※注意
藍×紫
ネチョ薄
誰てめえ
タイトルまんまです
東方二次創作、俺解釈幻想郷注意
珍しく短い
※注意終了
それはほんの少しのあいだ。
余計な荷物なんてなにひとつ持たず、真っ白なまま真っ白に育つ、そんな人妖が果たして存在するのだろうか。
生き延びる過程で背負わされたあらゆる十字架と真正面から向き合って、それでもなお、自分は潔白だと言い切れるのだろうか。
嘘に嘘に嘘に嘘。矛盾……矛盾……矛盾。
「紫様はひとを食したことがありますか?」
橙にそう訊ねられ、私は曖昧に微笑んだ。
手をひらひらさせて彼女を傍に寄せ、膝の上に乗せて後ろから腕を回した。
橙の問いかけは余計な飾り立てなんてまるで纏っておらず、その声音も、興味本位や無知からくる無邪気さではなく、ひどく真剣な、逃げ場を一切与えない、切羽詰ったものだった。
だから私は、ただ単純に、あるわ、とだけ答えた。
辛辣な事実を呑み込むのに、彼女は長い時間をかけて自分なりに噛み砕いているのが、回した腕のさやかな感触から伝わってきた。
「あなたが期待していたような答えを与えてもよかったのだけれど」
と、私は言う。
「それはたぶん、あなたが求めている答えではないから。私が犯した罪の一切は私自身を自由へ解き放つためのものだったけれど、それでも、私がやっていない犯罪なんて存在しないのではないかしら」
「自由へ?」
「私はただ自分に対して正直なままでありたかった……ふふ。そういう言い方もまるで詐欺師ね。幻滅した?」
「またなに胡散臭いことを言ってるのよ、あんたは」
夜空から落ちる水性の緩い光のなか、縁側を伝い歩き、霊夢が私たちの空間へ立ち入ってきた。
手に持った酒瓶を無造作に放って、私の隣に腰掛ける。私はくるくる回って空を裂く酒瓶をスキマで受け止め、そのまま中身を杯に注いだ。
「向こうで宴会やってるときに、ひとりだけ抜け出すような真似して。なにか食べ物調達してくるならともかく、ひとんちでなに勝手に黄昏てんのよ」
「ちょこっとね。冬眠の時期が近いから、ふっと眠くなるときがあるのよ」
「寝てないじゃない……潰れるまでは飲んできなさいよ。上位陣同士で潰れ合ってくれないと、鬼だの天狗だの、尻拭いは全部私に回ってくるんだから。魔理沙や早苗はすぐにダウンしちゃうし……」
「わかってますわ。せめて萃香くらいは道連れにしていくから」
「本気出せばあんたなんか、いくら飲んだって酔いやしないくせして。境界ちょこっと弄くれば」
「酒宴はひとの輪。本当にいいお酒には、他人と他人の境界を緩め、曖昧にさせる能力が宿っている。いわば『あらゆる境界を緩める程度の能力』。そういうものに、私の能力は通用しませんわ」
「はあ?」
「まあ、全能じゃないってことよ。私もね……」
私はそっと橙を膝から除け、立ち上がる。
何物も単独では生き残れない。人間も。妖怪も。善も。悪も。
運命を切り拓く程度の能力。破壊から創造を産み出す程度の能力。死に抗う程度の能力。境界を突き抜けていく程度の能力。
そういうものを誰もが多かれ少なかれ有しているからこそ、われわれの能力はわれわれの能力であり得る。
――嵐のなかを生きてきた。
かたちのはっきりしない理想を求め、泥の海を泳ぐようにもがいてきた。
人間と妖怪の境界。
疎通しない意志。疎通しない言語。心の際。反目。
そのままでも良かった。
明確でない夢と幻想を追い求めるのをやめ、望んだ平穏に身を落ち着けていても。
荊の道か、安寧か。
少し前までの幻想郷は、確かに平和を保ってはいたけれど、私が真に求めた幻想ではなかった。
水面下で募る憎悪。
闇への恐怖。
光への焦がれ。
封印された幾多の妖怪に、地底、かけ離れた天上、小さな空間に身を落ち着ける人間の里。
これではもう、外界となんの代わりもないのではないか――
嵐を越えた先に、なにもなかったら? なにもないところになにか価値のあるものを見出すことができなかったら?
根っこに不安を抱えたまま、それでも足掻き続けるしかなかった。
平穏を溝に捨て、道なき道をゆくしか……
「紫様」
宴会の輪の中心で、藍が私のほうを向いた。
九尾の尻尾に吸いつくようにして、チルノやらルーミアやら、小さな少女たちがくっついている。
「どこへ行かれてたのです、待っておりましたよ。せっかくの宴会だというのに、主が不在だと私も羽目を外せないではありませんか」
私は無言のままスキマを開き、なかをごそごそまさぐった。
取り出したるはいつもの導師服。
すでに真っ赤に酔っ払っている藍の顔めがけて投げつけた。
「とりあえず服を着なさい、ばか狐」
「はぶっ」
私がいなくても充分羽目を外してるじゃない。
「おーっす紫。まあ飲め飲め」
「魔理沙。まだ潰れてなかったの?」
「夜はこれからだぜ。幻想郷最速ったって、潰れるのも最速じゃあ格好がつかん」
「元、でしょう」
「なあに、すぐ取り返してやるさ」
現最速の文はというと、賽銭箱の前で、勇儀に絡まれて飲み比べさせられていた。しぶとく耐えているのはいいけれど、それもどこまで持つのやら。
しばらくすると、にとりが加勢に入ったけれど、二対一でも勇儀が先に潰れるとは思えない。
椛はというと、そこからかなり離れたところで、天子と身を寄せ合って飲んでいた。ときどき顔を見合わせてくすくす笑い、もうかなり酒が入っているのか、お互い首の下まで真っ赤に染まっている。
なんだか奇妙な組み合わせだけれど、はて、あのふたりに接点なんてあっただろうか。
「なあ、紫」
「なに、魔理沙」
「とりあえず飲め。ほら。特別にこの私が注いでやるぞ。魔理沙さん直々の酌だ、今日はもうだめになるまで飲んじまえ」
「あら気が利くのね、いつものあなたらしくもない。今日はあなたの誕生日ででもあるのかしら」
「実を言うとそうなんだ。祝ってくれ」
とぷとぷとぷ、と酒が注がれる。
「おっとっと」
魔理沙の手つきは心許なく、あっという間に表面張力まで水面が上昇し、垂れた透明な一滴が、つうっと伝って指先に落ちる。
「っと、悪いな、手元が狂った」
「大丈夫? 魔理沙」
「なんのなんの。これからこれから」
いそいそと服を着直す藍のもとへ、萃香が近づいてくる。
一瞬、失われた記憶の亡霊が、古い魔術を伴ってぴしりとしなる。
萃香はにっこり笑った。
藍も笑い、尻尾のなかを探って酒瓶を取り出した。
「なあなあ、紫」
「なに?」
「どうしたら私、もっと早く飛べるかなあ」
「あら、それを私に訊くの? らしくないわね、あなたはそういうの、意地でも自分でなんとかしようとするタイプだと思ってたけれど」
「んー、まあ気紛れだ。忘れてくれよ。色んなところから色んなものかっぱらってさ、私なりにアレンジ加えてさ、色々試してはいるんだけど、なんか行き詰っちゃってな」
「がんばりなさい、女の子。時間はまだ充分過ぎるくらい残ってるわ」
「そうかな?」
「あなたくらい生き急いでいれば、きっといつか、あなたなりに行き着くところまで行き着くこともできるわよ」
「……おーおー。まるで近所のババアの言い分だな。頼りにしちゃうぜ、そういうこと言うとさ」
「近所のババアの言い分はきちんと聞き入れるべきですわ。大抵は正しい忠告なんだから」
折りしも、満月。
煌々と照る月が世界を蒼白く染め、金色の上天で星の瞬きさえ食らっている。
慧音は、きちんと角と尻尾を生やして参戦していた。蓬莱人のあいだに居座り、張りつめた空気を凄艶な微笑で抑え込んでいる。
彼女はこの宴会に、なにを思うのだろう。
ここにいる者たちの歴史は、既に知り尽くしているのだろうに。
――許されざる罪人たちの許されざる会合。
私を含め、かつて人間を喰らって生きてきたような妖怪が、霊夢や魔理沙、人間たちとともに酒を飲み合っている。
「紫。なあ」
「ん?」
「私、霊夢より強くなれるかなあ」
「……もうスピードならとっくに超えてるじゃない」
「そうじゃなくてさ」
こくこくこく、と、魔理沙の喉が酒を通して小さく鳴った。
「別に勝てなくてもいいんだ、あいつには。勝てたらそりゃ、嬉しいだろうけどさ。でもそうじゃなくって」
「なあに?」
「守ってやりたいなあ、って……」
「――あら」
「おいなんだよ」
「なにか?」
「笑うなよ」
「笑ってませんわ」
「笑ってるじゃないかよ、ああちくしょう、言うんじゃなかった」
「笑ってないって」
「笑ってる」
「笑ってないでしょう」
「酒のせいだ。全部。ああくそ、おまえ私の境界弄りやがっただろう」
「自分から自滅しといて全部私のせいにしないでちょうだい」
「……私が普通の魔法使いから先のどこへも行けなくても、ただの人間のままで弱くても、あいつがこれからばかみたいに強くなって、隣にいることさえできなくなっても、なんか……それでも」
この宴会。
なんでもないように開かれ、なんでもないようにみんながみんな飲み合っているけれど。
少なくともこんな風景は――妖怪たちのなかでそっと心を打ち明ける魔理沙のような少女の姿は――
ただこういう風景を見たかったというだけで、私は……
「ちょっとワンコイン分付き合えよ、紫」
「この注がれたお酒の分だけ?」
「なんだっていいさ。春雪異変のあとさ、私、おまえに落とされただろう。あの弾幕さ、もっかいやってみせてくれよ」
「リベンジ、ってわけ?」
「なんでもいいんだ。からだ動かしたいだけ。最近スランプ気味だからさ、きっかけかなにか、掴めればなあ、って」
「いいわよ? 私は」
「お手柔らかに頼むぜ」
「じゃ――」
ふわりと浮かんで、弾幕を展開すると、そこかしこで控えめな歓声が上がった。
開始五秒で魔理沙がマスタースパークを撃つと、歓声の大きさが一段階増した。
みんながみんな、同じ空を見上げて、満月を背景に空を飛ぶ魔理沙を見つめている。
相手は幻想郷最強のスキマ妖怪。
大穴はあるか。持たざるものが持てるものを打ち破る、誰もが期待するカタルシス。
私としてはまあ、どうでもいいのだけれど。
霊夢と一緒に、橙がこちらを見上げているのが、視界の端に映る。
弾幕のなか、私は彼女のほうを向いて、にっこり笑って手を振ってみせた。
「悪酔いしちゃった。藍」
「あんなにぐるぐるぐるぐる回転するからですよ、紫様。わざわざ私たちの真似なんてしなくてもよかったのに……」
「普通にやるのは、いまさらでしょ? 観客がすごく多かったから、楽しませてあげようと思って」
私は藍に背負われて、帰路をゆく。空間の境目、暗闇のなかの道。藍の持つ提灯だけが前を照らし、それでもすべては黒く染まっている。
「橙は?」
「神社に泊まるそうですよ。霊夢にこき使われてなければいいのですが」
「……橙が霊夢に懐いているようなら、そのまま、博麗の巫女にしてみるのも面白いかもね」
「八雲橙ではなく、博麗橙に? やめてください、冗談じゃない」
「猫耳幼女の巫女誕生は、世界平和への第一歩だと思うのだけれど」
「勘弁してください」
心底心配そうな声を上げる藍に、私はくすくす笑って応えた。
「冗談よ」
「信用できません」
「それはどの口が言うのかしら……橙の主として? それとも私の式として?」
ぎゅうう、と藍の口に手を入れて、両側に引っ張った。
「やへれくらさい」
「やめない」
「ころもれふか」
「ねえ、藍」
私は両腕を藍の前に回す。
背中に顔を押し付けるようにする。
「私ね、なんか、幸せだわ」
「そうですか?」
「うん」
捉えどころのない感覚が、靄のように内側に渦巻いている。
「やっと、ここまでこれた」
幻想郷というひとつの世界……
「魔理沙の弾幕をかわすのって、気持ちがいいわ。真っ直ぐで、大きくて、綺麗で」
ひとつの問いに対するひとつの答え。
――人間と妖怪はともに生きれるか否か。
手のひらから零れ落ちた幻想のすべてをこの胸に抱き、受け入れ、それでもなお、色褪せないでいられるかどうか。
「ほとんど天文学的な確率の奇跡が、何度も何度も起きてくれたみたい」
「そうですね」
「台風の目かしら、今は……嵐のなかのちょっとした休止かしら。でも、それでも……」
「あなたは私を受け入れてくれた」
藍は私をそっと背中から降ろして言う。
「なにも心配してませんよ、私は。私を受け入れてくれたってこと自体、あなたの強さの証明みたいなものです。これから先、どんな嵐が吹き荒れても、あなたはすべてを受け入れられる。その先へ突き抜けることができる。それでいいんじゃありません?」
私は笑った。
「……嵐はこれからね」
「お供しますよ。ずっと」
「うん」
「ええ」
嵐を越えた先になにがあるのか。
そんなことはもうわかりきっている。
さらなる嵐とさらなる試練とさらなる苦痛とさらなる苦悩が。
ばらばらにされた心をひとつひとつ拾い集め、罪悪のかけらを注意深く懐に収め。
「……白面九尾の大罪人が、今では一児の母親、か」
「橙はあなたのお腹から産まれた子供じゃないでしょう」
「似たようなものです」
「今でも世界のことが憎い?」
「……」
藍の手を握る。
温かさより、小枝のような細長さが、手のなかの感覚に残った。
橙を抱き締める優しい腕と、際限のない憎悪に駆られて血塗れになった冷たい腕は、同じ心を根っことする枝分かれしたふたつの矛盾だ。
「橙にね、ひとを食したことはあるかって訊かれた」
「どう答えたのです?」
「あるわ、って」
「そうですか」
誰も見やしないものを見ようとしたのだ。
誰も抱かないものを抱こうとしたのだ。
登れぬ壁を登ろうとし、歩めぬ道を歩もうとし、なにもない暗闇に目を凝らし、わからぬものをわかろうとした。
例えそれが償いようもない罪であっても、焼き尽くされるまで突き進まざるを得なかったものに、せめて一握でもなにか、納得のいくものを与えたかった。
私の幻想。
受け入れられるものを受け入れるのではなく、受け入れられないものこそを受け入れようとし――
「目的地を定め、糧を仕入れ、目線を固定したら、あとはもうやることはひとつだけです」
「それは?」
「ゆくだけでしょう」
藍は、私の手を強く握ってそう言った。
「それに対する批判はもう、全部――そう、批判でしかない。そんなものは、われわれの根っこには届かない」
風雨のような歳月に削られたときを数秒で伝えきれることばなどない。
ひどく長いあいだ、私は藍とともにいた。
あらゆる艱難辛苦を分け合い、背中を預け、同じ方角に向けて歩いてきた。
彼女を――いや、われわれをありのままに受け入れてくれる世界を、自らの手で創り上げようとして……
その結果が正しいか否かは、ときの流れ以外には証明してくれないけれど。
「ね、藍……」
私は彼女の袖を引く。
「はい?」
「……」
彼女を見上げ、とんとんと人差し指で唇の下を叩く。
「――」
藍は束の間、伏せた瞼の下で目を逸らし、沈黙した。
「……」
「……」
なんとも言えない空気が漂い始めて、居心地が悪くなる。
けれどもそんな空気も、すぐに終わる。手のひらを頬に添えられ、顔の半分を丸ごと覆われるようにされて、くっと頭を反らされて傾けられる。
私は藍のうなじに手を添えて、引き寄せた。
「ん」
幻想郷から私たちの家へと至る、結界の隙間、空間の空隙。
闇だけが強く私たちを抱いている。
提灯が藍の手から落ち、火が消える。
薄暗いなか、互いの顔さえはっきり見えない。
吐息が触れ、痺れる。
唇を触れさせたまま、目を閉じ、耳を澄ました。
――ああ、静かだ。
闇のなかに、私たちしかいない。
閉鎖された穏やかさ……いつもいつも宴会のように外側に開かれた関係を保っているからこそ、時折訪れるそうした時間が、愛おしく思える。
彫像のように、硬直したまま、時間だけがさらさらと水の流れのように過ぎ去る。
微動だにしない。
けれども耳に届くのは、藍と私の、ふう、ふう、という静かに緊張した息の擦れ。
唇を離した。顔全体が熱くなっていて、秋と冬の境界線上を漂う風が、さっと冷たく表皮を撫ぜる。
自分の唇に触れて、注意深く息を吐いた。
肺の空気が全部掻き出されるようになって、そんな反応をした自分に、苦笑する。
手のひらに残る吐息の残滓は、温かいというより、どこか硬い熱さを含んでいた。
「……ん」
藍の腕に頬を添えるようにして、ひどく穏やかな幸福感が胸を満たして、自然に微笑んだ。
「……満足、しましたか」
藍がぎこちなく言う。不貞腐れて、ぶっきらぼうな響きだけれど、耳に届くと安心した。
私は指を一本立てた。
「もっかい」
「……」
肩を掴まれて、からだを離された。
離された瞬間に、唇を落とされた。
肩を掴む指の力が、強まる。
導師服の厚い布地を越えて、皮膚に食い込む。
肩を強く押さえつけられて腕が上がらないので、そのまま、藍の服の裾を掴んだ。
ぎゅう、とからだで押されて、倒れないようにするは、同じ力で押し返すしかなかった。
からだの内側の感覚が心許なくなり、ふわふわと浮かぶような心地がする。
一歩、退いた。
足を揃えて立っていられなくて、右足を後ろに、左足を前に。
涙腺が、少し、緩んだ。
藍の顔が、涙に滲んで見え辛くなる。
蒼白い蝶のようなものが飛んでいる、と思ったら、満月の断片から届く月灯りの破片だった。
藍の手が、するすると這う。
肩から背中へ。
引き寄せられる。
背骨を折るように力を篭められて、それを伝えることもできず、ひゅうと唇の合間から息が零れた。
風が吹いた。
さあ、と流れて、どこから引き寄せたのか、紅く枯れ落ちた無数の葉が、海がうねるように足元を這った。
顔が離れた。
藍は上を向いて、月を視界に入れた。
まだ上天の座に居座り、落ちもしないし色褪せもしない。
朝は、遠い。
「……紫様。寒くなって参りました。少し急ぎますが、よろしいですね」
「そのまえに」
私はもう一度、指を一本立ててみせる。
「わんもあ」
「……あのですね」
「もう一度だけ。ね?」
はあ、と呆れたように溜息をついた。
唇を触れ合わせる寸前で、不躾な感じで眼が合った。
「ぅ……」
藍が目を逸らして、私もなんだか恥ずかしくなった。
お互いに気にしていないときならそういうこともないけれど、演技の最中に急にはっと我に還ってしまうような、痛々しく感じるような想いが胸中に宿る。
「……なんだか」
「はい……」
「ちっとも慣れないわね、なんか、こういうのって」
「もうとっくにキスどころではないこともしているはずなんですが」
「健忘症なのよ。あんまりにも歳を取りすぎて」
藍は帽子を目深に被りなおして、染まった目元を私の視界から隠した。
どうにかこうにか、藍は立ち直って、顔を近づけてきた。
けれどもまたそこで我に還って止まってしまい、数ミリの隙間を残したまま、そこで硬直してしまった。
「……」
「……」
眼が、ものすごく近い。
困った。
なんだか縛られたようになって、動けない。
衣服越しに触れる藍のからだが、すごく柔らかくて、温かいのはわかるのだけれど、それ以上近づいてくるわけでもないから、私のなかでも感覚の扱いに困る。
……やだ、藍、顔が真っ赤。
八雲藍ではなく、八雲紅に改名したらどうだろう。
そこまで考えて、彼女の眼に映る自分の顔も、八雲紅であることに気づいた。
ふたりで紅魔館にでも住み込みで働きにいこうか。
そわそわしてきた。
「……い、いまさらね、なにこれくらいで恥ずかしがってるのかしら、私たち」
「そう、ですね……」
「うう、やだもう、人間の女の子じゃあるまいし。なん、何年も一緒にいるのに」
「……まったく、ですね」
両手を合わせて指先を擦るようにしてみるけれど、そこからこういう感覚が外に出ていってくれるわけでもなく。
「……はやくしてよ」
「そう、したい、とは思ってはいるんですが」
「……じ、焦らしてる? もしかして」
「いや……」
「……そういうの、って、もっとこう、そういう気分にさせて、からするものじゃ、ない? あのね、まだ全然、キス二回で、そんな……なるほど、うぶでもないからね? わかってる?」
「はい……」
「い……いやもう、こういう中途半端な状態が、なんていうか、一番困るんだけど。だからもう、はやく、その、ううう、藍、いい加減、恥ずかしっふぁ」
喋ってる途中に押しつけられた。
静止した。
「……」
「……――」
「んっ」
唇を食まれる。
本当にかすかな水音が唇の合間で揺れる。
舌を這わされる。
「……っ、ふ、」
裾を掴んでいた手を解かれた。
指に指を、絡ませて、握られた。
ひくん、と妙な感じに指先が跳ねた。
顔が少しだけ離れて、気がつくと目線が藍の唇に留まっていた。
「……ぁっ……」
止めていた息が高く零れて、それが自分の耳に聞こえてきて恥ずかしくなった。
なにかを言おうとして、
「ふぁ」
また塞がれた。
たたらを踏んで、後退りする。
下がった分だけ、追われた。
体勢が不自然になって、藍の手に縋った。
そうしていないと倒れそうだった。
控えめに歯列を撫ぜる舌の動きが、緩やかに、水音を伴って動いた。
自分でもどうかと思うくらい、からだのなかがぞくぞくした。
ふわっ、
と、視界が白くなって、
力が抜けそうになったけれど、どうにかこらえた。
――墜とすのに、特別な呪も器具も要らない。
ただ心の篭もったキスひとつでいい。
「ん、んっ」
ちゅ、くっ、
と、口のなかで小さく響いた。
藍のからだからは、毒花の入り混じった、陽溜まりから逸れたところに落ちる暗い影のような匂いがする。
水気を含んだ、粘りつくような……
ぐい、とからだを引き寄せられた。
交わるところが深くなる。
近すぎて見えなくなる。
ただ境界を静かに侵食するような舌の動きだけが、なめらかに、小さく、もどかしくなるような速度で、染み入る。
「……紫」
「ぁ……?」
ふっと気が抜けた瞬間、離れた。
耳に落とすように囁かれた。
……ほんの少しのあいだ。陽が昇るそのときまで。
主と式ではなく、私たちは私たちに戻る。
「ゆかり」
「あ、はい……」
「もう一度、いい?」
藍に呼び捨てにされると、なんだかスイッチが入ったようになってしまって、ヘンにからだが熱くなる。
「うん」
頷いた。
両手で顔を挟むようにして掴まれ、少しだけ乱暴さを内包した手つきで、反り返させられる。
手のひらで耳を塞がれて、耳鳴りがきいんと響いて、ぐらぐらした。
少し、首が痛くなった。
「ふぁ、う」
噛みつかれるように唇を押しつけられた。
藍が入り込んできた。
舌を絡められた。
口内に響く水音が、塞がれた耳のなかで反響して、くちゅくちゃぐちゅぐちゃ、なんだかもうひどい感じでぐるぐる回った。
ぞぞぞぞ、と背中の筋が強張って、力が変な風に篭もって、爪先立ちになっていた。
涙が滲んで、目を開けてもぼやけた暗闇のなかで、閉じていても一緒だった。
首に腕を回して、縋った。
頭のなかが一瞬、白熱してなにも見えなくなって、それで足から力が抜けた。
(――藍)
口のなかでことばにできず、舌の楔を跳ね除けられず、それでも動かした喉の奥まで空気がしなった。
(藍、藍、藍、藍)
幼子のようにからだを押しつけて、どうにか、なんとか、それだけで立っているようなものだった。
「ぁ……っ……あ、はあ」
からだがへたった。
舌が外れると、ほとんど崩れ落ちるようにして、藍の肩に頭を埋めた。
「……んっ、ふ、はあ、はあ、はあ……」
ぎゅうう、と彼女の服のへりを掴んで、爪を立てるようにして、荒くなった呼吸を落ち着けようとした。
「……紫」
「っぁ」
ぽんぽん、と、軽く頭の後ろをはたかれて、撫でられた。
「紫」
……、
「紫」
「……ぅ」
ぶるぶると、震えた。
……なんというか、藍に呼び捨てにされるたびに変な具合でひくつくからだの、妙な癖になってしまったこの反応は、どうにかならないんだろうか。
どうにもならないんだろうな。
からだというよりは、魂のへりに刻みつけられた、彼女の一部。
「らん」
「はい」
「らん、らん、らん、らん」
「……――っ、……」
からだを押しつけた。
その向こう側に行こうとするかのように強く抱き締めた。
いろいろと、なんだか、収まりがつかなくなった。
「んっ」
「ふぁ」
自分から思いっきり首を伸ばしてキスをした。
舌を絡めにいって、逆に捉えられた。
噛みつくように押さえつけられ、そこから一気に押し倒された。
空間の緩みは、黒い水のように広がっている、土の感触とはまるで違う、纏わりつくような闇。
手首を掴まれて、からだ全体で楔を打つように、背中から地面に落ちた。
唇が離れた瞬間に、
「ひゃっ」
唇の端から一筋垂れた唾液を吸われて、また押し戻された。
「ぁ、む、ふぁ、あ、ぁ、ぁ、んっ、あ」
からだの筋が、びくびくと震えた。
もう、やめようとしても、やめられないだろう。
首輪を引き千切った獣のように、喰らいつかれるように、キスはひたすら、続けられる。
藍の匂いが、喉の奥を逆流して、鼻の奥から抜けていく。
ふたつのからだをひとつの心肺で動かす歪な機械人形のように、蒼白い月灯りが薄い影をつくって伸ばす。
夢中で伸ばした手のひらに指を絡められ、捻じ伏せられた。
勝手に反って地面に押しつけられる踵の、そこを視点に浮く膝も、生理的な反射さえ勝手に許してはくれないとでもいうように、押し潰される。
首がきつくて、注がれるものを飲み込めない。
息ができなくなって、意識が遠のく。
視界が白くぼやける。
なんとか飲もうとして、むせる。
「――、っく、んぐ、ぐっ」
垂れ落ちるそばから吸われて、注ぎなおされる。
「……――ひゅっ、」
息がつまった。
圧し掛かってくる藍の、膝のあたりが、鈍く、秘所に当たっていた。
触れるだけ。押さえつけるだけ。
それでも、足の遅い電気のように、からだじゅうの官能が膨れ上がった。
「ぁ、……ん、ふぁ」
ぞく、ぞく、ぞく、ぞく、
心臓の鼓動に合わせるように、もどかしいような快楽が、からだを抜けていく。
その感覚を藍と分かち合いたくて、藍にも私のほうからしてあげたくて、私は、押さえつけてくる藍のからだを、跳ね除けようとした。
手首に赤い痕が残るほど握られていた。
からだは不器用に私の言うことを聞いてくれなかったけれど、無理矢理動かして、ぐるんと、横転した。
私が上にかぶさると、藍は私の首に腕を回し、今度は搾り取るように、痛いくらいに吸いついてきた。
吸いきれなかった唾液が、たらたらと零れて、どちらがどちらのものかわからないまま、頬に、首に、耳に、伝った。
ごそごそと、からだのラインがわかりにくい導師服の下で、熱く動く。
ことばは、ないのだ。
お互いに、好きとか可愛いとか、そういうもののすべては、とっくに交し合ってきた。
ひとの生きてきた時間は短すぎて、そういうものを越えていくことばは、まだ、創られてもいない。
私の感じていることをありのままに伝えるには、私はあまりにも幼すぎて、空虚な張りぼて以外のどんなことばも産み出すことはできないのだ。
好き、と、
言えたらいいのだけれど。
でもそれは、何かが違う気がする。
……キスだけでどこまでもヨくされてしまうのが、私の悪いところなんだろうなあ、
と思う。
あんまり藍を愉しませてあげられないのは申し訳ないけれど、彼女から伝わってくる嘘偽りのない感情を受け取るだけでいっぱいいっぱいになってしまうので、仕方がない。
純然たる感情は、ひとの歴史がもういやになるくらい証明しているように、あらゆる境界を易々と突き抜けていく。
そういうものに、私の能力は届かない。
……なにが悪いって、私が藍を好きすぎるのが悪いんだろうなあ。
結局、上になったはいいものの、ろくになにもできないまま、藍に翻弄され続けた。
喘ぎ声も、善がり声も、全部藍に呑み込まれて。
「――っ、っ!」
なにもかもを抑えきれないまま、からだじゅうびくびく震えて、なんだかもうどろどろになるくらい涙が流れ落ちて、いやになるくらいだったけれど。
「――……、あ、ふぁっ――!」
とろとろに熔かされて、まあなんとも情けないことに、キスだけで私はどうにもならなくなってしまったのだった。
なにものも単独では生き残れない。あなたも。私も。
最強の妖獣の隣には、最強の妖怪を。
あなたは私を殺し得るもの。私はあなたを殺し得るもの。
血塗れのまま傷つけ合い、同じ場所まで落ちていき、そこからやっと手を繋いだ、それまで何度限界の境界を越えたと感じたっけ。
唯一無二の存在なんて、所詮はありえないもの。
ただひとりで世界を押し潰す存在があれば、ただひとりで世界を支える存在もある。
互いに抗い合い、螺旋を描いて縺れ合い、そうして世界は流れゆく。
矛盾……矛盾……矛盾。
私という矛と、あなたという盾。
ふたつをぶつけ合ったとき、ふたつして壊れるか、それともふたつして生き残るのか。
それはただ、ときの流れだけが証明してくれるもの。
そうしてまた、道なき道を歩いてゆく。
「藍」
「はい、紫様?」
好き、と言いかけて、途中でことばを転換した。
「生きていてくれてありがとう」
私がそう言うと彼女は、一度俯き、口許を手のひらで覆って顔を紅く染めながら、
「……ばか、ゆかり」
と、恥ずかしそうに呟くのだった。
何百年と言い掛けたのを、言い直してぼかした表現にするゆかりん
魔理沙に近所のババア呼ばわりされても華麗に流していたのにも係わらず
そう、これだ。これなんだ。ありがとう作者さん
夜麻産さんの真実はREIMARI(夜麻産さん作品のタイトル風)なんじゃないですか?
らんゆかにも負けないREIMARIのCHUCHUを待ってます
やっぱりあなたのゆかりんは素敵だ、暖かさが溢れている。
ランはもうずっと素でいていいんじゃないかな、もっとみんなにイチャイチャ見せつけようぜw
天子と椛もまた会えてよかった。
この場面や魔理沙との会話のとことかを見てると、
何というか、よかったなぁゆかりんって言いたくなる。
ところで全体的に漂う最終回臭……
まさかこれで最後とか言わないですよね!
今回仄かに匂わせたレイマリとか気になるんで、次回作を期待して待ってます。
ゆかりんが乙女過ぎて眼福。
無事に幸せそうでなによりだ。
なぜかこれ読んでたら幽々子→紫×藍←妖夢を幻視した。
そしてもみ天のシーンで嬉しくなった、会えてよかったなあ
胡散臭く、きな臭く、根拠が無いのに納得させられる。紫が言いそうないい台詞です。
そして天子と椛、幻想郷に来て椛は性格が丸くなったみたいですね。あのクールな椛も捨てがたいですがw
ゆかりんと藍さまが頬を赤らめる、あの甘酸っぱさにニヤニヤさせていただきました。本当にありがとうございます。
藍様も紫様も可愛くて仕方ありません。
ありがとう、ありがとう。