I WANNA MAKE A HIT WIT-CHOOへの全て!!

JUNKO U.S.A. DEBUT




=アメリカ デビューに向けて=

 最近は、以前に比べて、海外レコーディングが頻繁に行われるようになった。しかし、一言で海外レコーディングといっても、外国で、スタジオとミュージシャンのみを使って政策する場合と、海外プロジェクトを組んで本格的に海外デビューを目指すものとがある。

 八神純子の今回のアルバムデビューは、後者のパターンである。

 前者と後者の違いは言うまでもないが、時間で買われたミュージシャンが、そのアーティストのコンセプトも十分理解しないまま、おざなりにプレーするのが応々にして前者。プロデューサーの絶対的支配の元、そのアーティストのコンセプトを十分理解した上で、限りなく音楽を追求してゆくのが後者である。その後者のパターンを選ばせたのは、プロデューサー、アーティスト、エンジニア、ライター、ミュージシャンの間に同一の目的意識を前提としたコミュニケーションが成立していないレコーディングで、成功など考えられないという本人、八神純子並びにヤマハ、ディスコメイトの強い信念があったからである。

 このプロジェクトは、プロデューサーであるブルックス・アーサー氏が中心になって、レコーディングスタッフ、プロモーションスタッフを組み上げている。

 なお、このアルバムは、'83年1月上旬から同年5月中旬までの、約4ヶ月間を費やして製作されたものである。



=プロデューサー=

 '81年冬、アメリカのプロデューサー、ブルックス・アーサー氏から、八神純子の元に次のような熱いメッセージが届いた。「西洋にはない透明で、繊細なボーカルは、世界に通用するものである。きちんとした米語が話せる日本人ボーカリストの第一号を、自らの手でアメリカでビューさせ、不況下のマーケットを刺激したい」

 このメッセージの到着を境に作業が具体化してゆくのであるが、八神純子のアメリカデビューに向けてのアプローチは着々と進められていた。先ずJALとのタイアップによるニューヨーク・キャンペーン、そしてハワイ・キャンペーンの音楽担当及び出演。将来のアメリカデビューに向けての語学の習得と、アメリカのライフスタイルに慣れる為の英会話トレーニング、西海岸での長期ホームスティ、マンツーマンによる英語レッスン、更に、デビューに向けての最後の仕上げとも言うべき、ボイス・トレーニング(ニューヨークのルパート・ホルムズ(注)を訪れ、米語の歌をスムーズに、しかもナチュラルに歌う為の発声、発音の特訓を受けている)等々、周到な準備がなされていたのである。

 当時、八神純子は「みずいろの雨」、「ポーラー・スター」のヒットで急激にファン層を拡大しつつあり、「パープルタウン」、「Mr.ブルー」、「I'm a Woman」という立て続けの大ヒットにより、ソングライターとして、女性ボーカリストとしての地位を確立していたのは周知の通りである。


(注)ルパート・ホルムズ
ニューヨーク・ポップス界'80年代シンガー・ソングライターとして、ビリー・ジョエルとともに並び称されている。長い年月をかけ自分の音楽スタイルを作り上げ、気どりのない男のロマンを歌い上げる。
ルパートの音楽歴は長く、バーバラ・ストライザンド、ジョン・マイルズ、スパークス等のプロデュースで成功を収める一方、シンガー・ソングライターとして全米ヒットチャートNo.1となった「エスケイプ」はじめ自作品のヒット作品も多く、その名を知られている。



=コンセプト・メイク=

 一枚のアルバムを作るに当って、コンセプトを固めるという作業は国内でも当然やることなのであるが、プロデューサー:ブルックス・アーサーが如何にこのコンセプトメイクに腐心し、それを貫いたか、エピソードをご紹介しよう。

 先ず、何はともあれ本人、八神純子の日本発売した全曲を聴くことは勿論、レコーディングに入る前二度来日している。本人の理解はもとより、周辺スタッフがどのような考えに基いて彼女を日本で育ててきたかを理解する為である。更に、二度の来日の度に、彼女のコンセプトに基いて発注した作家陣のデモテープを持参し、ディスカッションを重ねた。そのデモテープの中にはジャニス・イアン、ブルース・ロバーツ、バート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガーなどそうそうたるメンバーの楽曲も含まれていた。しかし、最終選曲の段階で、コンセプトに合わないという理由で、いともたやすくカットしてしまったのである。作家陣のネームバリューをとるかコンセプトをとるかプロデューサーの信念として彼は自信をもって後者を選んだのである。



=レコーディング=

 '83.1月10日L.A.に向けて出発。SIRスタジオでのリハーサルに一週間を費やした後、1月18日よりメルローズの「スタジオ55」でレコーディングが開始された。このスタジオのオーナーは、あのリチャード・ペリー。ポインター・シスターズや、レオ・セイヤー、マンハッタン・トランスファーなどがここでレコーディングし、数々のヒット曲が生まれている。

 主なレコーディングスタッフは、アレンジャーとしてデビット・キャンベル、作曲&キーボード/ルイ・セント・ルイス、トム・スノー、ベース/マイク・ポーカロ、リー・スカラー、ドラムス/エド・グリーン、ギター/アンドリュー・ゴールドなど、超一流のメンバーが参加している。

 すべての最終決定はプロデューサーのブルックス・アーサー氏が出すが、彼のOKが出るまでは、他の全員が納得している音でも限りなくNGが出続けた。一曲完成させるまでに当然のことながら国内では考えられない程の時間が費やされたのである。

 レコーディングは大体昼の12時から夜の8時まで。その間、彼女は正味6時間は歌いっ放しの状態。元々強かった声帯が更に強くなって、周囲を驚かせた程である。

 月~金のレコーディングとは別に、ジャケット写真の打ち合わせや取材、特に収録曲の発音トレーニングが徹底的に課せられ、ほぼネイティブスピーカーと同等のレベルの発音にまでというプロデューサー要求を満足させることが出来た。(発音トレーナーは、映画「将軍」で島田陽子に英語のコーチをしたロバート・イーストン氏である)





=プロデューサー=

ブルックス・アーサー(Brooks Arthur)

 ニューヨーク生まれ、医学を学び医学博士でもある。彼の音楽歴はエンジニアとしてスタート。60年代の下積みの時期を経て、ヴァン・モリソン、ニール・ダイアモンド、ブラッド・スウェット&ティアーズ、ブルース・スプリングスティーンなどを手がける。その同時期に、フィル・スペクター、ジェフ・ペリー、リーバー&ストーラーと組んでプロデュースを経験。

 70年代に入り、自らプロデュースした作品ジャニス・イアンの「スターズ」が大ヒット。一流プロデューサーとしての地位を確立。

 以後、デビー・ブーン、ベッド・ミドラーのアルバム「ブロークン・ブロッサム」、キャロル・ベイヤー・セイガー、バーバラ・ストライザンド、など一流の女性ボーカリストのプロデュースをしている名プロデューサーである。



=アレンジャー=

デビッド・キャンベル(David Campbell)

 キャロル・キング、リンダ・ロンシュタット、J.D.サウザー、ジャクソン・ブラウン、リタ・クーリッジ、アート・ガーファンクル、クリス・クリストファーソン等、数多くの有名アーティストのアルバムを手がけている、今ロスで一番の売れっ子アレンジャー。




レコーディングあれこれ、純子にホット・インタビュー