国道2号線バイパスがようやく開通する。
悲願45年。長かった(笑)。
これで尾道と三原が繋がる。
しかし、海岸線を走る景色の良い道路は
また国道2号ではなくなり、国道185号と
なることだろう。
かつて国道2号は三原駅前を東西に縦断し
ていたが、バイパスが国道2号となってから
は国道185号に格下げになった。
馴染み深いルート2は、馴染みのないバイ
パスがルート2となり、旧2号は185号と
なった。
しかし、これはすんなりしていた。
埼玉県などは、一時期国道17号が3路線
平行して走っていたことがあった。
旧中山道が17号だったのだが、新大宮バイ
パスが完成してからは、平行する旧中山道
もバイパスも17号で、区画整理期間はさら
に別路線も17号だった。土地勘が無い人
には訳分からん国道だったことだろう。
三原に国道として2号線が整備開通したの
は昭和30年頃だった。
つまり、それまでは陸の孤島。
前を海、後ろ三方を山に囲まれた土地で、
その山の峠は山賊が出そうな道だった。
三原へ行く唯一の開けた手段は鉄道と航路
しかなかったのである。
勿論、道路は全て未舗装だ。
三原が今のような様子になったのは、ここ
15年程の事だ。
私が高校生位の頃に東京から三原に遊び
に来ると、まだ戦後昭和の様子のままだっ
た。
喫茶店に行って「アイスコーヒー」と言う
と一切通じなかった。すべて「レイコ」。
また、「おしんこ」は今世紀に入っても
通じなかった。すべて「漬物」。
また、「ピラフ」も通じなかった。すべて
「焼き飯」だ。
街中にイルミネーションも皆無で、住宅地
ではゼロ。クリスマスイルミネーションは
三原市内でうちが一番最初に始めた。
コンビニは全市内でマヤザキデイリースト
アが1軒のみ。マンションは町に1棟のみ。
スタジアムコートを着て歩くと「そんな
変な服着て歩くのよしんさいや。三原で
そんな変な服着とる人おらんよ」と親戚
から言われた。
23年前の三原はそんな町だった。
幼稚園児男子はみんな「わしゃあのう。
へぇでのう」と言っていた。
インターネットが発達して、どうにかよう
やく首都圏と同じような店舗や服装と言葉
になって来た。
そんな感じ。
ちなみに、現在も、三原市内でオートバイ
のタイヤ交換でバランス取りができる店は
1軒も無い。これは事実だ。何軒もバイク
ショップの看板を出しているが、タイヤ
交換をしてホイールバランスを取る、取れ
る店はゼロである。
三原のバイク店でタイヤ交換をしたなら
ば、高速道路は走れない。一般道もバイパ
スなどの走行は危険だろう。
三原でバイクに乗る人は、レーシングライ
ダーのように自分自身でホイールバランス
を取ってウエイトを装着するか、市外の
きちんとバランス取りをするショップで
タイヤ交換しているようだ。
東京、神奈川、埼玉では1970年代から
常識だった事が三原ではまだ常識とはなっ
ていない。もうすぐ、首都圏から50年遅れ
になるのではなかろうか。
てか、危険。タイヤ交換したら、四輪車と
同じように二輪車でもバランス取りはして
ほしいと願う。
三原のバイク屋の看板を掲げる店は、車両
に対して、乗る人の安全に対しての意識は
かなり低い。