後患免れがたし。如し有体に名乗出でば。然らば難有るまじと告て。 其如く為たれば。今は世に狭からぬ者にて候ひぬと云き。さればもと大坂の来書と云へども。この如き小事は。誤伝を免れず。

《甲子夜話三編巻四十三》坂賊聞記 追加

前に角力綾川がことを云しが。この咄には。綾川火事と聞くと。其処へ向ひ行きたりしが。賊乱と覚しければ。 引返して天満の焼くるを見。彼社に有る。八十貫目ある名代の大鈴を。力自慢に脊負て退んと為しを。又火処が見たくなりて。行しに。 賊の識人に見つけられ。やれやれ綾川とて。旗を持せられたるゆゑ。大鈴を負ながら旗を持て随ひたるが。兎角にきみわるく成りて。 遂に半塗より逃隠れたりと。

《甲子夜話三編巻四十九》

伊勢音頭と云は。世に名高く聞こえたり。先年予が角力緋威。彼地へ往てこの躍を観。且唄を聞しことを語りしが。 今に記臆したれば茲に書きあらはす。彼地古市と云所の娼家は。坐鋪に上り。酒肴を陳ね。坐客歓談飲宴する中。 其居所上へ揚ると覚ゆれば。迺台の如し。然すれば婦女小大相雑り。唱歌に随て帷中より連り出づ。出れば環行して其坐台を繞り。 暫くにして復帷に入る。これ所謂伊勢音頭にして。其唱歌の如きは未知らざりしが。当年善筑が遊行せし土産とて。 種品を贈れる中かの唱歌あり。因て茲に記す古市。娼家数軒在り。因て唱歌の如き家毎にして一ならず。然れば家毎の音頭に因て連舞すと。人其意をなすべし
   伊勢音頭
いせ古市 かしはや安左衛門
  松風むら雨
たびすがた。坊主ももとはひげをとこ。仏ももとはゑびをりに。むかしおとこのゆきひらの。松にあんぎやをゆきくれて。 木のしたかげをやどゝせば。こよひのあるじまつかぜと。よ所に聞ても袖ぬらす。そのむら雨のふりあはせ。
たしやうのえんとかんきむの。おひをいほりにすまのうら。一夜ねざめの浪まくら。うつゝか夢かあらはれて。 なだのしほくむなだのしほくむうき身ぞと。みれば月こそ桶にあれ。つきはひとつ。かげはふたりのうつくしさ。 ぞつとみにしむしほがまに。のどかわかせて旅僧も。かたづをのんで松島や。をじまのあまの袖ならで。これはまつ風むら雨か。
しほやきころも色かへて。かとりのきぬのうら見ても。かへらぬむかしなつかしき。ゆき平の中納言。三とせはこゝにすまの浦。 都のぼりのかたみとて。御立えぼしかりぎぬも。うすきちぎりとおもはれて。是を見るたびにいやましの。おもひ草。わすれ艸にもかたみこそ。 いまはあだなれこれなくば。忘るゝひまもありなんと。うたにもよみつしほくみの。ふかきおもひのものぐるひ。あれあれあれに我おもふ。御立すがた若みどり。
いやとよそれはそらめぞや。あれは松にてありはらの。その人にしてはなきものを。
うたての人のいひごとや。松こそ恋よ待人よ。まつがこひならまつかさも。すてゝもおかれずとればまた。かづくひぢ笠たちわかれ。
帰こんとのことの葉の。いろはかへねどよそに吹。それはいなばの遠山松。これはなつかし君こゝに。すまの浦わのまつの雪。
ひらさらとまらんせ。よその娘とほかの女郎衆と。あほうらし。なんじやいな。我は木かげにはら立なみの。そなれ松なつかしや。
松に吹くる夜あらしに。ゆめはやぶれてたびごろも。むら雨とぬれしもけさ見れば。松風ばかりぞのこりける。千代よろづよもへ。
古市 すぎもとや彦十郎菊寿楼
  きくのことぶき
神風の。いせのふるいちふるごとの。そのやま水をいまこゝに。汲てぞしるき菊の酒。
飲めばときめき気もうかれ。さいつおさへつさかづきの。数も八重ぎくやへかさなれば。しどけなりふりみだれぎく。裾の紅粉ぎくほらほらと。
はぎの国ぎくあらはになれど。仙家の客はよそにのみ。見てややみなむ床入は。しばしいは戸の恋のやみ。
はやせやはやせ笛太鼓。つゞみがたけの鶴の声。ひく三味せんや琴箱の。ふた見とけさはわかれても。 夕べはまたもあふむ石。いとしといへばいとしと答ふ。ながれの身にし五十鈴川。
清きこゝろのまことつく。寝やのむつごといひ過て。唇さむし秋の風。あちらむいたるかた葉のあしの。 ぴんとすねては見すれども。中なほりすりや浜荻の。はまの真砂のつきせぬえにし。ふたつ枕のいなおふせ鳥。 屏風のうちはなにごとの。おはしますかはしらねども。ありがたさには万年の。
後ちのいのちは君次第。しやらりくらりの千早振。神のかしこきめぐみをとめて。いつまできくの宿ぞひさしき。
  四季寿
あさみどり。はなもひとつにかすみつる。おぼろに見ゆる春の夜の。
月にうたふや常盤なる。まつといは根にむすこけの。よろづをかけしふぢなみの。うつろふはなにはるくれて。夏来にけらし白たへや。卯の花ごろもふりはへて。
袖が香したふはな橘の。そのいにしへをしのび寐の。夢におどろくほとゝぎす。月のかつらのはなになく。げにおもしろのけしきやな。
ながめはへある秋の野に。ちとせをすだくまつむしの。こゑになびけるおみなへし。われおちにきとよみおきし。かの僧正のたはぶれも。
むべ山風にうつりゆく。雲のはたてもさだめなき。しぐれふりつゝさをやまの。正木のかづらいろまさる。栄えをこゝにとしつもる。
ゆきのしらゆふかけまくも。かしこき御代にすむぞうれしき。
古市 あふぎや
  はなあふぎ
たそがれに。それかとぞ見るしら露の。ひかりそへたるゆふがほの。はなをむすびしひあふぎに。こひのつなでをなひまぜし。
そのすき人の手にふるゝ。つまくれなゐのあらそひも。さわらぬなかのやなぎさへ。そよとうはきの吹くれば。
ともにいろどる紅梅の。みなくれなゐに猩々の。乱れしあともとりなほす。こゝろのかなめしつかりと。さますあふぎのはしならば。
わたすそなたもまつよひの。月夜のかまもしんばうは。あふぎがやつの戸ざしゝて。まだあけやらぬくだかけの。 こゑもとがむるてんちゆうの。あふぎはきつとかどたちし。すみまへがみのおりめよき。てがらをなすのよ市とも。 さとに日のでのひのまるの。あふぎもすぐにまひのての。さしひきはよき観世水。すいな模様にてふとりの。
かろきてくだはうすゞみの。くさもはれゆくすゞ風に。もとのしらぢのおとなしき。ゆるがぬまつの若みどり。 ごくさいしきの鶴と亀。はでをゑがきておやぼねに。見するにしきのうちかけは。かはらぬいろのへ。
古市 備前屋小三郎
  さくら襖
さくらばな。たがゑがくにもさかりとは。いひあはさねど人ごゝろ。うつりやすさよ世の中の。こひはつぼみのひらくまで。はつとうき名をながしては。 きよくすいむすぶ谷かげに。ちりもはじめぬ一木には。たれもめをやるまくのうち。てうしのたかい三味せんに。ざとうはちるをまちがほに。うぐひすなけばほゝゑみて。ふりそで口にあでやかな。
かざり車や御所車。御むろあたりの夕暮に。はなのかほ見るたのしみも。かづきひとへにせきの戸に。人めなければ一えだは。手をるこゝろをいだかれて。 えんをむすぶの短に。風一吹のちりぎはを。とよむはやまのわらびども。げにや名におふあらし山。 あからめなせそあさぼらけ。明はなしたるつぎの間は。さかのをかよふ人かすむ。こずゑにかゝる一すぢの。かすみはふでをかすらせて。
そらいろうつる大堰川。あをきはきよき水のいろ。しろきは滝の清水や。北野まうでの沓のおと。たちもつちごのたはむれに。
くらまの山のふこおろし。はるかこちらはむらさきの。まくうちはへてがくのおと。花もきゝ入ふぜいにて。
一日かさのもりをして。ひとりしづかに寺のゑん。へりとりかりてうしろ手に。つくづくおもひめぐらせば。ゑそらごとにも花咲て。みもある御代のへ。
行本伊勢参宮名所図会に載し図頭書
 古市
昔の市場也。今諸国に三日市四日市八日市などいひて。其日をきわめて市をなせし名の残りたる也。市は近国近郷の商人の集る所なれば。其市とさす所。必遊女ありて旅人の愛を慰す。是湊船着などに同じ。
扠此古市も間の山の内にて。前条にいひしごとく間の山の節をうたひしものなるに。物あはれなる節なる故いつの頃よりかうつりて川崎音頭流行して。是を伊勢音頭と称し。都鄙ともに華巷のうたひ物とは成たれども。此地の調は普通に越たり。是神都風土に協ひ侍るものか。尤いにしへの文義は甚雅也。今も年々新作を出せり。
   伊勢おんどはめづらしき事。始めて委しく見申候。珍々重々。以上。   六 十九

図…今略之。

《甲子夜話三編巻五十五》阪乱聞蘇 乙

○前に記せし賊が幼子。弓太郎がことを。近頃大阪より還し角力に聞けば。これに附置く乳母は。官よりの手当なるが。堪かねて月に一両人も替ると云。 さも有る当きこと也。又幼穉の者ゆゑ。牢内ばかりも居かぬるゆゑ。届て時としては牢外へつれ行て。処々を徘徊する中。人或は。其宅は何処ぞと問へば。 牢を指さして。彼処なりと答ふ。人聞て悽愴すと。
予が角力錦は。かの刑行の時は大阪に居て。罪人の刑場に赴を見たりと聞けば。何にと問ふに。一人は万太郎とか云て。江都に於て吟味詰にて下されし者。 一人は大塩が若党にて。是は大坂限の吟味にて。久しく入牢して在しゆゑ。所謂牢名主と云に成て。肥ふとり。髪も長くなり。前髪まで有りしを。 是は引廻しの上。獄内にて打首と聞けり。却て万太郎は。労苦せしか。痩衰て見へし。是は同前のうへ磔罪と云。予其場に往しやと聞けば。某は殊に嫌なれば往かずと。 又大塩以下。塩漬の死体は何にと聞けば。何れが平八かも分ち難く有しが。皆塩詰の枯骸を早桶の中に入れて。腰より上見ゆる如くして。棒を以て二人して荷ぎ行たりと。 死して後も斯の如き辱を曝すこと。誠に大逆の天報なる哉。

《甲子夜話三編巻五十五》阪乱聞蘇 乙

右の宴中。口々に種々のことを云し中。耳底に存したるを書つく。塩賊が逃去し焼跡を人見るに。園樹は勿論。庭石までも残なく売払たる由にて。無し。 是は貧民に施せし者と云。前に書籍を売て。其価を頒ち与へしと云と同じ。所謂管仲が器小哉にて。民をも救はず。死をも守らず。道を善せず。遂に不義の名を取る。愚に非ずんば。抑又痴歟。
又。天満の神廟に火箭黒玉と成て墜たりしことを前記す。今聞けば。此ときは。炮に火箭を容れず。火薬のみにて発たりと。予思ふ。 平賊が意奈んぞや。筒先を向るさへ憚恐るべきに。火薬ばかりを発し。火箭を設ざるは。神を敬する心か。将人を欺く為か。発して黒玉と成しは。賊業又。神威とも謂べし。 徒に火薬のみを以て。筒先を御廟に向けしは。敬畏なるや。又偽嚇とするか。愚者の心中測難し。
前に記したる大坂の角力綾川。賊に与したるは非なる由なるが。彼是と人云ふ中に。綾川火事と聞て其処に向ひ行けるに。 大塩が者ども行値。件のことを告て与せよと云はれ。綾川も後難を恐れたるが。退れず。斯為うちに。賊戴たる陣笠をぬぎ。 勢に乗じ酒をこれに注盈て綾川にさす。綾川辞すること能はず一盃を尽したるに。賊大炮を挽べしと令して。 綾川迺挽行たれば。富商鴻池庄兵衛が屋前にてこれを発せ使むるに。銃煙四方に満。殆んど街路を弁ぜず。綾川其隙に脱去りしと。
又乱鎮し後。街中に首なき死骸あり。其体殊に大なり。人以綾川とせり。然れども綾川恙なければ。死骸は高槻浪人の炮手ならんと。
又。綾川騒乱の間に。跡部が部下より捕へられ吟味に遭ふ。曰。何んして賊勢に加はる。綾川答ふ。火事と聞て赴しが。図らず賊勢に加へらる。 部下曰。さらば奚ぞ逃去らざる。綾曰。今聞けば大塩が叛逆なりと。即去らんとして斯捕はる。部下曰。然らば汝野心なきか。綾誓て曰。曾て無し。乃免るゝことを得たりと。

右の宴中…前々項に「或宅宴席の話に」とあり。

《甲子夜話三編巻五十八》

予或とき。少く求むべきこと有て。今の祭酒に林氏。吾が俗首引と云戯をなす。漢土には有やと問へば。答に。彼土の書には抜河と云て。多く綱引きなり。 されども首引も見る所ありとて。鈔示す。
留青日札云。抜河之戯。今小児両頭索而対輓之。力強者。牽弱者而仆。則以為勝負。これ正しく首引なり唐封演聞見録。抜河。古謂之牽鉤。 襄漢風俗。常以正月望日為之。相伝。楚将伐呉。以為教戦。古用纜。今民則以大麻長四五十丈。両頭繋小索数百条挂於前。分二朋両勾斉挽。 当大之中立大旗為界。震鼓叫口。便相牽引。以却者為輸。名曰抜河。是は綱引なり。尚ほ下に云ふ
景竜文舘記。清明中宗幸梨園。命侍臣為抜河之戯。
近く天保九年に板行ありし東都歳時記に。江都の郊外。千住にもこの抜河ありしことを載す。迺其図を写出す。されば漢土のみに非ず。邇く都下にも有しを知るべし。 されども漢土聞見録に載しは。大騒なることと見へたり。又中宗清明の戯は。綱引か首引か。種々の戯と覚ぼゆ。
歳時記。
千住大橋綱曳。今はなし。小柄原天王の祭礼によつて。橋の南北にて大綱をひきあひ。其年の吉凶を占ひけるが。やゝもすれば闘諍に及びしゆへ。両村云あはせて此事を止けるとぞ。

図…今略之。「六月九日 千住大橋 綱曳」とあり。

《甲子夜話三編巻六十》

角力人は。諸国を周行すること常なり。因て処々の都鄙を経て。哂話半なり。或とき予が角力。間談の中答へしこと有り。可笑ければ左にとゞむ。
  諸国売女の方言
●下総舟橋・八兵衛●武州川越・這込
●中仙道桶川宿熊谷宿・から尻●上野高崎・おしくら
●上野妙義・からさし●下総銚子・提重
●相州小田原・獏当時飯盛トナル・金蒔絵。銀蒔絵蓋。一歩二朱の別を謂なり
●信濃松本諏訪・針箱●同国飯田・二百蔵
●越前敦賀・干瓢●越中富山・紅蕈
●越後糸魚川・二百三文   高田・さわり
   長岡・鼈・おは女   柏崎・のゝ子
   出雲崎・鍋   三条・土台石
   寺泊・手枕   新潟・かしるり・ごけとも云
   新発田・蛮瓜●加賀金沢・当しやう
●能登七々尾・二八●佐渡・水銀
●出羽庄内坂田・おこも・のれん・なべ
   米沢・半棒おけさとも云●同国秋田・菜葉
●陸奥会津・印札●同国津軽・けんぼう・さんぶつ
●同国松前・がのじ●同国南部・おしやらく
●房州小湊舟方・おてんげん・うし又伊豆相摸両国とも・うしと云
●尾張名古屋・百花●伊勢路・おじやれ
●勢州鳥羽・はしかね   櫛田・出女房
●近江彦根・そうぶつ   八幡・畑菜
●丹後宮津・糸繰●因幡米子・綿繰

《甲子夜話三編巻六十六》

安永の頃なりし。釈迦嶽雲右衛門と呼し角力人あり。出雲の産総角。 松江侯の相撲なり。此男。長け殊に高くして。尋常に越たり。予其頃は。年少にして身卑しかりければ。 回向院境内相撲興行あれば。度々往て見物す。其とき。かの門前なる茶店の楼上より観るに。釈迦。その場より還るさ両国橋を渡る。 ときに橋の渡人。郡行頭を斉ふす。釈迦独り。其腹数頭の上に出て。恰も乗馬の人の如し。又。予嘗て久昌夫人に随て。 豆相の辺温泉の場に往しとき。帰路小田原駅に宿す。折しも釈迦の西行するに値ふ。予時に年十一二と臆へし。 宿舎を出。路上釈迦の側に寄て比立つに。予が首上。渠が帯下にあり。因て渠が長大なる想計る当し。
近頃又。石翁が話せしは。釈迦或とき。人其木屐を贈る。然るに小にして其足に協はず。釈迦迺曰。 これは其が妹に与へんと。釈迦が妹なる者は。何なる者ぞ。亦身の長。及四肢も。釈迦に増りたりけん。巨大の女なりし。 其屐と謂し物も。世人の用ゆる魚板の如きものならん。

《甲子夜話三編巻六十八》

下下には。親分子分と云こと有て。華火御免の家を玉屋と呼ぶ。其工夫は。予が角力玉垣が子分なり。因其工夫玉垣に話るは。或日武家らしき賤人来り。 華火を請はんと云て。註文相談あり。就て小判五両余に定て答ふ。然るに其人云は。某は尾張殿の家人なり。近日川辺にて游覧有るべし迚。 約して還る。玉屋。さらば増々高価に申さん者を迚。悔たりと。
夫より六月廿八日の晩景より。三又江の畔。田安殿の別業に尾殿赴かれ。此事有りし。予も知れば。同氏和州が邸に往き。人力を傍観せんと企しが。 遠森に遮られ視へずと聞て。果さずして。灯下に書を読んで夜を更かせり。是正しく天祐か。又失計か。人訳諸。
  尾州御用御花火
 大からくり
一。玉火一。皷ヶ滝
一。大水玉一。錦玉
一。虎の尾一。咲分玉
一。獅子の尾一。赤玉
 大からくり
一。末広御所車一。相生玉
 大からくり
一。品蜂一。大藤棚
一。登り竜一。相生竜
一。熊蜂一。花乱星
一。布引竜一。紅白玉
 からくり
一。玉簾一。玉の尾
 大からくり
一。錦玉一。弐段花笠
一。大柳火一。玉蜂
一。赤玉一。枝垂桜
一。相生玉一。玉火
 大からくり
一。明保野一。虎の尾
 大からくり
一。相生竜一。千羽舞鶴
一。弐段別一。獅子の尾
一。玉追竜一。弐段咲分
一。玉追虎一。品蜂
 大からくり
一。拾弐挑灯一。布引竜
 大からくり
一。紅白玉一。花揃
 水中
一。金魚一。錦玉
 水中
一。銀魚一。大玉柳
一。狂乱虫一。赤玉
一。玉の尾一。相生竜
 大からくり
一。玉蜂一。三国一
 大からくり
一。夕納涼一。大水玉
一。玉火一。大柳火
一。武蔵の一。後玉火
一。虎の尾一。熊蜂尽
 大からくり
一。獅子の尾一。花扇
一。品蜂一。紅白星
一。熊蜂一。布引竜
 〆
鍵屋弥兵衛
 是より大からくり
一。綾簾壱本一。涼々草
一。東祭礼一。桜川
一。竜田川一。住吉踊
一。虫尽一。滝見車
一。緑り垣一。花見蝶
一。大山桜一。花玉垣
 〆
  大筒拾六本  手筒八十本
玉屋市兵衛
 定め廿八日
 箱崎田安様御物見前に而相登し申候。
 〆弐百拾五番御座候。

或日…天保11年。

《甲子夜話三編巻六十九》

予も。所謂世の仕合者と云ふ身となり。今は人の謗も受けず。稍々美称とやら蒙るも。不肖として祖先への孝にやあらん。 又是を茲に記するも。自負とや云はん。仮令自負にせよ。人に憑て然するに非ず。 閻庁の明鏡。善悪倶に人眼の鑑なれば。固辞謙遜は益なくして。還て子孫に貽さば。我より勝りし者は。更に一層の孝孫ならんと。予が世上の評辞を。一二書移せり。
(中略)
又。亥焼の前。御代替の御朱印頂戴として。京松尾の祝官。東三位と云しが。故角力緋威と懇識の故を以て。来て。 其遺妻の宅に寄寓す。宅実は予が荘内なるに因て。同業玉垣に憑て。屡々予に相見を乞ふ。予も亦彼が志望の止むことを得ざるを以て。 御印下賜のうへ。帰発の前。招て値ふ。未だ火前のことなれば。宴を設けて対飲し。互に交歓す。三位も興に乗じて。申楽を起舞し。 又謡曲を歌ふに至る。迺別離してより後。書を贈て其情を告ぐ。其文。
   松浦静山様
一章啓上仕候。秋冷増長之節。益御安全に可被成御入珍重不斜奉賀寿候。次に於拙官無難に神務仕候。此段尊意易思食可被下候。 于誠良久不相伺背本意候。此段御高免可被下候。抑頃日承知仕候得ば。先般は無余儀御事に付。此頃は追々御屋鋪御普請之趣。 不日に御出来之趣も承知仕候而。幾久目出度奉存候。此節迄何も々々不奉存候而。御無沙汰に打過候段。真平御高免可被下候。 誠に昨年出府仕候而蒙御懇意候段。深難在于今難忘。毎度申出候事に御坐候。殊更雄々敷御所存之程。月卿雲客方に拝面之砌は必々御噺申入候而。 大慶仕候事に御座候。何卒今一度出府仕候而。拝顔仕度奉存候。随而此品。目録之通軽少之至に御坐候得共。此度若柳繁松上京仕候幸便にまかせ。 御普請御出来之恐悦。且御無沙汰之御伺旁献申度候。御笑納被成下候はゞ可為本懐候。猶万喜幾久可申呈候。為其荒々申留候。相命恐惶謹言。
   八月廿一日       東三位
                花押

《甲子夜話三編巻七十四》

大男の世に出ることは。予も度々見聞す。此度も。京辺に出たり迚。孫常自写して。其図を示す。側に記す。 稲葉山源七が子稲葉山は角力取の呼名。源七は角力なりにして。摂州島上郡富田村の産。 呼名。稲光富五郎。当六歳。身重十三貫目と云。右四条河原に於て大角力のとき。土俵入りばかりを為すと。 此童は。先頃の大関稲妻雷五郎が稲妻。今は角力は止て。主侯の邑出雲へ帰ると弟子と成り。追々角力を習ふ。因て名に稲の字を冒る。

稲光…図あり。今略之。

《甲子夜話三編巻七十七》

過し頃。京松尾神職。東三位と称る人。御朱印頂戴に下り。予が角力緋威と。京にて懇なりし迚。彼宅に寄遇したり。予依て一夕招き逢たり。この東氏。 松尾の神職なるに。又一家南氏と云有て。南東更る代る当職を持つ。今年は東氏番年ゆゑ。斯く東三位出府せり。 因て。或とき或人の話に。嘗て南氏当職のとき。何れの時か。其人曰。松尾の社は。神秘と雖ども。其社の預として。 其神躰を弁ぜざるも何ん迚。社の扉を開くに。忽ち眼つぶれ。視ること能はず。是より今に至て。其孫。或は短睛。 又は通睛等。眼に祟有て。啻ならず。東氏は此厄に与らざれば。常人なりと。
都名所図会云。松尾社。本社所祭二座にして。大山咋神。市杵島姫なり。神秘あり。
又。彼の社司の曰。この松尾の明神は。世に酒の神と称して。国々の酒家々々より。神供料を献すること夥し。されども其実に非ずして。何も斯神の酒に縁有ることなし。

過し頃…天保12年。

《甲子夜話三編巻七十七》

世態と謂も是非なき者にて。音に聞こへし石翁も。此節の。享保寛政度に復すると云にて色めきしや。其駿河台の上屋鋪。子讃州。日々と彼隠宅に来り。 隠荘を去て上屋鋪へ返るべしと促すまゝ。去月晦日には立出ると聞しが。今日も使して聞けば。其日は障有て。六月五日に駿河台へ帰ると答ふ。 是等は是にて然るが。家器と居処の結構は何に為るや。予が角力の二子も彼処に仕はれゐしが。此度のことにて。翁が貯へし衣服を渠に与へ。角力の大男が両人。 殊に大なる包につゝみて。二包持返りたると。何なる衣服にや。此外の園樹。小亭。池橋などは。誰々へか与ふる。予が是まで懇せし。彼家臣嘉平と云はあとにのこると云。 然れば其屋舗は。翁が物にして。中野氏の別墅たるか。
又翁のうへを思ふにも。恭廟の御恩遇を失ては。憑む方も亡く。又彼の奢侈も。贈る者絶ぬれば。驕るにも至るまじ。況んや天運尽ぬれば。然るも尤也。 昨二日にも。白鬚祠に詣たれば。藝花平作に立寄りて。翁に便せしに。其答辞に。もはや遠からず此荘は立去るべし。さすれば是よりは拝晤も叶ふまじ。 されども。時々此隠荘には来ること有らん。然るときは必ず告申さん条。来り訪ひ給はる当し。寛晤を交へ奉らんと。懇に云答ぬ。其状翁が実意と察せらる。憐むべし。憫むべし。
或人告ぐ。同姓忠右衛門剛。人に語て曰。静山君の御気質を以ては。以前我も同勤をも為し彼翁と。和悦して語を交へ給ふこと。不審晴れずと。 此言人聞て。奈んとか為る。如如。何何。
 剛は。幼名金弥。父も忠右衛門と称し。名信義。相応武技も達し。人品悪からざりしが。世に合はずして。表勤にて終る。剛は予が名づけし者なるが。 遂に奥に入り。恭廟の奥の番まで勤たりしを。何か。旨に忤ふこと有て。居屋鋪までを召揚られしが。今は年数も過て。世広く務む。嘗て勤職の時は。翁も倶に御前に周旋せし輩なり。因て爾か云ふ。

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