第3回
懐疑論は本当は何を問題にしているのか
Ⅰ 落穂拾い1──「現在において現在」
1 今回もまた、前回の落穂拾いから始めよう。「落穂拾い」には、前には落してしまった非本質的で些末なものを後から拾い集めるという意味のほかに、前には落してしまったがじつは重要なものを後から気づいて拾い集めるという意味もあるが、ここでは後者の意味である。
2 ところで、段落番号を振るというやり方はこの作業のため(だけでなく一般に後から前の議論に言及するために)とても便利であることに気づいた。「まえがき」では「連載中にそういう組み換えが必要になる場合の便益を考慮して……段落番号を振っていくことにした」と書いたが、こういう形で言及ができればそもそも組み換えをする必要自体が生じないことに気づいた。
3 まずは段落12について。冒頭で「最上段が直々に関与してくる場合もまたある」と言われており、その場合「この「私」は二義性(両義性)を免れることができない。……、同じ一つの表現で、私自身にだけ(すなわち累進図の最上段においてだけ)成立する事態と、だれにでも(すなわち累進図のどの段階においても)成立する事態とが、重なって二重に表現されてしまうからである」とあり、そこに付けられた注*では「その結果、私自身にだけ成立する事態のほうがだれにでも成立する事態と同化されて「語りえぬもの」となる」と言われている。ここで「私」について言われていることは、マクタガートが『時間の非実在性』第54段落において、「この論文の執筆」は「現在であり、未来だった、そして過去になるだろう」を「現在において現在であり、過去において未来であり、未来において過去である」へと書き換えた際に「現在」について語られたことに、きれいに対応している。書き換え以前の表現では、端的な現在において(すなわち累進図の最上段において)成立する事態が語られていたのだが、書き換え後の表現では、どの現在をとっても(すなわち累進図のどの段階においても)成立する事態が語られてしまっているからだ。もちろん「この論文の執筆」には、その両者が重なって成立しているのだが、書き換え以後の表現では、端的な現在についてだけ成り立つ事態のほうはどの現在においても成り立つ事態の側に飲み込まれてあからさまに「語りえぬもの」となっているわけである*。
*もちろん、書き換え以前の表現も、われわれが今読む場合には、そう読まれることになる。書かれた時と読まれる時で「現在」の意味が変化するからだ。書き換え以後の場合は、その変化が先取りされているわけである。
4 前提されている議論をよくご存知であれば、この簡潔な説明だけでも十分に理解できたとは思うが、少しだけ補って解説しておこう。主語が「この論文の執筆」であることからも明らかなように、書き換え前の「現在である」は(現に「時間の非実在性」という論文を書いているマクタガートが)まさにその現在だけを指して「現在である」と言っており、したがって「未来だった」も「過去になるだろう」もその端的な現在における端的な未来と端的な過去だけを指してそう言われている(少なくとも言っている当人は)。しかし、「現在において現在」と書き換えられた後では、それはどんな出来事もそれが現に為されている時においては(その意味での現在においては)現在であるという(言葉の意味の上から自明な)ことが言われてしまっており、したがってまた「この論文の執筆」も一般に現在において(すなわちその言明が発せられているその時点において)書かれている論文を意味することになり、それゆえにまた「過去において未来」も「未来において過去」も、どんな出来事も過去から見れば未来で未来から見れば過去であるという一般的な真理が語られることになる。この書き換えによって、時間の経過もまた端的な時間経過から概念上の時間経過に変化している。とはいえもちろん、書き換え以前の表現に書き換え以後的な意味を、書き換え以後の表現に書き換え以前的な意味を、それぞれ読み込むことはつねに可能ではあり続ける。このつねに輻輳するこの二義性こそがマクタガート的矛盾の源泉である。
5 しかし、書き換えの何が、この変化を引き起こしたのだろうか。それは、「現在である」の「である」に「現在において」の意味を読み込み、それを明示的に付け加えることによって、むきだしの現在からそのむきだし性を奪ったことが、である*。「である」は、文法上は現在時制であっても、無時制的に読まれ、いつにおいてでもなくいきなり端的に「……は現在である」と捉えている、と読まれねばならない**。少なくとも、そういう「端的読み」もまた可能であることが洞察されるべきであった。この小さな見落としは、ある意味ではすべてを台無しにしてしまう。たくさん人間がいる中に、なぜか一人だけ私である(すなわちむきだしの意識である)という特殊なあり方をした人間が存在している、という端的な事実に驚いた後に、そのことをみんなに語ろうとして、謙虚にあるいはやむをえず「私にとっては」と付け加えてしまえば、それで捉えていた事実は一瞬にして消え去ってしまう。一人だけなぜか私である(=むきだしの意識である)という異形のやつが存在するという端的に与えられた事実は、「とっては」付きでそう語られることによって即座に見失われ、そういう事実が端的にではなく私に与えられているという、すでにして私なるものの存在を前提にしたうえで、それにとって何が現れているかという、相対的・相関的な事実に変質してしまうのだ。発見されたはずの、じつはそうなってはいない!という事実が、それを語る(言語の仕組みに乗せる)ことによって、知らぬ間に消失してしまうのだ。「現在にとって現在」もまったく同様なのである。ここがこの問題の生命線なのである***。
*もし「である」を「現在において」と書き換えるなら、「だった」にも「なるだろう」にも暗に「である」が付いている(「なったである」「なるだろうである」のように)とみなして、「未来だった」は(たんに「過去において未来」にではなく)「現在において過去において未来」に書き換えるべきであり、「過去になるだろう」は(たんに「未来において過去」ではなく)「現在において未来において過去」に書き換えるべきだろう。このことによって現実のむきだし性そのものが確保されるとは限らないが、少なくとも一般的に「むきだしの現在」というものがあるのだ、という構造的事実は指摘できるだろう。
**前注の問題ともつながるが、もちろん端的さそれ自体にもまた二重の意味がある。『世界の独在論的存在構造』の第六章「デカルトの二重の勝利」においてデカルト的「私」について論じた問題は、本質的にこの「現在」にもあてはまる。
*** 段落4の( )内で「少なくとも言っている当人は」と挿入したが、われわれはその論文を書いているマクタガート当人ではなく、その同時代人でもないので、この書き換え前そのもの見地には立てない。立てるとしてもあくまでも想定上(いわば想定上の最上段)であるにすぎない。「現在」は読まれる際には発話との同時性に読み換えられるが、それでもその時点における端的な現在の存在が概念的に理解可能でありつづける。
6 とはいえマクタガートがそういう「端的読み」もまた可能であることを見落としたと言えば、それは彼に対して不当な評価だろう。このような相対化(相関化)によって「それぞれの出来事に両立不可能な三つのタームがすべて述語づけられうる」ようになる(すなわち両立してしまう)ことは、「三つのタームが両立不可能であることと不整合であり、それらが変化を産み出すことと不整合である」(『時間の非実在性』段落51)という洞察こそが、彼の根本主張だったのだから。この不整合性の一方の側、すなわち変化を産み出すことを(すなわち時間を)可能ならしめる「三つのタームが両立不可能である」ことの側を担当するのは、もちろん「端的読み」である。だから彼はその存在を見落したとはいえない。とはいえ、「……は現在である」という言語表現をそう読む可能性にかんするかぎり、やはり彼はそれを見逃したといわざるをえない。『時間の非実在性』のその後の数段落は、そう読む可能性のなさに由来する諸問題をいろいろに論じることに費やされているからである。それでもやはり、この「不整合」性の剔抉そのものは彼の功績なのである。
Ⅱ 落穂拾い2──二重性
7 もう一点、段落6についても、ちょっとした落穂拾いをしておきたい。段落6では、第0次内包には第0次的(直接的)な特徴があるが無内包にはいかなる特徴もない、という点が確認されている。その段落6自体が第一回の段落15~段落17の落穂拾いなのだが、そこでは「端的な現実」の二重性が論じられていた。すなわち、現に痛く感じていても、つまり現に感じている感覚が痛みであっても、もし現に感じている感覚が痒みであったならば、それが端的な現実となる、ということがすでに前提されてもいる、と。また、端的な現実としては、なぜか永井均という人の心(意識)が直接的に、すなわち「むきだし」のあり方で与えられていても、もしそういう仕方で与えられているのが安部晋三のそれであったなら、そちらが端的な現実となる、ということがすでに認められている、と。これらはどちらも、「端的な現実」とされるが、じつは端的な現実ではない、可能的な「端的な現実」というものもまた認められている、ということを意味している。
8 「端的な現実」の概念化は、じつはこれとは別の形でも起こっている。まず、痛みのような第0次内包にかんしては、自分が現に痛く感じているなら、自分にとってはもちろんそれが端的な現実であるが、それが端的な現実として与えられてはいない他者もまた、その「端的な現実」をそのまま認めることができる、という形で。たとえば医者は、患者が「くすぐられると痛い」と訴え、現にくすぐるとその場で痛がれば、現に痛いことが端的な現実だと信じるだろうし、信じるにせよ信じないにせよ、そういう(第0次内包的な)直接的認知というものが存在することは当然のこととして認めているだろう。概念化された形での第0次内包の存在は、そのまま客観的な承認を得られるわけである。すなわち、そこに確実な直接的認識が存在することが客観的に認められていることになる。第0次内包ではなく無内包の場合にも並行的な事実がある。なぜか永井均という人の心(意識)が直接的に、すなわち「むきだし」のあり方で与えられているなら、自分にとってはもちろんそれが端的な現実であるが、それが端的な現実として与えられてはいない他者もまた、その「端的な現実」の存在を認めることができる、という形で。そういう無内包の直接的事実というものが存在する事実は、そのまま客観的な承認を得られうるといえる。ということはここでもまた、どちらの場合にも、最初の直接的な「端的な現実」の成立の段階においてすでに、その概念化された理解が開始されている可能性があることを示唆しているだろう。端的な現実性にも「むきだし」のあり方にも、そう語られる際にはすでに、その客観的承認の可能性が先まわりして入り込んでいるに違いない。
9 付言しておくなら、ここでは詳述できないが、前回のⅢ(段落19)で提示した、可能世界における〈私〉の存在の問題もこれと同型の問題であろう。さらに付言するなら、この第二の落穂拾いを第一の落穂拾いと同じ問題の捉え方の違いだとみなすこともできるはずである。ここで論じた端的な現実の概念化はまた、端的な現実の端的さを「~にとって」を付けて相対化することによって否定すると同時にその水準において保持することでもあるからである。
Ⅲ デカルト的真理にとってデカルト的懐疑は必要だったか
10 やっと今回のメインテーマに入れるぞ。とはいっても、これもまた第一回の段落12とそこの注*の落穂拾いだともいえるのだが。テーマは懐疑論とは何かだ。その注*で「他人はもしかしたらゾンビかもしれない」という他人の心の存在にかんする懐疑論(他我問題)が取り出され、「もしかしたら……」というこの種の懐疑は的はずれだ、と言われている。少なくとも、本文で問題にされていることはその種の問題とは違う問題なのだ、と。
11 そこで指摘された構造は、それ自体としては、懐疑論一般にあてはまるだろう。たとえば、懐疑論の代表である外界の懐疑を考えてみよう。われわれが外界として捉えているものはすべて五感に与えられた像にすぎないのだから、じつは五感に与えられた像が存在するだけで外界そのものは存在しないのではないか、と疑うことができる。ところでしかし、これは何を疑っているのだろうか。デカルトの悪霊(欺く神)ほど大袈裟な想定ではなくとも、映画の『マトリックス』とかパトナムの「水槽の中の脳」とか、その種の想定によっても、外界はじつは知覚像にすぎない場合を考えることはできる。もっと簡単に、ある部屋に案内されて入ると、その部屋は知覚的錯覚でできた部屋でじつは実在していない、といったことなら実際に実現可能でもあろう。そういう可能性を疑っているのだろうか。それなら、もちろんそういう可能性はありうる、で話は終わりだろう。
12 哲学的懐疑論の眼目は、おそらくそのようなところにあるのではない。そのような現実に起こりうる異常な事態はまったく起きていない、完全に正常な状態であっても、外界というものは必ず、構造上それと同型に見える懐疑可能なあり方をしていざるをえない、それゆえ懐疑論はそもそも何を疑っているのかわからない、という点にこそ懐疑論の哲学的眼目はあるのだ。そもそも何を疑っているのかわからないのは、疑われたような事態が実際に起こっていてもいなくても、もとのあり方には変化がないからである*。
*これと同型の問題に以下のようなものがある。私が、世界は私が生まれたときに私とともに生じ私が死ぬときに私とともに消滅するのではないか、と疑っているとしよう。もちろん、事実そうであるかもしれない。しかし、真の問題は、たとえそうでなかったとしても(そうでないのに!)、世界はそう疑いうるのと同じあり方をしていざるをえない、という点にこそある。この重なりこそが懐疑論が哲学的問題である真の理由であるだろう。
13 他我問題でいうなら、他人はもちろんゾンビかもしれないし、人間そっくりに作られたロボットなら実際に実現可能でもあるだろう。しかし、そのような現実に起こりうる異常な事態はまったく起きていない、完全に正常な場合であっても、他人というものはやはり必ず、構造上それと同型の、懐疑可能なあり方をしていざるをえない(そうでなければ他人になれない)、それゆえ他我問題はそもそも何を問題にしているのかが確定しない*、という点にこそ他我問題の哲学的眼目があるのだ。もし完全に正常であるなら、つまり他人たちも私とまったく同じあり方をしているなら、なぜ彼らはそれでもやはり他人ではあ(れ)るのか(なぜ私になってしまわないのか!)こそがこの問いの哲学的眼目なのである。だれもがまったく正常に同じあり方をしている場合に、なぜ私である人と私でない人(つまり他人)という二種類の人間が存在できるのか、この差異はいったい何が作り出しているのか、このことこそが暗に問われている問いである。
*確定しないとは、疑われたような事態が実際に起こっていてもいなくても、もとのあり方には変化はないのであるから、発覚可能な異常事態の可能性を現実に疑っているのか、それともそれと同型なのにそもそも発覚不可能な(発覚すべき何ものもない)現実そのものの不可思議さに疑念を抱いているのかが確定しない、という意味である。
14 過去の実在に対する懐疑論の場合は、『世界の独在論的存在構造』第11章(189頁以下)で指摘したように、外界の懐疑型と他我の懐疑型の二種類に分かれる。前者は、過去は現在における記憶や記録の中にあるだけで、実際にはなかったのではあるまいか、と疑う懐疑論であり、後者は、(他人の身体はあってもそこに心がないのと同様に)過去はあるにはあったのだがその時における現在はなかったのではあるまいか、と疑う懐疑論である。前者であれば、ラッセルの五分前世界創造説のように、われわれが記憶(さらに記録)している過去は実在せず、じつはすべてが五分前にわれわれの脳に(あるいは脳とともに)生じた妄想であるかもしれない、と疑うことになる。この場合もやはり、そのような現実に起こりうる異常な事態などまったく起こってはいない、完全に正常な場合であっても、過去というものはやはり必ず、構造上それと同型に見える懐疑可能なあり方をしていざるをえない、それゆえ過去の実在性にかんする懐疑論はそもそも何を問題にしているのか確定しない、という点にこそこの懐疑論の哲学的眼目があるといえる。後者の他我問題型に解して、過去における現在の存在を疑った場合のほうが興味深いともいえる。これはしかし、想定の意味そのものがはっきりしない。存在はしたのだがその時における現在はなかったとはどういうことなのかがそもそもよくわからないのだ。この場合にもやはり、他我問題の場合を真似て、そのような異常な事態は起こっておらず、まったく正常にその時における現在が――現在における現在と同様に――存在したとしても、なぜそれでもそれはやはり過去ではあることができるのか、を問題にすることはできる。しかし、これは他我問題の場合よりも遥かに問いにくい問題となるだろう。それが上記拙著の上記の箇所で問題にしたことであった。が、話が逸れることを恐れて、ここではその問題に深入りするのは自制しよう*。
*しかし、ぜひとも言っておきたい点を一言だけ。だれもがまったく正常に同じあり方をしている場合に、なぜ私である人と私でない人(つまり他人)という二種類の人間が存在できるのか、という問いは、その種の実在的(リアル)な差異がなくてもなぜこの種の(すなわち実在性(リアリティ)ではなく現実性(アクチュアリティ)レベルの)差異はありうるのか、という問いであったが、他人の心と違って、過去や未来のその時点における現在は、それ自体が実在的(リアル)な存在者ではなく、それがあるかないかはそれ自体が実在的(リアル)な差異ではないのだ。
15 このような問いの二重性こそが懐疑論を成立させていることは疑う余地がない。懐疑論が哲学的な問題であるためには、実在性レベルの問いの背後に(それとぴったり重なって)現実性レベルの問いが隠されていなければならないのだ。言い換えれば、有内包の問題の背後に無内包の問題が隠されていなければならないということであり、関与的・両方向的な事象の背後に無関与的・一方向的な事象が存在していなければならない、ということである。懐疑を実際に実行してみせることは、その絡み合いを調べること以外の意味は持ちえないのではあるまいか。
16 デカルトはこの種の懐疑をきわめて大規模に実践して見せたが、それが問題の意味を解明するのに貢献したとはいいがたい。一般的に言って、たしかに外界は実在していないかもしれず、他人たちは自動機械かもしれず、自分の現在の記憶も作り物かもしれない。ひょっともすると本当に(リアリー)そうかもしれないのである。にもかかわらず、本当に(リアリー)そうであるかどうかが問題の本質ではないのだ。まさにその本質でなさこそが、ここに隠されている哲学的問題なのである。
17 それゆえ、デカルトはこの大規模な懐疑の帰結として「私」の存在の疑いえなさに到達したが、そのさいに問われるべき最重要の論点は、その「私」はどちらのレベルの懐疑の帰結なのか、という問いでなければならない。懐疑のこの二義性(二重性)に対応して、存在が疑えない「私」の側にも二義性(二重性)が生じるからである。もしその懐疑が実在的(リアル)な懐疑であったなら、すなわち外界は実際に(リアリー)知覚像にすぎず他人は実際に(リアリー)ゾンビにすぎない等々のことを実際に(リアリー)疑ったのなら、疑いえない存在の側にも何らかの実在的(リアル)な根拠があることになるだろう。それが唯物論的独我論者の陥った苦境であった。彼は、自分だけが例外的に存在が疑えないあり方をしていることの実在的(リアル)な根拠を探し求めたのである。当然、それもまたあるかもしれないのだ。なぜなら、他人に実際に(リアリー)心や意識がない存在者であることと自分だけが実際に(リアリー)特別に本物の心を持つ存在者であることとは、時計の針が時計回りに動くのと文字盤が逆時計回りに動くのとの違いのような、表現の仕方が異なる同じ事柄だからである。
18 だが、もしその懐疑が非実在的な(現実性のレベルの)懐疑であったなら、すなわち外界が実際に知覚像だったり他人が実際にゾンビだったりしようとしまいと、そうした実在的差異とはまた別に(つまりそんな実在的差異は存在しなくとも)現に存在している差異を問題にしていたのであったなら、疑いえない私の存在にも実在的な根拠があることはできない。それどころか、この疑いえなさは本質的に無内包的であり、したがって当然、無関与的・一方向的なものでなければならないことになるだろう。
19 デカルトの懐疑実践が問題の解明に貢献しなかったことに応じて、その懐疑が成り立たないことを示そうとするその後の哲学者たちのデカルト批判もまた同様にすべて的はずれなものとなった。たとえばカントは、外界の実在性をその超越論的観念性によって証明しようとしたが、その試みが全面的に成功していたと仮定しても、デカルト的問題に触れるところはない。実在的(リアル)な意味では、やはり外界は存在しないかもしれず、存在しなくてもよいのであり、非実在的な意味では、外界の実在性などそもそも問題ではないからだ。ウィトゲンシュタインの弟子たちの中に、他我の存在をいわば超越論的観念論ふうに証明しようとした人々がいたが、その試みが成功していたとしても、やはりデカルト的問題に触れるところはない。実在的(リアル)な意味では、やはり他人に心はないかもしれず、なくてもよいのであり、非実在的な意味では、他人の心の実在的有無などそもそも問題ではないからである。
20 さて、今回はこれで終わりである。ところで、二つの落穂拾いの間につながりがあることはすでに指摘したが、このメインテーマと二つの落穂拾いの間には、どういうあるいはそもそもつながりがあるだろうか。その答えは、あるにはあるのだが比較的つまらぬつながりだ、というものである。メインテーマにおいて実在性の問題から峻別された現実性のレベルにおいてさらに生じるその概念化の諸相が、落穂拾いにおいては問題にされていた、ただそれだけのことである。