※注意
アリス×ミスティア ミスティア×アリス
捏造・独自解釈・ネチョまで遠い・ネチョ薄
ネチョまで遠いです
ネチョまで遠いです!(大事なことなので三度ry
キャラ崩壊増し増しでお送りいたします
一部、拙作の設定を引き継いでいる箇所がありますが、話には直接関係しません
※注意終了
ぱしん、と軽い音が手の甲あたりから鳴ると、戦闘陣形を取っていた人形たちが突如、力を失ったようにうなだれた。
魔法の糸を介して動いているわけではない、あらかじめプログラムされた行動パターンに従う、上海人形と蓬莱人形が、戸惑ったようにアリスを見やる。
魔理沙は機能を停止した人形群を見、次いでアリスを見る。アリスは空中に浮いたままだらりと両腕を垂らし、ぶっきらぼうに、
「指がパキったわ」
と言った。
その言い方が、「雨が降ってきたわ」と何気なく呟くときと調子が同じだったので、魔理沙は一瞬、何事もなく弾幕を再展開しかけた。
「――って、おい!?」
八卦炉を向けても反撃の様子もないアリスの姿に、魔理沙はようやく、事態の深刻さを悟った。
魔法の森の地面に降り立ち、上海を残して全人形を転送する。魔理沙はアリスの手を取り、そこになんらかの兆候が現れていないか、じっと視線を注ぐ。
なんてことはない、いつものアリスの指であるように見える。右手も左手も同じ。多少骨張った、柔らかみの乏しい、尖った印象のある形。
そこになにか異常があるとしても、魔理沙にはそれがわからない。
「う、動かないのか?」魔理沙が訊く。
「死ぬほど痛い」とアリス。「別に動かないわけじゃないけど、動かせたものじゃないわ。曲げも伸ばせもしない。浅指屈筋だか深指屈筋だか知らないけど、まあその辺じゃない?」
魔理沙は顔をしかめる。が、アリスの声に特別苦痛が現れているようには思えない。
「人形の出力を上げた分、負担が全部こっちにきてしまった。糸が硬いのなんのって。燃費の悪さはどうにかしないとね、ゴリアテにしても、実戦じゃ一分そこそこしか持たなかったのだし……」
「なに冷静に分析してんだ、そうじゃなくてだな」
「こんなの冷やして二三日じっとしてればすぐ治るわ」
「おまえこの前もそんなこと言ってただろ!」魔理沙は怒鳴る。「そんとき医者に診てもらわなかったのかよ、これで何回目だ!?」
「自分の体は自分が一番よくわかってる」
「そりゃ死亡フラグだ、ばかたれ! もう我慢ならん!」
魔理沙はアリスの手を取ったまま、箒にまたがり魔力を解放する。
「行くぞ、永遠亭だ!」
「大騒ぎするようなことじゃないのに」
永遠亭。アリスの診察はすぐに終わる。永琳の溜息がアリスの耳に入り、そこに篭められた響きの不吉な予感に、アリスは身を竦める。
「半年間、糸による人形使用の禁止」
そう言われた瞬間、アリスはそれをタチの悪い冗談だと思う。この性悪女は自分をからかって楽しんでいるのだ、と。目を上げればそこに黒い笑顔があると信じ、視線を向ける。
が、実際に永琳の顔に浮かんでいたのは、薬師としての威厳を湛えた誠実な無表情だった。
やれやれ、とアリスは思う。やれやれ! これはどうにも、うんざりするような小言を聴かされる羽目になりそうだわ。
「右手の腱鞘全断裂」永琳は淡々と言う。「現れた症状はそれだけ。けれども実際には、指だけじゃなく手首も肘も、肩にまでひどい負担がかかってる。どうにかなる一歩手前。もちろん右だけじゃなく、左腕も」
「大したことはないわ、人間じゃあるまいし」
「よくもまあそんなことが言えること。痛みで泣き叫んでないのが不思議なくらいよ。おまけにあなたの場合、同じところを何度も何度も何度も何度も故障して、治らないうちからまた負担をかけて、余計におかしな具合で故障させてる」そこでまたひとつ、大きく溜息をつく。「人形を操るってことが、ここまで過酷なものとは、ね。想像もつかなかった。こんな風にまでなった症例ってそうはないわよ? 正直なところ、あなたのことをなにひとつ知らなかったら、どうしてこうなったのかさっぱりわからなかったくらい」
「大袈裟ね。右手の指数本程度で」
「両手の全指。あなたきちんと関節を伸ばしきれる? あるいは曲げられる? 途中で硬直せずに」
アリスは口を噤む。
「神経が傷ついてる」と永琳。「それ自体は確かに、大したことはない。職業病みたいなものよ。腰痛や眼精疲労や、そういうものと一緒。私からしたらとんでもないことだけど。でもあなたにしてみたら、どう? 魔法の糸とやらがどれだけ精密な動きを要求するのか知らないけど、そんな指の状態で、満足いくまで操ることができるの?」
永琳はそこでアリスをじっと見つめる。
「大事を取りなさい。このままだと日常生活にまで支障が出始めるわよ。ブラをつけるのに他人の手を借りたくはないでしょう?」
それくらいなら、とアリスは内心で反論する。着替えくらい、上海や蓬莱に手伝わせればいい。糸による伝達ではなく、こちらの命令を忠実に実行できる人形たちに。が、弾幕はそうはいかない。有線ではなく無線操作では、正確に行動させるためのタイムラグがありすぎる。糸を半年間使うな、ですって? 冗談じゃないわ。人形操作は理論ではなく、技術の蓄積。半年間糸を操れない、指を使えないとなると、そこで失ったなめらかさを取り戻すのに、一体どれだけかかることやら!
そうした心の内側のざわめきが反映したように、アリスの指先が永琳の手のなかでぴくりと動く。人差し指の第一関節。刺々しい手話のように。
「だめよ、アリス」
永琳の後ろに控えている鈴仙が言う。
「入院させられないだけありがたいと思ってよ。あなた本当に今、ひどい状態よ? 筋肉じゃ、病気と違って特効薬なんてものはないんだし」
アリスは目を泳がせる。
「左手。左手ならいいでしょ?」
「すぐ右手と同じようになるわ。実際、右手と一緒に壊れていてもおかしくはなかった」
「……半年は無理よ、どうにかなっちゃいそう。ねえ、なんとかならないの、永琳?」
「半年というのは考え得る最善の対応をして、最短の期間で完治したと想定しての時間。冷却と、絶対安静。あなたがこっそり一時間人形を操るたび、一ヶ月、完治までの時間が延びると考えて」
「半年なんて」アリスは繰り返す。「魔理沙が大魔法使いにでもなっててもおかしくない時間だわ」
「あなたの寿命からすればほんの一瞬」永琳はぴしゃりと言う。「そう割り切りなさい」
待合室に戻ると、ソファーの端で退屈そうに背を反らしていた魔理沙が、ぱっと立ち上がる。そこに現れる表情を見てアリスは苦笑する。
魔理沙、あなたいつから私の姉妹かなにかになったのよ?
「なあ、おい」と魔理沙。「大丈夫なのかよ、相棒?」
「この世に『大丈夫』なんてことばが実在するとすれば」
「なんだそりゃ……つまりは?」
「半年間人形使うな、って」
「おいおい、そいつは――」
「選択肢が制限されただけよ」アリスは手をひらひらさせて魔理沙を黙らせる。「糸を介して動かせないだけ。上海にも蓬莱にも問題はないし、もちろん、家事をやらせてる人形たちにも。地底に持って行かせたような、リモート・コントロールの人形にも影響はなし。まして魔法の研究ができなくなるってこともない。もっとも」わざとらしく肩を竦めて見せる。「弾幕はしばらくやる気も起きなくなるだろうけど」
魔理沙は頭をかく。
「あー、なんて言ったらいいのかわからん」
「ライバルの一時離脱なんだから喜びなさい」
「逆の立場だったらおまえは嬉しいかよ?」
「里で裸踊りのひとつでもしたくなるくらい」
「そんなのは紫が冬眠明けした日の藍だけで充分だ」魔理沙は首を振る。「弾幕で本気出すってことが滅多にないクセに、研究や訓練となると自分の体なんて顧みやしない。私にゃおまえの考えてることがさっぱりわからん。けどな、そうやって軽口叩いてるときは大抵、自分の受けたショックを隠そうとしてる、それくらいなら私にも想像できる」
「そう」
「この際、どうにもならないって思って、休め。反省しろ。いっそ、紫みたいに冬眠でもしたらどうだ」
「一万年経ってババアになったらそうするわ」
永遠亭を出ると、夜になっている。月は満ちてはいないが、それでも光は強すぎ、大きすぎ、星は見えない。竹林の薄い葉を通し、ふたりの姿が濃い影を伴って浮かび上がる。
しばらくの間、飛ばずに地上をゆく。魔理沙は箒を担ぎ、その柄越しに、隣を歩くアリスの横顔を視界の端に捉える。いっそ清々しくなるくらいの無表情。人形だってもう少し愛想がいい。
悪いやつじゃない、と魔理沙は思う。その表情の奥で、なにを思い、考えているにしろ。全くの善人でもないとはいえ。皮肉屋で冷淡で意地っ張りでそのクセ癪に障るくらい優秀な魔法使い、とはいえ。
だからこそ無駄にこんな試練を背負い込むことになってるのかもしれない、とも思う……人形を使えない人形遣い? やれやれだぜ。
「変わったよな、おまえ」と魔理沙は言う。「昔はもう少し可愛かったぜ、素直でさ。少なくともきちんと感情を顔に出してた」
「あなたの変わりようには負けるわ」
「そんなんで勝ったってなんにも嬉しくない」
アリスは溜息をつく。「……半年、か」
「溜息つくと幸せが逃げるぜ?」
「そんなんで逃げるような腰抜けだったらこっちから願い下げ」
「ああ、私も同感だ」
アリスの指が、組んだ腕の上で奇妙なリズムを刻み始める。とんとんと人差し指が動き、肘の辺りを叩く。
魔理沙は最初、それが苛立ちを表現しているように思えたが、指の動きはあくまで穏やかで、むしろ子守唄でも歌っているような印象がある。
アリスの眼は遠くを見つめている。竹林の奥、靄のように捉えどころのない闇。澄み切った濁りが瞳の表面に映り込んでいる。
「ねえ、魔理沙」アリスはぼんやりと言う。「知ってた? 体ってやつは、本当に疼くのよ。武者震いっていうのともまた違うんだけど」
声には特別際立った感情は表れていない。
「人形を使うようになってから実感するようになったんだけど、自分がこう、どういう風に糸を操ろうかって考えてると……血管が膨らんで震えるみたいな……神経かしら、よくわからないんだけど、変な風に反応するの。電撃でも浴びたみたいに。普段は別に、それほど気にならないんだけど、ときどき、ちょっと抑えがたくなるくらい昂ぶることがある。
研究してても、食事をしてても、悪いときには眠っているときでさえ、そういう感覚がくる……すぐにでも人形を動かしたくなる」
アリスの眼がやや緊張した光を宿す。
「で、私は実際にそうする。魔力の糸でも、本物でもいい。弾幕を展開したり、料理をつくらせたり、別になんだっていいんだけど、そうしてるとなんだか自分の一部が解き放たれたみたいに――」
そこで組んでいた腕をぱっと解く。それに伴って、指先の歪な動きも止む。
「やめた」
魔理沙は乾いた声で言う。「おい、瞳孔開いてるぜ、相棒」
「疲れた。正直もう、横になったら寝ちゃいそう」
「睡眠なんざ必要ないクセに」
「さすがに五日間貫徹してれば暗闇が恋しくなりもするわ。疲労が溜まってくる。もうとっとと帰って寝ることにするわ」
「そうしろ、そうしろ。箒の後ろ、乗ってくか? 三秒で我らが魔法の森だぜ」
「冗談」
アリスは自宅の扉を開ける。そこで衣服を脱ぎ始める。リボンもケープもスカートも、下着の類ですらそこに脱ぎ捨てていく。バスルームに向かい、シャワーの蛇口を捻る。冷水が全身を叩き、数秒後ようやく熱せられ始める。右手のギブスごと降り注ぐ水滴に浸す。バスルームを出ると夥しい水滴を床に滴らせながら寝室に向かう。ベッドの横、立ったままじっとしている。獣のように頭を振り、その際に飛び散った水滴がいくつかの魔道書を濡らす。そうして窓際の花瓶を左手で鷲掴みにすると、力任せに壁に叩きつける。
それだけの行動をする間、夢のなかにいるかのようにぼうっとしていた。
花瓶の割れる耳障りな音を聴き、ようやく落ち着きを取り戻す。
「どうかしてる」頭を振ってそう呟く。
花瓶の破片は上海に片付けさせることにして、タオルで全身を拭き、寝巻に着替えようとしてそこで手に悲鳴のような痛みが走る。走った直後に永琳のことばが頭によぎる。
ブラをつけるのにも他人の手を借りる?
想像してみると本当に厭になる。
ベッドに横たわり、目を閉じる。眠気はすぐにやってくる、が、それを自分のものにするまでにひどい時間が要る。心が分裂しているような感覚。眠りたいと思う一方で眠りたくないと思う一部がある。
夢と現の境をさまよう。それが自分の思い返しているだけの光景なのか、夢そのものの幻影なのか、よくわからない。
高貴な毒花のようにゆっくりと開いていく、気持ちの悪い色をした弾幕を見る。アリスはそのなかに自分の意思にかかわらず飛び込んでいる。真空のように、音がない。相手は誰?……皆目見当もつかない。鼓膜を震わすのは、無音のなかで時折水泡のように弾ける、ざらついたノイズ。自分を覆う弾幕の密度が濃くなり、スキマというスキマが居心地の悪いものになると、最低限の安地を確保するために自ら弾幕を放ち、相殺しようとする……そこでようやく気がつく。自分には武器がない。強要されるノーショット・クリア。霊夢と違って私はそんなものは好まない。撃ち落される寸前、アリスは一瞬、弾の中心、自らが敵対していた者の姿を見ることができる。
私の人形!?
気がつくと目覚めている。
思考が混沌としたまま明滅している。暗い。壁に吊るされた時計を見ると、一時間も経っていない。
アリスは自分の指を見る。
半年……
半年の停滞、半年の空白。魔理沙が突然変異して、大魔法使いどころか、巫女になっていてもおかしくないくらいの長い年月。その間、私は? 理論をいくら構築しても、実践できなければ意味がない。考えるだけでプロフェッショナルになれるスポーツが存在しないように、使わなければ魔法の腕だって錆びついていく。どこにも進めない。どこも突き破れない。
人形。人形。私「アリス・マーガトロイド」なる魔法使いは、そもそもまず、人形を使わなければ。魔理沙のように早く強く動き回れたとしても、それはアリス・マーガトロイドではない。パチュリーのように豊富な知識を蓄えたとしても、それもまたアリスではない。聖のような身体強化? 論外。
私は、とアリスは考える。人形を使っている限り私は私だ。それが私の武器、七つ道具、アイデンティティだ。じゃ、今の私は? 半年間人形を使うな? この私が? 人形を操れないアリスだって?
人形。
人形……
感情がゲシュタルト崩壊を起こしかける。ありもしない糸を求めて指先がひくつく。
時計の針が明日へ向かって猛進する。
アリスは上半身を起こし、次いで、ベッドから立ち上がる。
「眠れるわけがないわ」
夜中の三時。アリスは自宅の扉を開け、限りない闇へ出て行く。
どこを飛び、どこを歩いたのか? わからない。わかる気もない。
荒れ果てた思考を引き摺るようにして、うろつきまわる。青い目は前面の風景を映してはいても見てはいない。なにも感じ取っていない。盲目のように。
アリスには爪を噛むクセはない。どんなに苛立ち、胸中がぼろぼろにざわついていたとしても、自傷の類をしようとは思わない。特に人形のためにあるこの腕は。この指先は。弾幕でいつもなにかしら傷ついている以上、わざわざ自分でそんなことをする理由がどこにある?
とはいえ、今の内心からすれば、無意識に爪を噛んでいたとしてもおかしくはなかった。
人里の上空を飛んでいることに気がつく。もはや誰ひとりとして目覚めている時間ではない。ひっそりと静まりかえり、歴史を隠されたあの晩のように、気配すらしない。
が、不意に赤子の夜泣きが耳につく。抗うことのできない原初的な不安に飽かせた、聴くこちらまで不安のなかに誘うような響きがある。
そういえば、とアリスは思う。この前早苗が、赤ちゃんがどうとか言ってたっけ。あれは結局どうなったんだろう。
……どうでもいいか。今は自分のことだ。
指が使えないのなら、どうする? どうにかして糸を介して動かさないと、指令による操作では精密さにも素早さにも不安が残る。指がだめなら、別の部分で操る訓練でもしようか。たとえば、歯とか。足の指なんかもどうだろう?
歯から伸びる糸でゴリアテを動かし、ピンチになったら靴を脱ぎ捨て裸足になる自分を想像する。この意味がわかる? グローブを外したのだよ。
どこの中国人だ。
いや現実的に考えていろいろとだめだろう。精密さにしろ、素早さにしろ。魔力の伝達にだって問題が生じる。呪文もろくに唱えられない。緊急事態に備えてそういう技術を会得していても悪くはないかもしれないが、美意識に反する。実際にそんなことをしてみなさい、相手はきっと大爆笑だ。その隙に乗じて相手を落とすなんてことをすれば、私はもれなく幻想郷最バカの一角に――
そこで視界が閉じた。
「……――っ!?」
暗黒より深い暗黒が視界を満たす。緊急停止。下降。地表に降り立ち、手のひらを目の前に持ってくる。
見えない。手というより黒い雲かなにかのように感じる。輪郭さえはっきりしない。
どれだけ目を凝らしても、視力は回復しない。手の甲で目を擦る。ゴミが入っているわけではない。右目も左目も、同じように視力が閉じている。
鳥目……
そこでようやく気がつく。耳に、ほんのわずかに、例の歌声が届いてきている。
「やられた……!」
アリスは手のひらを額に押し付ける。
届いてくる歌声を頼りに、木の根を踏んだりしないよう慎重に、人里の外れ、名もない林のなかをゆく。手のひらを前に翳して幹と幹の隙間を探し、足を摺るようにして。それでも時折躓いてしまい、やり場のない怒りに毒を吐きたくなる。
ぼんやりと、屋台の放つ暗い灯りが見えてくる。
いつもの自分ならこんな簡単に鳥目になるなんてことはなかった、とアリスは思う。いつもの私なら! 人形のことで、それだけ動揺してしまっていたということだ。ああそれにしたってよりにもよって、こんな夜に! 夜雀風情の術中にまんまと嵌まってしまうなんて!
けれど、とさらに考える。夜中の三時なんてふざけた時間に、客なんて誰も来やしない時間に、屋台を営業している夜雀がいるなんていったい誰に想像できる? 誰も聴きやしない歌声、誰も誘えやしない惑いの歌……
ミスティア・ローレライの歌声が次第に近づいてくる。盲目同然の今、ほとんど耳元で囁かれているような心地さえする。唇のめくれる音、息継ぎの合間のちょっとした溜め、そういった雑音まで聴こえてくる。
「――……」
近づいてくるに従って、怒りも落ち着いていく。自然に、溜息が出てくる。
情けない……どんな種族よりも冷静でなければならないはずの魔法使いが……私とあろうものが心まで盲目にして、夜雀の歌を聴くまでわけのわからない思考を繰り返していたなんて。
もう一度溜息。
ミスティアの声が、もう、そうとわかる距離にまで接近している。アリスはそこで立ち止まる。
奇妙な歌だ、と思う。
祈りのような、なめらかでゆるやかで、それでいてどこか心のどこかに爪を立てるような不穏なメロディーラインから始まり、転調すると、これ以上ないくらいの重低音を効かせた、女の声にはキツイほどの音程になる。歌うというより叫び、乱暴に叩きつける感じに近い。不協和音寸前。耳がおかしくなりそうになってくると、次第に、咽び泣き、嗚咽が入り混じる。
まるで本当に頭を抱えて泣き叫んでいるように――それが演技だとしたら逆に大したものだ!――それでもなお、喉の奥から捻じり切るように歌い続ける。
もう歌しか聞こえない?……いやもう、歌にすら聞こえない。
締めは嗚咽など忘れ、子守唄のような、母親が子供に言い聞かせるような、どこまでも優しいメロディーときたものだ。単独で聴けばそれなりに穏やかな気分になれたかもしれないが、散々泣き叫び散らした後書きと来ればそれはもう、タチの悪いブラック・ジョークにしか聞こえない。
残酷なほど優しい。それとも、優しいからこそ残酷なのか。
歌が終わると、アリスはおざなりに手を打ち、恐らくはカウンターだろうと思われる場所に乱暴に座り込む。
「八目鰻」
ミスティアはそこでようやくアリスを見る。初めてアリスの存在に気づいたかのように。
「まさかこんな時間に引っかかる間抜けがいるとは思わなかったわ」
アリスは白く霞む視界のなかでミスティアを上目で見つめる。「だったらどうしてあなたはここにいる?」
「それはこっちの台詞よ。なにしてんのよ、こんな真夜中に……まあ魔女なんだから十中八九、ろくでもない悪巧みなんでしょうけど」ミスティアはわざとらしく肩を竦めてみせる。「私だってたまには、誰にも聞かれないうちにそっと歌って、火照った頭をクールダウンしたくなるときだってあるわ。私の歌って滅茶苦茶遠くまで届いちゃうから、こういう時間じゃないとそういう機会を得られないの。店じまいして何時間も経った後じゃないと、ね」
ミスティアがカウンターの下からなにかを取り出したのを、アリスの役立たずになった目が捉える。アリスは反射的に身構える。
刃物の銀色が視界のなかでゆらりと動く。
「爪切りよ」とミスティア。「毎晩同じ位置まで生えてくるもんだから、飲食業には向かないんだけど、妖怪らしくていいでしょ?」
ぱちり、と爪を切り落とす乾いた音が響く。
アリスは目を細め、ミスティアの指先から鋭利な爪が落ちていくのを見ようとする。ぼんやりした視界のなか、物憂げにかざされたピンク色に近い長い指、爪の鮮やかな紅色。が、それだけだ。鳥目になった今、それ以上の情報をその光景から受け取ることができない。
ぱちり。
ひとつ切っては、その出来を確かめるように指先を目線の高さまで持ち上げ、数秒、そのままじっとしている。
焦らしてるわね、とアリスは思う。素晴らしく苛々してくるほど、その動きは実に優雅で、実に遅い。
ぱちり。
無機質に耳のなかでこだまする爪切りの音は、視界を失っている分、なおさら鮮明で気に障る。先ほどの歌声と全く同じように。
アリスは自分の指を見る……見ることはできないが、平時から見慣れた四肢の最先端、そこにあるものは簡単に想像がつく。
魔理沙のことば、『おまえ、昔はもう少し可愛かったぜ』。
今の自分、の、指。昔とは比べることなんてできない。人形遣い以前と以後。異常な人形群を糸を介して扱うため、それだけの筋量をつけるだけでなく、精密さを失わないために無理矢理に細く絞り切った。ひとの指としてはどこか歪な、見ようによっては気味の悪く変貌した、いわゆる『魔女の指』的なイメージによる印象がある。
人形を使うために普遍的な美しさを溝に捨てた。
その結果がコレ、か!
例えばパチュリーの指。薄暗い図書館に引き篭もり、雑用の一切は小悪魔に任せ、結果として、痩せ細った蒼白い、病的な美しさを得るに至った。見るものが見れば、自分こそがこの指とその持ち主を世界の試練から守ってやりたいと思わせてしまうような、それだけで誘惑になる『魅力的な魔女』の指だ。
少なくとも彼女は、腱鞘全断裂などというわけのわからない事態には陥らないだろう。傷つき、ずたずたにされた神経のもたらす、恒常的な苦痛は知らないだろう。代わりにアリス自身は、喘息の苦しみを知りはしないのだが。
そう、なにを得、なにを捨てたか。重要なのはそこだ、とアリスは思う。でも今の私は、結局、一時的な事態にしろなにもかもを失ってしまっている。
ぱちり……
「夜が明けてきそうなわけだけど」ミスティアが言う。「まだ八目鰻、いる?」
アリスは物思いから我に還り、夜明け前の蒼白い闇のなか、鳥目が徐々に回復してきているのを悟る。
「……酒」とアリス。「熱くしてね……」
「ツケでいいわよ、今日は。どうせ聴かせる気のなかった歌だし」
「さっきのアレ、なに? なんか、泣いてなかった?」
ミスティアは着物の袖をわずかに捲り、酒を注ぐ。「父親に虐待されてた少年が、成長してつくった歌」
アリスはわずかに眉を上げる。
「歌詞の意味は……ことばの意味なんてどうでもいいわね。そこに篭められた響きが全部を語ってる。ついでに言っておくと、泣いてたのはアドリブじゃない、正当な過程。狂って崩れておかしくなって、それでも淡々と演奏は続いて、それでこの歌は完成する。ひとがいないから今日は無伴奏だったけど」
アリスは言う。「ろくでもないわね」
酒を引き、ミスティアはアリスを睨む。「この歌がろくでもなかったら、この世のあらゆる歌はクズ以下のクズってことになるわ」
「私が言ったのはあなたのことよ、ミスティア」アリスは冷ややかに、「歌のことなんて知らないけど、あなた自身、大してトレースできてなかったことくらいはわかる。少年、って言ったわね、どう考えてもあなたの声じゃ届かない領域まで低く落ち込んでいく部分がいくつもあった。だいぶ無理してるんでしょ? それに、父親? あなたに両親がそもそもいるの?」
ミスティアの手が束の間、宙空で静止する。アリスはそこでようやくその指の全貌を見ることができる。
ふうん、とアリスは思う。ふうん? 随分とまあ、キレイな指だこと。
「だから聴かせたくなかった。誰にも。特にあんたみたいなのには」
「それは言い訳の理由としてはアンフェアね?」
「くそ」ミスティアはもう一度吐き捨てる――くそ、くそ。
上海がアリスの肘あたりに身を添えるようにする。アリスははっとして上海を見下ろす。上海はじっとアリスを見上げている。
独立型としてあらかじめプログラムされていた行動だ。アリスがそこに篭めた意味……自重しなさい、このばか。感情に流されないよう、己自身で課した枷。
「ごめんなさい」アリスは速やかに撤退を始める。「八つ当たりだった、今のは。あなたの歌が、今日の私には……泣きっ面に蜂だったから。もともとはこんな時間に、こんな無防備で出歩いてるってだけで咎められなきゃならないっていうのに、私ったら……」
「別に」ミスティアは食器をがちゃつかせ、屋台を片付け始める。「批判は大歓迎よ、それが的を射てるものなら。それが自分自身でわかりすぎるほどわかってる批判でも……承知で歌ってんだから、きちんと受け容れなきゃ」それでも、そのことばには隠しきれない刺々しさがある。
そこで会話が途切れる。
ふたりはもう、10ラウンドにも打ち合いを続けてきたボクサーのように疲れ果てている。勝敗もなく、完全な痛みわけにしかなっていない。ジャッジは不在、ポイントの優勢が一体なんだと言うのか?
夜明け前に相応しい沈黙のなか、アリスは左手を掲げ、グラスに口をつける。自分でも予期していなかったほどの反動に襲われ、打ちのめされかける。
「右手」ミスティアは不意に言う。「どうしたのよ」
「……ん」
アリスは迷う。言うべきか否か。どのくらいの真実をそこに篭めるべきか。自分の弱味を握られれば、そこに漬け込まれるのではないか? ミスティアでなくても、ミスティアから漏れた情報が、どこかろくでもない妖怪に知れ渡り……
――だからどうしたっていうのよ?
アリスは話し始める。右手の痛み。永遠亭、永琳に言い渡された人形禁止の診断。自宅で荒れた自分の醜態、真夜中の不快な夢に至るまで、覆い隠さずありのままに一息に語る。アルコールによって緩んだ思考と、自暴自棄の投げやりさ、10ラウンド打ち合った敵への奇妙な連帯感が、アリスの態度を多少、和らげる。
上海が肘の辺りに触れ、見上げてくるのを承知で、真夜中の三時から今に至るまでも話しきる。
「夜雀の歌に惑わされた」アリスは最後に言う。「そう思っておいて」
ミスティアは相槌も打たずに耳を傾け、アリスが口を噤んでからようやく、
「そう」
と静かに言う。
手を後ろに回して前掛けの紐を解き、無造作にカウンターの脇に置く。頭の三角巾に手をかけると、着物の袖が肘まで捲れる。薄暗い灯りのなかで露になる肌の色、特別日焼けをしているわけでもないが、白すぎもしない。
アリスはその姿を見るともなく見、自分のことばに対するミスティアの反応を待っている。
三角巾を外すと軽く頭を振り、わずかに汗で額に張り付く前髪を、指先で払う。一連の動作には迷いも乱れもない。自分の人形繰りと同じく、何度も何度も何度も何度も繰り返された日常のなめらかさ。
「で、あんたはどうするの」とミスティア。
「どうするって言ったって、待つ以外になにか選択肢が?」
「あんたの指が、あんたが語ってる間ずっとリズムを刻んでた」
ミスティアはそう言うと、カウンターの上に置かれたアリスの右手の甲に、爪の先端を突きつける。串刺しにするように。
「あんたの指は、あんたの口よりずっと明確な意思表示をしてたわけだけど」
「……私は私のことば以上にはなにも言ってないわ」
「あたしはことばを信じない。ことばの意味も信じない。ことばに篭められた響きだけ信じてる。で、あんたのことばに篭められた響きは、あんたの指先と同じことを言ってる」
ミスティアの爪、切られたばかりで丸くなった先端がわずかにアリスの皮膚に食い込む。
「おれはちっとも納得してない……おれは不満に感じてる……おれは待てない、おれは耐えられない……」
ラップの真似事のようなことばに、アリスは顔をしかめる。
「……私の指はときどき私を裏切る」
「奇遇ね。あたしの歌もときどきあたしを裏切ってくれる、嬉しいことに」
「嬉しい?」アリスは鼻で笑う。笑おうとする。「ちっとも嬉しくなんかないわ。それは自制できてないってことじゃない。恥ずべきこと以外のなんでもない」
「あたしはあんたとは違う見方をしてる」ミスティアは挑むように言う。「あたしの血肉が言ってる――ひとつの危機はひとつの機会でもある、って。でもそれってよくよく考えれば実に当たり前のことよね? あたし、なにか間違ったこと言ってるかしら?」
ミスティアはアリスに目を合わせようとする。アリスはそれに応じる。居心地の悪さがふたりを包み、空気が古い木材のようにしなる。
「下賎な妖怪の言い分かしら、こういうのって。都会派かっこ笑いかっこ閉じの魔法使い様にはなにか別の言い分があるの?」
「あなた」アリスは冷ややかに言う。「まだあの永夜異変のとき、撃ち落されたことを根に持ってるの?」
ミスティアはカウンターに肘をついて唇を剥き、掌中で虫けらを弄ぶような、安っぽい遊女の浮かべるような笑みを見せる。
「当然」
アリスは上目遣いにミスティアを見据える。ミスティアが自分の言ったことを深く考えさせるように、沈黙を以って長い時間をその場に与える。
空気が限界線上を漂い始めたとき、アリスは唐突に席を立ち、背を向ける。
「ごちそうさま」
ミスティアの唇、とアリスは思う……あれはどうやら、歌でなくとも私を惑わすことを楽しんでいるらしい。そして今夜は不覚にも、そうした術中にまんまと嵌まってしまったよう。ふざけたこと!
それからの数日はどうにか、あるいは辛うじて、平静を保ったまま過ごす。日常生活に異常はない、ただ時折思い出したように鋭い痛みが右手に走るだけで。研究の筆記は上海にやらせる。家事の全般は常通り、魔力を蓄積した独立型の人形たちに指令を与える形で行わせる。
糸を使用しなくても、重大な動作不良は起こらない。ただときどきちょっとしたデバッグでつまづくことがあり、それが完全に抑え込まれた苛立ちをかすかに思い出させる。
魔理沙、パチュリーらと行う共同研究に関しても、人形操作の段階での実践ができないというだけの話だ。魔理沙はときに気まずそうな表情をする。パチュリーは特に変わらずいつも通り。が、自分に関してアリスは、以前のようには没頭できない冷めた部分を感じる。
夜。フラストレーションが溜まると、無意識のなかで指が踊り始める。存在しない糸を求めて疼き、動かそうとする。それを自覚することによって余計にイラつく。上海らに注ぐ魔力を増やすことで発散しようとする。
真夜中の三時に眼が覚めるようになる。泣き叫ぶような夜雀の歌が聴こえた気がして。が、実際にアリスの眠りを妨げているのは、彼女自身の見る夢の内容だ。自分の糸と意図を完全に断ち切って動く人形に撃ち落される夢。
夢は願望だという。どこで聴いた話だったか? 冗談じゃないわ、とアリスは思う。今じゃなくとも昔から、見る夢はもれなくろくでもない悪夢ばかりだというのに!
鈴仙がアリスの家を訪ねる。名目は往診。アリスは人形に命じて紅茶を用意させる。
「調子はどう、アリス?」
「控え目に言って」そこで一旦口を噤み、肩を落とす。「控え目な表現のなかでも一番控え目で幾分控え目すぎるんじゃないかって思えるくらい控え目な言い方をすれば、絶不調よ」
鈴仙としてはそんなことば遊びに付き合う気はさらさらない。「指、見せて」
アリスは大人しくそのことばに従う。
「……うん、ちゃんと師匠の言ったこと、守ってるみたいね?」
「不本意ながら」アリスは出来損ないの笑みのように唇を歪める。「近く、また厄介になるかもしれないわ。今度は内科で。胃が焼けつくように痛いの」
鈴仙はアリスを見、それが全くのでたらめ、冗談だということを認めると、溜息をついてみせる。頭の動きに伴って兎の耳がへにょる。
「あのね、アリス――」
「説教はもうたくさん」アリスは鈴仙のことばを遮る。「わかってるわよ、わかってる……ああ、もう、いっそ吸血鬼かなにかだったら良かったわ。きっと指もいくらか丈夫だと思うし。今からでもレミリアに噛んでもらおうかしら」
「そうなったらもうウチじゃ治せないわよ?」
「そんなことばは信じられない。永琳って女がいる以上は」
「信用してるんだか、してないんだか」
アリスの指がまた勝手にひくつく。鈴仙の手のなか、消毒液の匂いが染み付いた、ざらついた皮膚の上で。
「……あと何ヶ月刑期が残ってるかしら」
「五ヶ月と三週間」
「訊かなければよかった」
「体感時間を限りなくゼロに近づける方法ならあるけど、訊きたい?」
アリスは不意を衝かれたように顔を上げる。心底その方法を訊きたいと思う、が、同時にそんな都合のいい話など有り得ないということもわかる。
鈴仙の眼に赤い光がちらつく。
「半年間眠らせてあげてもいいけど」鈴仙がアリスに視線を合わせる。アリスは反射的に顔を逸らす。「時期が来たら起こしてあげる」
「そんな冗談言うなんて、ほんと性悪」
「信じてもらえないかもしれないけど、私は本気よ。生殺しがどれだけ辛いか、私にだって少しぐらいは想像できる」
アリスは一瞬、その選択を真面目に考えかける。が、すぐにばかばかしい話だと切り捨てる。
「キスして起こしてくれる王子様がいるんならそれも悪くないけどね、生憎と受身は性に合わないの」
「そう」
アリスの肘に上海が触れる。アリスは上海を見下ろす。
……自重? してるってば、大丈夫だって。
それでも上海はアリスを見つめ続ける。
鈴仙が帰ると、アリスは壁を見つめ始める。
頭が働かない。鈴仙の宣告のようなことばが脳髄の表面で渦巻き、思考のなめらかさを阻害する。
五ヶ月と三週間?
五ヶ月……三週間。百と、七十日。百七十日ですって? ふざけてるわ、なによそれ?
せめてなにかしら研究進めようと手を泳がせ、たまたまそこに放置してあった本を開く。どこまで読んだかわからない。しおりを挟んでないし、脳内のフォルダを開いても見覚えのあるセンテンスに出会えない。眼の焦点さえ合わない。無意味な文字の羅列と化す魔道書、噛み合わない内容のレポート。中身に興味が持てない。興味。そもそも私はなにに興味を抱いていたっけ?
そういう日はたまにある。自分と世界の歯車がズレる、なにをしてもどうにもならない時間というのは。疲労、ストレス、そういった捉えどころのないものによって飽和状態になる。
そんなとき、私はどうしていた? なにによって回復を試みた?
そうだ、人形。
人形を操る、そのことを考えただけで指が……指だけでなく、そこに連なる筋肉のある前腕、肘、肩、それらを制御する頭部に至るまで、かっと熱を持ったように疼く。糸を接続し、指を伸ばし、曲げ、視界にある全ての人形の行動を自分の意識下、完全なる統合の下に置こうとし、実際にそうできたときの充実感、開放感といったら例えようがない。緊張を緊張のまま自分のものとし、なめらかに、まるで自動化されたように指先が動くときの、純然たる喜び! 一体となる自分と人形、自分と世界、自分と全て。そう、それこそが魔法なのだ。魔力がどうとか呪文がどうとか、そんなものはほんの表面上の出来事にすぎない。物事はもっとシンプルなところに実在する。人形操作の最も深い部分、誰とも共有できない、私だけの極意。そうだ、それこそが紛れもない魔術、究極の幻想、どんな境界にも囚われない至高の芸術形式! 弾幕はパワーだって? 冗談じゃない、弾幕は人形よ! 人形こそが他でもない唯一無二の弾幕なのよ! こうしちゃいられない、今すぐにでも最新の人形と最良の操作技術を以って魔理沙をぶちのめしに――
五ヶ月と三週間!?
「五ヶ月と三週間ですって!?」
それって一体何時間なのよ!? この思考の最中経過した時間はたったの三分と二十六秒だっていうのに! 三分と二十六秒もあったら魔理沙が大魔法使いどころか巫女に突然変異した挙句霊夢と覇権を争うべく幻想郷を二分する一大クーデターを起こしていても全くおかしくないっていうのに!? そんな戦争のさなか私は人形と繋がることさえできずにただひたすら悶々と――
アリスは堪らなくなって家を飛び出す。
真夜中の三時。ミスティアの舌が自らの唇を濡らす。店じまいしたあとの屋台には、もう誰もいない。前掛けも三角巾も外し、濡らした手拭いを押し付けるようにして顔を洗う。
あたしの時間だ、とミスティアは思う。なににも邪魔されずに歌うためだけに用意された闇黒の時間、ソロ・プレイの舞台。
歌うのは先日、アリスにこっぴどくやられたあの歌だ。愛しのマイ・フェイヴァリット・ソング。それを表現するのに自分の技量が足りないことなどわかりすぎるほどわかっている。オリジナルには勝てない。それでもそれを易々と認める気などさらさらない。プライドがある。それを支えるための意地もある。
技術が足りないのなら、なにで補う? 愚問だ。配られたカードは少ない。ハート以外にどんなマシな手が残ってるというのか。
この歌。父親に宛てた息子からのファック・ユー。オイディプス・コンプレックス? 違う、もっと直接的で、現実に即した、一途な憎悪だ。同じ時間を近しい者として過ごしたふたりにしかわからない領域がある。客観的なんてものは一旦踏み込んでしまえば役立たずの張りぼてになってしまう。深く、もっと深く浅ましく、積もり積もって凝縮された……
「やめた」
くだらない。そんな分析がいったいなんだっていうの? どのみちやれることはただひとつなのだ。ありったけの感情を篭める。怒りだ。今、あたしはなにに対して最も怒りを抱いている? それもまた愚問のひとつだ。
あ・の・人・形・遣・い……!
『ろくでもないわね』? 『言い訳の理由としてアンフェア』? わかってるわよそんなことは! あの白い喉。薄く、そのクセふっくらした印象を与える唇。ふん、キレイなものだこと! どうせあたしの喉はがらがらだし、唇なんて傷だらけでがさがさしてる。毎晩毎晩気の遠くなるほど遅く流れる時間、自分の実力への猜疑心で眠れなくなる真夜中の三時、その度に身を引き千切るようにして行うヴォイス・トレーニングのせいだ。あの人形遣いの、あの澄ましきった顔! 弾幕の際は決して本気を出さず、相手にぎりぎり打ち勝つ程度の手の内だけを曝すという。実力ある者の特権……むかつく、むかつく! なにがこんなにむかつくって、あの人形女、訓練のしすぎで負傷したっていう事実だ。そういう輩を目にすること自体厭になる。こうしてぴんぴんしてる自分がペテンやイカサマでも使ったんじゃないかって気分になる! 決して本気を出さないあの女のほうが、あたしより全然真剣なんじゃないかって気分に――
苛立ちは巡り巡って自分に還ってくる。この気持ちを昇華させる術はたったひとつだけ。歌うことだ。いまこそ歌うときだ! 弾幕はブレインだって? 冗談じゃない、弾幕は歌だ! 歌こそが紛れもない弾幕、究極の幻想、どんな境界にも囚われない至高の芸術形式だ!
「ファック・ユー!!」
その日の歌は、オリジナルとはかけ離れたものになったとはいえ、ミスティアとしては満足だった。
アリスはミスティアの歌が終わると当然のようにカウンターに座る、
「八目鰻」
「また来たの!?」
「来たくて来たわけじゃないわ。今日は仕方がなかった。あの忌々しい蓬莱人どもの喧嘩に巻き込まれさえしなければ、こんなとこ……」
そう言うアリスの額からは、皮膚が破れて血が流れており、鼻の線を伝って顎まで垂れて固まっている。
「輝夜と妹紅の戦いなんて珍しくもなんともない。けど今日は居心地が悪かったかなんかで機嫌が悪かったんでしょうね、永琳が加勢し始めたの。で、戦場が次第に人里に近づいていった。私がいたのはそこよ。人里が危うくなれば慧音が出てくる。今日は満月だし、そうでなくても歴史を隠すなりなんなりすれば良かったのに、生理が近いかなにかで気が立ってたらしくて、三人の蓬莱人に次から次へと頭突きをかまして沈めていった。
「痴話喧嘩はときに環境破壊になることがある」
「その通りよ。
で、そこにいた私にまでなぜかとばっちりがきた。でも頭突きの一発じゃ私は落ちなかった、なぜなら私も今日はとことん頭にキてたから。それで私は頭突きを返した。人形さえ使えればそんなことばかなこと、しなかったけど。ひとって、やられたら同じ方法でやり返したくなるっていうか、そういうとこがあるから。それで慧音は倒れたけど、寺子屋の子供たちの声援によって不死鳥のように蘇り――」
ミスティアは背に炎を纏ってリザレクションするEX慧音の姿を幻視した。「想像したくもない……しちゃったけど」
「そこからは泥沼の頭突きの応酬よ。十六発目で私は打ち勝った。慧音は聖人かなにかのように里のひとたちに運ばれていったわ。長い戦いだった……私のほうは三時間くらい頭がぐらぐらして立ち上がれなかった。今も気を抜くと落ちそう。で、そこに歌が聴こえてきた。私の怒りを滾らせるような」
アリスはそこで顔をあげてミスティアを睨む。とはいえ、鳥目に冒された瞳では焦点が合わない。ぼんやりと霞むミスティアの姿は、夜雀というより、なにか得体の知れないものの象徴のように思える。思考の焦点も合わない。感情がざわつき、抑えきれそうにない。
上海はアリスの肘に触れ続ける。
「で、私はその怒りに誘われるようにしてここまでどうにか来れた」
「本気を出さない魔法使い様が随分と必死じゃない」
「人形が使えないんだから本気もなにもあったもんじゃないわ」アリスはそこでカウンターに突っ伏す。「……わかってるわよ上海、わかってる……夜雀の歌に惑わされた。そういうことにしておいて」
ミスティアが爪を切り始める。ぱちり。乾いた音にアリスは顔を上げる。
ぼんやりした輪郭の、霞に包まれたような指を見る。それでもその爪の長さはわかる。そこまで伸ばすことができたら、さぞ気分がいいだろうな、と虚ろに思う。
アリスの爪は短い。糸の邪魔になるからだ。今後も伸ばすことはないだろう、まず確実に。
でも、どうせ半年も糸を使わないんだったら、今伸ばしたって……
ぱちり。
「一番苦しかったのは……」とアリス。「頭突き合いの最中、ずっと、激しく指がひくついてるのが自分でもわかるところだった」
ぱちり。
「上海にやらせてもよかったけど、そうしたら……自分で操作したくなるに決まってる、上海を操るにしろ、別の人形に援護させるにしろ。そういう衝動を抑えきれなくなるってわかってた」
ぱちり。
「だからなおさら、無理矢理意地張って、逃げることもせずに、ひたすら頭突きよ。ばかばかしい……でも一瞬でも迷ったら、すぐに糸を伸ばしてしまいそうな気がして。自分でもいやになるけど、そういうのって」
ぱちり。
「わかる? 今度のことで思い知ったのは、私の体に、とことんまで人形遣いとしての性が染み込んでしまっているってこと。おまえが何者なのか、って問いかけに、なんの気後れもなく人形遣いだって答えることができる。そこまで長い間やってるってわけでもないのにね? ついこないだまでは幼女だったのに。そういう感覚って不快なものじゃない、むしろ爽快な気分になるくらい。でも、今は……」
ぱちり。
「――もういいわよ、ミスティア。すぐに夜が明ける」
ミスティアは爪切りを置く。
夜明け前の深い闇。屋台のなかには鏡と向かい合っているかのような沈黙がある。アリスはカウンターに突っ伏したまま微動だにしない。ミスティアはそんなアリスを見るともなく見ている。
「ミスティア」
アリスが不意に沈黙を破る。
「歌って。なにか」
ミスティアは片方の眉を上げてみせる。「そんなこと言われたのって、初めてよ。まさかそれがあんただなんてね。どんなのがいい?」
「優しい歌」
「優しいのはないの。激しいのはどう?」
「私のために歌う気なんてないってワケ?」
「変な解釈しないでよ。信じられないかもしれないけど、本当の話。でもそうね、そういう解釈もある意味当たってる」ミスティアは微笑む。「誰かのために歌うってこと、今までなかったし、今後もないでしょうね。そうする気もさらさらない」
「歌うのは自分のためにだけ?」
「自分のためですらないわ。『ふにゃららのため』なんてことばは大っ嫌い」
「……歌うのが好きじゃないって言ってるように聞こえる」
「昔は好きだった。今も少しは好き。でも苦痛のほうが大きいわ、今は。苦痛なしには歌えないの」
「だったらどうしてあなたはそこにいる?」
「その質問、そのまま返すわ。なんであんたは人形を操るの? 指がぼろぼろになってまで」
アリスは口を噤む。
どうして?
ミスティアが歌い始める。優しくもなく激しくもなく、ただ重く深く沈みこんでいく、耳元でそっと語りかけるような……
歌が終わり、しばらくするとアリスは立ち上がる。太陽が一日の最初の仕事をし始める。あたりは黄金色の靄のような光に包まれている。
「ミスティア。今日一日付き合いなさい」
「なんで」
「問いに対する答えを探しにいくのよ」
博麗神社。博麗霊夢はあくびをしながら境内を掃いている。そこへアリスとミスティアがやってくる。
「あら、おはようアリス、と……珍しいわね、ミスティアじゃない。どうしたのよそんな着物姿で」
ミスティアは頭を逸らして黙秘する。アリスはスカートを軽く摘まんで微笑む。
「おはよう、霊夢」
「素敵な賽銭箱はあっちよ」
アリスはその位置から百円玉を見事なフォームで放り投げる。狙い違わず、百円玉は賽銭箱に吸い込まれ、甲高い音があたりに響く。
「――……」霊夢は目を丸くする。「うっそお」
「霊夢」とアリス。「ワンコイン分ちょっと付き合いなさい」
「はあ?」
「弾幕よ」
アリスの左手が動く。そこから伸びる糸が転送された五体の人形に接続される。上海と蓬莱が後方に待機する。
ミスティアが驚いて叫ぶ。「アリス!?」
霊夢が怪訝な表情を向ける。
「……あんたは人形禁止くらったって、魔理沙に聴いたんだけど」
「魔理沙はどこでそんなことを聴いたのかしらね?」
「本人からじゃなくって?」
「霊夢の勘も外れることがあるのね。使えないのは右手だけだから、こっちは大丈夫」
「随分と疲れてるように見えるんだけど」
「実は昨晩、慧音とやり合ってから一睡もしてないの。もう横になったら寝ちゃいそう」
「そうしなさいよ」
「どうせなら倒れるまで体動かしてから、気持ちよく眠ろうと思って。最近不眠症気味だから、そうでもしないと寝れそうにないの」
「……本気?」
「片手だけしか使えないのに、本気を出せるなんてことがある?」
「えっと、いや、そういう意味じゃなくって」霊夢は箒をその場に横たえる。「私はまあ、別に……いいんだけど。ねえ、アリス。今日のあんたなんか変よ? いや変っていうか、なんか眼がぎらついてる。昔みたい。究極の魔法がどうこう言ってたとき」
「夜雀の歌に惑わされてる。そう思っておいて」
「そ。じゃ、やりましょうか」
「アリスあんた、一体どういう――」
ミスティアが言いかけた瞬間、ふたりは飛ぶ。
追尾してくる札は切り返してかわし、針は小さく位置をずらして避ける。単調な動きに慣れてきたところで叩き込まれる結界をグレイズ。霊夢はいつも通りだ。特別気負うことも手加減することもせず、ただ慣れた動作のリプレイをしている。
こちらの攻撃といえば――五体の人形によるレーザーにしろ、得物による直接攻撃にしろ、強さと正確性はともかくとして、片手では密度が薄すぎてお話にならない。
霊夢が退屈しているのをひしひしと感じる。
「ふぁ……」
涙を滲ませて欠伸までする始末だ。もっとも霊夢の場合、こちらが本調子でもしばしばそんな仕草をしてみせるが。
「アリス!」わざと楽しむように皮膚一枚の差で弾幕にかすりつつ、霊夢が声を上げる。「これで精一杯なの? イージーモードにしたってひどすぎるわよ、今日のあんたは!」
「――……っ」アリスは舌打ちする。「ウォーミング・アップよ、今までは!」
右手がひくつく。もうお馴染みになってしまったもどかしさ。糸を繋いで人形を寄越せと神経を伝って抗議を始める。おれはちっとも納得してない……おれは不満に感じてる……おれは待てない、おれは耐えられない。おい、アリス! いつまで霊夢にあんな余裕そうな表情させとくんだ!? 悔しくないのか、一緒に見返してやろうぜ!
うるさい。アリスは心のなかで答える。うるさい!
左手の負担が増す。指と、そこに連なる前腕の筋肉。乳酸が溜まり、重くなる。鈍くなった動きをフォローするために余計な筋肉まで動員し、それが体に無理をかける。が、それでも弾幕は思うように濃くならない。片手で展開することを前提とした弾幕なぞつくっていないし、もともと利き手ではないのだ。これ以上はどうしようもない。
結界に無理な姿勢でかする。安定さを保っていられない。魔力の緊張を緩め、一旦地上へ。石畳の上、ステップを踏むようにして跳躍し、霊夢に向き直ろうと体をひねる。
ひねった瞬間に右足首に激痛が走る。
「――痛……っ」
変に右腕をかばったのがまずかった。立てない。意思に反してその場に膝をつく。
「アリス!」
叫んだのが霊夢なのかミスティアなのかわからない。ただその声と同時に範囲を狭くし密度を濃くした弾幕が展開されるのがわかる。人形を前面に移動させ、防御障壁を――
制空権を得た霊夢がここぞとばかりに射撃を集中させてくる。魔力の伝達にエラー。人形の一体が負荷に耐えられなくなって機能を停止する。回線が絡まる。もう一体落ちる。
そこで不意に弾幕が止む。
「アリス! 後ろ!」
声に反応して振り返る。いつの間にか回り込んでいた霊夢が肉薄してくる。弧に振り抜かれる御幣が彼我の間にある空気を引き裂き……
霊夢の強さ。アリスは考える。
誰かが彼女は天才だと言った。神童だと。ろくに修行もせず、弾幕という特殊なルールのなかとはいえ、数多くの途轍もない妖怪を相手取る姿を見れば、そう言いたくなる気持ちもわかる。いや弾幕という形でなくとも、アリス自身、魔界に殴り込みにきた霊夢の姿を知っている。あの強さ。強さを越えたところにある強さ。
博麗の巫女としての宿命?
なにか計り知れないものの加護?
ばかばかしい……理論派の魔法使いはそんなもの信じない。
スピードもパワーも並みであるのに、総合的な強さだけがずば抜けている。なぜ? そんなもの簡単に説明がつく。あの動きのなめらかさを見れば。
あらゆるスポーツにおいて重要視される――弾幕をスポーツとして見るかどうかはこの際置いといて――粗形態の形成、定着を経て、精形態の模索、構築に至る過程。要は動きのパターンを覚え、その無駄を削ぎ落としていく作業だ。ひとつの動作を最低限の力で最大限の速さで行えるまでの習熟が、霊夢の場合、極めて迅速かつなめらかに行われたというだけの話に過ぎない。
才能? 素質? もちろんあっただろう、私たちにそれがあるのと同じように。だがそれを人知を超えた領域のものとして考えるのは愚の骨頂だ。ただの嫉妬だ。
いわば幾多の実戦を潜り抜けてきた、若きベテランとしての典型的な姿。
結果、どういうことになるか? 粗形態、精形態を経てさらに戦い続けていれば、それらを越えたところに行き着くのは当然の帰着だ。動きの洗練として究極の形態、『行動の自動化』。
初見殺しを完璧にかわしてみせ、ルナティックな弾幕を欠伸混じりに超えてみせる、あのなめらかさだ。人間の体はそういうところにまで行き着く。アマチュアとプロフェッショナルの境界を越えれば。
幽々子や紫の持つような、生まれ持った優雅さとは種類が違う。パワーでもスピードでもない。弾幕という異常な環境のなか、成長期真っ只中の、並外れた少女が得るに至った……
アリスは考える。私はどうだ?
「まだやる、アリス?」
御幣をアリスの首筋に突きつけ、霊夢が言う。
アリスは鼻で笑う。その呼吸は疲労とくじいた右足の痛みで荒れている。「それはこっちの台詞よ、霊夢」
ブン、と蜂の羽ばたくような音が響き、なにもなかったはずの空間から、三体の人形が現れる。
一体は霊夢の額に、一体は首筋に、一体は心臓に、槍の穂先を合わせている。
「……あら」霊夢は目を丸くする。
「私は一機。あなたは三機。勝負の行方は明白じゃない?」
「どこに隠れてたのよ、この子たち」
「私のぱんつのなか」
霊夢はきょとんとする。そうして、それがアリスなりの冗談だとわかると、一息ついてから腹を抱えて笑い始める。
「あはははは……!」
「そんなに笑うことないでしょう」
「だって……よりにもよってあんたが、くっ……そんなこと言うなんて!……」
霊夢は人形の一体にでこぴんをかます。
「そっかそっか! この子たちは今の今までアリスのケツを撫でてウォーミング・アップしてたってワケ! そりゃ勝てる気しないわ、あーおかし……!」
アリスは憮然とする。
「オプティカル・カモフラージュ?」
笑いの納まった霊夢が訊く。
「そ。にとり特製の」
「こんな手があったなんてね」
「博麗の巫女の勘もあてにならないわね?」
霊夢は肩をすくめる。「あんただから、よ。なんかしてくるってことはわかってた。だから面倒なことになる前に早めに決着つけちゃおうと思って、接近戦。他の連中だったらそんな真似しないわよ、遠距離でハメ殺し。そしたらアリスらしくもない、相打ち覚悟なんて」
「夜雀の歌に――」
「はいはい」
「ごめんなさい、バケツと氷水貸してもらえるかしら? あと包帯。左手がパンプしちゃった。足もくじいたし……」
「パンプ?」
「あー、まあ要するにめちゃくちゃ疲れたってこと」
「どうぞ」
霊夢は地面に置いてあった箒を手に取り、掃除を再開する。
そこでアリスはミスティアのほうを向く。鳥居の下、放心したように突っ立っている。
「ミスティア」アリスは声を上げる。「いつまでそこにいるのよ。ちょっと腕冷やすから手伝ってくれるとありがたいんだけど」
ミスティアはその声にぴくりと体を震わす。そうして表情を歪め、顔を真っ赤に染めて怒鳴る。
「あ、あ、あ、……あんたねえ!……」
「なに」
「いきな、いきなり……っ、なに、考えて……!」
「ふん」アリスは鼻で笑う。「意外と、肝っ玉小さいのね」
「なんだって!?」
神社の縁側。アリスは袖を捲り、左腕を剥き出しにする。バケツいっぱいに注いだ氷水にゆっくりと差し入れる。感覚を奪われること自体の感覚、熱せられた筋肉が強制的に冷やされる感覚にアリスは顔をしかめ、冷たさと心地よさの矛盾に溜息をつく。肘の上まで浸しきり、そこで動きを止める。
ミスティアが包帯を持ってアリスの後ろに立つ。しばらくの間そうやって屈みこむアリスを見下ろしている。傾けられた首、金髪の後ろ毛から覗く、蝋のように白いうなじ。ひとの体の急所のひとつ……そこをじっと見つめていても、アリスは反応ひとつ返さない。
ひどく無防備であるように、ミスティアは思う。この女はあたしを、無害な優しい妖怪だとでも思ってるのかしら? それとも警戒の必要なんてないほど、弱っちい腰抜けの妖怪のひとりだとでも?
ミスティアの指がかすかに動く。わずかに力が篭められる。爪は切ってある、が、既に生えかけている。全力で、渾身の一刀を以ってすれば、目の前のこの細い首ひとつくらい、どうにでも……
「――……っ、」
ミスティアはそこで足元の上海に気がつく。人形の、無垢そのものの表情で自分をじっと見上げ、観察しているように見える。
なるほどね、とミスティアは思う。観測手、ボディー・ガードも兼ねているわけだ、この人形は! あたしが少しでも妙な動きをすれば、こいつはすぐに主人に伝えようとするに違いない。
「アリス」ミスティアは声をかける。「包帯持ってきてやったわよ」
アリスは首を捻じってミスティアを見上げる。「ありがと。そこに置いといて」
「巻いてあげるわよ、足出してくれりゃ」
アリスは束の間口を閉じてから、
「……お願い」
ミスティアはアリスの前面に回り、アリスがローファーと靴下を脱ぐのを見つめる。上海がその動きに追従する。
アリスの足首。真っ青に腫れ上がり、倍近くまで膨らんでいるように見える。靴のなかに大人しく収まっていたのが不思議に思えるほど。骨まで捻じってしまったのかもしれない。
ミスティアは痛々しさに顔をしかめる。
「腕より先にこっちを冷やしなさいよ」
「足はどうでもいいわ。飛べばいいし、足の指で人形を操るわけでもないし」
「ふん」ミスティアはそっと患部に触れる。それだけでアリスの表情がかすかに揺れる。「人形だってもう少しマシな足してるわよ」
「私もそう思う」アリスは脂汗の滲んだ額を拭い、意地を張って微笑む。「たまに……容姿を人形に例えられることがあるけど、どうしてなのかわかった試しがないわ」
「本気で言ってるの、それ?」
ミスティアはアリスの目を見る。
「……」
アリスはミスティアを見返す。
沈黙が降りる。目を外すことさえ、身動きひとつすることさえ憚られるような、居心地の悪い緊迫がある。アリスはミスティアの眼の奥に怒りを見る。怒り……なにに対して? 少なくともそこにある意思だけは伝わってくる。
嘘偽りはいらない。今も、これからも。
ミスティアが包帯を巻き始め、そこで沈黙も終わる。
「ガチガチに固めてね……」
と、アリスは言う。
その体勢のまましばらくして、ミスティアが問う。
「どういうつもりよ」
「なにが?」
「人形使っちゃだめなんでしょうが」
「そうね」
「右手を使いたがってるのがあたしにまで伝わってきたわ。血気はやって戦いたがってるのが。なによ、上っ面ばっかり冷静でさ! 霊夢が長期戦しかけてきたら使ってたんじゃないの?」
「そうかも」
「まともな答えを返す気がないってワケ、あんたって女は?」
「言ったはずよ」アリスはぴしゃりと言う。「問いに対する答えを探しにいく、って」
「これがその答えなの?」
「まだ今日って一日は始まったばかりよ」
「アリス、あんた――」
「いいじゃない、別に。一介の人形遣いが気まぐれでやってることなんだから。鼻歌でも口ずさみながら傍観してればいいのよ、夜雀は」
「目の前で自分から傷つこうとしてるやつを見てなにも感じないのはくそったれの木偶人形だけよ!!」
ミスティアの絶叫が神社の骨組みを揺らす。地震のように。
「ハイ、そこまで」
霊夢がふたりの空間、ぎりぎりと張り詰めた空気の領域に立ち入ってくる。
「ウチで騒々しい喧嘩とか、しないでくれる? 宴会や弾幕は例外としても。私としてもね、朝っぱらから力尽くで友だちを追い出すような真似、したくないの」
ミスティアはアリスから目を外さずに、
「あんたなんかと友だちになった覚えはない」
と、歯の隙間から吐き出すように言う。
「他人の考えに縛られないのが巫女としてのウリってやつだから。あんたの意思なんかはどーでもいいの。私が友だちって言えばそいつはもう私の友だちなのよ」霊夢はにこりと笑って言う。「今度一緒に飲み行きましょう。もちろんあんたの奢りで」
ミスティアは中指を立てる。
霊夢はアリスに向き直る。
「アリス。あんたに客」
「すぐに行くわ。待たせておいて」
ぶっきらぼうなそのことばに、霊夢は束の間口を閉じて、続く台詞を待つ。が、なにひとつことばが続いてこないのを見て取ると、
「相手が誰だか訊きもしない。私の神社にアリスの客が現れても、それに疑問を抱きもしない。どう考えてもおかしな状況なのに、私はそれをちっとも不思議に感じないのはどうしてかしらね?」
「それはそのことがちっとも不思議じゃないから」
「……ま、今のあんたの異様さを見てると、ね」
霊夢は肩を竦める。
「ねえ、アリス」霊夢はいくらか口調を和らげる。「さっきも言ったけど、私はあんたの友だちだから。言いたいことがあるんだったら、たまにはぶちまけなさいよ。私でなくとも、魔理沙でもパチュリーでも、そこで実に心配そうな顔をしてるミスティアにでも」
そのわかりやすい挑発にミスティアが乗ることはなかったが、アリスはバケツから水の滴る腕を持ち上げて、
「たまに思うけど」と言う。「あなたは本当に……なんていうか……博麗の巫女よ。それ以外にぴったりなことばを探せない自分が厭になるけど」
「そういうことばにも縛られない」霊夢はひらひらと手を振って背を向ける。「あんたが話したくないんだったらそれでもいいけどね。私は私、あんたはあんた。もしまた客と喧嘩になるんだったら、手早くお願い。私は奥で寝てるわ」
右足を引き摺りながら、アリスは境内に向かう。ミスティアと上海がその後ろに続く。ミスティアの目つきはもうほとんど睨みつけるようなものになっている。
鳥居の下、階段の最上階に足をかけて、鈴仙が背を向けている。
「……たまに来るたびに思うけど、ほんとに、いい眺めよね。竹林とは大違いだわ。幻想郷全部が見渡せたって不思議じゃないくらい」
鈴仙は独り言のように呟く。その髪が階段の下から吹き抜ける風に揺れている。
「霊夢はこういう景色だけで満足してるんじゃないかって、ときどき思うのよ。なにかを求めてどこかに向かったり、誰かと戦争なんか起こさずに、ただ……そこにあるものだけを守るために異変を解決して。そのためなら逃げもしないし隠れもしない。偽りもしないし隠しもしない。そう思うのって、ただの感傷かしら」
「私は偽りもするし隠しもする。けどそれはそうしたくてそうしてるわけじゃない。そうなってしまうってだけよ。どこぞのスキマほどじゃないけど、私も気まぐれなのよ、たぶん……」
アリスは左手をひらひらと振って言う。
「おはよう、鈴仙。いえ、もうこんにちはの時間かしら」
「驚かないのね、私がここにいても……」
「なんとなく想像はついてた」アリスは腕を組む。「仕事熱心なお医者様だこと。昨日あなたが来たとき、上海がありえない反応をした。本来なら私の感情が昂ぶったときにだけ取る行動」アリスの肘に体を添え、顔を見上げる――「上海はもう随分長いこと使ってるせいか、ときどき、私のプログラムからはちょっと外れた行動を起こすことがある。大抵は単なるバグだけど、魔力の主である私が不調なときに、特にそうしたことがある。でも昨日は、指はともかくとして魔力そのものは別に不調でもなんでもなかった。
で、考えられる理由としては……私に気取られもせずに巧妙に、あなたが私の波長を狂わせた、ってことくらい」
「狂わせたわけじゃないわ。私の波長とチャンネルを合わせただけ」
「人形を使ったことを遠距離でも受け取れるように、ね?」
鈴仙はアリスに向き直る。ミスティアに比べればわかりにくい感情の起伏も、アリスに比べればわかりやすい。無表情と言える範囲のものではあるが、わずかに悲しみの色が混じっているのが、アリスにはわかる。
「どうして師匠の言いつけに背いて、人形を使ったの?」
「それより私は、なんであなたがこんな風にしてまで私を気遣うのか訊きたいわ」
鈴仙は溜息をつく。
「一番シンプルで勘違いを恐れない言い方をすれば、私が、あなたのファンだから」
アリスはそのことばの意味を考え、けれどもその真意がわからず、
「……なにそれ?」
「あなたときどき、人里に行くでしょう? で、人形劇、やるでしょ?」
「まあ……人形操作の練習と、ちょっとした小遣い稼ぎに、だけど」
「劇中、あなたって本当に集中しきっていて、オーディエンスなんて知ったことかみたいな態度だから気づかないでしょうけど、ときどき、私その場にいるのよ。里のひとたちの往診に」
アリスは人形劇の最中を思い出そうとする。上海と蓬莱演じる、ちょっとした寓話だったり、パチュリー原案のラブストーリーだったりするが、確かに、人形操作に夢中になって観客を気遣ったことなどなかった気がする。
劇がつまらず冷め切ってしまう観客にぞっとして、我に還って演技などできなくなってしまいそうな、恐怖の裏返しでもあるのだが。そもそもアリスは自分の表現力に関しては信用してない。パチュリーのつくった物語は掛け値なしに面白いと言えはしても。
「……やぁね。あそこにいたの、あなた?」
「やっぱり気づいてなかった」
鈴仙は肩を竦める。
「控え目に言って」鈴仙は言う。「控え目な表現のなかでも一番控え目で幾分控え目すぎるんじゃないかって思えるくらい控え目な言い方をすれば、あなたあれ、とんでもないわよ。劇の間、里のひとたちなんかぽかんと口を開けて見入ってるくらいだもの。もちろん私もそんな風になってる。たまに一緒に来るてゐも。
てゐがそうなるってどれだけすごいことか、わかる? あんなちっちゃくてもあの子、下手したら姫様より長く生きてるのよ。狡猾で、飄々としてて、私なんて何度騙されて励まされたことか。その度に敵わないって思ってるのに、そんなてゐを、ほんの何十分かそこらの時間で……」
アリスはどう反応していいか困る。
「この前の人形劇、一番気になるところで終わっちゃったでしょ? すごく楽しみにしてたのよ、次回。なのに師匠の診断であんな……眩暈がしたわ、正直なところ。半年間おあずけだなんて」
「そんな大袈裟な」
「心底そう思ってなかったらこんな裏技使ったりしない。プライベートの侵害だもの。でも、昨日のあなたのぎらついた目を見て、心底心配になったの。もしかしたら半年が一年にも二年にもなるかも、下手すれば一生あの続きが見れなくなるかも……って。だから気取られて忌々しく思われるのは怖かったけど、こんな……」
「……」
アリスは一体の人形を転送する。弾幕の類は放てない、直接攻撃専用の、最も素早く動けるタイプ。得物は刀。柄の部分が改造され、やや長くなっている。
「私が言うのもなんだけど、アリス。ちょっと休むというのはどう? 半年眠れなんて言わないわ、せいぜい三日間くらい。それだけあれば、沸いてる頭も冷えるわ、きっと」
「鈴仙、そんな権利があなたにあるの?」
「権利なんて知らない。ただ私はあの続きが一刻も早く見たいの」
「頭が沸いてるのはあなたのほうじゃなくって? はっきり言って大したことないわよ、あんなのは。あなたがここまでするようなことじゃない」
「例えば……」鈴仙はなおも言う。「半年間休載してる大人気の漫画があって、その作者が目の前にいて……そこは橋の上かビルの上かなにかで……今にも自殺しようとしてる様子があったら、その行為が犯罪でもなんでもいい、私は絶対に、なにがあっても止めると思う」
「私はそんなんじゃないってば」
「あなたの価値を最もわかってない女がいるとすれば、それはあなた自身よ、アリス」
鈴仙は首を振る。
「あなたのことばを聴いてない。どういうつもりよ。今にも右手を使いそうだって、あなたの波長が教えてくれる」
「使う必要がなければ使わないわ」
「そんなことばは信じられない」
「……そうね」アリスは腕を組む。「一区切りつけずに半年眠っているより、一区切りつけてから一年眠ったほうがまだマシ。そういう心境かしら、今は……」
「後悔するわよ、アリス」
「議論は平行線、ってわけ」アリスは肩を落とし、溜息をつく。「ありがとう、鈴仙……そういう風に言ってくれて。信じてもらえないかもしれないけど、これは本音よ。こっ恥ずかしくなってくるくらい。でもそうね、実に心苦しいんだけど、どうしても言っておかなければならないことばがあるの」
アリスは背筋を伸ばして鈴仙を見据える。
「余計なお世話」
アリスの左手が跳ね上がる。
痛みや疲労を越えた、幾多の実戦を潜り抜けてきた、若きベテランとしてのなめらかな速度で。輪郭がぼやけるほど素早く指が動き、人形と魔力の糸が接続される。神経を走る電気よりも早く、光の速さ、ノータイムで魔力と命令が伝わる。アリス自身が満足してしまうほど、タイムラグがない。人形が刀の柄に手をかけ、惚れ惚れするほど美しく無駄の削ぎ落とされた動作で、銀色の閃光を引き摺って鈴仙の首筋に突撃する。
人形が刀を抜ききりもしないうちに、鈴仙は狂気の瞳をアリスに叩き込んでいた。
「あんたに勝因があるとすれば」とミスティア。「あんたには鈴仙を傷つけてでも今日を続ける覚悟があった。鈴仙はあんたをちょっとばかり眠らせるだけで良かった。それくらいのものじゃないの?」
森のなかの道。アリスは樹の幹に背中を預け、しばらくの間じっとしている。呼吸は全身をしならせて行わなければままならないほど荒れ果てている。わずかに首を傾げ、枝葉の隙間から覗く青空を見つめている。
目を細めると、視界が潤む。右目と左目で違う遠近感。真っ白な雲のへりがぐるぐると回る。回るにつれて自分の内部も揺れている気がする。
「違う……」アリスは息も絶え絶えに言う。「私には……備えるだけの時間があった……鈴仙の行動が昨日の段階で読めた時点で……」手のひらで目を覆い、重ねられる吐き気を無理矢理抑え込もうとする。「完全に完璧に準備できている魔法使いなら……その魔法使いが正しい意味での魔法使いなら……相手が誰だろうと負けはしない……」
ミスティアはアリスの足を見る。自分が包帯を巻いてやった箇所。アリスは今、ローファーも靴下も脱ぎ、裸足で地上に立っていた。その足の裏に包帯も肉も貫通して穴が開いていた。
「ふん……」
その穴は鈴仙がつけた傷ではない。狂気の瞳に気を失った瞬間、上海が撃ったレーザーによって開けられた傷だ。
「無茶するわ。自分の人形に自分を撃たせて、無理矢理覚醒するなんて」
「もともと……幻術の類を受けて私が行動不能になったらそうするように……上海にはプログラムしてある」
アリスは歯を噛み締める。ぐらつく視界をそうして落ち着かせる。ほとんど息を殺すようにして呼吸を整える。
「地底に魔理沙が行ったとき、心を操る妖怪と戦って、私もなにか対策を立てないといけないと思ってたから。嫉妬心だのトラウマだの無意識だの、そんなふざけたものを操る連中とまともになんて戦えない。でもそれなりの対策を立てるのにはそれなりの時間が要るから、とりあえずの形として、ね」
勝負の行方は本当に一瞬だった。アリスの人形が刀を抜く。狂気の瞳にアリスが囚われる。上海がアリスを撃つ。アリスが覚醒する。中途で止まった人形が再動する。それで終了。
「へんちくりんで、弱気で、鈍い妖怪だとばかり思ってたけど。永遠亭の荒事担当は伊達ではございません、ってか」
鈴仙が見せた一瞬、アリス以上の速度を思い返し、ミスティアはぞっとする思いで言う。
「彼女はあの異変の夜、私と魔理沙と霊夢と紫とレミリアと咲夜と妖夢と幽々子を相手にして、その誰にも、決して楽な思いをさせなかった。どう考えたって一筋縄じゃいかない女じゃない。それって私の過大評価?」
「気苦労の多いことで」
「あなただってそうよ、ミスティア……」
ミスティアはそのことばにアリスの横顔を見る。
「私は誰も……この幻想郷の人間も妖怪も、誰ひとりとして侮っていない。私よりも弱くて、本気を出す必要もなく戦える連中にしても、そう。私が手の内を見せないように、彼女たちも私には見せない、途轍もないものを持っているかもしれない、いつもそんなことばかり考えてる……」
「気苦労の多いことで」
「理論派って言って。ちょっと考えればわかることよ。今はなにも持っていない者でさえ、半年もあったら突然変異して、なにか……とんでもなくなるかもしれない。そう思うと不安になる。実際、そういうのって珍しいことでもなんでもないから。
で、私はそう思うたび、人形を操る。そうして現れた突然変異のわけのわからない連中だって、こういう風に人形を扱うことはできやしない。そう思うと、安心する」
アリスはそっと右手を持ち上げ、その手のひらを覗き込むような仕草をする。
「自分がどれだけ人形ってものに縋ってるのか……貰ってるものがあるのか、毎日毎晩思い知る。さっきのことだってそうよ。私が人形遣いじゃなくて、普通の魔法使いだったら勝負の行方はどうなってた? 私はどう鈴仙と戦ってた? 狂気の瞳をどうかわしてた? 丸っきり想像もつきやしない」
アリスは言いながら、そっと身を寄せる上海の頭を撫でる。
「あなたも……私には歌のことなんてさっぱりわからないけど、多少はあるんじゃない、そういう感覚って……」
ミスティアはアリスから目を逸らす。そうして考える。あたしより歌が上手いやつなんか珍しくもなんともない。音楽的な才能を持ってるやつなんか。夜雀仲間でもそうだし、プリズムリバーの姉妹だってそうだ。どこかの隙間妖怪とか、そういうレベルのやつらは、ちょっと本気を出せば眩暈がするくらい完璧に歌ってみせるに違いない。
けれどあたしと同じ声で歌うやつなんかひとりもいない。あたしと同じ領域で、同じものを表現しようとしてるやつは。
ミスティアは胸中に言いようのない感覚が湧き出たのを感じる。あまりにも複雑で捉えどころがなく、そのくせどこか生温かい。アリスのことばへの共感? 同意? そんな単純なものではない。
が、結局、彼女はなにも言わない。
アリスが歩き、ミスティアはその後に続いている。服の一部を破り、足の傷に押し付けていても、血は布地の裏に染み込んで地面を濡らす。
「どうして飛ばないのよ」
「魔力を使うくらいだったら体力を使うほうがいい」
「なぜ?」
「これから行くところが、それだけ厄介な場所だから」
アリスはそれ以上はなにも言わない。
時折、狂気の残滓が脳内で蠢き、どうしようもなく立ち止まることがある。アリスはそうなるたびに道を逸れ、樹木の合間、ミスティアには見えない場所に行き、体を折り曲げる。
嘔吐感がある。ただそれは実際に嘔吐を催すほど強いものではなく、その曖昧な境界線そのものが、アリスの気力を削っていく。いっそ吐いたほうが楽になれるのだろうが、アリスはそうしない。どうせ昨晩からなにも食べてないのだ、胃液以外に出るものがあるものか。
道に戻ると、ミスティアはそこで待っている。
「今のあんた、そのへんの通行人にだって負けそうに見えるんだけど」
「夜雀の歌ウィズ狂気の瞳。どうにかしないほうがどうかしてるわ。それでも、魔力が残ってないわけじゃないから……」
「なんなのよ、一体。ほんとになにがしたいってワケ?」
「鈴仙にも言ったけど、眠り込む前に一区切りつけたいだけよ、私は……」
アリスはそう言ってまた道を歩く。
「もっと夜雀の歌が優しかったら」とアリス。「狂気の瞳も相殺できてたかもしれないけど、少しくらい」
「……」
「相乗するばっかりで厭になるわ。ねえ、ミスティア、今からでもなにかないの、こう、心が穏やかになるような素敵な歌」
「優しい歌なんてものは、お優しい連中だけで共有してりゃいいのよ」
アリスはミスティアに振り返る。そのことばに不意に篭められた響きの色に。
ミスティアは立ち止まり、軽く俯いている。その眼は前髪の奥に沈み込み、アリスの位置からは表情が窺えない。
「お優しい連中。お優しい歌にぱぱっと集まって、あらまあ素敵な曲ね、なんて月並みな感想しかいえないような月並みな連中。世間一般で好まれてるものになにも考えず集まって、砂糖に群がる蟻みたいにぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃやってるようなやつら」ミスティアは顔を上げ、両手を十進法の形に広げる。「あたしを遠ざけ、拒み、公然と排除しようとしたやつら。妖怪だからというだけで……お優しい価値観のなかで物事を深く考えもせずすぐに正義の旗を振りたがるやつら」
「ミスティア……?」
「自分の考えなんてなんにも持たずに、上っ面だけの美しさに群がるやつら!」手のひらを広げて自らの胸を殴打する。「そういうやつらに限って……お優しい歌を唄う連中に限って、剥き出しにされた醜悪さを嬉々として攻撃する。徹底的に否定して、自分はそうじゃないんだって恥知らずにも言い張ってみせる。自分の醜悪さを認めることも、曝け出すことも、磨きぬくこともできなくても」
アリスは頭だけをミスティアに向け、じっとその姿を見つめる。森の枝葉が産み出す静かな闇を纏い、木漏れ日の降り注ぐなかにすっと立つ夜雀の姿は、今、呆れるほど美しい。剥き出しになりつつある感情にひどく不釣合いなほど。
「そんなやつらのために歌う曲なんか持ち合わせてない。あたしは妖怪で、夜雀で、曝け出された醜悪さよ。霊夢がどんなルールを作り出したって、あたしのその部分が変わるわけじゃない。あたしはあんたらとは違う。だからあんたらとは違う歌を唄う。優しい歌がなんだっていうのよ、あたしと同じところまで落ちて、一緒にもがいてくれるわけでもないっていうのに」
そこでミスティアの顔が傾けられ、また前髪の奥に隠れる。
「優しさっていうのは、目の前で自分から傷つこうとしてるやつがいて、自分は安全な場所から見下ろしてお優しいことばをかけてやるだけの行為よ。でもそんなのは本当に傷つこうとしてるやつの心には届かない。それでも上っ面だけの木偶人形は、そうやってるだけで満足する」
アリスは顔を背け、前を向く。道の向こう側、捉えどころのない闇を。それでも踏み込まなければ、その先を見ることは誰であろうとできはしない。
「今はいい顔をしてる連中だって、いつかはそうじゃなくなる。あんただってどうせ同じよ、アリス……上っ面だけの木偶人形よ」
アリスは歩き始める。ミスティアがそれでもついてくるのがわかる。彼女がほとんど不意打ちのように自らの心を曝け出したのが、アリスには信じられない。どうしてそんなことをしてみせたのか。それでもミスティアの言おうとしたことは、なんとなくわかる。
それでも、結局、彼女はなにも言わない。
「どこへ行くのよ……」
ミスティアが疲れ果てたように訊く。
「幼女時代の借りを返しに」
アリスはぼそりと言う。その背中に抗いようもない緊張が入り混じる。
血を零したような色の濃い夕暮れ。風見幽香は花畑のなかに立ち、遠い地平線を見つめている。太陽が送る一日の最後の灯りを視界に入れ、紫色に濁るまで直視している。その行為自体に大した意味はない。過去を振り返ることも未来を想うこともない。ただそこに立ち、それを見ているだけだ。
「幽香」
ぬくい春の風が吹き抜け、花びらを散らす。渦を巻いて空へと昇る。西の空はもう青黒く染まり始めている。花びらはそこにある闇まで導かれ、やがて、見えなくなる。
「幽香――」
アリスは花を踏む。血の流れる右足を引き摺り、幽香の場所まで自らの道をつくる。ミスティアは花畑に刻まれたただひとつの土道に立ち、その後姿を見ている。
狂ってるわ、とミスティアは思う。
「幽香」
三度目のアリスの呼びかけに、幽香はようやく頭を傾げてアリスを見る。
彼我の距離が数歩となったところでアリスは立ち止まる。
「ごきげんよう、アリス。久し振り」
「ええ、幽香。また会えて嬉しいわ」
「用件は?」
「私とやりあいなさい」
「なぜ?」
「なぜ、とか、どうして、とか、そういうことはなるべく考えないようにしてる。考えても無駄なことだからよ。私自身にだってわからないんだから」
「それが賢明なことだとは思えないんだけど」
「私の指はときどき私を裏切る」
「あなた自身は? 今にもぶっ倒れそうに見えるわ」
「ウォーミング・アップをちょっと張り切りすぎただけよ」アリスは淡々と言う。「四連戦なんて異変なんかじゃ珍しくもなんともない。むしろ少なすぎるくらいよ。けれど控え目に言って……控え目な表現のなかでも一番控え目で幾分控え目すぎるんじゃないかって思えるくらい控え目な言い方をすれば、絶不調。それでもたぶん、今の私がこれまでの私のなかで一番強い」
「また究極の魔法でも手に入れたってワケ?」
「究極の魔法はもうずっと私の手のなかにある」
アリスの左手がなにかを求めるように幽香に差し出される。そこから伸びる糸が転送された十五体の人形に繋がる。
「面倒くさい……厭だって言ったら?」
「花畑を焼き尽くす」
「狂気の沙汰ね。無謀よ」
「夜雀の歌ウィズ狂気の瞳。それをまともに喰らって平静を保っていられるほど、私は年寄りじゃない」
幽香は日傘を担いでアリスに半身を向ける。
「幼女時代のリベンジ。霊夢と魔理沙とは日常的に戦ってるし、魅魔はどこにいるんだかわかりゃしない。残りはあなた。今、ここにいる、あなた。だからやる。今すぐやる。徹底的にやる。まだことばが必要? 正直言って、口を動かす体力も勿体ないんだけど」
「ばかよ、あなた……」
「ときどき、心底そう思う。チルノだってこの私には敵わないんじゃないかって、本当に」
幽香は無言のまま微笑し、『やれやれね』と言った風に手のひらを上に向けて肩を竦めて見せる。
幽香の足が地表を離れ、ゆっくりと昇っていく。舞い上がる花びらを伴い、アリスを微笑したまま見下ろしながら。開かれた日傘の陰になり、幽香の上半身は黒く染まっている。アリスはその様をじっと見上げている。アリスは飛ばない。人形をそれぞれの配置に拡散させ、自分はその場で、幽香から目を離さない。
ミスティアはその場の空気がぎりぎりと張り詰めていくのを聞きながら、アリスのことばを思い返している――『鼻歌でも口ずさみながら傍観してればいいのよ、夜雀は』。
「傍観者なんてのは、この世には存在しないのよ」
が、今のミスティアには、ふたりの戦いに割って入るつもりなどさらさらない。自ら進んでアリスの自傷行為に巻き込まれようなどとは思わない。
だが……とはいえ……それでも、ミスティアの爪はもう完全にいつもの鋭さを取り戻している。彼女自身の思惑になど関係なく。そしていまさら、アリスの行く先を見届けもせずここから立ち去ろうとも思わない。
アリスの腕を遠目に見つめる。肘の上まで捲られたままになっている左腕。夕暮れのつくる光が、その凹凸にはっきりした影を落としている。筋肉など一切ないように見える……それほどに細い。けれども柔らかな脂肪だけでは、それがどれだけ薄く、骨に密着したものであっても、あんな形で影が生まれることなどない。
しなやかで強靭な、細く絞り込まれた筋肉。そうなるまでにどれだけの年月、どれだけの犠牲を払ったのか。人形を操るということがどれだけ過酷なものなのか、想像もつかない。そもそもあの人形たちにはどのくらいの重量があるのか? 十五体。全部合わせれば、少なくとも自分の体くらいの重さはありそうな――
ぱらぱらと、慎ましく思えるくらい静かに弾幕が展開され始め、ミスティアはわずかに翼を動かす。
風見幽香? アリスは考える。彼女に関してわかってることは少ない。確かなことは花に対する執着が本物であるということと、そのばかげたスペックだ。
前者に関しては、霊夢や魔理沙の強さを信頼していいのと同じように、信用していい。そこでアリスは、低空、花畑をかすめるようにして飛ぶ。こうしている限り、どれだけ制空権を奪われていようと、例の極大の閃光は撃ってこない。過剰な弾幕はない、と考えていい。花びらが鋭利な銀のナイフのように渦を巻いて襲いかかってこようと、咲夜の操るような時間も空間も無視した現実のナイフ以上の脅威にはならず、実際にアリスには咲夜と戦った経験がある。
後者に関しては、これはもうどうしようもない。私より強く、私より迅く、私より抜け目なく、私よりタフで、私より胸がでかい(おっとノイズが入った!)。ただもちろん――全く忌々しいことに――そんな女は世界では珍しくもなんともない。格上の相手など腐るほどいる。言い訳の理由としては全くのアンフェアだ。
作戦。そんなものは存在しない。正確に言えばあるにはある。自分より遥かに格上、危険な連中と戦うときへの備えは。
逃げること。一目散に、後ろを顧みず。
そのための目くらまし用の魔術も、人形もある。慎重に、いくつも対策を立てている。誰が相手であろうと負けるつもりはない。生き残れば私の勝ち。死ねば負け。弾幕というルールのなかでもそれは変わらない。
けれども今は逃げるときではない。戦うときだ。もともとそんなつもりなど毛頭なかったのだから、戦うための作戦などあるはずもない。
私らしくもない。全くばかばかしいこと!
慧音、霊夢、鈴仙と連戦を続けてきた体にもう体力は残っていない。が、魔力は少しだけ残っている。それを頼りに飛び続け、花の弾幕をかわす。高度を合わせ、上空に昇るように放たれる、緩いカーブを描く霊弾。
花畑は風見幽香という妖怪が最も力を発揮できる場所でもあれば、風見幽香という女が最も戦場としたくない地形でもある。
が、それでも地力の違いはすぐに現れ始める。一体の人形が花びらに貫かれ、落ちる。続けざまに三体。夕暮れを裂いて走るレーザーは宙を切るばかりで、木の葉のように捉えどころなく飛ぶ幽香には届かない。
今のアリスの状況からしてみれば善戦と言えなくもない。が、アリス自身は、それでは不満なのだ。
「……っ」
半分の人形が落ちたところで、残りの人形を撤退させる。弾幕が一旦止み、その中心に浮かぶ幽香と視線が絡まる。幽香はうっすらと笑みを浮かべて見下ろしている。が、それだけだ。なんの色もそこには現れていない。楽しんでいるわけでも弄んでいるわけでもない。ただそこにいるだけ。ただ。
――取るに足りません、っていうこと。今の私が!
アリスは人形を転送する。
「試験中『ゴリアテ人形』×5……!」
今の自分にできる最大の戦法。どのみちもう魔力も体力もろくに残っていないのだ。このままでは日が落ちるまで持たないだろう。
五体の巨大人形がアリスの背後に召喚される。糸を繋いだ瞬間、その重みがもたらす負担が左手の内側を発火させる。霊夢との戦いの後冷却した筋肉が一斉に千切れ始める。
「っつ……!」
食い縛った歯の隙間から呻き声をこぼす。
「あら……」
幽香がその戦いで初めて興味深そうな声を上げる。
アリスの左手が動く。重苦しい間を引き摺りながら一体のゴリアテが双剣を振り上げる。赤い軌跡を描いて両袈裟に振り下ろされた切っ先が幽香に向かう。
幽香は日傘を閉じ、物憂げに頭上にかざす。ちょっとした陽光を遮るだけのように。巨大な剣と日傘の骨が交差する。爆風に似た衝撃があたりに吹き荒ぶ。
当然のごとく、幽香は微動だにしない。が、ゴリアテのほうは腕部から肩にかけてぶるぶると震えている。繋いだ糸を伝い、アリスの指先も。
「化け物」アリスが呟く。
「よく言うわ。あなたも似たようなものでしょう。こんなでたらめな人形までつくって」
「外の世界じゃそうふざけた発想でもないようよ、早苗が言うにはね……」
「それはそれは。しばらく見ないうちに外も楽しくなったようね。総重量で何キロくらいあるの、この子」
「さあ? 軽量化はこれからの課題だもの。十トン、二十トン……」
「それが五体、か。よくやるわ」
幽香の笑みが深まる。その体の輪郭が不意にぶれる。
「――!」
形容しがたい感覚が指先に走り、その直後には、ゴリアテの剣と腕部が細切れにされていた。さらにその一瞬後には全身が。
繋いだ魔力の糸がぷちんと切れる。アリスは咄嗟に残りの四体を後退させる。
なによ、今のは? アリスは溜息をつく。いまさらこの女がなにをしても驚くつもりもないが、それにも限度がある。瞬獄殺か超究武神覇斬か。日傘でそんなことをするとは恐れ入った。厨二病にも程がある!
後退したゴリアテを追うようにして幽香が肉薄する。肉眼では捉えきれないほど早い、が、その動きは予測がついている。ゴリアテの八本の剣がアリスの目の前に突き立てられる。檻のように。横薙ぎに払われた日傘が一本ずつ剣を砕いていき、八本目、アリスの顔の真横で止まる。
幽香がにっこりと微笑む。アリスは引きつった笑みを返す。
「で? どういうつもりなの」
「言ったでしょう。幼女時代のリベンジ。それ以上になにが?」
「どうしていまさらそんなこと、って意味よ」
「若気の至りよ」反射的に返答してから、そのことばが気に入った。「大した理由なんかない、ただ一区切りつけようと思っただけ……あと一万年してババアになったらそういうこともなくなるんでしょうけど、少なくともそれはやっぱり、一万年先のことよ。これから先何千年も若気の至りを繰り返すんでしょうね、私って女は」
「若いってのはそれだけでもうくそ素晴らしいものよね?」
「それは年寄りだからそういうことが言えるんでしょうよ。私は……若いと自分で思ってるやつは、決してそんなこと思わない。早く成長したいって考えるばかりよ」
「ええ、そうね。私くらいになるとときどき思うのよ。もう少しばかり少女時代を大切に過ごしたかった、って」
「あなたも少なくとも見た目だけは少女よ、このペテン師」
アリスはそう言ってゴリアテの拳を叩き込む。幽香はその場を離れる。
奇跡は起こらない。太平洋ほどもある実力の断絶を埋める術はない。アリスの相手は幽香だけではない。悲鳴を上げる左手の筋肉、身の程をわきまえず抗議を繰り返す右手の指先、穴の開いた右足、狂気の残滓に揺さぶられる意識と視界。
味方らしきものはどこにもいない。誰にも頼れない。独り善がりの孤独が全身を覆うような心地になる。相手はあの風見幽香、万が一にも勝機があるとはアリス自身でさえ信じられない。
が、そこでアリスは、プログラムされた援護射撃を続ける上海と蓬莱を見つける。
追い詰められ、崖っぷちの状況に追い込まれるなかで、それでもアリスは、微笑を浮かべたいような気分になる。
やれやれ、とアリスは思う。間抜けな話ね、自分のつくった人形に慰められるとは! ようしわかった、少なくともこの子たちが動き続ける限りは、それがどんなにささやかなものであっても、抵抗し続けてやろうじゃない。
とどめは直接攻撃のはずだ。
ゴリアテを日傘で破壊したように、その暴力的な弾幕ではなく、アリス自身を終わらせるときも日傘で攻撃してくるはずだ。あるいは拳か。蹴りか。どれにしろ、花畑を巻き込む破壊を伴うものではないはずだ。
億分の一にでも逆転の糸口があるとすれば、そこにしかない。あの霊夢でさえ、私が相打ち覚悟で弾幕に臨んでるなんて思っちゃいなかった。一度通じた方法なら、もう一度通じたっておかしくはないはず。まして相手は幽香だ。博麗の巫女の勘なんて持ち合わせちゃいないし、ばかばかしくなるくらいの実力差があるのだから、せいぜい油断してくれることだろう。
それにしてもやっぱり今日の私はおかしいな、とアリスは思う。なんだかもう、疲れた。昨晩どころか、もう丸々一週間ろくに寝ていないわけだし。指を怪我してから考えることが多すぎた。
大体全部あの歌のせいだ。ミスティアの歌。夜雀の歌。感情を押し隠すことなんて心底ばかばかしくなるくらい、自分を曝け出し、嗚咽までし始める歌。ひとつの作品に滾りすぎることはざらにある。没入し、没頭し、重ね合わせて根っこまでぐらつかせるようなものに出会うことは。それがあの日、あの夜、この私に起こってしまったということなんだろう。
ミスティアには八つ当たりみたいなことを言ってしまったけれど、正直に言えば、私には充分だった。ある種の感情を昂ぶらせるのには。こんな、慧音や霊夢や鈴仙とやりあってしまった挙句、幽香に挑むなどというわけのわからない行為に及んでいるのだから。
たまにはこういうのもいい……自分を根こそぎ使ってばかやって、限界線上に至って痛い目見るというのも。どうせやることなすこと全部、若気の至りだ。これから先一万年。
でも、幽香。あなたにはそう易々と勝たせてはあげない。ね、そうでしょ、上海、蓬莱?
四体のゴリアテが一斉に幽香に襲い掛かる。その瞬間、幽香の体がぶれ始める。ゴリアテたちの腕が微塵に砕け始める。
アリスは左手を限界まで広げる。
「――アーティフルサクリファイス……!」
ゴリアテに仕込まれた火薬が引火し、爆裂する。火力は普段そのスペルに使用している人形の比ではない。ごっこ遊びの領域を越えている気も、しなくもない。
知るものか。どうせこんなんじゃ傷ひとつつけられはしない。
強すぎる爆風がアリス自身にまで及ぶ。反射的に糸を切りはする、が、もう底を突き始めた魔力ではろくな防御壁を展開することもできず、熱風に直に曝される。
自分を支えられず、爆発の奔流に吹き飛ばされる。
花畑に叩きつけられる寸前、アリスはなにか柔らかいものに包まれ、激突を免れる。
「この、ばか!」
ミスティアはアリスの耳元で叱咤する。
「自分の仕掛けた攻撃で自滅してどうすんのよ!? チルノやルーミアだってそんな間抜けなこと滅多にしないわよ! っていうかそんなぼろぼろで幽香に挑むって時点でもうほんとばか! アホ! ろくでなし!」
アリスはミスティアの体を振り払う。「誰が助けてって言った!?」
「そんなこと言ってる場合!? ホラ、来るわよ、花の悪魔が! さっさとなんとかしなさいよ!」
「言われなくても……!」
爆塵が晴れ、幽香の姿が現れる。衣服はぼろぼろで、ところどころ見える肌は煤の黒に染まっている。が、当然、なんらかのダメージを負った気配もない。
ゆるやかに地表に降り立ち、アリスと高度を合わせる。幽香とアリスの眼が合う。幽香はゆっくりと微笑を浮かべ、アリスは最後の力を振り絞るべく顔を歪める。
さあ、終わりのときがやってきたわよ。
アリスは幽香に向かって一歩踏み出し、そこで崩れ落ちる。全身の痛みが彼女を彼女自身から拒絶する。
「――っあ、ぐ……」
ミスティアが戸惑ったような声を上げる。「アリス――!」
四肢のどれひとつとして正常に機能してくれる気がしない。視界がぐるぐると回転し、拡大と収縮を繰り返す。嘔吐感。絶望感。
ごっこ遊びだからと言って、幽香が手加減してくれるだろうか? どんなスポーツにだって死に至る事故はある。スペルカードルールとて例外ではない、ちょっとばかり事故の可能性が高くて、保険がきかないというだけで。相手が故意にオーバーキルを試みても、ジャッジのいない試合である以上、誰も咎められない。選手であるアリス自身にさえそんなつもりはさらさらない。
幽香が相手だ。そのパンチ一発で、なにが起こるかなんて誰にも想像がつかない。だがそんなのは人生だって同じことだ。甘ったれるな。油断するな。顔を上げて前を見ろ! これは私が仕掛けた戦いだ! 私の試練だ! ここには誰もいない、頼れるのは私ひとりだ!
顎を上げて前を見る。なにもないはずの空間、孤独の地、アリスはそこで上海を見つける。アリスと幽香の間に浮かび、アリスを守るかのように幽香を見据えている。
そのことにアリスは胸を衝かれたような心地がする。
ときどき、人形に長く触れていると、人形自身の意思のようなものを感じる瞬間がある。きっと笑われるので、魔理沙にもパチュリーにも言ったことはないのだが。自律人形をつくるということでカモフラージュしているのだが。
自分でも、そんなのは単なる感傷だと思う。ちょっとした錯覚。それこそ夢の話だ。夢見がちな少女の無知からくる途方もない想像。
長い間使っているせいか、上海は時折、アリスのプログラムから外れた行動を取ることがある。鈴仙に波長を同調されたときのようなことだけではなく、ふとしたとき、自分でも気づかなかったような仕草、動作をしていることがある。
ただのバグ。魔力の変調からくる歪み。説明しようとすればいくらでもできる。
ただ……なにか、今のようなとき……自分が思いもよらぬところで、思いもよらぬ贈り物をしてくれることがある。届くことのない声を聴いたような気がする。
通じない言語。通じない意思。かつての人間と妖怪のような関係。けれど人間と妖怪は、この幻想郷においては、確かに意思を疎通している。同じことばをかわしている。
だったら、人形と私は?
そこにそれがあるかもわからない。いや、常識的に考えてそんなものは存在しない。付喪神というのともまた違う。人形自身の意思、人形自身のことばなど。
だが、それでも、そこにそれがあると誰にも証明できないように、そこにそれがないと、一体誰に照明できる? 今の私以上に深く、より強いところに至った人形遣いが、そもそも存在したことがあるのか?
もし、そこにそれがあって、それに誰も気づいていないだけだとしたら。ただ上っ面を見てことばをかけるのではなく、同じところまで落ちていって一緒にもがくことで、人形の持つなにかを知ることができたのなら。
わからないものをわかろうとする、その心がなにかを、開くことができるとしたら?
けれど結局はそんなことばも、目の前の現実を前にすれば意味のない張りぼてだ。ことばは信じられない。ことばの持つ意味も信じられない。ことばに篭められた響きだけが、遥か遠い稲妻のようにこの心に届いてくる。
問いに対する答え。
アリスは上海の後姿を見ている。その向こう側にある幽香の姿を見ている。自分の後ろに立つミスティアの歌を思い出している。途方もない痛みがある。打ちのめされた自分がいる。どれだけ思考を巡らせてもなにひとつ変わらない現状、絶体絶命の危機、どんな理論も役に立たない現場で、どんなことばもその美しさを表現することのできない夕暮れの花畑で、アリスは不意に――世界と出会い、上海を見つけた。
「……――!」
アリスの右手が語り始める。左手がその動きに追従する。
十本の魔力の糸が上海に伸び、接続される。それがまるでアリスの意思ではなく、上海自身の意思であるかのように速やかに、残された魔力の全てが伝達される。
パワーでもスピードでもなく、苦痛も疲労も超えたところにあるなめらかさ、幾多の実戦を潜り抜けてきた若きベテランとしての、完全に自動化された動作で十指が有機的に連動する。
ぱしん、と両手の甲から甲高い音が響き、一瞬遅れて堪えがたい激痛が襲ってきても、さらに一瞬遅れて筋肉が役立たずになったことを知る暴力的な絶望が襲ってきても、アリスの両手はその動きを止めることはなかった。
マスタースパーク級の――それとは比べ物にならないほど純化された魔力が一点に絞られる。凝縮が加速を生み出し、収縮が膨張を促進させ、極めて高次元の領域で自動化されたなめらかさがそれらを導く。
「『魔彩光の上海人形』!」
上海のレーザーと、弧を描く幽香の日傘が交差する。
肉体の限界を凌駕する瞬間、アリスの表情が歪む。般若のように醜悪な、どこまでもどこまでも一途で力強い、途方もない限界線上の美しさが露になる。
「くたばれ、幽香」とアリスは言い、中指を立てる。
「最後の一撃だけはよかったわ。その他はてんでダメ。私に挑んでくるならせめて、体の調子を整えてからにしなさいよ。神綺が泣くわよ? そんなぼろぼろの姿になってまで……ま、手加減しちゃうあたり私もお人好しになっちゃったものだと思うけど」
「くそくらえ」
幽香は溜息をつく。「あなたはレイプされてる間でもそうやって減らず口を叩き続けるでしょうよ。中指を立て続けるでしょうよ。その可愛らしいプッシーになにかしら咥えこんでいる最中でも。いっそ試してみる? 案外、大人しくなるかもしれないし」
アリスは横たわり、幽香はそんなアリスを見下ろしている。アリスの右肩から左足の付け根にかけて、乳房の合間を通り、赤黒い線が露になっている。衣服を切り裂き、皮を破いて肉を抉り、ところどころ、その奥まで見えかけている。
幽香の左肩のあたりには、拳大の風穴が開いており、そこから後ろの光景まで見ることができる。上海のレーザーが押し開いた傷、アリスの最後の一撃。
が、それだけだ。幽香がなにかしらのダメージを負っているようには、まるで見えはしない。
幽香は日傘の先端をアリスの額のあたりに突きつける。
「正直、あなたの乳臭いワレメになんか触りたくもないんだけど、まあこの日傘くらいだったら、ねえ?」
「残念だけど、私、ふにゃまらじゃ満足できないの」
アリスはゆらゆらと右手を持ち上げ、勃起したペニスに添えるように日傘の先端を掴む。
「超人『アリス・マーガトロイド』掌部限定ッ」
いやな音を立てて日傘が折れ曲がる。
幽香は目を丸くして日傘を目の前に持ってくる。
「……正しく使ってあげれば、私が全力で振り回しても、折れも曲がりもしない業物なのに」
幽香は柄と先端を掴み、それぞれ反対側に引っ張る。それで日傘は真っ直ぐになる。
「指の力だけだったら……たぶん……私は鬼の四天王クラスなんじゃないかって、ときどき思うのよ。もちろん魔力による身体強化を含めて、だけど」アリスはそこで右腕をぱたんと地面に置く。「もう、だめ。完全に壊れちゃった」
幽香は溜息をつく。「もう、とっとと帰んなさい。私が本当に怒り出さないうちに。全く……あなたが大暴れしたせいでどれだけのお花が散っちゃったと思ってるのよ。魔理沙だってここまではしないわよ?」
「ひとつ聴かせて。幽香」
「いやよ」
「あなた、そこまで強くなるのに何度敗北した?」
数秒、その場の空気が凍りつく。
幽香はアリスを見下ろす。離れたところから、ミスティアもアリスを見つめる。
「言い方を変えるわ」アリスは気にせず言う。「あなたのところまで辿り着くのに、私はこれから先、何度敗北すればいい?」
――何度、この、半身をもぎとられるような喪失感を味わえばいいの?
幾多の異変、幾多の出会い、幾多の戦いを経て、アリス・マーガトロイドは成長してきた。幼女から少女へ。ただの魔法使いから人形遣いへ。
半分は勝った。半分は負けた。
小手先の技だけで掴んだ勝利よりも、全力を費やして潰された敗北のほうが印象は深い。
見ただけでわかる勝敗もあった。谷間から巨大な孤峰を見上げるような、どうしようもない感覚に襲われることもしばしばあった。
奥の手を出さないよう、本気を出さないように戦っていても、常に敗北の影は後ろについてまわっていた。
切り札の全てをかけても敵わなかった、スペルカードルール制定以前の、あの戦い。
そうしてまた、今、人形と一体化するような素晴らしい感覚を以ってしても、幽香に勝つことはできなかった。
戦い……負け……平気な顔をしてはいても、そこになにも感じない者がいるとしたら、それは上っ面だけの木偶人形くらいのものだろう。
「敗北……」幽香は歌うように言う。「絶望……撤退……挫折……」日傘を開き、肩に担ぐ。茜色の太陽がその姿に最後の光を当て、地平線の果てに沈む。「そんなもの、ぎりぎりの場所でぎりぎりの生き方をしてれば、何遍でも何遍でも味わうことになるでしょうが。そんなのは敵ですらない。いちいち怖がってたらどこにも辿り着けないでしょうが。
でもそうね、この肩に穴を開けたご褒美に、ひとつためになる話をしてあげる。むかしむかしあるところに……ってやつ」
アリスは幽香を見上げる。影のなかに沈み、その表情は窺うことができない。ただ薄く引き伸ばされた唇だけが見える。
「昔々あるところに、ひとりの妖精がいた。『花の種を産み出す程度の能力』を持った彼女が産まれたのは、この世ではなく、ひとつの隔離された空間。地平線の果てまで広がる荒野。あまりにも不毛で過酷な環境で、誰ひとり見向きもしない世界。もちろん種なんて蒔いても芽を出すことなんてない、どうしようもない場所。
どうしてその妖精がそこに産まれたのかはわからない。運命のいたずらってやつかしらね。でもその妖精にも……財産なんてものがなにひとつない女にも、意地ってやつだけはあった。自分の能力が通用しないなんてことが認められなかった。で、その妖精は荒野に種を蒔き始めた。手で氷のように硬い土を耕し、あるかどうかもわからない水脈を探して井戸を掘り、風にも負けず雨にも負けず。
もちろん、芽なんて出るはずもない。なにかの間違いで出たとしても、すぐに枯れる。繰り返し繰り返される同じ間違い、土を喰らって歩き回る毎日、それでもただ自分のなかにある意地だけを頼りに種を蒔き続ける。
何度も何度もそういう日が続き、絶望の上書きを繰り返されると、思考回路はどこか狂ってしまうんでしょうね。叩きのめされるたびにその妖精はこう思う……やりやがったなこんちくしょう、見てやがれ、絶対に殺しきってやる……」
幽香はそこで堪えきれなくなったように噴き出す。
「可愛いものでしょ? さっさと自殺でもなんでもしたほうが楽になれるっていうのに、ばかみたいに意地張っちゃって。
結局、猫の額みたいにちっちゃな花畑ができるまで、千年かかった。千年かけてそんなものよ。荒野はそれこそ、幻想郷全部合わせたくらいに広いっていうのに。
でもそこまで行くと、もう妖精も以前のままじゃなかった。体は大きくなり、羽根はもがれていた。大きさはどうでもいい、花畑をつくったって事実が重要なの。事実だけが心を変える。心だけが我々を変える。ちょっとした自然現象のへりでしかなかったモノを妖精へ。妖精を妖怪へ。妖怪をさらにその先にあるモノへ。彼女は『花を操る程度の能力』を手にした。そうして一秒後には荒野の全てを殺した。
ひとつの戦いの終わりはひとつの戦いの始まりでもある。花が咲いたってことは土地が肥沃になり、誰でも住めるようになったってこと。それまでその世界に見向きもしなかったやつらが、今度はその世界を手に入れるために侵略を始める。で、彼女はその全てに反抗する。
自分の世界を守るために戦い続けた。千年なんてものじゃない。三千年も、四千年も戦いは続いた。ときには負け、尻尾を巻いて逃げ出しても、必ず生きて帰って復讐を果たした。そういう生き方をひたすら貫いた。
あの忌々しい隙間ババアが戦いもせずに花畑丸ごと飲み込んで、『ここに幻想の郷をつくりましょう』なんてふざけたことを抜かすまで」
アリスは表情を緩め、ふっと息をつく。
「デタラメばっかり……」
幽香はにっこり笑う。
「当然じゃない。昔話だもの。でもあらゆる寓話がそうであるように、この話にもちゃんとした教訓がある。それがなんだかわかる、アリス?」
「知らない……」
幽香は子を抱く母親のようにその手を広げてみせる。
「私より強くて、私より迅くて、私よりタフで、私より抜け目のない輩って、世界中探してもそうはいないけど、あの隙間ババアがそのひとりであることは間違いないわね。ひょっとしたらその式も。それでも私は『最強』を撤回するつもりなんてさらさらない。なぜならここが私のぎりぎりの場所で、これがぎりぎりの生き方だから。
要はこういうことよ。世界の試練は私のもの。旅はまだ、始まったばかり……ってね」
ミスティアがその場に近づき、アリスを横抱きに抱え上げる。
「大演説お疲れ様」ミスティアは投げ捨てるように言う。「圧倒されたわ。ほんとに。実のところ感動のあまり、あそこが濡れてきちゃったくらい。拍手のひとつでも送ってあげたいけれど、あいにくあんたが叩きのめしたアリスで、両手が塞がっちゃったから」
幽香はわずかに頭を傾けてミスティアを見る。
「あら、いたの? 今の今まで気づかなかったわ。花の陰に隠れて、びくびく震えてでもいたのかしら。ごめんなさいね、怖がらせちゃって」
「お気遣いなく。どうでもいいけどあんた、ぱんつ見えてるわよ。アリスの人形が爆発したときに破れちゃったのね。これからは鋼鉄のスカートをはくことをおすすめするわ」
幽香は黙って目を細める。異様な空気があたりに立ち込める。強い風が暗くなり始めた花畑に吹き渡る。大抵の人妖はそれだけで腰を抜かす。
が、ミスティアにしても、伊達にアリスや魔理沙や霊夢や紫やレミリアや咲夜や妖夢や幽々子や小町や映姫と戦ってきたわけではなかった。小骨になるまで追い詰められたことも、数度ある。いまさら簡単な脅しに引っかかってやる気もなかった。
「あたしたちはこれで帰るから。あんたもテレビのある夢のお家に帰って、オナニーでもしてなさいよ」
「戦いの日々、体が火照って自慰をした日がなかったわけじゃない。けどその時代はローションなんて便利なものはなかったから、色々と代わりになるものを使ったわ。ひとつ、あんまり気持ちよくはないんだけど、手頃なものがあってね」幽香はそっと手を掲げ、ミスティアにその先端を向ける。「誰かの血液、とか。少量じゃざらざらするだけなんだけど、まあひとひとり分くらいあれば、なんとか、ねえ?」
「ええ、よく知ってるわ、幽香」ミスティアは負けじと言う。「あんたたちの夜毎の営みは、ね。あんたの素敵な善がり声も知ってる」体をわざとらしくくねらせて、歌うように、「あぁん、もうだめぇ、あたし、溶けちゃう! 萃k」
「穴子『ワールドデストロイヤー』――ッッッッ!!!!!」
「流帝『エスケープ・エア』ッ!」
「微ィ塵に砕けろォ!!!!」
ミスティアが全力で逃げ飛んだ直後、花畑の一角が爆発した。
ミスティアは夜空を飛ぶ。アリスを横抱きに抱えて。アリスはじっと目を伏せ、微動だにしない。そんなアリスにミスティアは言う。
「完敗ってやつじゃない? 手も足も出なかった上に、憑き物まで落とされて」
が、結局、アリスはなにも言わない。
アリスの家の前にミスティアは降り立つ。入り口の前に立つと、上海人形が鍵を取り出し、扉を開ける。
「ありがと」
ミスティアは言い、なかに入る。
寝室。ミスティアはアリスをベッドの上に横たえる。アリスの息は荒い。血はもう止まりかけているが、傷は深い。
「救急箱、どこ? あるんでしょ?」
アリスが指差した棚の上にミスティアは手を這わせる。果たしてそれはそこにある。なかから包帯を取り出す。
「服、脱ぎなさいよ。応急処置だけやってあげる。明日朝一番で永遠亭行きね」
アリスはぼんやりとミスティアを見る。
「……爪だけは、切ってよね」
「わかってるわよ」
ミスティアはベッドのへりに座り、爪を切り始める。アリスはベッドの上で服を脱ぎ始める。
開け放たれた窓から、春の夜のぬくい風が吹き込み、カーテンを揺らす。どこか濡れた匂いのする空気が、優しくふたりを包み込む。
一日の終わり。戦いの終わり。激しさの終わった穏やかさの始まり。
沈黙のなか、ふたりの動く音だけがその場に満ちる。ぱちり、と、ぱさり。
ぱちり……ぱさり。
ぱちり。
ぱさり。
「上っ面だけの木偶人形だなんて言って悪かったわ」と、ミスティアは言う。
「……なによ、いきなり」と、アリスは答える。
「信じられないかもしれないけど、本音よ。ごめんなさい。木偶人形はあんな顔しないもの」
「私、どんな顔してたの……」
「最後の一撃のとき。あんたの人形に糸を繋いで、壊れた右手を動かしたとき。すっごい不細工で、怖ろしいくらいだったわ。まるで、そうね、幽香みたいだった」
アリスは口を噤む。
「……言っとくけど、褒めことばだからね? 最大級の賛辞だから。これ以上のことばって、幻想郷じゃちょっとありえないわよ?」
「うん……私もそう思う」
ぱちり。
ぱさり。
ミスティアはベッドの上でアリスと向き合う。アリスはもう下着ひとつ身につけていない。幽香の日傘を喰らったとき、ブラも、ショーツも切り裂かれている。
ミスティアはその傷に触れる。右肩から乳房の間を抜け、左足の付け根まで伸びる、深い切り傷。そうしてわずかに顔をしかめる。
「――……っ、随分と無茶、したわね……」
「うん」
「ばかよ、ほんと、あんたって女は」
「でも、問いに対する答えはそこにあった」
「そうね。あんたが考えてることなんてさっぱりわかんないけど、どうして人形を操るのかってこと、なんとなくこっちにまで伝わってきた」
「うん……」
ミスティアは包帯を巻き始める。アリスは全身の力を抜いたまま、人形のように身を任せている。目を伏せ、ミスティアの着物の帯のあたりを見つめるだけで、なんら反応らしい反応を返さない。
ひどく無防備な姿だこと、とミスティアは思う。この女は本当に、あたしを無害で優しい妖怪だとでも思ってるのかしら。
乳房も、足の間の慎み深い金色の茂みも、なにも隠すものなくそこにあるのだ。
「あんたさあ……」とミスティアは言う。「ちょっと、ぼんやりしすぎてない? 今のあんた、あたしのちょっとした気まぐれで地獄行きなんだけど、そのことちゃんとわかってるの?」
アリスはそこで初めてミスティアを見上げる。
「……そうね」
「あのねえ」
「頭がぼんやりして……こういうとき、上海が警告してくれるように、仕込んであるんだけど。そういう風にプログラムしてあるんだけど。どこ行ったのかしら、あの子……」
「ばかよ、あんた……」
「うん」
包帯を巻き終わる。アリスは放心したように壁に背を預け、軽く頭を傾け、両手を合わせて太腿の上に置いている。白い包帯は、すぐ、内側からの血で赤く染まり始める。衣服の類は一切着ていない。応急処置が終わっても、着る気配すらない。
ミスティアはベッドの上を降りず、向かい合うようにして、アリスを見ている。本当に人形のようだ、と思う。幽香との戦いで見せた感情の昂ぶりなど嘘のように静かに座っている。それともこちらのほうが、アリスの本来の姿なのか。
カーテンの合間から注ぐ蒼白い月の光だけが、ふたりと、その部屋を照らしている。
「窓、閉めようか?」とミスティア。
「ん……そのままでいい」
「風邪引くわよ」
「いまさら病気になったところで、なんにも変わんないわ。半年……それ以上かも……まあでも、一区切りつけることはできたんだし……」
「後悔してる?」
「してない、って言いたいところだけど、心情的には」
ミスティアはそっとアリスの足、膝の上に手を置く。
「なに……」
アリスの問いかけには答えず、そっと足の線を伝い、アリスの手まで登り、握る。
「――……」
しばらくそのままじっとしている。
アリスはなにも言わない。
ミスティアは握り締める手にわずかに力を篭める。そこからアリスの心の底を探ろうとでもしているかのように。
「悔しいんだったら」
吐息に交えてそのことばを言う。
「泣きなさいよ」
アリスは逸らしていた目を戻し、ミスティアと視線を絡める。
「……あなたが出ていったらそうする」
ミスティアは立ち上がる。
寝室の敷居をまたぎ、廊下に出、後ろ手にドアを閉める。そこでミスティアはドアに背を預け、崩れるようにしゃがみこむ。
膝を抱え、そこに頭を押し付ける。
「つかれた……」
しばらくして、アリスの嗚咽が壁越しに聞こえ始める。低く声を抑え、ほとんど溜息のように始まり、やがて、抑え切れなくなったように大きくなる。
昂ぶりすぎた感情の反動が、ミスティアにまで伝わってくる。
ことばにならないことばの響き。それが今、どんな詳細な説明よりも明確にアリスの心を伝えてくる。引き摺り込まれそうな感覚がある。途方もないブラック・ホールを覗き込んでいるような痛み。
廊下に明り取りの窓はない。魔女の家らしく、真の闇に覆い隠されている。盲目であろうと、鳥目であろうと、もはやなにも変わらない。ただそこにあるものだけが残っている。
ミスティアはじっと、アリスの泣き声を聴いている。
あたしはアリスに勝って欲しかったんだろうか、と思う。持たざる者が持てる者を打ち破るカタルシスをその目に焼き付けたかった、とでも? あるいはそんな普遍的なものではなく、ただ最後に立っているアリス自身の姿を見たかったとか?
ばかばかしい……一介の魔法使いの行方がどうなったって、あたしの知ったことじゃない。
ただ、どうして人形を操るのか。そこに連鎖する自分自身への問いかけ、どうして歌い続けるのか、そこに至る一本の道筋だけは、こちらの意思に関係なく贈られてしまったのだと、ミスティアは思う。
腹がきつい気がして、ミスティアは帯を緩める。
やがて、泣き声が止む。
アリスはベッドの上で腕を枕にし、壁を見つめている。扉の向こう側でミスティアが立ち上がったのがわかる。がちゃり、とささやかな音を立てて、静かに扉が開かれる。
足音を立てることさえ憚るような慎重な足取りで、ミスティアはベッドに近づく。
しばらくの間、ミスティアは立ち尽くしたままアリスを見下ろしている。アリスはなにも言わず、壁を見続けている。
やがてミスティアがその場に座り込む。床に、直に。膝を抱えて、ベッドのへりに軽く手を置く。
「アリス」
水面を揺らす波紋のように、そのことばが部屋のなかに広がる。
アリスはそっと目を閉じる。カーテンが風に弄られる軽い音がする。
「慰めや……励ましとか、そういうのは……」眠り込んでしまいそうなほど弱々しい声を出す。「いらない」
ミスティアの指先がシーツを握り締める。明確な拒絶。が、ミスティアはなおも声を上げる。
「アリス」
ミスティアの手が伸び、アリスの足首に触れる。腫れ上がったうえに撃ち貫かれ、無理矢理包帯を巻きつけることで覆い隠している箇所。アリスはそこから走った痛みに、わずかに体を震わす。
ミスティアはベッドの上に登る。帯を緩めたために、着物もわずかに緩んでいる。羽根が一枚抜け落ち、ベッドの上を滑るように落ちる。
膝立ちになり、ミスティアはアリスを見下ろす。沈黙によって行使される、慎み深い交換の時間。そこに篭められた響きを確かめ合うための時間。
ミスティアの体は礼儀を忘れず、それ以上アリスに近づくことはない。ただそこから発せられることばにならないことばだけが、アリスにその意思を伝えようとしている。
「誰かの……ためには」アリスは問う。「歌わないんじゃなかったの……?」
「あたしの歌はときどきあたしを裏切る」
――それでもたまには、ずたずたに傷ついた誰かを慰めるために、歌いたくなるときがある。
アリスはゆっくりと上半身を起こし、壁に背を預ける。その体は先ほどと同じく、傷を覆う包帯以外にはなにも身につけていない。
ミスティアはそんなアリスにそっと近づき、自分の手のひらを彼女の頬に触れさせる。
アリスはぼんやりと思う……上海はどこに行ったのだろう。
アリスの目尻から忘れ物のように涙が零れる。すん、と鼻を鳴らし、アリスは手の甲で目元を拭う。その眼はもう赤く滲んでいる。ミスティアは彼女の瞼の上に唇で触れる。
そうされた瞬間、アリスの指はアリスを裏切り、ミスティアのうなじを掴み、引き寄せる。
ふたりの体が静止する。沈黙を壊すことを恐れるように。が、それも、ミスティアがアリスの肩を掴んで身を離すまでのことだ。
「ん」
啄ばむように、アリスの顔に……唇は避けて……口づけしながら、指先は這わせるように、下へ降ろしていく。包帯の上からあばらや横腹を通り抜ける。労わるように触れ、なぞり、時折切ったばかりの爪を立てる。
「……」
アリスはくすぐったそうに身を捩る。
キスが止むと、アリスは俯くようにして、ミスティアの肩に顔を押し付ける。疲れ果てた体には力が篭められない。それでも、まだ痛みの続く右手は、ミスティアの着物の裾を掴んでいる。
無言のまま、ミスティアの手が彼女の乳房に触れる。大きくもなく小さくもなく、本来なら整った形のそこは、胸の中心を通り抜ける包帯に押され、わずかに歪んでいる。
アリスの右手に、緊張したように震える。息づかいが深くなる。
「無理とかはさせないから……」
ミスティアは囁き、アリスの肩口に歯を立て、甘噛みする。彼女の意識をひとつに集中させまいとするように、ゆるゆると舌を這わせ、胸に触れる指先に力を篭める。
「――、ん……ぅ」
アリスは抵抗することなく、ただ居心地が悪そうに、少しだけ体を動かす。
遠くから春の風に乗り、虫の音が届いてくる。
じっとしているとまた涙を流してしまいそうだったので、アリスは目を細めて、なにも考えまいとした。
けれども、頭を真っ白にするには、ミスティアの手つきはあまりにも緩やかすぎ、遅すぎ、優しすぎた。
今日一日の激しさが、それで余計に思い出されてくる。
ミスティアの体温。着物越しでさえ、そこにある確かな温かみが伝わってくる。
きついことばを重ね、『なにかのために』なんて大嫌いだとまで言い放った彼女の存在が、今は、こんなにも優しく感じられる。
ひどく不思議な感じがした。それでアリスは、涙が次から次へと零れ落ちていくのを、止められなくなった。
「また、負けた」アリスは独り言のように呟く。
「ん」
「勝てなかった。手も足も出なかった。歯が立たなかった」
「うん」
「悔しいよ。すごい悔しい。最後の上海は、たぶん、今の私にできる一番のショットだったのに。最高の攻撃だったのに。それでもだめだった。全然効いた様子がなかった」
「でもあんたは、あの風見幽香に風穴をぶち開けた」
「そんなのってなんでもない。あれでだめだったら、私、これからどうしていいかわかんない」
「世界の試練はあんたのもの。旅はまだ、始まったばかり」
アリスは目を擦る。「うん」
ミスティアの手が降りていく。
足の付け根に触れ、そこで止まる。
アリスは彼女の指を受け容れられるように、少し、足を開く。
指が秘所をなぞる。下から上へ。アリスは唇を一文字に閉じ、その奥で無意識に歯を食い縛る。
体が震える。
何気なくミスティアの肩越しに、背中から生える翼を見つめる。
「……、」
ぼんやりと羽根のひとつひとつを数える。
ミスティアは、上辺の態度はひどく余裕そうに思える。そう思うのは、アリス自身がもう飽和状態にあるからなのだが。けれど彼女はそこで翼を見て、そこにある、一見わからないほどの感情の揺らぎを見つける。
翼が月明かりのなかで、不自然なほどぴんと、上を向いて立っている。
ところどころ、ぴくぴくと震えてさえいる。
「……ふふ」
そこで緊張が一気に解れる。悲しみも、悔しさも。
「……なによ、アリス」
彼女の様子に気づいたミスティアが言う。
「別に」
「……」
「なんか、可愛いなあって思って」
ミスティアの表情が急に張り詰める。「――ん、なっ」
アリスは彼女の首に腕を回す。
「ちょ、っと」
「温かい」
「……っ、当たり前、でしょう……春、なんだから……」
アリスはそのまま手を伸ばし、翼のへりにそっと触れる。
「ぅ」
そっと、凹凸に従って撫でつけ、付け根まで登っていく。
「ぅ……」
「ミスティア」
「なに……」
「指、止まってるけど」
「っ――」
ミスティアの指がそっと秘所を割り開く。
「んっ」
反射的にアリスの指先が翼を握り締める。
「っつ……」
秘所に触れていない指のほうで、ミスティアはアリスの頬に触れ、自分の肩から遠ざける。
「あ、あんまりそこに縋んないで。自分でもあんまり触れないとこなのよ、くすぐったい」
「そう、なの?」
「足の裏とおんなじよ……」
「……」
ちょっとしたいたずらのつもりで、アリスは翼の付け根をわずかに引っかく。
「はぅ」
高い、弱々しい声がミスティアの唇の間から漏れ出る。
「……あは」
「や、やめてよ」
「どうしよっかな」
「――、っ」
「慰めてくれるんでしょ?」
「いらないって言ったクセに……」
「いたくて、あんまり動かせないんだけど、ね」
「ひ」
「こう、かな」
「ふぁ」
「んー……」
「ぁ、あん」
「ミスティア? ゆび、抜けちゃったけど」
「ぅ、ぅ、ぅ――!」
ミスティアはアリスを睨んでから、やや乱暴に、もう一度秘所に指を突き立てる。
「……っッ」
全身がびくりと震える。ミスティアに縋る指の力が反射的に強まる。
「んん……っ」
視界が潤む。眼の奥に溜まった涙が、ぽろぽろと、思い出したように零れる。
ミスティアの息づかいが深まるのを、意識の遠い淵で聴く。
なかで指が曲がり、探るように動く。
抜かれて、挿し入れられる。
短く息をしながら、アリスは目を閉じ、瞼の裏が白くなるのを見つめる。
「……ちから、抜きなさいよ」と、ミスティアが言う。
「やだ……奥、まで……入っちゃうじゃない」
「そう」
「――ん、ん、ぅ」
うなじに手をかけて、引き寄せる。
座り心地が悪くて、わずかに膝を曲げる。
それでもしっくりこなくて、色々と動かしてみるけれど、どこも落ち着かない。
喉が勝手にしなる。
「――ぅ……」
「アリス」
「なに……っ」
「声、我慢するほうなんだ?」
「知らない……」
「出してもいいのに」
「……」
「からかったり、しないわよ。忘れてあげるから」
「今日だけ、ぁ、なの……?」
「……え」
瞼をそっと開けたアリスの瞳は、涙で濡れていた。
上目遣いに視線を合わせられて、ミスティアはうろたえた。
ぞくぞくと、どこかが痺れた。
「……っ」
アリスがミスティアの頬に手を置く。
髪が皮膚に触れるほど、近い。
ミスティアは、思わず目を逸らしそうになる。ほとんど睨みつけるような上目遣いの、蠱惑的な青い眼の力に、圧倒される心地がする。
秘所に指を入れて、主導権を握っているのはこちらのほうなのに、余裕なんてどこにもない。
ミスティアはアリスの唇から、魅入られたように、目が離せない。
ぼろぼろの全身と違って、計ったかのように、傷もなく、美しく整っている。
ちょっと前までは、敵意に似た皮肉とともに、綺麗なものだと思っていた。
今は見惚れてしまっている。
抗えなかった。
唇に唇を重ねた。
「ふ」
吐息に吐息が混じり、わずかに血の香りがして、思考がぼやけた。
その拍子にことさら強く、ミスティアの指先がアリスのなかを引っかいた。
ぴくりと動いて、ぶるぶる震えて、ひとつ、終わった。
ミスティアはアリスから、少しだけ、体を離す。
投げ出された膝の上に乗るようなかたち。
ぼんやりと目を細めて、浮かぶような息をついているアリスが、こちらに戻ってくるのを待っている。
絶頂のあとの、蕩けた時間。
「……ぅ」
ミスティアは自分の唇に触れる。自分でも驚いたことに、息を止めていた。
苦しい。
辛い。
カーテンが大きく揺れる。
アリスの顔に影が落ちて、そこでようやく、アリスは帰ってきた。
「ん」
大きな安堵感と、幸福感が残っていた。
ほとんど自然な流れで、アリスは微笑んだ。
ミスティアの様子を見ると、ひどく哀しそうな表情、どうしていいかわからないといった風に、自分の足の上で膝立ちしている。
「ミスティア……」
小さく声をかけると、そこでこちらを向く。
ボディーランゲージで、こっちに来なさい、と手を振ってみせる。
そろそろと、ミスティアが近づく。
アリスはもう一度キスをする。
舌を伸ばして、触れる。
ミスティアはしばらくされるがままになり、やがて、おずおずと自分も舌を絡め始める。
「ん……ふ」
「ぁ……」
夢中になるけれど、激しくもならない。
疲れ切った体で、そっと休むように、控え目に動き続ける。
深く絡めずに、離しては角度を変えて、慈しむように繰り返す。
アリスの手が、ミスティアの着物の裾に触れる。
ふたりの顔が離れる。
ミスティアは首筋まで紅色に染めて、抗議するように、唇をわななかせる。
けれども、声は出ない。
「かわい」
アリスが言うと、
「――っ、ッ、っっ……」
ただ、震えた。
アリスの手が、ミスティアの太腿、内側を登る。
撫でるような手つきに、くすぐったくなって、身を捩る。
頬を膨らませて、アリスを睨んでいた表情も、やがてアリスの指が下着を除け、その内側に入ると、
「……――ぁ、あぁ……」
諦めたように緩んだ。
「アリ、ス」
名前を呼ばれて、応えるように、アリスの指が動く。
「アリスぅ……」
反対側の手で、アリスはミスティアの髪に触れ、引き寄せる。
「ぁ」
「よしよし。優しい子」
なんとなく、髪を梳くように撫でてやると、ふっと全身の力が驚くほどのなめらかさで抜け落ちて、
「ふぁ……」
ミスティアの手がアリスの背中に回された。
たがが外れたように、ミスティアはアリスにしがみつく。
「アリス、アリスぅ」
「ん」
「ひあ、ふぁっ、アリス、ぁ、きもちいい、やっ、アリ、ス、ぁっ、あっ、あっ、あっ」
きゅうきゅうと締め付ける秘所の熱さに、けれども、アリスは顔をしかめた。
(……どこまで動いてくれるかな、も、かなり限界なんだけど)
痛いくらいに、ミスティアはアリスを求める。
傷のことなんてなにひとつ覚えていないように。
「アリス、アリス、ありす、ありす」
「うん」
「きもちいい、きもちいいよ、あったかい、ふぁあ、あったかい、ありす、っひ、ひゃああ、ひゃっ、あっ、ぅぁ、やだ、ありすいい、っあ、ふぁあああ」
じんじんと、指が痛む。
(……っ、かなり、きついわ……最後まで、むり、かも)
意識さえ遠のいていく。
眠気が来る。
「ありす」
ミスティアが呼ぶ。
「ありがとう、ありす、ありぁと……」
「――!」
そのことばに――篭められた響きに、アリスははっとする思いで、ミスティアを見る。
「ありぁと、あぃす、あたし、あらひ、やなことたくさん言ったのに、っあ……やさしく、してくれて、せなかを、みせてくれて」
どうしようもない感覚のなかで、アリスにはわからない意味を、ミスティアが口にする。
「ありぁと、ふぁ……もう、らめ、いくね……」
最後にもがくようなキスをして、そこで、ミスティアは強く背を逸らし、ありえないほど強く達して、気を失った。
すやすやと眠り込むミスティアを抱いて、アリスは壁に背をもたれたまま、ぼんやりと、暗闇を見つめている。
さらさらと、窓の隙間から入り込む風は、暖かい。
(……ありがとう、か)
どうしてそんなことを言われてしまったのか、よくわからない。
扉がそっと開かれる。
なにかと思うと上海だった。とことこと歩いてきて、ふわりと浮かび、開け放たれた窓を閉める。
カーテンの動きが止み、風の音が切れると、驚くほどの静寂さがその部屋に落ちた。
「上海……?」
上海が振り返る。
アリスは暗闇のなかでその光景を見る。
表情なんてないはずの人形の顔が、ふっと和らいで微笑み、片目を瞑って立てた人差し指を唇に当てるところを。
(静かになさいな。ミスティアが起きちゃうでしょ?)
あるいはただの、幻覚でしかなかったのかもしれなかった。
「……はは」
上海が出て行くと、アリスは目元に手を当て、体を揺らすようにして笑った。
「ありがとう、上海」
今日という一日。
自分がそう、ただの人形でしかないはずの彼女にそう言いたくなったのと同じように、ミスティアもまた、自分にそう言いたくなったのだろう。
とりあえず、そう思っておくことにした。
――数日後。
扉を開けると魔理沙が出てきた。にっと微笑み、手にバスケットを持っている。
「よう、相棒。まだ生きてるか?」
「ありがとう、戦友。またね」
アリスは扉を閉める。
「おうい! 待て待て待て待て! 違うぞ、私はそういうノリを期待したんじゃない! どこのガルム2だおまえは!?」
アリスは扉を開ける。「そんなつもりじゃなかったんだけど、つい思わずやってしまったわ。ごめんなさいラーズグリーズ」
「色か! 色でか!」
「霊夢がメビウスね。リボン付きだから」
「うるさいよ!」
「ちょっと待って、そうしたらガルムは咲夜のほうがよくない? 犬だし。ちょうど春雪異変のパーティよ、すごいわ、負ける気がしない……!」
「ものっそどうでもいいんだぜ!」
魔理沙はバスケットを持ち上げ、アリスに差し出す。
「ほら。見舞いの品だ。私と霊夢とパチュリーから。あとなんか鈴仙まで、アリスに渡してくれって言ってきたぞ。なにしたんだおまえ?」
「あら、ありがと。鈴仙には悪いことしちゃったわね、今度謝りにいかないと」
「つうかおまえ、このまえ幽香に喧嘩吹っかけたんだって? 今朝久し振りに太陽の畑に行ったら、なんかでっかいクレーターみたいなのがあったんだが。幽香が花畑でそんなことするはずないから、おまえがやったんだと思うんだけど、なんだありゃ? マスパでだってあんな深くは掘り返せないぜ、クレイジーコメットから連鎖発動でも使ったのか?」
「信じてもらえないかもしれないけど、それは幽香自身がつくった穴よ」
「そうか。まあそんなことはどうでもいいんだが」
魔理沙は言って、引きつった笑みを浮かべる。
「私がわざわざ来てやったのはだな、こう、ちょっと言いたいことがあってだな」
「あら、なにかしら魔理沙。一年間人形禁止喰らって傷心の少女に、なにか励ましのことばでも?」
「傷心って、おまえがそんなタマかよ。どうせ歯とか足とかで糸を操る特訓でもしてんだろ? そうじゃなくてだな、私が言いたいのは、毎晩毎晩毎晩毎晩、おまえ、おい、なんなんだこら」
「なにが?」
「とぼけんなよ! 私はこれで一週間貫徹なんだぞ! 毎日毎日、夜中に魔法の森中に夜雀の歌が響いてきて、どうなってんだコレ!?」
「私は夜雀じゃないのだけど」
「震源地がおまえの家じゃないか! 日が暮れるたびに画面端に『BGM・もう歌しか聞こえない』だぞ!? そのたびに鳥目になって研究はできないわ、うるっさくて眠れやしないわ、なんなんだ一体! もう歌しか聞こえないっていうか、もう歌なんて聞きたくないよ!」
「私の家から発せられることにこうも早く気づくなんて……魔理沙、やっぱりあなたは只者じゃないわね……!」
「まともな答えを返す気がないのか、おまえは! 一体全体なんなのぜ!?」
魔理沙はそこで溜息をつく。
「あー、もう、なんだっていいけどさ、いまさら。霊夢のところにでも泊まればいいんだし。でもとりあえず訊いておくぜ、なあおい、大丈夫なのかよ、相棒?」
アリスは頷く。
「絶好調よ。テンション高すぎておかしくなってくるくらい」
「そうか。だったらいいや」魔理沙は微笑んだ。「あんな激しくて重っ苦しい歌を毎晩聴いて、不眠症にでもなってないか、心配だったんだけどな」
アリスもまた、魔理沙につられるようにして微笑んだ。
「激しくて重苦しい?」
春の、暖かい南風が魔法の森に吹き渡る。
「私にはこの上なく優しい歌に聞こえるけれど、ね。同じところまで落ち込んで、一緒にもがいてくれる――」
上海が立ちはだかる部分で、なぜだか涙が止まらなくなった。
みすちーがKORN歌うって発想の大胆さが面白いと思います
つーか、エスコンは幻想郷入りしとるのか
地味に長い半年という期間は確かに生殺しですね。
それが自分の研究したいことを封じられる時間なら尚更で、私だったら発狂するかなw
そして最後に……アリミス最高ぅっ!
アリス超かっこいいです。感動しましたマジで
死ぬるwww
作中の曲についての描写を読んで、これはひょっとしてKORNかな?と思ったら
本当にそうだったんですね。
時折挟まれる下ネタや現実世界ネタに興を削がれることもありましたが、
とても読み応えのある素晴らしい作品でした。
でも最後のセリフが優しすぎて泣いた。一番印象に残った。
ほんとにそれだけしかいえないくらい素晴らしかったです。
何が?全てですよ。次回作もずっと待ってますねw
幻想郷住人の連鎖感とか距離感とか(? 適度な関連度が好きです。
あとマジ切れた幽香可愛い
全体的な言葉選びや、アリスの雰囲気が凄く好かった!
それに魔理沙との悪友っぷりも。
何気に前の作品での早苗さんがちらっと出てきてニヤリとさせられました。
夜麻産さんの幻想郷が好きで溜まらんです。
面白かったです。ほんと。
いやぁ素晴らしい
感情表現とか凄く面白かったです
>「あぁん、もうだめぇ、あたし、溶けちゃう! 萃k」 完全に不意打ちでした、繋がってたんですねw あの萃幽大好きなので、これからまた読んできます。
こんな気分は始めてです。ありがとう。
ミスティアとアリスのこだわりに魅せられました。
Yo buddy. Still alive?
最後の気の抜けたスキに噴いたw
私の好きな一節をおもいだしました。ありがとうございます。
青い紅茶にミルクを入れて、水色の紅茶ができました、そんな気持ちになった。
すばらしい作品ありがとうございます。
私も幽香の演説に濡れましたwww
続くんですよね!?素直になれそうでなれない二人の甘く切ない交流が始まるんですよね!?
憑き物憑きアリスの壮絶なバトルっぷりにすごい引き込まれた
幽萃引き継いでてわらったw
魔理沙の技でありそうだ。
コンパイル。DiscStation vol.20コメットサマナー
このネタが出るとは。懐かしい。あれは名作。
気がするんだけど実はよく分からない。分からないんだけどそう思わせられる。何と形容すれば良いのか分からないSSは初めてです。