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博多にいた「ガリヤの種族」とは

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 国会図書館デジタルコレクションに収録されている明治時代の出版物『福岡県郷土史誌』(藤野磯雄編、1901)に、「ガリヤの種族と由来」という奇妙なタイトルの一文があった。「福岡にガリア人でも住んでいたのか」と例によってバカな想像をしながら読み進めると、見慣れた話が記されていた。博多が小早川秀秋に治められていた慶長4年正月7日、松囃子の一行と秀秋の使者が大げんかになり、松囃子の参加者が使者を殺害してしまった。秀秋からは下手人を差し出せと強く迫られ、関係者が困り果てていたところ、博多の住人たちの助けで暮らしていた中国浪人が恩返しで身代わりになると名乗り出て、処刑されたというものだ。これは明らかに「もう一つあった浪人身代わり物語」で紹介した『石城志』所収の物語だ。

 ただ、『石城志』にはない後日譚が『福岡県郷土史誌』には記されていた。『石城志』には、浪人は死を前に、老母の世話を博多の住人たちに託したとだけ記されていたが、『福岡県郷土史誌』によると、他にも遺族がいたらしく、博多の住人たちは浪人の恩に報いるため、竪町浜に仮の家をこしらえて遺族たちを住まわせ、面倒をみるようになった。この「仮の家」というのが「ガリヤ」なる妙な言葉の由来で、『福岡県郷土史誌』は以下のように説明している。

 「毎日往ったり来たりするのに名字やなんかは云うも面倒なもんだから仮屋ゝと代名詞をつけて云いふれて居ったのが何時の頃よりかガリヤゝと濁って云う様になったのである」

 何のことはない、現代の用語に直せば、「ガリヤの種族」ではなく「ガリヤの一族」の由来を記した一文だった。明治時代にはこんな用語が用いられていたのだろうか。なお、『福岡県郷土史誌』にはガリヤ一族の執筆当時の現状についても触れられているが、「博多中の施しを受け来たったのが慣例イヤ習いが遂に性となったので爾来近年に至る迄祝儀不祝儀には必ず出掛けて来て貰い物をせねば帰らんという風で今日に至り今では夫が漸次繁殖して分家に分家が出来ると云う様な訳で現今は五十戸内外に上って居る」とあまり好意的ではない書きぶりだ。

 この『福岡県郷土史誌』は自治体などが出版したオフィシャルな郷土史資料ではなく、福岡市にあった当時あった新聞社「九州日報」(1887年、「福陵新報」として創刊)が、地域に埋もれた記録や言い伝えを募り、紙面で連載、それを書籍にまとめたものだ。そのためもあって「ガリヤの種族…」などという他の郷土史には見当たらない項目が取り上げられ、文章も非常にくだけたものだった。異色の郷土史だとは思うが、編者の藤野磯雄がまえがきで「載容の史料悉く正鵠を得たり(ママ)となす可からずと雖も」と断っているぐらいだから、100%信頼できる代物ではないだろう。なお、「ガリヤの種族…」の最後には「物好小僧」という投稿者らしき筆名が記されている。この名前も胡散臭い。

 それにしても「もう一つあった浪人身代わり物語」でも書いたが、この小早川秀秋時代の中国浪人物語と、中央区唐人町に伝わる江戸時代の浪人・森八兵衛の物語とはどのような関係にあるのだろうか。森八兵衛も火消し同士のけんか殺人で下手人の身代わりとなり、処刑されたと伝えられる。人々の記憶から消え去った中国浪人の物語とは異なり、唐人町の成道寺には森八兵衛を供養する八兵衛地蔵尊(写真)が祭られ、消防の守り神として今なお信仰を集めている。

 慶長4年(1599年)正月7日と事件の起きた年が明確な上、松囃子の歴史とも密接に関わり、しかも『石城志』という信頼性の高い文献に記された中国浪人の物語の方が何らかの史実を伝え、森八兵衛物語は派生物ではないかと思ってきたが、三流のゴシップ記事みたいな「ガリヤの種族…」を読み、いったんは考えが揺らいだ。

 しかし、考えてみれば、物好小僧なる投稿者は、ガリヤの一族に対して明らかに悪意を抱いている。労せずして物品を得てきたことに対するやっかみが根底にあったのだろうか。具体的な悪意が向けられている以上、明治時代にガリヤの一族が実在し、彼らが中国浪人の末裔だと信じられていたことは少なくとも事実だろう。ひょっとしたら、彼らに対する悪意のまじったやっかみは、物好小僧だけでなく博多の少なからぬ人間が抱いており、これが理由で、中国浪人の物語の伝承はやがて途切れたのだろうか。
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