【PM 3:00 1日目】
「先生」
「……あ」
…ボーッとしていた。
縁側で煙草を咥えて、夏の庭を見ていた。
先刻雨が降ったようで、庭の緑や花、蝉の声は濡れている。
「ウン」
クルーウェルはゆっくりと振り返った。
薄物の青い着物を着た監督生が、うちわを右手に正座している。長い黒髪は綺麗にまとめられ、青い鬼灯のカンザシを付けていた。
「環境も変わってお疲れでしょう。お昼寝なさいますか。お夕食の時分になったら起こしますから」
「いや…今寝たら夜寝付けなくなる。そうしたらお前も寝かせないぞ」
少し笑って言った。風鈴が鳴る。
この屋敷は昼だというのに暗かった。
言いながら、クルーウェルは「あれ?」と思う。オレは一体何をしていたんだっけ。
というか、なんだってこんな場所にいるのだっけ。
確か引越しの作業をしていた。
この屋敷に住まいを移すために、オレは自分の荷物を部屋から持ってきた。監督生の父に挨拶をして、結婚の許しをもらって…。
結婚?…
そうだ。
オレはこの子と結婚したんだ。
だからこんなに愛しいんだ。
愛しいこの子と暮らす為に、日本に越してきたんじゃないか。仕事は鏡を通って通り出勤できるし、日本の方が彼女にとっても良いかしらと思って…オレが提案したんだ。
ここは昔彼女の爺さまが使っていた屋敷。亡くなって間もない。売りに出す前にオレ達が住むことになった。
…ボーッとしてるな。
どうして突然、物覚えが悪くなるのだろ。
引越し作業のせいで疲れているんだな。
「…確かに疲れてるな」
「お茶をいれます」
「いや、いい。それよりこっちに来てくれ」
「はい」
彼女はゆっくり立ち上がって、隣に座ってくれた。フワッと重い花の香りがする。
夏の緑が透ける彼女の肌は、普段教室で見る姿よりも余程美しかった。下まつげが金色に光っている。クルーウェルは彼女のこめかみにキスをして、ぼんやりとした頭で香りを吸い込んだ。
「…すまない。随分と待たせてしまったな」
彼は優しい声で言った。
クルーウェルは彼女との結婚を踏み切るまで、随分苦心した。不安にもさせた。
だからこうして2人でゆっくりできるのは暫くぶりになる。
それを〝思い出した〟クルーウェルはもう彼女が寂しくないよう、自分が寂しくないようにくっ付いて手に触れた。
彼女は何も言わずに微笑んで、彼の背中を可憐な手で撫ぜる。
「ありがとう」
もう夢の中で会う必要もないのだなと、クルーウェルは静かに目を閉じた。
■
【AM6:00 2日目】
「お箸は慣れませんか?」
「すまん、使えそうもない。練習する」
「スプーンの方が良いかしら…。持ってきます」
「ありがとう」
「お魚はほぐしますね」
「悪い」
クルーウェルは既に化粧を済ませ、しかし着流しのまま箸と格闘していた。
朝の日本は静かである。田舎であると言うのもそうだが、鳥の声と蝉の声しかしない。
夜はカエルの声。つまり人間の立てる音がしないのである。
彼はこの辺りの穏やかさを気に入っていた。お隣さんは30メートル先にある。挨拶に行ったが、優しい老夫婦が暮らしていた。
2人はクルーウェルの美しさに驚きつつも、嬉しそうに〝ジャパニーズ・ツマラナイモノ〟を受け取ってくれた。
「よろしければ洋食を作ります。いつでもおっしゃってくださいね」
「いや、良いんだ。お前の好きなものが食べたい。ハシは…なんとかする」
「ご無理はなさらないで」
クルーウェルは出されたお茶に「ありがとう」を言って、観念しつつスプーンでもそもそ白飯を食べた。
そしてなんだか、ちょっと感動する。
自分はずっとこの子とこういう穏やかな生活がしたかったのだ。
当たり前に朝の挨拶をして、ひとつの小鉢を2人で分け合うような生活がしたかった。雛人形のようにただ寄り添っていたかった。
だから彼は嬉しくて、台所仕事をする彼女の背中を見て顔が緩む。愛おしく思う。
これからはこの光景が当たり前になるのだ。
これ以上、嬉しいこともない。
「ダーリン、座ってくれ。あとはオレがやる」
「あ…待ってください。先生のお弁当作ってるんです」
「!嬉しいな。そうか」
座布団から立って背中に抱きついた。妻は花弁が開くようにいじらしく笑う。
食卓に日差しが差し込み、夏の暑さが充満した。
「先生、あつい…」
「これからもっと熱くなるさ」
「そうですね…今日は一際随分暑いのですって。お気をつけてくださいね」
「違う。オレとお前の話だよ」
「!い。いけません。これからお勤めでしょう」
「少しくらい構わないだろ?」
「いけませんったら」
「が、」
口の中にミニトマトを突っ込まれ、クルーウェルは不機嫌な顔で手を止める。拗ねた顔で見つめるが、彼女は許してくれないようだ。
残念。非常に。
奥歯で噛み潰して渋々引き下がる。
彼女は少し乱れた髪を、ほんのり赤くなった顔でなおした。それは香り立つほど色っぽくて、未練タラタラうなじを見つめた。
「今晩、お戻りは何時ごろに?」
「18時には帰ってくる」
「分かりました」
「遅くなるようだったら連絡するから、その時は無理せず寝ろ」
「待ちます。先生のお帰りを待つのが夢だったもの。あけぼのまでだって構いません」
「ダ…メだ。寝なさい」
「…つれない人」
「グ」
新婚最高!!
クルーウェルは脳が泡を吹くような多幸感に苛まれつつも、なんとか貫き通し、「寝ろ」を言った。
「なるべく早く帰るから」と。
監督生は不服そうだったが、頷いて味噌汁のおかわりを入れる。彼はそれを見ながら、嗚呼オレは何度だって今日を思い出すんだろうなあと思った。こんなに幸せな日がずっと続くなんてダメになってしまわないだろうか。
独身時代じゃ考えられない幸福感だ。
今晩は絶対に早く帰ろうと思う。帰ったら彼女の作ってくれた夕食を食べて、引っ越しの作業を進めて…仕事が片付いたら、思い切り甘やかそう。
朝食を食べ終え、仕事の準備をする。終えればお弁当を持って玄関まで歩く。
彼女は見送りをしてくれて、背中にカンカンと切り火をしてくれた。
これは日本で今日一日息災でいられるように、というオマジナイ…らしい。
彼は「ありがとう」と言って、玄関先で彼女を抱きしめた。
ただ仕事に行くだけだというのに戦争にでも行く気分だ。それくらい別れが惜しい。
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
「ああ。早く戻る」
「はい。…浮気しちゃ嫌ですよ」
彼女は彼のネクタイを直しながら言う。
クルーウェルは目尻を下げて僅かに笑った。
彼女は少々嫉妬深い。
そんなところも愛しいのだ。
「オレにそんな甲斐性はない。幸せにできるのは1人だけだ」
「本当?」
「不安なら今晩証明したって良いんだぞ」
「ふふ」
「じゃあ、行ってくる」
「…。あ」
「ン?」
「先生、鏡からじゃないとワンダーランドに行けません」
「あっ」
せっかく靴を履いたのに。
監督生は笑って彼にキスをした。クルーウェルはどうにもしまらんなと、少し恥ずかしそうにキスを返した。
【AM9:00 上記同様二日目】
「おはようダメ犬諸君!いい朝だ」
クルーウェルは艶々の肌で機嫌よく教壇に立った。少年達は机に足を乗せ、首を回したり目を細めたりして剣呑な顔つきである。
「今日は昨日の続きだ。プリントは持ってきたな?」
「うるせぇ黙れ」
「は、威勢がいいな。有り余ってるなら買うぞ」
「別れろ」
「お前がフィールズ賞を取るより有り得ん話だな」
少年達はケッと顔を逸らし、心底不愉快そうに舌打ちをした。皆監督生がクルーウェルに取られたのが気に食わないのである。
別に彼女に恋をしていたわけではない。いや、している者もいたが。
あの紅一点を奪ったのが彼であると言うのが許せないのだろう。そんな彼らのブーイングにクルーウェルはますます機嫌を良くし、鼻唄混じりに授業を始めた。
「ロリコン野郎め…」
「なんとでも言え。事実は覆らない」
「小エビちゃんカワイソー。絶対騙されてんじゃん」
「アイツのDNA顕微鏡で見たら亭主関白って書いてあるんだろうな」
「見なくても分かるわ」
「モストロホットラインの番号渡してやれって」
「もう渡してるし」
「妻と書いて被害者と読むんだよなあ」
少年達はつまらなそうな顔をして首を回す。「僕は今やる気がありません」という分かりやすい態度だ。その態度のまま今日の授業は貫く気だろう。
クルーウェルはそれを見てもニコニコしていた。いっそ不気味なまでに機嫌が良い。
素晴らしいことだが、生徒達は気に食わない。
「てか、普通に学校くらい通わせれば良いじゃん」
生徒の1人が言った。
クルーウェルはピク、とその言葉に反応して…学校、と頭の中で反芻する。
…学校。
あれ、なんで学校に通わせてないのだっけ。
確かに彼女は二年生になって、もう二十歳。この世界に来た頃にはもう19だったから…。
必要ないと、オレが言ったんだろうか?
いやでも、オレは別に彼女が卒業までここを通おうと通うまいとどちらでも構わない。あの子の意思で決めれば良いと思う。
話し合ったっけ。
〝そういうこと〟になったのだっけ…。
「別に…彼女が通いたいというのなら文句は言わないさ。オレが止めているわけじゃない」
クルーウェルにしては珍しく、歯切れ悪く言った。少年は納得したのかしていないのかわからないが微妙な顔をして頷く。
言いながらも彼は少し考えた。
どういう話し合いをしたのだっけ、と。
なんだか最近思い出せないことばかりだ。何故こんなに忘れっぽいのだろ。
「良いから、授業を始める。黙って机でも舐めてろ。…えっと!ンン"ッ。今日は短縮だな。少し駆け足になるがついて来いよ。え〜教科書68ページ5行目から赤ペン用意!」
気を取り直して手を二度打てば、少年達はなんだかんだで言うことを聞く。フロイドが「緑ペンしかねぇ!」と巨大な声を上げるので、「見やすいならそれで構わん」と返事を返す。
大丈夫だ。
いつも通り問題ない。
今日は座学なので気が楽である。
クルーウェルはチョークにカバーを付け、右手を勢いよく伸ばすことで袖をまくった。
そのまま今日の日付と授業のタイトルを書いて、几帳面に黄色のチョークでタイトルを囲った。
「ン。フリーハンドにしては上手くいったな」
彼は自分の書いた直線に満足し、その下に「え〜、今日はシェバルコフ・コーフォーの半生についてだ。オレはこの学者が好きでな。つまり今日の授業は8割オレの趣味の押し付けで、2割教科書に従い、残りの6割は嫌がらせだ」と言いながら学者の名前を書いた。
少年達は「16割もあるんだなあ」と言いつつ赤ペンをチャラチャラ回す。
クルーウェルは宣言通り、明らかに自分の趣味でしかない授業を行った。短縮だし駆け足で進まなきゃいけないのに、楽しそうに自分の好きな学者の素晴らしさを話す。
しかしキチンとこの話を教科書の内容に帰着させるあたりまだ冷静だ。
「──(中略)この男は人格破綻者でな。ジェムズドットの侵略者と呼ばれたあのザザカブトを娘に飲ませて実験を行ったんだ。ほらこの時代まだ合法だったから簡単に入手できてな。すると非常に面白い結果が出た。娘の血液を採取してみると、ある生物の糞が見つかったんだ。なにだか分かる者!」
「はいはいはいはい知ってる知ってる当てて当てて当てて」
「おや、素晴らしい。ではリーチ弟」
「えっとねぇ、スリューメラー」
「ダッッッハ」
クルーウェルは膝から崩れ落ちて笑った。他の生徒(頭の良い生徒のみであったが)も大笑いして手を叩いた。
意味が分からない者は雰囲気で笑っている。
発言したフロイド自身もヘラヘラ笑って、隣にいたリドルに大笑いされながら背中を弱い力で叩かれていた。
今のはかなり高等なジョークである。
ワンダーランドに住んでいて、尚且つ魔法寄生虫学に造詣が深くなければ分からないジョークだった。監督生がよく置いてけぼりにされる現象である。
クルーウェルはそのジョークがツボに入ったらしく、真っ白な顔を薔薇色に染めて床に膝を突き、「ハーッ、ハーッ、」と高い声を出して息を吐いていた。
「カリバンかよ」
彼はそれに対してやっと突っ込んだ。そのツッコミに、魔法建築学について詳しい少年達が更に顔を真っ赤にして笑う。
どちらにも詳しくない生徒は「カリバンってなに?」という顔をしていたが、雰囲気にのまれてヘラヘラ笑った。
「はー、はー…話がそれた…。なんの話をしていたんだか」
「センセーもう授業終わるよ」
「は?バカな。早くないか」
「だから短縮だって」
「あ…」
「さ〜〜て!来週のデイヴィスはーッ?」
「クソ…。えー…来週のデイヴィス様は…ザザカブトとジジザメラの合成、合成に関する幾つかの提案と手法、レポート…の三本だ。はいジャンケンポン。号令!」
「クソッ、今日も負けた」
「きりーつ。れー。ありあとあした〜」
「ありがとうございました」
少年達は授業が終わるや否や、ワッと教科書を雑に持って窓から飛び降りたり、壁にめりこんで消えたり、歩きながら床に沈んで行ったりと個性豊かに消えていった。
クルーウェルはコートを着て持ってきた名簿やら教科書やらをまとめて教室を出る。
さて、あと8時間。
8時間経ったら彼女のもとに帰れる。
…寂しくしてないだろうか。
退屈してないだろうか。
帰りを待ってくれているんだろうか。
ちゃんとメシ食ってるかな。
大丈夫かな。
思って、堪らないほど帰りたくなる。
残りの8時間が酷く苦痛になる。
電話を掛けようとして、しかし躊躇した。
逐一電話をするような亭主もどうなのだと思う。
日本の男は、女を褒めないらしい。
三歩下がって付いて来させるような男が有り難がられるらしい。女は亭主を立て、亭主は女に苦労をかけない。全く意味がわからないけど…なんだかそういう風になっているらしいから。
彼女もそういう旦那を望んでいるなら、できる限りそうなった方がよろしいのかもしれない。
しかし分からん。
浮気は男の甲斐性で、老いては子に従い、寝ずに夫の帰りを待ち、夫より先に起き、家事をする。
それってなんだか嫌だなと思うし、それに習える気はしないけど…。
マァきっと暮らしていくうちに、それらしい素振りが板についてくるんだろう。あの子が望むのだったらある程度は頑張りたい。
ウーン、でもやっぱり奥さんには負担なく健やかにいて欲しいな。
それ、日本じゃ変なのだろうか。
…日本では、奥さんのことを嬶(かかあ)というんだっけ?
感覚の違いは大きい。
なるべく早く慣れたいものだなぁと思った。
【PM7:00 上記同様2日目】
「戻ったぞ。何処だ。オレの白姫」
「あっ」
三面鏡から出て、靴を脱ぐ。
すると遠くから柔らかい声が聞こえた。
走ってくる音が聞こえて、襖が開く。
「先生」
「ただいま。悪いな、遅くなった」
「お戻りなさい。お勤め、お疲れ様です」
「ウン。…?」
夕食の支度をしていたらしい。彼女は嬉しそうに頬を染め、クルーウェルに開いた両手を差し出した。彼は両手を出された意味が分からなくて、「?」という顔のままポケットから飴を出してソッ…と置いてみた。
「ま。ふふ」
「ン?違うのか」
「外套と鞄を」
「うん?うん」
クルーウェルはよく分からないけど、彼女にコートと鞄を手渡した。すると監督生は嬉しそうにそれを持ち、コートを衣紋掛けに吊るす。
「お夕食とお風呂の支度できてるんです。どちらになさいますか」
「え…ああ、じゃあ風呂で」
「はい」
彼女はすり足でスルスル歩き、風呂場に彼を案内した。すでに湯が張った風呂場はワンダーランドのものと少し仕様が違う。
檜の湯船と木の椅子、そしてシャワー。やはり全てが低く、全てが小さい。おもちゃみたいだなと思いつつ、「ありがとう」を言った。
「ごゆっくり」
「ウン」
なんだかよく分からないまま、クルーウェルは脱衣所で服を脱いで風呂に入った。ボケーッと口を開けて湯船に浸かれば確かに疲れが取れる。
取れるけれども。本当は帰ったらお帰りなさいのハグが欲しかった。自動的に風呂に連れて行かれてしまったけど、一緒に入りたかった。
意外と寂しいのはオレだけなのかしら。
この歳になって立場が逆だ。
普通新妻はもっと寂しがるものじゃないのかな。
思いつつ体と髪を洗い、化粧を落として風呂を出れば。畳まれた着替えと下着が置かれていた。仰天して見つめる。いつの間に準備してくれたのだろう。
子供じゃないんだから自分でできるのに。
これじゃオレ、旦那じゃなくてマスターみたいだ。
ギャップに戸惑う。これが日本じゃ普通なのだろうか。
着物を着て居間に出れば、彼女がビールとおつまみを食卓に並べていた。
「仔犬…」
「おかずもう一品増やしますから、その間はそちらで」
「あ、ウン」
「お疲れ様です」
監督生が隣に座って、彼のグラスにビールを注いだ。クルーウェルは面食らいながら酒を呑む。彼女は微笑んで、「ごめんなさい、段取りが悪くて…」と言いながら台所に下がろうとした。クルーウェルはその細腕を掴み、膝の上に座らせる。
「ひゃっ」
「ステイ。このままお座りだ」
「え。え、」
「お前、いつ休んでる」
「…?休む」
「見たところ引越しの作業がずいぶん進んでいる。オレが働いている間やったんだろ」
「はい。全部は終わってませんけど…」
「それで?オレが帰ってくるまでにメシの支度と風呂の準備か」
「え、はい」
「後はなんだ?オレのマッサージでもするのか?夕食が終わったら寝るまで絵本の読み聞かせか?それとも奉仕でもしてオレが寝たら洗濯か」
「お、怒って」
「怒ってる。お前が休まないから」
「休んでます。おうちにいるのだし…」
「はあ。なんなのだこれは。国民柄か?」
華奢な彼女を背中からグッと抱きしめ、肩口に顔を埋めた。監督生は身を固くして困った顔をする。どうしてご不興を買ってしまったのだろうという焦った顔だ。
「やめてくれ。オレは子供じゃない。大人が2人もいるんだ。家事は役割分担をしよう。風呂上りに着替えなんて持って来なくていい。晩酌の世話なんて良い。それよりオレは一緒にいて欲しいんだ」
「……?でも、その、お母さんがいつもこうしてて」
「お前の母様がどうであれ真似る必要はない。別に軽んじているんじゃないぞ。夫婦にはそれぞれ別の形があるという話だ」
「…お嫌でしたか」
「嫌だ。疲れて帰って来たのに、ちっともお前を抱き締められない。オレはお前に家政婦で居て欲しいんじゃなくて、好きな人で居て欲しいんだよ」
「……」
監督生は少し顔を赤らめて彼の髪に触れた。ワックスをつけていない彼の髪は、いつもより柔らかい。彼女は「どうしたらこんな言葉を照れずに言えるのかしら」という顔で自分の頬を手の甲で触れた。
「先生、ごめんなさい。おそばにいても良いですか」
「ああ。ずっといてくれ」
「お腹は?」
「すいたら一緒に食べよう」
「…はい」
彼女は幸せそうに彼に寄り掛かった。
クルーウェルはジワジワと幸福感が胸の内側から這い上がって来て、脳を介さずに「愛してる」を上るに任せて言った。
我が妻は恥ずかしそうに頬を桃色に染めている。夜桜のようだなとあでやかに思い、額にキスをした。
「あ。あ、いけません。私汗をかいたの。ばっちぃからダメです」
「ばっちくない」
「よして…、あ」
汗でしっとりとしたうなじにキスをして、深い黒髪の香りを嗅いだ。冷たい雨の香りがする。
僅かに汗の香りがする。
結った髪が乱れ、ハラリと髪が一房うなじに落ちた。ふわっと内側から香の香りがして…頭がクラクラする。
風情のある女だ。本当に。
憂いを帯びた瞳に咎められれば、オレはただの男にされてしまうのであった。
「ベイビー、この帯はどうやって解く?」
「と、解けません」
「つれないことを言うなよ」
「お待ちになって、私、お風呂に…」
「待てない」
クルーウェルは彼女を畳にゆっくりと寝そべらせ、そのまま接吻をした。
……の息が上がるのを……して、帯を………。
しどけなく乱れる黒髪に……手を……させて、燃える息に……。
………。
「なぁ、愛してるよ」
キリリン、と風鈴の音が聞こえた。
雨上がりの夜が風に乗って室内に入り、夏の暑さに汗をかく。
2人は………を許し、……だけをして、目蓋の上にキスをした。
鈴虫の声に混じる彼女の嬌声が艶やかで、目眩がする。彼は……を優しく……ると、……髪にもつれ……。
…それが終われば、静かに彼女を抱きしめ、寝室へ運んだ。
彼女はぐったりとして、その白い肌を行灯の光に染めている。クルーウェルは嬉しそうに頬へキスをし、布団の上に寝かせてやった。
監督生は暫く目を閉じていたが、やがて落ち着いて来たようだ。彼に甘えて背に細腕を回す。
はだけた着物の前を合わせ、黒髪を引きずってピッタリと寄り添うのだ。
生暖かい風がさらに汗をかかせ、肌が濡れて光っていた。
「せんせい」
「ああ」
「仕合せです」
「オレもだよ」
「…なにだか、この頃夢見心地なの。仕合せなのが怖い。不幸へのあぜ道を歩いているみたいで…」
「そのうちコレが当たり前になる。怖いならくっ付いていよう」
彼女は細い足を彼の足に絡めて、幸せそうに微笑んだ。瞳に薄い水膜が光っている。嬉し泣きなのか、眠気による涙なのか。
それがあんまり綺麗で優しいものだから…心に染み入るようだ。抱き合って転がっているだけで極楽にいる心地になる。
「ねぇ先生」
「ああ」
「浮気しちゃ嫌よ。明日も早くお戻りになってくださいね」
「約束する」
「ええ」
「お前こそよそ見をするんじゃないぞ」
妻は返事の代わりに頬を胸に擦り付け、ため息をついた。
「貴方の女房はアタシだけ」
うっとりと背中を長い爪で引っ掻かれた。
その言葉に何故だかゾッとしたのは…勿論、気のせいだと思う。
■
【AM10:00 4日目】
今日は休みだった。
蝉の声で目が覚めて、時計をみれば10時。
随分寝たものだと思う。
布団で寝るのも慣れたものだ。彼は着物の前を合わせて寝返りを打ち、縁側の外を見る。蚊取り線香の香りと風鈴の音。少し遠くで、あの子が朝ごはんを作っている音が聞こえた。
穏やかな緑の朝だ。縁側には簾が半分下されていて、その下から苔の生えた岩がのぞいてる。
「……」
遠く。
巨大な水槽の中、金魚が涼しげに泳いでいた。扇風機の風に彼の白髪が膨れ上がる。
まだ少し眠い。朝寝坊をしたいところだが、彼女に会いたくて…無理して起き上がった。
盆に置かれた灰皿を手繰り寄せ、煙草に火をつける。素足で布団の冷たいところに触れれば、とろけるほど心地の良い朝だった。
「…お目覚めですね」
「ああ…」
「おはようございます」
「悪い。寝坊した」
「お休みでしょう?」
「ウン」
カム、と手招きすれば、彼女はゆっくりと彼のそばに座った。そうして二の腕に頭をよりかけてくれる。
朝の彼女は美しかった。
どんな名句も色褪せるほど、どんな名酒でも曇るほど綺麗で、儚い。紫の着物はよく似合っていた。
「先生。お髭生えないんですね」
「脱毛してるんだ。肌が弱いから剃ると痛む」
「つるつる」
冷たい指が頬を這う。顎下に触れて、やがて胸板にハラリと添えられた。白樺のような手が揃えられて、華やかに収まった。
湯上がりらしい。肌が透き通っていて、檜の香りがほんのりとした。毛先が僅かに湿っている。
「ふ、」
煙を吐く。
煙草の白は朝の光には弱く、ほとんど可視化できなかった。2人は薄紅色の布団の上、畳の緑と夏のフチを見てぼんやりとする。
夏など鬱陶しいばかりだと思ったが、日本の夏はなかなかどうして美しい。うちわをゆっくり仰ぐ隣の女が美しければ、彼はこの夏の中にずっと座っていたくなる。…
「朝は弱いんだ」
「そうでしたか…見えませんね」
「見えないようにしてるだけでな。公務員なんてなるもんじゃない」
「明日から起こしますか?」
「良いのか?」
「はい。勿論」
「嬉しいが…負担にならないか」
「野暮ね。旦那様の為のお仕事なら、幾らでも増やして欲しい」
彼女は甘えるように彼の二の腕に白い頬を押し付けた。花弁みたいにしっとりとした頬だった。クルーウェルはその色香にクラッときたけれど、なんとか堪えて「ありがとう」と髪にキスをする。
「オレは果報者だな。なあ、騙して殺すンなら早く白状してくれ」
「ふふ」
「女狐め。オレをこんなに虜にしてどうするつもりだ」
「食べちゃうかも…」
「お前にだったら良いよ。可愛いヤツ」
「ほんと」
「骨まで喰えばいい」
妻はうふうふ笑って腕に触れた。そうしてまなじりを下げたまま「朝ごはんにしましょう」と優しく言う。
頷いて煙草の火を消し、連れ立って寝室を出た。顔を洗って歯を磨き、愛しい子と食事を共にする。
「あ。先生」
「ウン」
「お昼にね、奥の間の掃除をしたいんです。ちょっとバタバタするかと思います」
「爺様の仕事部屋か」
「いえ、仏間です」
「ああ」
仏間。
そういえばクルーウェルは、奥の間に入ったことがない。そこは生前お爺様が使っていた作業部屋であり、大切な場所であるからだ。他人の自分が入るには少し憚れて近寄っていなかった。
「手伝う」
「いえ、きっとすぐ終わりますから」
「良い。オレもやる。体を動かさないとまた寝そうだ」
「ありがとうございます。花を買いに行きますから、その間に埃を払っていただけますか」
「花?」
「お仏壇に備えるお花です」
「ン。ああ。ついていかなくて平気か」
「ええ」
オブツダン。よく分からないが、雰囲気で相槌を打って水を飲む。
食事が終われば、彼女は皿を洗って出かけた。
クルーウェルは頼まれたことをしようとタスキ掛け(彼女に教えてもらった)をして、奥の間に歩いていく。キシ、キシ、と深い茶色の廊下を歩き、仕事部屋を過ぎ、仏間の前に立つ。
スラ、と障子を開けて。
彼は、
「、っお」
背中を張り詰めさせて固まった。
あんまり驚いて、胸を下から突き上げられたような衝撃であった。
仏間は8畳ほどの広さである。
真正面に仏壇があって、ご先祖の写真が黒い額縁の中に収まり、部屋を囲うように飾られている。
その仏間の中心。
そこに、見知らぬ女がこちらに背を向けて正座をしていた。
僅かに俯いており、白いうなじが輝いている。
まとめ上げられた髪に赤い簪が挿さっていた。
赤い着物を着た、若い娘だ。
顔はこちらから見えない。
ただその見知らぬ娘は、正座をして、ジッと…死んでいるように動かなかった。
「……」
クルーウェルは目を見開いたまま女の背中を見つめる。彼女は襖が開いたことに気が付いたろうに、全く動かなかった。
彼はジッと女を見下ろして、冷たい汗をかき…誰だと思う。
この家にはオレとあの子しかいない。
人がいるなら、あの子は必ず言うはずだ。
であれば、不審者か。闖入者か。
まさかゴーストか。
カチ、コチ、と仏間に置かれた柱時計の秒針の音が響く。外で鳴く蝉の声が遠く聞こえた。
女は動かない。
動かずに俯いて、きっと畳の淵を見つめているのだろう。
「…誰だ」
やっと言った。
喉は鉄を流し込まれたみたいに固まっていたが、ようやく声が出たのだ。クルーウェルはできるだけ冷静になって、帯に差し込んでいた指示棒を握りしめる。
見知らぬ女は動かない。
不思議なのは、呼吸に合わせて体が僅かでも動くはずなのに…その当たり前の動きさえないと言うことだ。
写真みたいに動かない。
筋肉の微動すらない。
クルーウェルにはこれが死体に見えてゾーっとした。あまりの異様さに右頬から頭皮にかけて鳥肌をジンと立て…心臓をドクドク鳴らす。
「おい」
自分の家に、見知らぬ人間が座っていると言うのは、それだけで怖い。
怖いと言うに、それが顔も見せず、背中を向けて座っているだけだからもっと不気味だ。
今に振り返るのではないかと思うから、怖気が走る。
働かない頭の中、あの子が帰ってくる前になんとかしなければと思った。
この女が悪意を持ってここにいるのであれば、あの子にもしものことがあってはならない。
彼は仏間に勢いよく踏み込み、女の肩を掴もうとして…。
「先生?どちら」
ビクッと肩を跳ねさせ、手を止めた。
帰ってきた。まずい。
この女と彼女を鉢合わせちゃいけない。
「あ。こっちね」
「──待て、来るな」
「先生、戻りました」
「ステイ!」
「あら?」
しかし、ひょこ、と彼女は呆気なく。
仏間に顔を覗かせ、クルーウェルを見た。
クルーウェルは汗をかいて彼女を振り返り、「来るなと言うのに」と怒鳴ろうとしたが…。
妻は菊の花を持って微笑み、首を傾げた。
「先生、お人形見てたんですか?」
「───へ?」
■
「私のおじいちゃん、人形師だったんです。その中でもこの子は一際力を入れてて…。何十年もかけて作ったものなんですよ。おじいちゃんね、亡くなるまでこの子を大事にしていました」
「………はぁ」
クルーウェルはグッタリして、仏壇の前で〝人形〟を正面から眺めた。
あまりにもバカバカしい。オレは人形に怯えていたのか。恥ずかしい。全く、年甲斐もない。
「仏壇から見えるようにと言うから、真ん中に置いてるんです。このお人形はここがお気に入りなんですって」
「…オレには人形に見えなかった」
「ふふ。大袈裟ですね」
「本気さ」
人形はしかし、本当に生きた人間に見えた。
真正面から見ても人形だと分からない。
俯いた〝彼女〟は目を閉じ、紅色の唇を小さくして、手を揃えて正座をしている。
華のように器量の良い娘だ。近くで見ても、指の関節から、まぶたのシワから、全てが人間じみていた。少しくらい作り物めいた場所があっても良いと思うのに。
「名前はあるのか?」
「あるんですけど、教えてくれなかったんです。好きに呼べと言われました」
「そうか…。しかし精巧だ。日本の職人とは素晴らしいな」
「お仏壇に言ってあげてください。きっと喜ぶから」
「ウン」
実はクルーウェル、人形にちょっとしたトラウマがある。
人間を模した置き物が嫌いだ。特にフランス人形なんて大嫌い。
作り物がダメなのだ。無理に滑稽さを模した〝人間風〟のものも嫌い。つまりピエロ恐怖症である。
しかし、この人形には苦手意識を覚えなかった。きっと作り物めいていないからだろう。本物そっくりで実に美しい。首の筋や手の甲の血管まで完璧で、目の淵まで全てが素晴らしい。
ただやはり、人間にしては美し過ぎる。
その辺りが人形らしいのだろうが。
「他にも作品が?」
「はい。お爺ちゃんの仕事部屋に。見ますか?」
「是非」
「こちらです」
彼らは仏間を出て、仕事部屋に向かう。監督生はスラッと襖を開けて中に手を向けた。
「ッうお」
「最初はびっくりしますよね」
中は確かに〝仕事部屋〟だった。
左右に棚があり、そこには大量の日本人形が並べられている。小さなものから大きなものまで。文机の上にはまだ作り途中のものもあって、それが虚な目をしてクルーウェルを見つめていた。
クルーウェルは「ファック、」と口の中で呟き、目を逸らす。
「お入りになりますか」
「閉めてくれ」
「あれ」
「今すぐ」
「?はい」
俯いて襖を閉める動作をしながら言えば、彼女が閉めてくれた。
クルーウェルはホ、と息を吐き、頭が痛そうに額を抑えた。
「悪い。ダメそうだ」
「?そうですか。仏間のは平気なのに」
「ものが違う。いや…すまない。お前の爺様の仕事を否定するわけじゃないんだ」
「苦手ですか?」
「少し。いや、かなり」
「あら…ごめんなさい」
監督生はあまりよく分かっていないようだったが、ひとまず彼を連れて居間に戻る。片付けは後にして、青ざめてしまった彼のためにお茶をいれた。
彼は無言で茶を飲み、途中でハッとしたように「ありがとう」と言う。そしてタバコに火をつけ、ゲンナリした顔で首を摩った。
「お嫌でしたら、ご無理には」
「…悪い。恥ずかしい話、人形がダメなんだ。仏間の人形は見事だったから平気だったんだが」
「ダメ…。怖いとかですか」
「…。そうだ。情けないが」
「いいえ。お人形が怖いとおっしゃる方もおりますから。見る人によっては不気味にも写るのでしょう」
「オレも昔は平気だったんだが…。ガキの頃に悪戯をされてな」
「いたずら」
「人形もののホラー映画を観た後、夜中にトイレまで行ったんだがな。その廊下の途中、人形があったんだ。赤ん坊の頃から置いてあるものだったから気にも留めなかったんだが…。よりにもよってその日、オレが通りすがった瞬間首が動いた」
「、」
「首だけ動かしてオレを見ていたんだ。父親がふざけてやったんだがな。あれきりスッカリトラウマだ」
「そうでしたか。怖い思いをさせてごめんなさい」
「いいや」
できれば言いたくなかった。
いい歳にもなって幼少期の恐怖を引きずっているなど、好きな女に白状したくなかった。
しかしどうしてもダメだ。
あの人形部屋だけには近寄りたくない。部屋の前を通り過ぎるのも嫌だ。
作り物の目玉がコチラを見ている気がするのだ。
もし四肢を切断された状態で拷問好きの殺人鬼の屋敷に放り込まれるが、人形だらけの家に放り込まれるかと言ったら殺人鬼の屋敷を迷わず選択するくらいダメなのだ。
今でも変な時間に酒を呑んで眠ると夢に見る。
自分でも何故これ程までに恐れているのか分からないが。
すっかり忘れていた。久しぶりにあの感じを思い出して寒気がした。
「あの部屋以外に人形はないよな?」
「!あります。今片付けますね」
「助かる。すまない…」
嗚呼情けない。
恥ずかしい。カッコ付かない。
けれど有難くもある。
彼女はスグにパタパタ走って人形を仕事部屋に持って行ってくれた。
「ありがとう」
「いいんです。でも、そう。少し嬉しいです」
「なにが」
「先生にも怖いものがあるんですね」
「あるさ…人形よりも余程怖いものもあるぞ」
「なんですか」
「お前に捨てられること」
彼女は顔をシワシワにして、「よしてよ」と照れた。それが可愛くて腕を引く。
キスをして腕の中に引き寄せる。
まだ指先は冷たかったが、彼女が握って温めてくれた。
「すきよ、先生。可愛い人」
監督生は体を彼に向けて、ピッタリと抱き付いた。
「誰にもあげない」
幼い声だった。
クルーウェルはコツ、と彼女の頭に自分の頭を寄せ、目を閉じる。
掃除の予定が狂ったが、彼女は怒らないでいてくれた。
■
【PM8:00 8日目】
朝に「チーン」と「ナムナム」ができなかったから、クルーウェルは晩に仏間へ向かった。
彼女は毎朝ここに来て、水を変えたり線香をあげたりして「チーン」と「ナムナム」とやらをしていく。
故に彼も習って同じことをしていた。
よく分からんがこれをすると良いらしいので。
手を合わせて目を閉じ、それが終わると背後の人形ちょっと眺めて…仏間を出る。
やっぱりあの人形だけは怖くなかった。
目を閉じていると言うのもきっとあるんだろう。あれで目が開いていたら、少々苦手意識があったかもしれない。
彼女は台所で誰かと電話をしていた。
嬉しそうに小さな声で話し、小さな声で笑っている。きっと遠慮しているのだろう。
別に大きな声で話したって構わないのに。
クルーウェルは居間の座卓前に座り、途中だった仕事に手を付ける。暫く作業をしてひと段落付く。晩酌でもしようかなと思って立ち上がろうとすれば、彼女の電話が終わった。
「先生、すいません。長々と」
「別に構わん。誰だ?」
「フロイドさんです」
「…あの男か」
「会いたいと言ってくれました」
「そうか」
「今度お家に呼んでも良いですか?」
「………」
クルーウェルは煙草を咥えたまま遠くを見た。監督生は慌てて首を振り、「なんでもないです。ごめんなさい」と小さな声で言う。
「我儘を言いました。怒らないで…」
「怒っていない。ただな…。おいで」
「……」
彼女はちょっと怖がるように携帯を置いて、ビクビクすり足でコチラにやって来た。
もう一度優しく「怒ってない」と言えば、ゆっくりと側に座る。叱責するつもりなんてちっとも無い。しかしながらこうも怖がられては、期待に応えたくなるような気がする。
彼はそういう男なので。
「リーチ弟か…」
「お疲れなのに、考えさせてごめんなさい」
「いいや。授業中でも他の仔犬にしょっちゅうせっつかれてるんだ。お前に会わせろ家に行かせろとやかましい」
「そうでしたか」
「まるでオレが閉じ込めているような口振りだ。忌々しい」
「ふふ。閉じ込めてくだすったって構いません」
「やめろ。変な気を起こすぞ」
「どんな気」
「ふ。どんな気かな…」
唐突にフーッと息を耳に吹き掛ければ、彼女は驚き…耳を押さえて大袈裟にベチンと床に転がった。
「あうっ」
「ハハハハ」
「ひ、酷い方」
「不服か」
「…いいえ」
クルーウェルは床に手をつき、彼女を眺めながら「そうだな…」と低い声で言って考える。
「家に野良犬を招くのは気が引けるが、他でも無いお前の頼みだ。泣いておいてやる」
「それは承知と?」
「ああ。良いよシュガー。その代わりよそ見はするなよ」
「!ありがとうございます」
愛しい子はパッと嬉しそうに笑った。
多少妬けるがこの顔には敵わない。それに彼女も退屈だったことだろう。
それが癒せるなら良い。
とにかく寂しくなければ良い。
暖かくしてくれればもっと良い。
不安や怖いことがこの先彼女になければ、オレは充分だと思うのだ。
「…先生。もう一つ我儘を言って良いですか」
「なんだ。何を言ってくれる?」
「髪…」
「ン?」
「ブラッシングして欲しくて…」
「おいで」
赤い櫛を持って鏡台の前に連れて行く。
彼女は大きな目を細めて、嬉しそうにうっとりとしていた。
【PM7:00 9日目】
「リーチ弟は?」
「先刻お帰りに」
「は?」
「放課後急に…1時間程いらしたんですけど、飽きたみたいで」
「…オレが不在の間に?」
「ごめんなさい、電話をかけたんですけど…」
「……」
主人の不在時に若い男が来ていたなんて寒気のする話だ。しかも家にはこの子1人。
猛烈に腹が立ったが、彼女はよくわかっていないようだ。
そりゃ何にもなかったんだろう。
なかったんだろうし、そんなふしだらなこと思い付きもしなかったんだろうけど。
「っ?」
「落とすなよ。火傷するぞ」
クルーウェルは彼女に自分の咥えていた煙草を咥えさせた。台所に立った彼女の背後に立ち、細腕に触れる。両腕を後ろで組むようにさせて左手でまとめて掴んだ。
こうすると彼女はもう、動けないし喋れない。
彼はこれに対して実に機嫌を良くした。
同時に随分機嫌も悪くなった。
「お前を殺すのは簡単そうだな」
「、…え」
簪を引き抜いて、セットを崩せば黒髪が落ちる。香の香りが漂う。開いた右手でそれを触った。
彼女は長い煙草を咥えたままビクビクして、背後のクルーウェルの機嫌を伺っている。可憐な首に鳥肌が浮かんでいた。
それを撫でれば、彼女は背中を固くして目を閉じる。
「害するにこれ以上適した女もいない」
「……」
「お前はどう思う?」
「……」
「何か言えよ」
「…、う」
「良い子だ。外してやる」
煙草を唇から外してやれば、彼女は長い睫毛を震わせて眉を寄せた。
まだ蝉の声が外から聞こえる。
彼はこれを珍しく鬱陶しく思った。
「も、もう」
「ン?」
「もう、先生がご不在のときに…お会いしません」
「well-done. 賢いな」
手を離してやれば、彼女は逆に不安そうな顔をしておずおず振り返った。このまま居なくなられるのかと怖くなったのだろう。
そばにいて欲しい。
でも怖い。そんなところか。
「ご…ごめんなさい。許してください」
「それで?」
「へ…」
「許して欲しいのだろ」
「……」
「オレの機嫌を取ってくれよ。可愛いヤツ」
頬にキスをする。
彼女は少し困ってから、眉をしならせたまま…箸を持って。
「が、」
「ちくわ」
「んぐ。…、は?」
「ち、ちくわにキュウリ詰めたの。お好きでしょ」
彼の口にちくわにキュウリを詰めたやつを入れた。クルーウェルはそれを口の端に避けて、なんとも言えない顔をして、眉を寄せて目を閉じる。
「……」
「あ、ご、ごめんなさい。天ぷらも作ります。怒らないで…」
怒っていたのが本当に馬鹿みたいだ。
なんというか完敗である。
なんてバカなのだろ。いや、なんというか。
ちくわか。ちくわにキュウリ詰めたやつか。
そうか。いやもう、なんか。
もうなんかなんでも良いや。
こんな子にどうやって手を出すというのだ。
もしフロイド・リーチがその気だったとしてもこれじゃ無理だ。こんなに簡単に抑え込めるのに、こんなに難しい。
クルーウェルは大人しく噛んで飲み込み、深い溜息をついた。目を閉じて自分の額に手を乗せ、頭痛を堪えるような顔をして。
「オレ、お前のことが好きだ」
と、観念して小さく呟くのだった。
■
【PM5:00 12日目】
今日と明日は休みだった。
夕立ちのサラサラとした音を聞きながら、緑を見て、布団もかぶらずに昼寝をしてしまった。
敷布団の上、うちわを握ったまま横になって寝息を立てる。山颪(やまおろし)が湿気を纏って室内を撫で、柔らかく風鈴を鳴らした。
彼はこの優しい風と糸雨の音を聞きながら…心地良く寝返りを打つ。
浅く幸せな眠りの中で、彼はセピア色の夢を見た。
自分が仏間に座っている夢だ。
線香の香りが立ち込める畳の上、あの人形の目の前に自分が座っている。
人形はいつも通り俯いていて、目を開けない。
何故だかそれが例えようもなく哀しいのであった。
目を開けて欲しい。
声を聞かせて欲しい。
〝もう一度〟何か話して欲しい。
あの薄紅色の声でオレを惑わせて欲しい。
たった一度で良いから。
そんなよく分からないことを思いながら、人形の髪に触れた。
人形はその途端、薄く目を開く。そして黒い目をこちらに向けて…。目の縁をみるみる湿らせて、つるりと透明の涙を落とすのであった。
自分は何故かこれを見て笑った。
だらしなくエヘエヘ笑って人形の頬を触った。人形は哀しげに驟雨のような涙を流し、また目を閉じてしまうのである。
『お蝶』
知りもしない人形の名を読んだ。
人形はもう二度と目を開けなかった。それでもオレはいやらしく笑って、名を呼び続けるのであった。
そんな夢を見て、フ、と目を開ける。
夕立ちはすでに止んでいた。部屋はすっかり暗く、蒸し暑い。僅かに汗をかいている。
クルーウェルは「寝てしまったのか」とようやく自覚して起き上がり…。
「先生」
「、」
隣に彼女が居たことに気が付いた。
長い黒髪を結わずに下ろし、白い着物を着ている。これは確か…寝巻きだったっけ。
クルーウェルはボーッとした顔で彼女を見つめ、やがてポスンと枕に頭を落とした。
「居たのか」
「少し前から。うなされていたので、起こそうかと…」
「…そうか。ありがとう」
「いいえ。──ところで先生」
「ウン」
「お蝶って、どなた」
その声はゾッとするほど冷たかった。
この子のそんな声なんて聞いたことがなくて、クルーウェルはスグに目を大きくする。
見れば、彼女はいつも通り僅かに微笑んでいるのみだった。それだというのに、見知らぬ女かと見紛うほど恐ろしい表情だった。
「え…」
「どなた」
答えあぐねれば彼女がグッと身を乗り出した。顔を覗き込まれて、クルーウェルは夏の暑さに汗を掻く。
お蝶。
お蝶は確か、…あれ、なんの名前だったっけ。
誰かの名前だ。誰の…。
「わ…からない」
「とぼけるおつもり」
「違う。本当にわからないんだ」
「──ア。腹が立つ」
彼女の瞳が行灯の灯りにキラキラ光った。
それが怖くて、気圧され、クルーウェルは汗の続きをかく。
「浮気しちゃ嫌って、幾度も言ったことよ」
言われ、首を振る。
まさか浮気なんてしていない。
それにお蝶なんて、ワンダーランドには絶対にいない名前だ。日本で女を作るなんてありえない。
「していない。オレを疑うのか」
「なら、お蝶ってどなた」
「お…もいだせない。思い出せないが、何もしてない。可愛いお前を置いてそんなことするものか」
「ほんとう?」
「本当だ。嘘なんてつかない」
「ほんとうね」
「信じてくれ」
背骨が一本の氷に変わったようだった。
それ程冷たいものを感じる。かわゆい彼女の真っ白な顔が、この時ばかり信じられないほど恐ろしかった。
「、」
つん、と指で唇をつつかれた。
信じてもらえたらしい。安堵して抱きしめようとすれば、肩を左手で押さえつけられた。
弱い力だが、「起きるな」という意味らしい。
クルーウェルは素直にコレに従った。
「先生。二度と他の女の名前なんて言わないでくださいましね」
「…約束する」
「もし言ったら」
「……」
「その憎い舌、切ってやる」
「ッ」
黒ずんだ彼女の顔が近付いた。
反して声は可愛いものである。本気で言っているのだと分かった。
彼は一拍黙って…なんとか頷いた。
すると優しく抱きしめられる。冷たい長い髪がさらさらと腹を撫でた。クルーウェルは鳥肌を立てながら、何度も頷いて、やっと彼女の薄い背中に震える手を回した。
「…もし私がよそ見したら、この前みたく罰してくださる」
「……」
「私の閻魔さま」
頬をソッと胸板に当てられる。
「二度目はないわ」と言われ。
クルーウェルは金縛りのようになりつつも、ゆるゆる背中を撫でてやった。
この子はとても嫉妬深い。
やきもち焼きで、滅多に起こらないくせ…クルーウェルが僅かにでもよそ見をすると鬼になる。
そんなところが可愛いと思う。
そんなところも愛しいと思って夫婦になった。
似たもの同士なのだ。
クルーウェルとて非常に嫉妬深い男だ。
こういうところが似ているからそれも嬉しくて、夫婦になった。
この子が欲しくて、夫婦に…。
…あれ。
オレ達、夫婦だよな?
■
【PM11:00 14日目】
「ドあっち〜…」
「脱ぐな」
「いーじゃんズボン履いてんだからさぁ」
フロイドは着ていたシャツを脱いで、上だけ裸になった。スラックスの裾をまくり、靴下を脱いでスリッパに履き替える。
彼の付けているシルバーのネックレスがキラキラ光っていた。
「Bad boy, オレの不在時に家に押しかけるとはどういう了見か。魚の前頭葉はそんなに少ないのか?」
「絡むなよ。ヒューマンってほんとめんどくせぇ。え"〜い」
「痛っ」
乳首をつねられてビンタする。フロイドはそれでも僅かに笑っていた。珈琲に浮かんだ埃みたいに、いつまでも無くならない嫌な笑い方だった。
「別になんもしてねぇしするわけないじゃん。海で他の番に手ぇ出したら死刑だよお?」
「そうか。ジャパンは家に間男が入ってきたら心臓を引き摺り出して便槽に捨てろって決まりがあるんだよ。おもてなしの国だからな」
「皆殺しの国じゃん」
「あそこに行った以上お前もサムライだ。武士道に従って腹を切れ。ハラワタを引き摺り出して介錯してやる」
「武士道に従って首斬れよ」
「地方によって介錯の方法が違うんだ。ローカルルールだよ」
「聞いたことねぇしどんな野蛮なとこに住んでの?絶対住所のドッカに地獄って付くでしょそれ」
「仕方ないだろ。オレはサムライソードを持ってないんだ。妥協しろ」
「死に様で妥協したら武士じゃねえし…」
フロイドはカントリーマアムの白ばっかり食べながら面倒臭そうな顔をした。この白黒男、機嫌が悪くなると本当に面倒くさい。こんな野蛮な捻くれ者に付き合わされる彼女が可哀想だ。
心配だ。大丈夫かしら。
「も〜。じゃあ小エビちゃんの写真で手ぇ打ってよ。可愛く撮れたから」
「金」
「要らない」
「違うお前が払え」
「キメーッ。キモすぎ。自覚あるっ?」
「ある」
「おお…じゃあ…。いいや」
「良いのかよ」
クルーウェルは一瞬息の塊を出して笑った。フロイドは「んとねぇ」と携帯を出して画面をいじった。そしてパッと彼に写真を見せる。
そこには、クルーウェルのコートをかぶって眠っている彼女が写っていた。髪をほどき、座布団を枕にして横になっている。
薄物の透ける着物に庭の緑が差し込む寝乱れ姿は美しい。あまりクルーウェルが見れない顔だ。
昼時分の彼女を知らないから。
「あは。お昼寝してたぁ」
「……」
「スグ起きたよ」
「…そうか」
「えっとねぇ。あと〜」
フロイドはシャッ、シャッ、と指で画面をスライドして写真を選択する。クルーウェルはそれを見て、僅かに眉をしかめた。
「待て」
「あ?」
「戻せ」
「なに?」
「今一瞬…。借りるぞ」
「え?なに?」
クルーウェルは手袋を外し、彼の携帯を机に置いたまま写真をスライドして戻した。
すると爺様の仕事部屋が写っていた。物珍しくて写真を撮ったのだろう。それは良い。コレじゃなくて…。
「これは?」
「これ?仏間の写真」
「……違う。この人形」
「何?おじいちゃんが作ったやつでしょ?小エビちゃんに教えてもらった」
「いや、この人形じゃない。もっとデカくて…精巧なものだった」
「?…え?なに?」
フロイドは本気で意味がわからないという顔をする。けれどクルーウェルはそれどころではない。
写真は人形を正面から写したものだった。奥にある襖や間取りから、自分の家の仏間だとスグにわかる。けれど彼は画面を食い入るように見詰め、眉をしかめた。
写真に写っている人形。それはクルーウェルがいつも見ているものと〝全く違っていた〟。
ガラスケースに入っていて、普段見ているものよりずっと小さかった。確かに精巧で美しいが、一髪で作り物だとわかる造りだ。
それに座ってすらいない。立って、扇子を持ち、流し目で斜め下を見ている。
ガラスケースには僅かに埃が積もっていて、写真を撮っているフロイドの姿が僅かに映っていた。
違う。これじゃない。
この人形じゃない。
オレが普段見ていたのは…。
「お前が来たから、しまったのか?」
「?」
「…。仏間の人形はこれじゃないんだ。こんな造りものめいたものじゃない。もっと凄いものがある」
「そーなの?」
「ああ。初めて見たとき人間にしか見えなかった」
「写真ないの?」
「…ない。クソ、撮っておけばよかった」
「ふーん。別に良いけどぉ。興味ねーし」
あくびをされ、クルーウェルは少し腹立たしい気分になる。きっとアレを見たらコイツだって目を丸くするはずだ。これも充分素晴らしいが、日本の職人の腕はこんなものじゃない。
今夜帰ったら撮ってこようと思う。写真を撮らない習慣が仇になったなと思いつつ。
【PM 6:00】
「!先生。お戻りなさいませ」
「ああ。戻った」
「お鞄…」
「いらない。それよりキスが欲しい」
鞄を預かろうとする手を握り、頬を向ける。彼女は少し恥ずかしそうにしてから、ソッと唇を押し当てるだけのキスをした。
そして口元を覆って斜め下を見る。いじらしく実に可愛らしい。
「あれ、先生」
「ン?」
「牛乳買ってきてって言ったのに」
「買ってきたぞ」
「これ甘酒です」
「っえ?あ!」
「ふふ。間違えちゃったのね」
「……。情けない。お使いもできんとは」
「あはは。大袈裟です。似てるもの」
「すまん…」
「いいのよ。ありがとう」
クルーウェルは額を抑えてため息をつく。彼女は気にしていないようで、甘酒を持ってニコニコ台所へ行った。
彼はしょんぼりがてら手を洗いに行き、居間に戻ろうとして…。
やめて、仏間に向かった。仕事部屋の襖を見ないように通り過ぎて仏間の襖を開ける。
人形はやはり暗闇の中、いつも通り中央に座していた。
行灯の明かりをつける。
薄暗がりの中でほんのりと照らされた人形はいよいよもって人らしく、思わず話しかけそうになるほど肉感的であった。
髪の光沢も、肌も。
クルーウェルはスマホのレンズを袖で拭いて、人形をカメラで写して…。
「っ」
驚愕した。
カメラに映ったのは、フロイド・リーチが見せた写真と同じ人形である。ガラスケースに入った、扇子を持った人形。
驚いてカメラを外して見る。
そこにはやはり座した大きな人形が目を閉じている。カメラで映す。扇子を持った人形が映る。…
「…なんで」
なんで違うんだ。
見えているものと映るものがなぜ違う。
こんなにハッキリと見えているのに。
クルーウェルは思わず彼女を呼んだ。遠くから「はあい」と柔らかい声が聞こえて、足音がやって来る。
「カム」
「はい」
「お前、この人形。どう見える」
「?どう…」
「どういう姿をしている?」
妻は戸惑って彼を見詰めた。質問の意味がわからないのだろう。何かの暗喩なのかと思っているのか、困って自分の指を触っていた。
いつもの癖だ。彼女は困ると自分の指を触る。
「…質問が悪かった。お前から見てこの人形は、こう見えるか?」
今撮った写真を見せれば、おずおずと頷かれる。
「肉眼で見る姿と、この写真の姿は一致しているか?」
「は、はい」
「……。…」
クルーウェルは跳ね上がった眉を寄せ、人形を見下ろした。
違う。オレには全く異なった姿に見える。
見知らぬ女に見えるのだ。同じ着物を着ているけれど、同じ簪を付けているけれど。
絶対に違う。
オレだけ別のものが見える。
彼はゾーッとして、一歩下がった。
人形は動かない。背を向けたまま俯いている。
「…忘れてくれ。変なことを言って悪かった」
「先生。あの、どうなすったんですか」
「なんでもない。出よう」
「?はい…」
腕を引いて仏間を出る。
襖を閉じ、クルーウェルは背中に嫌な気配を感じるまま…息を吐いた。
「…。晩飯は?」
「できています。今日はすき焼きですよ」
「ウン…ありがとう」
自分の体の中の血が減っていくような気分になりながら、寄り添って廊下を歩いた。
心臓はドクドクと嫌な音をたてるままだった。
■
【PM12:00 15日目】
湯上りの妻は布団に寝そべり、ラジオで落語を聞いていた。時折ほんのり笑い、目は庭を見つめている。
華奢な肩は丸くなっていた。
長い睫毛が眠気で滲んだ涙に濡れている。
クルーウェルはその隣で仕事をしていたが、やがてタブレットを閉じ、盆に置かれた水を飲んだ。
夏の暑さはだんだんと緩やかになってきている。そろそろ秋風が山から降りて来るのだろう。涼しい日と暑い日を繰り返し、「アレッ」と思えば秋の名月が浮かぶ頃合いだ。
一年は短い。この頃どんどん速くなるような気がする。愛しい人との一年はどれだけ長くても足りないと言うのに。
「寝ないのか」
頭を撫でれば、彼女はかわゆくまどろんだ目をこちらに向けた。柔肌は湯上りに火照って常よりも柔らかい。蝋燭の灯りが時折風に揺れて、彼女の香の香りが彼の着物の中に入った。
「先生こそ。眠らないと、鬼がくるんですよ」
うとうとした顔で言う。
クルーウェルはフ、と笑って横向きに寝そべる。肘をついて彼女の腹に手を乗せ、「鬼?」と問う。
「お父さんが言ってました。速く寝ないと鬼が来るって」
「ハ、けしからんな。夫婦の邪魔をするのか」
「夜はそういう時間なのだって…。眠れない日は怖かった」
「怖い時間じゃないさ。証明してやろうか」
彼女はほろりと微笑んで、もそもそと彼にくっ付いた。鼻を鳴らして匂いを嗅ぐのが仔犬らしくて可愛い。
満足したらしく、目を閉じた。
この子は彼の香りを嗅ぐのが好きなのだ。
「たばこのにおい」
「嫌か」
「いいえ。…ネ、先生」
「ん?」
「怖い時間でないのなら、なんの時間?」
「お」
PC用の眼鏡を外された。
するっと白い手が着物の合わせ目に差し込まれ、首筋に接吻をされる。
クルーウェルは「おおっ」と思い、嬉しそうに彼女を見つめた。愛しい子は幽鬼の冷艶を持ってうっそり微笑む。生気を吸い取るような美しさだった。
滑らかな足がクルーウェルの足の間に入る。
黒髪が後ろ背に流された。
「夫婦(めおと)の時間ってなにをするの」
「、」
クルーウェルは堪らずガシッと彼女の細い腰を掴み、可憐な喉に噛み付いた。
あん、と甘い声がまろび出る。
「ベイビー、悪いが明日朝早いんだ」
「あ…」
「だから寝ないで行く。朝まで付き合ってくれよ」
「ふふ」
煙草の香りと女の香りが混ざった。
後に残るは紅色の声ばかりである。
【AM5:00】
「ん…」
眠っていたのは、多分、僅か30分程。
彼女はこちらに背を向けて眠っていた。足の裏が僅かに当たっていて、冷たい。
暁闇の朝。明烏の声がした。
室内は青く、行灯の灯りがぼんやりとし始めている。もう時期朝焼けがくるのだろう。
クルーウェルは彼女の背中に寄ろうとした。
「、…」
寄りたかった。なのに動けなかった。
横向きに寝ているクルーウェルは背中を張り詰めさせ、ぴったりと動きを止める。
自分の後ろで、誰かが眠っている気配がしたからだ。
知らない香の香りがした。
背中に体温を感じる。
僅かに動く、衣擦れの音が聞こえた。
最初は気のせいか、寝ぼけているのかと思ったが…。集中して背後の気配を探ると、スル、と着物が擦れる音がするのだ。
女だ。
女が後ろにいる。
女がオレを見ている。
夢かと思う。
けれど明けていく空も、感触も感覚もあまりにリアルで…到底夢とも、寝ぼけているとも思えなかった。
一体なんだ。なにが後ろにいる。
気のせいじゃない。
絶対に今何かが後ろで寝そべっている。
クルーウェルは一切の動きをやめる。しかし、鳴り出した心臓を抑えたくなる。彼は指先一つ、布ひとつ動かさないようにして、背中の音をただ聞いた。
基本はなにも聞こえないが、時折すう、と息を吸い込む音や、絹の音が聞こえた。
彼は全身の神経を背中に寄せることしかできなかった。
「…せんせ」
「!ぁ」
背後から、声が聞こえた。
あの子の声だ。あの優しくて可愛い声。
背後の女は寝ぼけているようで…ゆっくり彼の背中に近づき、キュッと着物を握った。
そのまますうすう寝息を立てる。
クルーウェルは目を見開き、ジーッと固まった。
後ろにいるのは妻だ。
彼女に違いない。
では、今オレに背を向けて寝ている女は…。
まさかあの人形だとでも言うのだろうか。
■
【PM9:00 18日目】
クルーウェルは縁側に座し、月を眺めていた。
夏の夜は黒い。緑色は跡形もなく、揺れる木々も花さえも黒かった。
虫の鳴き声だけが透き通っている。
あれから彼は幾度もあの仏間のことを考えた。
あの人形のことを考えた。
しかし幾度考えても確かめても、やはりあの人形が人間に見えるのは自分だけだった。
それに…あれから奇妙なことに、あの人形は時折姿を〝消した〟。
仏間を開けて見れば常に中央に座していた人形は姿を無くし、そこはもぬけのからであったりするのだ。
クルーウェルは驚いてカメラをその場に向ければ…写真にはガラスケースの中にいる舞踊人形が映る。
しかし彼には人形の姿が見えなかった。
畳の上には何もないように見える。
彼は空っぽになった仏間をジッと見つめ…「これは」と思った。
あの人形は今、別の場所にいると。
この屋敷のどこかにいる。
そう思って僅かに青ざめ、仏間を出て…。
よせばいいのに、家の中を探した。その探している折に、寝室にてこちらに背を向けて座る女の姿があった。
クルーウェルはその女が、自分の妻なのか、それとも人形なのか全く見分けがつかなかった。
赤い着物を着て、髪を結い上げ、俯くように座っている女の姿は寸分違わず重なって…クルーウェルは入り口にしばらく立ち尽くしてから、妻の名前を呼んだ。
『はい?』
そう言って振り返ったのは、やはり妻である。
彼は心底ホッとして彼女を抱きしめた。
そんな日々が続いたのだ。
この頃胃の痛む思いである。
あの人形を人間として見ているのは彼だけだ。人形もきっと、クルーウェルが自分を人間として見ていることに気が付いた。
それから【動くようになった】のだ。
仏間を離れ、屋敷内を移動するようになった。
人形が動いているところは見たことがないが、見ていないうちに動いているのだろう。
だから彼は、屋敷の中で赤い着物を着た後ろ姿を見るとイッキに心臓が青ざめるようになった。妻か、人形か分からなくて…声を掛けるのが怖くなった。
仏間に姿があれば心が落ち着くが、居ない時は本当に怖い。
この前、庭にあの人形がジッとこちらに背中を向けて立っているのを見つけた時は生きた心地がしなかった。
妻に心配をかけたくなくて気づかないふりをしたが…。どうにも恐ろしくて、彼は心臓をドクドク言わせながら上の空なのであった。
一体なんだというのだろう。
人形に魂が宿ったとでも言うのだろうか。
男が生涯をかけて作った人形だから。…
「先生」
「……」
「先生?」
「ん。ああ、悪い。なんだ?」
「…先生、このごろ上の空ですね」
「…そうか?」
「何かあったならおっしゃってください。お仕事のことですか?」
「いいや。何もない」
クルーウェルは優しい作り笑いをした。
彼女はそれに哀しげな顔をして、ふ、と庭を見る。本心を話して欲しいのだろう。
けれど彼はこれを言いたくなかった。
彼女を怖がらせたくないし、爺様の作ったものを不気味呼ばわりはしたくない。
それに「あのお人形が怖いからなんとかして」だなんて恥ずかしくて言いたくなかった。
信じて貰えるかも分からないし。
いや、彼女は信じてくれるだろう。
だからこそダメだ。
彼女が何も分からないというのなら、そのままで良い。
「…悪い。悩みではないが、この頃何かと忙しくてな。随分疲れている。頭がボーッとすることが多い」
「!…そうでしたか」
「ああ。愚痴を言いたくなかった。余計な心配をかけたな」
「いいえ。話してくれて嬉しいです。…お疲れでしたら、肩をお揉みしましょうか」
「うーん」
「耳掃除?」
「いや」
「あ、お酒。上等なのをお隣さんから頂いたんです」
「違うな」
「…。えっと…」
彼女はクルーウェルをチロ、と見てから自分の指と指を合わせて考え込む。彼の目は光の加減で仄暗く見えた。
「ハニー、分からないか」
「す。すみません。お役に立てず…」
「亭主が疲れているんだぞ」
「………」
黙りこくって本格的に困り始めた彼女がかわゆくて、クルーウェルは鼻息だけで笑った。
「お」
「ン?」
「お背中」
「ウン」
「お流しします…」
「Good girl. 完璧だ」
腕時計を外し、ネクタイを緩める。
彼女は眼を合わせない。言っていて恥ずかしくなったのかなんなのか。
クルーウェルはスッカリ上機嫌になって立ち上がった。赤い手袋をはめたままの手を差し出す。彼女はしずしずと手を取り、彼の背をついて来る。
ス、と襖を開け。
暗い廊下に出て電気を付ける。
「!」
そこでクルーウェルは、廊下の奥に〝あの背中〟を見つけた。赤い着物を着た、俯いている後ろ姿。今は直立し、廊下の奥の壁際に項垂れている。
彼女には見えないらしい。
ドンッと臓器が突き上げられるような衝撃を感じ、握っていた彼女の手を不自然に握ってしまった。
「お蝶…」
彼は言った。
それは無意識だった。
自分が今何を言ったのかも分かっていなかった。
「先生」
後ろから声をかけられてハッとする。
クルーウェルはすぐに顔を取り繕って、「なんでもない」と曖昧な作り笑いをした。
2人はそのまま風呂場に向かう。
背後に居る妻がどんな顔をしているかも知らないで。
■
【PM7:00 20日目】
三面鏡から抜け出て、鏡の前に敷かれたマットに立つ。そこで靴を脱ぎ、ふぅ、と鼻で軽いため息をついた。
「戻ったぞ」
「あ」
奥からパタパタ走る音が聞こえ、襖が開く。愛しの彼女が嬉しそうにそばに寄ってきてくれる。
「お戻りなさい」
「ああ。今日は随分疲れた」
「お風呂に入りますか」
「いや、腹が減った」
「今準備します」
「ありがとう、いつも」
彼女は少し迷ってから、彼の頬にキスをしてくれた。やっと覚えた習慣である。躾の甲斐があって今は何を言わずともしてくれるようになった。
台所で嬉しそうに準備をしてくれる彼女の後ろ背を見ながら居間に座った。
家事の役割分担を申し出たのは彼の方であるのに、結局あれは上手くいっていない。なんせ先回りして家事をすると、彼女が申し訳なさそうな顔をするからだ。皿は洗うから座ってろ、片付けはオレがするからと言ってやっていると…あの子は猛烈に落ち着き無く、ソワソワして、悪いことをして怒られるのを待っているような顔をする。
だから2人はもう一度話し合った。
彼女は世話を焼くのが好きなようで、クルーウェルの為に働くのが幸せなようだった。逆に先にやられてしまうと寂しくて、落ち着かなくて辛いらしい。
お勤めは男が、家のことは女がという古代思想が彼女にはピッタリ当てはまっているそうなのだ。
なので仕方なく、役割分担は途中から諦めた。
「お前が言えば必ず手伝うから。お前が不調の時はオレがやるから、絶対に言えよ」という約束を取り付けて。
仕事を取り上げられるのが嫌ならば、我慢しようと思うのだ。
外国人というか、異世界人と結婚するってこういうことなのかなあと思い直すことでなんとか無理矢理納得した。
「イタダ…キマス」
「召し上がれ」
ぎこちなく言ってフォークを取る。
箸はまだ使えなかった。多少練習したのだが、正しい持ち方をすると開けないし物をつまめない。自己流でやると〝バッテン箸〟というやつになっているらしく、それはマナー的に良くないそうだ。
彼女は食べられればそれで良いというので、気にしていないようだが…。
日本人というのは器用な民族なのだなぁと改めて思う。彼女が特別器用なのかもしれないが。
「……」
「あ、お魚ほぐしますね。気が利かなくてすいません」
「すまん。なさけない…」
「ふふ」
魚もダメだ。自分でやるとカラスがつついた後みたいになる。メスとピンセットが必要だ。
何故こんなものを二本の棒のみで美しくほぐせるのか理解に苦しむ。
器用にやっているのを見ながらミソシルを飲み、ボーッとしていると。
やはり体が疲れているのか、自分の頭があまり働かないことに気がついた。
「そういえばね、今日工具屋さんに行って…」
彼女は魚をほぐしながら1日あったことを話す。クルーウェルは肘をついてそれを聞いた。
返答は少し上の空だ。
座ると一気に疲れが来たというかなんというか。
妻の顔をボケッと見つめていれば、妻が顔を上げてこちらを見る。視線がかち合って、彼はやっと正気に戻った。
今何の話をしていたっけ。
今オレ、何か聞かれたのかな。
「すまん、もう一度…」
「先生。黒方の香りがしますね」
「…クロボウ?」
「薫物の香りです」
「タキモノ。…お前が付けてる香の香りか?」
「はい。私は荷葉(かよう)を付けているんです。夏ですから」
「匂いするか?」
「ええ。驚きました。それは薬品でも付かない匂いだから。私ね、黒方の香りが一等嫌い。気分が悪くなるのよ」
彼女は魚の続きをほぐしながら、低い声で言う。クルーウェルはよくわからなかったが…彼女が珍しく怒っていることくらいは分かった。
黒方の匂い。確かに自分から嗅いだことのない香りがするような。注意しないと分からない程度だが。
とにかく彼女が嫌いならすぐに風呂でも入ろうと思った。この子の機嫌が悪くなるなんてよっぽどだ。
「どこで付けてきたんだか…。すぐに風呂に入る。悪かった」
「ええ全く。どこで付けてきたのだか。黒方の匂いでも纏った女でも抱かなきゃ、そう強くは香らなくてよ」
「!」
「…品の無い女。人の亭主に匂いを残すなんて。犬みたいな真似をするのね」
妻は魚の骨を箸でつまみ、抜いて小皿に乗せながら微笑んだ。身をほぐして皿の隅に避ける。
秋刀魚は彼の好物だった。
彼女はそれを知っているから、丁寧にほぐしてすり下ろした大根をそばに置く。そうして雨が降るようにシトシトと話し続けるのであった。
「貴方、この頃は上の空だった。知らない女の名前を寝ている間によく呼んだ。最近は匂いをつけて帰ってきた」
「…違う」
「先生は分かりやすいんですね」
「オレは何も…」
「莫迦な人。よりにもよって日本で女を作るなんて」
彼女は箸を置いて、袖を押さえて彼の前に皿を置く。綺麗に解された秋刀魚が置かれた。
「はい、できた」
「………」
クルーウェルはドッと汗をかいて皿と彼女を見つめた。違う。誓ってそんなことはしていない。自分は潔白だ。
黒方の香りにも覚えがない。きっと扱った薬品がそんな香りだったのだろう。それに最近上の空だったのは別の理由だ。広義で捉えれば別の女だが、あれは生き物じゃない。
それに知らない女の名前というのは…覚えが無いが…とにかく、自分にそんなやましい覚えはないのだ。
「食べないんですか」
「ハニー、オレの目を見てくれ」
「見ております」
「神に誓ってオレは何もしていない。そんな暇はないし、お前以外を女だなんて思っていない。オレにはお前だけだというのに」
「左様ですか」
「信じてくれ」
「…先生」
「ああ」
「では、こちらに」
「え」
「…こちらに」
有無を言わさぬ瞳だった。
彼女は立ち上がって、すり足で寝室に向かった。クルーウェルはドクドク言う心臓を抑えて背を追った。
家の中はあまりに静かだった。車だって通らないから、夏の音以外何も聞こえない。
行灯の灯りが灯される。
入り口付近で立ち往生していれば、愛しい子はゆっくり畳に座り、脇息(きょうそく)に肘をついた。
そのまま彼を見上げ、目を細める。
「脱いで」
「は」
「脱いでください」
「……」
「疾く」
脱げ、とは。
立ったまま、彼女の目の前で服を脱げと。
クルーウェルは流石に目的が知りたくなったし、何かを言わずではいられなかったが…。彼女の顔があまりに静かで恐ろしかった為、飲み込むしかなかった。
気圧されたのではない。これ以上機嫌を損ねれば、話ができなくなると判断したのだ。
疑われることなど何もない。
堂々としていれば良い。
「……、」
黙って手袋を脱ぎ捨て、ネクタイを解く。ベストのボタンをポツポツと外し、床に落とした。
チラ、と彼女の顔を見る。
彼女はこんな時であると言うのに、場違いな色を覚えてしまうほど美しかった。この子の冷たい顔などそう見れるものではない。
とても怒っているのだ。
それは分かる。分かるのだが…。
黙ってワイシャツも脱ぎ、黒の肌着も脱いだ。
ベルトを引き抜き、靴下を脱ぎ…。
「先生」
「、」
「いらして」
細く、枯れ枝のような白の手に招かれる。
クルーウェルは上に何も纏わぬまま、大人しく彼女の前に座った。
すると彼女はいつものように…煙のような具合でふわっと胸板に顔を近づけ、目を閉じる。
そして花弁のような目を開き、「ふ」と笑った。
「抱いたのね」
「っ、抱いてない。お前以外に女などいない」
「服についた匂いじゃなかった」
「…あのなぁ。オレはお前のことを考えない時なんてないんだぞ。そんな男がどうして他所の女とファックなんざするんだよ。なあスイート、オレはな…」
「よく回る口だこと」
「お前が嫉妬深いのはよく知ってる。夫に尋問するのが趣味なこともな。でもオレは残念ながら無罪だ。叩いたって何も出ないぞ」
「ほんとう」
「本当だ。嫉妬されるのは正直嬉しいが、疑われるのは哀しい」
「信じられない」
「…っ」
「先生は素敵な方だもの。そうでなくても引く手数多でしょう。女は欲深いの。女房がいたって関係ない」
「…」
「でもそれは、貴方が断れば良い話」
クルーウェルは違うと言いたかった。
本当に何もしていないんだと言いたかった。
だのに声が喉から出なくて、体がどうしてか動かなかった。
抱きしめて欲しい。信じて欲しい。
しかし証明のしようもない。クルーウェルは畜生と思って、抱きしめてやろうとして…。
「…あ、?」
ゴトン、と畳に倒れてしまった。
指先が痺れている。白髪が絡まって、口がうまく閉まらない。そのくせ人差し指が痙攣して、ビク、ビク、と震えていた。
「?、あ、…え」
足が全く動かない。
腕がギクシャクして声が出ない。
信じられない気持ちで見上げれば…彼女の顔は髪で隠れて見えなかった。
「約束したのに」
■
【AM4:00 21日目】
「ぅ、…」
頭が痛かった。
体が重く、自分の体重が倍になったみたいに息苦しい。口の中に違和感を感じて目を開ければ、自分は見知らぬ座敷に寝そべっていた。
下には布団が敷かれている。体に毛布がかけられており、寝ていたのだと分かった。
「グッ、」
頭の奥が痛んだ。全身が筋肉痛になったみたいだ。眉をしかめてやっと手を動かして…。
「あ、」
自分にかけられた手錠を見て、イッキに脳が覚醒した。
鉄の重い感触と垂れた鎖。
その鎖の上に腕を転がして寝ていたようで、白い皮膚に赤い鎖の跡がついていた。
口に布を噛まされている。それは唾液を吸って重くなり、ネズミの死骸みたいにずっしりと重かった。
足の感触を探るに、足にも枷がかけられているのだと分かる。
なんとか頭を持ち上げて周囲を見れば、ここは二間続きの離れであった。もう使っていないと彼女が言っていた離れ。
窓に木の格子がはめられた場所だった。
もっと埃臭くてカビ臭い場所だと思っていたのに、知らぬ間に清潔になっている。
「……」
クルーウェルはドサ、と枕に頭を転がし、全身を脱力させながら…自分の状況と改めて向き合った。
確かあの後、気を失った。
薄れていく意識の内に、引きずられているような感覚がして…。…ダメだ、覚えていない。
なぜ体が痺れた。
まさか毒を盛られたとでも言うのか?
バカな。そんなことがあればいくら信用していたとしても気がつくはずだ。薬品ならすぐに分かる。このオレに薬を盛るなんて…。
いや待て。分かるはずがないか。
オレは日本にある毒を全く知らないのだ。
世界が違うのであれば、気がつかなくたって当たり前だ。
しかしまさか、あの子が?
あの子がオレに毒を盛ってここに閉じ込めたとでも?有り得ない。あんな、虫も殺せないような子が…。
「いっ、」
頭が痛い。息が苦しい。
汗が気持ち悪い。船酔いした気分だ。
クルーウェルは頬にかかった鬱陶しい髪を払う気力もなく、ただ息をしてグッタリと横たわる。
眉間にシワを寄せて呼吸を続け、なんとか起き上がろうとして…幾度も失敗し、目を閉じた。
閉じ込めたのは彼女に相違ない。
どう考えてもそれ以外にあり得ないだろう。
けれど彼は本当に信じられなかった。あの子はそんなことをする子じゃない。こんなこと思い付きもしないだろうし、したとしてもやるわけが無い。
…それでも、あの子がやったのか。
オレの〝密会〟を疑って…。
オレの不貞が許せなくて…。
「先生」
「!」
離れの扉が開く音がする。
歩く音がして、襖が開いた。
クルーウェルは振り返ろうとして…なんとか仰向けになる。そうして涙で滲んだ目を彼女に向けた。
彼女はゆっくりと襖を閉じ、ビニール袋を持って布団のそばに座る。
クルーウェルは薄くて早い呼吸を繰り返しながら、彼女を見上げて眉を寄せた。
説明が欲しかった。一条の汗を掻いて、夢を見ているみたいな目で見つめた。
「先生、苦しい?」
「……」
「ごめんなさい。暫くしたら平気になるから。それまで寝ていてください」
「……」
「暑いのね。今拭きます」
濡れたタオルを取り出して、黙って体を拭かれる。冷たくて心地よかった。首に流れた汗を拭かれた。彼女はある程度拭くと、タオルを桶に浸し、絞って額に置いてくれる。
「大丈夫よ先生。ここは水回りもあるし、ちゃんとお世話します。ご飯も持ってくるし、退屈しないように先生のお部屋から本も持ってくるから。すぐに慣れます」
「……」
「必要なものがあったらおっしゃってくださいましね。持ってきますから。旦那様のための仕事なら、私嬉しいの」
「……」
「あ…でも、ワンダーランドからは持って来れなくなりました。ごめんなさい。鏡は割って捨てたから」
「!な、…けほ、」
「いけません。安静になさって」
「ぁ、…ぐ」
「先生はずっと日本で私と暮らすのよ」
「……」
微笑んだ白い顔が近付き、クルーウェルは目を見開いた。呪われたみたいに体が動かない。
浅い息をただ繰り返し、彼女の顔をすがるように見つめた。鏡が割れた。鏡を割った。
そんな。まさか。
それじゃあオレ、本当にどこにも…。
誰もここに来れないどころか、唯一の通り道が…。
本当にこの子がやったんだ。
この子が…。
そういえば工具屋に行ったと言っていた。それはきっと、このつもりで…。
「お水飲みますか?…飲みましょう。お体に悪いから」
頭を持ち上げられ、膝の上に乗せられる。
噛まされていた布を外された。開放感に口を開け放しにして…何か言おうと思うのに、気力がなくて何も言えやしなかった。
冷たい水を飲まされ、溢しながらなんとか飲む。そうすると優しく撫でられ、嗚呼と思う。
体を優しく起こされて抱きしめられた。
クルーウェルは無抵抗で全身の力を彼女によりかけ、ぐったりと目を開閉する。
「ぁぐ、」
「この忌々しい舌、切ってやろうかと思ったけど…。先生が死んじゃうかもしれないからやめたんです」
「…ぅ」
彼女の可憐な指が口の中に入る。舌をつままれ、クルーウェルは苦しそうに鋭い眉を寄せた。拭いてもらったのに汗が落ちる。青白い顔をした彼は唾液を溢しながら、(鎖が重い)と思った。
まともに何かを考えられない。彼女から香る古い雨のような香りを嗅ぐとボーッとして…ただ(鎖が重くて、手が痛い)と思うのであった。
「大好きよ先生」
「……」
「誰にもあげない」
「……」
「可愛いひと」
彼女は無抵抗な肌にキスをした。彼の黒髪を撫で、「痛そうだから」とピアスを外す。
暫く彼女は彼を撫でていた。
やがてクルーウェルが苦しそうに咳をすれば、優しく布団に戻し、髪を払ってくれる。
「おやすみなさい。大好きよ」
言われた途端、さら、と短い髪が頬から落ちる。クルーウェルはそのまま眠ってしまった。
■
【AM6:00 23日目】
この部屋に閉じ込められてから2日経った。
クルーウェルは白い枕へ顔を横にして寝そべり、チィチィという鳥の声を聞いていた。窓の隙間からやってくるその音と、明かりとが、今が朝であるということを知らせてくれるのだ。
本当ならもう学校へ行く準備をして、ある程度暇を潰してから鏡を通る時間なのだが…。生憎昨日も自分は丸一日学校に行かず、今日も行けないままでいる。
いや、もう学校は愚か、ワンダーランドにすら帰れない。〝元の世界〟の路はもうどこにも無いのである。
あの子が割ったから。
突然のことに頭が混乱するけれど…薬のせいか、頭があんまりにも働かなくて、「困ったなあ」と言う気分にしかならなかった。
まともにものを考えられないのだ。
とかく、こうくれば孤独だった。
流石のクルーウェルも「まさかあの子がそんなこと」と思うことも無くなった。
まさしくあの可憐なかわゆい子が、コレをやってのけたのだと理解せざるを得なかったのだ。
愛しいあの子との家は、スッカリ化け物小屋に成り果てた。
分かったのは、彼女の執着心が異常であること。彼女の〝嫉妬深さ”は並大抵ではなかったこと。
並ならぬ嫉妬と疑い・そして恋の果てに、こうした残酷な事柄を行った女の家に身を横にしているというのは恐ろしいことだが…。
クルーウェルは彼女を恨む気には全くなれなかったのである。
自由を塞がれ、元の世界に帰る路さえ塞がれたのだが、自分はあの愛しい化け物を怖がることすらできなかった。
腹の奥で何故してもいない秘事を責め立てられ、こんな目に遭わねばならないのだと考えてみても…結局彼女が自分の世話をしにやってくれば、そんな小さな怒りはすぐに吹き飛んでしまうのである。
まるで犬になったような気分だ。
首輪で繋がれ、不条理さを胸中に抱きつつも、必死で主人に媚びることしかできない哀れな男に成り下がった気分だ。
しかしそう思って自分のプライドが軋むかというと、そうでもない。なにだか寧ろ、あの子がコレ程まで自分というイッコの男に囚われているのが嬉しいとまで思うのであった。
当然だ。
自分はずいぶん苦心して彼女を手に入れたのだ。様々なことはあったけれど、とにかく彼女を手に入れるためにアレコレと…。…?
…あれ、なにをしたのだっけ。
どうやってプロポーズをしたんだったか。
どんな風に苦心したのだっけ。
…まぁいいや。
どうでも。
外でピチピチと鳥が鳴いている。
彼は起き上がろうとして、しかし体がやはりだるく、ドス、と改めて寝転がるだけだった。
とかく、歯を磨きたい。
口の中が気持ち悪い。歩けば部屋の中に水まわりはあるから、歯磨きくらいどうということもないが…物凄くそれが億劫で、結局床に伏していた。
眠気で涙が出た。
手錠は邪魔だったが、そのうち気にならなくなるのだろう。そして外した日には、手錠をかけられていないことが堪らなく不安になるのだろう。
暴れ出したっていいのに。
彼女の顔を見るなり痛罵を浴びせたって良いのに。逃げようとすればきっと、男の力ならなんとかできるんだろう。
拘束の仕方は雑で、素人の仕事だと分かるほど稚拙である。全力で鎖を引っ張り、壁を蹴り壊せば、きっと出られるんだろう。
見るにこの手錠も物凄く頑丈というわけでもないし。魔法石がなくとも簡単な魔法くらいならできる。
けれど…クルーウェルはやはり、そのどれもしようとしなかった。
彼を今支配していたのは哀しみである。
彼女に疑われているという辛さばかりだった。
ここまでされても自分は潔白を証明することができない。そしてここまでされても自分は彼女がどうしようもなく好きなのだ。
拘束を外そうとしないのは、彼女の為だ。
あの子が隠れて泣いているのなら…泣き止める材料としてオレは此処で何もせず、横になり、逃げるそぶりをちっとも見せない。
まさか自分が此処まで健気であるとは思いもしなかった。クルーウェルは自分のことをもっと傲慢で、強情で、プライドの高い男だと思っていた。
自分自身驚いているのである。
…あの子、今なにをしているだろう。
寂しくしてないだろうか。
退屈してないだろうか。
ちゃんとメシ食ってるかな。
大丈夫かな。
今なにを考えているかな。
ちゃんと今、幸せかな。
そんな場にそぐわぬことを思いつつ、彼は畳の上に落ちた日差しを見つめていた。キラキラと埃が落ちる様を、自分の足枷から伸びる鎖がキラキラ光る様を、ジッとその鋭い瞳で見つめているのであった。
「、」
戸が開く音がした。
下駄を脱ぐ音、離れに上がる音。
すり足で歩く音、襖が開く音。
彼女だ。
「ぅ…」
クルーウェルは片眉をキュッと寄せ、愛しい子を見上げた。
「せんせ」
彼女はこんな時でも美しかった。
彼という養分を吸って美しくなっていくような、雪娘の美貌を称えていた。白雪の肌は朝日に光り、青ざめたように透き通って、小さな唇にさした紅が遠くからでも華やかに見える。顔に花が咲いているみたいだった。
彼女はいつも通り彼のそばに正座をして、頭を撫で、「おはようございます」と優しい声で言う。
クルーウェルは僅かに頷き、だるい頭を転がしたまま瞬きだけをしていた。
「歯磨きしますか」
「……」
「お口、気持ち悪いのでしょ」
「……」
「待っててくださいね」
彼女は彼の体を起こして背中を壁につけてやった。クルーウェルはぐったりと壁に寄りかかり、老いたワニのような目で彼女の白い手を見つめる。
「お前は頭がおかしいのか」と言うことも、「どうしてこんなことをするんだ。お前はもうオレがかわゆくは無いのか」と縋ることもやはりしない。
彼は黙って項垂れることで彼女を責め立て、また、彼女への忠誠を示していた。
「お口開けて」
「……」
ア、と口を開ければ、冷たい歯ブラシが口の中に入った。彼女は嬉しそうに彼の歯を綺麗に磨き、その鋭い犬歯や歯の裏側までも丁寧に掃除する。そうして水の張った桶へ口の中身を吐かせるのであった。
クルーウェルは実に素直に口を濯ぎ、桶の中に口の中のものを吐いた。
歯磨き粉の白と、粘性の唾液と、僅かなヤニ汚れが混じったものが清水に沈んでいく。
「お水飲みますか」
「…ウン」
「どうぞ」
飲み終われば、彼女は嬉しそうに彼の二の腕に頭をよりかけた。胴に手を回し、目を閉じる。
既視感があった。
いつかの休日、起き抜けのクルーウェルに彼女はこうして寄り掛かってくれていた。彼もボーッとして、部屋の緑を眺めていたことがあった。
あの時2人は間違いなく夫婦(めおと)で、互いの幸福を願い合う男と女であった。
今は…。今は、なにだと言うのだろう。
あの時となにが違うと言うのだろう。
クルーウェルはあの日がたまらなく恋しくなって、戻りたくなる。
だから丸一日黙っていた口をやっと開き、隣の彼女へ話しかけた。
「なあ。…オレを閉じ込めるのは良いよ。この際もう構わない。だけど、疑うのだけはよしてくれよ」
「……」
「オレはちっとも怒ってないんだ」
喋ってみると、自分とは思えないほど臆病に聞こえた。なんだかまるで言い訳をしているみたいだ。此処から出たくて媚を売っているみたいに聞こえる。
「ハ。いや、もう良い。なんでもない」
クルーウェルはゴミを捨てるみたいに言った。
彼らしく顔を歪め、口端だけ吊り上げて笑い、顔を逸らす。
そうして怠い体でドサ、と布団に寝転がり、彼女に背中を向けた。
「殺すンなら殺せよ。前に言ったろ。オレは別に食われたって構わない」
「……」
「本当に女狐だったな」
あの日の会話をなぞって、彼は目を閉じる。
今度は彼女が黙る番だった。
今どんな顔をしているのか分からない。
クルーウェルはいつだって手を広げていたかった。彼女がなにをしても、正体がなにであろうと抱きとめたかった。
なのに彼は切なくて、哀しくて投げ出した。
彼女の幸せそうな顔を見て突き飛ばされたように哀しくなった。
あの緑の日に帰りたい。
彼女もそうであって欲しかった。
だから寂しくて背を向ける。縋りついて欲しくて目を閉じる。
「左様ですか」
しかし彼女は感情なく言って立ち上がり、すり足で離れを出ていった。
クルーウェルはパッと目を開き、無理矢理起き上がって顔を歪める。
「なんだよ」
初めて大声を出した。けれど多分、彼女は振り返らなかったんだと思う。
返答がなかったから。
■
【PM7:00 27日目】
人を閉じ込めている癖に、彼女はすごく冷静だった。それどころかスッカリ日常の一部にして、この奇妙な生活を〝夫婦生活〟として信じて疑っていないように見える。
まるで最初から決まっていたことみたいに、千年前から同じことが続いているみたいに緩やかだった。
クルーウェルはこの5日の間、スッカリ彼女に洗いざらい話して見せた。
上の空だった理由を。人形のせいで心ここに在らずであったと。
されど彼女は「そうですか」と言ったきり、全く追及しない。
信じてもらえていないのかと思って話を続けたが、どうやら信じてくれているらしい。
それなのに拘束は解けない。
部屋から出してももらえない。
彼は彼女に飼育されているだけで、現場は特に回復しなかった。
彼女は無邪気だった。
いつも通り隣に座り、腕に寄りかかり、なんでもないことではしゃぎ、幸せそうに喜んでいた。
それがあんまりいつも通りだから、クルーウェルはなんだか麻痺しそうになる。
普通に返答をして自分も笑い、ハ、と正気に戻ることばかりだった。
正気に戻れば、彼は必ず疑いを晴らそうとする。そうすると必ず彼女は「左様ですか」と言って冷たく去っていく。それは涙が出るほど寂しいことだった。
その繰り返しだった。
次第にクルーウェルは自分の身の潔白について話さない方が良いのかと思い始める。
自分は悪くないと弁明するのが悪なのではないかと考え始める。
だから彼女が去ってしまわないように、クルーウェルはむしろ自分の現状について触れないようにした。鎖が音を立てないようにして、今まで通り接した。
すると彼女はますます幸せそうに、美しくなり、彼の体にもたれかかって「あつい」と優しく言うのだった。
クルーウェルはたった一週間で、「これはもう戻れないな」と強く自覚した。
「オレ多分、一生このままかもしれない」と思った。2人は話し合わなければならない。話し合って解決しなければならない。
なのに彼女は話し合いを避けていて、向かい合おうとしたクルーウェルもその気力を削がれつつある。
このままダラダラ続ければ、きっと自分は二度と浮気の話を持ち出さなくなるだろう。信じてもらおうとしなくなるだろう。
こうくると彼女は自分を此処に閉じ込め続ける。いや、身の潔白が晴れたとしても、此処から出す気などないのかもしれない。だって鏡を割ったんだし。
「……」
しかし。
多少の恐ろしさや不自由さはあれど、こんなに穏やかな監禁があるのだなと思った。
意外と結構余裕だ。心も体も。
多分それは、オレがあの子を怖がっていないからなのだろう。
今厄介なのは退屈であること。
体が怠いこと。彼女に会いたい時に会えないこと。食いたい時に食えないこと。
「ン。あ、クソ」
…ジッポーのオイルが切れたことも追加。
クルーウェルはしつこく着火を続け、やっと付いた火でタバコの先端を炙った。
ふっと煙を吐いて、今後のことを考える。
取り敢えずオレは此処を出たい。
できればお互い納得する形で元の生活に戻りたい。
一生繋がれているのなんてごめんだ。
これは物凄く長期的で難しい夫婦喧嘩だと捉えることにしないと先に進めない。
なれば〝仲直り〟することが先決。
しかし仲直りをしようとすると、彼女はこの部屋を去ってしまう。
であればなるべくその辺のことには触れずに機嫌を取り続けるべきだ。あの子がオレを此処から出したくなるように誘導しなきゃならない。
向こうのやり方は分かった。
あとは此方がどう対処するかだ。
「………」
自分の手首はアザだらけになっていた。
薄い黄色のアザと青いアザが点々としている。長い時間手錠をすると人はこうなるのだなぁと思いつつ…彼は手錠を見つめ…。
「───」
気まぐれに、物凄く簡単な呪文を唱えた。
鍵を開ける時とか、ネックレスが解けない時とか、なかなかネジが外れないとか、そういうちょっとした不便を感じた時に唱える呪文を。
「…あ?」
すると。
バキン、と音がして、簡単に手錠が壊れた。
呆気なく両手が自由になる。
手錠が布団に落ちた。
一週間付き添った拘束具が、こんなにも簡単に。
クルーウェルは暫く呆然として動けなかった。
いや、確かに、本気で暴れりゃ壊れると思っていたけど。本気でこの部屋から出ようとすれば出られると思っていたけど。まさかこんなにあっさりいくなんて。
足の拘束具へ同じ呪文を言ってみた。
すると手枷同様、バキンと呆気なく壊れる。
両手両足が自由になってしまった。
「……え」
クルーウェルはなんだか、逆にどうして良いか分からず、二の腕をさすって黙り込む。
どうしよう。
こういう場合、一体どうすれば良いんだろ。
出れば良いのか?
逃げれば良いのか?いや別に、逃げたいわけじゃない。ただ解決したいだけだからカセが外れたところで意味もない。
なんだか一気にままごとにでも付き合っていたような気分になる。
あの可愛い子は、本気でオレを閉じ込めにかかったのだろうが…結局こうだ。
クルーウェルは暫く沈黙してから、立ち上がり、立ちくらみを覚えつつ…洗面台へ行って顔を洗った。邪魔だった髪をかき上げ、着物を着替えて少しストレッチをする。
そしてタバコを吸いながら大分迷って、カラカラと離れの出口を開けた。
そのまま物置からホウキを引っ張り出し、ゆっくり低空飛行して足音を鳴らさずに縁側から家に入った。
辺りを見回す。
彼女の気配から察するに、今は多分台所にいるのだろう。廊下を静かに歩き、襖を開き。
台所に彼女の背中を見つけ、黙って近付いた。
気が付いていないらしい。
クルーウェルは暫く料理を作る後ろ姿を見つめ、何もしないままジッとしていた。
妻はそんな彼に気が付かず、鍋をかき混ぜている。
抱きしめたくなったけれど…ここで出ていく気にはなれなくて、気が付いてもらえるまで待った。
意味は特にない。
けれど彼女はなかなか振り返らなかった。
次第に退屈になって、まだかなぁと付けっぱなしのテレビに視線を寄越していると。
「きゃあ」
「うお」
やっと気が付いたらしい。
妻は振り返って目を丸くし、仰天した様子で白い顔をさらに青ざめさせていた。
「せ。せんせ…」
「応」
「どうやって」
「…。ライターのオイルが切れたから?」
肩を竦めた。
彼女はカタカタ細い腕を震わせ、黙り込む。
怖がっているのだろう。
報復を恐れているのだ。
…まぁ確かに、こうして自由の身になったのだ。
彼女を怒鳴って殴ろうと、犯そうと、あの部屋に閉じ込めようと自由である。
がしかしクルーウェルはそれがどうにも現実的ではなく、何もしようとしない。
「何作ってたんだ。My puppy」
だから寧ろ笑えてしまって、優しくそう言った。この子のツメが甘いのはいつものこと。
こうなってはあの稚拙な監禁ごっこすら可愛く思える。
なんの意味もない。
結局オレの意思次第なのだ。
「……あぅ」
彼女はすっかり真っ青になり、言葉が出ないようだった。弱気な眉をもっと弱気に下げて、体を小さくして怯えている。
そりゃそうだろう。さっきまで監禁していた男が脈絡なく普通に出てきて、普通に話しかけているのだから。
確かにサイコパスみたいな真似したなと思うけど、別に敵意がないことを証明しているだけだ。
「…はぁ。言ったろ。別に怒ってない」
「ぅ、…」
「まぁ多少〝有意義な話し合い〟は是非させてもらいたいところだが、お前を害する気はないんだ」
「……」
「…何を言っても無駄か」
クルーウェルはやれやれという顔で近付き、コンロの火を止めた。そして向き直り、「さて、飯の前に話を…」と言おうとしたところで。
「あ」
金槌が、自分の頭に振り下ろされるところを見た。その時の彼女は、先刻の狼狽を一切感じさせず…物体みたいに表情を失っていたのだった。
怖がっていたのは芝居だったのだろう。
オレを油断させるための。
「あ"、ぐ…ッ」
気を失っていたらしい。
目覚めた時の頭の痛さは、この前のものと非ではなかった。頭を押さえたかったが、手はガチガチに拘束されている。
指すら動かせないほどだ。
布を幾重にも巻かれ、その上から新しい手錠で拘束されている。
多分暴れても取れない。
足にも厳重な枷がついており、ちょっとやそっとじゃ取れなさそうだった。
「い、…っ!」
脳味噌を捻られてるみたいだ。
彼はぐっと目を閉じ、歯を食いしばって体を丸くした。身を守る虫みたいに蹲って悶え、痛みが遠のくのを祈った。脂汗と涙が止まらず、手の痙攣が止まらない。
畳に落ちた血を見て、あの部屋に逆戻りか、と思ったのだが。
滲む視界で見る部屋の構造が少し違う。
こんな文机あったか?
別の部屋か?
クルーウェルはギリギリ歯を食いしばり、歯の隙間で息をしながら…目だけを上に向けて。
「ッア」
日本人形が大量に自分を囲っているのを見た。
左右の戸棚に人形が所狭しと並べられている。
彼はパニックになって、悲鳴を上げて…。
その際に生じた痛みで気を失った。
気絶する中で思う。
アイツ、オレを本気で飼い殺す気だ、と。
■
【AM8:00 28日目】
「先生、出たいですか」
クルーウェルは荒い息を吐き、滲んだ視界の中で何度も頷いた。彼は今冷静ではなかった。
頭の痛みは随分マシになっているから、今彼を支配しているのは恐怖である。
人形の、偽物の瞳の群に見つめられて彼は先ほど胃の中のものを戻してしまった。といっても腹の中には何も入っていなかったからコップ一杯分の胃液を出しただけだけれど、唾液が止まらない。
手の痙攣がずっと止まらなくて、臓腑も痙攣しているのがわかる。
「だ。だしてくれ」
「何でもする?」
「す、する。頼む。げほ、」
「あのお部屋に帰る?」
「帰る。帰るから」
「私のこと、愛してる」
「あいしてる」
彼女が何を言っているのかよく分からなかった。ただ彼は言葉尻をとって鸚鵡返しにして、それで機嫌が治るのを願っている。
正直それどころではない。この部屋は本当にダメなのだ。本当に。
他の人間であれば、例えばゴキブリだらけの部屋に放置されているような、肉食獣のオリの中に縛られて放置されているような心地なのだ。
心臓が人形の小さな手で握りしめられているような気分だ。
この部屋から出たくてもうダメだった。
なのに。
バシンッ、と頬を叩かれた。
クルーウェルは衝撃で顔を横にして、目を見開いて彼女を見つめる。
「忌々しい!」
可憐な唇が言った。
頬がジンと痛む。彼は叩かれたことに頭が追い付かず、白痴みたいな顔をして呆けてしまった。叩いた。叩かれた。この子に。
この愛しい子に。
口の中の血の味に、あ、本気で叩かれたなと分かる。叩かれた頬を押さえようとしたが…鎖が音を立てるばかりで、自分から手の方に寄っていかなければ抑えることもできないという具合だった。
ショックだった。
今の彼にはこの痛みだけがリアルだった。
彼は体を棚にドス、と寄りかけた。一体の人形が足元に落ちる。
衝撃で人形の腕がねじ曲がっていた。
クルーウェルは何よりも彼女に叩かれたことが辛かった。
人形の群は黙ってこれを静観している。
「…おまえは」
クルーウェルは痛みに震える声で言った。
彼女の能面のような顔を見上げる。
「おまえはもう、おれを愛してはいないのか」
血の絡まった唾液を嚥下する。
喉が痛かった。多分泣いたからだった。
「おれが憎いのか」
ぐしゃぐしゃになった髪の隙間から充血した瞳で見上げるこの時の彼は、何故だか例えようもなく魅力的であった。その顔を叩きたいような、キスをしたいような、足にすがりつきたくなるような、何ともいえぬ修羅の感情を思わせる表情なのである。
「にくい」
「……、…」
「憎いわ先生。憎くても可愛いの。あたし、貴方の女房ですもの」
「…おれも、おまえが可愛いよ」
ツッと右目から一条の涙が溢れた。
それは顔に浮かんだ汗と混じって、顎にぶら下がる。
「おまえの亭主だから…」
蝉時雨の降る外はとうに朝で明るいというのに、この部屋は暗かった。窓から充分な日光が入らない。クルーウェルはジッと彼女の細い肩に額を乗せて目を閉じる。哀しくて愛しくて堪らなかった。
もっと別の朝を迎えたかった。
どうしてこんな風になったのだろ。
何故うまくいかないのだろう。何もしちゃいないのに、何故聞いてくれないんだろう。
オレはいつまでこの家畜小屋にいなければならないのだろうか。
「オレがイヤになったか」
「いいえ。決して」
「ならどうしてオレをぶつんだ。疑うんだ。もう充分だろ。もし不貞を働いていたとしてももう充分だ。満足したろ。充分、痛めつけたろ!」
「いいえ。まだ相手の女のことを聞いていません。貴方がすっかり言うんならこんな恐ろしいことはもうやめるんです」
「まだ疑うのか。いい加減にしろ。これだけ言って何故分からないんだ。オレのことが信じられないのか」
「だって先生、お約束したでしょう」
「なにを」
「もし疑わしいことをチラとでもしたら、お前の好きにしろと…先生おっしゃいました」
「は、」
「お忘れになりましたか」
「……」
「それで私、ようやく貴方の元に嫁いだのに」
「…え、」
「ひどいひと…」
彼女は初めて眉をしかめ、薄桃色の頬に涙を溢した。彼には今それを拭ってやる自由もなかった。抱き締めることも叶わないのである。
ただジャラジャラ鎖の音ばかり立てて、力を込めるばかりで仕方がなかった。
プロポーズの言葉を彼は覚えていない。
覚えていないばかりか、どうやって彼女に恋をしたのかも思い出せなかった。
何故忘れているのだろう。
凄く苦心した。彼女を傷付けた。
それは覚えている。長く待たせたことも、自分が随分結婚に躊躇していたことも。
「すまない」
低い声で言う。
彼女はイヤイヤと首を振って、綺麗な刺繍の入ったハンカチで片目を押さえて泣いた。
クルーウェルは堪らなくなって体を彼女に押し付け、頬を耳にすり寄せる。
何だか自分がバカな肉塊になった気分だった。
「外してくれ。頼む」
いつの間にか彼も泣いていた。
2人は縺れ合うように別々の理由で、しかしお互いのことで泣いて、サラサラ白い髪と黒い髪をくっつけ合うのだった。
「言ったじゃない。忘れちゃったの」
「……、」
「私先生が浮気したら、閉じ込めてやるって言ったわ。先生嬉しいって言ったじゃない。私、ずっと閉じ込める気なんてなかったのに。鏡だってほんとは割ってないの。なのに、どうしてお部屋から出てくるのよ」
「!、な」
「どうして言い訳ばっかりなさるの。私が嫌になったのでしょ。その浮気相手のところに行きたいからでしょう。有意義な話し合いって、なによ。別れ話なんて聞きたくない」
「おまえ」
「先生のバカ。大嫌い」
ドン、と胸を叩かれた。
クルーウェルは小さく呻き、無抵抗で叩かれるままにする。
鉛のように頭が重くて痛かった。
そんなわけがない。別れ話のつもりで「話し合い」なんて言ったんじゃない。出たいから言い訳を言ったんじゃない。疑われるのが嫌だったから言っただけなのだ。
クルーウェルは懸命にそう言ったが、彼女はシクシク泣いて彼の胸の中で蹲るばかりだった。
「…分かった。もう出ない。此処にいるから。泣かないでくれよ」
「どうせその言葉も忘れちゃうんだわ」
「忘れるものか。言ったろう。オレはお前に捨てられることが一等恐ろしいんだ…」
心を込めて言ったけれど、彼女はトン、と彼の胸を押して立ち上がった。
そして情情と泣きながら、部屋を出ていく。
クルーウェルは鎖を引っ張って止めようとしたが…無情に襖が閉まる。
「ユウ」
叫んだ。頭がズキンと痛んだが構っていられなかった。
「待ってるから。お前を恨んだりしない。オレは…」
声が嗚咽に絡まって、クルーウェルは支えを失い、畳の床に落ちた。
それでも彼は何遍も名前を呼んで、苦しそうに泣く。喉が詰まって死にそうだった。
クルーウェルは畳に腹這いになり、いつまでも唸って泣いていた。
腹を撃たれた獣の嘆きのようだった。
■
【PM12:00 29日目】
クルーウェルはスッカリ憔悴し、虚な目で畳を見つめていた。
汗と血で固まった頭が気持ち悪い。
彼女が手当てをしてくれたようだが、時折血が滲む。高熱は出なかった。
よくも死ななかったものだなと思う。
顔は腫れたように熱く、今が何時なのかも分からなかった。
四肢を投げ出したままぼんやりとして、彼は人形たちから背を向けて蹲っている。
あの子はこない。
来てくれたらどんなにかと思うけれど、来ない。ケホ、と小さな咳をして、流れっぱなしで放置して固まった鼻血を着物の裾で拭いた。
「…あ、」
すると。
後ろで襖が開く音がして、入り口に座る音が聞こえた。クルーウェルは弾かれたように振り向き…。
「ッうあ」
後悔した。
そこに座っていたのは、彼女ではない。
あの人形だった。
赤い着物を着た、人間そっくりなあの女。
こちらに顔を向け、目を閉じ、俯いている。
人形に囲まれて座っている〝彼女〟は哀しげである。
クルーウェルは慄いて後ろに後退し…。
それから、あることに気が付いた。
この部屋は狭い。
長方形の部屋は8畳ほどだが、所狭しと人形が並べられているせいで狭かった。
その部屋にフワッと嗅いだことのある香りが満ちる。
香水の香りではない。
多分、香の香り。
クルーウェルが〝あの日〟に自覚なく付けていた香りだ。
彼は月光にキラキラ光る瞳でジッと固まって人形を見つめ…。
「黒方?」
と、低く言った。
まさか。あの子の言っていた黒方の香りというのは、この香りではあるまいか。
この人形の香りではないか。
この人形はあれからよくクルーウェルのそばに現れた。そのせいで香の香りが移ったのでは。
「、あ」
──お蝶。
唐突にその名前が降ってきた。
そうだ。オレは夢の中でこの女をお蝶と呼んでいた。知りもしない癖、お蝶と。
この人形がそう呼ばせていたのだろう。
黒方の香りはこの人形のもの。
お蝶とはこの人形の名前。
上の空だったのはこの人形のせい。
クルーウェルは呆けた顔のまま、ガシャン、と鎖を引っ張った。続け様、ガシャン、ガシャン、と引っ張る。
拘束は取れない。呪文を唱える。
取れない。いくつも他の呪文を唱える。すると僅かにコキンという音がして、金属が脆くなった。
「ッ」
クルーウェルはそのまま、自分の手首ごと手枷を文机の上に叩き付けた。凄まじい力だった。
ガツン、ガン、と轟音を鳴らし、思い切り打ち付ける。そのせいで右手にドス黒いアザができたが、彼は痛みをまるで感じていないようだった。
彼は幾度も幾度も気が違ったみたいに打ち付ける。そうすると左手だけ自由になった。右手は難しそうだ。しかし充分である。
巻かれた布を噛んで引きちぎり、吐き捨てた。
クルーウェルは自由になった左手で人形用のカンザシを掴み、這いずり、
「お前のせいで」
と世にも恐ろしい声で言った。
そのグレーの瞳は血走り、充血し、ともすれば涼しげにキラキラと光っていた。
「お前のせいで」
カンザシを振り上げ、人形の首に突き刺した。
ガンッ、と人形の体が横倒しになる。戸棚から他の舞踊人形や市松人形が落ちる。
「お前のせいで。お前のせいで」
震える左手で何度も人形の首を突き刺した。
人形はやはり人形で、「ギャッ」と言うこともなく、表情を変えることもなく、血を吹き出させることもなく、ただ壊れるだけだった。
彼は最後に人形の腹にカンザシを突き立て、ハー、ハー、と汗を落として肩で息をする。
「地獄に落ちろ」
怒鳴り立て、ガクンと力が抜ける。
それでも怒りは止まなかった。けれど無理をした体は全身が重く、だるく、頭が痛み、これ以上はどうしようもない。
月光に青く染まった部屋の中、彼は本物のケダモノになった気分でドロドロ泣いた。
腹に突き刺したカンザシを握りしめたまま呻き、唸り、恨みと痛みに顔を歪める。
クルーウェルは弱い力でもう一度ガンッ、と人形の腹を突いた。すると、カンザシの先端に硬いものが当たった。
明らかに人形の中身の手応えとは違う。
「……?」
カンザシを引き抜き、腹を見た。しかし暗くてよく分からない。
だから彼は人形の髪を掴み、ズルズルと月明かりの差し込む窓の元まで這いずって引きずった。自由な左手と枷のはまった右手で腹を引き裂く。
すると腹の中にあったのは、木製の丸い箱である。彼はこれを見てゾッとした。
まさかこれは、と思う。
この箱は、確か。
「…骨壺?」
聞いたことがある。
この国は火葬で、残った骨を壺に入れると。
ちょうどこのくらいのものだったような。
クルーウェルは動悸に息苦しさを覚えながら、もう止めることもできず、バコ、と蓋を開けた。
「グッ、」
香ったのは強烈な黒方の香り。
そしてそれかと思われる骨と、一枚の紙が入っていた。
「ゲホ、」
クルーウェルは紙だけを引っ張り出し、蓋を閉めた。そして骨壺を見てから苛立ちに任せて壁に投げ、細くたたまれた紙切れを開く。
これは香を焚き染めすぎて色が変わっていた。
中には、墨で書かれた漢字が四文字、古くさい行書体で書かれていた。
「……」
九条蝶子。
そう日本語で書かれている。クルーウェルはこの文字をジッと見て、何と読むのだったかと記憶を探った。
九条。九条は分かる。
これはあの子のファミリーネームだ。
読み方を教わったことがある。ではこの、「蝶子」という文字は…。確か、…。
「チョウ コ?」
呟く。クジョウチョウコ。
確か、そういう読み方だった。
「……ッ」
それって、あの子の祖母の名前じゃないか。
なぜこの人形の腹の中に祖母の骨が入っている。誰が入れた。
一体どうして…。
…いや、誰が入れたかなんて決まっている。
人形師の爺様が何十年もかけてこの人形を作ったと言った。そして死ぬ間際まで大事にしていたと言った。
であれば、あの子の祖父が人形に妻の骨を入れ、ずっと大事にしていたのだ。
いや、待てよ。
何十年もかけて作った?
では九条蝶子は何十年も前に死んでいるのか。ということは老いる前に死んだということか。
なら、この横たわっている人間そっくりな人形は…生前の九条蝶子の姿なのだろうか。
「……」
クルーウェルは無残に壊れた人形を見下ろした。美しい顔をした娘は、目を閉じたままジッと横たわっている。
…そうに違いない。この姿は九条蝶子の姿なのだ。骨が中にあるから、そんな風に見えたのか。
「は、」
…いや、やめだ。
そんなことどうだっていい。
考えたって正解が分かるわけでもなし。
とにかくオレはこの人形のせいで疑われ、繋がれているのだ。
それよりオレが考えるべきは…。
オレがあの子とどんな約束をしたか、だ。
どんな言葉を並べてあの子と一緒になったのだったか。それを思い出すべきだ。
何故忘れているのか分からないが…。
クルーウェルはドサ、と寝転がり、市松人形にもはやなんの感情のない目を向けながら月明かりを眺めていた。
これを思い出せれば、あの子と話ができるはずだ。
■
【PM4:00 30日目】
クルーウェルは元の離れに戻された。
戻されてから丸1日経つ。
眠っている間に運ばれたらしい。
目が覚めれば厳重になった枷があって、清潔になった室内が広がっている。
彼は何をするでもなく、ジッと寝そべるだけだった。いつの間にか運ばれていた食事を少量口に入れ、僅かな水を飲み、死なない程度に生きている。
気力と体力とが信じられないほど低下しているのだった。
彼は今、ただ寂しかった。
彼女に会いたかった。恨み言でもいいからここに来て欲しかった。側に座って欲しかった。
なんでも良いから会って、話をして欲しい。
その時はもうオレは何も言わなくて良い。
弁面も何もしない。ただ彼女がしたい話をすれば良いし、相槌を打ちたいと思うのだ。
どうせオレは、あの子に生かされているだけの獣なのだから。
…そろそろ秋になる。
格子の窓から涼しい風を感じるのだ。
「げほ、」
体が枯れ木のようになっていくのを感じる。
オレはこのまま老いて死ぬのだろうか。
あの日の生活に戻れる日なんて来るのだろうか。
手錠や足枷は厳重になったが、逃げようとすれば逃げられる。けれどもうそんなことをしようとも思わなかった。
だってあの子が泣くから。
そういえばワンダーランドで彼女に想いを告げたのも、こんな涼しい日だったような。
あの子はなんと返答したのだっけ。
確か首を振って…「信じられません」と言ったような…。
なんだっけ。何が信じられないのだっけ。
オレか。オレの何が信じられない?
オレの移り気な心が信じられないのだっけ…。
「──あ」
そうだ。
オレはあの頃女の知り合いが腐るほど居た。
別に恋人じゃない。けどセックスもしたしデートもするような女が幾らでもあった。
彼女達はオレに本気じゃなかったし、オレも彼女達に本気じゃなかった。
普通の女友達だ。
大人になら誰にでもいるような関係の友人。
セックスが目的で一緒にいるわけでもないけど、利害が一致すればたまにあるくらい。
そんな気楽な付き合いがあった。
反対に彼女は貞淑で慎ましく、そのような関係の男は勿論いなかった。あれほど器量の良い娘だというのに男の経験すら無かったのだ。
そんな彼女はオレに惚れていた。
鈍い生徒でも難なく気付くくらい、あの子はオレのことが好きだった。
オレはそんないじらしい片想いを勿論察し、それから彼女を僅かに意識するようになった。可愛い子だとは思ったし、多少笑いかけただけで真っ赤になるのが愛しかった。
世の中にこれほど健気な女がいるのかと思った。
見たことも聞いたこともないタイプだ。
欲もなく、アピールするわけでもなく、ただクルーウェルを時折見詰めて頬を赤くするような少女だった。
最初は物珍しくて観察していただけだったが…やがて構いたくなって、構えば構うだけ目を潤ませて嬉しそうにするので、彼は堪らない気持ちになったのだ。
どうにも彼女の自己主張の乏しい、幸の薄そうなしっとりとした顔が赤くなって遠慮がちに笑うのを見ると我慢が効かなくなるのである。
無抵抗な川流れを見ているようだった。
クルーウェルは時折彼女を構っていたが、その内〝自分が〟構われないのに苛立った。
あの子が他の男にも同じような反応をすれば醜い感情が溢れてたまらなかった。
自分はどうやら、彼女に対して一丁前に独占欲を覚え始めているらしいと自覚したのだ。
だからクルーウェルはあの子を己がものにしたくなって、「好きだ」と言った。
よく覚えておいで。
オレはお前のことが好きだよと言うようなことをくだくだしく言ってみせたのだ。
けれど彼女は首を振った。
顔を切なくほどけさせ、「信じられません」と小さな声で言った。
クルーウェルはショックだった。きっと自分が想いを告げれば、彼女は舞い上がると、自分しか見られたくなるのだという傲りがあった。
だからどうしてと肩を掴めば、彼女は顔をそらして眉を寄せた。
『──香り』
『え?』
『先生はいつも違う香りがなさいます。からかっておいでなのでしょ』
『匂い?』
『…女の人がたくさんいらっしゃるのでしょう』
女の香りのことだ。
クルーウェルの纏っている僅かな夜の香り。
匂いに敏感というか、女の勘というか。
彼は見事に自分の背後にいるハイヒールの群を言い当てられてしまったのである。
『私心が狭いんです。私だけでなくては嫌なんです。ですから、お気持ちはとても嬉しいけど…』
彼女は言った。
クルーウェルは意地になって、「そうか」と頷き、「また言う。その時には必ずウンと言ってくれ」と固く言ってみせた。
それから彼は早かった。
まずプラダのハイヒールに電話して、ジミーチュウのハイヒールに会って、マノロブラニクのヒールに別れを告げて、セルジオロッシのヒールに笑われて、ディオールのヒールに「あらとうとう落ち着くのね」と酒を傾けられて、ルブタンのブーツに「おめでとう」とキスをされたりした。
クルーウェルは全てのハイヒールに別れを告げ、相小町(あいこまち)の下駄の元へ歩いて行ったのである。
彼はもう一度彼女に「好きだ」を言いに行った。その時の彼はもうなんの香りもしなかった。それでも彼女は信じられないという。
『どうして私にこだわるのですか。異世界の女が物珍しいの』
彼女は何故彼がこうまでして自分に執着するのか分からないようだった。それにその執着はきっと支配欲によるもので、手に入れた瞬間に満足されるのだろうと思っていたようだ。
どうせ長く続かないのだと思われていた。
しかしクルーウェルはこの頃にはもうこの女に心底惚れ込んでいて、「違う」と強く言ってみせた。
『お前を知って、どうして他の女に入れあげる。オレはお前が好きだ。こんなに想ったことはない。信じてくれ。オレはとうにお前のものなんだ』
『ほんとうに』
『本当だ。分かるだろ。オレから女の香りがするか』
『しません…けれど』
『憎いヤツ。こんなに骨抜きにしておいて。なあ、疑わしいンならオレを罰せば良い。万にひとつもあり得ないが、他の女の匂いがしたらその時は好きにしろ』
『ほんとう』
『本当だ』
『…もし先生が目移りしたら、私先生を閉じ込めますよ』
『ああ。お前なら嬉しいよ』
『う、浮気なんて絶対許さないんだから。浮気したら、日本に閉じ込めてやりますから』
『いいよ。オレだって許さない』
『本気』
『本気だ。お前を不安になんかさせない』
『この場限りの言葉じゃない?約束してくれる?』
『約束する』
『……せんせ』
嗚呼、そうだ。
そんな会話をした。
それで彼女はやっと「ウン」を言って…オレがずっと焦がれていた春爛漫の微笑みを見せてくれたのだ。そうして相小町の下駄はオレのものになった。…
「…あ」
どうして忘れていたのだろ。
そうだ。約束したんだ。
それだというのにオレはスッカリ忘れて、「本当に女狐だったな」と言った。
あの子の想いを砕いてしまった。
情けない。
あんな風に泣かせてしまうなんて。
なんて情けない男なのだ…。
「ウ」
クルーウェルは布団の上で背中を丸め、頭を抑えた。硬い髪に鎖の音が響く。
情けない。もうこれ以上何を言っても取り返しがつかない。
あの子の心は帰ってこない。
どうしてこんな大事なことを今になって思い出す。今更どうしたって遅いのに。
「クソ、」
畜生。
あの目に誓ったのに。
クルーウェルはぐちゃぐちゃになって、布団を握りしめて唸る。呻いて畳を引っ掻き、ドン、と拳で叩いた。
「なさけない」
震える手で白髪を掴んで歯を食いしばる。
頭が痛い。割れるみたいに苦しい。
これをあの子に撫でて貰えないなんて。
どうしてこうなったんだろう。なんだってこんなふうに。
オレが約束を破ったからか…。
「…先生?」
「!」
「先生。寝てるの」
「あ…」
スラ、と襖が開く。
クルーウェルは顔を上げて彼女を見た。
愛しい子。会いたかった子。
彼女はやつれ、涙の跡を柔らかい頬に付けていた。
「……」
「起きてたんですね」
妻はそばに座ってくれた。
彼は白痴のようになって彼女を見つめ、やがて細く尖った眉をしかめて涙を落とす。
「すまない」が言えなかった。もうなにを言っても遅過ぎた。
「…先生、泣かないで」
「……ず、」
「ごめんなさい先生。ごめんね。泣かないで」
「……ユウ」
白姫の手が体を包んでくれる。
頭を撫でてくれる。クルーウェルはすすり泣き、首を振った。どうしてあなたが謝るのだと思うのだ。
「怖がらないで。泣かないで。もう酷いことしないから」
「…う"」
違う。あなたが怖くて泣いているんじゃない。
けれど、今は彼女が抱きしめてくれるのがこの上なく嬉しかった。
こんな男を変わらず愛してくれるのが愛おしくてたまらなかった。
今になって思い出した約束。その場限りではないと頷いた過去の自分。それが首を絞めて、クルーウェルはただ俯いて泣くばかりだった。
すると彼女は安堵した様子で、包みから鍵を取り出す。小さい、銀色のスベスベした鍵だ。
それをクルーウェルの手枷に差し込み、カチャンと外す。足枷も同様に外して、彼の手首をさすった。
四肢が自由になる。
意味が分からなくて、顔を上げた。
「──?」
「先生」
「……ああ」
「私を、酷い女だとお思いでしょう」
手をさすりながら、静かな声で言われる。クルーウェルはまさかと首を振った。
されど彼女は弱々しく微笑んで、涙に腫れた目をソッと拭う。
「…先生。元の世界にお戻りください。私では貴方の事を仕合せにできません。酷いことばかりするもの」
「──は」
目を見開く。
この女、今なんと言った。
帰れと。帰れと言ったか、オレに。
別れ話をしに来たのか?
今になって。
クルーウェルは顔面蒼白になって首を振った。
「嫌だ」と小さな声で言って、今度は大きな声で「何を言ってる」と言った。
「お前。オレを捨てるのか」
「…お戻りください。私、結局先生のことを信じられなかった。妻として不甲斐ないと思っています」
「信じさせられなかったオレが悪い。そんなこと言わないでくれ」
「先生はなんにも悪くないの。ね。お願いよ。お戻りになって」
「嫌だ。ふざけるな」
嫌だ嫌だと繰り返す。
帰ってたまるものか。この子を置いてどこに行けとのたまうのだ。冗談じゃない。
まったくもって笑えない!
「世迷言を。夫婦(めおと)だろう。死ぬまで一緒だ。そうだろ、」
彼女は優しく微笑み、ぐずる彼の背中をさすって目を閉じる。
暖かな手だった。
「オレの女房はお前だけだ」
白髪が睫毛にささる。
黒髪がたわんだ。
悲しくて苦しくて堪らなかった。
けれど彼女は首を振って、優しく涙を拭うのである。
「ウンと言ってくれよ」
力ない言葉だった。
彼女はウンと言わない。クルーウェルは胸の辺りが膨れ上がるような激情に揉まれ、カッと体が熱くなるのを感じる。
「なんて女だ。今更勝手なことを言いやがって。クソ、」
目を四角くして彼は吐き捨てた。
「お前をこの部屋に繋いでやったって良いんだぞ」
「先生」
「そうしようか。反省するまで此処に閉じ込めてやろうか」
「…左様ですか」
「ッ」
彼女は無抵抗に言った。
この女。きっと此処に繋いだとしても、クルーウェルが一度でもワンダーランドへ行けばその途端鏡を割る気なのだ。
彼女はクルーウェルを解放する気だ。もう決めたのだろう。これ以上彼へ恐ろしいことをする前にやめてしまいたいのだろう。
「本気だぞ!」
細い手首を掴んだ。妻は僅かに怯えた顔つきをした。クルーウェルはコレにほんの少し機嫌を良くして、手錠を乱暴につかみ、細腕にかけた。
ガチャンと金属の音が響く。
彼女は驚いたようだった。
頑丈になった拘束具は間違っても女では外せないだろう。
「──」
一応鍵でも外れないように追加の魔法をかけておく。コレで人間の力では大の男ですら外せなくなった。
「…二度目はない。もう一度同じことを言ってみろ。この舌切ってやる」
「……」
「返事は」
「は…い」
「Good. 忘れるなよ。可愛い舌がかかってるんだ」
可憐な舌をつまんで言った。
充血したグレーの目は正気とは思えず、死んだ獣の目みたいに無気力で・恐ろしいものである。掠れた声に僅か恐れた彼女は縋るように彼を見上げた。
こんなことになるとは思っていなかったのだろう。手錠を外せば、彼はすぐにでもこの部屋から逃げると思っていたのだろう。
「バカ犬が。オレから逃げられると思うなよ」
「……せ、先生」
「反省しろ」
立ち上がり、白い顔を見下ろした。
彼女は青ざめてこちらを見上げている。
「戻れ」といえば、自分が1も2もなく帰ると思ったのだろう。みくびられたものだ。
どこまでお前の中でオレは落ちぶれる。
頭を押さえ付け、彼は恐ろしい顔で目を見つめた。
「せ、せんせい。でも、」
「まだ言うか」
「、…わ、わたし、ほんとに」
「黙れ。締め殺したくなる」
「っ」
妻はホロ、と涙を落とした。
クルーウェルはそれでも許せなかった。
「お前のいない一生になんの価値がある!」
■
【AM6:00 31日目】
クルーウェルは機嫌よく家の掃除をし、車で遠出をして小型のカメラを買った。
ペット用の監視カメラである。
それと一緒にこれからの生活に必要なものも買い揃えた。やはり手錠をかけ続けるのは可哀想だ。あれは寝づらいしアザもできる。
あの部屋自体を頑丈にすれば良いことだ。あの可愛い子に痛い思いはさせられない。
筋肉が衰えないように散歩させるのも必要だ。
食事や娯楽にも気を使わねばならない。
色々とやることが多いが、別に面倒ではなかった。むしろどうして最初からこうしなかったのだろうと思うほど爽快で、気分が良い。
オレ達は〝仲良し夫婦”なのだ。
何があっても2人なら乗り越えていける。
まぁ、彼女の作る食事を食べられないのは少し残念なことだが…それくらいは仕方がないだろう。別に永遠にあそこに繋ぎ止めるつもりもないし。
全く、不幸へのあぜ道など笑わせる。
恋し合って情を絡めているのだ。オレたちは幸福にしかなれない!
クルーウェルは充実した気分で座布団の上に座り、煙草に火を付ける。
あの忌々しい人形たちは全て燃やした。
どうせこの家はオレ達のものだ。なんの必要があろうか。邪魔でしかない。
嗚呼幸せだ。どうしてもっと早くこうしなかったのだろう。なんの不安もない。
これからずっとそばにいてやれる。
…あの子、今寂しくしているんだろうな。
退屈しているだろう。
オレを待っているだろう。
良いことだ。反省すると良い。
二度とあんな呪わしいことを思わなくなれば万々歳だ。会いに行ってやりたいところだが、多少は我慢しなくてはならない。そうでなければあの子が反省しない。
切ないことだ。
「ふ、」
煙を吐き、酒を呑む。
少ししたら職場に電話しよう。
鏡が反応せずそちらに戻れなかった、やっと電話がつながった、だとか小芝居でも打てば良い。長いこと学園に尽くしてきたのだ。疑われることなどあり得ない。
しかしあの子を学校に通わせていなくて良かった。面倒な手続きも言い訳も必要ない。
フロイド・リーチに会わせたのも正解だ。もし誰かが疑ったとしても、アイツが証人になってくれるだろう。
この辺りは人がいない。
オレ達の新しい夫婦生活を邪魔をするヤツなどいない。
なんて都合が良いのだろ。
こうなるべくしてなっているみたいだ。
それにしても、随分涼しくなった。
もう秋になる。そういえばあの子、お月見がしたいと言っていたっけ。一緒に見れないのは残念だがまた来年がある。
来年には…いや、冬になる前には出してやろう。あそこじゃ寒いだろうし、可哀想だ。
クルーウェルは幸せそうに座卓へ肘をついて、ゆっくりまばたきをする。
夜になったら会いに行こうと思う。
会いに行って彼女の話を聞こう。それで許すか許さないかはその時決めるが。
…早く夜にならないかなぁと思った。
早くあの愛しい化け物小屋に行きたいと。
【PM8:00】
食事を作り終えた。
ある程度新生活に向けての準備もできたし、そろそろ良いだろう。盆に乗せて離れへとを歩く。
自然と浮き足立ってしまうのを何とか抑えた。
いけない。ダメだ。もう少し厳しい顔をしなければ。オレは怒っているのだから。
あの子もこんな気分だったのだろうか。オレを閉じ込めている間こんなに幸せな気分だったのか。だとすれば納得できる。
あの子は終始穏やかだったから。
戸を開けて下駄を脱ぐ。
浮かれてしまうのはやっぱり我慢できない。
「ダーリン、起きてるか?」
愛しい彼女を思って破顔し、襖をスッと開ける。返答がないということは寝ているのだろう。
起こすのも可哀そうかなと思ってソッと顔を中に入れる。
「…え」
寝顔を、見ようとしたのに。
クルーウェルはそこで、マダラ模様を見た。
月光と行灯の光が照らす畳の上で、赤い斑点が輝いているのを見てしまった。
「──へ」
手から盆が滑り落ちる。
ガシャンと食器の割れるひどい音が響いて、クルーウェルはビクッと自分の足元を見た。
ぶちまけられた食事が畳の上に飛び散っている。臭気と湯気とが立ち上り、マダラ模様に絡まっていった。
彼女は部屋の中心に寝転がり、目を大きく開けていた。口もダラリと開けて、青白い肌をこれ以上なく青くしている。
その可憐な首には……が突き立てられ、そこから未だに血が流れているのが見えた。
黒髪が散っている。
赤いマダラが更に広がっていく。
彼はこのマダラを見つめ、彼女を見つめて固まった。
頭が働かなかった。
ただあの子が血を流しているのを見つめ…この赤いマダラ模様が、飛び散った血だということを…理解するのだが、理解できなかった。
足元で落ちた食事が湯気を立てている。
部屋の中で動いているのはその蒸気のみだった。
生き物がいるのに、何も動かない。
彼女は完全に停止して…多分、事切れていた。
「………」
駆け寄ることも、座り込むこともしなかった。
襖を開けた手をそのままに、ジッと中心の動かないものを見下ろした。
着物が広がっていて、白く細い足が投げ出されていた。……を首に突き刺した瞬間、暴れたのだろう。
襖の近くにまで赤いマダラが飛び散っている。
「……あ」
あれ。
こういう時ってどうすれば良いんだっけ。
何をすれば良いんだ。
どうしよう。
「……」
外から鵺の鳴き声が聞こえ、彼はその方向をチラッと見た。
なんだっけ、この鳴き声。あ、そうだ。虫じゃなくて鳥なんだっけ。
トラツグミだったかなんだか。
彼女に教えてもらったっけ。鵺の鳴く夜は怖いのよと言っていたような。
「……」
しばらく格子越しの窓を見て、フと視線を戻す。彼女は同じ姿勢で寝そべるばかりで、一切動かなかった。
そこで彼は、彼女の近くに紙が落ちているのに気がつく。気がついたが、しばらくそれを読むことができなかった。
体が金縛りにあったみたいに動かなかったから。
やがてゆっくりと近付き、視線を紙に落とす。
そこには、なよなよした女文字で、彼女の字で、「お戻りください」と書かれていた。
クルーウェルはその紙を見て、ストン、と座り込む。
お戻りください。
元の世界に。
そういう意味だ。
クルーウェルはボケッとして、意味を何度も考え、咀嚼し、反芻し、次第に納得する。
彼女は、自分がここに居たのでは、夫が絶対に元の世界に帰らないと察したのだろう。
自分という女に囚われたままでは可哀そうだと。そういうことで彼女は、…。
「アッハッハッハ」
そういうわけかと。
彼は顔を逸らして破裂したように笑った。
先程までは触るのも怖かったのに、大胆にもそばに寄り、血で汚れるに構わず彼女の頬を愛おしげに撫でた。
「そうか。オレのために死んだのか。アハハ」
顔は冷たくて硬かった。
黒髪を払ってやり、だらしなく笑う。
「可愛いヤツ。そんなにオレのことが好きかよ」
凄まじい形相をしている死体が一気に可愛らしく見え、同時に愛おしく見え、甘く見えた。クルーウェルは嬉しそうに彼女のぐったりとした体を抱き寄せ、夢見心地で目を閉じる。
物凄く驚いたが、理由が分かってはなんのことはない。
彼女はオレのことを〝死ぬほど”好きだったというだけのことだ。
「仕方ないな。分かったよ」
そうして帯にさしていた指示棒を取り出す。
全く仕方のない女だ。こんな女に付き合ってられるのもオレくらいのものだろう。
無論付き合うというのなら最期まで付き合おう。なんだろうと構わない。
冥土で叱ってやる。
極楽で躾けてやれば済む話だ。
「ウン。オレも愛してる」
〝ブチ柄〟になった彼女の頬にキスをする。
彼は魔法石に魔力を込め、躊躇いなく自分の喉を貫こうとして…。
「イシダイ先生!」
「ッうお」
手を止める。
突然、背後から走る音が聞こえたからだ。
大人数が走ってくる音だ。クルーウェルは驚いて弾かれたように振り返る。
すると、フロイドが離れに飛び込んできて…。
「あべちっ!」
クルーウェルのこぼした食事を踏んで滑り、思い切り転んだ。
バァンと派手な音がする。
面食らってそれを見ていると、後ろから走ってきた男…リドル・ローズハートがフロイドの背中を踏みつけて飛び越え、クルーウェルに駆け寄り、指示棒を魔法で跳ね飛ばした。
そして丸腰になったクルーウェルの背中に抱き付いて…。
「確保。確保ッ。間に合った。母子共に健康です。は!?何言ってるんだ僕は」
と叫んだ。
言えば後ろから走ってきていた男達…イデア・シュラウド、ヴィル・シェーンハイト、学園長、レオナ・キングスカラー…など、他にも様々な男が飛び込んできて、クルーウェルを押さえ付けて死体から引き剥がした。
クルーウェルはポカンとして…しかし意味が分からなくて、彼女の体から離れたくなかったから、自分を抑えるリドルを無表情で突き飛ばした。
「あうっ。クソ。オフウィズユアヘッド!」
ガシャンっ、と音がして、クルーウェルに首輪がかけられた。
クルーウェルはそれでも腕や足を押さえつけられる。一体自分の身に何が起こっているのか分からず、彼は「なんなんだ」と叫んだ。
すると頭を打って転がっていたフロイドがやっと起き上がり、クルーウェルをキッとあの柔らかい目で睨み。
「──ドッキリだよ。ドッキリ大失敗!クソ。亭主の鏡かよ、お前!!」
と、ヤケッパチに叫んだのであった。
【PM6:35 最終日、完了。】
■
何処からドッキリであったかと申せば、全てである。
クルーウェルが監督生と結婚したというのも嘘であるし、この屋敷も魔法で作ったものでここは日本ではないし、彼と彼女の馴れ初めも適当に作ったものである。
サムが催眠術(呪術に近い)にてクルーウェルにあたかもそんな過去があったかのように錯覚させたのだ。この夏は全て、ハリボテの桃色遊戯であったのだ。
夜の夫婦生活も、実はクルーウェルが盛った瞬間外に控えていたラギーが飛び出して首の付け根を「トッ…」とやり、気絶したクルーウェルを寝かせていたに過ぎない。
まさか監督生を傷物にするわけにはいかないので。
夢も幻覚魔法によって見せたものであり、季節でさえも嘘だった。
それに夜は大抵ヴィルが監督生のフリをしてこの屋敷に来ていた。クルーウェルはまるで気がつかなかったが、実は嫉妬されてタバコを咥えさせられたのも、彼に抱きしめられて寝ていたのも、風呂で背中を流してやったのもヴィル・シェーンハイトである。
これは万が一ラギーの突撃が遅かった場合でも対応できるように、という保険だった。
芸人より体を張った体当たりの演技でヴィルは2キロ痩せてしまったが、清々しそうにしていた。
こうした努力と手間と金と時間を惜しみなく使った【NRCのエイプリルフール】は無事終了したというわけである。
クルーウェルは無論この「NRCのエイプリルフール」を知っているし、昨年はこのエイプリルフールに仕掛け人として登場した。
悪名高き「地下二階の秘密」というタイトルのドッキリにシリアルキラー役で参加していたのだ。
ターゲットはフロイド・リーチ。
前回のドッキリは見事成功し、フロイドは泣いたり吐いたりの地獄の一ヶ月を送った。
そんなフロイドが次のドッキリでは憎きデイヴィス・クルーウェルにリベンジしてやろうとメガホンを取り、今回の「夫婦そっくり」の監督を担ったのである。
仕掛け人は小エビちゃん。
助演男優はヴィル・シェーンハイトという具合で。
さて、これが【NRCのエイプリルフール】だと気がついたクルーウェルは…マァ人の当たり前として、修羅のように暴れた。
まずフロイド・リーチ頭突きをして蹴り飛ばし、フロイドは襖を倒して壁にぶつかって死んだ。
止めに入ったスタッフをなぎ倒し、カメラとカメラをぶつけてぶっ壊し、レオナの胸ぐらを掴んで機材の中に投げ込み、押さえ込もうとする学園長の足を払って鳩尾に鉄肘を突っ込んだ。
あの時の彼は夜叉であり、鬼であった。
止めに入るために来ていたジェイドも屏風に頭を突っ込んで死んだ。
リドルはなんとか彼を魔法で拘束しようとしたが、それよりも早くクルーウェルは死体(人形)に刺さっていたカンザシを引き抜き、血に塗れたままリドルの胸ぐらを掴んでその顔に突き刺そうとした…が。
そこで。最終手段として来ていた監督生が、こわごわ、おそるおそるヒョコ、と離れに顔を出し。
「せ、せんせ」
と小さくて可愛い声を出した。
クルーウェルはそれを見て、死体と彼女とを見て、しばらく呆然と固まると。
憑物が落ちたように、カラカラと手からカンザシを落とし。体から血と汗を落としながら…ゆっくり監督生の体へと近寄り。
「えぅ」
と小さくて可愛い声を出し、監督生に抱きつき、止まったのであった。
死者2名、重傷者7名の堂々たる地獄絵の中、2人はしっとりと抱きしめ合い、鬼神・デイヴィス・クルーウェルはホロホロ泣いた。
監督生は何度も「ごめんね」と言って頭を撫でた。
その様子は本当に、夫婦そっくりだった。
地獄絵の中で監督生が彼をなだめて32分ちょっと。
クルーウェルはやっと人間に戻った。
やっとまともな返答ができるようになり、表情が僅かばかり柔らかくなり、彼女の首元でカクンと安堵して眠ってしまったのである。
監督生はそれを見て無垢に笑い、背中をさすった。
「かわいいひと」
■
「かんぱーい!」
「フロイド監督お疲れーッ」
鬼が寝たので。
チーム「夫婦そっくり」は屋敷の居間でジュースや酒片手に乾杯した。
スタッフや撮影班、演者、監督や脚本を担った男たちは和気藹々嬉しそうにコップをぶつけ合う。
結果から言って、このドッキリは失敗に終わった。だが取れ高は充分であるのでもう仕方がない。
「監督どう?今回」
「最悪だよね。もう二度とやんない」
フロイドはコーラを一気に飲み、ゲンナリして首を振った。
実は今回のドッキリ、人形がメインのオカルトホラーの筈だった。
フロイドはまず企画を始める前にクルーウェルのお母さんに電話をかけ、彼の怖いものを聞いておいた。そして「人形にトラウマがある」と聞いたので、今回は人形もので責めてやろうとしたのだ。
彼は脚本協力のイデアと部屋に閉じこもって何本もの人形ものホラー映画を観あさり、監督生の助言から日本人形を扱うことにした。
そこで、日本人形を使うとなれば日本でなくてはならぬ。そうくるとクルーウェルを日本に置くことになる。違和感なく彼を日本家屋に閉じ込めるためには…監督生と結婚させてしまうのが1番早いと彼は思ったのだ。
なので監督生をクルーウェルの妻として配置し、仏間の人形について散々イデアと設定を練り上げ、脚本を書き上げた。
このドッキリはクルーウェルが人形に怯え続けるという設定だったのだ。
だが、これは失敗に終わった。何故ってクルーウェルがまったく人形に怯えないから。
確かにビクッとしたり多少怖がったりはしていたが。監督生を怯えさせまいと振る舞い、ほとんど表情を変えずに生活を送っていた。
クルーウェルは我々が考えているよりも余程強かったのである。
故にモニターで観ていたフロイドたちは頭を抱え、脚本を書き直すことに決めた。
お化けがダメならサイコホラーに変えてしまおうというのである。なので監督生の「嫉妬深い」という設定をなんとか掘り下げ、監禁ホラーショーにスッカリ形を変えて見せた。
しかしクルーウェル、それでも尚冷静である。
離れに監禁されたというのに、鏡を割ったと言われたのに、彼はほとんど動揺しなかった。
それどころか穏やかな彼女の様子に合わせて相槌を打ち、笑って見せ、1人の時はぼんやり紫煙をくゆらせている。
一週間そうしているかと思えば、突然何を思ったか拘束具を外して家に侵入し、何をするでもなく彼女の背中をじーっと見つめているのだから…。
モニタールームはあまりの恐ろしさに震撼したのであった。監督生も恐れ慄き、死にそうになってしまった。そこでイデアが咄嗟に機転を聞かせ、通信機に向かって「殴れ!」と叫んだのである。
なので彼女は指示に従って金槌を振り下ろし…寸止めでやめ、控えていた俺たちのレオナ兄さんが後頭部をぶん殴ったのであった。
当然気絶したクルーウェルを(出血はフェイクである。すぐに治療をしていたためタンコブができたくらいだった。マァしかしレオナの全力猫パンチであるため、金槌で殴られた方が逆に軽傷で済んだかもしれなかった)フロイド・イデア・ヴィルが人形部屋に取り敢えず閉じ込め、ハンズに行ったりSMの道具を取り扱っているところに行って手錠やら何やらを買い揃え、彼を監禁。
そして居間で緊急会議をして、またしてもシナリオを変更。
このまま人形のオカルトホラーと監督生によるサイコホラーの二つで畳み掛けようとしたのだ。
が、案の定それは失敗した。
彼は監督生に怯えなかった。
それに、仏間の人形をけしかけたのに…クルーウェルが怯えたのは一瞬である。
まさか彼はあの厳重な拘束具を、気が違ったように打ち付けて破壊し、カンザシを持って人形を…。…。
あれは本当に、狐が取り憑いたとしか思えなかった。
勿論モニタールームは静まりかえった。
クルーウェルが怖過ぎて誰も喋らなかった。正直言って、前回のシリアルキラー役のクルーウェルよりも余程怖かったのである。
しかもクルーウェルは今回のオチである骨壺を見つけた癖に、なんの反応もしなかった。
普通人形の腹の中に骨壺を見つけたら怖くて気絶するだろうと思ったのに。あの男はまさか骨壺を壁に投げ捨てたのだ。
あの骨壺は彼女の祖母のものという設定だった。祖母が若い娘時代、他の男と浮気をして…嫉妬に狂った祖父が彼女を殺し、骨だけを人形の腹の中に入れて愛でていたという設定だった。
それがクルーウェルを追ってくるという話だったのに、あの男。全く意に返さなかった。
なんて男なのだ。
フロイドとイデアはモニタールームで頭が痛くなるまで頭を抱えて悩み、この番狂わせを修正しようとした。もしかしてオレたちが逆ドッキリを仕掛けられてるんじゃないか?と思うほどクルーウェルは思い通りに動いてくれなかった。
シナリオの修正は間に合わない。
間に合わないまま時間は過ぎていく。
そんな中演者の監督生が、「私がなんとかします」と言ってあの屋敷に戻って行ったのであった。
そこから先は全て彼女のアドリブだった。
クルーウェルを解放して逆に監禁されようとしたのも。彼女を閉じ込めて安堵したクルーウェルの知らぬ間に自害したのも。
彼らは魔法でそれを手伝いながら、興奮気味に画面にかじりついて見ていた。
流石のクルーウェルも死んだ彼女の姿を見れば、悲鳴を上げてパニックに陥り、みっともない姿を晒して吐いて泣くだろうと。
…が。
彼はどこまでも斜め上だった。
暫く彼女の死体をぼーっと見ていたかと思うと。突然笑い出し、彼女を抱きしめ、なんの脈絡もなく自分の頭を吹き飛ばそうとしたのだった。
ここまでくれば当然撮影は中止である。
撮影班は鏡から飛び出し、彼の自殺を止めに駆け込んだ。と、こういう顛末だ。
途中でドッキリであるということがバレたわけではないから、本気で失敗したわけじゃないが…。
「ターゲットが悪かったわ…。これ誰だったら引っ掛かったわけぇ?」
「あ、多分私だったら気絶してます」
「じゃあ学園長にしとけば良かったぁ〜!」
フロイドはビタンと畳に仰向けになる。
レオナとリドルは疲れた笑みを漏らした。2人はサイコホラー・スプラッタ・パニックホラーの名将である。今回はオカルトホラーということで席を外していたが、サイコホラーに変わったというので後からやってきたのだ。
と言っても僅かばかりの助力しかできなかったが。
「あーー…絶対母さんから電話かかってくるわ」
「お母さん?フロイドさんの?」
「そお。前回ドッキリ終わった後親戚中から電話きたのオレ。母さんからフロイド観たわよアンタ〜って来て。観んな!!っつったのにオレ。親父からもかかってきたし」
「ふふ」
「絶対今回も観たわよ〜って電話くるぅ…」
監督生はこれを可愛く思った。
なんだか子どもっぽくて可愛い。イデアは目深にフードをかぶって一言も喋らないが、フロイドが何か言うと横でヘラヘラ笑っていた。
2人は今回の企画でずっと共に行動していたため、随分仲良くなったのである。
「まぁ今回は相手が悪かったということで。良いんじゃないですか、一応見所はあるわけですし」
「え〜…」
「飽きずに頑張ったじゃないですか。フロイドにしては珍しく」
「ん〜…」
ジェイドと学園長が適当に慰めてやれば、フロイドは体育座りのままユラユラ体を揺らして唇を突き出す。
納得いかないのだろう。
「だってさあ、イシダイせんせ…。!」
フロイドは言葉の途中、突然弾かれたように廊下の方向を見た。
廊下から、「ギ、」と板の軋む音が聞こえたからだ。
ギシ、ギシ、と人の歩く音がする。
途端に居間の和やかな空気が凍った。
クルーウェルが起きたのだろう。
彼がここに近づいて来ているのだ。
男たちは一気に石を飲んだような顔をして廊下のある方向を見る。
ギシ、ギシ、と淀みなく足音は進み、やがて襖の前に立ち止まり。
スッと鶴の描かれた赤い襖が開いた。
着流しを着たクルーウェルは、煙草を咥え、胡乱な瞳を持ってそこに立っていた。
彼はやつれており、まだ血のりが所々に付着したままである。行灯の光にぼんやりと映し出された彼を見て、場が固まったのは当然の道理だった。
ほとんどアヤカシに見える。
クルーウェルは座敷を見下ろし、じっと黙っている。その恐ろしさと言ったらなくて、少年や大人たちも押し黙って彼を見上げた。
なんと言うべきか分からなかったのだ。
が。
ほほほ、と笑う声が響いた。
男たちはビクッとしてその声を振り返る。
すると監督生が小道具の閉じた扇子で口元を斜めに覆って笑っていた。
「…夜は鬼が来るというけど、ほんとね」
彼女は無邪気にクスクス笑う。
リドルはそんな彼女を見て「この子どういう神経してるんだろう」と思っていれば。
入り口に立っていたクルーウェルも僅かに笑った。
それは祭壇から降ってくるような、一種不気味な笑い声であった。
「仔犬」
「はい」
「おいで」
「?はい」
監督生はゆっくり立ち上がり、躊躇わずにそばに寄った。
2人は廊下に立って見つめ合う。監督生は本当に犬っころみたいな顔をして彼を見上げていた。
「オレが、鬼に見えるか」
彼はジットリと言った。す、と巨大な手が顔に近づいてくる。その巨大な手は彼女の髪に触れ、耳にかけてくれた。
白髪の隙間から色彩の薄い瞳がキラキラと光っている。
「いいえ」
「嘘をつくな。捻り殺したくなる」
「ほ、本当です。さっきのは冗談で言ったの」
「なら、オレは何に見える?」
多分この返答を間違えたら殺される。
男達は張り詰めて彼女の背中とクルーウェルを見詰めた。もし殺されかけたらなんとか助けてやらねばならぬから。
しかし彼女はフ、と自分の顎に扇子を添えて呑気に考え込み。
「私の旦那さま」
と、線香から噴き上がる煙のような、ともすれば香りさえしそうな程艶っぽい声で言った。
「!ほお」
対峙していた〝猛獣〟はこの解答を気に入ったようである。その顔に喜色が差し込み、口を広げて天狗笑いをし、
「perfect!」
バァン!と。
けたたましい笑い声と共に襖をしめた。
監督生とクルーウェルの姿が消える。
男たちはビクッとして…暫く赤いフスマを見つめた。
物も言えなかった。
新しいドッキリが始まったのではないかと思えるほど、彼が怖かったのだ。
「……なあ。惚れ薬っていつ効果切れるんだ?」
突然、沈黙の中でレオナが呟いた。
彼は襖を見つめたまま夢を見ているような顔つきでポツリと言う。
それに対し学園長は「えっ。さあ?かなり強力なので暫くは…」と言った。
フロイドはそれを聞いた瞬間目の色を変え、「馬鹿野郎」と巨大な声を出した。その声はバチィンと壁に反響して彼らの背中を叩く。
「なにしてんの。捕まえろよ。小エビちゃんが喰われるぞッ」
フロイドが叫んだ。周囲の男たちはその声にハッとして飛び上がり、襖を開ける。しかしそこにはすでに誰もおらず、転移魔法を使ったあとだった。
男達は悲鳴を上げて2人を探す。
打ち上げの和やかな時間は明け方までの捜索に当てられた。彼は本当に、どこまでも想定通りに動かない男であった。
■
一ヶ月後。
フロイドは控え室でおよそ70回目のため息をついた。
今日は4月1日。
「夫婦そっくり」の試写会日である。
ドッキリの内容は2時間に編集されて映画となり、まずは学園内の映画館で先行上映される。
その後に一般公開されるのだが…。
正直言って今回は失敗でしかない。
それだというのにその失敗作を沢山の人間が見るのだ。毎年恒例のNRCのエイプリルフールであるこの映画は皆んなが注目する。
本当に色んな人が。
なのに、自信満々でメガホンを取ったのにこのザマ。
きっとネットが荒れることだろう。「今回の監督のフロイド・リーチってやつ誰?」「ああ、前回のターゲットだよ」「たいしたことねえな」なんて言われるんだろう。
嗚呼腹が立つ。むかつく。
畜生、あんなに頑張ったのに。
スーツを着た彼はずっとイデアに「大丈夫でしょ」「なんとかなるって」と背中を撫でられながら慰められていた。
イデアは舞台挨拶に出ないらしい。
そりゃそうだ。人前に出たら死ぬ病気にかかってるんだから。
「フロイドさん、そろそろ」
「…んぁ〜い」
スタッフに呼ばれてゲンナリとした顔で立ち上がる。
「行ってきます…」
ノシ、とイデアの頭に手を乗せ、彼はノロノロと控え室を出た。スタッフに段取りを聞きながら憂鬱な顔で廊下を歩き、劇場の端に控える。
監督生は黒のドレスを着てソワソワと立っていた。クルーウェルはいつものコートではなく、気取ったジャケットを着て凛と立っている。
ヴィルも全く動じていないようであった。
ゲンナリしているのはフロイドだけだ。癇癪でも起こしそうだが、なんとか我慢して首をさする。もうこんなの舞台挨拶じゃなくて謝罪会見だ。
司会の声が響く。入場のサインが出る。
フロイドはハーッ、と71回目のため息をつき、ブーイング覚悟で歩いて行った。
カメラのフラッシュが彼の顔を白く点滅させる。
その方向を見ないようにスタスタとクルーウェルの背を追い、お辞儀をしてパッと客席を見て。
「え、」
フロイドは流石に驚いた。
客席の少年たちは、ブーイングどころか滂沱と涙を流していたのである。ワーッと割れんばかりの拍手と指笛が鳴り響き、「フロイドーッ」との声が聞こえた。
クルーウェルや監督生への喝采も凄まじい。
フロイドは何故自分たちが喝采を浴びているのか分からず、キョトンとして目を見開いていた。
「なんで…」
何故観客が喜んでいるか。
それはひとえに、彼らがこのドッキリを「純愛ラブロマンス」だと思い込んでいるからだ。
観客は皆、拘束されたクルーウェルと監督生が寄り添って笑っている「夫婦そっくり」というポスターを見て、「オッ。これはサイコホラーだな」「前作超えるか?」なんて期待をして映画館に入ったわけだが。
スクリーンに映ったのは、2人のあでやかな夫婦生活だった。物静かな家屋にて、美しい貞淑な女房と華やかな亭主が幸せそうに暮らす姿がキラキラしく映されているのである。
少年たちはボケーッとポップコーンを食べながらこれを観ていた。
するとあの問題の人形が出てきて、彼らは「おっ。なんだ、これはオカルトホラーだったのか」と前のめりになったが。
クルーウェルはあからさまに怯えることもなく、怖がらせないように妻を庇い続けた。
「あの人形を捨てろ」なんて言うこともなく、誰に相談することもなく、胸にひた隠して夫婦生活を続けていた。
その後彼女に誤解されて暗い離れに閉じ込められるも、彼は怒ることも暴れることもなく、ただ彼女を受け入れて凪のように微笑んでいるのである。
寄り添って「あつい」と陽だまりの中で笑い合う2人の美しさはいかほどであったか。「殺されたって構わない」と低い声で囁く彼の愛の深さはどのように映ったか。
交錯する2人の火のような恋に、普段恋愛映画なんて全く観ない少年たちは口元を押さえて見詰めていた。彼らはこういうものにとんと耐性がないのである。
クルーウェルはどんなに酷い目にあっても動じなかった。それは少年達の目に、『様々な困難を彼女のために乗り換えている』ように見えた。
『オレの女房はお前だけだ』
あそこまでされても、そう言って切なげに泣く彼に釣られて泣く少年まで居た。ませた悪ガキ達はこういう純粋なものに意外と弱いのだ。
それに最後、迷わず彼女の後を追って死のうとする男気。これに痺れてしまったというわけだった。
だってこれは役者の芝居じゃない。
クルーウェルの行動は全て本物で本心なのだ。
そうして最後はやはり、クルーウェルが大笑いしてバシンと襖が閉まるシーンで終わる。
赤い襖が閉じられたその途端、画面が暗くなり、エンドロールが流れる。
少年達はしばらく呆然として、「監督/脚本 フロイド・リーチ」の文字を見て。
猛然と拍手をしたのであった。
まさかあの男がこんな〝純愛〟を描くなんて。こんなしっとりとした恋愛映画を作るなんて。
と。「ドッキリ大失敗。亭主の鏡かよ」という台詞は皮肉と捉えて。
そんな風に大盛り上がりしていたというわけだ。
フロイドは「感動した」「クルーウェル、オレお前のこと誇りに思うよ」なんて騒ぐ彼らを見て、一拍垂れ目を大きくして黙り込み。
全てを察して、据わった目でマイクを取り。
「どもぉ。監督のフロイド・リーチです。ホラーばっかじゃつまんないかなあ〜と思ってぇ、今回は恋愛にフォーカスしてみましたぁ」
と。
胸を張って、正々堂々と大嘘をついたのであった。
隣いたヴィルがブハッと吹き出したが、役者根性で立て直してすまし顔に戻る。
クルーウェルと監督生も笑わないように自分の手の甲をつねったり、俯いたりして堪え、自分の挨拶になれば彼に合わせて話した。
フロイドは始終据わった目でニコニコしていた。色々と胸の内側で戦っているのである。
そのまま無事挨拶が終わり、撮影も終わり。
凍死したホームレスみたいな瞳でニコニコしたまま控室に戻った途端、着信に気がついて電話をとり。
『あっ、フロイド?ちょっとアンタ映画見たわよ凄いじゃない。ジェイドに見せてもらったのよ、感動したわもうすっごいんだからもう、アタシご近所さんに自慢しちゃったわよ!アンタあんな才能あったのね、恋愛モノなんて全然興味なかったくせにアンタろくにドラマも見なかったくせになによアンタ』
「うるせぇ観んなっつったろババア!」
と、大声で叫んで電話を切るのだった。
「なに、お母さん?」
イデアに言われ、適当に頷く。
ジェイドの野郎が勝手に見せたらしい。
フロイドはイデアの膝の上にドスッと足を広げて無気力に座る。当然フロイドの方がでかいので、イデアは埋もれてしまったがあまりに気にしていない。この男のパーソナルスペースの狭さに慣れ切っているのだ。
「なんかぁ、純愛ものだって勘違いされてたぁ」
「見てた見てた。嘘付いてて草」
「良いじゃんみんながそう思ってんだったら。そうって言ってやるのが優しさじゃねぇの」
「言い訳してて草」
「あ、お弁当ある。先輩アーンしてぇ」
「この体勢で?」
「ガタガタ言ってねぇでやれよ」
「怖…」
脱力していれば、控え室にヴィルがやって来た。フロイドは「あ、お疲れ」と手を挙げる。イデアは埋もれているから髪の毛しか見えなかった。
「ベタちゃん先輩スゲー褒められてたね。よっ、千両役者。ニッポンイチ」
「やめてよ日本一なんて…。世界一の間違いでしょ」
「ヴィル様ーッ」
ヴィルは鼻で笑って前の席に座る。
様子を伺いに来てくれたらしい。
フロイドはそれが嬉しかったが…こう言う時に真っ先に来るはずの少女が見当たらないことに違和感を覚えた。
「あれぇ?小エビちゃんはあ?」
「クルーウェルに連れて行かれたわよ」
「はっ?」
「何処に居るかは知らないけど」
「え?惚れ薬まだ切れてないの?」
「切れてるわよ」
「じゃなんで連れてかれたの」
「アタシが知るわけないでしょ」
「いやヤバくねっ?待ってオレ探してくる」
「バカね。とっくに食われてるわよ。〝小エビちゃん〟がそんなに大事なわけ」
目を見開き、彼は立ち上がった。
何故ヴィルが普通にしているのかわからなかったのだ。
「なに言ってんの。妹みたいなもんじゃん!」
フロイドは叩き付けるように言った。
イデアとヴィルはポカンとしてから、ブハッと吹き出す。まさかこのウツボが彼女をそんな風に思っていたとは思わなかった。
「──そう。それじゃ、アンタまた兄弟無くしたわね」
「ッ」
ヴィルはけたたましく笑って言った。
イデアもそのブラックジョークに笑っていた。控え室に響く2人の笑い声。
フロイドは顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「アンタが殺したのよ!」
「夫婦そっくり」
監督/脚本 フロイド・リーチ
脚本協力 イデア・シュラウド/レオナ・キングスカラー/リドル・ローズハート
主演 九条ユウ
助演 ヴィル・シェーンハイト
ターゲット デイヴィス・クルーウェル
メイク ルーク・ハント
美術 アルタイル・ゼヴァン
美術応援 シャネル・エドガール
音楽 ハッピー・バギー
取材協力 九条ユウ
撮影 ウェンスト・カーター
撮影助手 ケイト・ダイアモンド
トレーラー アンドレ・リリー
薬品作成 ディア・クロウリー
催眠魔法 サム
END