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90歳代の入院患者さんからすごい話を聞くことができた。 検温の時に「若い頃はシベリアにいた」と。俺が思わず「え?シベリアに抑留されてたんですか?」と聞くと「はい」と。それで、俺も興味があったので少しお話させてもらった。以下におの人から聞いたお話を要約して記す。
返信先: さん
90代男性患者の話 ロシア人の言うことは嘘はかり。「国に返してやる」と言われて列車に乗ったらシベリアに連れて行かれた。当時自分は民間の仕事で満州にいた。シベリアでは森林伐採をさせられた。ある時、37℃ちょっと熱が出て、そしたら通訳やってた人が自分の先輩で「お前すぐ入院しろ」と言って
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入院の手続きをしてくれて、それで入院したら帰国する列車に乗せてもらえることになった。完全に仮病だった。シベリアには4年いた。その先輩はその後どうなったかわからない。ロシア人の言うこは本当に嘘。誰それがあそこで亡くなったとか埋葬したとか、そんなのは全部嘘。具合が悪くなったり
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息を引き取った人はポーンと列車から投げて捨てられてた。誰がどこに埋められていとか、そんなのわかるわけない。ロシア人は嘘ばかり言ってる。 これはすげぇこと聞いた。俺は仕事中だったけど思わず直立不動になってた…
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返信先: さん
友人のお父様はシベリアから昭和27年に帰国されたそうです。 食事が小さな饅頭(まんとう)のような物とたくあんだけだったのでずっとたくあんが食べられず、友人とお母様はこっそりたくあんを食べていたそうです。 皆様ご苦労なさって、無事に帰還できるのは奇跡のようですね。
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終戦から7年後に帰国…大変なご苦労をなされたのでしょう。 「たくあんが食べられない」 壮絶な体験が窺われます。現代に生きる我々には想像もできない。だけど、先人のそのような苦労があるから今の我々の幸せな生活があるのですね。 我々は先人達の犠牲を決して忘れてはなりませんね。
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返信先: さん
父方の祖父がやはりシベリア抑留組でなんとか帰還しましたが、その後数年寝たきりだったそうです、晩年近くになってもあまり当時の詳しい話は聞けませんでした。とにかく寒いのと、食べ物が無くて虫をとってまで食べたと言っていたような、、、友人も多数失いとても色々家族に話せなかったのかなと(泣
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なんと、寝たきりになるほど壮絶な体験をなされた…お祖父様のご苦労が忍ばれます。 死と隣り合わせの状況…現代に生きる我々には経験できないし、したくもない。しかしお祖父様はそれを経験された…なかなかお話されなかったのは、やはり思い出したくなかったのでしょうか…
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返信先: さん
私の祖父96歳もシベリアから帰還しました。 2年前に念願だった舞鶴の引揚記念館に伺いました。頑固な祖父も懐かしくて涙するのではと思ってましたが、悔しさや怒りが蘇ったようで終始唇を噛みしめていました。長い年月を経てもなお当時の記憶が鮮明に残っているようです。
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返信先: さん
うちの親戚(既に他界、生きてれば100近い位)の話。母からの又聞きだけど。シベリア抑留でみんな重労働、食べ物ないでバタバタ倒れていく。冬場雪が積もってるので、何処からか馬を盗んできて雪の中に隠し弱った仲間に食べさせた。見つかれば銃殺。自分からは言わなかったが、戦後助けて貰ったと
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返信先: さん
シベリアは大変なんですね。 ウチの育ての母親(故人、大正13年生まれ)は慰問団として満州に渡り、芸事を見せて回ったそうです。 「前線は悲惨だったらしいが私らは安全な所を回り、東京大空襲とか戦争の大変さをほとんど知らない」って言ってた。 タイミングによって戦争の経験が全く違うようです。
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『女たちのシベリア抑留』(小柳ちひろ、文藝春秋2019)という本が手元にあります。こちらは主に看護士の仕事にあたった女性のお話が多いですが、女性の目線から回想されるシベリア抑留の貴重なインタビュー記録だと思います
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返信先: さん
貴重な話ですね。 自分の祖父は終戦時、軍人として満州の奉天に居たので立地的になんとか帰って来れましたが、もし帰ってきていなければ、戦後生まれの父親含めた父方の親類はこの世に居なかった…。 そうなれば必然的に自分も今この世に生きては居ない…。 感謝しかないですね…。
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返信先: さん
結構そういう方多いから、なんとかまとめたいですよね。頂いた手記もありますが、あまり公開はしないでほしいとも言われ、難しいです。ポーランド(カチンの森事件)あたりと組んで毎年ワークショップやら講演会をするというのは良いと思いますけどね。
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返信先: さん
ほとんどの高齢者の方々が戦争のお話をされますよね。人生終盤にようやく言葉で語れるのかなと思って、ありがたく聞かせていただいてます。ロシアのことを、ろすけ。 アメリカを、あめこう。 と呼ばれてます。
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返信先: さん
父方の祖父が同じく満州からシベリアに抑留されていました。結局亡くなるまで当時の話は全く聞けませんでした。よほど辛い体験だったのかと思います。でも頑張って生きて帰ってきてくれたおかげで父と私が生まれたので、感謝です。
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お祖父様のご苦労、お察し致します。 「多くを語ることはなかった」という人が多いようです。やはり思い出したくない過去なのでしょうか… 「おかげで」「感謝」 この言葉、大切にしたいですね。
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返信先: さん
私の母方祖父も抑留組、父方祖父は南方前線から負傷して帰国です。あまり戦争の事は語ってくれませんでしたが、シベリアはとにかく寒かった、あれに我慢できたらんだから何でもできると言ってました。 南方も、銃弾の嵐の中駆け抜けてきた、そこら中に死体があって、地獄絵図と言ってました。
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本当に悲惨な歴史ですよね… 知覧の展示はマジで号泣でしたわ。 戦争を簡単にしたらいいと言うやつはVRで1ヶ月ぐらい擬似体験させたら考え方変わりますよ
無表情
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返信先: さん
自分の父は上海の大学にいて学徒動員で戦争に駆り出され終戦でシベリア抑留された。学徒動員生は階級は少尉なので重労働はなく比較的自由だったと話していた。しかし、ともかく寒くて立ち小便をすると即時凍りついたと。それでも日本に帰れたのは昭和24〜5年頃。
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返信先: さん
…後世に残す貴重な証言ノートにも書き留めても良いかもしれません 過去に畏敬を されど蒸し返しては争いは終わらない 先人達は話したくない程の凄惨な記憶と、黙って墓に持って行く気遣い 残したい気持ち、若者は新しい時代を希望溢れて生きて欲しいと言う気持ち 沢山の想いが星になる直前なのですね
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返信先: さん, さん
8年前に亡くなった祖父がシベリア抑留されてました 玉砕で知られるアッツ島から別の場所に…そして抑留 当時の話は一切しない祖父でしたが祖父が亡くなった時、祖父の兄弟が戦前と戦後では性格が変わった…と言っていたので性格が変わるほどの思いをしてきたのだと思います
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返信先: さん
私の祖父も4年間シベリア抑留兵でした。奇跡的に善意ある方がいて、お陰で生きて帰れました。物凄い残酷性と、物凄い勇気ある善意、同じ人間、同時代に生きてても、同じ国民でも、人は様々ですね…。
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返信先: さん
地元の町内に同じ境遇の人がいて生前いろんな話を聞かせてくれました。 共産主義の素晴らしさを演説に来た政治将校のカツラが風で飛ばされたのを皆で大笑いしたら次の日から暫く黒パンがいつもの半分以下の大きさで餓死しそうになったとか。
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返信先: さん
実体験を聞ける残り少ない時期に いい経験をなさいましたね。心に刺さる本当の言葉、ご相伴させていただきました。ありがとうございます。
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返信先: さん
母親の祖母は南満州鉄道で姉妹でタイピストをしてたそうですが引き揚げ命令が出た時に最後の列車で偶然一緒になって引き揚げて来たそうです
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返信先: さん, さん
ロシアは本当に卑怯。 日本が先次大戦で降伏して戦争が終わった後、樺太から引き揚げている民間船に魚雷を打って沈めました。 私の祖父の兄弟が乗ってました。 10人以上いた兄弟は祖父とその弟一人を残し、北海の冷たい海で要らぬ殺生をされ、全員溺死しました。 私はロシアを絶対に許しません。
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返信先: さん
わたしの亡き祖父は、シベリア行きの列車から命からがら飛び降りて逃げ出したそうです。その後、中国の小さな町でしばらく生活した後日本へ帰ってきたらしいです。
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私の祖父もシベリア行きの列車から数人で飛び降りて逃げてきたそうです。その際、亡くなった方もいたとか。満州で祖母と父に再会して引き揚げ船に乗って帰ってきたと。
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返信先: さん
祖父も満州からシベリアに捕虜となってました。祖父は雪国生まれだったのが奏して寒さに耐えられたけれど同じ独居の人がバタバタと凍死。配給の黒パンを人数分欲しいので何日も遺体とともに寝たと話してました。引き揚げの際は亡くなられた方の小指の骨を遺族の元へ配ってまわったそうです。
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返信先: さん
100歳で死んだ爺様がシベリア抑留されてたけど、シベリアの話は一切話してくれんかったなぁ。戦争の話はしてくれたんだけど。 中国人の友人いたり、中国に戦友の墓参りには行ったりしてたけど、シベリアのことは本当になにも…。
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返信先: さん
うちの爺様は切株の上を切り落とし新しい断面を出して切った木の数をちょろまかして体力を温存していたらしいです。 「ロシア人は切株しか数えなかったから何とかなった」といいながら「ロシアの女はキレイだぞ」と笑ってた爺様 生き残る知恵と度胸と余裕があったみたいです。
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返信先: さん
ダンナの父もシベリアに抑留されていました。飛行機の整備士で、畑仕事をしたこともないのに「農家」と言っていたらしく❨飛行機の整備士だとバレたら殺される可能性があるため❩、へっぴり腰で怪しまれてはいたらしいです。
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返信先: さん
30年以上前に亡くなったシベリア帰りの祖父の話と、けっこう合致するので驚きました。祖父も帰国させてやるからと言われ四年間抑留されてます。食事は、ほぼジャガイモだったと言ってました。
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返信先: さん
はじめまして。うちの亡くなった祖父もシベリア抑留者でした。小さい頃聞かされた抑留話は笑いを交えてだったのですが、大きくなって大学の課題で改めて話を聞いたとき、泣きながら「みんな死んでいった」「戻ってきたらアカといわれて、夢を叶えられなかった」といわれました。
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私がお話を聞いた方も「帰国してからも苦労した」とおっしゃっていたので、もしかしたら「アカ」と呼ばれたりしたのかも… いや、それはわかりませんが、敗戦後の混乱期であれば多かれ少なかれ「苦労」はあったでしょう。 ただただ、頭が下がる思いです。
返信先: さん
私の父もシベリア抑留から生還した一人です 酔うと、辛かった話しをしていました 軽い認知症になってからも、主治医の方に、何度も戦争は辛いぞ戦争はするなと話していたそうです
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