「シュガーロード」なる別称で呼ばれて久しい旧長崎街道。この道は、脇街道でありながら、海外からの名品珍品が多数運ばれた、極めて異色かつ重要な幹線道でした。その名品のひとつが「砂糖」。渡来菓子製造の技法と、主原料である「砂糖」、そして、人を笑顔にする菓子造りに邁進した職人の努力。奇跡の道沿いに誕生し、400余年の時を経てなお愛され続ける菓子をご紹介します。
砂糖が日本に伝来したのは奈良時代。遣唐使が大陸から持ち込んだのだといわれています。当時の砂糖は「蔗糖」(しょとう)と呼ばれる薬品。大仏へ献上されるような特別高価なもので、庶民が口にすることはありませんでした。
砂糖=菓子の原料という概念を生み出したきっかけは、16世紀に長崎へと伝わった渡来菓子の存在かもしれません。ポルトガル船の来航により開かれた長崎の町は、同時にキリスト教が布教されました。人々の心を動かす布教には「食」でのアプローチはつきもので、そのなかには、甘〜い南蛮菓子もありました。
ポルトガル人宣教師たちののど薬代わりだったのは、ハッカの種を入れた金平糖(コンペイトウ)。宣教師ルイス・フロイスが献上し織田信長が初めて口にした南蛮菓子が、この金平糖でした。当時から現代と変わらず色とりどりの見た目も美しい菓子であった金平糖を、信長はとても気に入り、ガラス瓶に入れ眺めては口にしていたという話は有名です。
約四百年前、徳川幕府が開かれた慶長8年(1603)、長崎で刊行された「長崎版 日葡辞書」には、「麦地」という文字が出てきます。ポルトガル人宣教師たちが辿り着いた長崎港に突き出した岬一帯には、当時より麦畑が広がっていて、彼らはこの麦を利用し、土地の人たちに自らの食文化……パンや南蛮菓子を作る技術を伝えました。その証拠に、パンは英語でもなくフランス語でもオランダ語でもなく、ポルトガル語であるということ。信長も愛した南蛮菓子、金平糖の語源もポルトガル語の「コンフェイト」(葡/CONFEITO)なのです。他にも丸ぼうろの語源、「ボーロ」(葡/BOLO)、「ビスコウト(ビスケット)」(葡/BISCOITO 蘭/BESCHUIT)もポルトガル語です。フロイスが記した『日本史』には「胃腸の悪い宣教師が煮炊きしたものを全然食べず、ビスケットと塩漬けのマンゴーと少量のぶどう酒で満足していた」とあります。現代のビスケットは甘い焼き菓子ですが、伝来当初のそれは、戦後の「カンパン」にも似たポルトガル人たちの船内保存食だったようです。
次々に上陸する異国の味は日本人の舌を魅了し、その製法は和菓子の発展に大きな影響を与えました。そして、長崎の町では渡来菓子を自分たちで作るための地盤が構築され、次々に進化させていったのです。
原料である砂糖、砂糖を使用した菓子造りを指導する指導者、施設などが整い、長崎の砂糖菓子文化は成熟へと向かっていきます。
元禄7年(1694)、現在の万才町付近となる大村町には、「菓子蜜漬屋敷」が建てられ、そこで幕府献納用の菓子が中国人の指導で作られていました。果実を砂糖漬けにした蜜漬は菓子同様の贅沢品。中国から伝わった柑橘系の果実、ざぼんの砂糖漬け、長崎名菓「ざぼん漬」もこの頃に伝わったもののようです。
また、長崎名菓の代表といえば「カステラ」。その原型はポルトガルで「パン・デ・ロー」(葡/PAO de lo)と呼ばれる菓子で、これもポルトガル人宣教師から伝わりました。カステラは、ポルトガルの隣、スペインのイベリア半島中央部にある「カスティーリャ地方のパン」という意。当時はコッペパンのようなものだったといわれ、その証拠に江戸時代は酒の肴にしていたという話も残ります。
江戸時代に長崎に多くの砂糖が輸入されるようになると、和菓子職人たちは、南蛮渡来のカステラ作りのレシピにアレンジを加え、おいしいカステラ作りに力を注ぎます。砂糖や水飴の分量を増やしたり、卵を泡立てみたり、試行錯誤の末、現代でいうオーブンのような「引き釜」というものも考案。ふっくらしているのにしっとりと甘い長崎名菓「カステラ」へ進化させたのです。
そんな江戸時代のカステラ作りの光景が、川原慶賀筆『カステラ焼風景の図』に描かれています。
また、長崎市の松森神社境内「職人尽」の彫刻絵には、当時長崎で活躍していた職人の仕事風景が描かれていますが、その中一枚に「菓子作り風景」を見ることができます。長崎の天文学者、西川如見が享保5年(1720)に発刊した『長崎夜話草』に「長崎土産物」の章があり、その中に「蛮人(ポルトガル人)長崎にて教えて造り初めし物」があると記し、南蛮菓子として、コンペイトウ(金平糖)、アルヘイ(有平糖)、タマゴソウメン(卵素麺)、ビスコウト(ビスケット)、カステラボウル(ボーロ)などが挙げられています。その頃になると、南蛮渡来の菓子は、すっかり長崎名物の菓子として認知されていたのかもしれませんね。
では、今では長崎の伝統菓子として親しまれている渡来菓子をご紹介します。
中国伝来の落雁(らくがん)の一種“口砂香(こうさこ)”は、茶の湯や慶弔菓子として用いられる菓子。もち米で作る落雁に対し、うるち米を使うため、まろやかな口どけが楽しめます。昭和の初め頃までは、乳の出が良くなるといわれ、産婦さんへの見舞い品でもあったそうです。
一方、ポルトガル渡りの有平糖や金平糖は砂糖と水を煮詰めたいわば砂糖そのものの菓子。それに餅粉を加えるなど独自の製法で進化を遂げたのが「ぬくめ細工」という長崎くんちの庭見世には欠かせない“花菓子”“縁起菓子”です。五穀豊穣、商売繁盛……見て楽しむぬくめ細工のモチーフは、かつては野菜や果物など多種ありましたが、現代では恵美須さん、大黒さん両神様のニッコリ笑顔の面が定番です。
長崎街道が整備されはじめたのは、徳川幕府が開かれた江戸時代。小倉・常盤橋を起点に直方、飯塚、筑紫野、鳥栖、佐賀、武雄、大村、諫早を経て長崎に至るこの道は、幕府直轄地(天領)の他に、佐賀・大村・対馬・福岡・小倉と、5つの藩の領地を通るルートでした。慶長16年(1611)に筑前6宿(黒崎~原田)が完成し、小倉から長崎まで全長228km、25宿が定着しました。
ポルトガル船の来航により開かれた長崎港に来航するようになった中国人たちは、先に貿易をはじめたポルトガル人たちの主な貿易品が生糸や織物、砂糖であることを知ると、彼らも多くの生糸や砂糖を積み、渡って来たといいます。寛永18年(1641)、長崎に入港した唐船は大小97隻。その積荷の大半は砂糖でした。
同年、徳川幕府の命により、平戸のオランダ商館は出島へと移されました。その時、オランダ人たちは唐船の砂糖貿易の実情を目撃。オランダ船もまた船の底荷として砂糖を用いるようになります。この年、台湾を経由して長崎に入港してきたオランダ船の積荷には黒砂糖・35,000斤、白砂糖・4,000斤があったといいます。
台湾、ベトナム、南京、福建……江戸時代、海のシュガーロードを渡って来た砂糖の終着点は長崎・出島でした。出島に復元された木造二階建ての三番蔵は、別名砂糖蔵と呼ばれていました。
江戸時代における砂糖貿易は、幕府の直轄である長崎会所によって売買され、その後大坂商人たちの手に渡り、さらに全国各地に運ばれていくのが正規ルートでした。しかし、輸入砂糖がすべて海路で大坂へ集荷されるのならばシュガーロードは存在していません。長崎街道沿いの各藩では中国と関係の深い黄檗宗の寺院が多く、これらの寺院にも長崎と同じように多くの砂糖がもたらされたのだといいます。そのような贈り物やこぼれ砂糖と呼ばれる非正規ルートの砂糖が長崎市内で売買され、長崎街道を通じて流通していったのです。
長崎街道沿いには、流通する砂糖とともに豊かな菓子文化が花開いていきました。遠い昔に誕生しながら、現代人にも愛され続けている各地の名菓を探してみましょう。
①おこし
「○○おこし」など、ご当地名が付けられ、全国各地に存在するのが「おこし」。漢字では「粔籹」と書く、平安初期に渡来した唐菓子(中国菓子)の一種で、その昔、街道を行き交う旅人は、携帯保存食として愛用していたといいます。平安中期に作られた辞書『和名類聚抄』に「おこしは、蜜をもって米に和し、煎ってつくる」と記されているように、その製法は現代とさほど変わらない、完全形だったことがわかります。伝来当初は貴族が食する高価なものでしたが、験担ぎの語呂合わせが流行った江戸時代以降は、家を“おこし”、名を“おこす”と、多くの人に食され、庶民の縁起菓子として広く伝わっていきました。 長崎では米処諫早の良質の米に唐汁(とうあく)を加え、固める前に栄養価の高い黒砂糖を混ぜるのが特徴の「諫早おこし」が有名です。また、街道沿いの唐津には「松原おこし」があります。旅人たちは、約百万本の松林、虹の松原を眺めながら旅の疲れをおこしで補っていたことでしょう。
②あめがた
佐賀には、「のんきい」の名で親しまれている飴があります。他のもち菓子と同じく中国に起源を持ち、砂糖の伝来よりも古い歴史があるとも推測されている飴です。元禄時代の日常食を紹介した『本朝食鑑』に長く伸ばした飴をノミで切る「ノミキリ」「ノミ飴」と呼ばれる白飴の記述があることから、これが語源なのかもしれません。七五三の時に神社で貰って食べた「千歳飴」同様、もち米からできた水飴を煉り上げて作られ素朴な味わいが特徴です。やはり、かつては携帯食、保存食としても珍重されていました。また、「ちちあめ」と呼ばれ、母乳の出が良くなると、産後の祝いとして贈る習慣が残るなど、今も栄養菓子として地域の人々に親しまれています。
③寿賀台
陶磁器の産地である佐賀には、ポルトガル伝来の砂糖菓子と飴細工を組み合わせた「寿賀台」という菓子があります。街道沿いで度々見かける恵比寿像が抱える鯛と同じく、おめでたいときの引き菓子として、また、結婚式のウエディングケーキの意味合いとしても重宝されてきました。特に伊万里や塩田など、陶磁器産地周辺で寿賀台づくりが盛んとなったのは、天草から磁器の原料である陶石と共に、多量の砂糖が有明海を渡り塩田にもたらされたからだといいます。高度な技術で焼かれた型に煮詰めた砂糖が流し込まれ生まれた鯛や伊勢海老などの縁起菓子を、飴を伸ばして作った垂れ幕やマツなどの飾りと組み合わせ、台に乗せると「寿賀台」は、砂糖の芸術品とも呼べる逸品です。
④逸口香
外見はいいが内容のない見かけ倒しの人を「胡麻胴乱(ごまどうらん)」といいますが、これは、文化文政期(1804〜1830)に、江戸で流行した駄菓子からきたたとえ。中が空洞で、皮の内側にはねっとり黒糖がはりついた珍菓、いわゆる「ごまかし」(胡麻菓子)は、長崎では「一口香」の名で知られています。中国山西省の「空心餅」に酷似したこの菓子は、弘化元年(1844)、唐饅頭の製造がはじまった長崎から佐賀へ長崎街道を通じて伝播したと考えられています。実は愛知県常滑市には、さらに古い歴史の「一口香」があるといいます。かつて佐賀県の塩田地区には多くの専門店がありましたが、今では一軒が残るのみ。パリッとした歯触りと香ばしさが楽しめる佐賀の逸口香は、長崎の一口香よりも、二まわり程大きいのが特徴。こんがりきつね色の美味しそうな饅頭をかじると、やはり中身は空っぽです。
⑤小城羊羹
江戸時代には鍋島小城藩の中心地として武家文化が形作られ小京都と称された小城の町。この地は、その頃から桜の名所であったことから、小城羊羹(おぎようかん)は「櫻羊羹」からはじまったともいわれています。羊羹のルーツは、奈良時代以前に中国から伝来した「羹」というスープ。中国の羹は、鳥獣、魚貝の肉や肝を使うが、日本では肉や肝の代わりに小豆や山芋、葛粉など、植物性の材料で動物をかたどりました。48といわれる羹のうち、小豆を使って羊の肝に見立てたものが羊羹。当初は蒸羊羹という茶の点心として広まり、18世紀後半から長崎を中心に豊富な砂糖と寒天を用いた煉り羊羹が作られるようになりました。 清らかな水と良質の小豆の産地であった小城の羊羹は、今や海外まで名声を博す名菓。上質の白小豆と天然の紅を加えた見た目もお味も上品な「櫻羊羹」は外はシャリッと中はしっとりとした極上の味わいです。
⑥丸ぼうろ
佐賀の名菓として広く親しまれているのが「丸ぼうろ」。一見、何の変哲もない茶色の落とし焼きのようなこの菓子、実は名前も製法も南蛮渡来の南蛮菓子。ポルトガル語で「ケーキ(お菓子)」を意味する「ボーロ」が丸くて「丸ボーロ」なんです。伝来当初の丸ボーロの原料は、白砂糖、麦粉、胡麻油、唐汁のみで硬いお菓子。船員たちの保存食であったといいます。19世紀頃になってはじめて卵が使われるようになり、また、佐賀平野の良質な小麦粉と長崎街道で運ばれた材料によるアレンジが進み、現在のような食感や味わいに近づいたようです。佐賀では婚礼の引き菓子や、弔事菓子としても馴染み深い菓子、地味な見た目ながらひとたび口に運べば、優しさにあふれた奥ゆかしい素朴な甘さが口いっぱいに広がる今や定番のお茶菓子ですね。
⑦鶏卵素麺
砂糖の隆盛な江戸時代、カステラはたいへんな高級菓子でした。そこで、人々の口を楽しませていたのが、同様の原料で作られる南蛮菓子「卵素麺」。今ではすっかり福岡の名菓ですね。出島完成の翌年、幕府の命により長崎警備に当たっていた福岡黒田藩の御用を務めた松屋の初代がこの製法に出会い、故郷で広めたというのが通説となっています。17世紀中頃の『南蛮料理書』には、「卵の黄身だけを布でこす。砂糖を練った上に葛素麺のように右の黄身をたらしこみ、引き上げて金平糖をかける。口伝がある。」の記述があります。鮮やかな黄色と、貴重な砂糖をふんだんに使用した贅沢な甘さは独特です。
⑧金平糖
北九州には信長も愛した「金平糖」を今も四百年前とほとんど変わらない製造方法を守り抜く専門店があります。金平糖は、伝来当時より、すでに色とりどりの愛らしい菓子でした。亨保3年(1718)年刊行の『古今名物御前菓子秘伝抄』には、製作工程と共に、出来上がった砂糖を五等分にして五色に仕上げるその原料が記されています。青はツユクサの華をしぼった染料の青花、黄はクチナシ、赤は紅花から取った形紅、白はそのまま、黒はゴマ油、ナタネ油などを燃してとった油煙の灰墨。当時の農村に広がる風景を彷彿とさせる原料名です。機械化されているものの、十四日間の行程を経て造るその製法は、一度解けた砂糖の再結晶化に華やかな色が加わり、見る者、食べる者の心を豊かにする素朴さを大切に代々受け継がれています。
長崎街道沿いではない遥か彼方の地に、長崎に伝来した南蛮渡来の菓子が郷土菓子として今も作られているとしたら……不思議ですよね。しかし、そんな不思議な話が存在しているんです。シュガーロード、サイドストーリーをご紹介しましょう。
オランダ語でケーキを意味する「taart」、ポルトガル語でケーキを意味する「torta」。いずれも発音は「タルト」ですが、愛媛県松山市には、その名も「タルト」という南蛮渡来の菓子があります。見た目にはロールケーキをスライスした感じですが、生地はカステラで、中に包まれているのは餡です。和とも洋とも言い難いこの「タルト」、対馬の「かす巻き」や島原の「とら巻き」によく似ています。この菓子が松山に伝わったのは江戸時代。幕府より異国船取り扱いを命じられた松山初代藩主 松平定行公は、正保4年(1647)、ポルトガル船二隻入港の知らせを受け、長崎の海上警備に当たりました。この時、定行公はポルトガル人との交渉。その際、南蛮渡来のタルトと出会い、その製法を松山へと持ち帰ったのだといいます。しかし、この時定行公が食べたのはカステラの中にジャムが入ったもので、餡入りのタルトは定行公の考案したものだといいます。また、定行公の妻は、おそらく慶長年間から製糖法を確立していたといわれる薩摩島津家の出身。タルトに必要な砂糖は、鹿児島で作られ、鹿児島から運ばれていたのかもしれませんね。
そして、処はもっと北へ。岐阜県、東美濃の片隅に位置する山間の城下町、岩村に、江戸時代の製法そのままに作られているカステラ「岩邑かすてぃら」があります。岩村藩医 神谷宗元の養嗣子、神谷雲沢が寛政9年(1797)、長崎で蘭学と西洋医学を学び、2年後に帰藩し城下に開業しました。その際、病人の滋養食にふさわしいカステラの製法を藩御用達菓子司に伝えたというのです。
鶏卵、小麦粉、砂糖、蜂蜜のみの原料をすり鉢で十分に混ぜ合わせ、弁当箱程の長方形の蓋付銅器に入れ炭火で上下から加熱。手動が電動になり、炭火がオーブンに変わったものの寛政の頃のレシピは今も変わらないのだといいます。長崎カステラとの違いは、一目瞭然。その素朴さが何ともいえません。 その時の菓子舖の分かれが、現在岩村の地に伝わる3つの店舗。このカステラの製法は、紛れもなく長崎から伝わったものなんですね。
昔の人は“長崎”といえば、まず砂糖を思い浮かべたのだといいます。御存知のように、九州一円の地域は“甘口食文化”。数々の郷土料理には砂糖が多めに入り、甘さ控えめとはいえない伝統菓子が今も人々に愛され続けています。きっとこれは私たちの祖先が憧れにも似た感覚で、貴重な砂糖を大切に、食習慣を重んじ、守り受け継いできた証。長崎には、あまりおもてなしの馳走がない時の挨拶に「うちは長崎が遠うございまして」という言葉が残っています。これは「充分に砂糖を使った料理ではありませんが」という意で、砂糖をふんだんに使った料理=最上級のおもてなしと考えられていたために生まれた言葉です。ポルトガル人たちが長崎に運んだ「甘い衝撃」は、私たちの祖先の味覚や食文化を変え、また、長崎街道沿いに新たな菓子文化を生み出しました。長崎発!シュガーロードで、古くて新しいスイーツに出会ってみませんか。