「海老原俊夫君虐殺事件」考 |
(最新見直し2008.2.10日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
1970.8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏(21才、3年生)の死体が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。 私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。あまりにも多くの血が流れ過ぎ今更の思いがあろうが、左派運動再生上今からでも遅くない、この事件が発生した経緯を明らかにし必要な自己批判を為しておくことが必要なのではなかろうか。れんだいこはそう思う。 2003.9.12日 れんだいこ拝 |
【中核派による革マル派の海老原氏リンチ死亡事件発生】 | |
海老原君殺害事件に至る経過は次のように判明している。70年安保闘争が終わった直後から、中核・革マル両派は街頭で衝突・乱闘を繰り返すようになった。7.9日、東京教育大構内で機関紙を売っていた中核派学生が革マル派学生に襲われ、機関紙を奪われるという事件が発生していた。この時海老原氏がこの時の革マル派メンバーにいたことからマークされることとなった。
8.2日、新宿の歩行者天国で中核派.革マル派両派が衝突。8.3日、渋谷でも約100名の乱闘事件が発生していた。海老原氏は同日午後3時頃、中核派の拠点地である池袋駅東口でビラ播き中に中核派の数十人に取り囲まれ、西武デパートのショーウィンドウの前に押しつけられ、集団暴行を受けた後、中核派のヘルメットを被せられ、タオルで覆面させられ飯田橋の法政大学までデモのようにしながら連れ去られた。その後法政大六角校舎地下室に連れ込まれ、自己批判要求されつつ集団リンチを受け、その過程で死亡した。その後厚生年金病院前に放置された。上半身裸で全身にメッタ打ちされた跡があった。 「検証内ゲバ」では、この時の貴重な情報を次のように開示している。
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9.25日、中核派の13名に逮捕状が出て、うち中核派全学連委員長で横浜国立大生の金山(24歳)、中核派全学連元執行委員でリンチ殺人を直接指揮した法大生の玉田(21歳)ら5名が逮捕された。逮捕状が出た13名の大学は、青山学院大3名、予備校生3名、横浜国大2名、法政大2名、中央大、東海大、慶応大が1人だったことが判明した(この海老原事件では中核派の全学連委員長ら21人が逮捕された、の記述もある)。 |
【革マル派の対中核派殲滅宣言】 | ||||||
この事件後革マル派は直ちに声明を発表し、中核派に対する報復行動に入った。次のように批判している。
8.6日、革マル派は、日比谷公会堂で開いた「国際反戦中央集会」を海老原君追悼集会にきりかえ、「同志海老原の死に報いるには、殺人者集団ブクロ中核派の殲滅以外には有りえない」、「この集会を機に中核派せん滅の戦いに入る」と「中核派殲滅戦宣言」声明を発表し、革マル派全学連委員長・洞田勉は、「彼等を一人残らず殲滅し尽くす」とコメントした。 高知聴が「前進社」に抗議文を送付、梅本克己が朝日ジャーナル誌上で虐殺者・中核派を免罪、とある。 |
【革マル派が第一次報復】 | ||
8.14日、中核派に変装した革マル派数十名(約30人)が法政大に侵入襲撃し、中核派学生十数名を捕捉(うち女性2名)、陰湿なテロを延々と続けていった。この間キャンパスでは、海老原君の遺影を掲げた革マル派の追悼集会が開かれていた。次のように報じられた。
革マル派は次のように声明している。
以降、やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになる。 |
【梅本克巳氏の「何を革命するのか」考】 | |
「左翼」に、海老原事件及びその後の報復情況下で提言された梅本克巳氏の「何を革命するのか」(1970.9.6日号朝日ジャーナル)が開示されているのでこれを転載しておく。
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(私論.私見)