※注意
勇儀×こいし
盛大に捏造・盛大に独自解釈・流血・ネチョまでめっさ遠い・ネチョ薄
椛がほぼオリキャラ
椛の口が悪い
椛に品がない
なんと言うか椛注意
総じて東方二次創作注意、原作準拠じゃなきゃ許さねえ! という方はすごく注意してください
いろいろとしんどいのでスルーしたほうがいい、かも
……とても長いです
※注意終了
それは少し昔の話。
犬走椛は千里の先を見ていた。ふたりの少女がそこにいた。一方は妖怪で、一方は人間だった。ふたりは初めはひどくぎこちないやりとりしかできなかったが、ときが彼女らの素直な好意が報われるのを助けた。人間は幼く、自らの感情をことばでなくがむしゃらに抱きつくことで示そうとしていた。妖怪はためらいがちに人間の髪をすいた。壊れかけたガラスの彫像を扱うように、注意深く。それがふたりの関係だった。
妖怪はふたつの目の他にひとつの目を持っていた。その目はその意思にかかわらず隠されたもの全てを暴きたてる光明だった。椛にはそのことがわかった、そのことが示すところの意味も、そのことがもたらす苦難の道も。彼女自身、同じような目を持っていたから。その目であらゆるものを見てきたから。他でもないその目で彼女たちを見ていたから。
ときの流れが妖怪と人間を近づけたように、ときの流れが彼女たちを引き離した。妖怪は見ることの苦痛から見るための目を閉じ、ただひとりの肉親に連れられて闇のなかへ逃れた。別れのことばはなかった。それは突然の別離だった。ふたりがいつも会っていた丘の上、人間はひとり妖怪を待ち続けた。妖怪がやってくることは二度となかった。
一年が経ち、二年が経った。三年が経ち、そこで人間は待つことを諦めた。人間は丘を降りた。そうして丘に背を向け、拙い足取りでどこかへ歩いていった。
あとには闇だけが残され、椛の目からふたりが消えた。
古明地こいしは第三の目に手を当てた。瞼は完全には閉じていなかった。針のように細く、その下の眼球が覗いていた。いまや心を完全に読み切ることはできなくなっていたが、窓から隙間風が吹き込むように、ほんのわずかに対象の意志が伝わってくるのだった。
今の私はなに? こいしは自分に問いかける。心を読むこともその力を全否定することも同じように怖れ、なにも抜本的な解決には至らないこの中途半端な状態で停止してしまっている。覚妖怪ですらなく、覚妖怪ではない存在ですらない。
顔の前面についたふたつの目を閉じ、橋の欄干にもたれる。そのとき、この場所を仕事場にしている水橋パルスィの声がする。「あれ、なに? 川の上からなにか流れてくる」
こいしは顔を上げる。パルスィの示す方向を見つめる。ふたつの目は頭陀袋のような薄汚い塊を捉えただけだったが、残されたひとつの目がその意志を捉えた。
こいしは息を呑んだ。それがなにかわかった瞬間に川に身を投げていた。パルスィがうろたえる声が見え、聴こえた。
「ちょっと、こいし――!」
水の流れのなかでこいしは手を伸ばした。あまりにも小さな感触が全身にぶち当たり、それでもその衝撃に肺が潰れ、流れに身を押し潰されそうになった。水が口のなかにまとわりつき、目の前が赤くなった。鼻に抜ける感覚が呼吸を奪った。
パルスィの手が岸から伸ばされ、こいしを捕まえる。
「この……っ!」
歯を食い縛り、力任せにそのからだを引き上げた。こいしは小さなものを胸に抱いていた。それは人間だった。顔を傾け、目を閉じ、唇を青白く染めていた。
パルスィはこの年端もいかぬような少女が地底への入り口を見つけ出したことに驚愕しながらも、速やかに活を入れ、蘇生法を施した。水に流されたことよりも、地底の障気が少女のからだから力を奪っていた。パルスィは唇を噛んだ。この娘は助かるだろう……けれども閉ざされた地底を覗いてしまった少女が地上へ脱出することを、是非曲庁や地底のお偉方どもが許すだろうか?
こいしは全身から水を滴らせながら、自分のなかに渦巻く感情を持て余していた――私たちを取り巻く世界は、ときとしてどこまで非情になりうるというのだろう?
古明地こいしが弱りきった少女とともに地底から姿を消したのは、その翌日のことだった。星熊勇儀は慌てふためくパルスィからそのことを聴いた。これは内密にしておかなければならないことだとすぐに判断した。が、そうしたふたりを社会に忠実なふたつの目が陰から捉えていた。情報はすぐに社会に知れ渡った。
心を読む妖怪が地上へ出た――
それは不都合な者にとってはどこまでも不都合な事態だった。隠されたものの上に居座る者はどこにでもおり、隠されたものを暴く目はそうした者たちにとって天災のような脅威だった。すぐさま捜索部隊が派遣され、地上の妖怪たちにも協力が求められた。人間が地底への入り口を見つけ出したこと自体も異常なことだった。一部の者はこの事態を力尽くで解決することを選んだ。
犬走椛に命令が下されたのはすぐのことだった。
「地上へ逃げ出した覚妖怪と地底へ侵入した人間を発見し、処理せよ」
千里眼を持つ彼女ならばそれは容易なことかと思われた。そして確かに容易だった。が、彼らにはわかっていなかった。犬走椛は忠実とはかけ離れたところにいる女だった。そして彼女にはわかっていた。あらゆる事実が示すように、裏切りもまた、忠実の形の一面でしかないことを。
星熊勇儀は住み慣れた闇を抜け出し、地上へとやってきた。彼女には四天王として責任を果たすことが望まれていた。責任は果たす、と彼女は思う。が、それはあくまで私のやりかたで、だ。昔からずっとそうしてきたように、これからもずっとそうであるように、私の魂は永遠に私だけのものだ。
SEEN IT ALL
椛はこいしを見つけた。こいしは椛の心を見た。彼女の心は彼女の目と同じく星のように遠かった。その意味では彼女は裏表のない女だったが、どうしてそんな申し出をするのか、こいしには理解できなかった。心を読んでもわからないことは初めてだった。
それでも、今のこいしが切実に助けを必要としていたのも確かだった。「私は――」
が、椛はそこでこいしから目を逸らした。その視線はこいしにはわからない方角を見ていた。「答えは後で聴く。ここでじっとしていろ」
勇儀はこいしの痕跡を辿っていた。思った通り、弱りきった少女を連れてはそう早く遠くまで逃れられないようだった。足跡を消す術も拙かった。さとりの言った通り、こいしは街道沿いに東へ向かっているようだった。
それは捨てられて風雨に痛々しく削られた小屋だった。街道から外れた竹林の奥にあった。勇儀はそこにさとりに似たこいしの気配を感じ取った。その他の気配も。
扉の前に立っている白狼天狗を見つける。勇儀は軽く頭を傾げてみせる。「山から派遣された天狗だね。覚妖怪と人間はこちらで預かる。ご苦労だった。おまえは帰っていい」
椛はその声を聴く。が、従うつもりは毛頭なかった。無言で大刀を抜き、両手で構える。盾は足元に捨てた。相手が『力の勇儀』だとわかった以上、防御という選択肢はありえなかった。邪魔になるとしか思えなかった。
勇儀は目を細める。ふむ、さて、これはどういうことだ? こちらが鬼だと見て得物を構える天狗。なにか上からの特命でも受けているのか。だとするとこの者以外に誰かが来ている?……わけでもないのか?
私の目的が勘づかれている? それはありえる話だった。こいしの姉であるさとりと友人であることは周知の事実だ、が、それにしても……
「かなわなかったら」椛は小屋のなかに向かって呟く。「すまない。やれるところまでやる」言うや否や足が地を蹴る。
勇儀は拳を振るった。山の風のような颶風が竹林に吹き荒れた。椛はほとんど四つん這いになりながら死神の大鎌のような風の下を潜り抜けた。背中が削ぎ落とされるような感覚がすると同時に下段から大刀を振り上げた。白刃が揺れる竹の葉から漏れ落ちる陽光を反射し、ふたりの目にダイヤの指輪のような輝きを刻んだ。
大刀の攻撃はこれ以上ないほど鋭く、素早かった。が、それでも勇儀にしてみれば遅すぎた。なにかを考える間もなく拳を落とした。刀身が蜘蛛の巣のようにひび割れ、椛の手から落ちた。
次の瞬間には椛の牙が勇儀の首に食い込んでいた。「ふうん」勇儀は椛のうなじを鷲掴みにした。「大刀を囮に本命を急所に。悪くない。狙いは悪くない」そのまま腕を振るった。「だが良くもない」椛のからだが小屋の壁に叩きつけられた。
腰を落としながら椛は親指を下に向けた。「王手」
勇儀は火薬の匂いを嗅いだ。足元を見た。投げられる寸前に椛の尻尾から落ちた火薬袋に火がついていた。
河童製の爆弾が爆発した。なかから飛び出した無数の鉄片が四方に飛び散り、その中心部にいる勇儀の皮膚をずたずたに刻んだ。
こいしは小屋のなかで爆音を聴いた。反射的に床に伏せる友だちのからだに覆い被さり、いつ崩れてもおかしくない小屋の崩落から彼女を守ろうとした。
そこでようやく機能停止しかけている第三の目が外の者たちの意識を捉えた。薄く入り込んでくる意思を読み取るのは容易ではなかった。が、椛が敵対している相手の心が馴染みのあるものであることを知ると、猫のように素早く顔を上げた。「勇儀……?」
「おう、なんと」勇儀は腿に刺さったひときわ大きな鉄片を指でほじくりだした。その顔は笑っていた。「なんて卑劣なやつだ、白狼天狗」
椛は立ち上がった。内心舌打ちしていた。ろくに効きやしないだろうことはわかりきっていたが、貴重な駒のひとつを失ってしまった。
椛は背中に手を伸ばし短槍を抜いた。手首を返して鞘を落とした。柄の部分を長く改造した脇差に手をやり、いつでも抜き放てるようになっているか確認した。袴の下、足首に隠した短刀の重みを感じた。針は袂に入れてある。爪はきつく研いである。そこまで認識すると腰の手斧を抜いて投げ、最初の一手を打とうとした。
「待って!」小屋の扉が開かれ、こいしの声がなかから響いた。
椛の手が止まる。振りかぶられた手斧が中空で静止した。こいしの姿を認めた瞬間、勇儀は己から流れ出る血を忘れた。「こいし」
椛は勇儀の姿から緊張が解くのを見た。顔を転じ、こいしのふたつの目が語ることばを見た――彼女は敵じゃない。
それは彼女が仮に敵であっても構わないという意志まで含んだ目のことばだった。
椛は頷き、腕を下げた。
勇儀は小屋のなかに入る。室内の薄暗さに一瞬視界が閉じ、次第に回復する。人間の少女は部屋の隅で眠っていた。その寝息は穏やかとは百八十度反対の色を含んでいた。
三歩で少女の前に立ち、どっかと座り込んだ。少女の顔色を見、額に手を当て、その弱りようを判断する。思っていたよりも症状は軽い。年の頃は十一・二、痩せ細っているくせに尖った顔つきは意志の強さを感じさせた。
懐から薬を取り出す。病気を専門の能力とする黒谷ヤマメから預かったもので、効果は期待できる。口に含ませ、水を唇に当てた。
「飲め」鋭く言った。威圧し、思い通りにさせるように。
が、少女は朦朧とした意識のなかでそれを拒んだ。鬼の威嚇に本能的に抗った。首を振り、歯を噛んだ。唇の端から薬が零れた。
「……頼む。飲んでくれ」今度は優しく言った。「毒じゃない。おまえさんを助けるための薬だ。地底の障気を抜いて、からだの調子を整えるためのものだ。嘘じゃない」
勇儀は自ら先に薬を飲んでみせた。
「ほら。これでどうだ」が、すぐに表情が歪んだ。「む、む、くそ、なんて苦さだ。ヤマメめ。子供が飲む薬じゃないぞ、これは……」
少女はぼんやりと口を開けた。真っ赤な小さい舌が見えた。「いい子だ」勇儀は薬を放り込んだ。
「ぅええ……」
「うむ。よし。飲み込むんだ、がんばれ」
「言われ……なくてもっ……」
「いいぞ。もうひと袋いこう」
「きやがれ、ちっくしょう、あう、うええ」
「不味いか。不味いな。駄目なようか?」
「あと百袋はいけるわ……」
「よし。強い子だ」
少女はこれ以上ないほど顔をしかめた。が、意地を張り、その表情が勇儀に見えないように寝返りをうった。勇儀にはその長い髪の揺れる様が、喉の苦さを押し潰すのに全身全霊を使っているように見えた。
「さて」少女が落ち着くのを待ってから勇儀は言った。「苦しいところすまないが――」
「くるしくなんかない」
勇儀は苦笑した。「うむ。休んでいるところ悪いが、いくつか訊きたいことがある。いいかい?」
少女はまた寝返りをうち、勇儀を見上げた。「あんたはこいしのなに?」
それは自分のほうにこそ訊く権利があると無言のうちに主張している質問だった。勇儀は頷いた。
「彼女の姉と面識がある。友だちだ。こいしとはまだ友だちと言えるほどの付き合いはない。二・三回会ったことがあるというだけで、ろくに会話もしたことはない。だがこれから友だちになりたいと思っている。これでいいだろうか?」
「あたしはこいしの友だちよ」
「ふむ。なんと妬ましい」
少女は微笑んだ。「えへへ」
「娘。名前は?」
「ひとに名前を訊くときは自分からなのるんでしょ?」
「生意気な娘だね。星熊勇儀だ。よろしく」
少女は勇儀の頭を見た。「あんたは鬼なの?」
「見ての通りだよ……驚かないかい?」
「べっつにー」
「見慣れているのか? 私のような――」
「鬼ははじめて。でも妖怪はたくさん見てきたわ」
「むう」勇儀は腕を組み、前を睨んだ。目が針のように細められた。「おまえさんの名は?」
「鬼になのる名前などないわっ」
「どうやら今日は礼儀というやつを必死で思い出さねばならん日のようだね。大変申し訳ありませんが、名前を教えては頂けないでしょうか?」
「えへへ。そこまで言うなら教えたげる。ちこよ。ひなない地子」
「なるほどわかった、胸がちっこいから地子というわけだ」
「こ、この……ひとがしたでに出てればいい気になりおって……」
地子は上半身を起こした。勇儀は手を振った。「横になっていていいぞ」
地子は首を振った。断固とした意志がその目にあった。「横になったままお話するのはしつれーというやつだわ」
「ふふ。まあいい。で、地子はどうして地底に来たんだい?」
「地底?」
「うん? ああ、言い方を変えよう。こいしをどうやって見つけた? どうやってこいしのところまで……いや……こいしを探していたのか、そもそも?」
地子はむっと頬を膨らませた。思い出したことがひどく不愉快なことであるかのように。薄い毛布を手のひらで叩いた。それでも足りなかったのか、足をばたつかせて毛布を蹴った。
勇儀は毛布をかけ直してやった。「地子?」
「こいしはしつれーよ」
「失礼か?」
「あたし……あたしさ……っ、あたしたち、ずっと……」歯の隙間から押し出すような声だった。「友だちだって、思ってたのに……!」
「うむ」
「突然、なんにも言わずに! あたしずっとあの丘の上で待ってたのにさ! 急に……急に! いなくなっちゃって!」
そのあたりの事情はさとりに聞いて知っていた。「ああ――」
「ずるいじゃない、そんなの! まるであたしだけが友だちだって思ってたみたいじゃない! あたしがまぬけみたいじゃない! ぶじょくよ、ぶじょくってやつよ! すっごくむかついたわ、いっぱつぶってやんないと気が済まないくらい! だからずっと、こいしを探して……っ!」
「どうやってこいしを見つけたんだ?」
地子の表情が止まった。怒りが緩み、きょとんと勇儀を見上げた。「ふぇ? どうやって?」
地子は目を泳がせた。まるで答えが室内のどこかに転がってでもいるかのように。が、小屋のなかはただ薄暗く、直接当たらない陽光の破片が窓のあたりに漂っているだけだった。
「どうやって――?」
勇儀は黙って地子が考えをまとめるのを待った。
やがて地子は勇儀の顔に目を止めた。「知らない。なんとなく」
「あん?」
「なんかこいしがいそうなところに行ってみただけよ。そしたらこいしの背中が見えた、気がして。なんか夢中になっちゃって、よくわかんないうちに気持ち悪くなって、よくわかんないうちにここにいた」
勇儀はまた目を細めた。
「でもこいしが傍にいるってずっとわかってた。だからこれっぽっちも不安じゃなかった。友だちだもん! それにあたし、あんただって怖くないわ。鬼だろーがなんだろーがあたしを怖がらせるなんてどこの誰にもできやしないわ!」
「そうか……」
そこで地子はまた怒りを再燃させた。犬のように唸り、毛布を握り締めた。間接が白くなるまで力を篭めていた。幼いなりに真剣そのものの怒りだった。
「でもやっぱりこいしはしつれーだわ! あたしになんにも言わずに、三年も! あんたのおくすりのおかげで元気になったから、今度こそこいしをぶんなぐってやるわ!」
そんなに早く薬が効くわけがないので、地子の元気はどう考えても思い込みの為せる業だった。「うむ、こいしは失礼だね」
「そうよ! こいしはしつれい!」
「ああ、おまえさんの言う通りだ」
「こいしはしつれーっ!」
勇儀自身、だんだん怒りが湧いてきていた。「ああそうだその通りだ、こいしは失礼だ」
「あたしの友だちのことを悪く言うなあーっっ!!」
「む、すまなかった」
こいしが入ってきた。その目はひどく疲れていた。「なに……さっきから」
「こいしーっ!」地子が跳ね起きてこいしに抱きついた。こいしは不意を衝かれたように息を詰まらせた。
こいしは勇儀を見た。が、すぐに目を逸らした。地子を見下ろした。戸惑ったようにまた勇儀を見直した。
「会いたかったっ……、会いたかったんだから……っ!」
「ち、地子」
地子は泣き出した。「うぇぇえええ」
地子は泣き止むと眠ってしまった。恐ろしく疲れていたのだろう、泥のように深みに沈んでいく眠りだった。彼女をそっと横たえ、こいしは勇儀に向き直った。「ごめんなさい」
勇儀は腕を組んだ。「その子とも話したんだがね……おまえさんは失礼だ」
こいしの前まで歩き、じっと見下ろした。こいしが目を逸らすとこいしの横にからだを滑り込ませ、座った。
「どうして一言私に相談しなかったんだい?」こいしが目を上げるのを視界の端に捉えた。「さとりには?」こいしの目が泳ぎ始めた。「パルスィには? 地子を一緒に助けてくれたんだろう?」
「地底は忌み嫌われて遠ざけられた者たちの世界」こいしはぼそっと言った。勇儀が片眉を上げた。「隔離された結界」拳が握られ、開かれる。「そんな者たちの世界に分け入って……無事に帰したとして……その子を伝って地底の存在が明るみになったら――」
「われわれがその子を帰さない、と判断するとでも思ったのかい?」
「実際」こいしは自らの第三の目を掴む。「ここにくるまでもう何度も擦れ違った。私たちを探している者たちの心にあるのは……っ」
「社会というやつはときに個人の意志に反する判断を下すときがある」勇儀は首を振る。「いかれた神経の持ち主が上にいるときは、特に。だがね、それで下のほうまでまともな神経を持ち合わせているやつがいないとは限らない」拳を手のひらに打ちつける。「確かに私のところにきた命令の内容は、おまえさんらを『処理』することだったよ。だがそんなのは腐った木みたいなもんだ。四天王に命令なんぞできるやつはいない。処理なんてことばが当てはまるやつなんかはいない」拳を手のひらで包み、握り締める。「どうしてわれわれを信頼しなかった? そんなにわれわれは信用ならない女か? 第三の目を見開いてなければ誰も信じることはできないか?」
こいしは心底恥じ入ったように俯く。
「だがまあ」勇儀はこいしの前に屈み込み、彼女を見上げる。こいしはわずかに上体を反らす。「そんなことはどうでもいいんだ。私……と……おまえさん」表情はもう緩んでいる。自分の胸に手を当て、次いでこいしを指差す。「こうして無事、また会うことができた。私は嬉しい。
私はおまえさんを助ける。友人として、だ。地子を無事に家に帰してやろう。そうしたら私らも一緒に帰ろう」
勇儀が小屋の外に出たとき、椛は小川の傍にいた。魚が跳ねるような水音がした。椛が振り返るのを見て勇儀は言った。「で? おまえさんはなんなんだ?」
椛の表情にはなにも現れていなかった。少なくとも勇儀にはそう見えた。さっきまで持っていた山程の武器は影も形もなかった。腕をだらんと垂らし、勇儀の姿を眺めるように見ていた。
彼女の目の焦点がおかしな距離に合わせられていることに勇儀は気づいた。「千里眼持ち、か?」椛は頷いた。「ふうん。哨戒天狗としては最適な能力だね。いささか適しすぎているくらい」また頷いた。「私のことは知っているね。おまえの名は?」
「犬走椛」椛は頭を下げた。「無礼をお許しください。あなたが彼女らをどうするのか悪いほうに推測していた」
「それはお互い様だね。私はこいしの姉とは友人だ……こいしとそこまで親しいと言えるわけではないが、それでも今回のことは腹に据えかねている。おまえさんは? なにが目的だい?」
「幼馴染みが」椛は両手を合わせて揉むような仕草をした。「彼女は河童ですが」その目が背後の小川に向けられた。「地子と面識があります。地子のほうで覚えているかどうかは知りませんが。幼馴染みはまだ自分を彼女の盟友であると考えている」
勇儀はそのことばをどこまで信用できるかどうか考えようとする。椛の前まで行き、腕を組む。椛の体格はよく、背丈は六尺あったが、それでも勇儀は彼女を見下ろす形になった。
「私の目的は古明地こいしと同じです。地子を無事に帰してやりたい」
勇儀は彼女の目を見た。「ふうん」あまり自然な色合いの目に思えず、なんらかの術でもかけられているように感じた。「理由としては……不充分のように思える。鬼に刃向かう天狗なんぞ始めて見たからそう思うのかもしれんが」が、椛は勇儀から目を逸らさなかった。
「まだ理由が必要なら」と椛は言った。「覚妖怪と同じく私もかつて目を閉じようと考えたことがある。見なくていいものを見て地底へ逃れてしまいたいと考えたことがある。社会のはみだし者はどこにでもいる。有り余る怒りから同類に手を差し伸べてやりたいと気まぐれを起こすこともたまにある」右目の瞳孔が縮んだ。瞼を閉じ、指先で眼球を揉むようにした。「気に食わないのならここで私を追い払ってください。私は社会のためにせっせと働きますよ。それも気に食わないならいっそここで潰してしまえばいいでしょう」
「別に構わんが、それで仕事を棄てるか? もしことが発覚したとき、社会にもうおまえの居場所はないかもしれん。これにはなんの見返りもない。あのちっぽけな娘の未来以外には。性格としては遊びに近い」
「お遊びごとに命を懸けるなんてことはみんなしょっちゅうやってることです。周りを見渡せばそんな輩は山程いる」
「ふうん。その千里眼でおまえはなにを見てきた?」
「ひとの心以外は全て」椛のことばは揺るぎなかった。揺るぎないポーズや目線からも彼女の意志は余すところなく勇儀に伝わった。「信用を得るためにもう一度やり合うことが必要なら今度は素手で傷をつけあってもいい。あなたにとっては赤子の手を捻るようなことかもしれませんが」が、ことばとは裏腹に椛の目は私を止めることは誰にもできないと言っていた。
やりとりが無意味な刺々しさを持ち始めていた。勇儀としてはそれで充分だった。実際、千里眼が味方にあるのと敵にあるのとでは状況が違いすぎた。「わかった」
勇儀は小屋のほうを振り返った。
「いいね! こいし?」
こいしは扉の前からふたりを見ていた。彼女らの心は痛くなってくるほどに飾り立てがなかった。それは閉じかけた半端ものの第三の目からも伝わってきた。顔の前面についたなんの変鉄もないふたつの目からもそれが見えた。
こいしは頷いた。そうしてまた思った。私は地子を……あの罪のない少女を……私のような女を友だちと言ってくれた唯一の地上の人間を、なんとしても家に帰してやりたい。なにを犠牲にしても。
地子は椛の顔を見上げるとぽかんと口を開けた。「じんめん犬だ」
椛はそのことばについて一点だけ間違いを正した。「私は狼だ」
地子は注意深い猫のように椛の周りを回った。椛は背筋を伸ばして岩の上に正座していた。その目は竹林を抜けて遥か彼方の上空に向けられており、射し込む木漏れ日が一片のガラスのような光をそのからだに当てていた。
地子は椛の尻尾に触れた。椛はさっと尻尾を上げてその手をかわした。地子は飛び上がり、どうにかして白というより銀色に近いその毛に触ろうとした。椛は無言のまま尻尾をぱたぱたさせて地子をいなした。地子は着地に失敗してバランスを崩し、したたかに岩に鼻の頭をぶつけた。
そんなふたりを遠目に見ながら、勇儀はこいしに言った。「東だね」
「うん」
「江戸か」
「今は東京って言うのよ」
「あん? それは知らなかったな。たしかに『穢土』よりはずっといい。まあとにかくそこまで行けばいいわけだ」勇儀は小屋の壁をとんとんと指で弾いた。「地子の顔を見られてはならない。どこの誰だか覚られないままこっそり帰してやらないと、彼女だけじゃなく彼女の家族にまで被害が及ぶ可能性がある」
こいしは頷いた。「今のところはパルスィ以外には見られてない。それにあなたと椛。お姉ちゃん」
地子はだらだらと鼻血を垂らしながら顔を上げた。涙ぐんだ目に怒りが現れていた。地子は悲しみよりも怒りのほうが先行する女だった。感情に任せて、地子は椛の背中を蹴った。
「空は飛べないね。空は天狗の領域だ。私だけだったら全ての天狗を敵に回しても別に構わないが、さすがにちっちゃな女の子を守りながら東京まで飛ぶことはできない」
「できることなら」こいしは俯いた。「あなたも椛も顔を見られないのが一番いい。何事もなく終えられれば何事もなく終息する。全部元通りになって、めでたしめでたし。でしょ?」
勇儀はそのことばに答えるのを避けた。希望的観測がそのままうまくいった試しなどなかった。それは経験上わかっていた。が、それでもこいしの言う通りだと思うのもたしかだった。
「地上か。このまま街道沿いを行くのが一番だね。われわれがどこへ向かっているのか、是非曲庁の連中も地上の天狗どもも知らないわけだし」
「うん。地底への入り口から離れれば離れるだけ探索の目は散漫になる」
椛の反応は何度蹴られても土くれに埋もれた岩石そのものだった。地子は飽きた。が、なんとしてでも尻尾に触ってやるという闘志はこれっぽっちも減衰していなかった。釣り餌のように垂れている尻尾の先端に闇雲に手を伸ばした。それは霞を掴むようなものだった。鼻血がぽたぽたと垂れていた。
勇儀は彼女らを見て思わず微笑んでいた。「幸いにもわれわれにはとびっきりの目がある。それも二対」こいしの背中を手のひらで叩いた。「一方はなにを考えてるんだかわからんが、おまえさんのほうは頼りにしてるよ、こいし」
遠慮のない衝撃にこいしは息を詰まらせた。咎めるように彼女を見上げた。が、それは雲に文句を言うようなものだった。すぐにそのことがわかった。
地子は深呼吸し、目を細めた。椛の尻尾だけを視界にいれた。見上げると流れ出る鼻血が口のなかに入ってきたが、それを気にすることさえ忘れていた。ふわふわしていた意識が真っ直ぐになった。それは一度は経験していたことだった。闇のなか、必死にこいしを探していた頃の無我夢中さ。その気持ちを呼び戻すことは地子にとっては容易なことだった。
「ひとつ訊きたいことがあったんだが」と勇儀は言った。声の調子が変わっていた。「完全には閉じなかったんだね、その目……」
こいしは俯いた。暗い傷を覗き込む内省モードに入っていた。「閉じる途中で、怖くなった」
「怖く? 覚の能力を失うことが?」
「先が見えた。完全に閉じたあとの……なにか……片鱗のようなものに触ることができた。警告のような感じだった。実際、そうだったのかもしれない」そのことがまざまざと思い返されたかのように、第三の目を鷲掴みにした。「臆病者だから、私は。臆病風に吹かされた。認めることも否定することも中途半端になって、途中でどうしようもなくなった」
「先?」勇儀はこいしを見下ろした。話したいことがあるように見えた。控え目な動作でこいしの話を促した。
「自分の存在を全否定したあとに待っているのは……死ぬことだけだと思ってた。それでもいいと思ってた。でも私の……この場合は違ってた。半分閉じたところでそれがわかった。
目を閉じれば見えなくなる。それは当たり前のこと。そしてそこには闇がある。闇……そうとしか言えない。踏み込まずにそれ以上見ることはできなかったから」
地子は再び手を伸ばした。その動きは緩慢でさえあった。なにも念じず、なにも想わない。周りの空気さえ揺るがない。
椛は尻尾を持ち上げた。地子の手をかわした感触があった。「む?」が、次の瞬間には握られていた。それは椛の予測していないことだった。
地子の声が聴こえた。「やったー――っ! すげえー――っ! 超もふもふ!」
が、尻尾には地子の体重を抱えきれるほどの力は篭もっていなかった。尻尾が落ちた。地子はまた着地を失敗し、後頭部を岩にしたたかにぶつけた。
「ぅおおおおお」
地子は頭の後ろに手を回し、椛の尻尾の上で悶絶した。
椛は虚空を見つめて言った。「なにも見えない。ただ空気があるだけだ」
「それじゃ、行こう」
こいしは頷くと勇儀と地子に合図した。四人は竹林を出た。深い水の匂いがする青空に薄く雲が棚引いていた。どこまでも穏やかな梅雨の晴れ空だった。
四人の不具合はすぐに表面にでてきた。一番最初に気づいたのは地子だった。くすくすと微笑み、その心の動きをこいしが読み取った。
「なんとも間抜けなことに、私たちは私たちの姿がまるで見えてなかったんだわ」こいしは指先で第三の目を弄びながら言った。「旅装が要る。それもうまく全身が隠れてくれるような。だって私たちはこのままじゃどう見ても……私たちにしか見えないもの」
勇儀は椛を見た。「犬走。その耳と尻尾はどうにかならないのかい?」
「角がどうしようもないのと同じようにどうしようもありません」
椛はひとつの集落を街道の先に見つけた。どこにでもある道のどこにでもある街。見る限りそういった印象以外にはなにも残されていないような土地だった。
「面倒は避けたい」勇儀は言った。
「私が行く」とこいし。「外套さえあれば私は人間にしか見えないもの。あなたたちふたりはそうはいかない。それに私だったら仮に追っ手がいてもそのことに気づける」
「だが――」
「椛があなたと一緒に外から見ていてくれれば緊急事態にも対応できる」
「だが――」
「私の背丈ならそう目立つこともない。少しちっちゃすぎるかもしれないけど、六尺を越えるあなたたちよりは全然マシ」
「だがおまえさんはその目がそのまま負担になる。あれだけの人間の数、狼の群れのなかに羊をやるわけにはいかないだろう。そのなかで倒れでもしたらどうする?」
「私は確かにそのことに一度は屈した女だけど」こいしは首を振った。「それでも旅には準備がいる」
地子がこいしの手を握る。こいしははっとして地子を見下ろす。地子は勇儀を見ていた。手に力が篭もっていた。
「あたしも一緒にいく」地子の声は真剣そのものだった。責任を感じていることが簡単に透けて見えた。「あたしがこいしを守る。友だちだもん」
こいしは言い聞かせるように言う。「地子はここで待ってて」
「待て」勇儀は腕を組んで考える仕草をした。「いや……子連れのほうが怪しまれないかもしれん。親子というより姉妹だが。それに少なくとも互いにフォローし合えることはあるかも……」
「勇儀。これは地子を守るための旅なのよ」
椛は周囲に注意を払いながら口を挟む。「あそこには地子が顔を見られて困るような者はいない」
「決まりだね」
「勇儀……!」
勇儀は首を振って議論を打ち切る。「地子を見な。この子の顔を見な。こういう目をした女を止める術はどこにもない。力尽くでとどめておいてもいいが、それはこの子の魂を殺すよ。守るために殺すわけにはいかないだろうが」
こいしと地子が行く。椛はその後ろ姿を見ている。椛は彼女らから目を離さずに言う。「よろしいのですか」
「守るべきものが傍にあるほうが強くなれる者がいる。こいしの姉がそういうタイプの女だった。目をしっかり見開いたまま妹を守り、地底までやってきた」さとりを思い出し、勇儀は微笑んだ。「姉の血を引いているなら、こいしも地子が傍にいたほうが目を開けていられるだろう。弟にしろ妹にしろ息子にしろ娘にしろ、そういうものを持った女は多かれ少なかれ確実に強くなると相場が決まっている」
確かにそういうこともあると思い、椛は頷く。
「話しておきたいことがある」
「なにか」
「まずは――」勇儀は椛を見る。「話を蒸し返すようで悪いがね……」ほとんど睨みつけるようなものになっている。「私はやはり、会ったばかりの女を信用することはできないわけだ。おまえが見せたあの威勢の良さも途中で減衰するかもしれん。やっぱりやめておけばよかった、方向を転じて社会から離れるべきではなかった……そう思うときがくるかもしれん。で、だ。そういうときは黙って去ればそれで良し、だが仮に……手っ取り早い手柄を求めてこいしを傷つけるようなことがあれば」そこでことばを区切り、束の間の沈黙を引き摺る。「言わなくてもわかるだろうが」
椛はふたりから目を離し、勇儀を見る。ギャンブラーのような無表情だけがあった。
「そのおことばはそのままお返しいたします」
「ほう?」勇儀は笑みを浮かべそうになる表情を殺そうとした。「鬼にそんなことを言う天狗がいるとはね。動機が理解できん」
「あなたが納得するまで夜通しで語っても構いませんが」椛はほとんど微動だにしない。「言の葉なんぞは所詮は他人の創作物です。そんなものでなにを表現しても仕方がない。ひとの顔に刻まれた古傷のような苦悩の痕のほうがより多くのことを語ってくれる。その者がなにをし、なにを感じ、なにを望んだか。それらは言の葉に比べてひどくわかりづらい。わかりづらいものは圧殺される定めにある。だから誰もわかろうともしない。見すらしない」
「おまえは彼女らの顔にそれを見ると?」
「そうでなければ千里眼なぞ石の目玉ほどにも意味がない」
「ふん。それも所詮は言の葉だね」
「まったくもってその通りです」
勇儀は頷く。「確認しておきたかっただけだ。あの娘らに関する限り、おまえは安全地帯にいないということを」
「マイ・アス・オン・ザ・ファイアリングライン」
「なに?」
「われわれ下っ端天狗のスローガンです。先輩の烏天狗の受け売りですが。いつだって頭ごなしな上司への憎しみを篭めて。忘れるなよ、『最前線に置かれてるのは私のケツだ』」
「ふん」勇儀は鼻で笑い、表情を緩める。「不良天狗だね、そいつは。おまえさんのことは気に入れそうだ。裏切ってくれるなよ」
椛は目線を戻す。こいしと地子は手を繋いで進んでいる。すでに何人かの人間と擦れ違っている。異変は見当たらない、少なくとも今は。
「地子のことだが」勇儀は本題に入る。「あの娘、どうやって地底まで来たか訊いたら、どう答えたと思う? 『なんとなく』だとさ」
「それは?」
「異常に勘がいいんだろう。いや、そっち方面に並外れた才能があるというか。私の角を見ても驚いた素振りは見せなかった」
「私の尻尾に興味深々でした。怖れる様子がまるでない」
「こちら側に近い人間ということだろう。そういう者は稀にいる」
「見鬼?」
「だろうね。平安の都あたりにはよくいたよ。世が世なら将来は巫女か尼か。いい星の下に生まれていれば、天女にでもなるかもしれんな」勇儀は肩を落とす。「覚妖怪に、千里眼に、見鬼、か。『視る』能力に長けた者たちの集団というわけだ。やれやれ、私だけが仲間外れだ」
「あなたはその目でなにを見ます?」
「……そうだね。これからそのことを考えていくとするか」
勇儀は椛の見ている方角に目をやる。彼女にはなにも見えない。地平線まで続く道があるだけだ。
「あの娘の目を閉ざすようなことだけは避けたい。なんといっても友のために地底までやってくるようなガッツのある少女だからね。おまえにも頼む。この短い旅で私らにできることは少ないだろうが、地子の魂が良くないものに向かわないよう導いてやってくれ……と言っても妙な影響を与えたりはするなよ、不良天狗」
こいしは地子の手を引き、街のなかに入る。雑踏のもたらす顔のない足音の群れが鈍器のように彼女を圧倒する。雨の染み込んだ未舗装道路から熱気が白く立ち昇っている。ささくれだったひとの心の集合体が一息に彼女の世界となる。
深呼吸をひとつ……ふたつ……三つめで後ろから突き飛ばされる。ただ背中と肩が触れ合っただけ。が、咄嗟に吐かれた悪態の心模様がこいしの心中を侵す。
覚妖怪の苦痛。が、それは決して激しすぎるものでも、耐え切れないものでもない。実際、何十年かはこうして過ごしてこれたのだ。姉とともに。最終的には飽和したにしろ。崩壊の象徴にひれ伏し、一度は自分を放棄したとはいえ。
ここに姉はいない。今ではこいし自身が姉の役割を演じなければならなくなっている。地子の手を握る力を強める。「行こう」
必要なものを絶対に忘れず、必要のないものは絶対に持たないのが旅路の原則だ。ほとんどは身ひとつでなんとかなる。食糧の類いは自給できる。とにかく今は旅装をなんとかしなければならない。
握られた手から伝わる不穏な震えに、地子が声をかける。「こいし、だいじょうぶ?」
こいしは頷く。「平気」
「ごめん」
「え?」
「迷惑かける気なんてなかったよ、ほんと。こいしが……あんな遠くに住んでるなんて思わなかったし、それに……悪いことだったんでしょ? こうして、自分ひとりで帰れなくなるなんて考えもしなかった」
こいしは首を振る。「そういうことは考えなくていいから」
「会いたかった」地子はなおも言う。「あたしって、あんまり友だちいないから。みんなにはなんか、変なものを見るって気味悪がられるし、お父さんは自分のことばっかで相手してくれないし。だから……こいしがいなくなって、どうしたらいいのかわかんなかった。友だちがいなくなるなんて初めてだったから」
「私も」胸のなかで罪悪感が音を立てる。「友だちは地子が初めてだった」心臓が軋む。「お姉ちゃんはいたけど、それだけ。どうしていいかわかんなかったのは私もおんなじだよ。ごめん、地子。急にいなくなっちゃって。正直に言えば」息が荒れる。第三の目がつくる心の白い視界がざわつく。「正直に自分を曝して……嫌われるのが、怖かった」
幼い少女でいられる時間。人間は妖怪と違ってすぐに成長する。自分を取り囲むものを認識し、周りと照らし合わせて自分を形作る。
地子が覚妖怪を――剥き出しの心を嫌悪する日がいつ来るのか? 彼女には見えない時間の流れがもたらす友情のデッド・リミット。最初から底辺でないぶん衝撃は色濃い。世界は常にわれわれを持ち上げてから、落とす。最悪の形で最悪のものを提示する。
あの幸福な日々。幸福であるがために深く傷ついてきた。地子がいない間続く、心を覗き込む黒い時間。姉の背中に隠れ、自分たちを咎め、正そうとする社会の正義から逃れようとしていたとき。
地子が方向を転じ、社会に属するようになったとき、私はどこにいる? どこに隠れていればいい?
恐怖は既にそこに刻まれている。逃れようのない苦悩。地子はこいしの顔を見、それをほとんど本能的に読み取る。「だいじょうぶよ」
「……っ」
「あたしもたぶん、ずっとはみだし者だから。誰かを嫌いになれって誰かに言われたって、きっとそうならない」地子の心には迷いがない。それが見える。「あたし、誰かにむかついたらぶん殴るよ。だからあんたも、あたしにむかついたらぶん殴ってよ。あたしいくら殴られたっていいよ、そのぶんだけお返しするから。うまく言えないけど……だから、だいじょうぶ」もう一度呟くように言う。「だいじょうぶ」
こいしは深く息をつく。大丈夫、と自分に囁く。大丈夫。少なくとも地子を無事に送り届けるまでは――
周りが見え始める。多少なりとも心に余裕ができたためか。顔のない群れに顔が与えられ始める。第三の目のキャパシティに空白が生まれる。こいし自身、予測しなかった変化。が、そこで不意に気がつく。
「――地子?」
「え?」
地子の手を引き、大通りから逸れる。ちょっとした空き地の捨てられた木材に地子を座らせる。「靴、脱いで」
地子の目が泳ぐ。
「脱いで」
長くためらい、やがて地子が折れる。
靴下のさらに裏側。かかとの部分、皮膚が破けてピンク色の穴が開いている。重度の靴擦れ。両足とも均等に深く傷ついている。
考えてみれば当然だ。地底がこの世の境界を縫って存在するとはいえ、地上からの距離は日々変動するとはいえ、こんな小さな足で歩き続けていれば……
「地子――!」
「べ、別にこれくらいなんでもないわよ!」
どうして見えなかった? 見えずとも気づいてやれなかった? もはや歩くのも辛そうな、見ているだけで痛々しくなってくるような傷。私のこの目は節穴だったのか? 散々見なくていいものを見せておいて、こんな近くにあったなによりも見なくてはならないものを――!
だが、こいしをなにより打ちのめしたのはその傷の深さではなかった。第三の目の不良具合ではなかった。自分以上に誰かの助けを必要としているはずのこの小さな娘が、娘自身のことなど放っておいて、自分に――忌み嫌われた覚妖怪に必要なことばを必死にかけようとしていたという事実だった。
椛が勇儀に言う。「帰ってきました」
勇儀は訪れ始めた夜のなかでこいしを見た。両手に戦利品を携えており、それが彼女の肩をがっくりと落としていた。が、その表情には断固とした意志が現れていた。勇儀ほどの鬼でさえ一瞬たじろいでしまうような激しいものだった。
地子はこいしに背負われていた。その顔には意地の張り合いで敗北した者の、悔しさと恥ずかしさで真っ赤に染まった膨れっ面が現れていた。
地子は自分で歩くと主張したものの、こいしの凄まじい剣幕に圧され、一刻の言い争いののち、遂には屈してしまったのだった。
勇儀はこいしに駆け寄った。「苦労をかけたね。重かっただろう」
「重くない」こいしは鼻息荒く言った。「全っ然重くないもん、こんなの」
こいしの買い込んだ旅装で、さながら巡礼者の家族といった外見のパーティができあがる。不自然さは隠しようがないが、角や尻尾が出ているよりは目立たない。
こいしは椛が旅装の腋のあたりに穴を開けているのを見る。肩と袖が外れ、その下の素肌が外気に曝される。
「……なにしてるの、それ?」
「ジンクスだ」椛は答える。「腋を出した女は砲火のなかを潜り抜けても決して落ちない。どんな境界にも縛られずどこまでも自由でありつづける。どこの誰が言い出したかは知らないが」
椛は外傷に効く薬草を探し、地子の靴と素肌のあいだに仕込んでやる。「しばらくは染みてしまうだろうが」地子は顔を真っ赤にして歯を食い縛り、耐えている。「二三日もすれば皮が厚くなって楽になる」
三日が経つ。地子はもうバッタのように飛び跳ね、隙さえあれば誰彼構わず体当たりする人間砲弾に成り果てている。勇儀も椛もこいしも等しくその洗礼を受ける、が、ダメージを受けるのはこいしばかりで、他のふたりは根の張った大樹のようにびくともしない。こいしは生まれ持ったからだの不公平さを思い、拗ねる。
夕食時。近くに川があると、椛はその岸まで行く。
「にとり。いるか?」
答えはない。代わりに食べられる魚の類いがばしゃばしゃと岸に放られ、こっそり見に来ていた地子が草むらの陰で驚く。
「すごい! 魔法だ!」
椛は魚を集めながら言う。「友だちだ」
勇儀は焼き魚を頬張り、椛に言う。「河童はともには来ないのか?」
「彼女は極度の恥ずかしがりやなので」
「ああ、それがいい……こんなことに関わるやつはできるだけ少ないほうがいい」
「でたらめの情報を流して撹乱してくれています」
「やめさせろ。あとで発覚したときどう身を守るつもりだい?」
椛は首を振る。焚き火のオレンジ色がその姿を淡く照らし、半身を闇に埋もれさせている。「まともな神経を持った女がしているまともなことを止めることばは持ち合わせていません」
「……勝手にしな」勇儀は溜息をつく。「今度友だちに会ったら伝えてくれ。『ありがとう』と」
地子は椛の尻尾にくるまる。旅が始まってから、そこが彼女のお気に入りの夜の寝床だ。椛は背筋を伸ばして座り、焚き火に背を向け、闇の底を見つめている。
「椛。寝てていいよ」とこいしは言う。「見張りは私がやってる」
椛がなにか言う前に、こいしは焚き火の贈る光の射程から外れ、その場から姿を消す。
勇儀は椛を見る。「だ、そうだよ。犬走」
「しかし」
「こいしは辺りに注意を払う。私は彼女に注意を払うよ。それでどうだい?」勇儀はそう言って立ち上がる。
椛はいっとき沈黙し、やがて答える。「わかりました」
椛は座ったまま目を閉じる。ふたりぶんの寝息が闇に溶け出す。
勇儀はこいしのところまで行く。こいしは林のなか、そこだけぽっかり木々の開けた場所の中央、大ガマかなにかのように見える岩の上に座っている。月明かりが蒼くその辺りを照らし、水底のような静けさが落ちている。
こいしは頭を反らし、夜空を見ている。白く細い喉が剥き出しになっている。わずかな光さえ捉えて輝く銀色の短い髪のせいで、彼女の首は、なおさら小枝のように脆く見える。
第三の目も同じ方向を見つめている。夜空の心でも読もうとしているかのように、その薄く開けられた瞳でじっと凝視している。
「こいし」と、彼女は呼びかける。
こいしは振り向く。その動きは人形のようにぎこちない。最初に勇儀のほうを向いた目に引き摺られたような印象がある。「勇儀」
こいしは目線を戻す。三つの瞳に星の小さな煌めきが宿る。
「……また月が見られるなんて思わなかった」
「そうだね」勇儀はそこまで行く。「隣、座っていいかい?」
首を落とすようにしてこいしは頷く。
「お姉ちゃんにもう一度見せてあげたい。きれいな景色を見るのが大好きだったから。なんでもないときも、気がつくと上を見上げてるような感じだったよ。この世で一番美しいものがこの空だって思ってて、疑う心がかけらもなかった。きっと空には心がないからだろうね。お燐やお空にも見せたいな……地底から出たことなんてないだろうし」
勇儀は座る。ほんのかすかに漂う陽炎のような匂いを嗅ぐ。「ああ」
「そういう機会がまたくると思う?」
「どうなんだろうね」
夜の湿った空気のなか、虫の声が聴こえる。こいしは勇儀の心がふわりと動いたのを見る。気がつくと肩に毛布がかけられている。「……ありがと」
「犬走みたいな尻尾があればいろいろと便利なんだけどね。冷える夜にも自分で温められる」
「似合わないわ」
「あん? そうかい? 耳はどうだ」
「そういうのはお姉ちゃんのほうがしっくりくると思う」
勇儀は想像する。「……はは、まったくその通りだね」
「ついてきてくれてありがとう」こいしは不意に言う。「私ひとりじゃ、弱った地子を連れて途方に暮れてただけだった」
「帰ったらヤマメにもそう言ってやってくれ。ついでにとんでもなく苦い薬を選んだことに文句つけといて」
「帰ったら――」声がわずかに硬直する。「私、どうなるかなあ」
「どうにもならんよ。妙なことはなんにもしてないんだから。まともな神経の女がまともなことをやって、それを咎めるような法はこの世にはない」
「そうであることを祈るわ。でも私がしたことで、お姉ちゃんが今……責められてなければいいんだけど」
「燐や空が守ってくれるさ」
「……そっか」
ふたりは並んで座り、同じ火に当たっているかのように小さく身を屈めている。口を噤むと、規則正しい息づかいだけがその場に残る。こいしは見えてくる心の穏やかさに誘われ、追われている身であることをいっとき忘れる。
勇儀にしろ、地子にしろ、椛にしろ、彼女らの心は彼女の心に影を落とさない。裏表のない居心地の良さ。波のような起伏は彼女を圧倒せず、ただ背中を押す。
ふたりはしばらくそうしている。小さく距離を置いたまま、ことばのない夜の時間を共有し続ける。
椛は顔をしかめている。右目を手のひらで抑え、左目は街道の先に連なる山脈の緑を見つめている。八ヶ岳の裾を通る街道には不穏な気配を漂わせた数人の天狗が行き来している。
京の都から東へ進むにはそこを越えなければならない。警備の者も彼女らがそこを通るかどうか確信を持っているわけではないのだろう、その顔に現れているのは常よりは多少警戒する……程度の緊張だ。
「大丈夫かい?」勇儀が椛の表情を見て言う。
「乱視気味なんです」椛は目線を山から外さずに答える。「利き目が右なので能力に差があります。こいしのように第三の目と能力が分割されてるわけではないので。からだの調子がいい日は特に疲れる。調子が悪いほうが気分がいい」椛は左手で山を示す。「麓を突っ切るのは無理だと思います」
「山か」
こいしが峠のひとつを指差す。「あそこが一番意識が薄い」
「麦草峠だね。うろ覚えだが池があったはず。天狗が寄るかもしれないからそこだけは避けよう」勇儀は腕を組む。「どのみち大人数じゃ目立っちまう。分散して向こうで合流しよう。私が地子と行く。ふたりは先行して山を越えて、お互い見つけ合って待っててくれ。私らが越えたのを見てから迎えに来てくれればいい」
椛が振り向く。「私が地子とともに行ったほうが」
「見くびってくれるな。おまえさんらほどじゃないが、私も視力は両目とも2.0はある」勇儀は微笑む。「地子を背負っては私が一番はやい。それにこのあたりには昔来たことがあるから、土地勘も多少はある。諏訪の神の気配は昔と違って薄くなってしまったが、山はそうは変わらんだろう」
こいしは鉈を振るう。目の前を遮るシラビソの枝が落ちる。藪のなかを漕ぐようにして進む。足元から頭の上まで枝葉の折れるばちばちという音に囲まれている。
弾力のある丈夫な高山植物に遮られ、一歩突き進むのすらままならない。極力頭のなかを空にすることにつとめ、無言のまま鉈を振るい続ける。
方向感覚を失うと、第三の目に意識を集中させ、どこかにいるはずの椛の思考を探す。他の天狗と違い、椛の心には常に自分たちの姿がある。
こいし。聴こえるか。私はここだ。私の見ている光景が見えるか? おまえはそこにいる。あそこに向かっている。
椛の心を通して千里眼の景色を見る。椛の心は鏡のように自分の姿を映している。現在地と進行方向の把握。このあいだ、こいしは自分が千里眼を持ったような錯覚にさえ陥る。
広い。あまりにも遠い。距離も障害物もなんの意味もなさない。第三の目の視野を遥かに凌駕している。そのなかのひとつひとつの物質、事柄が明白に掴める。勇儀と地子の姿まで気味の悪いほどはっきりしている。見られていると気づいていない天狗たちの、恐ろしくなってくるような姿まで。
それだけではない。山を越えて人里の様子まで見える。そのさらに向こう側にある無数の人家まで。彼らのちょっとした仕草、コミュニケーションまで。
「……っ」
千里眼。頭が膨れ上がるような感覚がする。
「……ぇ、あ、わ、わっ」
真っ昼間から行われる夫婦の睦事まで見えてきて、こいしは第三の目から意識を逸らした。
「変なもの見せないでよっ、椛!」
こいしの様子を見たのか、椛の心に謝罪の意識が浮かんだ。
一日跨ぎ、椛はもうそこにいた。「こいし。ここだ」
こいしの姿。足場の悪い道なき道を突き進んできたせいで、旅装はもうぼろぼろになり、厚い布地が破れてその下に隠してある第三の目とそのコードがところどころから見えてしまっている。椛も似たようなもので、尻尾はもう剥き出しだった。
こいしは鉈を掴んだままその場に座る。「疲れた」
椛は引き続き目を山のなかに向ける。勇儀と地子。天狗に察知されそうな気配はない、今のところ。
こいしはその場で無言で鉈を振るう。そこにあった木の根に打ち込まれる。根は太く、一撃では斬れない。こいしはもう一度鉈を振るう。打ち込まれた場所は数寸ずれ、傷の双子が空に向かう目のようにできあがる。
漂うガスのなか。視野は狭くホワイトアウトしているが、彼女たちには関係がない。
「休んでるといい。こいし」こいしは鉈をもう一度振るう。「負担をかけた。私の目でものを見せて」
「それがなければここまで来れなかったかもしれないわ。ありがと」
そこで一度沈黙が落ちる。
こいしはさらに鉈を振るう。木の根が折れる。そうして出し抜けに言う。「目だけでものを話したのは久し振りだった」
椛は瞳だけを動かしてこいしを見やる。彼女は座った姿勢のまま深く俯き、自分の断った木の根を見つめている。
「ことばの行き来がない状態で話すこと。ことばに出さなくても相手に通じる会話。お姉ちゃんとはよくやってたんだけど。思考だけ……心だけ……第三の目がしっかり開いて、ものを考える頭がしっかりしてれば、そういうのは難しくない」
「そうか」
「懐かしい感じがした。あなたの目で自分の姿が見えて、そうした反応まで透けて見えて。鏡と話してるような感じ」
椛は頷く。「私にとっては新鮮な感覚だった」
「そういうことがお姉ちゃん以外と……覚妖怪以外と……できるなんて考えもしなかったよ」
「ちゃんとした目さえあるならそういうことは難しくない。私はおまえの表情からことばを見ていただけだ」
「目を」こいしは再び鉈を振るい始める。「閉じたいと思ったことはある?」
椛はこいしを見下ろす。秒のあいだ、沈黙と心の鞘に収められたデリケートな記憶が複雑な紋様を描く。ことばに篭められた響きが不意打ちのように変質する。振られた鉈が指揮棒のように空気だけを引き裂く。
椛は辛辣な事実だけを口にする。「ある」
「自分ばかりがどうしてこんな理不尽な自由を押しつけられたんだって思ったことは?」
「ある」
「こうした能力に相応しい……図々しい強さを持ってるやつらに、この能力をまるごと押しつけたいって思ったことは?」
「ある」
「誰もがみんな私と同じ能力を持って、同じ苦痛を感じていたら、私を遠ざけたやつらなんかみんなきっと黙りこくってる、って思ったことは?」
「ある」
鉈が止まる。「……能力のせいで、忌み嫌われたことは?」
「ある」
こいしは歯を食い縛る。自らの喉の奥からトラウマが亡霊のように飛び出してくるのを必死で押し止めているかのように。そうした記憶がまざまざとよみがえり、こいしは束の間、誰かが死ねばいいと思う。ひとの運命を司る神が実在するなら、そいつが責任を取って死んでしまえばいい、と。
「今もそうだが昔はいろいろ言われた。隠されているものの全てを暴きたてるわけだから。ありったけの皮肉と悪意を篭めて『隙間からの目』だの『天使の目』だの呼ばれたことがある」
「『隙間の目』は私も言われた。隙間ってなんだろうね、なんか、そういう妖怪でもいるのかな? それ以外には……『悪魔の目』とも。それであなたはどうしたの? そいつらに……怒りを……感じたことはある?」
「『天使』と『怒り』はまるで関連のないことばのように見える。けれど英語じゃ一文字違いだ。ついでに言えば『悪魔』を逆読みすると『生きる』になる。要はそういうことだ。だからなんだという話だが。結局はどいつもこいつもみんな同じだ」
こいしは不意に自分のなかのなにかが和らいだのを感じる。「みんな同じ……ね」
第三の目の視界が椛を捉える。無表情な穏やかさ。トラウマを抉り返される氾濫のなかにいる自分と違い、彼女の心は自然に凪いでいるように見える。今だけでなく、この旅が始まってからずっと。
「すごく穏やか……そんなあなたでも怒りを感じるようなことがあるの? それに引き摺られて、望まない場所まで突っ切ってしまうようなことが」
「女は理屈じゃ動かない。女はいつも感情で動く」
「……うん、そっか。そうだよね。心穏やかではいられないよね」
「私は自分の怒りに感謝している」椛はひどく聞き取りづらい声で言う。「そのお陰で誇りを捨てずに済んだ。諦めや自暴自棄の投げやりさに囚われずに。世界からの攻撃に対する世界への怒り。私を押し潰そうとする全てに向かう私の内側からの抗力。言ってみればそれだ」
「怒りは私の内側を醜く変えてしまったわ。私は私自身の心だけは読めないけど、どうなってるかくらいはなんとなくわかる。穏やかさなんてかけらもない、この心がお姉ちゃんに読まれたらって思うと……ますます……」
「怒りと穏やかさは反発しない。なにに向けるか。なにを守るか。そこさえ間違えなければ怒りは正しい燃料になってくれる。然るべき手に握られた一本のマッチがひとを温めもすれば焼き殺しもするように」
椛はこいしの前に座る。視線を絡めるようにする。束の間、岩よりも固い沈黙がふたりの姿を鋳型に嵌めたように硬直させる。
「私たちの能力は……いや……ひとの目とはそういうものだ。なにを見るか。どういう風に見るか。われわれを温めもすれば焼き殺しもする」椛はそこで頭を下げる。「こんなことを言うのは私とおまえがひどく似ているからだろうな。おまえと向き合うのは私にとって鏡と刃を合わせるようなものだ。それに謝りたいこともある」
「……知ってる」こいしは言う。
「ことばにさせてくれ」椛は重く首を振る。「星熊様には黙っていたが、私はおまえたちを知るまえからおまえたちを見ていた。この千里眼で。丘の上で出会ったふたりの少女を。少女たちの行方も。見ていておまえたちが別れるのを黙って傍観していたんだ」
「うん」
「正直なところ」椛は頭を下げたまま続ける。「当然の結果だと思ってたんだ。どちらから別れを切り出すにしろ別れは避けられないものだと。私自身おまえと同じような能力を持っているから。人間と妖怪のあいだの友情など紛い物だと思っていた。だがなぜか終わりまで目を離すことができなかった。待ち続ける地子から目を離すことができなかった」
「……うん」
「そして遂に地子が消えた……だが次に見たとき、地子はおまえを探し当てていた」
椛のことばには鉛のような重さがある。こいしは目の前が滲んでくるのをじっと見つめる。
「勝手におまえに自分の姿を重ね合わせていた。すまない。友のために世界の果てまでなにも持たずに突き進んでいける背中など滅多にあるものじゃない。だが少しはある。おまえたちふたりの姿はそれを私に見せてくれた。
それを……信じてみたいと思った。おまえたちの傍に来てみたくなった。そしてこのことをやり遂げることができれば、私はこの記憶だけを頼りにして、兵士のように何千里も歩いていけるのではないかと、そう……思っている。そんな心は気の迷いから来る幻想かもしれない。だがもしかしたら私もあの子のように……遠い友情だけを頼りに地底まで行き着いた、あの子のように――」
案の定、地子はただ背負われるのを拒絶した。「こんな山くらい、自分で歩いて越えられるわよ!」
が、すでに勇儀は地子のからだを持ち上げて、肩車の体勢をつくっていた。跳ぶようにごろごろした岩の上を駆け抜け、北から南へ隆起した稜線の間近まできていた。
「うん、まあ、できなくもないだろうさ」と勇儀は言う。「この旅が観光旅行かなにかだったら、おまえさんが歩きたくないって泣き喚いても自分の足で歩かせるところなんだが」
「泣かない!」
「例えばなしだ、噛みつくなって。おまえさんもわかってるだろ、こいつはそんな楽しい旅じゃない。
南を見てみな……右手側だ」
地子は言われた通りにした。が、両手は勇儀の角を掴んでぐりぐり責め立てていた。緑の山脈ばかりのなかで目を凝らした。
「ふたつ、並んで盛り上がってる山があるだろう。天狗岳だ。東側が東天狗で西側が西天狗。おまえさんに見えるか? その辺りで旋回してる影があるだろう。それが私らを探してる連中だ」
見えた。森林限界を越えた剥き出しの岩の頂上と、一見カラスにしか思えない黒い影。それらのもたらす不穏な気配まで見え、感じられた。
「あいつらに見つかるわけにゃいかない。稜線上は特に目立つ……のろのろしてるわけにはいかないんだ、なあ地子、ここは聞き分けてくれ」
地子は頷きたくなかった。道を譲りたくなかった。が、最後には黙ったまま勇儀の角にしがみついた。
「いい子だ」
「いい子なんかじゃない」
「そう言うな。……うむ、文句があるんだったら強くなることだよ。子供だからな、おまえさんは弱い。この山を越えるのだって、自分の足じゃままならないくらい。見ろ。ただでさえきつい傾斜なのに、足元が岩だらけだろう。ここはその辺の里山とは違う。兎みたいにぴょんぴょん飛び跳ねることができなけりゃ、先に進むのだって大変だ」
「うー……」
「強い者に頼らざるをえないのは、弱い者の宿命だよ。それがいやなら強くなるしかない。もしおまえさんがこの旅を終えることができれば、そうなるためにあと五十年か六十年くらいの時間は得ることができるだろうよ」
勇儀が歩みを進めるたびに、地子のからだが揺れる。からだが揺れるたびに心も揺れる。視界が狭い。シラビソの林に囲まれ、地子の目には暗い緑しか見えない。
「……あたしがこいしに会いに行ったのって、そんなに悪いことだったの?」地子は唇を噛む。「あたしは会いたかっただけなのに。会って、お話したかっただけなのに。昔は毎日会ってたのに、なんで今はこんなことになってるの?」
「目が良すぎるというのも考えものだ。見なくていいものまで余すところなく見えちまう」勇儀は淡々と言う。「見られたというだけでなにもかもご破算になっちまうような連中が、社会にはごろごろいる。そういうやつらで社会が構成され、形成されると、それを維持するためにますます見られてはならないモノが増えていく。おまえさんが見ちまった地底の世界もそのひとつだ。
で、仕舞いにゃ見られないために見られてはならないもので全てが埋まる。見られないことに躍起になる連中ばかりになる。今の社会がこの段階だ。こいしのような者にとってはやりきれない世の中だよ。そこにいるってだけで全てを崩す導火線になりうるっていうんだから……」
「社会ってなんなの? あたしたちのことじゃないの? いったい誰のことを言ってるの?」
「それはこの世の誰ひとりとして納得できる答えを出すことのできない問いだね」
稜線上を越える。不意に視界が開け、今までは見えなかった世界の半分が見えるようになる。山の向こうの人里が――そのさらに向こうのさらなる山が――虚空に晒された青空の地平線が現れる。上天の黒から蒼を経て、地平線の白に至るまでのグラデーションが地子の目に余すところなく映る。
「こういう景色を見れるってだけで」勇儀は独り言のように呟く。「パルスィじゃなくたって、地上の連中が妬ましく思える」
山の清かな風が辺りを撫ぜ、勇儀の金の髪をなめらかな絹のように流す。地子は頭を反らし、空に浮かぶ海のように巨大な雲を見やる。
勇儀のことばが地子にこの旅の本質を思い出させる。たまたまもたらされた借り物の時間。見るもの、聞くもの、感じるものの生々しい美しさにかかわらず、これが終わってしまったら、自分たちはもう二度と会うこともない――
悪いことだと思いつつ、地子はできる限り、この時間が長く続くよう祈ってしまう。
ごめんなさい……こんなに楽しいんだもの、あたしはもっと、みんなと一緒にいたいよ。
椛の目がふたりを捉える。こいしの目がふたりの心を捉える。彼女らは立ち上がり、山の森を抜けて姿を現す勇儀と地子のもとへ行く。
四人は再会する。
こいしは勇儀の腕に触れる。柔らかな肉の下に岩石のように堅固な厚みを感じる。そのさらに下を流れる血脈の強い拍動も。
こいしは思わず言っている。「おかえり」
「ただいま……って言うのはなんかおかしくないかい?」地子を肩から下ろし、勇儀は微笑む。
椛は上空を睨む。「勘づかれている」
「ああ。薄い結界でも張ってあったんだろう。やつらの領域に立ち入って都合よくなにも気づかれないなんて、思っちゃいないさ」
「でも、あいつらの心にはそんなはっきりした確信もないわ。わかったとしても、せいぜいなんとなく……通りすぎた者がいる、ってことくらい」
「行こう」
「ああ」勇儀は地子を見下ろす。「こっから先は自分で歩いてもらうよ。大丈夫だね?」
地子は挑むように勇儀を見上げる。「とーぜんよ。あんたがむりやりあたしを背負おうとしなけりゃ、何千里だって自分の足で歩いてけるわ」
ほとんど目の塞がったような老婆が経営している安宿。湧き出る温泉を不器用に引き込み、そのために薄暗い廊下からはかすかに湯の腐ったような匂いがする。椛は壁にもたれて窓の外を眺めるこいしに言う。「食糧を調達してくる」
地子が跳ね起きる。狭苦しい部屋に早くも飽き飽きしている。「あたしも行く!」
「こいしは?」
「この辺りに私たちを警戒してるような妖怪はいないよ」こいしはそう言って首を振る。「ごめん。ちょっと休ませて」
「謝るな。この旅が始まってからおまえはもう充分すぎるほど働いている。休んだほうがいい」地子に向かって――「行こう」
ふたりは部屋を出ていく。
窓の外は今にも雨が降りそうな黒い雲で覆われている。こいしは眠気と闘い、第三の目の視界にある心の全てを注視している。少しでも怪しい心があれば……こちらを千里眼で見ているだろうから、出ていった椛に合図して……
そこで椛の心が動く。大丈夫だ。この辺りは私が見ている。おまえは少し眠るといい。
こいしは唇を動かす。いいから。お願い、やらせて。
椛の読唇術がそんな彼女のことばを読み取る。若干呆れている心が見える。心配している心も。注意が地子に向く。地子は目をきらきらさせて市場の雑踏のなかを駆け抜けていく。
勇儀は川岸にいる。白く削られた石の上に座り、地図を広げている。行程の半分は消化した。今のところ問題はないが、しかし……
「星熊さま」
呼びかけられ、顔を上げる。水面を割って青い髪が揺れている。波紋が重なり、その下から大きな目が覗く。
「河城にとりと申します。初めまして」
「ああ、犬走の――」
「はい。これまで挨拶もせずに申し訳ありません。その、えっと……はず、恥ずかしかったもの、ですから……」
にとりが川のなかで立ち上がる。ぽたぽたと全身から水滴が垂れ落ち、膝下までの水面に幾重も波紋を起こす。
「椛のことで、お話ししたいことがあります」
勇儀は頷く。それは彼女自身、関心がある。「聴かせてくれ」
「どこからお話ししましょうか――」
にとりは俯き、すぐに顔を上げる。
椛と私は同じ山で生まれ育ちました。彼女のほうが数年早く生まれ、早熟だったぶん、私はいつも妹のように彼女の後をついてまわっていました。私は山や谷を駆け回るのが好きでしたが、椛はその千里眼のせいかもともとそういう気質だったせいか、一ヶ所に留まって将棋を差すのを好みました。
彼女の「目」が最初に問題になったのは、当時その山を支配していた高位の天狗さまの不正を、彼女が「見」てしまったときです。どんな不正だったのか、私のような一妖怪には公にされませんでした。ただその天狗さまはそのせいで失脚し、弾劾の末、名も聞いたことのない遠い地方へ流されてしまいました。
その後釜に収まった天狗さまは公明正大で知られる方でしたが、椛にはそうは見えなかったようです。彼女は随分と悩んでいました。天狗さまが裏でなにをしているにしろ、それで山が何事もなく平和に治められているのは確かでしたから。
結局、椛は見てしまったものをなにも言い出しませんでした。けれども今度はそれが問題になってしまいました。その天狗さまも、すぐ、別の天狗さまによって不正を暴かれ、失脚してしまったのです。
見えていたのになぜ言わなかったのか。一代前の天狗の不正は暴いておきながら、今度は見て見ぬ振りをしたのか。椛にとっては針の筵だったのでしょう。その頃からだんだん口数も少なくなっていき、なにを考えているのか読めない表情をするようになりました。
見透かされることは恐ろしいことです。その後に山を受け継いだ天狗さまたちは、みな短期間で失脚するか、自ら退陣するかしました。椛がそこにいるだけで、周りの全てがうまく回らなくなる、そう陰口されることさえ、彼女には見えていたことでした。
ひとり、常に椛をかばう立場にいた鴉天狗さまがいらっしゃったのですが、今は現世にはいないのです。その鴉天狗さまも敵の多い方で……なんといいますか……歯に衣着せぬずばずばした言い方を好む方だったので……椛以上に社会にとっては厄介者だったんです。今は「幻想郷」なる里のなかに住んでいるらしいのですが、強力な結界によって行き来もままならぬところで……
椛は全てを見てきました。そしてそのことで、ひたすら内に篭もるようにして悩み続けてきました。見ることの苦痛を、ずっと誰にも語らずに、ぶつけずに、自分の胸の内だけに納めてきたのです。だからこそ今回のことで、心を「見る」覚妖怪へ下されたものに、我慢ならなくなったのでしょう。
私には……椛や……覚妖怪の苦痛を理解できるなんて口が裂けても言うことはできませんが、それでも……
「悲劇」
勇儀はぽつりと言った。
にとりは頭を下げ、再び身を川底へ沈め始める。「星熊さま。椛を……盟友を……覚妖怪の彼女を、よろしくお願いいたします。見えるというだけで、弁明もできずに社会から弾き出されるなんて、あんまりなことじゃないですか……」
椛は地子を見ている。地子は市場の外れ、鎖に繋がれ座り込む白い犬を見ている。犬の前には何人もの子供たちが群がっており、犬と目線を合わせるように膝を曲げている。
子供のひとりが地子に言う。「おい、よそ者。見てろよ、いいか?」
「なによ」
子供が犬に向かって言う。
「お手」
犬はそうする。
「おかわり」
犬は反対側の手を掲げる。
「誰にだってやるんだぜ、こいつ。おまえもやってみろよ」
「ほ、ほんとに?」
「散歩させてやろうと思って鎖はずしても全然動かないのに、それだけはするんだ。情けをかけてやるぜみたいな態度で気に食わないけどな」
地子はおずおずと犬の前に行く。
「……お手」
犬はそうする。地子は自分の手に置かれた細い感触に驚愕する。「なん……だと……」
「一ヶ月も前からずっといるんだ。飼い主を待ってんだろうな。でもその飼い主がどこの誰だかわかんねえんだ。おれたちはこうして餌だけやってるけど、それだっていつまで続くんだか」
「捨てられたの?」
「知らね。鎖なんざ引き千切ってどこへでも行けばいいのにな。主人を探すにしたって、野に帰るにしたって。まあでもこのまま待ってるのも自由だよな。おれたちにはこいつをどうすることもできねえよ」
「そっかあ」
「でもよ、もしこいつの主人が帰ってきたら、みんなでそいつのことタコ殴りにしてやろうぜって決めてんだ。無責任に鎖なんかに繋いで放置しやがって。おれたちもうみんなこいつのこと好きだからよ」そこで子供は歯の隙間から息を吐き出し、荒々しく腕を曲げてみせる。「おれたちがそうするのだって自由だよな。それでどんな結果になるにしたってさ。誰にも止めることなんかできねえよ」
「そのときはあたしも混ぜてよ」
「おまえみたいなひょろっこい女が喧嘩なんてできるかよ」
「ふふん。あんたたちなんかより絶対つよい自信あるもん」
「言ったなこの野郎」
「やるかー――っ!」
「きやがれよそ者ー――っ!」
こいしは荒々しく手足を振るう子供たちの心を見ている。地子対その他すべてという構図。けれども彼らは喧嘩っ早い町外れの悪ガキとして、手加減と引き際を正しくわきまえている。よそ者を受け入れるための儀式としての殴り合い。こいしや椛の目から見れば、心穏やかになれる子供たちのじゃれあいにすぎない。
地子はきーきー言いながら相手の頭に噛みつき、離さない。見ている限り、その姿はもう町の悪ガキたちとまるっきり見分けがつかない。
こいしは息をつく……この旅で初めて呼吸をした感じさえする。
安堵に伴い、緩くなった心の隙間から溜め込められた疲労が滲み出てくる。ぐらりと視界が傾く。誰に対しても絶対的に公平な深い眠気に襲われ、こいしは首を落とし、慌てて目を擦る。
が、やがて眠りへのいざないに耐え切れなくなる。やがて、壁に全体重をかけたまま、こいしは眠り始める。
椛はこいしが眠るのを見届けると、地子に視線を戻す。喧嘩は痛み分けで終わる。地子の姿が一番ぼろぼろになっているとはいえ、彼らの結末は正しい形でまとまる。
げらげらと下品に笑いながら、地子は友だちに手を振る。「じゃあね!」
子供のひとりは犬の手を取り、ぶんぶんと無理矢理振るってみせる。犬はそっぽを向いている。「あばよ!」
勇儀は部屋に戻る。こいしが座ったまま眠っており、どこまでも穏やかな寝息を立てている。薄っぺらい毛布を取り出し、彼女にかけてやる。
眠っているこいしの姿には、一度は自分の存在を全否定しようとした悲劇の面影などかけらもなく、ただもうどこびでもいるような少女の印象しか残っていない。青みがかった銀色の髪が、開け放たれた窓から入り込む緩い風に揺れ、その下の瞼をくすぐるたびに、ぴくりとその奥の眼が反応する。薄く開かれた唇から覗く小さな白い歯。地底の妖怪特有の、白すぎるほど白い頬――
そこで椛と地子が帰ってくる。勇儀は引き剥がすようにしてこいしから目線を離し、立てた人差し指を唇に当てて見せる。
地子はきょとんとする。が、すぐに頷く。「……お風呂入ってくる」椛に――「行こ?」
荷物を置き、地子は椛の手を引いて部屋を出ていく。
勇儀はこいしを見つめながら、椛に関するにとりのことばを思い返している。良すぎる目を生まれながらに持ったがゆえの苦痛。それはそのまま、さとりとこいしの姉妹の物語に当てはまる。
例えば――勇儀は考える――自分の霊魂がなにかの拍子に彼女らのなかに入り込み、その内側から彼女らの目を通して世界を見つめたとしたら、世界は私になにを示してくれるというのだろう?
私は私のままでいられるだろうか。
地子は椛の手を引き、脱衣所に入る。誰もいない。貸し切りと見紛うほどの静けさ。上機嫌になりながら服を脱ぐ。
一糸まとわぬ姿になり、椛に振り返る。彼女は上半身だけ裸になっている。そこで地子の顔がひきつる。
「西瓜だ……」
こいしは闇を見ている。その先に自分を見ている。剥き出しの心がつくるざらついた世界の記憶。音もなく、扉が開かれる。
指差されている。
心の全てが彼女の世界を突き崩す矛先になる。精神がかつての自分に先祖返りを起こす。
ようやく気がつく。
私は今、私を産み、私を破壊した大地を旅しているんだ……
「お姉ちゃん……」
こいしの唇が小さく動く。勇儀は顔を上げる。
こいしの表情。眠りがもたらす穏やかさが切れたように、禁断症状のような歪みに取りつかれている。頬がひきつり、髪と同じ銀色をした睫毛が痙攣している。
不安に駆られ、勇儀は呼びかけた。「こいし?」
返事はなかった。息が荒くなっていた。夢という曇った鏡を通して、滅びかけた記憶の残骸に締めつけられているような顔をしていた。
勇儀は手を伸ばす。「こいし。おい。大丈夫か?」
「こいし?」
椛は温泉の白い湯気のなかに入り、そこで彼女を見た。首を掲げる。その方向にすぐこいしがいるかのように。
地子は椛を見上げた。彼女の目は地平線上の花を見ているかのように遠かった。が、鏡の虚像を見つけるのように、地子はそこに友だちを見つけた。
「椛? こいしがどうかしたの?」
椛の返事はなかった。突然彫像と化してしまったようにじっと動かなかった。
「椛?……」足の早い苛立ちに駆られ、地子は椛の脛を蹴った。「椛! こら、答えろ! こいしがどうしたっていうのよ!」
こいしは蜘蛛の巣にかかったように首を振った。「お姉ちゃん……!」
毛布が落ちた。窓から差し込む西陽が彼女の顔に直接当たっており、勇儀は目を細めた。
こいしは顔を歪めた。唇が薄く開かれ、白い歯がかすかに覗いた。狂熱的な美しささえ湛える表情だった。切羽詰まった者の、後戻りできない場所にある苦悩のきわ。状況にかかわらず、勇儀はこいしに一瞬見惚れた。引き摺られた。が、すぐに我に還った。閃光のような刹那の感覚は、そうであるがために勇儀の胸に重い記憶を遺した。
こいしの喉が異常に収縮している。
勇儀はこいしの頬に触れる。「こいし!?」
こいしは明らかに助けを求めていた。勇儀は彼女の顔を覗き込んだ。瞼越しに目を合わそうとした。
――眠りが妙に深い!?
勇儀は手のひらに力を篭めた。こいしの顔からは手応えがなかった。うわごとさえ発しているのに、戻ってくる気配がまるでなかった。
――なんだ、これは!?
「お姉ちゃん」
声音に哀しみが割り込んだ。
勇儀は自分の手に汗が滲むのを感じた。思考が揺れた。「なんだってんだい、くそ! どうなってる!?」
椛は目を凝らした。耳鳴りがするほど集中しだした。耳の毛が逆立ち、尻尾が膨らんだ。視界の全てを無視する。こいしの姿だけを見つめる。
「椛っ!」
地子の叫び声さえ届いていなかった。掠め取るように到来した異常事態に全霊を向けていた。地子にもそれがすぐにわかった。
が、地子にできることはなかった。なにもできなかった。遠いこいしにも、すぐそばにいる椛にも、なにもしてやれることがなかった。
「……――っ!」
地子は自分の無力さに怒りを感じた。こいしに置き去りにされたと感じたときよりも強い、これまでにないほど激しい怒りだった。もはや憎しみに近かった。
地子は手を合わせた。そうして目を瞑り、烈火のように祈った……かみさまかみさまかみさま……どうかこいしを助けてください、助けてあげてください……こいしを助けて……助けてくれなかったらその偉ぶったツラに小便ぶっかけてやる、役立たずの張りぼて野郎!
どうする、と勇儀は自分に問うた。どうする!?
「こいし!」
耳元で呼びかけた。鼓膜が破れかねないほど大きく。安宿の木組みが軋み、不吉な震動がふたりの世界を揺さぶった。
肩に手を当て、揺すった。あまりにも小さすぎる手応えに勇儀は顔をしかめた。さとりよりもさらに一回り小さく、細い。地子とほとんど変わらない……鬼である自分が触れればそれだけで砕けてしまいそうなほどの儚さ。
そうまでしてもこいしは目覚めなかった。眠りにとらわれ続けていた。「くそ!」
「目だ」椛は不意に唸った。「第三の目を見ろ。星熊勇儀!」
なにかにからだを乗っ取られるような感覚が駆け抜け、勇儀は目を落とした。全身に震えが走った。得体の知れない情動がからだの真芯を貫いた。何者かの目を通してこいしを見つけたような感覚だった。
第三の目。常は針のように細められている瞼が、見開かれていた。その奥の瞳が黒く染まりかけていた。今にも閉じられかけているかのように。
「こいし――」不意にその名が頭のなかで消えかけた。「――!?」
触れているはずの皮膚が靄のように感じられた。聴こえているはずのうわごとが霞のように感じられた。見えているはずのこいしのからだが雨のように捉え難く感じられた。
『闇』と、こいしは言ったのだった。『そうとしか言えない。踏み込まずにそれ以上見ることはできなかったから』
「冗談じゃないよ!」勇儀は叫び、第三の目を鷲掴みにした。「引き摺り戻してやる。還ってくるんだ! こいし!」
「お姉ちゃん……」
勇儀は吼えた。「私の心を見ろ! 覗け! さとりはここにいるだろう、見えるだろう!? 見るんだ! 見ろ!」
『こいしを、お願いします』と、さとりは旅立つ勇儀に言ったのだった。『あの子は剥き出しだから。世界に対して防壁を張ることもなければ、斜に構えることもない。みんな真正面からあますところなく受けて、そのことを必要以上に深く考えようとする』そこまで言うと、さとりは俯いた。『誠実さはときに誰よりも巧みに自分自身を傷つける』
「大丈夫だ」勇儀はことばを己の腕に託した。「おまえは大丈夫だ、こいし。おまえはそんなやわなもんじゃないだろう! 傷のひとつやふたつでひとは壊れやしない。心はそう何度もは砕けない。おまえがあらゆる心を見てきたように、私にだって見てきたものがあるんだ」
力の指先をそっとこいしの心に添える――
「大丈夫。私を見ろ。大丈夫だ。さとりもずっとここにいる」大丈夫、と囁き続ける。「さとりだけじゃない。椛も地子も、ここにいる。見えるだろう。わかるだろう」
こいしの息づかいが震える。
「心を閉じるにはまだ早い――自分のなかに引きこもるにはまだ早い……」
引き摺り出す!
「私はずっと見てきたんだ! ひとってやつはそんなもんじゃない! 戻ってこい、こいし!」
椛はからだを折り曲げる。疲弊した精神が目の裏の神経を痛めつける。利き目である右目を抑え、意思に関係なく収縮と拡大を繰り返す瞳孔を鎮めようとする。
息をするんだ……息を……ただ息をすることだ、それだけは忘れるな……
地子は椛にからだを添える。「ねえ、椛! だいじょうぶなの!?」
椛は地子に目を向ける。表情のない顔からは結果が読めない。が、それでもなんとかことばは紡げる。
「大丈夫だ」地子が表情を変えないのを見て、さらに言う。「私たちみんな大丈夫だ」
それでも足りないと思い、椛は微笑む。ひどくぎこちないものではあったが、地子には見えた。伝わった。
「勇儀……?」
こいしは呆然と呟いた。勇儀は応えなかった。彼女を全身で包むように抱き締め、身じろぎひとつしなかった。
心が見えた。感じられ、伝わった。
おずおずと勇儀の背中に腕を回した。とてつもなく大きな背中だった。この世のあらゆる苦難を背負ってもびくともしないだろうと思わせる、山のようなからだだった。が、それでも震えていた。ただひとつの喪失の予感に打ちのめされていた。
やがて、こいしは言った。「……ごめんなさい」
「ばっかやろう」勇儀は蚊のなくような声で言った。
椛は温泉に浸かった。疲れ果てていた、が、こいしはもう勇儀に任せてしまうことにした。結局はそれが一番頼もしい。
地子がにこにこしながら湯を割り、椛に近づいた。その顔は深い安堵に緩みきっていた。
「えっへっへっへ」
「なんだ地子」
「もーみーじー」地子は右手を差し出した。「お手っ!」
椛はいっとき黙り込み、やがて仕方なくといった風に応えてやった。
「わん」
地子はますます笑みを深めた。「おかわり!」
「わん」
「ちんちん!」
「ことわる」
「ちんちんー――っ!」
「そんなところに触ってもしないものはしない。おい。こら。よせ。挿れるな。摘まむな。剥こうとするな」
椛は地子のからだを持ち上げ、回した。後ろから抱きすくめるようなかたちになった。
「ねえ、椛」と地子。「勇儀ならだいじょぶだよね? こいしを守ってくれるよね」
その声音には心底友だちのことを心配する誠実な響きが現れていた。椛は地子に回した腕に力を篭めた。「ああ」
「あたしがさ、もうこいしに会えなくなってもさ、……」不意に、声のトーンが沈んだ。自分のことばで自分の位地を再確認していた。「……勇儀が一緒にいるんでしょ? 同じところに住んでるんだよね。だったら平気だよね」
「そうだな」
「こいしだって、もっと勇儀に頼ればいいのに。なんか一歩引いてるよね、なんで? 足踏みしてるみたい」
椛はいっとき沈黙し、逆に問いかけた。「なぜ?」
「え?」地子は目を泳がせる。「え……だって、ほら……」ことばが浮遊し、やがてようやく、「見てればわかるでしょ?」
椛は微笑んだ。先程よりもいくらか自然な表情だった。
ことばは拙いにしろ、この子の目は節穴ではない……見るべきものはきちんと見ている。ひどく無鉄砲ではあるけれど、それがもたらす結果を受け止められる娘だ。
「ああ」と椛は言った。「もちろんだ。見ればわかる」続けて言った。「ひとりで耐えるのに慣れすぎるとどんなときでもひとりで耐えようとしてしまう。それが当然のことになる。どんなに耐えきれないことでも。差し伸べられた手を自ら払い除けようとする」
「だから目をあんなに細くして――」地子はふてくされたように湯にからだを沈める。
「だから」椛は地子のからだを持ち上げた。「力尽くで助けてやればいい。そういうやつは。そうできるくらい強くなればいい。そう簡単なことじゃないが」茜色に照らされる空を見やった。恐ろしく巨大な雲がひとつ、浮島のように漂っていた。「あの雲のように強くしなやかになりたいと何度も思ってきた。何物にも縛られない。重力にさえ屈しない。われわれにはそれが必要なのに、それができない」声のトーンが落ちた。「縛られてばかりだ」
地子は椛と同じものを見ようとした。が、そこには夕焼けの雲があるばかりで、他のどんな意味もそこに見出だすことができなかった。
椛にしろこいしにしろ、彼女らと同じものを見ることができないのが地子には癪だった。悔しかった。せめて勇儀ほどには物を見たいのに、さっきはそれさえできなかった。無力な子供であることが辛かった。ひとりきりであった頃とまるで同じ寂しさがあった。
椛の腕のなかで彼女を見上げ、地子は言った。「椛の目はなんでも見れるの?」
「なんでも見える」
「どこまでも見れるの?」
「どこまでも見える」
「この旅が終わっても? あたしたちが離ればなれになっても?」
「ああ」
「あたしがどこにいてもあたしを見つけてくれる?」地子は腕を灯台のように掲げ、雲を指差した。「例えばさ……あたしが、あの向こう側に飛んでったとしても」
「見えるだろうな」
「あたしがまたひとりきりに……なっても」
「見える」不意になにか熱いものに駆られ、椛は掲げられた地子の手を掴んだ。「おまえがどこにいたって私にはおまえが見える。いずれそういうこともおまえにとっては気持ちの悪いことになるだろうが。そうなったらそう示してくれればいい。すぐに目を離す」
「やだ」と地子は言った。「ずっと見ててよ。そうしたらあたしきっと寂しくないよ。またひとりで生きてけるよ」
「そうか」椛は手のひらに力を篭めた。「わかった。おまえがそう望んでくれるのなら。おまえがそう望む限り、おまえは常に私たちだ」椛は地子を見た。このろくでもない目で、初めて見たいものを見つけたような気がした。「忘れるな。そのことを」
「忘れない。このこと」
四人は安宿をあとにする。夜。月も登りきらないうちにそっと闇のなかに抜け出す。老婆は狐につままれたとでも思うかもしれない。
街を抜けるとき、ほんの束の間、地子は後ろを振り返る。白い犬が丸い月のような瞳をこちらに向けている。
恐らくはもう二度と果たせないだろう約束が胸を締めつける。
「さよなら――」
地子は十一歳にして、自分が置き去りにしてきたものの多さに圧倒されている。
「つけられている」と椛が言う。
こいしは椛と同じものを見ようとする。が、第三の目の視野がそこまで届かない。椛の心を通してその者を見る。長弓を背負った亡霊のシルエット。妖怪だとわかる、が、それ以上はわからない。
「犬走は地子と先行してくれ」勇儀は言う。「私とこいしが後ろからゆく。できることならそいつを第三の目の視界に収めておきたい」
こいしは立ち止まる。追跡者のほうを向き、目を凝らす。が、なにも見えない。椛の心の反射から、その者が立ち止まったのを見る。
「遠い……」
「仕方ない」勇儀はこいしの肩を叩く。「まあこの距離でなにか致命的なことができるとも思えない。警戒だけはしておいてくれ」そこで周りを見渡す。「やな感じの地形だけど……」
山道。崖に添うようにして踏み固められた、シラビソとハイマツに囲まれた緑色の坂。右手側には谷があり、その下に水の流れが見える。
早足で歩き出すと、追跡者も同じスピードで歩く。第三の目の外側、千里眼の内側。常に同じ距離を置いたまま、影のように付き従う。
地子と椛、勇儀とこいしの間の距離が離れ始める。もう先行するふたりは勇儀の視界にはない。道と空。そしてこいしだけが彼女の目にある。
不意にこいしは言う。「このまえは助けてくれてありがとう」
一瞬、勇儀は彼女がなんのことを言っているのかわからない。が、すぐに思い当たる。「ああ……あのときは正直、心の臓が止まるかと思ったよ」
「ごめんなさい。なんだかひどい夢を見てた気がする。きっと疲れてたんだね……地上に出るのは久し振りだったし、みんなと一緒で、正直なところそういう実感が湧いてなかった。まだ」
「ずっとさとりのことを呼んでたよ。なんだったんだい、あれは? 目を閉じようとしてたのか?」
「……地上にいるときはずっと、お姉ちゃんと一緒だったから」こいしは恥じ入ったように俯く。「だめだね、なんか、私。ちっとも姉離れできてないや。いい加減恥ずかしいから、なるべく頼らないようにしてるんだけど」
「さとりはもっと自分に頼ってほしいと思ってるだろうよ。寂しがってるの、おまえさんにもわかるだろう?」
「……なんかイヤ。ひとりでも生きてけるようになりたいよ」
「反抗期ってやつかねえ。まあ、自分でそう思うんなら実際にやってみりゃいいさ。けどおまえさんに頼ってほしいと思ってるのは私だっておんなじだよ。わかるだろ、そのこと?」
「見える、けど、さ……」
こいしは腰の後ろで手を組み、足元を蹴るような仕草をする。
「慣れないよ。私が心を読めることを知ってて、それでも読め! なんて叫ぶ心のことは」溜息が漏れる。「そういうひとと話すこととか」
「私自身もそうだけどね」勇儀は苦笑する。「まあ開き直って、どこかで折り合いをつけさえすりゃ、そういうのもわりとなんとかなる。なんとかならなかったら適当に距離を置いてくれればいいさ。寂しいけどね、そういうのって」
「そう?」
「友だちが離れてくのはいつだって辛いさ。理由がなんであれ……」
こいしは頷く。重くなるような感覚がある。「そうだね」
第三の目の視界、端の端の部分に椛と地子がいる。もう旅の暮らしにもすっかり慣れ、並んで歩くふたりは姉妹か母娘のように見える。その姿も、心模様も。
こいしは隣を歩く勇儀を見上げる。そうして思う……それじゃ、私たちは? 私は地子のようには素直に心を表せないけど、でも――
こいしは首を振る。そうした考えを持ったこと自体恥だとでも言うように。そんな彼女に勇儀は言う。「大丈夫か?」
「え?」
「疲れてるんだろう? その目がどれだけ負担になるのか私にはわからないが、ただ歩いているだけでも緊張はするもんだ。私や犬走はこういうからだだから、おまえさんがどんなに疲れてるか、わからない。心が読めるわけでもないしね。地子はあんな感じで元気が有り余ってるようだけど、おまえさんは――」
こいしはまた首を振る。「大丈夫だよ。心配しないで」
「そんなことを言ってもな、またこのまえみたいなことになったら手遅れだろうが。実際、隣にいる私の心だってうまく読めてないようだし」
「あ――もしかしてずっと呼んでた?」
勇儀は頷く。「いつ気づいてくれるんだろうと思ってたよ」
「ごめん」
「ことばにしておくれ。頼むから。別にな、おまえさんが私に多少負担をかけたって、それでどうこうするほどやわな鬼じゃないつもりだ。例えばおまえさんを背負って、この山道を最初から最後まで駆け抜けたって、私は息ひとつ乱しやしないんだから」
「……やだ」
「あのねえ――」
「違うよ」こいしは声を落とす。「守られるのがいやなの。気を使われるのが。一人前じゃないんだって罵倒されてるように思えるから。そうじゃないって心を読めばわかるけど、私自身がいやなの」いっとき口を噤み――「お姉ちゃんよりもちっちゃいようなからだだけど、子供扱いはいやだ。そこだけは意地を張らせて……それが迷惑だっていうかもしれないけど……でも……」
勇儀は肩を落としてみせる。負けず嫌いめ。
「まあいいさ。次にあんなことになったら、また力尽くで引っ張りだしてやる」
椛の千里眼がまだ追跡者を捉え続けている。その姿からは亡霊そのもののように感情が掴めず、第三の目の視界の外、その目的も心の内も読めない。
そうした感覚はこいしにとっては初めてのことだ。見えているのに心が読めない。石かなにかを見ているような感覚がある。
「まだついてきてるか?」勇儀が言う。
「うん……」
「こいし。おまえさんは身を守るものをなにか持ってるか?」
「お姉ちゃんほどじゃないけど、催眠術は使えるよ。トラウマを引っ張り出して、想起させて、一本ずつ心の手足をもぎ取ってく。それでなんとかなるんじゃないかな、大抵は……」
「相手が幻術の類いに対策を取っていたら? 実際、われわれのなかにもいたよ、天然でそういうのが効かないやつとか、効きすぎるって自分でわかってるから特別な対抗術を心得てるやつとか」
「そうだったら……ない。お姉ちゃん頼みだったから、昔は」
勇儀は懐に手を入れる。その指が彼女には小さすぎる小刀を掴んでいる。
「いざとなったら、使いな」こいしに差し出して――「狩りの獲物の解体に使ってたものだけど。でもまずは、最初に私に助けを求めるんだ。犬走でもいい。自分ひとりでやろうとするな」
こいしはその小刀を見る。手に取る。そうした瞬間、不意に唇が綻び、小さく笑ってしまう。
「なんだい?」
「今の言い方が、お姉ちゃんそっくりだったから」こいしは微笑みながら続ける。「私が目を閉じかけたときさ……最初に、地底に逃れるまえのことだけど……やっぱりお姉ちゃん、勇儀とおんなじこと言ったのよ。大丈夫、って。私の心を見て。あなたはそんなもんじゃない、少しばかり傷ついたって、私たちはそれで壊れたりしない、って」
小刀を懐に入れる。
「うん、わかったよ。なんだかいろいろわかった気がする。見えたと思うよ、ありがとう。帰ったらお姉ちゃんにもそう言うよ」こいしはそこで俯く。「目は……閉じない。もう少しいろんな心を見ていたい。そう思ったのって、初めてだよ」
開けた場所に来ていた。木々がそこだけ生えるのを避けているような空間。同時に風がやむ。
勇儀は背中にひりひりするような緊張を感じた。
「いかん――」
こいしの目が椛の目を経由して追跡者を捉えた。弓に手をかけ、絹の流れを思わせる恐ろしくなめらかな動きで矢を引き絞った。それは決して早い動きではなかった。が、一瞬たりとも迷わず、止まらなかった。見惚れてしまうほどのある種の美しさが漂っていた。
椛の心が叫んだ。「避けろ! 狙いはおまえだ!」
風が吼えた。こいしには稲妻が横向きに奔ったように感じられた。
勇儀に突き飛ばされ、こいしは踏み締められた土の道に倒れた。砂埃が霞のように立ち昇った。空気の焦げる匂いがし、肺からやけつく息が零れた。
二発目はこいしの目にはっきり映った。こいしは空気の色を紅く変えながら飛ぶ矢を初めて見た。特別な術など一切かかっていなかった。ただ早く、その分だけ巨大に見えた。
勇儀は矢を掴んだ。手のひらに振動が残り、皮膚の焼け爛れる厭な匂いを嗅いだ。
おっと、くそ! この野郎、こそこそしてるくせにこれほどの使い手とは!
「走れ! 犬走!」
勇儀は椛が自分を見ていることを願って声を上げた。こいし目掛けてほとんど時間差なく飛んでくる矢を打ち落とし、六発目から面倒になって自分のからだで受けた。熱い震えが全身を満たした。こいしをかばいながら戦うのは無理だった。
こいしのからだを抱え、谷に身を投げた。落ちていくからだに三発の矢が食い込んだ。勇儀のからだが捻じ曲がり、回転した。が、それだけだった。水の流れにふたりは飛び込み、あとにはなにも見えなくなった。
椛はふたりが流されていくのを見た。地子を抱え、狼の速度で山を駆けた。やがて安全だと思われる場所までくると地子を下ろした。
地子は椛の服の裾を掴んだ。「椛――ふたりを――!」
「ここでじっとしていろ。全員助ける」椛はやんわりと地子の手を解いた。「手っ取り早いのはやつを仕留めることだ」
椛は追跡者を目に収め、黒い怒りを篭めて見つめた。
勇儀は水をかいた。彼女の手が水面を切り、その向こう側の岸を掴んだ。それを手がかりにからだを持ち上げ、こいしを胸に抱いたまま足を踏み出した。
「無事かい?」
こいしは頷いた。全身から水が滴り落ちた。「平気。ごめん。勇儀こそ――」
勇儀のからだからは何本も矢が生えていた。肉が締まり、鏃は容易には抜けなくなっていた。
「別にいいんだけどね、このままでも。ただ道を歩くだけで色んなとこに引っ掛かっちまうから、不便っていや不便だ」
勇儀は顔を上げた。猟師が使っているのだろう、薄汚い仮組みの小屋が遠くに見えた。
ふたりはそこまで歩き、小屋に入った。
「風邪引いちまうよ。こいし、服を脱いどきな」そう言うと勇儀は囲炉裏のまえに腰を下ろし、懐を探った。「何重も油紙を巻いといたから、火打石は無事だ」
勇儀が火をつけている間に、こいしは服を脱いだ。自分の腕の小ささを恨みがましく思いながら、力を篭めて絞った。木の床に溜まった白い埃が濡れ、茶色くなり、すぐ黒く染まった。
小屋の隅に置いてあった毛布は汚かった。それでもなにもないよりはマシだった。肩から羽織り、勇儀と向かい合って座った。
「ふたりは大丈夫かな」こいしが言った。「もうみんな私の視野の外に行っちゃった……」
「犬走がなんとかするだろうよ。ああいう手合いにはひとりのほうがやりやすい。どっちみち私の拳の射程外だ」勇儀は矢の周りの肉ごと鏃を抉り取った。「ここでやつがカタをつけるのを待とう。慌てふためいて下手を打つより余程いい」
雨が降り始めた。黒い雲が窓の外の空を覆い、室内をさらに暗くした。ふたりのからだを囲炉裏の淡い火が照らし、赤と黒の明滅に閉ざした。
ノイズのような雨の音が世界を包んだ。勇儀は深く息をつき、その声がこいしの耳に届いた。
眠り込んでしまいそうなほど静かになった。こいしは膝を抱え、そのなかに顔を埋めるような姿勢になった。胎児のように小さく。勇儀が全ての矢を抜き終え、最後の鏃がからんと床に落ちた。
ぱちぱちと火の爆ぜる音に混じり、勇儀が服を脱ぐ衣擦れの音がした。こいしはなんとなく顔を上げた。なにも隠すもののない勇儀の上半身がそこにあった。
こいしは息を呑んだ。
勇儀のからだは傷だらけだった。その九割九分が壁画のような古傷だった。今さっき負った矢傷など、冬の乾いた星空の六等星のようなものに思えた。
勇儀はこいしの視線に気づくと、緩く微笑んでみせた。「鬼らしいだろう? 女としちゃどうかと思うけどね……」
こいしはおずおずと手を伸ばした。その指先が最新の傷痕に触れた。
「……手当てしようか?」
取り繕うようにこいしは言った。
勇儀は首を振った。「いいよ。どうせみんなすぐに塞がる」
「そっか」こいしは息を落とすように呟き、「消すことだってできるんでしょうに。わざと残してるの?」
「私なんか傷痕の多さで四天王だなんて言われてるようなものだからね。綺麗なからだになったら降格しちまうよ」冗談めかして勇儀は言った。「思い出のアルバムみたいなものさ、こういうのは。ときどき見返してにやにやするんだ。ガキの擦り傷とあんまり変わらないけどね、そういう感傷って……」
こいしはひときわ大きな腹の傷に触れた。右の脇腹から左まで一文字に突き抜けていた。
「この印になにかエピソードはあるの?」
「ああ、もちろん。臆病者のクセして、刀一本で私に挑んできた大ばか者がつけた傷だよ。からだに四つほど穴ぼこ開けてやったのに、そいつは涙で顔中ぐしゃぐしゃにしながら向かってきたんだ」そのときのことがまざまざと思い返されたように、勇儀は微笑みを深めた。「あんなタフな人間は見たこともない」
それは穏やかとはかけ離れた記憶だった。こいしにはそれが見えた。けれども勇儀の心はどこまでも凪いでいた。
「こっちの傷」勇儀は鎖骨に触れ、さらに言った。「短槍の達人だった。打ち込んだと思えば打ち込まれ、かわしたと思えば斬り込まれ、なんだか魔法みたいな技の持ち主だったよ。風車みたいな槍さばきは実に見物だったな。今でもなにされたか、正直なところさっぱりわからん」
こいしにはその槍が見えた。その槍が向かうところまではっきり見えた。が、見えたところとはまったく別の箇所から血が吹き出ていた。神速ということばの意味を初めて理解したような気分だった。
こいしはくすくすと笑った。そうした自慢話をする勇儀の表情は丸っきり子供のそれだった。「こっちのは?」
「谷の向こう側から、物凄い距離を越えて飛んできた矢の傷だ。今日のやつみたいなのを想像するといい。でももっと凄まじかったよ……射たれたって言うより、狙撃されたって感じだった。一週間ろくに身動きもせず、山のなかで私が姿を現すのをじっと待ち続けて、ここぞというときに最高の仕事をしたんだ。神がかりの射撃だったよ」
こいしは勇儀の顔を見上げた。視線が絡んだ。自然に微笑んでいた。
そうした思い出話をされるのが楽しかった。ちょっと視点を変えればくだらないだろうと思えることでも、勇儀がそう話したがために、そのことに神話のプロトタイプのような神聖さが与えられたような感覚がした。
「彼らは」と勇儀は言った。「暴力という極限の形でしか自分を救済できない人間だった。表現できない、と言ってもいい。実現、とも。そういうタイプの輩はいつだってどこにでもいる。鬼退治っていうのは寓意のための寓話じゃない。彼らが自分に還るための物語だよ……つくづく思うんだけど、われわれは地底へ逃れるべきじゃなかった、そういうやつらのためにも。連中は今、どういう物語を紡いでるんだろうね……」
こいしは勇儀の目の上に触れた。その傷は花びらのように小さかったが、一目で深く入り込んでいることがわかった。致命の傷のように思えた。
「これは?」
「さとりのとこの燐と空が――」が、勇儀はそこでことばを止めた。「――……、――」
勇儀は傷に触れるこいしの手を取った。こいしの手はこいし自身の能力を受け止めるには酷なほど小さかった。冷えた指先を温めるように、手のひらのなかに包み込んだ。
こいしは首を傾げた。「……勇儀?」
勇儀の心はひどく捉え難くなっていた。ある意味でトラウマを想起させられたのと同じ心の動き。が、そこに吹く風の匂いは雨の柔らかさを含み、どこまでも穏やかに凪いでいた。
「見えたかい」勇儀は言った。「刻みつけられた傷痕の一寸一寸に意味があるんだ」自分に言い聞かせるように呟いた。「おまえさんにはそれが見えるだろう。わかるだろう?」
そのことばはこいしの人生を裏側から照らし出した。
「意味――」
勇儀はさらに言った。「だから地子のためになにも持たずに地底を飛び出したんだろう。われわれを動かすのはいつだって傷痕から流れる……」が、そこで呼吸が途切れた。辛うじて息を削るようにして言った。「目を閉じてもそのことが霞のように消えてくれるわけじゃない。嘘じゃない。それを私は経験から学んだ」こいしの手を握ったまま自らの心臓に当てた。「地底へ逃れても……やたらめったら戦わなくなっても……暴力はまだここにある」
こいしは目を逸らした。それでも第三の目から勇儀の心は流れ込んできた。
からだをそっと離した。湿った温かみが皮膚を撫で、雨の匂いが遠くかき消えていった。
囲炉裏の反対側、勇儀の向かい側にまた座った。勇儀の心の内側を覗いてしまったことに対する罪悪感が、いまさら胸に湧き出でていた。
ごめん、と心のなかで言う。ことばにしてもきっと、勇儀は気にするなと言うだろうから。臀部の下、濡れた木板の感触が気持ち悪く、毛布を間に挟んだ。そうした動きさえなんだか億劫に思われた。
勇儀は溜息をつく……心のざわめきを持て余すように。視界は暗く、彼女の目には微かに赤く照らされるこいしの、断片的な姿しか見えていなかった。いまやこいしは、己のつくる影に寸断されているように見えた。第三の目さえ、半分は黒く染まっていた。
時間が水のように流れた。勇儀は口元に手を当て、しばらくじっとしていた。居心地が悪かった。不意に寒々とした気分に襲われた。
自分の腹の傷に触れ――「こいし」
こいしは顔を上げる。
「なあ、私の心を読んでくれないか。なんだか自分でもいまいちよくわからないんだが……今の……自分の心ってやつが」
こいしは彼女を見た。なんだか落ち着きを失っているように見えた。
「久し振りに……自分がどういうモノか見直して……」こいしは指先を立て、くるくると回した。「どういったモノか自覚し直して……」ことばを選びながら言った。「普段は忘れている長すぎる年月に圧倒されてる」指揮棒のように指が動いた。「月日を余すところなく受け止めるには……私たちが慈悲深いなにかから与えられた心は小さすぎる」
勇儀は片方の眉を上げてみせた。「小さいなんて言われたのは生まれて初めてだね」
こいしは息を深くついた。「われわれが旅しているこの世界に比べて大きなものなんてどこにもない」目の光が遠くなった。「どこにも」勇儀だけでなく、自分の心まで覗き込んでいるように見えた。「心を宇宙に例えたのは誰だったかな……そのひとは実際に宇宙を目の当たりにしてもそんなことが言えるのかな」第三の目が天井を見上げた。そのさらに先にあるものまで見据えようとしているかのような細い眼差しだった。
「つまるとこ」こいしは言った。「あなたは飽和しかけてるのよ。旅のなかで……その人生で……誰にも頼れないことで」さらに言った。「大きすぎるからだに比べて繊細すぎる心を抱えてるせいで」
勇儀は微動だにしなかった。
「……繊細とか言われたのも生まれて初めてだよ」
辛うじてそれだけを言った。
こいしは目を伏せた。「私も……こんな深くひとの心を読もうとしたのは初めて。ごめん。見すぎたね」
「いや」勇儀は首を振った。「謝るな。なんだかわかった気がするよ、ありがとう」口調はそれでも力強かった。が、意思は泳いでいた。「繊細、ね。それは言い換えれば弱いってことなのかねえ。おまえさんが目を閉じかけたとき……みっともないくらい狼狽えちまった。思い出すと、今でも恥じ入るような思いだよ。なんだか私らしくないってね……おまえさん自身から目を閉じないってことばを聞いて安心したけど、それでも――」
勇儀はそこで口を閉じた。
異様な雰囲気が辺りに満ちていた。
喋れば喋るほど崩れていくような感覚があった。が、不意にわかったこともあった。断片的だった心がひとつにまとまりかけた。
勇儀は立ち上がった。
「こいし」
彼女の傍まで行き、膝をついた。彼女の頬に手を当て、顔を見下ろした。
目を合わされ、こいしは狼狽えた。「ゆ――ぅ、ぎ?」
「犬走のやつがな、言ってたよ。言の葉なんぞより、その者の顔に刻まれた古傷のような苦悩の痕のほうが、より多くのことを語ってくれるって」勇儀のことばは遅かった。が、後戻りのできない真剣さがあった。「あのとき――うわごとで姉を呼ぶおまえさんの顔を見て、その意味があようやくわかったよ」その目はそのことばより遥かに揺るぎなかった。
勇儀はやっとわかったことを口にした。
「――傷だらけだな、ほんとに……」
勇儀はこいしの顔を見ていなかった。その奥にあるものを見ていた。
くしゃりとこいしの表情が歪んだ。が、完全に崩れ落ちるまえに止まった。「やめて」首を振り、勇儀の手を払った。「傷のないひとなんていない」温かみが離れ、こいしは後退りした。「私なんかまだいいほうだよ。お姉ちゃんや……勇儀や……椛や地子に比べれば」
「よしなよ。比較は無意味だ。おまえはおまえ自身の心を読めるのかい?」
「私は弱いだけ……臆病なだけ」こいしはなおも言った。「目を閉じて……なにも見えなくなればいいと思った。そうすれば誰にも嫌われずに済むって。この旅だって、私がなんでもないただの女だったらこんなこそこそせずに済んだ。私が覚だから……でもそれを否定するのだって怖くて成し遂げられなかった」
「弱いだけの女がひとりの友人のためだけになにも持たずに旅立てるものか」
そのことばには事実のみを語る淡々とした響きだけがあった。こいしにはそれが見えた。が、こいしはそれでも首を横に振った。
「おまえは無意識のなかに強いものを持ってる。足の先から頭のてっぺんまで確固とした芯がある。姉譲りなのかなんなのかは知らないけど。少なくとも私が見てきた古明地こいしって女は、おまえがそんなに嫌悪しなきゃならない女じゃないよ」
こいしは勇儀の目を通して自分を見た。だがそれを頼りにはしたくなかった。
「やめて……」
「私の心が見えないかい? そんなはずはないだろう。私はおまえに対して自分を閉じたりはしてないはずだ」
そうした能力を盾に彼女を当てにするのは、ひどく卑怯なことのようにこいしには思われた。自分が散々忌み嫌った能力にすがりたくはなかった。そうした想いで友を助けるのならまだいい……自分だけが厭な想いをすれば済む……けれどもそれで自分を救済したくなどなかった。
勇儀は口を噤んだ。息が詰まりそうなほど湿った空気をかきわけ、あらゆる古傷の刻まれた顔を両手で挟んだ。
「――……」
勇儀は息を詰まらせた。あまりにも小さすぎる……中心を守るものが儚すぎる。
こいしは今にも目を閉じそうな表情をしていた。唇を震わせ、ふたつの目は潤んでいた。不躾な位置まで踏み込まれるのを怖れるかのように、両手を持ち上げて勇儀の手を掴んだ。
「こいし」
「や、」
「最初に言わなかったかい? 私はおまえさんを助ける……一緒に帰ろう……って」
勇儀の心は揺るぎなかった。それがこいしの心を崩した。「やめ、」
そこで間が置かれた。全ての動きが静止した。中途で断絶した影絵芝居のように、囲炉裏の微かな火に拡大して壁に映るふたつの影が停止し、砂のようにざらざらと時間が流れた。手遅れになるまで。
こいしはその動きを避けようとした。が、なにもかも遅すぎた。濡れた唇が触れ、声が呑まれた。全身が熱く跳ね上がるのを感じた。けれどもそれを認めたくもなかった。
「……っぅ」
唇が離れた。
「やっ……」
毛布が落ちた。谷の水に濡れたからだが開かれた。こいしは床に手をつき、震えながら後退りした。細められた目は勇儀から離せなかった。
「なに……するの……」
拒み、咎める声だった。視界が滲んだ。
「子供扱いはされたくないんだろう」勇儀は言った。「謝罪はしない。おまえにはわかってるだろうが。私の心が……私自身よりも」
わかっていた。勇儀の意思が。が、それまでは見えていたものを見ないようにしていた。
心底怖れているかのように首を横に振った。からだが針金でできているかのようにぎこちなかった。
「こいし」勇儀は静かに彼女の名を口にした。
近寄られ、こいしは離れようとした。その動きはその意思に反してひどく鈍かった。距離が狭まり、勇儀の影がこいしの顔にかかった。
「やめてよ……」
勇儀の手がこいしの頬に触れた。彼我の体格さから、ほとんど覆うような形になった。
「なんで……?」
こいしはもう今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。声は折れてしまいそうなほど弱々しかった。
緩慢に腕を掲げ、勇儀とのあいだに壁をつくろうとした。が、手首が掴まれ、そこから力が抜けた。
剥き出しの傷痕を見、見られ、見せられ、ずたずたになった内面はもう隠せなくなっていた。本当はとっくにわかっていたことだった。こいしの一部はもうすでに彼女を受け入れていた。
短い息が続けて吐き出された。一度。二度。三度。四度目で崩れた。背が床に触れた。木板の冷たい無愛想な感触が小さな背中を満たした。
「こいし」
こいしは勇儀の手から逃れようと腕を動かした。が、その行方は彼女自身にさえわかっていなかった。ただ動いただけだった。どこにも行けなかった。
「や――」拒絶を口にしようとした唇を塞がれた。「――んっ」
背筋が緊張し、反り返った。膝が伸びた。足の指先が猫の手のように曲げられた。
手首を押さえつけられ、指だけが床を離れた。
「んっ」
こいしのからだがもぞもぞと動く。覆い被さる勇儀のからだから逃れようと。勇儀は彼女を離した。が、逃げる動きはにもう誘う動きとなにも変わらない速度しか残されていなかった。
ことばもなく、勇儀は唐突に手を伸ばした。うなじに触れるとびくりと震えた。強く引き寄せ、キスした。しなやかな腕が祈るように揺れた。
「ふぁっ」
触れて、離れた。意識が弛んだ。柔らかい暗さのなかで表情が泳いだ。目がなにか助けになるものを探そうとするかのように小屋のなかを走査した。網膜にはなにも映らなかった、固く顔を強張らせた勇儀以外には。
「……――っ……」
喉が発したことばは意味を伴わなかった。こいしの周りの空気をかき乱しただけだった。
思い出したように後退する……
その分だけ這い寄られ、また腕が伸びた。こいしは動きを止めてしまった。目を強く閉じた。が、そんなことをしても勇儀が霞のように消えてくれるわけはなかった。
唇に触れられるのを感じた。彼女の唇は濡れ、けれどもその奥はがさがさひび割れていた。吐息のにおいを感じた。
「ふぅっ」
心臓が波打ち始めた。湿った外気のなかで裸の胸が上下した。
どうしていいかわからない。けれども……
離れ、解放され、また逃げることを選ぶ。けれどまた捕らえられ、口づけされる。
射程範囲のなかで反応を弄ばれているような感覚。
「ひゅ、」
呼吸さえままならなくなっていく。
「んっ……ん、んっ」
繰り返される触れるだけのキスに、のろのろと意識がとろけだす。あまりにも遅い軟化のスピードは、その分だけ重かった。じりじりと引き摺られ始めた。
目に力がなくなった。光が潤んで溶けた。
「よしてよ……」
それでもこいしは首を振り、勇儀を振り解こうとした。振り解くのは簡単だった。拘束は一瞬で、抱き寄せられるのはいっときだった。
が、引き寄せられることには抵抗できなかった。その瞬間だけなすがままになった。
「やめて……やめて、やめてよ」
うわごとのように繰り返す。
「や、ん……っ、ふ、ぁ……」
背中が壁に触れた。それ以上後退できなくなった。懇願するように彼女を見上げた。勇儀の目は星のように遠かった。
壁づたいに横へ逃げようとした。
「こいし」
顔の横に腕が伸びた。壁に手をつき、柵のように逃れられなくされた。
からだが重かった。鎖で縛りつけられているように感じた。
「怖れなくてもいい」
「なにを……」
「全て。あるいは私を」
勇儀の手のひらが心臓の上に置かれた。手のひらは大きかった。上半身まるごと包まれているような感覚さえあった。
「むりだよ――」
「……ことばにしなきゃわからないかい?」
こいしはまた首を振った。
圧倒されそうなほど大きな、嘘偽りのない想いが見えた。
それはこいしの生きてきた道筋を裏側から照らし出した。自分から逃げた記憶と自分自身を否定した記憶が混同され、強すぎる自責のなかにこいしの心を追いやった。
――私がそんな感情に相応しい女にどうしてなれる?
「大丈夫だ」
そうした心の動きを読み取ったように勇儀が言った。
「私は……おまえを助ける。助けたい。そうすることくらい許しておくれよ」
それでもこいしは首を横に振って拒絶した。
勇儀はこいしの肩に手を置いた。皮膚の下は強張っていた。腕の線を伝い、薄い布地の表面を払うように肘に触れた。いっときそこで指を休め、また降ろしていった。強く閉じられるこいしの手を掴んだ。力を篭めると指先が緩んだ。
唇をそこに押しつけた。数寸だけ離し、また落とした。何度も繰り返した。指の先から手の甲も手のひらも、手首の裏も手首の表も。
こいしは顔を反らし、床を睨んで歯を食い縛っていた。流れる感情も流れ込む感情も認めまいとするように。勇儀はその頬にキスした。ねじられる首筋にもした。目の上にもした。
こいしはからだを避けようとした。けれどもその動きはあまりにもささやかすぎた。拒み、咎める目つきも弱々しすぎた。勇儀の目を通してこいしは自分の動きを見た。が、それでも、それ以上の動きをすることができなかった。
「本当にいやなら……」勇儀は言った。「けど……そう簡単には止まらないから」
明確に拒絶するためには明確に拒絶しなければならなかった。しようとした。熱に引っ張られ、できなかった。
勇儀の影のなかでこいしは彼女を見上げた。強く握られた手がずきずきと痛み、怯えと戸惑いの表情を淡く揺らした。
心音が耳のなかを満たした。
肩にかかる髪を払われ、首にそっと触れられる。
彼女の手は大きく、自分の首は小枝のように細かった。
引き寄せられる動きに逆らえず、胸のなかに収められた。
押し返そうと持ち上げた指先が古傷のがさがさした乾きに触れ、気圧されたように力が抜けた。
「ぁ……ふ、ぅ」
押し潰されるような口づけが落ち、自分が取るに足らない小さなもののように感じた。
からだの線を伝う指先が皮膚裏の奥の骨の神経まで温かくした。
撫でられる感覚にからだが勝手に跳ねた。
思い出すように繰り返す逃げる動きは誘うだけだった。
「やめて、やめて」
ことばは星のように遠かった。誰が言っているのかわからなくなった。
すがりついた場所は血で塞がっていた。夢中で削ぐとその下から熱い赤色が零れ出した。
第三の目から伸びるコードに絡んだ。
もどかしく払われてその奥を辿った。
自分の意思なんてまるで知らないところでからだが勝手に反射した。
手のひらを当てられるだけで薄い胸のふたつとも覆われた。
「ぁ、ぁ、ぁ、あ、あ、あ、あ」
からだをどれだけ捩っても無駄だった。
「ぅ、う、ふ、ふあっ」
摘ままれて持ち上がった。
ぞくんとからだ中おかしくなるように満たされた。
白くなって怖くなって必死で首を振った。
「やだ、やだ、だめ、だめ、だめ、だめ」
がむしゃらに叩いた。重すぎてどうにもならなかった。
「ひぃいうっ」
触れる指ばかりに素直で言うことを聴かない。
力がくるたびに跳ねるけれど彼女の落とす影から離れられない。
灯りが少なくて目の前が暗い。
思いっきり抱き寄せられて背中に手が回る。
腕に縛られて抵抗できない。
円を描くように撫でられて熱くなる。
「や、やぁ、やめて、やめてよお」
そんな声を出しているのは本当に私?
一度なにかの間違いで全力を出せそうになる。
出して、はね除けようとした。
無理だった。
「あ、あ、はああう」
抱かれるだけでどうしようもない。
力が抜けると同時に唇を唇で塞がれてもうぐちゃぐちゃに溶けかける。
立ち直ったと思ったらとてつもなく熱くてぬめったものが唇から入り込んできてまただめになる。
「ん、ぅううう、んっ」
止められなくてくしゃっとなる。
噛むことも忘れて茫然と感じていた。
時間が撹拌されだした。それを感じる感覚がなくなり始めた。
「は、ぁああっ」
気づくとすがっていた。
ぽろぽろと涙が零れていた。
現実に帰れない。
「勇儀、勇儀」
露にされた傷口がぱっくりと開いている。
「ひっ……ぅあ……」
嗚咽すると頭を撫でられる。
悔しくて、悲しくて、
「なんで……なんでえ……」
壊れるくらい強く力を篭められ、壊すくらい力を篭めた。
顔を彼女の肩に埋めて擦りつけた。涙が散って濡れて落ちた。泣いていた。からだの熱さはそのままからだの芯をさらけだしていた。
「ぅ……ぅあ……ああああ……」
――ノイズのような雨の音を聴いていた。
強く握られる手の力を感じていた。
刻まれた心の記憶を伝い、こいしの目は今はもう過ぎ去ってしまった遠い光景を見つける。閉じかけられた目……地上の旅……降り続ける幕のような雨のなか。それはすでに一度は経験したことで、こいしは地子の位置で、姉の背中に連れられていたのだった。
さとりはこいしの手を引き、ぼろきれのような外套に身を包んでいた。こいしは後ろから彼女に付き従っていた。彼女の姿は亡霊のように見えた。
向かう先は地底。置き去りにするのは雲に覆われた白い空。
『大丈夫』あらゆる絶望をその背に負って、それでも姉は言ったのだった。『大丈夫よ。大丈夫』
今自分の手を握っているのは、あの日の姉と同じ手だ、と思う。大丈夫、とその心は言っている。全てを見てきた目で、自分の傷痕だけで精一杯のはずで、それでもまだ私の傷痕を見つめようとしている。
そういう心を見つめること自体、辛かった。自らの傷痕を掘り返す以上に耐え難かった。
彼女たちに比べて、私は……
「守られて、ばっかりだ……私は」
嗚咽で崩れた声で言った。
「わかるんだよ、私には。そうして守られても、いつかはみんな台無しにしてしまうこと。こういう感情もみんな、温かさもみんな、私には相応しくない」
勇儀の脇腹に触れた。そこにさえ傷痕はあった。柔らかみの内側に硬さがあるような、大きなからだだった。
そこを押した。からだを離すために力を篭めた。そういう意志を伝えようとした。
「みんなの目から見た私は……私じゃない。みんなの心を覗き込んで、そこからみんなの目を通して見た私は。私自身が知ってる私じゃない。だから、向けられるものの全部が違う。私を遠ざけた全てからも……お姉ちゃんや勇儀や……地子や椛から向けられるものも……みん、な――っ」
唇を押しつけられ、こいしは息を詰まらせた。感情が縛られる一方でさらけだされる。足元を失って漂う感覚と、熱に突き飛ばされる感覚がある。
無闇に暴れ、振り払った。温かみが離れ、哀しくなった。
「無数の目に映る無数の私……私は誰?……誰でもない……だから目を閉じようとした……閉じられなかった……!」
ぼろぼろに零れ落ちる涙が熱くて苦しい。その上から強すぎる力で抱き締められて背筋が反れる。彼女の背中に回した指がそこでさえ傷痕を見つける。
「どんなに守られていても、いずれはあなたを失望させる、私は! なにをどれだけ受け入れられても私は私自身をまた否定する! 苦しいだけだよ、私はそんな感情に値する女じゃないよ!」
勇儀は頷いた。「そうかい。そうなのかもね、おまえがそう言うなら」が、切り捨てるように言い放った。「知るかよ」
勇儀はこいしを見た。勇儀の目から見たこいしは、白い素肌に第三の目から伸びるコードを絡め、胸の張り裂けそうなほど必死な表情で勇儀を振り払おうとする、小さな少女でしかなかった。仄かに赤い闇のなかで、雷雨のような自責の怒りに駆られるその姿は、凄まじいほど美しかった。心が雪崩のように流れ出し、こいしの視界を重圧で満たした。引き摺るようにふたりの影が動いた。勇儀はこいしを追った。こいしは逃げながらも背を向けることはできなかった。
安らぎとはかけ離れたところでふたりは息を詰まらせ、谷間の水とは違う水気に濡れた。こいしは立ち上がろうとし、足をもつれさせて倒れた。勇儀のからだがからだに絡み、逃れられずに溺れかけた。無遠慮な口づけが唇を割り開き、意識が裏返るとさらにその奥へ喉を侵した。
怖かった。
自分が自分でなくなるような感覚。こいしはすがりつくものを探して手を伸ばし、組み伏せられて押しつけられた。自分のからだを探した。勇儀の目にある自分はもう自分のものではなかった。
唇を離されると溜まった吐息が溢れ出した。赤く潤み、びくびくと泣いていた。勇儀を通して自分でその様を見せられた。勇儀の目に映る自分が唇を噛んだ。ふるふると力なく首を振った。「ぁ――あ、……あうっ……」悔しくて悔しくて平手を打った。蝿が止まるように勇儀の頬で手のひらが止まった。
その指先に甘く噛まれた。自分でも全く予期しなかったことに舌が触れた瞬間全身が跳ねた。跳ねたと同時に声が出た。「ふぁっ」自分で声を聴いて恥辱でどうにかなりそうになった。
唇が……舌が……彼女の顔が腕の線を伝い昇る。手首を……肘を……肩を……首を……「ぅあ、ばか、ばかあ、やめてよ、ひあ、」……鎖骨を……胸を……臍を……脇腹を「だめ、だめえ、離して、ぁ、離してえええ、ぃあ、あ、あ、」足の付け根……腿……膝……膝の裏の……「やああ、あっ、よして、よして、あああ、ああ、あ、」伝って戻る……上へ……秘所へ……「あ、あっ、あっあっあっあっ、だめだめだめ、ああ、あああっ」
雨の匂いが床の木板の隙間を縫って優しい。
吸われて思いっきり食らいつかれて背筋が「ひあ、あ、あああ、っっ、アっう」反り返って後頭部が床に痛い。
隙間風の冷たい吐息が腰を抜けて彼女の舌が「……――っッ――ああああ……いいいい」入り込んでくるぬめりのざらついた感触が怖い。
牙を剥く獣のようにそれでも食い縛って歯の隙間から出る息がとても熱い。
熱い。
「ぁあああ! ……っう! あ!」手が不自然な方向に握られて指の間にある彼女の指の血脈の鼓動で揺れて、視界が黒く赤く「あ! あ! あ! あ!」黒く赤く白くわからない色に染まって滲む。
彼女のからだからは夏の山の柔らかい緑の匂いがする。心は冬の山の吹雪のようにホワイトアウトしている。吹雪は激しさを越えたところにある激しさで皮膚を削る。心を削ぐ。度を過ぎた愛しさは痛みだ。それでも呼応しようとする魂が必死で答えようとする。
「ぅあ、あ……ゆうぎ……ゆうぎ、ゆうぎ、ゆうぎ、ゆうぎ!」
よくよく考えれば彼女にもわかったはずだ。こんなものはなんでもないと。愚かしく、ささやかなお遊びごと程にも意味のないことだと。けれども心は心を止められない。真剣になるのではなく、真剣になってしまうのだ。百万の嘲りも熱と怒りは御しきれない。ただそれによって求める。拒絶しようとする。抱き締める。振り払おうとする。彼女は彼女を呼ぶ。彼女は……――
椛は地を摺るように駆けた。追跡者のもとに最短距離を突っ切った。千里眼を弓の弦を引くその者の手から離さなかった。驟雨のように打ち続けられる矢の全てを斬り落とした。そうして追跡者のところまで辿り着き、ためらいなく斬った。
「千里眼持ちとはな」追跡者は言った。「どうりでこうもことごとく打ち落とされるわけだ。これだけ打って一発も当たらなかったのは初めてだ。おれは相手にしてはならないものを相手にしたらしい」
椛は樹を背に血を流す追跡者の首に刃を当てた。その者の目を見た。狛犬のような顔をした白髪の老人だった。
「追ってこなければこちらからも追わない」
椛のことばに老人は手を振って答えた。「やってくれ、やってくれ」投げやりなところはなかった。ただ受け入れていた。「おれがどれだけの時間弓を射ることに費やしてきたかおまえにわかるか。矢が外れたときのことを考えてきたかわかるか」
「そうか」椛は腕に力を篭めた。
「ああ……その前にいいことを教えてやろう」老人はかすかに微笑んだ。「おまえたちは東京へ行く気か。そうであるならやめておいたほうがいい。怖ろしい数の人妖があそこへ至る道のことごとくを封鎖している」
椛は首に食い込む寸前で刃を止めた。
「とうにばれてるんだよ、おまえたちの目的地は……なんとなくだろうが……八ヶ岳を越えてきただろう、あれで見当をつけられた。もうどうやっても東京には辿り着けんぞ。それはもう火を見るより明らかなことだ」
「怖ろしい数?」
「ばらばらだった人妖の社会が覚という共通の敵を得てひとつにまとまったわけだ。利害の一致ってやつだな。めでたいめでたい。なにもかもクソだ」
「おまえはどうしてひとりで来た」
「おれは群れるのがきらいだ」老人は自嘲気味に笑った。「そういう言い方は卑怯だな。ただ単に友だちがいないだけだ。昔から暴力以外に取り柄なんぞなかったから。女房にも逃げられた」首を振った。首輪でもつけられているようなぎこちなさがあった。「鬼退治にな、憧れてたんだ。こんなおれでも……なにか達成できることがあるんじゃないかと。覚妖怪に鬼がくっついてるなんて知らなかったがな。おまえは天狗か。天狗を射ることができたらさぞかし……嬉しかっただろうな」
「残念だったな」
「ああ、残念だった。名前を教えてくれ」
「犬走椛」
「紅葉だ? 季節はずれのひどい名だ。ああ、だがいいな。おれのお袋も紅葉という名だったんだ。もらった恩をなにも返せずにいっちまったが」老人はまた首を振った。「煙草を吸わせてくれ。最後の願いだ」
椛は頷き、剣を引いた。
引いた瞬間に老人の腕が跳ねた。矢に手が伸びた。そうして振るった。が、その速度はひとを殺すにはあまりにも遅すぎた。椛は剣を振るった。
椛は老人の目に光を見た。光が消えるところも見た。その奥にある意思まではっきりと見えた。
「ばかものめ」
崩れ落ちていく老人のからだに言い放った。老人は死んだ。最後の目的を達成した者の清々しい顔をしていた。椛はそのあとすぐしゃがみこみ、彼の暴力の彼なりの思いやりに感謝を篭めて言った。
「……すまない……ありがとう……気を遣わせてしまった」
こいしはのろのろと起き上がった。指先が床を這い、毛布を見つけた。
「この、ばか」
囲炉裏の横に座る勇儀の顔めがけて投げつけた。
あらゆる罵倒を口にしたかったけれど、できなかった。代わりに燃える瞳で睨みつけた。もしそうできるなら目で殺していたかもしれない。勇儀は呆れたようにこいしを見返し、笑った。
「わかってほしいんだがね……悪意はないよ。暴走気味だったのは認めるが、そんな格好で誘うみたいな真似をするのも悪いんじゃないかい」腹をかき、こいしに触れられた傷痕を撫でた。
「あほばか死ね」
勇儀は溜息をつく。「謝りはしない」
こいしはぷいとそっぽを向いた。獣のように頭を振り、小屋の隅に溜まる闇のなかに分け入り、そこで服を着始めた。勇儀は顔を背けたが、ちらと目を走らせた。肉付きの薄い白い臀部が震えていた。
「みるな」
「ああすまんすまん」
あれだけ乱れておいてそりゃないだろう、と勇儀は思った。「うるさい。乱れてなんかない。知らない。死んじゃえ」つれないね。まあそういう意志のがっちりしたところも好みだが。「うるさいうるさいうるさい。やめて。思い返すな。……思い出すなっ! 忘れろ!」さとりには内緒な。申し訳が立たん。「だったら最初からするな」
こいしは着替えると勇儀の横に来て座った。腰を落ち着けたわけではなく、すぐに飛び退けられるよう、重心を高くしていた。全部忘れてなかったことにするつもりだった。が、頬はどうしようもなく染まっていた。
勇儀は横目でこいしを捉えながら火を見ていた。遠い雨の音を聴いていた。
「気を遣わせてごめん」こいしはおもむろに口にした。
勇儀は彼女を見た。彫像のように硬い横顔には恥じ入る感情と緊張があった。子供の顔つきに古傷のような苦悩が刻まれていた。
「どうして謝るんだい」勇儀は一瞬、自己嫌悪のどうしようもない感覚に取りつかれる。
こいしは首を振った。自分の気持ちなど自分でもわかっていなかった。火照った気だるさのなかでただ謝りたくなった。
「第三の目で……未来を見ることはできない。私は自分がこれからどうなるのかわからない。だから代わりに謝っておくの。未来の私の代わりに。そういうのって……卑怯だと思う? けど……」
勇儀は彼女に触れたくなる。大丈夫だ、と口にしたくなる。大きな手が伸び、彼女の肩に回され、引き寄せる。
四人は無事合流する。が、別れた以前とは違う雰囲気が漂っている。勇儀とこいしの間にはぎこちなさがあり、地子はそれを敏感に嗅ぎ取る。地子にはそれがどうやってもたらされたものかわからない、が、変化に伴う際どい一歩目だということはわかる。それが良いことにしろ、悪いことにしろ。
「放っておけ」と、椛は地子に言う。「それが礼儀だ。本人たちの問題だ。われわれに介入できるような類のことじゃない」
「椛はふたりになにがあったか見たの?」
椛は頷く。「最初から最後までずっと。見えてしまったものは仕方がない」
椛は勇儀に老人のことばを話す。
「信用はしていいと思います。嘘をつくメリットがない」
「そうなると」勇儀は虚空を見て言う。「厄介だな」
「一巻の終わりタイムに突入したということでしょう。私は地子さえ見られずに家まで送り届けられればそれでいい。だがあなたはこいしを連れて帰らなくてはならない」椛は淡々と言う。「ひとつ犠牲になる駒が必要だ。だったら」
勇儀は椛のことばを遮る。「よせ」
椛の千里眼が東京周辺の妖怪たちの姿を捉え始める。こいしの第三の目も。腕利きたちが揃い、彼らに振り分けられた仕事を忠実にこなしている。強引に分け入っていくことはできない。
今はもう主人のいない小屋で四人はからだを休める。が、それ以上どこへ行くこともできないとなんとなくわかってしまっている。どうすればいいか? 勇儀と椛は小屋の外で長く話す。答えのない問いを繰り返し考え続ける。
こいしは地子とともにいる。旅の終わりがもたらす別れへの予感がふたりの会話を沈ませる。話すことばより沈黙を分かち合う時間のほうが多い。地子はおもむろに訊く。「勇儀となんかあったの?」
いっとき、こいしは口を噤む。小さなからだに刻まれた彼女の感覚を自分から追い出そうとする。無駄だ。ただ切ないだけだ。
第三の目を鷲掴みにする。心が入り込まないように。慰められたりしないように。私にはそんな資格はない。忌み嫌われたうえにそんな自分を否定するような女には。これまでずっと……これからもずっと。
地子はこいしの手に自分の手を添える。「だいじょうぶだよ」もう一度言う。「だいじょうぶ」さらに繰り返す。「きっとだいじょうぶ」
こいしは彼女を見る。そうして口のなかでことばを転がす――『大丈夫』。
どうして自分が崩れ落ちそうなときにそれでも他人に手を差し伸べられる? 心の一部を他人に分け与えられる? そこにはなにか自分には思いつきようもないものが作用しているのかもしれない。彼女たちの心には自分には見えない……計り知れないものが眠っているのかもしれない。
目を閉じる。闇が広がる。目を開けば闇は消える、が、目を閉じても光が霞みのように消えてくれるわけではないように、目を開いても闇が霞のように消えてくれるわけではない。こいしはそのことを深く考えようと、また目を閉じ始める。
「あたし、帰れなくったっていい」
地子は小屋を出るなり椛と勇儀にそう言う。
「自分ちにいると……なんでも我儘も聞いてもらえるし、なんだって食べられるけど、でも、それってつまんないことだよ。こいしを探して家を出て、ふらふら歩いていったときのほうが辛かったけど、なんていうか、じゅうじつ? してた。みんなと一緒に旅してるほうが楽しい。でもみんなは帰ってよ。あたしは……北のほうにでも行きたいな」
そういうわけにはいかなかった。地子には社会のなかで生きる権利があった。それは社会の者たちの勝手な都合によって押し潰されていい権利ではなかった。
「これは私たちの意地だ」と、椛は言う。「おまえがこれからどう生きるのか。それはわからない。けれどおまえは家に帰らなくてはならない。そうして自分の影と向き合わなければならない」
「だって、それでみんなが――」
「わからないか」椛は屈みこみ、地子と目線を合わせる。「おまえはこいしの友だちだ。本当の意味で。こいしのために世界の果てまで歩いていった真の」地子の胸に拳を当てる。「これは私からのお願いだ。頼む」言い聞かせるようにではなく、懇願するように言う。「私にもそうなれる機会を与えてくれ。暴力しか取り柄のなかった私にもなにか達成できるものがあると信じさせてくれ」
死んだも同然の時間が流れる。一日。二日。三日。四日。さらに続く。五日。六日。七日。八日。
勇儀は東のほうを見つめ続ける。彼らが諦め、分散しないかと。隙はどこかにないのかと。時折、自分ひとりで道を歩き、限界線上まで試すこともある。見つけられないぎりぎりのライン。わかったのはこれ以上はどうしようもないということだけだった。
小屋で暮らす曖昧な時間。四人、家族同然の生活。旅の間のことをぽつぽつと話し、笑い合い、しみじみとしあう。話題がなくなると沈黙を友に緩やかな時間を送り始める。地子は勇儀の膝に乗ることもあれば、こいしの隣に身を寄せることもあったけれど、椛の尻尾に包まっている時間が最も長かった。結局この旅で一番仲が良くなったのはあなたたちふたりだったね、とこいしは椛に言う。椛は反論しかける。おまえたちほどではない……そこでこいしから咎めるような視線を受けて顔を逸らす。
にとりが訪ねてくることもある。地子はにとりのことを覚えていた。五歳の頃、川で溺れかけた自分を助けてくれた河童。命の恩人。にとりは顔をくしゃくしゃにして彼女を抱き締める。覚えていてくれてありがとう、盟友。
「このことが終わったら」と、にとりは椛に言う。「消えるよ。こんなことが赦される社会にはもう居れない」
「どこへ行く」
「どうしよっかな……遠野に帰ってもいいけど、外国も行ってみたいな。海を渡って……西へ……椛は?」
「どうするかな」
「文様を頼って幻想郷へ行ってみたら? 私もいずれはそうするよ」
椛は曖昧な沈黙を答えにする。
穏やかな時間が太陽を持ち上げ、落とす。月を掲げ、沈める。季節は梅雨。大抵は白くけぶる雨空だが、稀に、その白の断層から水色を覗かせることもある。夜。椛は地子を連れて小屋の外に出る。そうして雲の隙間から見える星座を淡々と教える。地子は黙って椛のことばを聞いている。
「今日はこのまま外で寝てしまうか。地子」
地子は小屋のなかをちらりと見やる。そのなかのふたりも。そうして頷く。「うん」
地子はそうやって他人に対する気遣いを知る。椛の尻尾に包まり、彼女の背中を見ながら目を閉じる。
こいしはそんな彼女たちの心を目にし、溜息をつく。居心地悪く身を揺する。勇儀がそんな彼女に近づき、その隣に腰を下ろす。
「こいし」
こいしは顔を背けてその声に応える。「や」
勇儀は顔に手を当て、深く息をつく。「いい加減赦してくれって。謝るよ、この通りだ。ごめん」
「悪いことしたなんて思ってないじゃない。口先だけ。言の葉だけ」
「参ったね、こりゃ。こうして話すくらいはいいかい?」
「もう話してるじゃん」
「はは。全くその通りだ、一本取られた」
こいしは俯く。第三の目に手をやり、ゆるゆるとその瞼を撫ぜる。「すごいね」
勇儀はそのことばの意味がわからずにこいしを見やる。「なにが?」
「見えるよ。ものすごい数の人妖が私たちの行く道の先に集まってるのが。あれだけ同じ色の心が集まってると、日本の端にいても彼らを感じられそうだよ。いろんなひとがいる……見られたらそれで終わりのときを迎えてしまう秘密を持っているひととか……そんなひとたちに強引に連れてこられて協力させられてるひととか……自分から、心からの思いやりで彼らに協力してるひととか……真剣なひとも愚痴交じりのひとも、みんな……」こいしは歪んだ笑みを見せる。「あはは」その声には乾いた響きがある。「あっほらし。私はいまさらなにを覆そうとも思ってないのに。これだけ大袈裟になったのって九尾狐が大暴れしたとき以来のことじゃないの? そのときは私は産まれてもいなかったけど」
勇儀は手を伸ばす。その指先はこいしに払われる。苦笑混じりに勇儀は言う。「ああ……そいつのことは知ってる。私もいたんだ、その戦いには。狂気染みた怖ろしいやつだったけど、その分傷だらけだった」
「九尾狐って結局どうなったの?」
「自分を殺した女に使われてるよ、今は」
「私もいずれはそうなる?……わけないか。そんな力のある妖怪じゃないし」
こいしは懐に手を入れる。再び出てきた手には小刀が握られている。勇儀が与え、そのまま彼女が持ち続けている刃。柄を弄びながら、その先端にこいしの視線は注がれている。
「私は……地子が帰りさえすればそれでいい」
「ああ……」
「そう思ってたけど、なんか……楽しかったよ、この旅。今も。こうして四人一緒にいると、なんだか家族みたい。お姉ちゃんしかいたことなかったから、そういうひと。すごく新鮮。家族っていうか、仲間かな? よくわかんないけど」
「そうかい」
「同じ目的を持って、それに突き進む……一緒に突き進んでくれる……友だち。今までは生き残ることでいっぱいいっぱいだったのに、なんだかな……なんて言うのかな……」
「連帯感?」
「そう、それ。すごく居心地がいいや、そういう感覚って。いずれはこんなのも終わることだってわかってるのに、視点をちょっと変えてみればつまんないことだってわかってるのに、堪らなく嬉しい。高揚する。旅のなかの全然気の休まらない時間も、不自由な生活も、みんな楽しく思えちゃう。正直なとこ、これで……世界を敵に回してもいい、って思えるくらい……あはは。とんでもないことだね」
そこで沈黙が落ちる。こいしは口を噤み、右手で小刀に、左手で第三の目に触れている。仮面のように遠い、苦い微笑みを浮かべている。
勇儀はそんな彼女を見ている。思い詰めた顔の張り詰めた美しさ。今にも崩れ落ちそうなところで、ただ意志の力だけで立ち尽くし、風を越えて地平線の向こう側を睨んでいるような、そんな印象がある。
このまま皆で消えてしまえればどれだけ楽だろう、と勇儀は思う。全てが正しかったら。彼女は覚妖怪ではなく、椛は天狗ではなく、地子は人間ではなく、私は四天王ではない。ただの気が合う旅の道連れ。遥か北へ……東京など素通りして東北へ……北の海を越えてさらにその先にある土地へ。肩を寄せ合って寒さを凌ぎ、その日その日の食べるものだけを調達して火を囲み、居心地のいい街があればそこに一ヶ月でも二ヶ月でも滞在して。
そこまで考えて、本当にそんな光景が瞼の裏側に浮かんできてひどく困惑した。希望ではなく、まるで過去の映像。椛の尻尾のなかで成長する地子の未来の姿まで浮かんできた。きっと美しい娘になるだろう。我儘で自分勝手で、勝気でへこたれないタフさを備えた――天使のような娘。
願望には限りがない。時間も空間も越えてそれが当然のことのように不自然が自然になる。限りない空の下、われわれ四人が座って酒を飲み交わしている。姉なのだからこいしを呼んでさとりもくる。さとりに連れられて燐や空もくる。椛を探してあの河童の娘もくる。河童の後ろに話に聞いただけだった烏天狗もやってくる。パルスィが呆れて妬みながら酒の追加を持ってくる。賑やかなのが大好きなヤマメもくる。ヤマメと一緒にキスメもくる。そこまで無礼講になれば、今はどこにいるのかもわからない懐かしきわが友、萃香がいてもおかしくない。
ひどい情景だ。どいつもこいつも一筋縄ではいかない厄介者揃い。地底に押し込められ、社会から隔離された者たちの宴会。許されざる罪人たちの許されざる会合。
――ああ、そんなのはただの夢だ。未来永劫、決して叶わぬ幻想だ。だからこそこんな現実が前にあるのだというのに。どれだけ天文学的な奇跡が起これば、そんなところに到達できるというのだ?
勇儀はいっとき、願うより諦めることを知った自分の心を恨めしく思う。口許に手を当てる……そこで初めて、自分が泣きそうなことに気がついた。そういうレベルにまで感情が蠢いているのを知った。けれどももう、そんな機能は自分には残っていないとも思う。
「……できる、としたら?」
不意にこいしが言う。
勇儀は彼女を見る。「――なに?」
こいしは発育不全のことばを続ける。「誰にも気づかれずやつらの死線に割って入り、地子を地子の家まで帰すことができるとしたら?」
「こいし?」
「地子はまだ顔を見られていない……家に戻ってじっとしてれば……波風立てなきゃ気づかれない。そういう場所まで……誰にも見られず……道端の小石のようになって進むことができる、としたら?」
彼女の声には思い詰めた響きがある。覚悟の色。ここで自分の全てが終わっても構わないという者の最後の足掻き。
「どうした、こいし? なにを言っている?」
「踏み込んだ先の暗闇。地底にくる前、目を閉じかけたあの日は気づかなかったけれど、あなたに呼びかけられたあの日、私はその先にあるものを垣間見ることができた。私の理解の範疇を超えかけてはいたけれど、今はなんとなくわかってきた。心を閉じた心の裏側。無念無想の境地の普遍化。それはどういうことを意味する?……心がなければ心には気づかれない。閉じた瞳はなにも映さない。そういう状態に自分を、他人を引き摺りこむことができる、としたら?」
こいしの手が小刀をくるくると操る。
「生と死の境界を縫う能力が私に与えられたとしたら? そのきっかけとして、スイッチとして与えられたものがこの手のなかにあるとしたら?」
「おまえはなにを――」
「心にはいつも矛盾がある。あなたは言ったよね、暴力という極限の形でしか自分を救済できなかったひとたちの話。考えてみれば不思議だよね。自分を救うためには自分から自分の命を手のひらに乗せて差し出さなくちゃならないなんて。
もし――自分を肯定するためには自分を否定しなきゃならないとしたら? 例えば、そう、それは旅と似てるんじゃないかな。世界の果てへ行くことで自分を表現しようとするなら、そこに至るまでに転がってるあらゆる危険や困難を背負わなくてはならない、それによって自分が丸ごと押し潰されても。ちょっと大袈裟かな。もっと簡単に言えば、船乗りみたいだよね。海は何人もの人間の命を吸ってきたけれど、彼らは彼らの仕事を果たすためには海に出なきゃならない」
勇儀はなにか悪寒に取りつかれて手を伸ばす。こいしは猫のように素早く退き、勇儀と対峙する。
「こいし」
「もし」こいしは小刀を強く握る。関節が白むほど。「自分で自分の全てを否定することで、友だちを助けてあげられるとしたら? 自分を捨てれば友だちが助かるとしたら?」
「こいし!」
こいしは小刀を握った手を持ち上げる。
「私は……地子を助けたい。私なんかを……私なんかを!……友だちだと言ってくれたただひとりの人間を!……そのためならなにを犠牲にしても構わない……なんでも……!」
勇儀は彼女に駆け寄ろうとする。が、こいしのふたつの目に浮かぶ光が彼女を押しとどめる。鬼の四天王さえ威圧するほど強い意志の瞳。
勇儀は彼女に呼びかける。「こいし、おまえ、まさか」
「勇儀、ごめん」と彼女は言う。「やっぱり台無しにしちゃったよ。私のことばも、あなたの好意も、やっぱりみんな無駄にしてしまった」
そこで彼女はにっこり笑う。勇儀にはその表情が見えた。笑っているはずなのに両目からとめどなく涙が零れ落ちているような幻が見えた。
「よせ! こいし!」
勇儀は床を蹴った。が、こいしのほうが速かった。
勇儀から預かった小刀の先端が第三の目の瞼をふたつに割った。布のちぎれるような乾いた音が響いた。その瞬間、こいしの存在が勇儀の意識の手から零れ落ち、なにも見えなくなった。からん、と小刀が床に落ちる音だけがした。
椛は目を醒まし、目を開けた。すぐに違和感に気づいた。叫ぶ勇儀の声が聞こえた。が、その対象は彼女の目に映っていなかった。なにかがおかしい。なんだ? あるべき場所にあるべきものがない。そんな感覚。
こいしはどこへ? 辺りを千里眼で走査する。いない。どこを探してもいない。どれだけ目を見開いても見つけられない。そんな経験は椛にとっては初めてのことだった。忌み嫌われた目がなにも映せない。普通の目のように。
「こいし?」
暗闇に向かって呼びかける。困惑の色が入り込んでいる。なんだ、これは……なに? 小屋のなか、勇儀の前の床には一滴の血が落ちている。喪失した乙女のように。勇儀はその場に膝をつく。表情は凍っている。
「椛」
闇のなかから声がする。椛はその方角へ目を向ける。なにもない、しかし……「こいし?」
空間そのものから話しかけられているかのような感覚。こいしの声はなおもする。「ごめんね。ありがとう」そこでこいしの姿がようやく見える。「地子を連れていくよ。たぶんこれで大丈夫だから」
「こいし」椛はもう一度呼びかける。「おまえ」
第三の目が見える。ぽたぽたと血を零している。痙攣したように震えている。目の光はもうどこにもない。が、椛に見えたのもそこまでだ。気がつけば彼女は影のように後ろにいる。その初動を捉えきれない。
「地子」
こいしは尻尾に包まって眠る地子に呼びかける。地子は目覚める。「……え、こいし?」
「行こう」
「どこへ――」
止める間もなく、ふたりの存在が椛の意識から消える。視界になにも映らなくなる。
椛は小屋に入る。勇儀は立ち上がり、彼女に振り返る。「犬走」その声にはもう静止の絶望はない。打開策を探して必死に己の脳内を検索している。「こいしが行ってしまった」
「地子を連れていかれた。彼女は目を閉じていた。これは一体?」
「わからん。心を読む妖怪が心を読むことを忘れた……その先にあるモノ、としか言えん。彼女がそこにいることを私の意識が捉えきれなくなった」
「こいしはそれで東京に行くつもりですね」
「ああ、だが、あれだけの人妖がいるなかで発現したばかりの能力が完全に信用できるかと言えば……あいつ自身が消耗しないかと言えば……」勇儀は唇を噛む。「止められなかった。くそっ!」
椛は小屋のなかを見渡す。昔ながらの乾いた木の家。ここで何日も過したのだ、と思い返す。まるで家族のように。それが幻想でしかなかったとはいえ。もう二度と目に見ることのできない思い出とはいえ。椛はなおも思う……われわれは生き方が大雑把すぎて、そういうものに無頓着すぎる。
「ずっと思っていた。この家はよく燃えそうだ」
勇儀は椛を見る。ことばの意味がわからない。彼女はなにを伝えたい?
「火を見るより明らかだという言の葉がありますが私は生まれてこの方火以上に明らかなものを見たことがない」
「そんなことより、今はこいしをどうにかして助けるすべを――」
「然るべき手に握られた一本のマッチはひとを殺しもすれば温めもする。家を温めもすれば焼きもする」
「――なに?」
「ここでこの家が燃えれば辺り一帯を巻き込める。火には皆の注目を引きつける人知を越えた魔力があるように思える。対岸の火事は皆大抵は見に行く。ひとが集まればその分他の場所のひとが少なくなる」椛は声を潜め、打ち明け話をするように囁く――「連中の意識をここに引きつけましょう。手っ取り早い策は――火だ」
上空を旋回していた天狗の目に煙が映る。家が燃え、その周辺の林まで巻き込んでいる。一報はすぐにその辺りの人妖に広がる。まずは消火を。そして捜索を。そこでなにがあったのか。覚妖怪に関係した事件なのか?
勇儀は闇のなかを駆ける。羽織った外套がばさばさと音を立て、裾が捲れあがる。上空を天狗が飛んでいくのが見える。遥か後方、自分たちが暮らしていた辺り、地平線から乾いたオレンジ色が立ち昇り、陽炎が揺らめいている。
天狗が近づくたびに気配を殺し、道を逸れる。見つかるわけにはいかない、だが……
『あなたはこいしを連れて帰らなくてはならない』
と、椛は言ったのだった。
『だからあなたは行く。こいしが見つかるかどうかは賭けかもしれないがこいしのほうであなたを見つけてくれるかもしれない。どのみち私の千里眼はもう彼女を見つけられない』
噛んだ唇が破れて血が溢れた。
『私はここに残る。少しでも時間を稼ぐ。やつらに私を見つけさせる』
『そうなったらどうなる?』
『最悪の雌犬が主役のクソ調教タイムということになるのでしょうか。あるいは。誰かがクソ男らしさを主張するためだけのクソ穴にでもされるんでしょうかね。ただ私はクソバター犬にはまったくもって適さない。だいたい噛み千切ってしまうので』
『そうしたらおまえは……どうする?』
『先輩を頼って幻想郷に行こうと思います。そこで受け入れられなければもう仕方がない、野垂れ死にでもなんでもします。罪人をそう容易く受け入れてくれるとも思いませんが』
おまえたちは、と勇儀は思う。どうしてただ友のために持ち得る全てを差し出していくような真似ができる? 世界の果てまでなにも持たずに突き進んでいくことができる? 地子にしろ……こいしにしろ……椛にしろ……どうしてそんな小さなからだにそこまで高貴な魂を持つ権利があるんだ?
自分のことを思う。なあ、こいし、私はできなかったよ――萃香がわれらのもとを去ったとき、追うことができなかったんだよ。おまえたちのようには。
椛は勇儀が去っていくのを見届ける。右目が痛み、不意に熱くなり、手のひらで押さえる。
自らがもたらした火の舌が自らの周りを覆うのを見ながら、椛はその一帯を歩く。燃えそうな木があるとその根元まで行き、油をぶちまけて着火する。乾いた空気が空へ立ち昇っていくのを見上げ、世界が夜に不自然な明るさを内包するのを見届ける。
もうあの三人には会えないだろうな、と思う。ここが私の旅の終わり。あるいはひとつの生き方の終わり。
不意に微笑みが唇に零れ、椛は自分でも驚いた。ばかだな、と思う。滅亡が扉を叩いているところまで行って、自分からそこを開けようとしている。取り返しのつかないことをしている、と自分でもわかる。社会を構成して生きる天狗が、自らその社会に背を向けてどうするというのか。
一匹狼でも気取ろうとしていたのかもしれない、とも思う。なにかを証明したかった? そうした自分の意志が全てに刃向かうことになっても。熱に浮かされたような旅路、自分はおまえたちとは違うのだと、子供染みた主張を声高に言ってのけたかった?
いや……なんだっていい、もう。火を見ているとそうした思いの全てはただの張りぼてのように思えてくる。なにもかもクソだ。
「地子。私はおまえを助けることができただろうか」
人生であまりにも短い期間をともに過しただけの仲とはいえ。
成長したとき、地子はこの旅のことをどう思うのだろう。ただのちょっとした人生のスパイス程度に? 根っこの部分まで深く食い込んでいく進むべき道の指針に? 勇儀のことは? こいしのことは? 私のことは?
――わからない。見えない。今はもう全てが闇のなかだ。
「さよなら」
椛はそっと呟く。火が木を舐めてぱちぱちと散っている。そこへ天狗の部隊が降りてくる。
「やはりおまえか。犬走」
椛は彼のほうを向く。火を背景にしてその姿は黒く染まっている。
「定期連絡もなにもしないでおいて。これはどういうことだと問い詰めてもいいが、なんにもならんことももうわかる。確認せねばならぬことはひとつだけだ。おまえはわれらを裏切ったのか?」
椛は頷く。
「おまえは最悪の天狗だ、犬走」彼の背後に潜む天狗たちが弓を手にし、矢を引く。「ばかものめ。恩知らずが。社会にもうおまえの居場所はないぞ」
その言の葉は火のように椛の心を焼いた。彼女の人生の暗部を内側から照射し、彼女自身の自責と罪悪感を引き連れて心の道筋を蹂躙した。そうだろうな、と椛は投げやりに思う。おまえの言う通りだよ。私は最悪の天狗なのかもしれない。それは結局のところ全世界で最悪の存在ということにでもなるのかもしれない。
が、崩れ落ちかけた心の内で怒りが再動した。それが全てを失った彼女の支柱となり、軸となった。椛は黒い目で彼らを見つめた。白い装束が焦げつく匂いがする。大刀を抜き、牙を剥いた。その表情はしかし、ギャンブラーのように色がなかった。
椛は地を蹴り、天狗の群れのなかへ飛び込んでいった。絶叫が耳にこだました。なにかを斬りつけ、なにかに斬りつけられた。口のなかがかっと熱くなった。視界が揺れ、熱いものがからだに飛び散った。背中から矢が生えた。断片的な映像のように自分の腕が大鎌のように振られるのが見えた。振り返り、叫んだ。牙から血が滴った。首が飛ぶのを見た。鼻がつまり、なにも匂わなくなった。黒かった。どうと倒れ、土の味がした。闇雲に刃を振るい、その先端がなにかに刺さった。
が、見えたとしてもそこまでだ。椛はもう狼そのものとなって地を這い、獲物を探して闇のなかをゆるゆると見て回った。天狗の増援が来ると彼らとも戦った。息が切れ、思考が熱く途切れても、延々と腕を振るい続けた。鉛のように重かった。
どこか遠い場所から、自分の叫び声が聞こえた。なにもない彼女が剥き出しにされた心を訴えていた。
「クソ社会が私になにをしてくれたっていうんだよ!? ええ!? 偉ぶったクソ言の葉を並べ立ててちっちゃな女の子をずたずたに傷つけただけのクソ張りぼてじゃねえかよ!! てめえらはこれまでなにを見てきたんだ!? てめえらと私となんの違いがあるってんだよふざけんな私はてめえらの全てを見てきたんだ私の見てきたてめえらは私と同じただのクソ穴でしかねえんだよ!!」
自分でもなにを言っているのか聞こえなかった。が、その心だけは見えた。心以外は全てを映す千里眼に、自分の心が見えていた。
全てが焼き尽くされた荒野で椛は倒れた。夜が明ける気配はなかった。実際のところどれくらいの刻が経っていたのか見当もつかなかった。ただ疲れていた。
荒く小刻みに息を吐いていた。それさえも辛かった。今すぐ全ての機能を停止して闇に沈んでしまいたいくらい疲弊していた。が、気持ち悪くて眠ることさえできなさそうだった。
どうしてこんなことをしたんだろうな、と思う。あのちっぽけな少女のために、社会のなかで今まで培った軌跡をみな投げ打った。我慢して、我慢して、我慢して、そうやって得た哨戒天狗という職も、そっと隠していた心の帳も、みんな捨ててしまった。
傍から見ればこんなのも愚かな行為なのかもしれない。命を賭ける価値などここにはなかったのかもしれない。正論はどこまでも正論に過ぎない。けれどそんなもので熱と怒りは御しきれないというのもわかる。
「結局はこうなるんだろうな。私は」
見、暴力を振るうしか取り柄のなかった自分。どんなに深く腹の底に沈めた本性も、いずれは心臓を登って喉を通る。熱くなりすぎず、冷たくなりすぎず。そう自分に言い聞かせ、実際に今まではそうやって自分の身を守っていたというのに、どうして今回はこんなにも熱くなってしまったのか。
それもまた幻想だ、と思う。あのちっぽけな少女のために私の全てを差し出す行為などは。
けれど世界じゃそんなのは珍しくもなんともない。私はそれをこの目で見てきたんだ。
後悔は――ない。
だけど、もう、疲れた。
眠くなってくる。目を閉じる。居心地のいい暗闇がそこにある。瞼越しに千里眼によって見える光景も、今では大人しくなってしまった。
このまま新しく天狗の増援が来ても、もう時間は充分に稼いだし、引っ掻き回してやった。このまま倒れ伏していても……
「椛――」
なにかが聞こえた気がした。
「椛――!」
聞き慣れた声。
「もみじ、もみじ――!」
目を開ける。自分の顔を覗き込むようにして、ふたつの目が潤んでいる。
椛は苦笑する。その目がまるで、天使の目のように見えたから。かつては自分を蔑むものでしかなかったそのことばが、今は嘘偽りのない率直な感想になってしまったから。
「地子」
どうして彼女がここにいるのか。すぐ傍にこいしが立っていた。捉えどころのない変わり果てた雰囲気を漂わせて、椛を見下ろしていた。
「歩いていたら、火が、見えたから」とこいしは言う。「わからない。気づいたら戻ってきていた」
「ひとの想いを踏みにじって。私の行為を丸っきり無駄にして。なんてひどい女だ、おまえたちというやつは」が、そのことばにはどこまでも透き通った穏やかさしかなかった。
地子ががむしゃらに抱きついてくる。「椛」椛は手を伸ばして彼女に触れようとした。「椛」触れたところに熱い涙が零れた。「あたし、強くなりたいよ、椛。誰かと一緒にいても誰にも文句なんか言わせないくらい。敵対するやつみんな黙らせられるくらい。やだよ、こんなの。あたしはみんなと一緒にいたいよ。ずっと一緒にいたかったよ。そうできるくらい強くなりたいよ、あたし、あたし」
「なるがいい。地子」椛は彼女の目の下に指を這わせた。「いくらでも強くなるといい。私たちは自由だ。どんな境界も私たちを自由から切り離し、束縛することなどできはしない。私は必ずおまえを見つける。私の自由を以ってまた必ずおまえと出会う。忘れるな。おまえがそう望む限り、おまえはいつでも私たちだ」
椛は手を下ろした。
「行け。こいし。いずれまた天狗がやってくる」
「あなたは?」
「ここでくたばる気なんぞ毛頭ない」
こいしは頷いた。そうして最後に虚ろに言った。
「ありがとう、椛。さよなら」
「違う。こいし。また会おう、だ」
ふたりの気配が意識から逸れたあと、椛は立ち上がろうとした。できなかった。手を地面に這わせて大刀を捜した。それはすぐそこにあってくれた。刀を杖代わりにして立ち上がった。まとわりついた土がぼろぼろと零れた。
怒りの方向を間違えるな、と椛は思う。私はこれを生き延びるために使う。あの娘と絶対にもう一度出会うために。
そうしたら、そう、そのときは――ともに酒でも飲みながらこのことを笑い話にすることもできるだろう、肩を並べて語り合うこともできるだろう、きっと。いくらでも。
偉ぶった言の葉を並べ立てた挙句道を探しもせずに停滞するだけのクソ悲劇に成り下がるつもりなど毛頭ない。それに抗しうる黒い怒りがいまだこの心に滾っている限り。
こいしに背負われていると自分の意識が消えてなくなるのを地子は感じる。時間が止まっているような感覚。心の動きに気づけない。なにもかも闇のなかに沈んでいく。呼びかけたいのに、それができない。こいしの体温すら感じない。
自分の弱さ、ちっぽけさを再認識させられてるような感覚がある。そうした想いさえも無意識のなかに落ちていく。が、それは霞のように消えているわけではない。根っこの部分に深く染みとおり、自分そのものになる。
「こいし」と、地子はどうにか口にする。「こいし――」
気づくと下ろされていた。
空を見上げる。雨の降る寸前の黒い雲。光が奔り、遠雷の音が聞こえる。
椛と別れてから何日経ったのだろう? 何時間経ったのだろう? 何分程度の短いものかもしれない。わからない。
「ここからはもうひとりで行けるよね」
こいしの声が聞こえた。行けた。もう自分の家はすぐそこにあった。ああ、けれど、なんて魅力がないように思えるのだろう。旅路の果てしない世界に比べて、ここはなんてちっぽけに思えるのだろう。
「さよなら、地子」
唐突な別れのことばに地子は慌てた。
「――っ! 待って! こいし!」
が、こいしの姿は見えなかった。彼女の吐息を感じられなかった。
「――っっ!」
が、それでも地子にはわかった。幼い者の鋭い勘が告げていた。こいしはまだそこにいる。見えなくなってもそれが霞のように消えるわけじゃない。確かにそこにある。誰にも見えなくてもあたしにはわかる。
見つけろ、と地子は自分に命じる。ここまで来てこのまま別れるなんてあんまりだ。哀しみより怒りが先行する。怒りが前に突き進めと心を激しく突き動かす。
あの頃と同じ感覚。こいしに置き去りにされた三年前と。けれども今は、あたしだってあの頃とは違う!
あり余る膨大な感情に任せ、地子は腕を振るった。なにも想わず、なにも念じない。無我夢中でなにもない虚空を掴み取り、引き寄せる。
「あたしは――」
怒りがことばに染み出す。プロミネンスのような響きが篭もる。
「絶対にあんたたちとまた会う」
逃げ場のない真剣さによるひたむきな決意表明。
「絶対……絶対に……絶対にあんたたちを見つける。絶対にあんたを捕まえる。いつか。絶対。あたしは絶対にそこまで辿り着いてみせる。そのためだったらいくら傷ついても構わない。列車に轢かれたって止まんない。そのためなら神さまに喧嘩売って、素手で打ち合ったっていい。いくらでも。絶対に……」勇儀の姿が瞼に浮かぶ。「みんなところまで、絶対に」椛のことばが耳に張りつく。「みんなで――」こいしの手の温もり。「みんなでまた、絶対に」ことばが千切れる。嗚咽が混じる。「一緒に、また、みんなで――」
それが未来永劫叶わぬ幻想だとしても、絶対に。
こいしの手が離れるのを感じた。
地子はその場に膝をつき、濁流のような感情にひとり耐え始める。が、そうした時間もすぐに終わる。彼女は立ち上がり、家への最後の道を歩き始める。旅路の終わり。が、それでも地子にはもうわかっていた。ひとつの旅の終わりはひとつの旅の始まりに過ぎない。本当の戦いはこれから始まるのだ、と。方向を転じ、自らの試練と向き合うときが来たのだ、と。
――雨の音を聴いていた。
雨はいつでも傍にあった。血を分けたただひとりの姉の手に引かれ、世界を這い回るだけだったあの頃から。地底へ逃れ、そこでさえ遠ざけられて虚ろに歩き回っていた頃から。
雨は……嫌いではなかった。いや、嫌いだったのかもしれない。好きだっただろうか。好きではなかっただろうか。今はもう、そうしたことを考える余裕さえない。
発現したばかりの能力。目を閉じる前は、心を読む能力がひどく重荷だった。背中が押し潰されそうな感覚をずっと持っていた。が、それで目を閉じてみたら、今度はどうだ?……重すぎる。心の裏側にある能力……無意識? よくわからない、ことばにできない、けど……
再認識したことがある。ひとの心はひとには重すぎる。あらゆる感情に刃が与えられたとしたら、このからだはすぐにぼろぼろに崩れ落ちてしまうくらい。いや、刃などなくてももうすでにずたずただというのに。抱えて生きるには辛すぎる。辛すぎることをなんでもないかのように強いられている。
なにも思わず、なにも感じない。あるいはそう、そんな心になれば少しは楽なのかもしれない。でも、無理だ。そんなことは誰にもできやしない。
なら、どうする? ここで命でも絶ってみるか。二度もやったことだ、いまさらできないこともないだろう。どこかで刀を探して、それを第三の目に突き立てたみたいに、心臓を一突きすればいい。
どこで試そう? 折角地上にいるのだから、終わりにするなら海がいい。なにも言わずに抱き締めてくれる。
ただ一度の人生のはずが、こうも何度も繰り返し死ぬことができるというのが、すごく不思議だ。
雨が強くなり始めた。
道端の木に背を預けて、雨宿りする。目を閉じた。眠ってしまおうかと思った。
不意に、瞼の裏が白く染まった。数瞬置いて、轟音が世界を揺らした。稲妻だった。続けざまに何度も鳴った。
木の下はすこし危ないかもしれない。が、こいしは目を開けると上空を見た。枝葉が邪魔にならないところまで歩き、黒い雲を視界に入れた。
空の心は彼女には読めない。目を開いていようが閉じていようが。また稲妻が落ちた。音と光はほとんど離れていなかった。が、こいしは逃げようとはしなかった。見たかった。ただ見、感じたかった。
「お姉ちゃん」
雷が落ちた。
「椛」
木がばきばきと音を鳴らして崩れ落ちた。焦げつく匂いがした。
「地子」
もう一度雷が落ちた。木が燃え始めた。もう一度いかづちが落ちた。鼓膜が破れそうになった。さらに怒槌が落ちた。衝撃でこいしのからだが揺れ、しゃがみこまざるを得なくなった。
「……勇儀」
もう誰の心も読めないのだと思うと、少し淋しかった。が、その淋しさを感じることさえ卑怯なことのように思われた。
意識が朦朧とし始めた。自分自身にさえ作用する得体の知れない能力が心を消耗させ、そうしたからだに雷混じりの雨はきつすぎた。熱が出ていた。視界が滲んでいた。
「どうしてこんな風になっちゃったのかな」
幸せなんていらなかった。ただ普通に生きたかった。普通に笑い、普通に話し、普通に手を繋ぎたかった。心を読む力がそれを許してくれなかった。だから第三の目を閉じようとした。それさえもできなかった。もう一度閉じようとして、今度はできた。そうすると別の能力が湧き出てきた。きっと笑えない。話せない。手を繋げない。この先にあるもの。きっともう誰にも気づかれず、誰にも見向きもされない。どこから生きるための活力を得ればいい。感情は沈み、黒ずみ、夜毎に延々と消え失せていく。なにを恨めばいい。なにを憎めばいい。なにに怒ればいい。怒りも憎しみもないならそれは喜劇でしかない。とんだ喜劇だ、笑うことさえできないというのに。結局私はどうすればよかった? どうすれば正しい道を歩むことができた? 道なんてどこにもない。見えない。歩くことさえできない。後戻りすることさえできない。どうすればよかった。なにを求めればよかった。なにを感じればよかった。答えなんて示してもくれないのにおまえは間違ってると延々と罵られ続けるばかりだ。そのくせ――
「お姉ちゃん」
勇儀はこいしを見つける。道のど真ん中に突っ立って空を見上げている。その表情はもう尋常のものではない。傷ついた第三の目からぽたぽたと血が零れ落ちている。
「こいし!」
勇儀は駆け寄る。こいしの目はなにも見ていない。なにも映していない。
「お姉ちゃん」
「なに? おい、こいし! 大丈夫か?」
「私もう疲れちゃったよ」
こいしは腕を振るう。そこに小刀が握られているかのように。けれどもその手はもうなにも握ってはいない。拳だけが第三の目をもう一度叩き、次いで心臓を叩く。
勇儀はこいしを抱え、道を逸れる。凄まじい熱がからだのなかに篭もっている。こいしの息は荒く、不規則で、白い肌は首筋まで赤く染まっている。ひと目で疲労困憊しているとわかる。
「くそっ」
林のなかに分け入り、どこかからだを休めそうなところを探す。どこかないか、どこか。なんでもいい、雨風を凌げさえすればどこでもいい。あった。屋根の庇のように突き出ている岩の下。ひとふたりぶんぎりぎり入れるスペース。
こいしを横たえ、顔の汗を拭う。きりがない。次から次へと出てくる。服を脱がし、皮膚に手拭いを押し当てる。あまりにも薄い肉の感覚。こいしのからだが震える。
「寒いか。寒いな。すまない」
彼女のからだを包むように抱き締める。服が濡れる。自らも服を脱ぎ、素肌を押し当ててやる。大きなからだもそういうときには役に立つ。体温を貸し与えるように強く力を篭める。意識の外へ零れださないように。
熱いのか冷たいのか、自らの体温と溶け合い、それさえも判然としない。ただ不安定な身の内だけはわかる。肩に手を回すと彼女のからだはびくりと動く。
こいしはまた第三の目を叩こうとする。無意識の動作で心臓を突こうとする。勇儀の手がそんなこいしの手首を掴む。ぎゅっと握ると、すっと包まれ、なにも見えなくなる。
手のひらのなかの感触は小さい……あまりにも小さすぎる。こちらのほうが不安を覚えてしまうほど。
こいしは唸る。「お姉ちゃん」
「よせ」
「お姉ちゃん」
勇儀は握っていないほうの手をこいしの胸に押し当てる。「さとりはここにいるだろう。前にもちゃんと言っただろう。ずっとおまえさんの傍にいた。きちんと知ってたか、そのことを?」
「約束して」
「なに?」
「目を閉じないって。心を閉じないって。いいことなんてひとつもなかったよ。暗いだけだった。なんにもなかった。ここには、この場所には、なにも」
勇儀は胸を衝かれたように思う。ここまで疲弊して、虚ろになって、それでもまだおまえは姉のことを想っているのか? 自分と同じ道に来ないように呼びかけているのか。が、それはもう、勇儀にとっては――
「おまえはまだそうやって自分を否定するのか」勇儀は吼えた。岩の室が稲妻に打たれたように震えた。突発的な深い怒りが空間に浸透した。「おまえは立派にやり遂げたじゃないか。地子を無事に家まで送り届けたじゃないか。ふざけるな。片道切符で世界の果てまで行っちまったら、あとはもう自分の足で歩いて帰ってくるしかないだろうが。おまえのほうが私に約束しろ。帰ってこい。どこに行っても構わん、どこへ彷徨い出ても構わん、だが必ず私のもとへ戻ってこい。それができなきゃ、また私のほうからおまえを捜しにいってやる。何度でもだ。いいか? わかったな?」
こいしの息遣いが鎮まる。手が伸び、勇儀の首に触れる。「見えない」そっと呟く。自分に言い聞かせるような響きがある。「もう見えないよ」肩に顔を埋め、そこで泣き始める。
「とうとうやっちゃった。私は……もう……完全に目を失ってしまった。私はなに? なんでもない。覚妖怪ですらなくなって、あとは……」
勇儀はこいしの手を開き、第三の目のところまで持ってくる。「刻まれた傷痕の一寸一寸に意味があるんだ」かつて言ったことばを繰り返す。「おまえにはそれが見えるだろう。おまえはこの傷で地子を助けた。目的を達したんだ。これはもう悲劇でもなんでもない、めでたしめでたし以外のなんだって言うんだい」
「いつかまた……開けるときが来るかな」
「それは私にはわからん。でもまあ、おまえに関する限りはなんだって受け入れるよ。ただし悲劇だけはだめだ。私くらい長く生きて、色んなものを見てくると、そういうのはもういい加減しんどい」
こいしは俯く。「ごめん」
「謝るなよ」勇儀は彼女の額に手を当て、軽く押す。顎が上がり、目が合う。「おまえは笑ってろ。それが偽りのものであっても構わない。いつか本物にしてやるから」
「よく言うよ」――力なく笑って――「あなたの笑顔だって七割方嘘っぱちじゃない」
勇儀はいっとき、ことばを失って黙り込む。が、すぐに唇を曲げてみせる。
「鬼は嘘はつかん。私のはいいんだ。笑おうと努力してる顔なんだから」
こいしはひときわ大きな腹の傷に触れた。しばらくそうやってじっとしていた。やがて身を縮めて勇儀の腕のなかに潜り込むようにすると、そこへ唇を押し付けた。
勇儀は身を引こうとし、やめた。「私は生き残った」首を振った。「生き残ったってことはなにを意味するのか」
こいしの背中が見えていた。そこに腕を回した。触れたところへ口づけた。傷痕に触れるこいしの指先がひくついた。
それは刀傷だった。勇儀はその臆病者に四つ風穴を開けてやったのだった。彼は逃れることのできない死相を顔に浮かべながら、自らの行く先を見て取ると、自分が行きつく先を自分で選んだのだった。足元の血の海を横切り、刀を突き出した。切っ先は勇儀の背中まで届いた。『見事』と勇儀は言った。男はそこで目を閉じ、刀を落とした。『生まれて、初めて、聴いたよ、そんな、ことばは』それが男の最後のことばだった。
勇儀はこいしの腕を掴み、持ち上げた。暗闇のなかでこいしが顔を上げた。彼女は抵抗しなかった。ただ反射的に震えたからだが勇儀の重みで痛んだ。
沈むような雨音のなか、彼女のからだは温かかった。怖ろしくなるくらい小さく、柔らかかった。ただ指の先だけが冷たかった。その冷たい部分を勇儀は握った。
ふたりの目が合う。光沢のない世界で、どうしてこうもそこだけが煌いて見えるのか。勇儀は頭がぐらついたような感覚を憶える。眼球の奥に世界ほどにも大きすぎるなにかを覗き込んだような気がして。
「また抱くの?」とこいしは聴く。
「厭だったら暴れても構わない」早口にそれだけを言う。やめる、とは言わなかった。
こいしは首を振った。「どれだけ暴れてもやめて欲しくない」短い髪の流砂のような銀色が揺れた。「あのときからもう見えてたよ、あなたの傷は」矛盾したことばを咎める者はいなかった。矛盾した感情を罵る者はいなかった。
勇儀は彼女の唇を味わう。濡らし、押し付ける。こいしはしばらくなすがままになる。角度を変えて何度も落とし、受け入れる。雨の味がする。
こいしの腕が勇儀の首に回される。その指先が鎖骨の傷に触れる。『ここにはもうなにもないぞ、間抜けな鬼め』その傷をつけた男が言った。『おれと戦ってる間にみんな逃げちまった。村の財宝みんな抱えてよ。追いかけるにしてもその腕じゃもうなにもできないだろうが』鎖骨を割られ、勇儀の腕はだらんと垂れていた。が、男のほうももう虚無の染み出す黒い穴しか残されていなかった。短槍は折れ、穂は砕けていた。ことば以外にはもうなにも放てない状態にあった。『おまえももう終わりだ。おれとおんなじように死んでいくんだ。ざまあ見やがれ、なにが四天王だ、このちっぽけな人間様となにが違うっていうんだ』勇儀は男を見た。『いや』と勇儀は応えた。『おまえと私はおんなじじゃない。私はおまえほど気高くは死ねない』
唇を湿らせ、地表を覆う宵闇のように緩やかに動きながら、勇儀は彼女を濡らす。古い薪のように黒く煙りながら、頭のなかはどろどろと溶け始める。
前は逃げるように動いたこいしのからだは、今は求めるように押し付けられている。触るのもままならないほど深く。逃げられるよりやりにくい。勇儀は彼女のからだを引き剥がそうとする。こいしは肩に顔を押し付けたまま、いやいやするように首を振る。
「こいし」と勇儀は呼ぶ。「やりにくい。少し離れてくれ」
「いや」
「……そうか」
勇儀は腕に力を篭め、無理矢理こいしを離した。そのまま押し倒した。土の匂いがふたりの鼻に抜けた。こいしは目を逸らした。勇儀は彼女の頬に手を当てて視線を引き戻した。顎を引き、咎めるような視線を返された。構わずに勇儀はキスを落とした。
顔を振られて抵抗されたので、楔のように強く押し付けた。抵抗が次第に弱まり、すぐに諦めるように力が抜けた。
「んっ」
火花が散るような短い声。触れ合っている下でこいしの唇が断続的に震える。指先が溺れかけたように差し出され、すぐに相手の手のひらに包まれる。
唇が離れる。こいしは手の甲を自分の口許に当て、また視線を逸らす。勇儀はもう戻そうとはしなかった。代わりに喉元にキスした。
「――っく」
喉がつまって震えるのがわかった。
啄ばむようなキスを繰り返しながら勇儀のからだが下に落ちていく。胸元で止まる。膨らみのほとんどないその場所を口に含む。そこで勇儀のからだが止まる。
「――っひ」
こいしの声もそこで止まる。
背筋を逸らし、こいしは目を閉じる。勇儀の問いかけるような目線から逃れようとするように。閉じてから涙が零れる。顔の線をなぞって耳元へ伝う。不意に訪れた静謐がふたりを促す。
「ぁ――あ、あ、く」
胸の先にかじりつかれ、こいしは歯を食い縛って耐えようとする。が、そうした抵抗も一瞬と持たない。背筋がますます反り返る。開いた口から汗と声が飛び散る。
「ぅあ、あああ、っく、ぁ! っひ、あ! あ! ぅあ、ああ、っあ! ぃい、や、ぁ、やああ! ふぁあああいあ、ひゃ、や、あぁあ!」
からだが意志に反して――あるいは従って――暴れ始める。彼女の肩に爪が立てられ、真珠色の肌が赤くなるまで力を篭められる。
「――ッ、」
がり、と爪が皮膚を削ぐ。同時に勇儀の歯が強くこいしの胸に食らいつけられる。互いの皮膚を傷つけあい、そこから燃え出す。
ことばもなく、ふたりは息を詰まらせる。こいしの足が伸び、縮む。立てられた足が腿の古傷に触れる。打ち付けられる。
颶風のような音がしたのだ、その傷から血が吹き出るときには。その矢がそこを穿ったときには。完全な不意打ちだった。どんなに警戒しても無駄なくらい完璧な、神が天上から撃ってきたような一撃だった。彼女はその射手のもとまで飛んだ。『外したな』と射手は言った。『いいや、当たってるさ』と勇儀は応えた。『いや、外れだよ。私は首を狙ったんだ。でも、当たったのは足だった。二発目は打てんとわかってたんだ。この歳じゃあな。黒鉄の矢は重すぎる』『最高の仕事だったさ。おまえ以外にだれがこんな矢を引ける? 誰がこんな距離で当てさせられる?』『ひとおもいにやってくれ。そのあとはもう山の古巣に帰れ。都にはもうおまえを退治しようというやつなんかいない。末永く幸せに暮らせ。めでたしめでたしだけが私の望みだ』『それは私の望みでもあるが、叶わんだろうな。すまん』
「――ぃあ、あ、あああっ、痛い、っぁ……あ、」
ぐらつく記憶と感覚のなか、勇儀はすがるように噛み付く。力を篭めないことに意識を費やす。私自身が傷痕になってどうする? けれども想起された記憶の爪牙は傷痕から新しい傷痕を生み出し、埋めようとする。これはこいしの引き起こしている幻覚なのか、ただ自分自身が感じ、辿っているだけなのか、判別がつかない。
からだに触れるからだの感触。温かいからこそ怖ろしい。際限なく自分を見失いそうになる。見失ったあとになにが残るのか? 知らない……残滓がどこへ向かうのか。黒々と渦巻く感情は欲情の類なのかまた別のものなのか捉えきれない。
手を伸ばして彼女の手に触れる。無意識のなかで握られる。胸を噛み、そこを舐めた。
「……っぁく、あ……」
歯形を。所有の印ではない。それはひどく傲慢なことのように思う。誰がなにを所有し、なにを得るのか、そうした争いに自分は相応しくない。ただすがりたかった。記憶が根っこから溢れ出して流されるまえに。
「ゆう、ぎ」
「すまん」
「なんで謝るの……」
こいしの顔。額に前髪が張りつくほど汗をかいている。その分だけ消耗している。指を這わせて前髪を払ってやる。現れた目の上に唇を落とす。
「すまん」
勇儀はもう一度心からそう言う。
なにに対して? なぜ? 明確な答えなどない。ただ生き残っていることに対する罪悪感が行き場を失ってそこに漂っているだけだ。彼らは死んだ。死んだ者たちと自分。なにが違う? 暴力という極限の形でしか自分を実現できなかった者。鬼退治の向こう側とこちら側。どこで区切る。どこに境界がある。刀の切っ先と拳の面だけが自由にあちらとこちらを行き来する。
こいしは彼女の首に腕を回し、引き寄せた。彼女のからだは動かず、自分のからだが持ち上がった。闇雲に探して自分からキスを返した。
目が痛かった。目がなくても心を見ることができることを、こいしは初めて知った。彼女のからだに刻まれた傷痕を指先でなぞった。
――雨の音が次第に弱まっていった。
勇儀の指が自分のからだを伝い、探るのを、こいしは闇のなかで感じた。温かみを求めて背中に腕を回した。そこにさえ傷痕はあった。ひとつひとつの意味を持って語りかけてきた。
『傷だらけだな、ほんとに』
と、彼女はあのとき言ったのだった。こいしにはそのことばに篭められた裏の意味がわかった。それはこいしにだけ言ったことばではなかった。彼女が見てきた全てのものに放たれたことばだった。
それでも私は笑えるだろうか、と思う。石のような心を抱えたまま誰かに笑いかけることができるのだろうか。全てを見た後でも。見てきた後でも。
「勇儀」
こいしは彼女を呼んだ。その耳の後ろあたりに触れ、自分のほうに向けさせた。彼女の表情。もはや隠しようもない哀しみ。こいしはそれを見た。それでも笑おうとする頬の強情な強張りを見た。
「ゆうぎ」
違う、と首を振った。ゆうぎ、ともう一度呼んだ。何度も呼んだ。からだの底から熱さがくるような感覚があった。
「――ん」
勇儀がそこでようやく自然に微笑んだ。ふたつ名に似合わず、弱々しく凪いだ笑みだった。だからこそ本物だった。
求められて、応えた。指が届いた。
「――……っあ、あ、」
秘所に触れた彼女の指の裏から垂れて零れた。足が上がり、彼女のからだに絡みついた。それでも引き込むことはできずに力尽きて落ちた。痺れて止まった。固まるように腕が強張った。
「は……ぁ」
気がつくと泣いていた。頬に涙が零れた。それは自分のものではなく、勇儀のものだった。こいしは手を伸ばして彼女の頬に触れた。勇儀は反対側の手でその手に触れ、頬に押しつけるようにした。
「今だけ、な」と勇儀は言った。「今だけ……すまん、少しだけ」
ひとときを置いて、声を殺して嗚咽し始めた。昂ぶった感情の熱が行き場を失って溢れていた。こいしは頷いた。
雨と土の匂いを嗅いだ。地底のものとは種類が違っていた。澄み切った空気に裏打ちされた清冽な匂い。温かい感触。地底に帰れば恐らくもう二度と得られないだろう世界。
いまさら救われようなどとは思わない。思っていなかった。けれどもこうして地上にまた出てくると、自分たちが今までどれだけそれに焦がれていたのか気づかされるような思いがする。
こうして肌を重ねる相手さえ、求めてはいなかった。求めていたのかもしれなかったけれど、それは表面に出てくることはないものだった。
心の外側に現されること。それは打擲なのか救いなのか。どちらでもあるようで、どちらでもないようで。ただそうしたことばさえ熱の前に溶け、沈み込んでいくような感覚だけがある。勇儀はなにも言わずに首を傾け、目を瞑った。自分の下にある小さなからだを感じた。
――これだけ傷ついた小さなものをどうして見過ごすことができる? 気づかずやり過ごすことができる? そうしたものから目を背けるには、勇儀自身、彼女の一部を自分のなかに持ちすぎていた。
「――、ああ……っぅ、あ!」
こいしのなかで勇儀の指が動いた。こいしは殴られるような熱さを感じた。
『怖れなくていい』
と、勇儀は言ったのだった。
『全て。あるいは私を』
クレヴァスに飲み込まれるような浮遊感、自由落下する意識、白く弾けて黒く塗り潰され、こいしは求めるように指を伸ばす。
「……いあ、あ、あ、あ――!」
抜け落ちていく。剥き出しの傷口をぶつけ合うようなひどい痛み、そこから大量に流れ出る血を見ているような喪失感。頬に添えた手に力を篭めて、頬の皮膚をかきむしるように指を立てる。
「あ……あああああ!――」
それでもただ――今は言い返すことが必要なのだとわかった。飛ぶ寸前、こいしは唇だけを動かして彼女に伝えようとした。今はもう見えなくなった、胸の張り裂けそうなほど美しい心に向かって届けようとした。怖れなくていい。私を。あるいは全てを。
勇儀はこいしを背負い、石の室を出た。夜は明けていた。雨はやんでいた。薄い青空に千切れた黒い雲が漂っており、短く鳴く鳥の声が耳に届いた。
土の大地から白く湧き上がってくるような匂いのなか、勇儀は歩き出した。来た道をそのまま戻る。寄り道はしない。それが一番安全で、近道であることは明白だった。
同じ空の下にいるはずの地子と椛のことを思った。いつかまた、出会える機会があるだろうか? 四人揃って旅に出ることができるだろうか?
首を振ってその幸福な映像を頭から追い出す。どれだけ多くの奇跡が起こればそんなことが実現する? 希望的観測は大概外れる。実際、こいしは目を閉じ、椛は社会から居場所を失ってしまった。どうひっくり返っても、この旅の目的は完遂したとは言い難い。むしろ多くの傷だけが残った。
それでも、と勇儀は思う。今はただ、祈りたい。どうか。どこの誰に届くかどうかもわからないけれど、あの素晴らしい心を持った女たちの行き着く場所が、せめて、彼女らに納得のいく場所であるように。熱と怒りに導かれた約束の地に、せめてなにかしらの救いが一握でもあるように。
どうか……どうか。
「帰ろう」と、勇儀は言った。「こいし」
四つの足が道を戻り始めた。
――ソレハ ダレカガ ノゾンダ ゲンソウ。
駄目な人が見たら即退場ものでしょうが、このもみもみ超かっこいい、と言うか皆かっこいい。お見事。
他にも色々胸の内から迸るものがあるのですが、上手く言葉に出来ない自分が恨めしいです。兎角素晴らしい作品でした。
天もみ…この作品の二人なら、超アリだと思います。
面白かったと言うべきか、とても心に響く物語でした
それはそうとクールな椛ってあんまし見かけませんよね
天子×椛が!後書き読むまで文椛かにと椛かしか考えていなかった。ちょっとした衝撃でしたが、フラグ楽しみに待ってます!
さとパルより前という事実に何故かテンションが上がりました。
いやはや、夢中で読みふけってしまいました。
シーンの一つ一つ、情景が脳に直接映しだされているような、そんな錯覚に陥りました。
独自の展開、味、キャラの言動がまた素晴らしい。
とってもとっても面白かったです!
グイグイ惹きこまれました。ありがとうございました<m(__)m>
天子×椛の破壊力の凄まじさに圧倒されました。不良カップルさいこう。
あと、4人の逃避行が素敵過ぎてヤバかったです。。夢に見そうです。
4人がピンチに陥るたびに、ドキドキワクワクしながら読んでました。
最高でした!!
勇儀=超カッコイイ! 抱いて!
椛=クソカッコイイ! 覚悟完了!
こいし=こいしちゃんまじヒロインすなぁ
地子=この世の試練は私のもの、旅はまだ始まったばかり
もう、どいつもこいつも格好よすぎる
本筋とはあまり関係ないけど、あなたの作品は世界観が繋がってるのが好きだ
今回も燐と空のとこや藍さまのとこでニヤニヤさせてもらいました
椛かっこよすぎる!
そしてネチョの流れが良かった。
なんというスケール、設定、表現力なんだ…!
これほどのSSには某所でも滅多に巡り会えないぜ…。
ここホントに夜伽ですよね?(良い意味で
そして、なんという漢前な「女」たち…(作品準拠で
勇儀、こいし、地子、椛。
かっこよすぎだろ、オマイら。
中でも個人的には椛がイチオシです!
この作品の主人公、実は椛ですよね?
特に「クソ~」の使い方が秀逸。
なにこの海兵隊式白狼天狗。濡れた!抱いて!
この話を投稿直後に読めたことがとても嬉しいです。
畜生…寝る前に軽くエロイもん読んどくか!と読み始めた自分を殴りたい!
感動しました。あんたは天才だ!!
強さと痛みを抱えた人物像が好きです。
ぶっちゃけいうと貴方の作品を読むと考え込んでしまうので元気な時しか読めねぇな
とか思ってて。
でも読んでしまう求心力があって。
はっきり言ってshit…じゃなくて嫉妬です。
ごちそうさまでした!
原作の設定を一旦頭の外に追いやれる程度に良く書けていると思う
ただ最終的にこいしの無意識頼りになる展開は途中で見えてたので
悲壮感というか無慈悲感というか本当にどうしようもなかった感があと少しだけ演出として欲しかったかな
でも……うん、やっぱりどちらかというと、キャラの心情多めな作品のほうが好きかも
ところで何故か脳内BGMが君がいるから(パラレル西遊記のあれ)に固定された件
誰もが何かを抱え、何かに託しながら生き抜こうとする姿に、
言葉ではどこか表せない気持ちを奮い立たせるものがありました。
実に見事なお話でした。もし叶うならば、デザートまで欲しかった。
にしても、天もみとは。新世界すぎて、なんというか、作者マジ凄い。
これからも期待させて頂きます
なんて言うか厚くて熱い作品でした
勝手に続きとか希望しちゃったり
とにかく、凄い作品ありがとうございます!
これもその内の一つになっちまいましたよ。なんであなたはこんな話が書けるんだ!?
自分と同じ種族である人間がこういう作品を生みだしてくれていることがなぜだろう、たまらなくうれしい。
何というか、ありがとうございました。
後日談も読んでみたいなあ・・・
なんと強い連中だ、しびれるねぇ・・・。
こいしのため、文字通り地獄まで追っていく地子
地子のために目を差すこいし
もちろん椛も勇儀も、にとりも、すべてのキャラのことについて読めてよかったです。
願わくば緋想天あるいは地霊殿の終わった後、天子が胸を張って三人にただいまと言えますように