真・東方夜伽話

ALL DAY I DREAM ABOUT SEX

2010/08/26 16:24:03
最終更新
サイズ
121.01KB
閲覧数
4490

分類タグ

ALL DAY I DREAM ABOUT SEX

夜麻産

 ※注意


 パチュリー×小悪魔

 作品集18「FREAK ON A LEASH」の続編・補完的な作品になります
 そのため紅魔館にレミリアと咲夜不在

 東方二次創作注意

 捏造・独自解釈全開
 小悪魔がほぼオリキャラ
 小悪魔が淫魔設定
 にもかかわらずネチョまで遠い・ネチョ薄の謎仕様
 とても長いです

 作者迷走中……


 ※注意終了


















 紅魔館の廊下。薄暗い月夜。微かに開かれた窓から無音のまま風が入り込み、それによって傾いたカーテンの隙間から亡霊のように蒼白い月灯りが差し込んでいる。妖精メイドたちももう皆眠っている時間帯、敵対するもののひとつもないとはいえ、真夜中の停滞の淵にある世界を歩むことはそう心地のいいものではない、パチュリーにとっては。
 絨毯に染み入る足音だけが耳に届いている。書物の小さな字を長年追い続けていたせいで、パチュリーは夜目が利くほうではない。館の主であるレミリアや、ほとんど彼女専属のメイドのようになっている美鈴などとは比べ物にならない。ぼんやりした闇だけが彼女の目に映っており、その先が見えない。
 眼鏡がいるわね、とパチュリーは溜息をつく。酷使し続けている両目がずきずきと痛む。指を掲げ、鼻の頭を揉むようにする。すると、そこで声がする。
 「五十歳の誕生日おめでとう、パチェ」
 パチュリーは声のした方を向く。緊張が緩む。自分をそんな風に呼ぶのはこの世にひとりしかいない。「レミィ」

 開かれたカーテンの外側、藍色の夜空を背景に、館の主が窓枠に腰掛けている。軽く頭を傾げ、上機嫌なときの常で、細いナイフのように唇を曲げている。
 「放蕩娘のご帰還ね」パチュリーは言う。「今度の家出は短かったのね。一ヶ月振りかしら。あなたも四百五十歳の誕生日おめでとう。二週間前に終わってしまってるけれど……」
 レミリアは薄く笑う。「友だちの誕生日だからね。ちょっと近くまで寄ったついでに顔を出してみたのよ。またすぐ出てくわ」
 「美鈴は元気? あなたの旅に付き合ってからだが持つの?」
 「あいつは部屋でぶっ倒れてるわ。まあでも丈夫さだけが取り柄みたいなものだし、問題ないでしょ。あなたのほうは? 相変わらず?」
 「妹様もね」
 「つまんないわね」レミリアは左手を差し出す。「はい。バースデイ・プレゼント」
 「エーデルワイス」パチュリーは受け取る。「またスイスの谷間に行ってたの?」花はもう枯れており、手に取った瞬間にぼろぼろと崩れ落ちる。「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ。私のほうはなにも準備してないけれど」
 「構わないわよ。来年に期待」

 パチュリーは首を傾げてみせる。「旅はどうだった? なにかアルバムに載せられるようなエピソードはあった?」
 「うん。またひとり人間が死んだよ」
 「アルプスで?」
 「偉大なるグランドジョラス北壁」レミリアはひらひらと高く手を掲げてみせる。「いいところまで行ったんだけどね」充分高く上がったところで、さっと振り下ろす。「パートナーが墜ちた……彼はパートナーを助けに下降した」反対側の腕を振るって――「そこで雪崩があった。何十メートルも引き摺られた挙句虚空から氷河へ真っ逆さまに投げ出された。もう死体も出てこないんじゃないかな、あんな風になっちゃうと」
 「パートナーはどうなったの?」
 「助かるんじゃないかしら……墜ちた場所が良かったから」頬杖を突き、遠くを見るようにして言う。「墜ちた人間は助かり、彼を助けにいった人間は死んだ。まあ運命なんてのはだいたいそんなものよ」
 「山なんて」パチュリーは息を落とすようにして言う。「地図上の不毛な起伏にすぎないのに。人間にはそれがわからないのかしらね」
 「彼らには彼らなりの熱情があるんでしょうよ。手に入らないものばかり欲する。なにもないところになにか価値のあるものを見出だそうと躍起になる。そんな気持ちなんてさっぱりわからないし、わかる気もこれっぽっちもないけれど」レミリアはそこでもう一度笑ってみせる。「ひとつの幻想がひとつの夢を産み、ひとつの夢がひとりの人間を殺した。山は相変わらず……誰がその懐で燃え尽きても……気が遠くなるほど美しかったわ。結局はそれだけが確かだった」

 「夢や幻想ばかり追いかけて目の前を見ず、頭から壁に突っ込む。そんなのは遠回りな自殺とそう変わらないわ。お願いだからあなたはそんな風にはならないでね、レミィ」
 「あなたいつから私の保護者かなにかになったのよ。仮にも運命を操る悪魔である私が、どう見ればそんなばか者に見えるっていうの?」
 「まあ……ね」
 「虚空から氷河へ真っ逆さま」レミリアは歌うように呟く。「定められた運命を知っていて、それでもなお突き進むような真似をしなければ、そんな風にはならない。私よりあなたのほうが心配よ、パチェ。分別のある女と分別のない女を比べたとき、分別のある女のほうが魅力的だった試しなんてないけれど、あなたは分別のあるクセに分別のない真似をするような女だわ」
 「なによ、それ。意味わかんない」
 レミリアはくすくすと微笑む。「世にも恐ろしき吸血鬼と友人になってしまうような女への忠告」皮肉というよりはことば遊びのような響きがある。「じゃ、私はこれで行くわ。次に帰るときは何ヶ月後かしらね。フランにもよろしく言っといて」上半身が窓の外に流れ、すぐ下半身も窓枠から落ちる。パチュリーは窓枠から身を乗り出し、落ちていくレミリアの独り言を微かに耳にする。「自分の尻尾を食らうようなばか蛇。自分の尻尾に食らいついた自分の頭に食らい尽くされるあほ蛇。端から見ればこれ以上ないくらい愚かな真似だけど、あれはあれで自分ではどうしようもない熱情から発せられた行いだったのかもしれない。あの蛇はなにを象徴してたんだっけ……」

 レミリアの姿が見えなくなると、パチュリーはそのまま館の外を見るともなく見る。満月と、紅魔湖に映る満月の虚像が、上下から世界を押し潰すように照らしている。
 夜にしては明るすぎる……束の間、パチュリーは寒気のするような冷たい空気が自分の身の回りを覆うのを感じている。










 『小悪魔』





 パチュリーは図書館の扉を開いた。最初に感じたのは違和感だった。本棚の向こう側に得体の知れない気配があった。レミリアや美鈴ではあり得なかった。同じ紅魔館の住人であるとはいえ、彼女らほどこの場所に不釣り合いな者もいない。
 一歩踏み出す。そこで雪崩のような音が館内に響く。並べてある本の列を根こそぎ落としてぶちまけたような、乾いた音だった。床に叩きつけるような勢いさえあった。癇癪持ちの子供のように。
 パチュリーは無言のまま通路を横切り、その場所に向かう。甲高い靴音が響く。その音が聴こえたのか、本を荒らす音がいっとき収まり、図書館本来の静けさがあたりに満ちる。が、それもほんの数秒のことで、またすぐ、乾いた紙の奏でる無感情な響きが幾重にも重なる。

 誰? パチュリーは推測しようとする。妖精メイドにしては品がなさすぎる。妹様にしては……荒らしようが控え目すぎる。誰でもない……紅魔館の住人ではない……実際に見てみるほうがはやい。
 本棚の角を横切る。足元の本を踏みかける。本の合間に注意深く足を置き、顔を上げる。

 開かれた貝のように本の山が広がり、散乱している。ジャンルも境界も統率もない、あらゆる種類の混沌。目眩がするくらいの惨状。ランプの暗い灯りのなか、わずかに流れる隙間風に従い、いくつかのページがぱらぱらと捲れる。
 侵入者は本の山の中央、丘の真上に膝を立てて座っていた。女。真珠のように白い肌が目についた。背を向けていた。背中の大きく開いた黒いドレスから覗く蝙蝠の翼が力なくしなだれていた。
 一瞬、レミリア本人かと思う、が、その背丈はむしろ美鈴のほうに近い。長く伸びる深紅の髪も。背面だけを見れば彼女らふたりを足して二で割ったような印象がある。

 パチュリーは軽く頭を傾げる。「なにかお探しの本でも?」からかうような響きが籠められている。「感心しないわね。主が留守の間に勝手に入り込んで……散らかして……」
 女がパチュリーのほうを向く。頭だけ。片目だけ。すぐに目を逸らし、指でつまむように持っていたなにかの本を放り投げる。ばさばさと山の一角が崩れる。
 ほとんど夕闇に近い光量。パチュリーの指先が物憂げに動く。籠められた攻性の魔力に空気が不穏に揺れる、が、女は気づかないでいるかのように微動だにしない。
 「あなたが……あなたの踏み台にしている本の価値をどれだけ理解できてるか知らないけれど」パチュリーは警告の念を籠めて言う。「私としてはまず……今すぐそのお尻をそこからどかすことをお薦めしたいのだけれど」響きには苛立ちも含まれている。「これは警告よ。それぐらいはわかってるわね?」

 女は図書館の天井を見上げる。そういえばしばらく空も見てないわ、と思う。もう何日ここに居座っているというのだろう? ひとの声さえ久し振りだった。薄暗いなかで酷使し続けていた目が痛んだ。そうした状態にある女にとって、こうして突然現れた見ず知らずの者のことばは不快以外のなにものでもなかった。
 女は読み終わってその辺に投げ棄てた本を蹴飛ばして立ち上がる。「こんなのは全部腐った林檎みたいなものだわ」
 女の足がもう一度本を蹴る。パチュリーは顔をしかめる。ハイヒールの踵が表紙を抉る。比類なき識者が記した貴重な知識が侮辱される。女のドレスは数センチだけ女の脚を隠しており、剥き出しの白い肌が図書館の薄暗い灯りに毒々しく浮かび上がっている。

 女はパチュリーに向き直る。「ここの主さま?」黒い口紅を塗った唇が半月の形をつくる。「吸血鬼と聞いていたけれど」もう一度座り込み、膝を組んでその上で指先を合わせる。「そうは見えない……紫色のもやしかなにかに見える」
 パチュリーはそのことばを避ける。「ちょっと図書館から目を離してるとこれだわ。薄汚い鼠がいつの間にか住み着いている。優秀な猫要らずが見つかるまで、私はもうここに住んでたほうがいいのかもしれない」
 女は上目遣いでパチュリーを見下ろす。パチュリーは腕を組み、見下ろすように女を見上げる。
 「あなたはなに? 誰? それともこう訊いたほうがいいかしら……なにが目的?」
 女が本の山から降りる。ガラスを踏むような足取りでパチュリーに近づき、その横を通りすぎる。パチュリーは首を捩り、目で女の姿を追う。
 本棚のつくる影に入り込み、女はパチュリーに向かって仰々しくお辞儀してみせる。その直後に本棚に腕を差し入れ、そこにあった本の列を根こそぎぶちまける。

 「図書館に本を読む以外の目的で訪れる者がいます?」
 「私の目にはとてもじゃないけどあなたが本を読んでいるようには見えない。活字を追ってその意味を理解できるだけの頭があるようにも見えない」
 「私の目的はもう達せられました。わかったのは私の求めた答えはどの本も教えてはくれないというだけ」
 「答え?」
 「偉ぶったことばを並べ立てて……」女の足が散らばった本の表紙を踏みにじる。「どうでもいい答えばかり導いてるくせに私が欲しいものに限って煙に巻く」

 女の腕が持ち上がり、頭を抱えて反り返る。肘が天を向き、小枝のように細い喉が露になる。紅い髪が柔い滝のように後ろに流れる。
 「まともに本を読んだのなんて生まれて初めてだけど、やっぱり思ってた通り……ろくでもないものばかりでした」
 パチュリーにとってそのことばは見過ごせないものだ。顔をしかめ、足元の本を持ち上げる。埃をそっとはたいて元の棚に戻す。埃を吸い込まないよう袖を口許に当てて。
 「あなたは魔女?」
 「ええ」
 「頭でっかちの引きこもりというわけですか」
 「まあね」
 「――……」女は束の間の沈黙を引き摺る。溜息をついたような時間がある、が、パチュリーの耳には女の呼吸は聞こえてこない。

 「探しているものがあるなら……手伝ってあげてもよかった。私は司書ではないけれど、図書館の住人ではある。訪れる者の力になってやりたいという思いも多少はある。でもさすがにこんなことまでされると、そういう気分も失せるわ」
 「申し訳ありませんね。種族柄、礼儀知らずなもので」
 パチュリーは女を見る。見てわかる情報に踊らされるつもりなどさらさらない、が、女の姿はあまりにもあからさますぎる。
 「サキュバス?」
 女は爪で唇をなぞり、足を交差させ、ありもしないスカートの裾を摘まんでみせる。
 「これは善意からの忠告だけど」パチュリーは息をつく。また面倒な輩が……「安っぽい挑発に乗るような輩はこの館にはいない。大人しく去ったほうが身のためよ。手当たり次第にものを壊すことで満足を得るような物騒な者もいる」首を振る。「まあそれ以前に男自体ほとんどいないわけだけれど」

 女はおざなりに手を差し出し、手のひらを上に向ける。「私はあなたの名前を知らない。素性も知らない。性格も性癖もことばもからだも知らない。だからなんだっていうの? さあ――」
 パチュリーは鈍器のように腕を振るって女の手を払う。ぱちん、と乾いた音が響き、空気が墜ちたような時間が満ちる。
 「舐めるなよ」パチュリーは吐き捨てる。「薄汚い淫魔風情が」
 女はつまらなそうに身を引き、本棚に寄り添うように手をつく。
 「私たちにとって確かに情事は水のようなものだけれど」女はまた本の列を崩す。「砂漠の旅人にとってのオアシスだけれど」また崩す。「自分から汚泥を啜ろうとは思わない」嘲笑い、侮蔑する仕草、ことばの響き、それらすべてに投げやりなところがある。「硫酸を舐めようとは思わない」今にも崩れ落ちそうなところも。「そういうプレイでもない限りは」

 女の様子は尋常のものではない。パチュリーはいっときどのような対応が最善の策か考え、腕を組む。
 辺りを見渡す……もうどうしようもないほど散らかされた本のつくる渦状のカオス。埃と黴でミイラのような臭いがする。喘息に冒された気管には毒以外のなにものでもない。溜息をつきたくなり、実際にそうする。
 パチュリーはおもむろに声を上げる。「これを全部読んだの?」
 「斜め読みだけれど」
 「おざなりな読み方ではテキストは正しく答えてはくれない。集中と精読。より深く入り込まなくてはわからない領域がある」咎めるような上目遣いで――「あなたがなにを求めてるのか知らないけど、もう少し粘ってみたらどう? 来るものは拒まないのがこの館の主人の意向。私としては薄汚い淫魔風情なんてさっさと追い出したいのだけれどね」
 「私はただ――」

 パチュリーは女に背を向け、図書館の奥へ向かう。彼女のために設えられたパーソナル・スペース。片付けはどこかの妖精メイドにでもやらせようと思う。
 「私はただ」
 女の声と同時に棚が強く殴打される。拳が折れるのではないかと疑ってしまうほど大きな音が響く。
 「私はただ!」
 さらに叩かれる。世界が揺れる。もう一度……さらにもう一度……さらに……何度も。
 パチュリーは首だけを捩り、立ち尽くす女の姿を目に止める。拳を棚に押し付け、繋がれた囚人のように頭を傾けている。
 「終わってしまった過去から枝分かれした未来の行く末を――」

 それきり、静寂が図書館に戻る。間延びした沈黙が満ち、パチュリーは動けなくなる。
 女がなにをし、なにを求め、なにを望んできたかパチュリーにはわからない。過去を見ることはできない、が、今そこにあるものだけは彼女にも理解できる。どうしようもない領域まで張り詰めた苦悩。
 めんどうくさいわね、とパチュリーは思う。勝手にすればいい。そうした場所にいる女に無理に干渉しようとは思わない。けれども……



 やがて女は崩れるようにその場に座り込み、そこにあった本を手に取る。開かれたページに刻まれている文字を追い始める。
 病的なひたむきさがある。貪るような勢いをもって文章にのめりこんでいく。快楽と淫蕩を根っことする悪魔らしくもない。危うく見えるほど情熱的でさえある。
 パチュリーはその様を見て取ると、向きを転じ、親友へ送ることばを考え始める。また居候がひとり増えるかもしれない……図書館に司書をひとり雇いたい……名前は……名前は?……
 淫魔と呼ぶわけにもいくまい。せいぜい――











 『小悪魔とフランドール』





 「――小悪魔」
 丸テーブルの前で眠りこんでいるパチュリーの唇が動く。小悪魔は一瞬、まともに返事しかける。彼女は高い脚立の最上段に座り、無名の著者の無名の小説を読んでいる。
 「……パチュリー様?」
 本を閉じ、そっと元あった場所に戻す。埃を立てたりしないよう、注意深く一段ずつ脚立を降りていく。司書として働き始めてもう随分経つが、夢のなかにいるパチュリーの口から自分の名が出るのを聴くことなど今までなかったように思う。

 テーブルの前まで行く。パチュリーは頬杖を突いた姿勢のまま、眼鏡の奥、安らかに目蓋を閉じたまま寝息を立てている。半端に開かれた本のページが、どこからともなく吹き込む隙間風にぱらぱらと捲れる。
 図書館の奥。咲夜がメイドとなってから急速に広められた館の深部はもはや異空間で、ランプの赤黒い灯りの他に光源もなく、長く篭っていると真昼も深夜も区別がつかなくなる。とはいえパチュリーに比べれば頻繁に外出する小悪魔の体内時計はまだ辛うじて正確で、早朝の虚ろな気分は軽いあくびとともに表に出てくる。

 「パチュリー様?」
 呼びかけても返事はない。寝言などパチュリーには珍しいことだ。こうして自分の前で無防備な姿を晒すこと事態、まずない。
 「……お嬢様と咲夜様が出てって、気が抜けてでもいるのかしら」

 テーブルの上に腰掛け、パチュリーを見下ろす。彼女が起きていれば不作法を咎められ、焼き尽くされるか溺れさせられるかするところだが、今はそれもない。夢を見ているくらいだから眠りは浅いはずだが、起きる気配もない。
 小悪魔は口に手を当て、もう一度あくびをする。その後で腹に手のひらを添える。
 司書服のベルトはもう一番きついところまで締めなければ緩いくらいだった。
 「食欲は全然湧いてこないけど、お腹減ったな、いい加減……」
 最近は力の規模自体が縮小してきている気がする。

 静寂のなかでパチュリーの吐息だけが聴こえる。危機感を覚えるべきなんだろうか、と思う。魔女に仕え、年中本の海のなかで活字を追い続ける生活。自分の種族さえ時折忘れる。どこに属し、どこを求め、どこへ向かっているのか。
 紅魔館の小悪魔……
 そんな風に自分を思ったこともなくもないけれど、所詮は宿り木にすぎないという思いもまた、常にある。小悪魔という呼称自体、なんだか適当すぎる。
 ただ食いっぱぐれないように働いているだけの現場。そもそも曲がりなりにも悪魔である自分に居場所なんて必要なんだろうか。

 ここの住人は誰も私の名前を知らない。

 「……――」溜息をつく。「はあ」倦怠感がある。「どうでもいいんだけど、別に……なんだって」
 パチュリーの顔を下から覗き込むように身を寄せる。引きこもりの薄く蒼白い素肌。ずっと雑用の類いは自分がし続けてきたお陰か、齢百の魔女にもかかわらず、美しい少女そのものの指先。
 「ふうん」
 見る者が見れば、自分こそがこの儚い少女を世界の試練から守ってやりたいと思わせるだろう、そこにあるだけで誘惑そのものになるような姿かたちも、小悪魔にとっては――
 「恐ろしき魔女の恐るべき擬態、ですよねえ……」
 そもそもこの館の主人とその妹からして、あれなのだ。

 奥にある正体を知っていて、それでも上っ面だけの情報に踊らされるつもりなど、小悪魔にはさらさらない。
 ちょっと突っついてロイヤルフレアに根こそぎ吹き飛ばされそうになったことも、数度ある。しばしば軛を断って好き放題荒れ狂う暴走吸血鬼姉妹を御するためか、根暗なクセして魔法に限ってはまるで遠慮なく広範囲高威力。男兄弟のなかのただひとりの妹のような操縦術を心得た女。パチュリーとはそういう魔女だ。
 深みに入ってどろどろのまま動けなくなるようなことだけは避ける、こうしてここにいる以上それだけは決めている。下手に誰かに手を出して、その持ち主であるレミリア怒りの鉄拳を食らうほど恐ろしいこともないのだから。

 ――ああ、でも、それにしたってお腹が空いた――

 「パチュリー様――?」
 顔を近づけ、そっと声をかける。
 「パチュリー様――」
 吐息の温かみを感じられるほどの距離。反応はなし。
 「起きてます? 起きてませんか? 白黒二色の鼠がいらっしゃいましたよ――」
 テーブルの上、ほとんど四つん這いになりながら囁き続ける。

 「ちょっと無防備すぎやしません? 期待と信用はしばしば裏切られますよ……私も例外じゃありませんよ……」
 魂まるごと食らい尽くす必要はない。ほんのちょっと端のほうを千切って取るだけ。
 「つまみ食い、しますよー?」
 ちょっとしたいたずら。
 「いいですかー? いいですねー?」
 寝息だけが返ってくる。
 「……じゃ、いただきまーす……」





 パチュリーは目覚める。眠りから覚醒へほとんど境界なくなめらかに移行する。そうした目覚めかたをした常で、夢幻と現実の区分けが一瞬遅れる。唇にかかる温かな吐息。赤く色づいた光沢がハート型にすぼめられている。
 「……ぁ」
 唇に唇を押しつけられ、靄のかかった意識のまま、椅子の背もたれに背中が食い込む。頭がわずかに仰け反り、髪が肩の上で揺れる。
 視界に入るのは黒々とした紅い髪の流れ。

 夢――五十年前の『淫魔』――出会いの光景から突然変異のようにジャンプし、反射的な対応が遅れる。押しつけられた肉感的な温かみを感じる一方で、パチュリーの目が瞼の下で素早く動く。
 (……えーっと)
 現実を認識するのに数秒が要る。隙間風の不躾な冷ややかさが本の上に置かれた指を撫で、そうして捲られたページが手首から先を覆い隠す。
 (小悪魔……?)

 いつもの『いたずら』か、と思う。起きているときなら問答無用で拒絶するだけなのに、今日に限っては迂闊にも眠り込んでしまっていたらしい。彼女の前でそんなことにはならないよう、ずっと気をつけていたのに。
 「……ん――」
 小悪魔の手がゆるやかに動き、パチュリーの肩にかかる髪を払い、そのままそこに置かれる。指先が服の布地に皺をつくる。
 沈黙の一瞬。彼女の動きがそこで止まる。吐息と温かみが近い距離で停滞する。
 (……)
 パチュリーは己の心の内を測りかねる。そうした自分のためらいを感じる。

 唇を割り、舌が入り込む寸前、パチュリーは頭を仰け反らせ、離れた顔と顔にできた合間に魔導書を滑り込ませる。
 「……」
 「……」
 分厚い茶色の表紙を挟み、ふたりの目線が絡められる。ことばにならない気まずさと咎めるような空気が漂う。
 小悪魔は上体を起こす。テーブルの上で膝を揃えて腰かけるかたちになる。「……けち」
 パチュリーは無言のまま手のひらに魔力を籠め始める。

 ぱっと小悪魔がその場を離れる。後ろで手を組み、ステップを踏むように軽やかに後退し、本棚を盾に射線から遠ざかる。ハイヒールが図書館の床をとん、とんと叩き、紅い髪が流れるように揺れる。
 はあ、とパチュリーはわざとらしく息をついてみせる。額に手を当て、さりげなく頭を傾け――赤らんだ頬を小悪魔の目から隠す。
 小悪魔はそんなパチュリーの意図には気づかない。司書服のスカートを摘まんで仰々しくお辞儀してみせ、渦巻き始める魔力の気配からさらに身を退く。その先は出口だ。開かれた扉から光が射し込み、小悪魔はそのなかにからだを滑り込ませる。
 後には疲れきったパチュリーだけが残る。

 「……ったく、ね」パチュリーはどうしようもない感情のうねりから呟く。「薄汚い淫魔風情が……」
 指先を掲げ、彼女に触れられた唇をなぞる。
 そうして、湧き出る想いはあの懐かしい夢のせいだと思おうとする。どうしていまさらあんなことを思い返してしまったのかはわからないけれど。

 はあ、ともう一度息をつく。濡れた吐息は温かかった……舌さえこなければもう少しそのままでいてもよかったのに。
 そこまで考えてまた自己嫌悪の深い波に飲み込まれそうになった。










 小悪魔は図書館を追い出されると暗い廊下を抜けて館の外に出た。暗がりに慣れた瞳に夏の陽射しは強すぎ、瞼の上に手をかざし、眼を針のように細めた。中庭の花壇の真ん中、門に続く道から陽炎が立ち昇っていた。そのせいで視界全体ができの悪い幻覚のように揺らめいて見えた。
 普段は紅魔湖で暴れている氷精のお陰で、紅魔館周辺の気温は多少は和らいでいるのだが、この分だと彼女は昼寝でもしているか、巫女か魔法使いにでもさらわれてしまったのかもしれない。後者だとすればもう夜まで戻ってこない。涼しい図書館から出てきてしまったのは失敗だったな、と小悪魔は首を振る。
 「結局、つまみ食いにもならなかったな……」

 当てもなくさまようことには慣れている。人里か妖怪の山あたりにでも遊びに行こうかと歩き始める。すると、そこで声がする。
 「小悪魔」
 振り向く。フランドールだった。開いた日傘を肩に担ぎ、館のつくる壁際の影から出てくる。
 「妹様」小悪魔は深く頭を下げる。フランドールは軽く手を振って気にしなくてもいいと伝える。
 小悪魔は顔を上げる。そこでフランドールがなにか小さなものを胸に抱いていることに気がつく。

 「さっき、そこで拾ったのよ」
 フランドールは腕を開き、それを小悪魔に見せる。青い小鳥だった。木彫りの彫刻のように微動だにせず、黒い真珠のような眼を虚空へ見開いている。
 一目で死んでいるとわかった。魂のかけらもそこにはなかった。
 「どうしてかな……壁際の地面にぽたっと落ちてた。なんで死んでるんだかわかんない。まるで飛んでる最中に突然落っこちたみたいな格好だった」
 「ちょっと見せてもらってよろしいですか?」
 「うん」

 小悪魔は小鳥に触れた。冷たくも温かくもなかった。首の骨が折れており、それが死因のようだった。他に外傷もなく、天敵に襲われたような感じはなかった。
 「たぶん……」小悪魔は考えながらことばを継いだ。「窓ガラスに激突したんじゃないかと」
 顔を上げ、影のなかに埋もれている紅魔館の壁を見やった。幾多の窓がそこに並んでいた。妖精メイドたちの毎日の業務のお陰で、そのすべてが綺麗に磨かれていた。見る方角によっては、館内ではなく夏の青空しか映り込まないようになるほど。
 「たまにいるんですよ」と小悪魔は言った。「窓が綺麗すぎると……外側が映ってると……そこに壁があるってわからなくて、頭から突っ込んできちゃう鳥が。山沿いとかだとよくあることなんですけどね。ここでもあるんだな、こういうこと……」

 フランドールは腕のなかの小鳥を見下ろした。「ふうん」小鳥のからだは死んでいるとは思えないほど綺麗なものだった。「窓のせい、か」今にも脳震盪から復帰して飛び出しそうに見えた。「ばかだねえ。そんなつまんないことで命を落とすなんて。もう少し注意深く飛んでればすぐにでもわかりそうなものなのに」
 小悪魔はまさにその通りだと思った。が、一方でそれはそんな簡単なことでもないと思った。「ええ、そうですね」
 「お墓をつくってあげたいなあ。手伝ってくれる? 傘を持ちながら穴を掘るのってしんどいよ」
 小悪魔は頷いた。「はい、いいですよ」

 花壇の真ん中へふたりは歩いた。日傘のつくる影からフランドールの足が外れるたび、気化する肉の白い蒸気が陽炎に混ざった。フランドールはまるで気にしてないかのように無頓着に、腕のなかの小鳥を見続けていた。
 小悪魔は目敏く放置してある小さなシャベルを見つけると、フランドールから日傘を預かり、シャベルを手渡した。
 ざくり、と土にシャベルの先端が食い込んだ。土を掘り返し、また刺さった。三度で充分な深さの穴ができた。納得いかなかったのか、フランドールはしゃがみこんだままもう一度別の角度からシャベルを突き出した。

 フランドールは執拗に土を弄り続けた。「祈っておいたほうがいいかなあ。そこまでする義理もないかもしれないけど」土の匂いが辺りに満ち始めた。「見ちゃったもの放っておくわけにもいかないよね。でもなあ、悪魔の妹が神さまに祈ってもねえ」呟きの声は小さく、聞き取るのに苦労するほどだった。「霊夢にお祓いしてもらおうかなあ。命蓮寺のひとたちにお願いしようかなあ。うーん、こういうときどうしたらいいのかわかんないや。五百マイナス五年も生きてるのに、情けないねえ」
 しばらくしてようやく納得したのか、墓穴のなかに繊細な手つきで小鳥が横たえられた。小悪魔の眼には、そうまでしてもまだ小鳥はすぐに飛び立ちそうに見えた。フランドールにもそう見えたのか、しばらくのあいだ土はかけられないまま空白の時間が流れた。
 やがてフランドールは言った。「今度生まれたときにはせいぜい目の前をよく見て生きることだね。私たちみたいななんでもない存在に、運命ってやつがにっこり微笑んでくれる確率なんか、ほとんどないよ?」
 フランドールの声は投げやりだった。乱暴な響きさえあった。が、シャベルを振るう手つきはその怪力に似つかわしくない弱々しいものだった。



 土の盛り上がった場所に、白い石と花壇の花が添えられた。それなりに立派な墓になった。フランドールは立ち上がり、小悪魔から日傘を受け取った。
 「ありがと、小悪魔」
 「いえいえ」
 白い日傘がフランドールの手のなかでくるくる回された。小悪魔は日傘のつくる影の外に出、再び眩しい陽射しに眼を細めた。
 「司書の仕事はいいの?」フランドールは訊いた。
 「追い出されました」
 「は? どうして?」
 「パチュリー様にいたずらしたら怒らせちゃったんです」
 「……ふうん?」

 ひどく暑かった。小悪魔はネクタイを緩め、ブラウスの一番上のボタンを外した。「まあそういうのも慣れっこなんですけど、お互いに」それでも耐え難いほど暑く、もうひとつ下のボタンも外した。「どのみち仕事が溜まっちゃってるんで、しばらくしたら戻らないと」
 「サボタージュの言い訳じゃない?」
 「そうですね。昼寝するよりは効果的ですね」
 フランドールは喉を落とすようにしてくくっと笑った。そうして目線を小悪魔から紅魔館に移した。

 紅い館には無数の窓ガラスがあった。吸血鬼の館であるからカーテンは閉め切られているのが普通だが、時折換気のために全開することがあった。咲夜が能力を使ってずんずん広げた館内の面積はもはや異空間で、そうでもしなければ埃っぽい空気の停滞を散らすことができないのだった。
 「邪魔だなあ」とフランドールは言った。
 「なにがです?」
 フランドールは上空を指差した。「鳥の群れが飛んでるよ。ほら」たくさんの黒い影が天の川のように流れていた。「ああいうのにとってさ、紅魔館って無愛想な壁にしかならないよね。真っ赤で眼に悪いし。誰の趣味なんだか」
 小悪魔は返答に困った。「えーと」
 フランドールは溜息をついた。「また同じようにお墓つくるのも面倒くさいし」
 「鳥だってそんなひょいひょい落ちてきたりしませんよ」
 「どうかな。二度あることは三度あるって言うし。幻想郷にくるまえも、いっぺんああいう小鳥を見たことあるの。そのときはどうして死んだなんて考えもしなかったけど、今思うとあれも……」
 フランドールはそこで半端にことばを区切った。
 「妹様?」

 フランドールは唇を尖らせた。「やめた」投げやりな口調が深みを増した。「いちいち悩むのもばかばかしいねえ。頭が重いや。もうなんでもいい」
 日傘を持っていないほうの手を掲げた。日傘の影の外に出て、肉の気化するひどい匂いが小悪魔の鼻をついた。
 「妹様――」
 「ねえ、小悪魔。言い訳考えておいてね。みんな黙りこくってなんにも言い返せなくなるようなナイスなやつ」
 小悪魔は背筋に寒気が奔るのを感じた。反射的に一歩後退りしていた。フランドールのことばには一ミリのぶれもなかった。



 「きゅっとして」フランドールの手が虚空を握った。「どかーん」



 幾層にも折り重なる爆音が辺りに響いた。
 紅魔館中のガラスというガラスがひび割れ、右から順に弾けるように破裂していった。ばらばらばらと銀色の雨のように夥しい数の破片が落ちていった。一瞬遅れて、妖精メイドたちの悲鳴が爆音に混ざり、紅魔館そのものが震動するような響きに発展した。が、そんな事態にはもう慣れっこなメイドたちの声には緊迫感がまるでなく、きゃーきゃーと喚く声は祭りの始まりを予感させるような響きしかなかった。

 「ええー……」
 小悪魔は唖然として紅魔館を見上げた。先ほどまでの不気味な静寂は一気に崩れ去り、悪魔の館に相応しい雰囲気は一転して保育園のような賑やかなものに変貌していた。

 「フランお嬢様ァァァァァ!」
 割れた窓の一角から美鈴が飛び出した。
 咲夜不在のため、今の彼女の役職はメイド長代理である。メイド仕事に邪魔になる長髪はポニーテールにされ、スカートにスリットのあるメイド服姿だった。
 「なにしてらっしゃるんですかいきなりィィィィィ!」
 そう叫ぶ美鈴の頭には、割れたガラスの破片がいくつも突き刺さり、既に顔中血塗れであった。
 わあ、なんだか懐かしい光景、と小悪魔は胸前で両手を合わせた。
 今はレミリアも咲夜もいないために、美鈴にナイフを浴びせる者がいないのだ。それに代理とはいえメイド長というごまかしのきかない役職であるため、近頃彼女はなんだか妙に真面目だった。背水の陣になると、美鈴は急に生き生きして働き始める。

 フランドールは肘で小悪魔を小突いた。が、小悪魔にしてもそうすぐに完璧な言い訳がつくりだせるわけでもなかった。「妹様ではありません。魔理沙さんが紅魔館の壁すれすれを突っ切って図書館に突入したためにこう、ソニックブーム的なものが」
 「魔理沙さんの気はどこにも感じられませんよ!?」
 「きっと高レベルの絶でも会得してるんでしょう」
 フランドールは溜息をついた。「小悪魔、ちょっとそれは厳しいと思う」
 「無理ですって、そんな急に……それに私はいたずらしたら言い訳せず一目散に逃げるタイプですから」

 美鈴は腰に手を当ててふたりを見下ろした。フランドールは正直に話し始めた。美鈴の表情が緩んだ。
 「ほんとは紅魔館全部粉々にしてもよかったけど、食いっぱぐれる子もいると思ったから手加減した」
 「いやでもですね、それにしたってやりすぎでしょう! レミリアお嬢様や咲夜さんたちが帰ってきたらどう言うつもりだったんですか!」
 「どうせあいつしばらく帰ってこないよ。婚前旅行でしょ? 博麗大結界ぶち破って火星あたりまで行ってるんじゃない?」
 「お姉様をあいつ呼ばわりしてはいけません! めーですよ、めー!」
 「めーなのかー……」
 「めー!」
 フランドールは死んだ魚のような目で美鈴を見た。

 小悪魔はふたりから目を離して紅魔館を見上げた。割れたガラスを回収するために既に何人もの妖精メイドが動き始めているところだった。緩やかに揺れるカーテンの隙間からいくつもの影が見えていた。そのうちのひとりと唐突に目が合った。顔見知りで、ほとんど最古参に近いメイドだった。手を振られ、手を振り返した。彼女の顔は笑っていた……久し振りにお嬢様のやんちゃぶりを見れて嬉しいわ、ありがと。
 首を振って意思を返した。私はなにもしてませんって。

 小悪魔はそっと後退りして、フランドールを叱る美鈴の視界から外れた。フランドールは頬を膨らませていた。その目は叱られていることにまったく納得していないことを明確に現していた。





 紅魔館に入る寸前、空を見上げた。鳥の群れはまだ飛んでいた。死んだ小鳥の一羽になどまるで無頓着であるかのように。
 小鳥なんて山程いるし、透明な窓ガラスなんて山程ある。紅魔館の窓を根こそぎ破壊したとして、それがなんだというのか。規模の違いはあっても、それがもたらす結果の意味は、自分が普段仕掛けているいたずらの結果と対して違いやしない。
 ガラスにぶつかって死んだ鳥もいれば、ぶつかっても死ななかった鳥もいて、そうでなくても何事もなく天寿を全うした鳥も、不意の理由から死んでいった鳥も山程……

 扉を開けてなかに入ると、明るい場所にいた反動で視界が黒く滲んだ。小鳥も窓も視野から外れ、音も消えた。










 そのまま図書館に帰るほど小悪魔は迂闊ではなかった。食堂に行き、親しくしている妖精メイドに頼んでクランベリーケーキを調達してもらった。昼飯に来ている妖精メイドたちの視線を避け、テーブルの隙間を縫うようにして駆けた。それでもケーキを奪おうとする者たちの目敏い感覚域から逃れるのは難しく、フランドールの破壊があったばかりで気が昂っている者たちによる弾幕戦が繰り広げられた。
 どうにかして廊下に逃げ出ると、ほうほうの体で図書館に辿り着いた。パチュリーは今朝と同じところに、同じ姿勢でいた。
 「外が急にやかましくなったんだけど」とパチュリーは気だるそうに言った。「また霊夢か魔理沙が殴り込んできたの? それとも遂に主様の御帰還?」
 「妹様ですよ」
 パチュリーは額に手を当てた。「ああ――そう」

 「もう雨は降らさないんですか?」
 「幻想郷には妹様より危険な連中が山程いるじゃない。それがわかってからはもう馬鹿馬鹿しくなってね、フリークをいつまでも鎖で繋いでいることが」
 「お嬢様みたいに遠くに旅立っちゃいますよ」
 「それはそれで好ましいことよ……四百九十五年分の自由がどう暴発したとしても……」
 「そして誰もいなくなるか」
 「面倒。構うものか」

 小悪魔はケーキを差し出した。「これ。今朝のお詫びです。すみませんね、種族柄定期的にああいうことをしないと持たないもので」
 「よく言うわ」
 「砂糖一舐めにもなりませんでしたけど」
 パチュリーはフォークを手に取った。「一応訊いておくけど」ケーキの一切れに先端を突き刺した。「人里に出て誰かを引っかけるような真似、してないわよね? レミィの勘に障るようなことをしたら……図書館の司書として相応しくない行為をしてるなら……」
 小悪魔はひらひらと手を振った。「確かに私らにとってセックスは水みたいなものですけどね、自分から好んで汚泥を啜ろうとは思いませんよ」
 パチュリーはそのことばを聞くのも久し振りだと思う。

 ケーキを口に含み、小悪魔を見る。今朝のような夢のあとだとひどい違和感を伴う。露出するためにつくられたようなドレスと、かっちりした司書服。黒と赤の口紅。同じ女の百八十度対極にあるようなギャップ。
 「ただ寝るためだけの安っぽいファックで腹が膨れれば楽なんですけどね。あいにくそういう風にはできてないんで」
 「紅魔館の制服でそういうことばを口にしないで頂戴」パチュリーは様々な思いを含んだ溜息をついた。

 小悪魔は本棚のそばに行き、脚立に腰かけた。そこからは図書館の広い範囲が見渡せた。パチュリーの座っている丸テーブルからは距離があった。すぐに身を翻して魔力の効果範囲から逃れられる程度には。
 パチュリーは彼我の距離を見、そうした位置に小悪魔が落ち着いたことにじりじりしたもどかしさを覚える。五十年も一緒にいるのに……さっきの自分のことばにしたって……なんだかお互い信用がないように思える。
 やれやれね、とパチュリーは思う。なんでこんな他人行儀なんだか。レミィと咲夜なんて数年しか一緒にいなかったクセに、あんなことになってるっていうのに。

 「妹様」パチュリーは話題を変えるために口を動かす。「どうしてまた急に?」
 「小鳥が死んでたんです」
 「小鳥?」ことばと思考が繋がらない。「どういうこと?」
 「透明な窓ガラスに頭から突っ込んできた小鳥がいたんですよ」小悪魔は高く手を掲げ、ひらひらと振ってみせた。「即死でした。首の骨を折って」鉈のようにさっと降り下ろした。「だからなんだって話ですけど。まったく予期しない理由で落ちる鳥なんてのはここでなくとも山程いるわけですし。まあでも妹様にしてみれば思うところがあったんでしょうね」握った拳を顔の横に持ってきて、五指を弾くように勢いよく開いてみせた。「で、どかん」
 パチュリーは片眉を上げた。「……そう」

 しばらくそのまま空気の抜けたような時間が流れた。窓ガラスを失ったカーテンが剥き出しの風に撫でられていた。そのせいで図書館全体がいつもより明るく見えた。
 唐突に小悪魔は立ち上がった。「少し、胸がすっとしました」
 パチュリーは小悪魔を見た。腰の後ろで手を組み、本棚の前をゆっくり歩き始めた。「なにが?」
 「道を遮る障害物なんてみんな残らず粉々になってしまえばいい。跡形もなく。燃えカスさえ残らないくらい。そう思ったことってないです?」
 小悪魔の指先が並べられた本の背表紙を辿り、なぞる。本から本へ、波打つように旅する。
 「妹様の破壊って――恐ろしいことは恐ろしいですけど、ある種の爽快感みたいなの、ありますよね。こういうことのあとって、妖精メイドとか、みんなはしゃぐんですよ。きゃーきゃー言って、お祭りみたいに。お嬢様がいらっしゃるときは、そのあとみんなして一発ずつ鉄拳食らって、そういうお祭り騒ぎもすぐ収まっちゃったものでしたけど」
 パチュリーはそのときのことを思い出した。不覚にも微笑みがこぼれてしまった。頭から煙を吹いて倒れ伏す幾多の妖精メイドに、頬を膨らませてそっぽを向くフランドール、彼女の代わりに土下座を繰り返す美鈴。
 レミィは腰に手を当てて彼女らを睨みつけて、最近ではそんなレミィの後ろに咲夜がいたものだっけ。いつも張り付けている従者の表情、仮面の隙間から穏やかな微笑を覗かせて、レミィに気づかれないようクスクスやっていた。

 「小鳥を見て、少し、昔のことを思い出しました」
 小悪魔は立ち止まり、わずかに頭を反って図書館の天井を見上げた。
 「ここにくる前に……食いものにしてた人間のこと」
 パチュリーは一瞬、ことばの意味をはかりかねる。「……――」
 「正確に言えばちょっと違うんですけど。食いものにしようとして、そうなる前に死んだんですよ。透明な窓ガラスに頭ぶつけて墜ちるような死に方で」
 「……初耳だけど」
 「そうです? そうかもしれませんね。まあ興味もないだろうなって思ってましたけど。今日みたいなことがあったからでしょうね、こういうこと話すのって。別にその人間のことをどうこう思ってたわけじゃないんですけど、だから……」ことばが中途で迷子になりかける。「……まあ、妹様のおかげでしょうかね。透明な窓ガラスなんてくそくらえですよ」

 パチュリーは溜息をつこうとして、止まる。息を飲むようにして手を振り、小悪魔に向ける。
 「さっさと仕事に戻りなさい」
 小悪魔はわざとらしく深々と頭を下げてみせる。「はい、パチュリー様」










 小悪魔が去ったあと、パチュリーは今度こそ溜息をつく。様々な思いが籠められている。
 小悪魔の過去について思う。淫魔なのだからそういうことがあってもいまさら驚かないし、予想はついていた。自分と彼女、どちらが年上なのかもわからないけれど、よほどのことがなければ、経験のない淫魔などという間抜けな存在はありえない。
 わかってる、とパチュリーは思う。わかってるんだってば。

 「……嫉妬、よね、これ」パチュリーは自分の胸に手を当てる。「この気持ち悪いのって……」
 そうした感覚から無理に目を背けるほど素直じゃない女ではない。他に理由が思い当たらない。
 「うわぁ……初めてかも、こういうの」
 知識はあっても経験はなかった。
 もう終わってしまった過去に嫉妬してるとか、どういうことなの、とパチュリーは深く沈むようにテーブルに額を当てる。そうした感覚を認めること自体、なんだか不快になる。自分という女が未成熟であるような証に思われて。
 自分に向けて言い放つ。「薄汚い魔女風情が」
 窓ガラスの割れたカーテンの隙間に目を向ける。小鳥の話が頭をよぎる。透明な窓ガラスに頭をぶつけて死んだばか者。けれども……
 「薄汚い魔女風情が……」











 『小悪魔と美鈴』





 パチュリーは図書館を出る。紅魔館の廊下を伝い、中庭に向かう。扉を開いた瞬間、光が解放されたように溢れ、パチュリーの目を眩ませる。
 小鳥の墓はまだそこにあった。ささやかな石と花の前にフランドールが座っていた。日傘を差し、じっと墓を見つめていた。フランドールはパチュリーの姿を認めると立ち上がり、珍妙な動物を見たような表情で彼女に向き直った。
 「珍しいね?」フランドールは言った。「動かない大図書館が庭に出てくるなんて。なにか心境の変化でもあったの?」

 パチュリーは曖昧に微笑み、顔を転じて紅魔館を見上げた。破壊の傷は全く直っていなかった。窓ガラスは修繕されず、カーテンだけがゆらゆらと揺れていた。
 ひどく暑かった。が、紅魔湖から吹き込む風は冷たく、心地よかった。パチュリーは帽子を脱いだ。「またおかしな真似をしたものですね」
 「窓のこと?」
 「ええ」
 「だって、ねえ?」フランドールはくすくすと笑った。「うんまあ、ばかなことだってのは認めるよ。けど、知らない。したいからしたの」

 フランドールのことばにはパチュリーを寄せ付ける余地がなかった。パチュリーにはそのことがわかった。その壁を越えて彼女に届くことばも知識も世界には存在しなかった。パチュリーはフランドールに近づき、墓の前にしゃがみこんだ。ふたりぶんの影が墓の上を覆った。
 「小悪魔が手伝ってくれたよ。穴を掘るの」
 「そうですか」
 「あんときさ、小悪魔、パチュリーにいたずらしたから図書館を追い出されたって聞いたんだけど。どんないたずらだったの?」
 パチュリーとしてはその話題には触れたくなかった。「――デリカシーがないんですよ、彼女には」
 「ふうん?」フランドールは彼女が壁をつくったのがわかった。「別になんだっていいけどさ」しゃがんで首を傾げ、パチュリーの顔を覗き込むようにした。「パチュリーって小悪魔のことわりと好きだよね?」

 あまりにも唐突で、遠慮のない問いだった。ことばの意味が無防備だったパチュリーの心に強行突入した。パチュリーは怯んだ。
 自分の頬がとっさに強張るのを感じた。が、それを素直に表に出すつもりもなかった。「――ええ、まあ、それなりには。なんといってもうちの図書館の司書ですし」
 「そういう言い方ってあいつとそっくりだよね?」
 「……」パチュリーは一瞬、フランドールはすべてお見通しなのではないかと疑う。「お姉様をあいつ呼ばわりしてはいけませんよ」
 「なんでもいいよ、あいつのことなんか」フランドールは笑わずに言った。「あいつはばかなんだよ。咲夜のことすごくすごくものすごく好きだったのに、それなりに気に入ってるよみたいな一線引いた態度取り続けて、結局素直になったのって咲夜がいなくなってからじゃない。自分の気持ちに意地張るのってそれぞれの勝手だけどさ、そんなんじゃいつか後悔するよ? パチュリーだって」

 パチュリーはフランドールを見た。間近にある視線には一ミリの迷いもなかった。
 「なにを言ってらっしゃるのかわかりませんが――」
 「建前のことばだったらいらないよ」
 ことばを一刀両断にされ、パチュリーは口を閉じた。
 「結局さ、怖がってるのって透明な窓ガラスだよね。高く飛んで盲目のまま頭から激突するのを怖れてる。でもそこに窓ガラスがあってもなくても小鳥は飛ぶよ。その結果がどうなっても。自由ってやつだよね。で、パチュリーは自由を怖れてる。心が自由であるがままになって、その結果ずたずたに傷つくことを怖れてる」

 フランドールは立ち上がった。
 「自由には窓ガラスに激突して墜ちる可能性が含まれる。窓ガラスを透明になるまで綺麗にして小鳥を殺す可能性も含まれる。窓ガラスを恐れて飛ばす地上で死ぬ可能性も含まれれば、まったく予期せぬ理由で死ぬ可能性も含まれる」歌うように言った。「でもそういうのって結局みんな可能性の話だよ。自分を地下に押し込んで、頭の上を紅魔館で覆っても、自由であることには変わりないんだから。そんなんで私たちを自由から切り離して、束縛することなんてできやしない」

 パチュリーはその声に定められた道を辿るような堅固さを聞いた。彼女自身のことばでないような違和感があった。
 パチュリーはフランドールを見上げた。「それは?」
 「別のばかからの受け売り。私のことばでなくてごめんね。でもほんとにその通りだって思うよ。おかしい?」
 パチュリーはまた墓を見下ろした。そのことばの正否を判断するような知識はあっても、そうしたいとは思わなかった。いくつかの複雑な想いを伝い、パチュリーは首を振った。
 「私は……」
 「別になんだっていいんだけどね、ほんとに」

 フランドールはその場に背を向けた。純白の日傘が回り、鈍い反射光がパチュリーの目を眩ませた。パチュリーはとっさに声を上げた。「もし」
 フランドールがこちらを向いた。
 「なにもかもを乗り越えられたら。障害物なんてみんな破壊して。そう思ったことってあります?」
 「私の愛しいひとはみぃーんな実際に乗り越えてくれたもの」フランドールはにっこり笑った。「だから私はなんも心配してないよ。あいつも咲夜も小悪魔もパチュリーも。そいつの一部は私たちみんなのなかに多かれ少なかれあるものだから」
 フランドールはその場を立ち去る。



 パチュリーはしばらくフランドールの背中を見送っていた。フランドールのことばの意味を考えていた。「乗り越えた?……過去形?」
 空を見上げた。鳥の群れが黒い川のように青空を飛んでいた。かつて心に刻まれたことば……あの鳥のように自由に、あの山を越えてどこまでも飛んでいけたら。
 けれども実際には鳥だろうがなんだろうが墜ちるときには墜ちる。行く手にある透明な窓ガラスは山程残っている。われわれは一体なにを望み、なにを願っているのか。最終的にどこへ向かい、なにを得るのか。

 怖れている……そう、怖れている。自分の心が向かう先にあるあらゆる苦難を。自由であること。それが真に意味するところ。

 親友のことを思う。例えば彼女が己の望んだものを手に入れたとして、それでも咲夜は、百年もすれば確実に彼女のもとを永遠に去る。その先にあるのは哀しみだけだ。手のひらからこぼれ落ちた幻想に苛まれる耐え難い時間が、未来永劫続くのだ。

 「レミィ。あなたはただ苦しむためだけに人間を愛するの? 首の骨を折るためだけに飛ぶの?」
 パチュリーはいっとき、海のようにうねる自分の思考と感情に飲まれかける。不安定な土台の上にある自分を感じる。











 その日、パチュリーは図書館に戻らなかった。陽が沈み、紅魔館の全容が茜から黒に押し潰されても、図書館の重い扉は開かなかった。
 小悪魔は本を見ていた。時間が過ぎるのを忘れていた。複雑怪奇な文章が投げかけるあらゆる問いに答えを求め、最初から答えを予測しないまるっきりでたらめな問いに関しては放棄した。脚立を降り、次の本を探すために本棚の合間を歩き、そこでカーテンの隙間から覗く淡い月灯りを見てようやく今の時間に気づいた。
 「――パチュリー様?」
 呼びかけた。答えはなかった。少しの間呆然としている。そこへ、窓ガラスのない窓から美鈴が入ってくる。窓枠に足をかけ、小悪魔に言う。
 「小悪魔さん」
 「美鈴様?」
 「昼過ぎあたりから館内にパチュリー様の気配が感じられません。なにか聞いてますか?」
 聞いていなかった。朝に図書館で会ったきりだった。「いえ」
 「魔理沙さんか、アリスさんのところへ?」
 「そうだったら私に一言あるはずです。私でなくともお嬢様に――はいないんだった――美鈴様か、妹様に」
 「フランお嬢様にはまだ伺ってません。小悪魔さんが知らないのであれば、訊きにいこうかと」
 小悪魔は頷いた。「私も行きます」

 フランドールは中庭にいた。花畑のなかを歩いていた。花畑は門番であったころから美鈴が管理しており、どこぞの大妖の巨大な花畑とは比較にならないくらいささやかなものだが、それでも月灯りのなかで有機質の宝石のように輝いて見えるほどには、美しかった。
 「フランお嬢様」
 美鈴が呼びかけると、フランドールはふたりのほうを見た。
 「パチュリー様が館内にいらっしゃいません。なにか聞いてますか?」
 「私が?」
 「小悪魔さんも私も、なにも聞いてないんです。朝に会って挨拶したきりで」
 「ふたりが知らないんだったら私だって知らないよ」
 「心当たりはないです?」
 「んー」フランドールは首を傾げた。「お昼にここでちょっとおしゃべりしたけど。だからなんだって話だよ。ちょっと様子見たら? 気まぐれで神社かどこか行ってるんじゃないの」
 小悪魔は溜息をつく。「……だと思うんですけど。ひと騒がせな……」

 陽が昇った。中天に座した。雲が流れ、茜色に染まった。月が昇った。それが二度繰り返された。パチュリーは帰らなかった。
 紅魔館の廊下。小悪魔は美鈴とフランドールが一緒にいるのを見つけた。フランドールは窓枠に腰かけ、足をぶらぶらさせて美鈴と話していた。美鈴がおどけた調子でなにかを言うと、フランドールはけらけらと笑った。
 小悪魔を認めると、ふたりは彼女のほうを向いた。
 「パチュリー様を探しに行こうと思います」小悪魔は美鈴に言った。「どこかで行き倒れでもしてないか心配で、このままだと心臓に悪いです」
 「私も行きますよ」
 「でも美鈴様は曲がりなりにもメイド長で――」
 「私がいなくなって潰れるほど紅魔館はヤワじゃありませんて」笑いながら美鈴は言った。「探知ならお手のものですから。すぐに見つかりますよ。どのみち神社か魔法の森か、人里だったら命蓮寺くらいじゃないですか?」

 「うん、いいよ、行っといで?」フランドールは言った。「あいつと咲夜だったら別に何年いなくったって心配しないけど、パチュリーだからねえ。インドア派が急に外をうろうろするのって周りからしてみれば怖いことだよねえ」
 小悪魔は頭を下げた。「ありがとうございます、妹様」
 「探しにいくのはいいんだけどさ、そのまま帰ってこないとかないよね? リアルで『そして誰もいなくなった』はやめてね。置き去りにされるのは辛いよ?」
 美鈴は微笑んだ。「それでも私はいなくなりませんって、フランお嬢様」
 「ん、知ってる」



 ふたりがいなくなると、フランドールは窓枠に肘を突き、飛んでいくふたりを見送った。そうしてパチュリーのことを考えた。
 「……やっぱり原因ってあれかなあ。不安定なりに安定しちゃってるんだもの、パチュリーも小悪魔も」
 見ていてすごくもどかしいのだ。
 「変に突っつかなければよかった? でもなあ、雨降って地固まるとも言うし。ま、平気か」
 そうして考えるのをやめた。子供じゃあるまいし、障害物なんぞ自分の力で越えていけるだろう。










 博麗神社にはパチュリーの気配はなかった。が、霊夢の勘に頼るというのはそう悪い考えでもないように思えた。霊夢は縁側で茶を啜っていた。かなり暑く、そのために袖を外して、水桶に足を突っ込んでいた。美鈴と小悪魔が降りていくと、霊夢は無言で賽銭箱のほうを示したが、ふたりはそれを無視して事情を話し始めた。
 「パチュリーが? 失踪?」霊夢は驚いたように言った。「なにそれ。咲夜にしろレミリアにしろ、紅魔館じゃそういうのが流行ってるワケ?」
 「こちらに寄ってませんか? なにか心当たりは?」
 「知らない。さっぱりわかんない」
 「博麗の勘でずばっと予想できません?」
 「私はなんなの。天気予報士かなにか? そう都合よくそんなものが働くわけ――」が、霊夢はそこで一旦口を噤み、「――あー……まあ別に心配ないんじゃないの。誰にだってねえ、どうにもならなくなって家を飛び出したくなるときくらいあるわよ」
 「それは宣託と考えてよろしいですね?」
 霊夢はだるそうに手を振った。「違うってば。そういうときの一般論。その次の行動はひとそれぞれだけど……魔理沙だったら突然魔女の修行をし始めたり……アリスだったら人形を使い始めたり……パチュリーだったらまあ……本を読むだけじゃ物足りなくなって誰かになにかを問いかけに行くとか?」
 「誰か?」
 「そこまでは知らないわよ。少なくともここには来てない。ここに来てないってことはその誰かが私や紫なんかじゃないってこと」





 パチュリーは湖のほとりに座っていた。紅魔湖ではなかった。名もない、ひどく小さな、妖精のひとりさえ見当たらない静かな土地。
 ここを探し当てるのは容易ではなかった。が、彼女が求める答えを持っているだろう人物が普段働いているところまで出向くには、パチュリーには資格がなかった。その資格を得てしまうと、もう後戻りできなくなってしまう。パチュリーにはそんなつもりはこれっぽっちもなかった。
 彼女はいずれここに立ち寄る。それはわかっていた。来るまでにそう長い時間を待たなくていいこともわかっていた。





 「今までなんか訊く機会がなかったんですけど、小悪魔さんは――」
 魔法の森に向かう途中、美鈴は問いかけた。
 「どうして図書館で働いてるんですか? メイドではなく、司書として」
 小悪魔は美鈴を見た。夏の日差しのなかを飛ぶ彼女の姿はどこか朧気に見えた。小悪魔が司書となったとき、美鈴はレミリアの専属に近いメイドで、ちょうど今と同じような格好をしていたのだった。
 「門番になるにしろ……他の役職に就くにしろ……だいたい紅魔館で働くひとって、まずメイドになるんですけど、咲夜さんみたいに。でも小悪魔さんは最初から――」
 「パチュリー様から聴いてませんか?」
 「ええ、はい」

 別に隠すようなことではなかった。小悪魔は特にこだわりもなく言った。「私って種族淫魔なんですよ」
 「――……」
 美鈴はぽかんと口を開けた。かくんと顎が落ち、目が泳いだ。小悪魔の下から上に目線を走らせて、そのあと上から下に目線が落ちた。三往復したところで口が閉じこらえきれなくなったように噴き出した。
 「うっそだあ――」
 「ほんとですって」
 「だって」

 確かに司書服を着ている姿は淫魔のイメージとは程遠いものだった。普段働いている姿からは。小悪魔は肩を落として溜息をついた。「まあ別に信じてくれなくったっていいんですけど」
 「あはは。日本製のありきたりなアダルト・ビデオじゃあるまいし。で、なんでしたっけ。それと図書館とどう関係あるんです?」
 「図書館へは」小悪魔の眼が遠くなった。己の胸に開けられたどす黒い穴を覗き込むような顔つきになった。「ちょっとした探し物をしに。すぐに終わると思ったんですけど、全然――図書館の質が悪いのか、最初からそんなものこの世のどこにもなかったのか、まだわからないんですけど……なんだかんだで五十年居続ける羽目になって」

 魔法の森が近づいていた。美鈴は感覚域を広げ、森のなかの気配を探った。霧雨魔理沙の気はどこにもなかった。またどこかで異変でも起きているのかもしれない。が、もう一方の魔女は自分の家のなかにきちんと収まっているようだった。パチュリーがいる様子はなかった。
 「どうです? 美鈴様」
 「アリスさんだけ、ですねえ。なにか知ってればいいんですけど。ところで探し物ってなんなんです? 見つけにくいものですか」
 「少なくとも鞄のなかにあるようなものではないですね」





 パチュリーは手頃な岩に腰かけた。紅魔館に比べてそこは随分と涼しかった。ローファーと靴下も脱ぎ、素足の先を湖水にそっと浸した。一瞬、全身が微かに震えるくらいの冷たさだった。
 天を見上げた。薄い水色と枝葉の柔らかな緑が交差する夏の空。清々しかった、幾分清々しすぎるくらいには。自分の居場所を遠く離れてこんなところまで来ていることの罪悪感が心臓の裏から染み出してきた。サボタージュの変型。美鈴は門番をしているとき、こういう思いでいることはあったのかしら、とパチュリーは虚ろに思う。あるいはこれからくるだろう彼女は。





 「ひとつの未来」と、小悪魔は言った。「失われた過去から枝分かれしたひとつの結果」そこで腰の後ろで手を組み、くるりと美鈴のほうに向き直った。「取り返しようのないことで後悔したことってあります? 自分が至らなかったこと……自分でなく、他の誰かであればもっとうまくなにもかもやり過ごせた……そこにいたのが他でもない自分だったから、取り返しようのない過ちにまで発展してしまったこと」
 美鈴は頭の後ろをかいた。「そりゃあ、これだけ長い間生きてれば」

 アリスの家の前に降り立った。ノックをすると、ほんの少しだけ開かれた扉の隙間から、上海人形の可愛らしい顔が覗いた。そのすぐ上からアリスの顔が出てきた。
 「なに?」とアリス。「あら、小悪魔に――美鈴? どうしたの? なにか用事でも」
 小悪魔は事情を説明した。
 「パチュリーが?」アリスの反応は霊夢と大して変わりなかった。「ごめんなさい、なにも聞いてないわ」
 小悪魔は溜息をついた。「まあそうですよね」
 「上がっていきなさい。お茶かなにか出すわ」
 「じゃ、おことばに甘えて」

 アリスの家の廊下を歩き、小悪魔はふと立ち止まった。そこかしこで人形の小さな気配がとことこと動いていた。小悪魔の前を通り過ぎた一体の人形が、深々と頭を下げた。忠実なメイドの振る舞い。ある意味、この家はミニマムサイズの紅魔館のようなものだ。
 「なにか、こう――」と小悪魔は前を歩くアリスの背中に言った。「この家ってたくさんの人形がいますよね。毎日賑やかそうで羨ましいです」
 アリスは首を捻じって小悪魔を見た。くすくすと笑った。「なにを言ってるのよ。紅魔館には丸っきり及ばないわ」
 「それでも図書館よりはいいです。本は――よほどの魔力でもない限りは――こういう風に生き生きと動いてはくれませんから」
 「まあ、この子たち全部私の魔力の支配下だから、あなたが考えてるほど楽しいわけでもないけど」
 それが本当なら、アリスの魔力のキャパシティは相当のもののはずだった。そう思えるくらい多くの人形が動いていた。
 美鈴は廊下の端にしゃがみこみ、なんだか妙に表情をきらきらさせて、二体の人形に見入っていた。「いいなあ。なんだかいいなあ」指先で人形の頭を小突き、恨みがましい視線をガラスの眼からもらっていた。「この子たち、誰かひとりくらいいただけません? フランお嬢様へのお土産にしたいなあ」
 「いいわよ? でもそれだと新しくつくりなおしたほうがいいわね。今はちょっと調子が悪いから、弟子につくらせざるを得なくなるんだけど」
 「弟子?」
 「弟子というか、最近仲良くなった子がいてね。本職は歌なんだけど、人形作りを教えてくれっていうから……まあ今の私がつくるよりよっぽど可愛らしい人形になると思うわ」

 テーブルについた。小悪魔は椅子に座り、紅茶を運ぶアリスの指先を見た。人形を扱うため、パチュリーのものとは比べようもなく鍛えられ、太く、力強いしなやかさを備えた指。幾重にもテーピングが巻かれ、見えている皮膚のほうが少ない。
 「指の調子が悪いって――」と小悪魔。
 アリスは肩を落として見せた。「まあ、人形の使いすぎで、痛めてしまってね。仕方のないことよ。どんなスポーツにだって事故と怪我はつきもの」
 その通りだった。小悪魔自身、そのことは知りすぎるほど知っていた。「――そうですね」
 美鈴が紅茶を啜った。「あれ? なんだかこれ、妙に味に覚えが」
 「咲夜直伝よ。それにちょっとばかりアレンジを加えてはあるけど、元の出来が良かったから大して変わっちゃいないわ」
 「ああ、どおりで! うわ、こんなところで咲夜さんに会えるなんて思いもしなかった」
 「咲夜のその後はどう? レミリアは?」
 「音信不通です。でも婚前旅行に変な風に突っ込んでも気まずいだけですよねえ」
 「まったくその通りね。もう彼女たちは放っておいてもいいと思うのだけど」
 小悪魔は紅茶を置いた。ソーサーが乾いた音を立てた。正直なところ、自分には彼女たちほど楽観的にはなれない、と思う。「怪我だけなければいいんですけど」

 風が吹いた。窓の隙間から流れ込み、不意に部屋のなかにささやかな空気の流れをつくった。三人の髪がゆるやかに揺れた。小悪魔は目を細め、窓にかけてあるカーテンを見やった。その向こう側にある窓ガラスを見つめた。
 「もし……」と、小悪魔は独り言のように言った。「人形を使わなければそういう怪我もしなかった。事故にも遭わなかった。そうは思わなかったですか?」
 「ん?」アリスは小悪魔を見た。「まあ、思わなくもなかったけれど。仕方のないことじゃない?」なんだか思い詰めているように見えた。
 「本人からしてみればそうかもしれないですけれど、周りにしてみればひやひやものですよ。私は心配ですよ。お嬢様や咲夜様が、互いに……傷つきあってないか。傷つけあってないか。持たなくてもいい感情を持ってしまったせいで」
 「そうかしら」
 「ひとつの幻想がひとつの夢を産み、ひとつの夢がひとりの人間を殺す。そうしたことってよくあることじゃないですか?」小悪魔は息をついた。「こんな人間がいたんですよ、昔。ヨーロッパ……特にスイスあたりで、一時期、誰も踏み入ったことのない山を、誰も踏み入ったことのないルートから登るようなことがもてはやされて。黄金時代だの鉄の時代だの言われてましたけれど。で、多くの登山家がそうした。なにせ人間ですからちょっとした雪崩や落石でもすぐ死ぬ。技術も道具も確立しきってない、弾幕なんかよりよほど危険な行い」
 美鈴は小悪魔を見た。なんだか聞いたことのある話のように思えた。事実、そうした歴史のさなか、彼女はヨーロッパ中を放浪するレミリアに連れ回されて、スイスの谷間でそうした人間を目の当たりにしてきたのだった。
 「誰がいくら傷つき、死んでも、そうした種類の人間は後を絶たなかった。で、そうしたなかにひとりの男がいた。山に登るために理解のなかった親と勘当して、故郷を遠く離れ、見ず知らずの土地でひとり暮らし始めた。ただその山が好きだったから。ただ登りたかったから、なにも持たずに世界の果てにやってくるような真似を――」小悪魔は右手をひらひらと高く上げた。「で、しばらくして彼は実際に登ろうとした。でもそれを達成することはできなかった」鉈のように振り下ろした。「パートナーが墜ちた……男はパートナーを助けに行こうとした」反対側の手を振るった。「そこに雪崩があった。それで全てが終わった」

 美鈴はますますそのことを聴いたことがあるように思えた。が、そうした話は多すぎて、記憶の混沌から正確に引っ張り出すことはできなかった。
 「もし山に登らなければ雪崩に遭うこともなかった。天寿を幸福のなかで全うし、ひとらしく死ぬこともできたかもしれない。そう考えてしまうのって、自然なことじゃないですか?」
 小悪魔は首を振った。アリスは頬杖をついて彼女を見やった。「ふうん」
 「なにも持たず、なにも護らず、なにも扶養せず、なにも生み出さずに死んだ。これって無駄死にで、犬死にじゃないですか? 夢を追って、って聞こえはいいですけど、ろくでなしですよ。お嬢様と咲夜様がそういう風にはならないって、どうして断言できます?」





 小野塚小町は仕事を抜け出し、彼女のフェイヴァリット・スペースまでやってきた。湖のほとり。彼女以外は誰も知らない――直属の上司である四季映姫を除いて――心からの安らぎを得られる幸福な居場所。
 樹木の隙間につくられた小さな道を抜けると、人影を見つけた。岩の上に座り、足の先で水面をもてあそんでいた。一瞬、映姫そのひとではないかと心が昂ぶる、が、それもすぐに違うことに気がつき、がっくりと肩を落とす。
 「あーあ……」
 そうした溜息は静寂のなかで大きく響いた。パチュリーは小町に気づくと岩を降り、裸足のまま濡れた草の上に立った。
 「待ちびとは来ず。なんだかよくわからない丸っきり予測もつかなかった女に限っては来る」小町は言った。「なに? 紅魔館の魔女さんだよね。あたいになんか用?」
 「本当は閻魔様のほうが都合がいいのは確か。けれど死神でも別に構いはしない。私は少しばかり知りたいだけ。もしあなたが知らなければそれはそれで……次は閻魔様に会いに行くわ」パチュリーは頭を下げた。「こんにちは。待ち伏せのようになってしまってごめんなさい。ただこうしたかたち以外、あなたに会える方法は考えつかなかった」
 「宴会でもありゃ行くんだけどね」
 「一対一が一番都合が良かった」
 「ふうん。で? あたいはここにサボリに来てるんだけど。面倒ごとだったらごめんだよ」
 「すぐに済むわ。私が問い、あなたが答える。それだけ」
 「あたいがあんたの問いに対する答えを知らなかったら?」
 「それならそれで構わない」





 妙な空気が部屋に満ちた。美鈴は小悪魔を見、アリスを見た。そうして頬をかいた。
 「種族間の壁……ってやつですか?」美鈴なりに今の話を咀嚼しようとした。「あるいは同性であることの?……主従の、身分違いの壁?……元吸血鬼ハンターと吸血鬼そのものの?……」
 「ああ、まあ、あのふたりはねえ。何重苦くらいあるのかしら、実際のところ」
 小悪魔はふたりにわからないように息をついた。自分が曝け出しすぎている実感があった。このふたり相手にむきになるつもりなどさらさらなかった、剥き出しの女になるつもりなど毛頭なかった。が、一瞬でもそうなりかけたことに恥ずかしさがあった。「そうした苦を全部乗り越えたって、最終的に待ってるものが確定してるじゃないですか。咲夜様はお嬢様より遥か先に死ぬ。それはもう火を見るより明らかなことじゃないですか?」
 「咲夜って吸血鬼化する気はないの?」
 「そうなったらそれはもう咲夜さんじゃないですね」美鈴は言った。「もし仮にそうなるとしたら、咲夜さんは全力で抵抗すると思いますよ。その結果がどうなるにしても。逆説的ですけど、だからお嬢様は咲夜さんにベタ惚れなんですよ」
 「それはそれは。随分と倒錯した話ね。ごちそうさま」

 「透明な窓ガラスですよ」と小悪魔は言った。「夢と幻想ばかり追って目の前を見ず、高く飛ぼうとして頭から壁に激突して、首の骨が折れてようやく気がつく。そんなのは遠回りな自殺となにも変わらないです。ひとの愚かさってそうしたことがわからないところにあるんですかね。そうしたことをなにもかも承知で、それでも飛ぼうとするところにあるんですかね」





 「この前、一羽の小鳥が紅魔館で死んだ」パチュリーは言った。「透明な窓ガラスに頭から突っ込んで、首の骨を折って。飛ばなければ死ななかった。青空を求めて翼を動かさなければ、そんな間抜けな死に方をすることもなかった」
 小町は鎌を置き、腰の後ろで手を組んで歩いた。湖の周りを添うようにして進んだ。パチュリーは数歩の距離を置いて彼女の後ろについた。
 「で、私はこう考える……そうして死んだ小鳥はなにを思っていた? われわれとなにが違う?」小町は聞いているのか聞いていないのかわからない態度のまま歩き続けた。「小鳥の行いは傍から見れば愚か以外のなにものでもなかった。無駄死にで犬死に。もっと注意深く目の前を見ていれば……あるいは力強く飛ぼうとしなければ、そんな結果にはならなかった」パチュリーはそれでも言った。「けれどもそれは、小鳥の小鳥なりの熱情から発せられた行いだったのかもしれない。闇夜のなかで火に近づき、燃え尽きて死ぬ虫けらにしても、人間にはわからない熱情がそこにあるのかもしれない。そう想像してしまう、あまりにも多くの本を……可能性だけを目の当たりにしていると」
 小町はひとつ欠伸をした。樹木の合間に目線をやり、目元を擦った。
 「最大の罪は自殺と聞いている。自ら命を絶ち、投げ捨てる行為だと。輪廻の環からも外され、地獄へ向かうことになると。で、私はこう思う……自殺とそうでない死の明確な境界線はどこにある?」
 ひどく眠かった。休暇も休息もはっきりしない仕事を続けてきたせいで、サボリでもしなければ仕事とそうでない時間の境界を明確に引けないのだった。小町は一眠りしたかった。少なくとも二時間は仮眠を取りたかった。
 「私の親友は」パチュリーの問いかけはほとんど自身の内面に向かって放たれていた。「人間を愛した。それは最初は吸血鬼の吸血鬼なりの愛し方で、私自身大して心配もしてなかった。けれどもそれはどんどん変質していき、最終的にはひとりの女がただ相手を愛するだけの普遍的なものに成り果てた」心の道筋を辿り、パチュリーは自分でも理解できない複雑な感情から首を振った。「それでもなお彼女はその先へ向かうことを選んだ。決して自分のものにならない、夢と幻想を追いかけることを選んだ。明白な運命がもたらすあらゆる無難な忠告の一切を溝に捨て去って。そんなのは遠回りな自殺となんにも変わりはしない。その先にあるのは……哀しみだけなのに」





 「悪いけど私には墜ちた男の気持ちがわかるわね。私はそう簡単に墜ちようとは思わないけれど」アリスはテーブルの上でわずかに指を動かす。「それをあえてことばなんかで表現しようとは思わないけれど」砕けた指の懲役期間はまだ残っていた。まだ激しく動かすわけにはいかなかった。
 小悪魔は顔を上げた。「小鳥は無駄死にですか? 男は犬死にですか? 私はその答えを得られずにもうずっと長い間さまよっている。いい加減さっさと蹴りをつけたいんですけど、私の心がそれを赦してくれない」
 美鈴が紅茶を自分のカップに注いだ。「答えなんて問いかけてる時点でもうとっくに出てる。違いますか?」
 小悪魔は美鈴を見た。
 「欲しいのは――」





 「答えなんて問いかけてる時点でとっくに出てる。違うかい?」小町は言った。「あんたもいちいち面倒なことで悩んでるね。あたいに求めてるのは答えじゃないだろ? 必要なのは証明? 根拠? 裏づけ?」またひとつ欠伸をした。「あたいとしちゃ――そういうのをみんなこの湖に放り込んで、出てきた女神さんに恥知らずな嘘を言ってやってもいい。それで全部没収してくれりゃ面倒ごともないんだから」
 パチュリーは口をつぐんだ。
 「まあ確かにそういう風に死んだ連中って一文無しばっかりだよ。それどころかろくに成仏さえできやしない。転生もできず、自分の抱いた熱情と得られなかった未来の狭間で、手のひらから零れ落ちたものを探してなお足掻き続ける。あたいたちからしてみりゃ、これ以上ないくらい厄介な死者の成れの果てだね。あたいもそういうやつを相手にしたくはないんだけど。なんてったって渡し代さえ払っちゃくれないんだから」
 小町は木を背に座り込んだ。頭の後ろで手を組み、眠り込むように目を閉じた。
 「けどそういうことをそういう連中に言って、なにが返ってくる? 大人しく忠告を聞き入れてくれるやつがどれだけいる? 例えばあんたの親友にしたって、四季様が渾身のお説教くらわせたところで、やれるものならやってみろって中指を突き立てるだけじゃないかい? これ以上ないくらい傲慢で不遜な態度でない胸張って、親指を下に向けるだけじゃない? あたいたちは結果だよ。結果ってやつはもう結果でしかない。でも、それでも墜ちるときには墜ちるし、飛ぶときには飛ぶ」





 「それが――例えば償いようもない罪になるとしても、お嬢様は行っちゃいますかね。運命を全部見て取って、それを手のひらのなかに収めても、咲夜様を求めてなにも持たずに世界の果てまで行ってしまいますか?」
 運命なんかはくそくらえだ、と、去っていくレミリアは美鈴に言ったのだった。美鈴はそのときのことを思い返した。社会的な正義を背負うあらゆる忠告に、傲然と反抗してみせる少女の気高さ。そうしたものを見てきた美鈴には、小悪魔に言えることはひとつしかなかった。
 「私たちはみんなそれぞれの流儀で十字架を背負ってるんですよ」





 「あたいたちはみんなそれぞれの流儀で自分の尻尾を追いかけてるのさ」小町は眠り込む前に言った。「その蛇が象徴してるのは再生と復活、だっけ? 自分の尻尾に食らいついて、なにもかも燃え尽きるまで食らい尽くす勇気がなけりゃ、そういうものは得られない。自分から進んで傷つきに行く覚悟がなけりゃ」ことばはもう断片的に千切れかけていた。「でもそういうのも確かに自殺の一形態だよ。再生と復活と消滅と死はいつだって隣り合わせにあるのさ。だからそんなのは悩んだって仕方がないだろ? あたいたちはいつだって望むものを望み、したいことをする。自由ってなそういう……ふぁ……これくらいでいい? 大部分四季様の受け売りだったけど。満足?」
 パチュリーは俯いた。「結局」自分の素足が見えた。尖った草に傷つき、わずかに血が滲んでいた。「ある一定の壁を越えれば、生きているものの全ては自殺へ向かうことになるのでは?」答えはなかった。小町は眠っていた。「だったら、程度の差こそあれ、自殺でない人生なんてこの世界に存在しないのでは? 虚構の生を生きたいと願うのでない限り、多かれ少なかれ最終的には自ら抱いた熱に押し潰されるのでは?」











 小悪魔と美鈴はアリスの家を出た。「これからどうします?」美鈴は言った。「あとは……心当たりは?」
 「最近、異変繋がりで仲良くなった山の河童のところか……あるいは――」
 「そこにいると思います?」
 思わなかった。なんだかとらえどころのない確信だけがあった。「わかりません」

 日が暮れかけていた。そう長い間紅魔館を留守にするわけにもいかなかった。小悪魔は沈んでいく遠い太陽の強い色を眺め、顔を転じ、西の空を見やった。燃えるような紫色が世界を覆い始めていた。
 自然はいつでも気の遠くなるほど美しかった。どんなときでも。幻想郷に来る以前、紅魔館に来るそのさらに前、アルプスの見える麓の街で暮らしていたときから。誰がなにを思い、感じ、突き進もうとしても、まるで変わらない容貌をわれわれのもとに送り続けていた。
 小悪魔にはそれが好ましくもあれば、腹立たしくもあった。「色々考えてますけど」こうして自分を悩ませるパチュリーが好ましくもあれば、腹立たしくもあった。「なにもできないのではないかという思いが一番強いです」
 「パチュリー様はなにを考えてるんでしょうかね」
 「さあ。あのひとの考えてることがわかった試しなんて、私には一度もありません」
 「何十年も一緒にいても?」
 「情けないですかね?」
 「なんとなく想像することはできるんじゃないですか」
 「その想像が正しいっていう証拠が一体どこにあるっていうんです」

 ふたりは紅魔館に向けて飛び始めた。世界はもう藍色に近かった。夜に先行して星が出始めていた。
 「お腹減ってません?」美鈴が小悪魔に訊いた。「紅魔館に帰る前に、折角だし、人里でなにか食べていきませんか?」
 小悪魔は腹に手を当てた。「減ってますけど」胃のなかにはなにもなかった。「スイーツでお腹が膨れればいいんですけどね。そういう風にはできてないんです」堕ちた魂だけがそこに溜まるようにつくられていた。「つまんない生き物ですよ、本当に……淫魔なんて」
 「――」美鈴は小悪魔を見た。嘘をついているようには見えなかったが、それは嘘だと思った。が、それに付き合ってやらないほどつまらない女でもないつもりだった。「淫魔って」少しことばが途切れ、頭の後ろを軽く掻いた。「なに食べるんです?」
 「なにも。食べる振りはできますけど。まあ淫魔とか言ったって、古今東西の妖怪と大して変わらないですよ。ひとをたぶらかして、食う。吸血鬼みたいに血を飲んだり、肉を食べたりするわけじゃないですけど」
 「そうなんですか?」
 「唯一食べられるものは」指が軽く掲げられ、文字を書くように宙を動いた。「肉欲に堕ちた魂だけ。溺れてなにも見えなくなった心だけ。でもそういうのって、実際、滅多にあるものじゃないです。あってもそんな、特別おいしいわけでもなければ、一発で満腹まで満足させてくれるわけでもない。条件付けがものすごく面倒なんですよ」

 美鈴はこの話題を続けていいものかどうか迷った。小悪魔のことばは虚ろだった。少し話題を振ってやればそのままそれで終わりそうなほどには。が、美鈴は先を促した。「それは?」
 「ただ寝るためだけの安っぽいファックで堕ちる魂なんてのは、私たちがどうこうしなくてもいずれは勝手にどこかで壊れる。薄いんですよ。そんな魂をいくら食べたって仕方がないし、われわれが構ってやる必要もない。本当に必要なのは絶対に堕ちない魂。無尽蔵の活力に支えられた、気高い――」小悪魔は首を振った。「でも、ひとやま幾らの淫魔がくわえ込んでおけるのって、結局はひとやま幾らのしょぼちんだけなんですよ。堕ちない魂はなにをどうしても決して堕とせない。それでも虫けらが火に惹きこまれるように、われわれはそうした魂に惹かれていく。で、最終的にはわれわれのほうが先に力尽きる」寂しげに笑った。「それが正しいかたちの寓話ってやつなんですよ。ろくでもない淫魔って種族の行く末。古今東西、われわれが強大な力を持った試しがないのってそういう理由です。人間を堕とそうとして、堕とせず、空腹と飢餓のなかでなすすべなく消滅していく」

 風が吹いていた。懐かしい匂いがした。美鈴は首を傾げ、小悪魔の顔を覗き込むようにした。
 「それでもいいんですけどね、実際……種族に背負わされた業に無理に刃向かうつもりもないですけど」
 「さっきの人間の話」美鈴はおもむろに尋ねた。「山に登ろうとして墜ちた人間のこと。あれって、もしかして小悪魔さんの――」

 小悪魔は自分の頬が自分の意思に反して強張るのを感じた。感情が水面下で動き始めていた。が、小悪魔はそうした感情を認める気もなければ、素直に曝け出す気もなかった。注意深く美鈴のほうを向いた。
 「……わかります?」
 「ええ、こういうことにはわりと鋭いほうなんで」美鈴は申し訳なさそうな顔をした。「なんでもない人間のことなら、あんな風に過去から引っ張り出してきたりしませんよ。なんだか根っこの部分から無理矢理引きずり出したような印象を受けました。扱い方はぞんざいなのに、なにか……大切にしてるものを眺めるような――」
 「そうですよ。私はその人間を食いものにしようとしてたんですよ。で、一緒に暮らしていた。まるで恋人みたいに」

 小悪魔は恥じ入ったように俯いた。両腕を持ち上げ、そこにあるなにかを見つけようとするような顔をした。
 「孤独な人間でした。山に登る以外なんの取り柄もない。故郷を追い出され、街の暮らしにも慣れることができず、誰からもぞんざいに扱われて。でも、夢だけはあった。当時あの谷全体を覆うように広まっていた、あの忌々しい壁の初登への熱情に取り憑かれていた」小悪魔はそこで少し笑った。「美鈴さんならわかりますかね。当時のあの空気は異常だった。日本にそういう時代があったかどうかは知りませんけど、自然への挑戦……憧憬……なんだかそんなものがごっちゃになって……」
 「ええ、私たちもそこにいたんですよ。お嬢様はそういう人間の姿が好きでした。傍から見ればお遊びごとに命丸ごと賭けてしまうただのばか者たちでしかないのに、怖ろしく気高かった」
 「気高いかどうかは知りませんけど。彼は……」小悪魔はそこで一度ことばを詰まらせた。「明るかったんですよ」不意に笑みが零れた。「なんでだろう。全てから突き放されて、なにもかもを失って、そうやってあの谷まで辿り着いたのに、私の記憶にある彼の表情は、いつも笑顔だったんです」

 美鈴はその笑顔を見た気がした。記憶のなかで混ぜ合わされたひとつのサンプルが染み出していた。それは他でもないレミリアの姿で、最後に見たとき、彼女は銀のナイフのように凄艶な笑みを浮かべていたのだった。
 追う者は笑うのかもしれない、と美鈴は思う。対象が遠ければ遠いほど。気高ければ気高いほど。

 「堕とす前に墜ちたんですよ、彼は」と、小悪魔は言った。「私はそのことをずっと考えてるんです。もし彼の魂が、からだが墜ちる前に堕ちたのなら、彼は死ななかったんじゃないかって。夢を追うのをやめて肉欲に溺れていれば助かったんじゃないかって。もし私が……もっと魅力的な女だったら、そうすることもできたんじゃいかって思ってしまうんですよ。そう思うのって、自分が淫魔としてまるで不能者みたいな実感を伴うんです。彼は無駄死にだったんでしょうか。犬や豚みたいなろくでなしの死に方だったんでしょうか。なにも持たず、なにも護らず、なにも扶養せず、なにも生み出さず、うっかり愛した女は淫魔。それってなんなんですかね。なんか意味のある人生だったんですかね。過去から枝分かれした失われた未来の行方って、どんな本を読んでも全然教えてくれないですけど、でも……」
 小悪魔はそうして図書館にやってきたのだった。その答えを求めて、ずっと探し続けているのだった。










 数日が過ぎた。パチュリーは戻らなかった。主のいない図書館を小悪魔は歩いた。真夜中。本棚と本棚の合間。蠢くような重い闇が落ち、足元にさえランプの灯が届かない。
 整然と並べてある本の背表紙を見やった。その全ては小悪魔自身が整理したものだ。自分で扱い、管理しておけば、愛着も湧くだろう、とパチュリーに言われたのだった。愛着が湧けば文章のひとつひとつのセンテンスに含まれる、意味の奥にある意味も掴み取れるようになるだろう、と。
 実際そうしてきてどうだった? 自分はこの図書館を――そこにあるものを愛することができるようになっているのか? 五十年もともにいて……



 美鈴は廊下を掃除していた。何気なく窓の外に目をやった。カーテンの隙間から見える視界は狭かったが、紅魔館の扉が開き、細い光が闇を穿つなかで、小悪魔がふらふらと歩き出してくるのが見えた。
 「小悪魔さん……?」
 モップを置いて、窓枠に手をかけた。カーテンを退けた。小悪魔は常と大して変わらない足取りで中庭を歩き、小鳥の墓の前まで進んだ。そこでしゃがみこみ、しばらくじっとしていた。
 薄く靄がかるような闇のなか、彼女の姿をとらえ続けるのは容易ではなかった。美鈴は彼女のもとへ行こうかどうか迷った。が、すぐに窓枠に足をかけ、外へ飛び出した。

 「小悪魔さん」
 声をかけると、彼女はこちらを向いた。「美鈴様」
 「どうしたんです、こんな時間に? 図書館は?」
 「図書館はあんまりにも静か過ぎて」小悪魔はなんでもないように言った。「ひとりだと、亀の甲羅のなかにいるみたいで気持ち悪くって」
 「そういえば、パチュリー様も小悪魔さんが来るまでは、図書館に寝泊りしてませんでしたね。お嬢様から一部屋もらって」
 「そうなんです? 私はずっと……図書館に住んでるようなものですけど」
 「パチュリー様と一緒で?」
 「私がいなけりゃ、雑用のひとつだってろくにこなせませんよ、あのひとは」

 小悪魔は美鈴から目を離し、小鳥の墓を見下ろした。墓は変わっていなかった白い小石と花。見る限り、鼠やもぐらさえそこを裂けているかのように感じた。
 「パチュリー様がいなくなって――」小悪魔はおぼろげに言った。「私はこの数日間、薄暗い図書館のなかに篭もりきりになって、いろいろ考えてみたんです。少しでもパチュリー様の気持ちがわかるんじゃないかって。手がかりを掴めるんじゃないかって。すると――」
 小悪魔はそこでことばを止めた。実際、なにもわかっちゃいなかった。首を振って思考の蜘蛛の巣を払うようにした。
 「いるべきものがそこにいないってだけで、こんな気持ちになるなんて思いもしませんでした」小悪魔は話題を転じて言った。「胸がざわざわする。お腹が重い」
 「お嬢様や咲夜さんがいなくなったときもそう感じませんでした?」
 「少し。でも無視しました。だってあのふたりの居場所はお互いの隣じゃないですか」
 「あはは。まったくその通りですね」
 「羨ましい」

 美鈴はそのことばに彼女を見た。虚ろな表情だけがあった。
 「彼女たちは愛し合っても誰にも咎められないんですよ。いや、そうじゃないかな。咎められても胸を張っていられるんです。そこに嘘も偽りもないから」小悪魔のことばにはたゆたうような響きがあった。「私はそうはいかない。淫魔ってやつは。どうしてもその先にあるものを欲するように取られる。見返りのある愛なんて上っ面だけの嘘っぱち」小悪魔は指先を伸ばした。墓石をさらさらとなぞった。「誰かを愛そうなんて思わない。そういうプレイでもない限りは。でもそれは逆に言えば、そういうプレイじゃなければ誰も愛せないってこと。淫魔ってそういう屑ですよ」
 美鈴は彼女の横に座った。「根拠のない自責なんてやめることです。そんなのは自分だけじゃなく、周りだって辛い」
 小悪魔はなおも言った。「私はどんな時代のどんな女にでもなれた。どんな媚びでも売れたし、どんな純情な娘にも、どんな淫蕩な女にもなれた。どんな男が欲するものにでもなれた。でもだからなんだって言うんですかね。そんなことで墜ちる男だったらこっちから願い下げですよ」右手を握り締めた。「結局私たちってなにが欲しいんでしょうかね。それがもうわからなくなってしまった。余計な荷物なんてなにひとつ持たず、ただ一途に夢を追い続ける……そういう人間が羨ましい。紅魔館丸ごと置き去りにして咲夜様を追いかけることができるお嬢様が羨ましい」
 「小悪魔さん――」
 「パートナーのひとにね、会ったんですよ。事故のあと。最初に墜ちたひと。恨みも憎しみも持てませんでしたよ、私を見た途端ぐずぐずに泣き崩れて、心底申し訳なさそうに――」



 『彼はあなたに結婚を申し込むつもりだった』と、彼は言ったのだった。『それを話してくれた。あの凄まじい壁を登ることができれば、自分はようやくあなたのような素晴らしい女性に見合う男になれるのだと、心の底から信じていた』そこで膝をつき、がっくりと頭を落としたのだった。『申し訳ない。何度そう言っても足りない。私のせいで。彼はあなたを愛していた。それだけはあの山に誓って本当のことだ。彼は――私の知る限り最も勇敢な男だった』



 「私なんて薄汚い淫魔風情でしかないのに、勝手に勘違いして、勝手に――」
 透明な窓ガラスに頭から突っ込んで死んだ小鳥はなにを思うのだろう。なにを望み、なにを願い、なにを求めていたのだろう。
 そこにはなにか自分には計り知れない熱と怒りがあるのかもしれない。










 「――パチュリー様?」
 小悪魔は不意に言った。美鈴は振り返った。
 紅魔館の門前。レミリアたちがいなくなる前は美鈴が立っていたところ。門の敷居を跨ぎ、紫色の姿が闇へ立ち入ってくる。小悪魔は立ち上がる。一歩ずつ確かめるように彼女のもとへゆっくり歩いていく。
 パチュリーだった。特別変わったところは見られなかった。
「小悪魔?」
その声音にも、特別どういう感情が篭められているわけでもなかった。

 小悪魔は彼女の前に立った。「……――」唇が恨みがましく動いた。「――……」が、なにも言えずにまた閉じられた。
 美鈴が小悪魔の後ろに来た。「パチュリー様、お帰りなさい」
 「ええ、ただいま、美鈴、小悪魔。ごめんなさい、なにも言わずに留守にしてしまって。本当はもっと早くに帰りたかったんだけど、なんだか……用事が長引いてしまって」
 「用事?」
 「ちょっとね。知りたいことがあって」

 小悪魔はようやく感情のうねりから抜け出した。自分でも驚くほど動揺していた。「パチュリー様」その声には冷ややかさがあった。「なんです? 用事って。図書館を放っておくほどのものなんですか?」
 「そんなに重要なものでもなかった。だから謝ってる」
 「妹様や美鈴様がどれだけ心配してたかわかってます? 神社や魔法の森にまで探しにいったんですよ。霊夢さんやアリスさんにもなにも言わずに……こんな――!」
 パチュリーは気まずさからかすかに自分の服の裾を握った。が、すぐに離した。「だから――」
 「ただでさえお嬢様や咲夜様がいなくなってみんなナーバスになってるっていうのに。置き去りにすることがどれだけひとを不安にさせるか、わからないパチュリー様じゃないでしょう。なんだっていうんです。せめてなにか言伝なりなんなりすればよかったのに」

 口調が刺々しくなり始めた。そうした感情が染み出してきたことに小悪魔自身が驚いていた。が、すでに制御できる感情の一線を越えていた。思いがけず、小悪魔は一歩踏み出した。パチュリーはわずかに仰け反った。
 「小悪魔……?」
 「私がどれだけ心配したかわかってるんですか? 曲がりなりにも五十年も一緒にいるんですよ。そりゃ、魔女の寿命からしたら一瞬でしょうけどね、五百年生きた吸血鬼の館としちゃ大した時間じゃないでしょうけどね、人間に換算すればひとりの少女がひとりのお婆ちゃんになってるくらいの時間ですよ。わかってるんですか。ええ? そりゃ私はろくな感情だって持てないちっぽけな小悪魔ですけどね、でも――」

 パチュリーは顔を逸らした。が、すぐに戻した。彼女自身全てわかっていた。五十年も一緒にいる仲であることを今更彼女に指摘されたくなかった。それはパチュリーこそが小悪魔に言いたいことだった。
 「わかってるわよ、小悪魔。でも今回は――」
 「『今回は』? そんなことばは聞きたくありませんよ。私たちにはいつだって『今』と『ここ』しか残されてないんです。その他はみんな腐った死体みたいなもんです。パチュリー様が不意にいなくなって、それがどれだけ私たちを」小悪魔はそこでパチュリーに詰め寄った。もうことばは出なかった。代わりに胸倉を掴み、引き寄せた。
 ふたりの顔の間に数センチしか残されなくなった。至近距離で小悪魔はパチュリーを睨みつけた。自分でもどうしてこんなに怒り狂っているのかわからなかった、が、すぐにその感情にことばを付け加えることができた。



 ――私はまた置き去りにされるところだった。



 パチュリーは自分のなかに苛立ちが紛れ込んでくるのを感じた。
 「離しなさい、小悪魔」
手を振るって彼女の腕を外した。
 実際、今回の自分の迷走は大半が彼女のせいだったのだ、と思う。小鳥が死んだなんて言うから。昔の人間のことなんて話すから。問いかけには答えがいる。だから私はわざわざ死神なんぞのところまで行って――
 「あなたにそんなことを言われる筋合いはない」

 小悪魔は喉を詰まらせた。が、怒りはそれでも大きかった。ほとんど盲目的な思いのまま腕を振り上げた。自分が平手打ちをかまそうとしているのがわかった。構わない、と思う。そのままこのろくでもない女を打ちのめしてやってもいい。
 が、その矛先となる感情が急激に掻き消えていった。穴に飲み込まれるような感覚があった。
 「……っ」
 振り上げられた腕が目的を失って中途で止まった。
 パチュリーは相手に自分を打ちのめさせるために言った。自傷へ向かう衝動が胸から溢れた。「薄汚い淫魔風情が」

 そのことばは小悪魔の心を衝いた。ことばに篭められたものに押し砕かれるような感覚がした。
 小悪魔は腕を下げた。怒りが霧散し、哀しみだけがあった。
 「――私は」嘲笑うように言った。「私はあなたの心を動かせるような場所にはいない。それはわかりますよ。わかってんですよ。私は救いようのない薄汚い淫魔風情ですよ」だらんと腕を垂らし、歯を食い縛るようにした。「四六時中セックスのことばかり夢見てるようなろくでなしです。ファックのことばかり考えてるような屑野郎ですよ。心も感情も上っ面。愛も誠意もみんなそういうプレイの一環ですよ。根っこなんてどこにもない、ふらふら浮ついてるだけの根無し草ですよ」
 なにもかも馬鹿馬鹿しくなっていくような感覚があった。
 「あなたは私の名前も知らない。素性も知らない。性格も性癖もことばもからだも知らない。結局はその程度の価値しかない女です。わかってますよ。――わかってんだよ、そんな私がなに言ったって頭が空っぽの安っぽい愛玩動物程度の価値しかないってのは!!」
 濁った怒鳴り声が辺りに響いた。パチュリーは一歩退いた。そうして口許を手で覆った。
 「……」
 小悪魔は疲れたように首を振った。そうしてパチュリーを見た。虚無を纏い、あらゆる感情の抜け落ちた目で彼女を見つめた。パチュリーは彼女を見返した。逃げなかった。束の間、世界にふたり以外の全てが消え去り、剥き出しにされたなにかに銃口を突き付け合うような不躾な時間が流れた。そこには盾も防壁もなかった。ただ遠回しにされ続けていた問題だけが転がっていた。





 「はいはいはいはいそこまでですよー」美鈴がふたりの間に割って入った。「お互い言いたいことは言いましたね? まあいったんこれでお開きにしましょう。パチュリー様に怪我がなくってよかったですよ。でも心配してた小悪魔さんにそんなことば遣いはないですよお」
 パチュリーは我に還ったように美鈴を見た。「ぁ……」
 「『淫魔風情』じゃないでしょう。あなたの図書館の司書さんですよ? それにお忘れですか? 私たちはみんな例外なく『紅魔』ですよ。お嬢様も妹様も咲夜さんもパチュリー様も小悪魔さんも、メイド隊のみんなも門番隊のみんなも。だから『紅魔館』なんじゃないですか。思い出しました?」
 「――」パチュリーは心底恥じ入ったように顔を逸らした。「――そうね」そのあとすぐまた小悪魔を見つめた。「その通りだったわ。ほんとに私ったらどうかしてた、今のは私が悪かった」深々と頭を下げた。「ごめんなさい、小悪魔。この通りよ」
 「ぇ……」

 小悪魔は拍子抜けしたようにパチュリーを見つめた。「……ぃぇ……」戸惑ったような声音にはほとんどヴォリュームはなかった。
 小悪魔は一歩退いた。そうして俯いた。パチュリーに向けられていた怒りがやり場のないものへと変質していた。そうした感情を持て余すように胸元に手をやり、強く握った。息苦しかった。
 「喘息で倒れたりとかしてなくてよかったです」辛うじてそれだけを言い、背を向けた。





 紅魔館内へ向かう小悪魔の背中を見ながら、パチュリーは首を振った。疲れがあった。「ごめんなさい」美鈴に――「あなたに気を遣わせてしまったわね。素直に謝っておくべきだったのに、私ったら」
 「まあそういうこともありますよ」美鈴はざっくりと言った。
 「あの子に対しては、なんか……私、意地張っちゃって。図書館の主と従者みたいな錯覚でも持ってるのかしらね。別にあの子は私の直接の部下でもなんでもないのに」
 「それで間違ってないんじゃないですか?」
 「紅魔館は全部レミィのものよ。そこに所属するものもみんな。図書館でさえ私のものではない、ちょっと借り受けてるだけ」
 「小悪魔さんはあなたのこと好きですよ」
 パチュリーは美鈴を見た。美鈴はどこまでも穏やかな微笑を浮かべていた。パチュリーは咄嗟の受け答えに窮した。「……まさか」
 「本当ですよ。どうでもいいひとにあんな激昂のしかたしませんって」
 唇の隙間からふっと息が漏れた。「……まあ五十年も一緒にいれば、ね。少しくらい愛着も湧くってものじゃないかしら」
 「それだけ一緒にいれたってこと自体、そういう資格があるってことの証明じゃないですか?」
 「どういう資格よ」
 「まあなんだっていいんですけど。小悪魔さんはいい子ですよ。淫魔だろうがなんだろうが。あなただって魔女だろうがなんだろうがいいひとです。結局のところそれで充分すぎるくらい充分じゃないですか?」

 美鈴はそこで伸びをした。そのあとで自分の肩に手をやり、揉むような仕草をした。
 「もう夜も遅いですし、私はこれで寝ますよ。フランお嬢様のところへ報告へ行ってから。もう寝ちゃってるかもしれないですけど」
 「ええ。心配かけてごめんなさい、美鈴。妹様にもそう伝えておいてくれるかしら」
 「構いませんよ。でもそういうことって直接言ったほうがいいですよ」
 「もちろん言うわ」
 おやすみなさい、とふたりは言い合い、それぞれの場所へ歩いていった。










 『小悪魔とパチュリー』





 小悪魔は図書館へ入った。闇のなかを歩き、テーブルの前まで進んだ。そこでランプに灯をつけた。視界が広がり、静寂を照らした。押し退けられた闇が其処彼処に溜まっているのが見えた。
 『薄汚い淫魔風情が――』
 片付けはみな終わっていた。あとは眠るだけだった。そうして明日を迎え、また本を読み、整理し、管理し、明日の明日に備えて眠る。その次の日もその繰り返し。そのまた次の日もそのまた繰り返し。
 だけれども結局、その先になにがあるというのか? 答えなど存在しないと心のどこかで確信している問いを問い直し続けるのか? 石を積み上げては崩し、積み上げては崩す。小悪魔には自分の向かう先がはっきり見えた。飢餓感に押し潰されるまで続く不毛な日常。無間地獄のよくできたミニチュア。
 なにを望み、なにを願い、なにを求めるのか。それが明確ではない。彼女はどの時代のどんな女にでもなれた。あらゆる媚態を演じることができた。望まれる全てに応じることができた。だからなんだというのだ。結局はなにもかも食いものにする相手に依存する根無し草の演技だ。淫魔の根っこはどこにある? 自分自身の揺るがぬ姿は――
 「己こそ己の寄る辺。己をおきて誰に寄るべぞ。よく整えし己こそ、真得がたき寄る辺なり……」
 自分の己はどこにある。この熱はどこへ向ければいい。










 パチュリーは図書館に入る。暗かった。もとより夜目の利くほうではない。カンテラを掲げ、パウダーのような光が道を照らすのを見つめる。すると、そこで音が聞こえる。
 重いものが落ちた音。ばらばらと紙のめくれる音。重なる。反響し、幾度も折り重なって耳に届く。既視感が湧く。もう遥か昔の……
 本棚の合間を注意深く通り抜け、音のするほうへ向かう。
 雪崩のような音が館内に響く。並べてある本の列を根こそぎ落としてぶちまけたような、乾いた音だった。床に叩きつけるような勢いさえあった。癇癪持ちの子供のように。
 「――……」
 かつてあったこと。これから起こること。迷路のような本の羅列を抜け、パチュリーの思考は心の赴くままに動く。小町に問いかけたあらゆる問いに答えを用意することはできる。けれどもだからなんだというのか。証拠も証明も根拠も裏づけもない空虚なことば。それを達成するにはもはや突き進むしかない。盲目のまま道をゆくことしか残されていない。その道が透明な窓ガラスに埋め尽くされていても。

 つまるところ、傷つくことが怖ろしいのだ。知識は道標にはなってくれる。が、その先にあるものを自分の代わりに得てくれる腕にはなってくれない。自分から進んで傷つきにいく勇気がなければなにも得ることはできない。救いも癒しも安らぎも。それらはみな求める者には与えられず、ただ結果の付属物として存在する。
 本棚の角を横切る。足元の本を踏みかける。本の合間に注意深く足を置き、顔を上げる。

 開かれた貝のように本の山が広がり、散乱している。ジャンルも境界も統率もない、あらゆる種類の混沌。目眩がするくらいの惨状。ランプの暗い灯りのなか、わずかに流れる隙間風に従い、いくつかのページがぱらぱらと捲れる。
 小悪魔は本の山の中央、丘の真上に膝を立てて座っていた。背を向けていた。司書服から覗く蝙蝠の翼が力なくしなだれていた。

 「小悪魔」
 呼びかけると頭だけを捻じってこちらを向く。片目でパチュリーの姿をとらえ、興味のなさそうな無表情を半分だけ示してみせる。
 「感心しないわね。図書館の司書ともあろうものがなにをしている? 自分で管理し、整理し、長年連れ添っていれば愛着も湧くものと思っていたけれど。本を尻に敷いて――足蹴にして――」
 「こんなのはみんな腐った林檎みたいなものですよ」
 小悪魔は自分の膝に顔を埋める。
 「何年本を読み続けていても、結局はそういう思いが頭から離れてくれなかった」

 パチュリーは小悪魔に近づこうとする。が、もはや足の置き場も見つからないほど散乱した本に遮られ、一歩進むのすらままならない。
 「私の求める答えは結局見つからなかった……見つからない」小悪魔は言う。「失われた過去から枝分かれした未来の価値は。もしあのひとが生きていたら。あるいは墜ちるまえに堕とせていたら。私の腕はどうしてあの日、あなたを抱いて殺めなかった?」
 その口調には数え切れないほどの後悔が詰め込まれている。長い年月のなか繰り返し繰り返され続けた自責の念が押し固められている。
 パチュリーはどうにかして小悪魔に近づこうとする。「『もし』や『かも』なんて話は無意味よ。私たちにはいつだって『いま』と『ここ』しか残されていない。過去を変えたいのならただ足掻くべき。それはあなたにだってわかってるでしょう」先に小悪魔が立ち上がり、パチュリーは立ち止まる。

 ガラスを踏むような慎重な足取りで小悪魔は本の山を降りる。いくつかの本が踏まれ、表紙が捻じられる。「私にはこんなものを愛することなんてできない。偉ぶってるばかりで無意味な文字の羅列にしか思えない」パチュリーの横を通り過ぎ、本棚のつくる影のなかに入り込む。「それは結局、なにものも愛せないことの証明であるのかもしれない」そこでパチュリーに向き直り、仰々しくお辞儀してみせる。「全てはそういうプレイの一環。愛も誠意も苦悩も苦痛も、熱も怒りも生も死すらも。淫魔って結局はそういう種族じゃないですかね。ばかばかしい……だったら私の根っこはどこにあるんですかね」
 「だったらあなたはなにを誘惑している? 空腹を道に、飢餓感を友に、どこへ向かおうとしている?」
 「どこでもない。私にはなにもない」小悪魔は本棚に腕を差し入れ、その列にあった本を根こそぎぶちまけてみせる。「私は……虚無だ。名もなき悪魔の屑だ!」

 小悪魔は自分の頬が強張るのを感じた。筋肉が意思に反して捻じれ、唇が押し曲げられるのを実感した。が、そうした肉体の罠にかかってやるつもりはさらさらなかった。表情が歪み、涙は零れなかった。けれどもそうした感情の昂ぶりは余すところなくパチュリーに伝わった。
 「よしなさい」パチュリーは言った。「充分すぎるくらい傷ついてるのに、それ以上自分で自分の首を絞める必要なんてない」
 パチュリーは小悪魔に近づく。彼女の眼から見た小悪魔は、いまや淫魔でもなんでもなく、ただもう孤独を纏って暗い夜に置き去りにされたひとりの儚い少女でしかなかった。初めて出会ったときからずっとそうだった。
 そっと彼女の肘のあたりに触れた。自分の手の下で筋肉が硬直するのがわかった。小悪魔の顔を見上げ、慈しむように手に力を篭めた。
 小悪魔は首を振った。そうしてパチュリーの手を振り払い、身を引いた。

 「なんだっていうんですか」小悪魔は言った。「使い魔に対するあなたなりの気づかいですか? だったらそんなもの必要ない。そのばかみたいに膨大な魔力で自我ごと押し潰してしまえばいいでしょう」
 「そうすることになんの意味がある?」
 「そのほうが楽です。私にしろ、あなたにしろ」
 「そうしてあなたのからだを手に入れても、残りは永遠に得られない」
 「魂は――」小悪魔は首を振った。「誰のものにもならない。誰に明け渡すこともできない。だから魂を喰らう類の妖怪に強大な力を持った輩なんていやしない。われわれは決して堕ちない気高い魂に惹かれ、結局は堕とせずに消滅していく」
 「それがあなたなりの正しい寓話のかたちって理論? わかる気もする、実際レミィと咲夜もそんな感じだったから。でもそれだと、堕とそうとする側の魂については不在扱いになるわね?」
 小悪魔は唇を歪に曲げる。「淫魔の魂を喰らおうとする者なんていやしない。自分から汚泥を啜ろうとする妖怪なんて存在しない、そういうプレイでもない限りは」
 パチュリーは胸の下で腕を組む。そうして揺るぎない響きで言い放つ。「あなたの魂が汚泥だなんてとてもじゃないけど思えない、私には」

 小悪魔は不意を衝かれたように顔を上げる。唇がハート型にすぼめられ、なにかの音を紡ぎだそうとしているかのようにわななく。が、結局はなにも言い出せずにまた一文字に結ばれる。
 嘲笑うような表情の揺らぎも、硫酸をかけられたようにすぐに熔け落ちる。
 小悪魔にとってそうした飾り気のない尊重のことばを聞くのは初めてだった。正体を知っていてなおそんなことを言う女など。それが目の前にいるパチュリーという女であることに驚く。長い間自分を使い魔として扱い、遠ざけるようにしてきた女であることに。
 「なにか勘違いしてたようだけど」とパチュリーは言う。「私はどこの誰かもわからないろくでもない女を従者にしようなんて露ほどにも思ったことはない。ただの淫魔だったら使い魔として傍に置いておくなんて恥知らずなことはしない。魔女としての格が知れる。それだけじゃなく、紅魔館全体の――レミィの尊厳にさえかかわる。親友の顔に泥を塗ろうなんて絶対に思わない」

 小悪魔は混乱しかける。が、そんなことばはどうにでも取れる。上っ面だけのその場凌ぎだと断じ、首を振って慰められかける心を追い払おうとする。あらゆる黒い感情の波に呑まれかけ、拳を握り、腕を振るって本棚を殴打する。
 「だったらどうして私はここにいる?」もう一度腕を振るう。「名前を失い、家を失い、住み慣れた故郷を遠く離れ、囚人のように繋がれている。なんのために? なぜ?」本棚の振動がそのまま空気の揺らぎになる。「私のほうの理由は明確です。あなたは? あなたにとって私は一体なんだって言うんですか!?」

 ガラスを破壊された窓から吹き込む夜風が館内を撫ぜる。パチュリーはいっとき、目を細め、自分自身を覗き込むような心の動きに全てを委ねる。なぜ? そんな問いの答えは明白だ。パチュリーは腕を組んだまま、青空へ向けて飛び立つ小鳥のようなひたむきさを篭めて言う。
 「好きよ。小悪魔」





 小悪魔の表情が揺れた。凍りつき、静止し、目が泳いだ。心がめまぐるしく動いた。ありとあらゆる感情を呼び起こされ、そうしたものに飽和しかけた。気がつくと三日月のように唇を曲げていた。嘲るような視線を送っていた。「なにを――」
 「聞こえなかったのならもう一度言う。私はあなたのことが好きよ、小悪魔」
 「薄汚い淫魔風情になにを言ってるんです? どういうことですか、それ」
 「ことば通りの意味」
 小悪魔は吐き気をこらえるように状態を折り曲げた。握り締めた拳を振るい、また本棚を叩いた。目線は足元に落ちていた。黒いスカート越しに、自分の膝が震えるのが見えていた。
 「図書館の魔女一流の呪文というわけですか。そうやって私を縛りつけ、納得させ――」
 「そんな勝手な解釈は困る。私は自分のことば以上にはなにも言ってないし、なにを言うつもりもない」
 「そんな空虚な物言いを信じろと?」
 「そうしてもらう他ない」パチュリーは微動だにせず続けた。「私はこの五十年、あなたに言わなかったことは山ほどある。けれど嘘をついたことだけはないつもり。呪文を扱う魔女がそんな軽々しくことばを使うわけにはいかない」





 小悪魔は息を呑むようにして上半身を起こした。今にも崩れ落ちそうだった。態勢を立て直す必要があった。本棚を伝い歩き、盾にし、パチュリーの目線から逃れた。
 「……っ、ッ」
 本棚に背を預け、荒く息をついた。膝ががくがくと笑っていた。自分を抱き締めるように腕を回し、そこで力が抜けた。ずるずると滑り落ち、その場に座り込んだ。
 生き延びる過程で背負わされた全ての十字架が背中に食い込んでいるような気分だった。そうした感情を素直に受け止めるには、小悪魔は長く生きすぎていた。淫魔として黒々とした生を送りすぎていた。それは常に腹の底の飢餓感が証明していた。
 あるいは、そう……余計な荷物などなにも背負わず、ただ図書館の司書として働くだけのただの女であったのなら、そうした思いは感じなかったかもしれない。そして小悪魔は今からでもどんな女にでもなれた。なにも持たないただの少女に戻ることさえできた。全てを忘れて司書としてやっていくこともできなくもなかった。
 が、自分をこの場所に追いやった理由を忘れて、本に囲まれ続けることはできなかった。もとより自分が本を求めたのはひとつの答えを知るためだけの理由だった。それ以外にはなにもなかった。なにも持たないただの少女になることは、本を求める理由を忘れてしまうことだった。その上で司書などできるはずもなかった。

 「小悪魔……」
 パチュリーが本棚の闇を抜け、彼女の傍に立った。しゃがみこんで膝をつき、彼女と目線を合わせるようにした。パチュリーの手が小悪魔の肩に伸びた。触れる寸前で小悪魔はその温かみを振り払った。
 互いの視線が絡んだ。複雑にカットされた宝石のような光芒が行き来した。至近距離でことばにならない感情が触れ合った。
 パチュリーは口を噤んだ。が、すぐに開いた。「私はあなたを苦しめようとしてこんなことを言ったんじゃない」一語一語を噛み締めるようにゆっくり言った。「私はあなたの名前も知らない。なにをし、なにを想い、なにを望み、なにを願ってきたか知らない。けどこんなに長い時間一緒にいれば、想像することくらいはできる。私はずっとあなたを見てきた。知ってた、そのこと?」ことばは硬質の緊張を孕んだ。「私はあなたに私の気持ちを知ってほしかったから言ったのよ。それだけはわかっていてほしい」





 パチュリーは立ち上がり、闇のある方向へ退いた。小悪魔は追わなかった。からだが勝手に震え始め、ますます強く自分を抱き締めなければならなかった。
 心がばらばらになり始めている感覚があった。小悪魔は身を縮め、なにか頼りにできるものを探して目を上げた。窓が見えた。カーテンの向こう側、透明な窓ガラスはもうすでに破壊されていた。そこから水底の灯のような蒼白い月光が柔らかく差し込んでいた。不意に感情が制御できる十倍の領域にまで昂ぶり、不意打ちのように涙が零れた。それを契機に、小悪魔は声を殺して泣き始めた。





 図書館内のパチュリーの部屋。パチュリーはカーテンを押し開いた。そこにあった窓ガラスも微塵に砕かれており、夜の肌寒い空気が入り込んでいた。月を見上げた。「レミィ」紅くはなかった。緩やかな黄金色に染まっていた。「レミィ……」
 肝心なときに留守にして、もう、とパチュリーは思った。ひとがこんなにも切実に相談役を必要としているときに。別に解決策を示してくれなくてもよかった。ただ親しい友人として話を聞いて欲しかった。が、そう思っている時点でレミリアが自分になにを言うか、想像がついてしまっているのも事実だった。
 不意に気分が緩み、パチュリーは笑いかけた。例え世界の果てへ消え失せていても、ここが紅魔館で、自分が紅魔館の住人である以上、レミリア・スカーレットは常に心のなかにいるのだ。運命を操る悪魔の庇護下にある自分たちが運命ごときに屈するわけにもいくまい。それはわかっている。厄介なのは自分自身の気持ちだけだ。

 ベッドに寝転び、顔を手で覆った。疲れ切っていた。自分の想いを素直に口にするだけでここまで消耗するなどとは考えもしなかった。打ちのめされたような小悪魔の姿が瞼の裏に浮かび、その姿に打ちのめされかけた。
 私は彼女に悪いことをしたのかもしれない、と思う。もしそうだったら申し訳なさでどうにかなりそうになる。懇意にしたい相手にもたらした全てが裏目に出ることほど辛いこともない、特に今のような心境では。

 扉がノックされた。パチュリーは上半身を起こした。「どうぞ。……鍵はかけてないから」
 小悪魔が入ってきた。目の下が腫れ、赤らんでいた。ベッドのへりまで来て、そこで立ち止まった。
 「もし」と小悪魔は言った。「私があなたに示してきた全てが偽りだとしたら? そういうプレイの一環として全てがあったら? 初めて出会ったあの日から今日この日に至るまでの全てがあなたを堕とす一連の演技でしかなかったら?」ことばは虚ろだった。「それでもあなたは私を赦してくれますか。さっきみたいなことばを口にすることができますか」
 「ただ寝るためだけの安っぽいファックに魂を差し出そうとは思わない。とてもそうは思えない」パチュリーは手のひらを上に向けて小悪魔に差し出した。「魂が欲しいんだったら先に丸ごと寄越しなさい。自分を食わせる覚悟がなければ相手を食おうだなんて考えないで」
 小悪魔は崩れ落ちるように笑った。
 「そんな魂はとてもじゃないけど食べられませんよ。淫欲に溺れて全てを忘れた魂だけが私たちの食べ物です。でもそんなので本当に美味しいものなんて、実際、どこにもありはしない」そこで笑いが止まった。俯き、司書服のスカートを握り締めた。「……今はただ、自分の心をここでないどこかへ引っ張り上げてやりたい。ごめんなさい、それだけです」

 パチュリーはからだを起こし、手を伸ばした。小悪魔の耳の辺りに触れ、そこにある髪に指を差し入れた。
 「……ときどき、生き延びてるってだけでもう奇跡みたいに思えることがある」
 指が慈しむように動いた。力を篭められ、小悪魔は片目を瞑った。





 パチュリーは小悪魔の手を取り、引いた。手応えはほとんどなかった。ふたり分の重さにベッドが軋み、シーツの皺が寄った。
 小悪魔の上に覆いかぶさり、パチュリーは彼女を見下ろした。紅く長い髪がマントのように広がっており、紫の髪の先端もそこに混ざった。彫像のように透き通った無表情が返ってきた。束の間、ふたりはそうして向き合い、ことばもなく見合った。
 パチュリーの眼が細められ、息づかいが深まる。小悪魔の顔の横に手をつく。月灯りがつくる腕の影が小悪魔の顔にかかり、真珠のように白い肌の半分を黒く染めた。
 パチュリーの指先が小悪魔の顔の線をなぞる。頬にかかる髪を払いのけ、顎の線を伝い、目の下を緩く拭う。涙は乾いていた。が、それでも一滴、目尻を伝って耳に零れ落ちた。
 「薄汚いなんて言ってごめんなさい」パチュリーは不意に言った。「私のほうこそ薄汚い魔女風情だっていうのに。つくづく厭になるんだけど、本当に……あなたを前にするとどうしても言わなくても言いことを言ってしまう」
 小悪魔は首を振る。「もうどうだっていいです、そんなのは」

 パチュリーは唇を落とした。ふたりの柔らかさが触れ合い、いっとき、パチュリーは息をすることを忘れた。喉が詰まるような感覚を憶え、顔を離した。
 「……」
 小悪魔は指先で自分の唇の線をなぞった。生まれて初めてキスされたかのように。感覚を飲み込むまでに時間がかかり、そのあと、緩慢な動作で指を持ち上げた。パチュリーの頬に触れ、唇をなぞった。
 パチュリーはその指先に唇で触れ、わずかに含んだ。軽く歯を立てた。しばらくのあいだ、そうして小悪魔の指を弄んでいた。

 水底のように静かな図書館の一室。ふたりが身をよじるかすかな衣擦れの音だけが響く。パチュリーは小悪魔にもう一度キスし、すぐにからだごと落とした。ふたりのからだが互いの服を挟んで密着し、指を絡めるように手が繋がれた。
 パチュリーの指が小悪魔の顎にかかり、持ち上げる。
 「好きよ。小悪魔」
 パチュリーが囁きかけると、小悪魔は顔を逸らす。「……私は」
 逸らされたまま、キスを落とす。瞼の上に触れられ、眼球がわずかに動く。

 「んっ」
 ついばむようなキスを繰り返しながら、パチュリーの指は小悪魔の喉をなぞり、下へ降りていく。ネクタイを緩め、その下にあるボタンを外す。青白い肌の色が蒼白い月灯りと入り乱れ、ぼんやりと輪郭が霞む。
 露になった首筋に指をかけ、柔らかな凹凸をなぞる。小悪魔はぼんやりと天井を見つめる。
 「……パチュリー様……」
呼びかけても、答えはなかった。代わりに鎖骨のあいだに口づけられた。
 「――っ、ふ、」

 用を足さなくなったネクタイが解かれ、ベッドから滑るように落ちるのを、視界の端に見た。小悪魔はなんとなくその方向に顔を傾ける。すぐにパチュリーの指に引き戻され、キスをされた。
 舌が入り込んできた。唇を割り、束の間、そこで止まる。小悪魔はいっとき静止し、やがて、ゆっくり歯を開く。
 「……ん、ぁ」
 激しさの欠落した、水が壁を伝うような速度。口のなかに口づけされる。深く押し込まれ、枕に後頭部を押し付けられる。それでもまだ押され、首が反る。
 パチュリー様のほうからしてくるなんて今まで考えもしなかった、と小悪魔は思う。それもこんな、いたずらとはかけ離れた場所で求められるなんてことは。ことばが熔け、それ以上は思考にならない。ただ長い年月を越えて語りかけてくる複雑な想いが点線のように心の道筋を辿る。

 顔が離される。
 パチュリーは自分の髪をかき上げ、その下から小悪魔を見下ろす。小悪魔はなんとなく目を逸らし、腕を掲げて少しだけ顔を隠し、緩く拒絶気味のボディーランゲージを示してみせる。
 「それは……どういう意味で受け取ればいいのかしら」とパチュリーは言う。「見た通りに? あなたなりの誘い?」
 「知りません……」
 「……らしくもないのね。本当はいやなの? 私と……」
 パチュリーの声は小さい。行為に自信を持てていないことが透けて見える心中の迷いに表情が揺れる。小悪魔は首を振る。
 「よしてくださいよ」声はわずかに震えている。「何十年ぶりだと思ってるんですか、こういうの。それにこんな……あんな情けない自分を見せてしまった挙句……パチュリー様と、とか……」
 小悪魔が繋いでいた手をやんわりと解き、それで自分の眼元を覆う。
 「ほんとに、もう……情けないやら悔しいやらで、……」

 パチュリーは小悪魔の腕をどけ、キスを落とす。
 「ふぁ」
 落としてから指を降ろし、ベストのボタンを外す。ブラウスのボタンを外す。
 開かれた胸元から黒い下着が垣間見え、パチュリーはそのホックも外す。
 「パチュリー様」
 「なに」
 「手つきがやらしいです」
 「……あなたにそんなこと言われるとは思わなかった。そうしたことばもそういうプレイの一環ってわけ?」
 「そんな余裕はわりとありません」

 ふたりは顔を見合わせる。
 「……」
 「――小悪魔」
 「はい」
 はあ、と溜息をつき、パチュリーは上半身を起こす。
 「どうしました?」
 「だめね、なんか。ヘンに緊張しちゃって」顔を逸らし、笑ってしまう。「なんなのかしらね。五十年も連れ添った仲なのに。こんな他人行儀みたいで」
 「こういうことするなんて思いもしなかったからじゃないですか」
 「私はあなたのことずっと好きだったのよ」
 「――っ」なんのこだわりもないかのように放たれたことばに、小悪魔はわずかに怯み、「……いつからなんです? どうして?」
 「ひみつ」
 「え……」
 「いいじゃない、どうだって。私たちには『いま』と『ここ』しか残されてないんだから」

 パチュリーは座ったまま一度伸びをする。
 「――ん、んっ」
 小悪魔は開かれた胸元を隠すようにしてシーツから背中を引き剥がし、ベッドの上を後退りし、壁に背を預ける。
 「ごめんなさい、小悪魔。がっちがちに緊張して全然動ける気がしないわ。少し休ませて」
 「……はい?」
 パチュリーは小悪魔の隣に座り、同じように壁を背にし、深く息をつく。
 「パチュリー様――」
 「何事も肩に力が入りすぎてるとうまくいかないものよ。そうは思わない?」
 「……だからって」
 「小悪魔」パチュリーは不意に真面目な声を出した。
 「は、はい?」
 「よくよく見ると結構いい格好ね、今のあなた。前だけ開いて、脱ぎかけで中途半端って。あんまり露骨でないところがすごくいい。腕をのけてちょっとよく見せてくれないかしら」
 「――ばかじゃないですか?」
 パチュリーは自分の頬に手を当てた。「……あら、そう?」
 ふたりはくすくすと微笑み合った。



 しばらくしてパチュリーは言った。「小悪魔。いい?」
 「服くらい脱いでください」
 「脱がせて」
 「……自分で脱いでください」

 小悪魔はベッドのへりに腰かけパチュリーに背を向けた。反対側のへりでパチュリーが衣服に手をかける衣擦れの音がした。溜息をつき、小悪魔もブラウスの袖のボタンを外し始めた。
 ベストとスカートを畳んだ。皺にならないよう、そっと脇の机に乗せた。靴も靴下も脱いだ。ブラウスはボタンを全て外したまま、少し考えて、そのままにした。下着もそのままだった。
 動作の全てが緩慢にしか行えなかった。粘着質の水底にいるかのようなぎこちなさがあった。脱ぎ終わると、そのままの姿勢で俯いた。パチュリーのほうから衣擦れの音が聞こえなくなるまで。
 なにか得体の知れない感覚に襲われ、孤独に似た衝動がからだの芯を貫いた。「……パチュリー様」
 「なに?」
 「――なんでもありません」
 実際、なにを言おうとしたわけでもなかった。

 衣擦れの音が消えると、小悪魔はパチュリーのほうを向き、ベッドに上がった。黙ったまま座り込んだ。パチュリーは下着のみの姿だった。頬に手を当てられ、小悪魔は頭を傾けた。
 パチュリーの手が胸元を伝い、さらに落ちた。ブラウスの合間を探り、腹に手のひらを当てられた。息づかいが深まった。
 「……ぺたんこなのね」
 「もう随分長いこと食事してませんから。いつお腹と背中がくっついてもおかしくないです」
 「ごめんなさいね。司書なんてやらせてるから」
 「そういうことは言わないでください。私は自分の意思でここにいるんです」

 小悪魔はパチュリーの手のひらに自分の手を重ねた。
 「……間の抜けた話ですかね。誰とも寝ない淫魔だなんて。はは。良かったですね、ほとんど処女同然ですよ」
 「やめなさい」
 「正直」小悪魔はぼそりと呟いた。一度言ってしまうと、もう止められなさそうだった。「寂しいですよ。誰とも繋がれないってのは。自分にそうした資格がないように思われて。ろくでなしって他人に言われるのはイラつくだけですけど、自覚が混ざるとすごく辛い。でも他人と繋がってる間もそれはそれでキツイんです。結局相手は私の正体を知らずにそうしてるわけですから」重ねた手に力を篭めた。「上っ面で誰かと寝ても寂しいだけです。魂を喰らう妖怪が、魂とはもっともかけ離れたところに生きてるんですよ。なんでしょうね、これ。運命のいたずらってやつですかね。種族の根っこにある業ってやつですかね」

 パチュリーは小悪魔の手と腹から自分の手をどかし、ブラウスを開いた。現れた乳房に手を当て、心臓に指を添えるようにした。「いい加減にしなさい」表面に現れず、からだのなかで波打つ感情に、皮膚の内側からぐらつかされた。「これ以上自分から傷つきにいってどうなる?」
 どうにもならなかった。それはわかっていた。それでも無視するには哀しみが深すぎた。
 顔に顔を近づけ、至近距離でパチュリーは囁いた。
 「好きよ」

 小悪魔は諦めに似た感情からわずかに唇を曲げた。
 「それが真実か否かどうして私に判断することができます?」
 首を振って否定した。
 「そうしたプレイのためだけに用意された上っ面のことばじゃないってどうやって見分けます? 私はあなたの心を動かせる場所にはいない。四六時中セックスのことばかり夢見てるような女ですよ。ファックのことばかり考えてるような――」
 「面倒くさい女ね。そういうところも好きよ」
 ことばを潰すように顔を寄せられ、捻じ込まれるようにキスされてことばが消えた。

 「……ぁ、あ、ふ」
 首を押され、喉が反り返った。反り返ったところに手のひらを添えられ、小枝が軋むような音がした。
 「ん、ふ……ぁ、ん」
 小悪魔はパチュリーの肩に手を置いた。剥き出しの肩は怖ろしく細かった。息を呑むほど小さく感じた。
 「!……っく、ぁ」
 反対側の手が添えられた乳房から甘い感覚が昇り、わずかに開かれた歯の隙間に舌をなぞられた。

 「ん、ん、ん……」
 小悪魔は目を閉じ、おずおずとパチュリーの首に腕を回した。
 押しつけ合うようにからだが動き、息が潰れた。
 パチュリーの手がぎこちなく動き、乳房から逸れ、その下のあばらを這う。ブラウスと皮膚の隙間を縫い、背中に回され、引き寄せられる。
心臓と肺を一緒くたにさせられるかのように密着し、互いのからだの下で胸が潰れる。
 「ふぁ」
 息が続かなくなり、顔が離れた。鼻で息をするのを忘れていた。

 荒く息をつき、小悪魔はパチュリーを見上げる。
 「……――」
 なにか言おうと思う、けれど思考は働かない。
 手に残った彼女の肩と首の感覚が一番大きく、そこで受けた印象が勝手に唇を割って出た。
 「……パチュリー様って、着痩せするタイプだったんですね」
 「今頃気づいたの?」
 彼女の胸に目がいった。なんだか場違いに笑ってしまった。
 「私より背丈は低いのに。美鈴様とどっちが大きいんでしょうかね」
 「五十年も一緒にいて。あなたはちっとも私のことを見てくれてなかったのね」
 「すいませんね。ずーっと自分のことばかりでいっぱいいっぱいだったもので」
 「……」
 「――ぁ、もしかして嫉妬ですか? それ――」
 「怒ってるのよ」
 小悪魔がなにか言い返す前に肩に手を置き、幾分無理矢理に押し倒した。

 「パチュリーさ――」
 言いかけたところで乳房が乱暴に揉まれ、その先端が抓られる。
 「――った、いたたた、ちょ、っと」
 手が皮膚を伝い、顔が落ちた。胸に寄せられたパチュリーの唇が乳首を食んだ。
 「……っ」
 息を詰まらせ、小悪魔は顔をしかめた。
 足が縛りつけるように絡められ、膝がシーツに食い込んだ。胸から強い刺激が奔り、小悪魔はかかとをシーツに押しつけ、跳ね上がろうとするからだの反射と圧しかかるパチュリーのからだの間で揺れた。

 「小悪魔」
 と、パチュリーは彼女を呼んだ。
 小悪魔はいたずらっぽく微笑んでみせた。
 「……あなたにそんなことをされてもこれっぽっちも緊張してきませんね。知ってました、そのこと?」
 「……それはどう取ればいいのかしら、私は」
 「知りません。けどなんか、安心します。なんででしょうね。いいんじゃないですかね」

 小悪魔は窓から差し込む蒼白い光を見つめた。
 幕のような光がベッドのへりを刻み、力なく投げ出された自分の腕を照らしていた。
 相手が彼女だからかもしれない、と小悪魔は思う。自分が淫魔であると知っていてなお使い魔として傍に置き、長い間飽きもせず一緒にいてくれたひと。世にも怖ろしい吸血鬼と友人になってしまうような女だから、自分と共にいてくれることなど取るに足らないことなんだろうと思っていたけれど、結局のところ、自分にはそれが一番必要なことだったのかもしれない。

 今はなにもかもを忘れてしまいたかった。水のような時間のなかに埋没してしまいたかった。
 「疲れてるんですよ、パチュリー様。私」
 手を伸ばしてパチュリーの手を握った。思いがけず温かかった。そうした単純な事実にさえ打ちのめされそうになる。
 「なんだろ……今まで溜め込んできたものが全部流れ出してる感じです、今は……」
 手のひらから零れ落ちていった全ての幻想が愛おしかった。それらはもう彼女の傍にはないものだ。自由であるがために飛び立ち、透明な窓ガラスに首を骨を折られたもの。自分は置き去りにされた。繋がれたフリークの哀しみを誰が汲み取ってくれるのか。
 けれどそれらは果たして悲劇だったのか。青空を求めて飛んだ小鳥の物語が悲劇なら、この世のなにが悲劇でない物語になるのか。彼女はそれを問いかけ続け、還ってこない答えに打ちのめされ続けた。けれど本当はもうとっくに答えなど出ているのだ。それが今ならわかる。その先にあるのが哀しみだけでも、レミリアは咲夜を追って紅魔館から飛び出すのだ。



 パチュリーの指が小悪魔の太腿をなぞる。小悪魔は足を上げ、彼女の指を受け入れられるようにかすかに開く。
 キスを落とされ、キスを返す。浅く、深く、唇を触れさせ、舌を絡め、離し、押しつけ、執拗に繰り返す。
 緩やかに流れる時間。互いの呼吸だけを耳にし、体温だけを感じ合う。
 下着の上からパチュリーの指が彼女をなぞり、触れ、さする。
 段々と無遠慮になっていく舌の動きに似合わず、指先の動きは注意深く、緊張から縮こまっている。
 もはや明白なことばもない。唇から糸が引き、切れ落ち、顎から喉にかけてを濡らす。小悪魔は疲れ切ったような顔をパチュリーに向ける。目が問いかけるように動き、わずかに光を薄れさせてかすむ。
 「パチュリー様」
 細い枝のような首に腕を回し、彼女はパチュリーを引き寄せる。ベッドの足が軋む。そうしてまたキスを繰り返す。

 ひとつひとつの動作に境界がない。緩やかに流れるからだの動きに意図がない。熔け落ちるように緩慢に求め続け、パチュリーはようやく小悪魔の下着に指をかけ、降ろす。膝の上にまでさえ届かない。秘所が露になった瞬間に止まる。
 濡れるというより染みる程度の水気。かたちは整っていた。美しくさえあった。長い間弄ることすらなかったせいか、あるいはこれさえも種族の――
 「パチュリーさまぁ……」
 至近距離で甘えるように囁かれ、パチュリーの意識がぐらりと傾く。目が細められ、眠気をこらえるような表情になる。顔全体が熱くなっているような感覚がある。

 薄い茂みをかきわけ、指が彼女のなかに入る。触れた瞬間にパチュリーのからだの下で小悪魔がわずかに跳ねる。
 「んっ」
 足が持ち上がり、腰が震える。唇が一文字から歪められ、頬が強張る。
 指先に伝わるうねりと温かみに、パチュリーは息を呑む。
 控え目に動かすと、小悪魔の顎が上がり、唇がわずかに開かれる。
 「あっ」

 動かすたびにからだが捻じれ、絡む。跳ね除けられた毛布がベッドから落ちる。シーツが幾重にも皺をつくり、ふたりの湿った汗を吸い込み、染まる。
 からだの重みが伝わり、生々しい匂いが鼻を抜ける。が、そうした空気の停滞も長くは続かない。ガラスの破壊された窓から吹き込む風と暗い光が、ふたりのからだの合間を駆け抜け、震わせて散らせる。
 パチュリーは彼女の横に手をつく。
 「ぁ、痛……っ」
 「え、」
 手のひらの下に蝙蝠の羽があり、紅く豊潤な髪に隠れて見えなかったが、手のひらでその骨を潰していた。
 「……ごめんなさい」
 パチュリーは手をのける。そしてその羽を邪魔に思う。

 指を挿れたままやや強引にからだを持ち上げ、小悪魔のからだを動かす。
 「ぁ……?」
 腕を掴み、足を持ち上げ、彼女をうつ伏せにする。その上から圧しかかる。
 「パチュリーさま」
 後ろから組み伏せ、猫のように首に噛みつく。
 「ぅ」

 からだの下に羽と髪の流れを感じる。
 パチュリーは無我夢中のような心のまま、シーツとからだの間で潰れた小悪魔の胸に手をやり、横から添える。
 しばらくそうやって弄ってから、さらに下に降ろす。
 腕が潰れるのに構わず、シーツとからだの合間に無理矢理差し込み、薄い腹を通って秘所へ。
 もう片方の指は臀部の上を伝って、既にそこに挿れられている。

 「ぁう」
 跳ね上がる小悪魔のからだは首にかじりつく頭の重みで止める。
 右手の指は二本、秘所に差し入れられ、左手の指はクリトリスを探る。
 「は……あ」
 胸の下で羽がひくひく震えるのがわかった。

 パチュリーは秒に満たない刹那の際、からだの動きを止め、自らの思考を覗き込む。
 心が溺れかけているのがわかった。
 切実に希求する心のへりで、絶え間ない疑問が思考を遮る。
 ――これもまた魂を堕とす淫魔一流の演技だとしたら?

 けれどそうした問いを浮かべた時点で、心のもう一方は答えを出している。彼女にとって小悪魔は、一番最初に出会ったときの姿のままのイメージだった。渦状に広がる本のカオスのなか、――

 「小悪魔」
 パチュリーは彼女の首から頭を離し、呼びかけた。
 シーツに押しつけられていた頭が傾き、小悪魔が涙に滲んだ目でパチュリーを見上げた。首がそれ以上動かず、片目だけで睨みつけているような表情だった。
 パチュリーはその目をもっとよく見ようと、覗き込むように近づいた。媚を売っているようなところはなかった。パチュリーの見る限り、小悪魔はそのままの小悪魔だった。
 葛藤を押し潰し、パチュリーは彼女にキスをした。

 「……パチュリーさ、ぁ、ま」
 小悪魔の唇が動いた。
 その上でなおことばを紡ごうとしているかのように戦慄いた。が、結局はなにも言えなかった。また頭を逸らしてシーツに押しつけ、喘ぎ声ごと、布地の裏側に沈めた。
 「……小悪魔」パチュリーはわざわざもう一度言ってやらなければならなかった。そうまでしても、まだ彼女はわかってないだろうと思ったから。「好きよ」

 小悪魔の腰が動いた。
 「――」
 シーツを握り締め、関節が白むほど力を篭めた。
 「――、……、――」
 シーツの白が水気で濡れた。小悪魔は泣いていた。

 やがて彼女は顔を上げ、パチュリーのからだを押し退けるように動いた。仰向けになり、腕を開き、伸ばした。
 明確な境界線もなく、ふたりは動き続けた。なにが終わりで、なにが始まりなのか。そうした区別もなくただ互いを求め合い、未来も過去もないまま、ただその瞬間を感じようと繰り返し続けた。陽が昇るそのときまで。










 『パチュリー』





 「パチュリーっていつから小悪魔のこと好きだったのさ?」
 それは完全な不意打ちだった。パチュリーは本から目を離し、本棚の上を見上げた。足をぶらぶらさせ、フランドールが腰かけていた。
 「……本棚に座ってはいけません、妹様」
 「えー。いいじゃんよー、おかたいこと言わないで。それより教えてよ、いつから? ねえいつから?」
 パチュリーとしてはそんな問いに答える気もなかった。本に目を落とし、文字の列を追った。が、頭には全く入ってこなかった。意味をなさない記号の羅列にしか思えなかった。

 「よくもまあそんな冷静ぶっていられるよ。頭んなか小悪魔のことでいっぱいなクセして。昨夜はお楽しみでしたね? で、実際どうだった? 素直にゴールインするにはまだ時間がかかるんだろうけど」
 それがトラップであることは明白だった。実際にパチュリーが小悪魔と寝たのは一昨日の話で、フランドールは持ち前の勘のよさからふたりのあいだの微妙な空気を感じ取り、カマをかけてきているだけなのだ。
 姉の血を引いている以上、運命を弄繰り回すことも、もしかしたら彼女には少しくらいはできるのかもしれない。

 「でもさ、なんで? あいつが咲夜に対してヘンなバリア張ってたのは理解できるんだけどさ、パチュリーが小悪魔に対して、ってのがなんか納得いかないんだけど」フランドールは本棚を跳び下りた。「まあ面倒くさいことばっか考えてる女だから、ふたりとも。私に理解できないことでうじうじやってんだろうけど」パチュリーの傍まで近づき、テーブルに腰かけた。「答えてよー、パチュリいー。問いには答えがいるんでしょ? このまんまじゃ気になって気になって夜も眠れないよ。教えてくれるまで夜も朝も付き纏ってやるからねー」
 それは悪夢以外のなにものでもなかった。パチュリーは溜息をついた。

 「……淫魔を愛するっていうのは、怖いんですよ」仕方なくパチュリーは言った。「古今東西淫魔と深くかかわってろくな目に遭った人妖なんて存在しないんですから。愛した時点で自分の魂を丸ごと明け渡さなくてはならなくなるかもしれない。偽りと上っ面を見分けることができなければ、仮面の下でいつも嘲笑われているかもしれない。愛も誠意もみんな演技で、そういうプレイの一環でしかないのかもしれない」パチュリーはもう一度溜息をついた。「それはもう歴史が明白に教えてくれている。先人たちがあらゆるかたちでわれわれに忠告して――」
 「こういうかたちで?」
 フランドールはパチュリーの読んでいた本を指でつまみ、持ち上げた。
 「だからずっと素直になれなかったの? ばっかばかしい」
 ひょいと後ろに放り投げた。本棚に当たり、不安定に積まれていた本の列を崩し、床にぶちまけた。
 「あらら。小悪魔もあんまりいい仕事できてないみたいだね」
 「やめてください。妹様」
 「忠告なんてのは結局どこへも突き抜けられなかった腑抜けどもの言い分だよ」フランドールはパチュリーを無視して言った。「それはあいつの大好きだったアルピニストのばかどもが証明してくれてる。開拓者たち。連中が登るまで、アルプスの頂はどこもかしこも『魔の山』だなんて言われてたんだから。登るなんてありえないことだ、世にも怖ろしいことだなんて言われてたんだから」くすくすと笑った。「アルプスの幼女レミリア。あいつももういい加減帰ってこないかな。なんだかんだであいつと咲夜がいないと暴れるのにも手応えがなくてつまんないよ」

 「……本当に、いつ帰ってくるんでしょうかね。レミィは」
 パチュリーは微笑んだ。
 「でもそれがレミィにとって幸せなのかもしれない。彼女が帰ってこないってことは、咲夜がそれだけ手強い女だっていうことの証明なのだから。レミィが咲夜にそれだけ愛着を持っているってことの――」
 「で? パチュリーはいつから小悪魔が好きだったの?」
 「私に最後まで話を続けさせてください」
 「だが断る」

 パチュリーはまた溜息をついた。諦めきったように目元に手を当てた。
 「……一目惚れ、でしょうかね」
 「それって図書館の本が根こそぎぶちまけられてたってときの話? 五十年前の? あいつに聞いたけど、そのときパチュリーすごく怒ってたって話じゃない」

 パチュリーはそのときのことを思い返した。その光景がまざまざと網膜に蘇り、束の間、白昼夢を見たような虚ろな感覚に彼女を追いやった。
 「……知ってますか、妹様。この世で一番美しいものって、抵抗し続ける者の瞳の色だそうですよ」
 「なにそれ?」
 「日本の児童文学作家のことばですけどね」
 「知らない。よしてよ、頭でっかちの知識からの引用なんて」
 「私も……そういうことばをそのまま受け入れるつもりなんてないですけど」

 パチュリーは遠くを見るような目をした。その視線の先には窓があった。開け放たれたカーテンの向こう側、もう空は茜色にそまりかけていた。
 「なにかを美しいって思うとき、どういう理由からそう思うことになるんでしょうね。ただ単に容姿が美しいだけなら、私はどうも思いませんよ。そんな輩は世界に山ほど存在するんだから。紅魔館にもレベルの高い女はごろごろしてるわけですし。胸や尻の大きさで美鈴に勝てる者がそうごろごろいるとも思えませんし」
 「それはあなたなりの『私は頭が空っぽの尻軽女じゃありません』理論?」
 「私のことばを勝手に解釈しないでください。私は私のことば以上にはなにも言ってません」パチュリーは釘を刺してから口調を戻し、 「だからまあ、そういうわけで……別に小悪魔の容姿を見てどうこう思ったんじゃないんですよ。毒々しく感じはしましたけど。そもそも胸だけなら私のほうが大きい」
 「え、マジで? ちょっと触らせて」
 「やめてください」

 パチュリーはそこで目を落とした。燃えるような紫色の空から来る光と影に、テーブルに置かれた自分の手が半分だけ黒く染まっていた。
 「ただ」
 と、パチュリーは言った。
 「その直前にレミィと話してたからかもしれませんけどね。彼女のことばが耳に残っていたからかもしれませんけど」
 あのとき、レミリアは自分のバースデイ・プレゼントに、枯れたエーデルワイスを持ってきたのだった。手のひらからすぐ零れ落ちていった美しさは、ただパチュリーの心のなかだけに残った。
 「小悪魔は散乱した本がつくる渦状のカオスのなかでひとつの答えを探していた。そこにそれがあるかどうかもわからないのに。ひとつの問いは問いかけた時点で答えが出ている。だから正確に言えば、彼女が探していたのは根拠で、裏づけで、証明なんですけど。でもそんなのって、いくら本を読んだって手に入るわけのないものなんですよ。
 手に入らないものばかり欲し、なにもないところになにか価値のあるものを見出だそうと躍起になる。ちょうどそのときの小悪魔がその状態でした。飽和した傷を抱えてなお、自らが生まれ持った種族の業に抗おうとしていた。そうした場所にひとりで立っていた彼女の姿は――」

 『私はただ!』
 と、小悪魔は言ったのだった。
 『終わってしまった過去から枝分かれした未来の行く末を――』

 パチュリーは永遠に向かって言った。
 「気が遠くなるほど美しかった――」





 中庭はもう八割がた闇に埋もれていた。が、二割の茜色が全てを燃やしていた。小悪魔は花畑と紅魔館の壁のあいだを通り、物思いの深い淵に沈んでいた。そこで足元を見、倒れ伏している小鳥を見つけた。
 「――……」
 しゃがみこみ、小鳥のからだを両手で掬い上げた。小鳥は目を閉じ、微動だにしなかった。死んでいるのかと思った、が、そう思った直後に瞼がぱちりと開いた。
 手のひらのなかで激しく翼が動いた。羽根が抜け落ち、滑るように落ちた。小悪魔はそっと手を持ち上げ、墜ちていく太陽に向かって掲げた。小鳥は掲げられたほうへ向かって飛んだ。
 「……ただ脳震盪を起こしてただけ、か」

 小鳥を追い、小悪魔は花畑のあいだを通り抜けた。柵の傍まで行った。両手を柵に突き、囚人のように外側を見やった。小鳥の姿はもう影もかたちもなかった。
 「あなたは知ってるのよね。薄汚い小鳥風情のくせして。どこへ飛べばいいのか。どこへ向かえばいいのか。なにをし、なにを望み、なにを願い、なにを求めればいいのか」
 柵を握る手の力が強められた。ぎしりと鉄が鳴った。関節が白み、爪の色が変わった。
 太陽を睨みつけた。世界の懐でなにが燃え尽きようと、夕暮れはいつも気が遠くなるほどに美しかった。それは幻想郷にやってくるまえからなにひとつ変わっていなかった。紅魔館にやってくるまえからも。何億年経とうとそれは幻想を越えた場所にある原初的な美しさで世界を照らし出していた。
 「透明な窓ガラスがあってもなくてもあなたたちは飛んでみせるのよね。なにもかも置き去りにして、傲然と自由を振りかざして。そこには私には計り知れない熱情があるのかもしれない。自分さえ喰らい尽くすくらい大きな衝動が渦巻いてるのかもしれない」

 不意に抑え難い激情に貫かれ、小悪魔は顔を歪めた。紫色に染まる視界を、歯を食い縛って睨みつけた。
 「私はもう二度とあなたたちの墓穴をつくろうとは思わない。二度とあなたたちの墓穴になろうとは思わない」
 手のひらから零れ落ちた全ての幻想に向かって言い放った。
 「もう二度と墜ちてこないで。自由であるなら最後の最後まで自由を貫いて。透明な窓ガラスなんて根こそぎ破壊し尽して。どうせ無難な忠告になんて耳を貸さないんだから、あなたたちなりに行き着くところまで行き着いてみせてよ」
 ぎりぎりと声がしなった。軋む喉の奥で呼吸がつまり、さらにその奥にある飢餓感が腹のなかで棘を持って暴れた。

 いずれはこのからだも燃え尽きる。小悪魔は歯を噛むような苦痛とともに思う。堕とせぬ魂に惹かれ、その外側でひらりひらりと舞い踊り、結局は先にこちらのほうが尽きる。それが正しい悪魔のかたち。ひとは寓話に寓意を求める。理解できないものに名を与え、教訓として後世に残そうとする。
 それはもうそれでいい、構わない。かたちあるものはいずれ砕ける。それはありとあらゆる人間の人生において既に証明されてきたことだ。砕けるまえになにができるのか。なにを残せるのか。淫魔という種族ではなく、紅魔館の小悪魔として。
 無駄死にはしない。犬死にはしない。運命を操る紅魔の館の住人が、運命ごときに屈するわけにはいかない。

 「私はもうあなたのことを世界に問いかけたりしない」
 太陽に背を向け、柵に背を預け、過去を背に置き去りにして言う。
 「あなたは無駄死になんかじゃなかった。それでおしまいにする。私はあなたから離れ、これからは私自身の問いを創る」
 紅魔館の壁を見上げる。
 そこにどんな壁があろうと、誰もがゆくときにはゆく。世界からもたらされるあらゆる無難な忠告に中指を突き立てて。透明な窓ガラスがあろうとなかろうと、傲然と自由を振りかざして突き進んでみせる。燃え尽きるまで。燃え尽きてなお。
 そうしてわれわれはそれぞれの流儀で世界を愛し/捻じ伏せ/受け入れ/喰らい尽くし/抱き締め/陵辱する。



 「繋がれたフリークさえ飛ぶときには飛ぶ」
 小鳥の飛んだ空に向かって手を伸ばし、得体の知れない熱情から小悪魔は言った。
 「私たちは」
 太陽が沈み、西の空が黒く染まり始める。
 「私たちは自由だ!」
 喘ぐように叫んだ。
 「私たちは!――」



 私たちは――
 ご読了お疲れ様です。ありがとうございました。


 迷走を続ける俺の明日はどこだァァァァァ!!!!!! ここかァァァァァ!!!!! ここがええんかァァァァァ!!!!! いやごめんなさいマジどこですかすげえ困った



 (10/15 誤字脱字修正 追記)

 コメントありがとうございますっ! しかし読み返したときあまりの誤字率の高さにもうだめ死にたい

 >>1様
 続編といってもレミ咲は全然進展ありませんが! すみませんありがとうございますっ!
 作者は実際あんまり深く物事を考えない適当野郎なので、皆様にばかり負担がかかっているのではないかと恐縮する日々っ……!

 >>2様
 わりと間違った淫魔イメージ全開による小悪魔ですみませんっ! エロくなくてすみませんっ! 夜伽一本でやってるのに書けば書くほどエロから離れてくこの度し難い(ry

 >>ニバンボシ様
 なんだかもう夜伽なのにこんなんですみませんっ! ああもう言えば言うほど謝罪のことばが軽くなるっ……!

 >>4様
 紅魔館はなんだかこう、キャラクターの配置が絶妙すぎて胸がきゅんきゅんします。二次創作書く側としても最高すぎって……! 逆に畏れ多いっ……!

 >>5様
 淫魔なのに初々しいという倒錯感を経てエロが染み出すと思いましたがそんなこともなかったぜ!
 すみませんっ、遅筆だもんでなかなかコンスタントに作品を書き上げられませんが、努力します!

 >>6様
 恐縮です! すみません! 毎度毎度あったかすぎる皆様のコメが嬉しすぎてなんだか逆に怖くなってきました!
 ほんとにもう土下座から全っ然復帰できないですっ!

 >>7様
 いやもうこちらこそありがとうございました! 言いすぎてことばの重さがふわふわしてきましたが、感謝の気持ちはいつもいっぱいいっぱいですっ!

 >>8様
 実際に書いてること以上に深くはあんまり考えてません! すみません!
 名作からはほど遠いですが、それでもなにか得ていただけるものがあればっ……!

 >>9様
 こういう小悪魔は俺も初めて(ry
 お嬢様と咲夜さんはなんかこう、もこかぐ化してそうな気がします。白玉楼に乱入する妄想はあ(ry

 >>10様
 ああもうそのひとことでどれだけ俺が安心したか伝えることができましたら……っ!

 >>11様
 フランドールはなんかもう深く考えず脊髄反射的な感覚で書きましたが、それが良かったかもしれません。妄想を伏線にしてしまうのは自重しないとなぁ、と反省します……

 >>12様
 レミ咲とぱちゅこあは、離別ネタに対する俺なりに俺なりな答えを書こうと決めていました。表現できているかは作者側からはなんとも言えないのですが、それでも、というかやっぱりこれ夜伽でやることでしょうか!? いやでも夜伽だからこそこういうネタでできることも(ry

 >>13様
 小鳥ネタは本当はフラメイに使おうと思っていたネタでした。その場合窓ガラス爆破もなかったのですが、脊髄反射で書いたら妹様がどかーんしてしまったので、やっべこれどうすっべ→ぱちぇこあに転換(ry

 >>14様
 足掻き続ける女性はガチで美しいです。燃えます。萌えます。つまるところ俺の性癖の原点(ry

 >>15様
 キャラを魅力的に書きたい、というのはもう永遠の命題ですね。いやもうほんと、皆様のそういったコメでどれだけ俺が救われたかをことばにできたら……っ!

 >>16様
 こちらこそ読んでいただきありがとうございました! 自分でもなにこれ読み辛え! と思っているのに、読んでいただいたうえにコメまでしてもらって……っ!

 >>17様
 淫魔なのに誠実という倒錯っぷりがエロを引き寄せ――なかったァッ! すみませんっ!

 >>18様
 いやもうなんかこちらこそありがとうございますと頭を下げる毎日です、ありがとうございましたっ!

 >>19様
 キャラの成長や変化はどうしても書きたいもののひとつです、作者側からだと表現しきれているかどうかわからないのですが。いやもうほんと、皆様のコメひとつひとつにありがとうございましたと書いても全然足りないですっ……!

 >>J.frog様
 さすが紅魔館だ、鬱っぽいテーマで書いてみたけどなんともないぜ! と安心して書くことができました。紅魔館だけでなく、幻想郷だとバッドエンドだけはどうしても思いつきません。なんだか片っ端からぶちのめして越えてくイメージしか(ry




 (2/9 追記)


 >>vividred様
 こちらこそ読んでいただき、コメントしていただき、ありがとうございました!
 ただひたすら俺得を追求したような紅魔館、どころか幻想郷ですが、なにかしら共感していただけたものがありましたら、作者としてもこのうえない幸福ですっ……!

 (5/18 追記)

 >>22様
 き、綺麗でしょうか……? 淫魔を書いたはずなのになんでッ、どうしてッ(ry
 その台詞は本当はこの作品そのものがメイフラだったものの名残です、脊髄反射で書いたら妹様が窓ガラスどっかんしてしまったので大幅変更になってしまいました。うまい具合に伏線っぽくなって非常に俺得っ

 (9/4 追記)

 >>23様
 文章すべてが伏線です。嘘です。妄想の没ネタをいろいろ投入しているので、あとから伏線っぽくなったりならなかったり(ry
 さすがに執筆当時に美鈴がものほんの竜になるとは思いもしませんでしたが(汗

 (10/31 追記)

 >>24様
 書いてた当時は色々といっぱいいっぱいだったはずなんですが、いま思うとなんだかいちばんスパッと纏められたような気がします。私自身が紅魔勢に引き摺られてたようなっ
 二年近く前……うへぇ。読み返していただきありがとうございました!
夜麻産
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
いやー!!
まさか続編が読めるとは思ってませんでしたよ!!

なんだか色々と深く考えさせてくれる話でした。
小悪魔すてきすぎるw
2.名前が無い程度の能力削除
こんな小悪魔見たこと無ぇ! こんなパチュこあ見たこと無ぇ!
氏のネチョはエロくないしちんこ勃たない、でも全く薄いとは感じない、むしろ深くて重い
それはソコに至るまでの圧倒的な描写でどっぷり感情移入させられちゃってる証拠なんだろうか
3.ニバンボシ削除
感動した

読み初めはサイト間違えたと思ったが最後は納得してた

ようするにお幸せに~
4.名前が無い程度の能力削除
FREAK ON A LEASHと合わせて、とても面白かったです。
紅魔館最高。
5.名前が無い程度の能力削除
二人とも本の虫ゆえの頭でっかち感が非常にらしくて、生きていると思いました。
初々しい性交の描写で心が滾りました。二人の寝室はいい匂いがしそうです。
私の好きなレミ咲前提というのが無くっても、貴方の書く紅魔館の、全員が魅力的で好きです。
この紅魔館を舞台にした作品をたくさん読みたい、と読み手としてこっそり希望をださせていただきます!
6.名前が無い程度の能力削除
うおおおお!!!!!夜麻産さんの名前が見えただけで、自分テンション天井破りでした。
あなたの書くような世界があるから、夜伽を覗くのをやめられないのです。
酸いも甘いも味わいまくったような女たちがもがき、苦しみ、かっこわるくても愛する人を求める様、腹の底の底に響きます。
いつもいつも心から惚れさせられてしまってるんですよコンチクショー!!!
7.名前が無い程度の能力削除
続編がまさかの、至高のパチュこあで大満足です。そしていろんな意味で妹様最強。
ありがとうございました。
8.名前が無い程度の能力削除
深い…
名作だ。ありがとう
9.名前が無い程度の能力削除
素晴らしい……。
こんな小悪魔初めてです。
続きが読めて嬉しかったです。
お嬢様と咲夜さん、何所で何やってるんだろ。
10.名前が無い程度の能力削除
えちぃ
11.名前が無い程度の能力削除
フランちゃんかわいいよウフフ
「別のばかからの受け売り」ってのが妙にひっかかるようなそうでもないような、誰だろう
12.名前が無い程度の能力削除
淫魔として生きられない小悪魔はいつか消えてしまうのだろうか、だとしたらなんてこった、パッチェさんもお嬢様も同じじゃないか
遠からず訪れる別離を知っていながらそれでも愛さずにはいられない似たもの同士達、愚かなようでとっても素敵だ
この四人はこれから死ぬまで安っぽいファックとは無縁なんだろうな
13.名前が無い程度の能力削除
葛藤する小悪魔も苦悩するパチュリーもすばらしい
だが当主代行様が少しずつ成長しているように見えて嬉しくなって
しまった(すみません
館すら破壊したいという衝動は籠から飛び立ちたい願望なのか?
窓ガラスを壊したのは恐れずに自分を貫けという暗示なのだろうか?
いろいろ考えさせられて楽しかったです。
14.名前が無い程度の能力削除
すごい、「こあのあがき方がうつくしい」と素直に思えました。

フランの窓ガラスどっかーんもとっても爽快で作品全体の力強さをけんいんしているようです。

素敵な作品ありがとうございました。
15.名前が無い程度の能力削除
フランの圧倒的な魅力にやられた。これがカリスマというものか。
フランだけじゃなくキャラの誰も彼もが魅力的に過ぎる。話に飲まれそうになった。
16.名前が無い程度の能力削除
すっごく惹きこまれました!! ありがとうございますm(__)m
17.名前が無い程度の能力削除
小悪魔の誠実な人柄に惚れました。研ぎ澄まされた愛のようなものを感じます。
18.名前が無い程度の能力削除
頭でっかちマッチ棒な二人の愛を堪能しました。いや、棒といっても、パチェの出るとこは出てい(ry
圧倒的な作品、ありがとうございました。
19.名前が無い程度の能力削除
心底ネガティブだった二人が変化していく様が、読んでいて気持ちよかったです。アリス&美鈴と小町の問いかけに対する答えが被るシーンで、不覚にもほろりと来ました、素晴らしかったです。
20.J.frog削除
「魂が欲しいんだったら先に丸ごと寄越しなさい。自分を食わせる覚悟がなければ相手を食おうだなんて考えないで」
を筆頭に実に心に響く名言の数々。
テーマとしては結構陰鬱になりそうなもののはずなのに、読み終わった後はむしろ爽やかな気分になることができました。
全く、紅魔館の面子はどいつもこいつも化け物揃いだったよ(いい意味で)
21.vividred削除
上手い言葉での感想が思いつきませんが・・・・・さ・さ・さ最高みゃーー!!
なんだろう、透明な窓ガラスは全て叩き割りたいと思うけど実際とても怖いんですよね、突っ込むのも傷つくのも。
けど傷つかないようにって掛けられる言葉を中指たてて否定するのも憧れます。
笑顔って威嚇の表情って話を聞いたことがありますが、
あれは「傷つけれるもんならやってみろ!!私は怖くないぞ!!!」
って覚悟の現れなんですかね。
俺もそうありたいと思いました、
パチェが問いかけたように。
「なにもかもを乗り越えられたら。障害物なんてみんな破壊して。・・・」
静謐感あふれる言葉と、激情を伴った内容、
対比が素晴らしかったです。
俺の理想の紅魔館、ここに見つけたり!!って感じです。
雑多な感想を並べただけになってしまいましたが、
とても楽しませてもらいました。
よい作品をあざぁーーーーした!!!
22.名前が無い程度の能力削除
あーもう綺麗なんですよね何もかもが
>美鈴は微笑んだ。「それでも私はいなくなりませんって、フランお嬢様」「ん、知ってる」
たまりませんて、この会話
23.名前が無い程度の能力削除
もう何度読んだか数しれないけれど、その度に違った衝撃をくらうのです。
そして、りゅうせいぐん を読んでからさらに深まるこの話!

別のばかの伏線とか、こんなにひいてあったのかと気付いてまた頭をバットで叩き割られた気分になりました。
すげえ、という言葉しか出てこないのです……
24.名前が無い程度の能力削除
自分の好きなCPとは全然関係ないのに、この話は何度も何度も読みにきてしまいます。
夜麻産さんの話はどれも大好きですが、読み返した回数はこのお話が一番多い気がします。
今日もまた読み返しにきてしまいました...やっぱりスゴい好きです...
初めて読んだのは投下された直後だったので、もう2年近く前になってしまうんですね

これ読んでる時に感じる、拗ねた雰囲気の小悪魔がたまりません
そして不器用ながらずっと小悪魔を大切に思っているパチュリーと、その周りの皆と。
本当にこんな作品を読ませて頂いて、ありがとうございます!うおおお好きだあああ