※注意
早苗×小傘 小傘×早苗
例によって例の如く捏造・独自解釈・ネチョまで遠い・ネチョ薄というやりたい放題仕様です
挙句の果てにオリキャラあります、苦手な方は要注意
※注意終了
1
東風谷早苗はキッチンテーブルの前に座っている。目の前にはグラスが置かれ、そのなかにはビールが注がれている。グラスの淵をつまみ、一度持ち上げ、また元に戻す。そうした動作を何度か繰り返し、一度、小さく溜息をつく。
真夜中。守矢神社には今、早苗以外に住人はいない。二柱は山で催された宴会に招かれ、早苗は留守番をしている。
外界にいた頃と違い、今は神社の灯りも、蛍光灯からランプの火に取って代えられている。ちりちりとわずかな音のたびに淡い光が揺らめき、手元の影を脅かす。
「――……」
わずかな吐息さえ出すのを憚られるような静寂が落ちている。
早苗の手元、影の裏側に、いくつかのストラップがついた、携帯電話が置いてある。
幻想入りする際、常の慣習でポケットに入れたままになっていたものだった。
故郷の、八ヶ岳の山中でも電波が届くように選んだ、auの赤い機種。
既に電池は切れており、幻想郷では充電する術もない。
いつか処分しようと思っていて、立て続けに起こる異変の慌しさに紛れて、今の今まで忘れていたものだった。
「どうせここじゃ、どこにいたって……」
そう呟きはするものの、早苗の指先は、携帯のストラップから離れない。
今の今まで傲然と必需品面していたものが、あっという間にただの屑鉄に変わってしまったことに対する、堪え難い違和感がある。
捨てようと思えば容易に捨てられる程度の感覚ではあったが、早苗はあえて今、それを弄ぶように味わっている。
軽く力を篭めてストラップを摘み上げ、眼の高さまで持ち上げる。
時折吹く風が神社の木組みを軋ませ、遠く、無愛想な音を立てる。
自然にまた出てきた溜息とともに、早苗は指の力を抜いた。
軽い水音とともに、携帯がビールの黄金色を割り、盛り上がった水面がグラスの淵を伝って流れ落ちる。
電池があろうがなかろうが、幻想郷で電波が届くはずもない。
梅酒やカクテルならともかく、ビールは苦すぎて早苗には飲むことができない。
自分の周りにある全てのものが、自分を拒絶しているような感覚に、早苗は襲われている。
深夜に訪れる突発的な鬱病患者の心。
ビールのなかの泡が携帯にまとわりつき、ストラップのへりがグラスの外側を叩く。
その様から目を離し、視線を伏せると、そこで闇の向こう側の気配に気がつく。
玄関からこちら側に向かう廊下の辺り。
鼠のように素早い足音がほんのかすかに耳に届く。
「――神奈子様?」
言いながら顔を上げる。が、早苗は既に、その足音の主が神奈子ではないことがわかっている。
返事はない。
神奈子にしては足音が軽すぎる。
「諏訪子様?」
諏訪子にしては重すぎる。
早苗はすぐ傍に立てかけてある御幣に手を伸ばす。
二柱と、早苗自身の神力が宿った得物は、しかし、手に伝わる感触そのものはただの丸木と大して変わらない。
自分の手に馴染むよう彼女自身が削ったものとはいえ、いざというとき頼るべきものとしてはひどくよそよそしい感じがする。
足音が近づいてくる。
寒々とした気分が胸をむかつかせる一方、体の芯が発火に向けて準備し始める。
山の妖怪とは大抵は知り合いだ。文や雛をはじめ、そうそう不要に神社に入り込んでくるような者はいない。敵対している者も。
ただ自分が、幻想郷に来てからまだ日が浅いことも理解している。知らないというだけで、手のつけられない凶暴な妖怪がいるという可能性もなくはない。そう疑ってかかることができる。特に今夜のような晩には。
早苗は椅子を引いて立ち上がり、息を潜める。すると、そこでようやく声が聴こえる。「早苗――」
記憶にある声と現実が合致した瞬間、早苗は全身の力を抜き、深く息をつく。
「早苗――!」
早苗はその声に答える。
「ここです、キッチンです、小傘さん――」
足音がいっとき立ち止まり、すぐ、駆け足になるのが聴こえる。
暗い廊下に身を乗り出し、闇の向こう側に目を凝らすと、多々良小傘の姿が角を曲がるのが見える。
荒く息をつき、早苗の前までやってくると、キッチンから漏れる濁ったランプの光が小傘の顔にかかる。
「早苗」
「今晩は、小傘さん」
小傘は自分の息を飲み込むような仕草をし、無理矢理にでも呼吸を整えようとする。
「ごめん、早苗」小傘の声は荒くひび割れている。「外から一回、声かけたんだけど、返事がなかったから勝手に入っちゃった。悪いことだってわかってた。神奈子さまにまた叱られるかもって思ったけど、でも……」
「おふたりは宴会で今夜はいませんよ」
「じゃあ内緒にしておいてくれる? あ――んーん、違う、それどころじゃない。早苗、その、実は」
早苗は頷こうとして、そこで動きを止める。見え辛い薄暗い光のなかで目を凝らす。
小傘の表情。なにかひどく切羽詰っており、余裕がない。弾幕勝負のさなかでさえ見せないような慌てようだった。その胸のなかになにかを抱いている。一瞬、子猫かと早苗は思う。ちょうどそれくらいの大きさで、すっぽりと布に包まれている。
「人里で誰に頼ればいいのか、わかんなかった」小傘の口調はあくまで固い。「私って新参者だし、命蓮寺のみんなも。ムラサと一輪は博麗神社に行ってる。聖と星はどこかの宴会で留守にしてて、ナズはふたりを呼びに」
早苗は小傘を見下ろす。左右で色の違う眼の、片方は早苗の姿をしっかりと捉え、もう片方は彼女自身のつくる影のなかに埋もれている。
外界にいた頃は、目にかかることのなかった色の配置。
人間の姿をした人間でないものの、人間以上に人間めいた、明白で明確な表情の動きがそのなかに現れている。
「小傘さん?」
「霊夢以外に、魔理沙か早苗以外に知らなくって、こういうとき、頼れるひととか。妖怪の賢者さまとか、どこにいるのかもわからないし。私どうしたらいいのかわかんなくて、それで」
早苗は一段階声を強くする。「落ち着いて、小傘さん」
小傘はまた自らの息を飲み込み、喉を上下させる。その表情から不安が抜け落ちることはなかったが、それでも早苗が肩に手を置くと、ようやく、わずかに安心したような色を浮かべてみせる。
盗賊の巣窟で宝石を抱く者のように全身を硬直させている小傘の、胸元で交差されている腕を取り、早苗はそっと布を開きなかを覗き込む。
早苗は一瞬、凍りついたように固まる自分の呼吸を喉の奥に感じた。
「……っ」
暗い光を歪に弾き返す双眸が、早苗の視線と絡んだ。
おかしな瞳孔。
一瞬、子猫そのものかと思う、が、そこにある顔の輪郭は完全に人間の形をしている。
赤子。
そう思い至ったとき、早苗の目の前に紫色の羽毛がよぎり、頬を掠めてキッチンに入り込んだ。
赤子の背中に、赤子自身の体と小傘の胸に挟まれ、潰れた翼が覗いている。
早苗の震える手が、さらに布を剥いでいくと、軽く握られた拳の先端、凶器めいて尖った赤黒い爪が見えた。
早苗は口許に手を当てる。自分の知っている赤ちゃんの手と、違う。人間の産んだ子供の手とは。
自分の知っているものが違う形で目の前にあるという違和感が、自分の胸中を冷え冷えとした感触とともに覆っていくのを、早苗は呆然と感じていた。もうすっかり異形の姿にも慣れたと思っていたはずが、そのうえでさらに違う形で見せ付けられ、浮かび上がってくるのは背徳感にも似た……
「命蓮寺の前にいたの。ゆりかごのなかに。このおくるみに」
上白沢慧音の家に向かう道すがら、小傘は独り言のように呟き続ける。
「私は……命蓮寺に用事があったわけじゃないけど、でも……聖がたまには遊びにきなさいって言ってくれたし、それで、ときどきご飯食べさせてもらったりしてたから、今夜も」
月が薄くたなびく雲越しに、小傘の姿を仄かに照らしているのを、早苗は横目で見ている。耳元に山の風が渦巻き、彼女の声は聴き取り辛い。それでもことばの意味はわかる。意味を伝えようとして喋っているのではないということも。
「そしたらこの赤ちゃんが……門の横に……最初はなんだろって思ったけど、泣きもしてなかったものだから……」
話は筋道が飛び、時折同じことが繰り返され、口のなかで消える単語さえある。
それでも話すことで、話し続けることで、小傘はいくらか落ち着いてきているようだった。
赤子は小傘の胸元で再び包み直され、早苗の位置からは姿を見ることができない。泣き声も聞こえない。自分が今どういう状況に置かれているのかわかっているのだろうか、と早苗は思う。
眠っているのか、それとも……
「――……」
見えないということで、先ほど感じてしまった不快感が増長されているように、早苗には感じた。
話し続ける小傘の口も、慧音の家の前に着陸すると、その役目を終えたかのように閉じられる。何度か訊ねたことはあるものの、こんな遅くに来たことはない。少し緊張する思いで、早苗はその戸を叩いた。
ややあって、扉が開く。
「あ……」
慧音の姿ではなく、逆光のなかに現れたのは、肌から髪まで老人のように真っ白な少女の姿。
「――? あんたら……」
予想とは違う人間が出てきたことに、早苗はいっとき、ことばを失う。
アルビノの、兎のように赤い目が自分の姿を捉えてから、ようやく早苗は口を開く。が、その口からは発育不全のことばしか出てこない。
「慧音さん、は」
藤原妹紅は早苗と、早苗の後ろに隠れるようにして立つ小傘の姿を見、どうしたものかと困惑したように頭をかく。
「今晩は……」
小傘が恐る恐る言い、それで、妹紅は肩を落とす。
「ああ、今晩は、早苗、見知らぬお嬢ちゃん。慧音かい? ちょっと待ってな」
早苗は、その声音に含まれる調子の悪さに、顔をしかめる。
「あ、あの、もしかして、お邪魔だったりとかしたらすみません」
「ガキが変に勘繰るんじゃないよ」妹紅は苦笑する。「そういうんじゃない。ただ今夜は日が悪くてね。まぁ、あんただったらいいだろ、別に……慧音! 早苗だよ! 山の上の巫女さん!」
妹紅が自分の肩越しに声を上げ、早苗は妹紅の体越しに玄関の奥を見やる。
廊下の角から慧音の姿が出てくるのが見える。早苗はそこで息を飲み、一歩身を引き、反射的に上空に目をやる。
(満月……)
ハクタク化の話は聴いていた。が、実際の姿を目にするのは初めてだった。
角。尾。緑から白銀がかった髪。そうしたパーツが玄関の灯りのなかに照らし出される。が、早苗が気圧されたのはそうした目に映る像のせいではなかった。あらかじめ予測されていた変化のせいでは。
今の慧音の姿に――表情に――湛えられている、登山道で野生の鹿に遭遇したときに感じるような、不可解さと不気味さのせいだった。
「今晩は、早苗どの、と――」
「初めまして、小傘です。多々良小傘」小傘がぺこりと頭を下げる。「あの、けーね、さん? 実は」
「いや、いい。だいたいわかる」
慧音は小傘の胸元に手を伸ばす。
「赤子を」
「あ、はいっ」
はだけられた布のなかに慧音の指先が差し込まれ、ほんの束の間、動きが止まる。
早苗は居心地の悪さを感じる。
オッド・アイの女が抱く異形の赤子に、角のある女の手が触れ、そうした光景をアルビノの女が見つめている。
そういう光景に慣れていないとか、そうしたことではなく、自分がそこに居心地の悪さを感じてしまうことそのものに対する嫌らしさ。未だ自分が外の世界の慣習から逃れ切っていないことへの自己嫌悪に近い。
そうした感覚は、慧音が不意に表情を緩め、「可愛いな」と誰にも聞こえないような声で呟いたことで加速される。
(私はさっき、そういう感想を抱くことができなかった……)
「――あぁ」慧音が指を戻して言う。「……町の大通りの、一番端にある商家。半月前に前の主人が亡くなって、今は長男が跡を継いでるんだが、奥方に先日男の子が産まれたばかりだ。四人の男の子と、五人の女の子を育てた、気の良い女性だよ。力になってくれるだろう。
妹紅。一緒に行ってやってくれるか」
「私なんかが行くより、その姿であっても慧音自身が行くほうがいいと思うけどね、私は……」
「自分を卑下するようなことを言うな。変に気を遣わせるわけにもいかんだろう」
「はいはい」妹紅は手をひらひらさせ、下駄を突っかけて外に出る。「行こうか」
早苗は頷いてから、「あの」慧音に言う。「この子の両親は……」
慧音は首を振る。「それを知ってどうなる?」
早苗は口を噤む。
「……追いかけていって、説教のひとつでもすれば、改心してこの子を引き取りにくるということでもあるまいに」
「……っ」
慧音は早苗の肩に手を置く。「あなたの気持ちはわかる」
が、それは以上なにも言わない。
「さあ。この子がお腹を空かす前に」
赤子が女の乳房を口に含む。妹紅は部屋を出て行く。小傘はそんな妹紅の動きにも気づかぬほど、赤子に見入っている。
商家を継いだ長男の歳から、早苗は女の年齢は五十は越えていると見当をつけたが、そうしている女の姿は、見ようによっては二十は若く見える。
薄暗い部屋。赤子が乳を啜る音だけが響く。身動きひとつするのも憚られるような静寂が早苗を包囲する。機を逸し、早苗には妹紅のように部屋を出て行くことができない。赤子と女ではなく、四つん這いに近い姿勢になってふたりを見る、小傘の後姿を見つめている。
奇妙で、どこか神聖な沈黙。が、それも女が母親そのものの声で呟くことで破られる。
「随分とお腹減ってたんだねえ。泣き出す気配もなかったってのに」
その顔が痛みに歪む。
「痛た、た。そんなに噛み付かなくても逃げやしないよ。加減しとくれ、千切れちまうだろうが」
早苗は赤子の指先を見る。その爪が女の乳房に食い込み、赤黒い跡を残している。痣になるだろうな、と思う。自分の子ではないとはいえ、ひどく申し訳なく感じる。
「あ、あの、おかあさん」
小傘が恐る恐る呼びかける。
「あたしゃあんたのお母さんじゃないよ」
「あう、ごめんなさい……」
「はは。冗談だって。まあ今更どっちでもいいけど、九人が十や十一になったってね。いっそあんたもウチに来るかい?」
「うぇ、ええ?」
「いちいち本気にするんじゃないよ」
「うー、驚いた……」
小傘はそっと手を伸ばし、赤子の頭を撫でる。
その眼は女の乳房につけられた爪痕を見ている。
「痛そう」
「赤ん坊なんてのはこのくらい元気があったほうが安心するってもんだよ。ウチの子にも見習わせたいくらいさ。この子と違って爪もろくに生えてないし、歯も揃ってないけどね……」
そこで女は早苗に向き直る。
「山の上の巫女様。里親が見つかるまで、この子はウチで預かりますから、どうか安心してくださいな」
早苗は頭を下げる。「ありがとうございます」
部屋を出るとすぐ、早苗は深海から昇ってきたばかりのように深く息をつく。ひとつだけでは足りず、二度、三度、続けて。が、それもすぐ傍に、妹紅が壁にもたれて立っているのを見つけることで途切れる。
妹紅は苦笑している。早苗は俯いて頬を染め、袴の布地を握り締める。
「そんな緊張しないでおくれよ。いくら私だってね、予告もなしに焼いて食う真似はしないさ」
「……すみません」
「小傘は?」
「赤ちゃんに夢中で、しばらく出てくことはないと思います」
「そうかい、じゃ、先に帰らせてもらおうかね」
「私」早苗は言う。「妖怪の赤ちゃんって見るの初めてで」
「可愛いもんだろ? そりゃ、成長したら手のつけられない残虐で凶暴な妖怪になるかもしれないけど」ことばの物騒さとは裏腹に、妹紅は微笑んでいる。「ちっちゃなときは、みんなおんなじさ。人間だろうが、なんだろうが。ところであの子、男の子かい、女の子?」
「女の子みたいです」
「そうかそうか。慧音の寺子屋に通うことも、あるかもしれないね……」
妹紅は玄関に向かって歩き出す。灯りのない廊下に、色のない後姿が溶け込んでいく。ややあって、早苗も妹紅について、早足で追いかける。
「慧音さんはああ言ってましたけど、あの子の両親は、なにを思って……」早苗は言う。が、その声には、届かなければそれで構わないとでもいった音量と響きしかない。「置き去りにしたんでしょうか」
独り言めいた問いに、闇のなかから答えが来る。
「親ってやつの考えてることがわかった試しが、私には一度もなくてね」
早苗はそのことばに、幾度となく繰り返し繰り返され続けてきた自問のような、滑らかさと躊躇いのなさを聴く。
それ以上の問いを断ち切る響きがある。投げやりなところも。
が、それでも早苗は言わざるを得ない。「私もです」
妹紅は動きを止め、頭だけ振り向いて早苗を見やる。兎と同じ色の眼が早苗の姿を捉え、すぐに離す。
「……ガキの考えてることもわからんよ、私にゃ」
商家を出ると、ひんやりした空気がふたりの肌を刺す。満月は煌々と照り、足元にはっきりした影を落としている。しばらくは物音ひとつ聴こえない、が、やがて背後から赤子の泣き喚く声が聴こえてくる。
「あの子のものでしょうか」
「いんや」妹紅は首を振る。「ここの家の子だよ。聞き覚えがある」
ふたりはしばらく、そうして遠い泣き声を聴いている。
早苗は胸中に湧き出る疲労感に身を浸していたが、頭の内側だけ妙に冴えている感覚に、目を閉じる。
女の乳房に刻まれた赤黒い線が瞼の裏に蘇る。それが自分の胸であるように、そこに走る痛みも感じた。小傘がそれらをじっと見つめているのが見える。痛みに顔をしかめる女の表情も。そこから染み出る母親の色も。
「……昔、って言っても五年くらい前の……中学生のときですけど」
妹紅は独白めいた早苗の声を聴く。
「学校の……校舎裏の壁。私がそこに行ったのは偶然で、屋上でやってたバレーボールの球が、そこに落ちてったからなんですけど。誰も見ないような、昼間でも薄暗い、陰になってるところで」
泣き声が止む。
「カラースプレー、って言うのかな。よく街のいろんなところに落書きしてある、あれ。それで一言、こんな文句が描かれてました。『おまえらはみんな夢の島だ』って」早苗はそこでわずかに唇を歪める。「夢の島、知ってますか?」
「まあ、ね」
「あんな気分になったのは初めてだったな……それなりに楽しかった学校生活でしたけど、その裏で自分が……自分の所属してるものが、そうやって罵倒されてるってことを知って。そういう罵倒に曝されてるってことを知って。なんていうか、ショックでした。赦せなくなった。そういうことばを書いた誰かも、そうしたことばの上でなにも知らずに生活してた私も」
「なんの予備知識もなしでポルノビデオでも見せられた気分?」
「――あー……まあ、たぶん」早苗は指先で鼻の付け根の上を抑える。「今はそういうことを、無性に誰かに言いたい気分です」
妹紅はくすくすと笑ってみせる。
「あんたは真面目なばかりだと思ってたけど、そんなこと言うとはね」
「自分が真面目だなんて思ったことはないです」
「くそ真面目なやつはみんなそう言うんだ。慧音然り、月兎然り。まあ私に言えるのは、不法投棄は犯罪だってことぐらいだね。私だったら適当に燃やしてやれるけど」
「あ……不快にさせちゃってましたら、その――」
「いいさ」
妹紅はブラウスの胸ポケットに手を突っ込み、そこで顔をしかめる。「煙草忘れちまった。早苗、あんた……持ってるわけないか」
「すみません」
「山の上まで送ろうか? あんただったら、そう物騒ってこともないだろうけど」
「……小傘さんを待ってから、帰ろうと思います」
「そうかい」
妹紅は頷き、そこで溜息をつく。
「まあ、あんまり気にしすぎないことだね。こういうのって滅多にないことだけど、たまにはある。大抵は納まるとこにきちんと納まるものだよ。そういう風にできてる」
「別に、私は――」
「亡霊でも見たような顔してるからさ。幽々子を見たとか、そういうんじゃなくて」
早苗は自分の頬に手を当てる。
妹紅が去ってしばらくして、小傘が出てくる。早苗を認めると、その顔にわかり易く驚きと嬉しさが浮かぶ。
「もうとっくに帰っちゃったと思ってた」
「あと少しでそうするところでした」
「えへへ」
小傘は微笑む。
帰り道。物事がひと段落した後の安心感がふたりを包んでいる。並んで大通りのなかを妖怪の山まで歩く。吹きつける風の冷たさに、早苗が思わず身じろぎすると、小傘が早苗を見上げる。
「寒い?」
「……まあ」
「ごめんね、夜中に連れ出しちゃって。でもありがと、すごく助かった」
小傘は自分の体を早苗の腕に押し付けるようにする。
「――小傘さん?」
赤く染まり、冷たくなった早苗の手のひらを自分の手でさすり、包み込む。ぎゅっと握り締め、緩ませ、ちょうどいい力の加減が見つかると、そこで動きを止める。
早苗はわずかに動揺する。
「あの……」
「良かった。ひとまずなんとかなって。おかあさんも、いいひとだったよ」
「……そう、ですね」
「いつ様子を見に来てもいいって。命蓮寺のみんなも、安心するよ」
「小傘さんは」手に小傘の体温を感じながら、早苗は言う。「今日は、命蓮寺に泊まるんですか?」
「どうしよっかな。赤ちゃんを見つけるまではそのつもりだったけど」
大通りに面する人家の灯りがひとつ、ふたりが横を通り過ぎた瞬間にぱっと消える。
早苗はかすかに声を聴いたように思う。灯りを消して子供を寝かせつける、夜回りの仕事。家族が今日と別れ、明日また出会うために交わす普遍的なことば。
「別にどこでも寝れるんだけど。森のなかでも、飛びながらでも。お布団のなかが一番気持ちいいのは、もちろんだけど」
小傘はそこで早苗を見上げる。早苗は視界の端でその様子を見る。
握られた手に、そうとわからぬほどの力が、ほんの少しだけ篭められる。
小傘が自分のことばを待ち望んでいることが、早苗にはわかる。どういうことばを期待しているのかも。
「――……」
神社に誘ってもいい、と早苗は思う。
あの異変から既に何度か、小傘は守矢神社に泊まったことがある。神奈子と諏訪子とも顔見知りになり、二柱は、それなりに小傘のことを気に入っている。いつ来てもいいし誘ってもいいと、酒の席とはいえ告げられてもいる。
が、早苗は疲れていた。少なくとも思考をさらに深めることができなくなるほどには。
口を噤んだ一瞬、小傘の眼に諦めが浮かぶのが見えた。それをきちんと認識する頃には、手遅れになっていた。
目の前で閉まったシャッターを抉じ開け、彼女を呼び直すだけの意志は、今の早苗にはなかった。
力のない吐息を聴く。情けなさが胸に落ちる。
「小傘さん――」
言いかけた早苗のことばを寸断するように小傘は言う。「早苗って子供産んだことある?」
「――な、っ」
唐突な問いに早苗はことばを失う。一瞬、『人間を驚かせる程度の能力』が発現したのかとさえ思う。それを素直に喰らうほど力のない現人神ではない、とはいえ。
「ねえ」
「……あるわけ、ないじゃないですか」
「そっか。私もだよ」
常の様子と違う調子がその声に含まれている。早苗はそれを感じ取る。
小傘の初めて聴く声。なにかしらの強い感情が篭められている。
「あの子の親は」
早苗は握られていないほうの手のひらを開く。いつの間にか汗が滲んでいる。いつから閉じていたのか、早苗にはわからなかった。赤子を見たその瞬間からずっとなのかもしれなかった。
「置き去りにするためにあの子を産んだの?」
それは問いかけではなかった。糾弾だった。
早苗はなにも言わない。言うことができない。直接そのことばを受け止めるには、自分の器は薄すぎるように感じた。
早苗は慎重に心を傾け、斜に構える。
「……妹紅さんが、こういうことはたまにはあると言っていました。納まるべきところに納まるようになっている、とも」逃げの手を打っている自分が嫌になる。そうすることしかできない自分が。「妖怪の赤ちゃんでも、幻想郷だったらちゃんと――」
「妖怪じゃないよ」
「え?」
「半妖だよ。半分は人間」
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「半妖ったって色々いるわよ。人間も妖怪も色々いるのと同じように、ね。ま、でもあんたの疑問がそう突拍子もないものかっていうと、そういうわけでもない」
アリス・マーガトロイドが、これで何杯目かになるかもわからない熱燗を煽りながら言う。
「あんたが現人神だって、外見じゃわからないように、私だって外見だけじゃただの人間に思われたって仕方ないし。見ただけでわかるほうが稀なんじゃない? なかには紫みたいに、帽子の下に狸の耳を隠してるような輩もいるかもしれないけど……」
「え、紫さんってそうなんですか?」
「他にどんな選択肢があるっていうの?」
「……酔っ払いの言い分、か……」
早苗は溜息をついた。
ミスティア・ローレライの屋台。客は早苗とアリス以外にはおらず、またふたりの前に置かれているものも、八目鰻ではなく酒だった。ミスティアの不機嫌そうなじと眼を、ふたりはまるで気にせず、一刻前から酒を頼み続けている。
博麗神社で行われた、少人数によるささやかな酒宴の後、大して飲んでいなかった早苗はこうしてアリスに二次会に誘われていた。今も早苗は、時折注がれた酒の表面を舐める程度で、大して酔ってはいない。が、アリスのほうはもう、提灯の光のなかでさえわかるほど、顔を真っ赤に染めていた。
「この屋台の女将なんかはわりとわかりやすく妖怪してるけど、それだって遠目から見たらわかんないでしょうが。半妖なんてもっとわかりにくいわよね。慧音とか……香霖堂の店主とか……」
アリスは指を一本目の高さに掲げ、くるくると回してみせる。
「そういう連中が人間の桁から外れてるかって言うと、そうでもない。香霖堂の店主なんかは無縁塚から色々持ち帰ってるくらいだからそれなりに力はあるけど、人里にもいるでしょ? 毎日百キロくらいの荷物担いで、行商やってるお婆ちゃん。そういう人のほうがよっぽど妖怪だわよ。
あら、もうお酒なくなっちゃったわね……ミスティア!」
「アリスさん、ちょっと飲みすぎなんじゃないですか?」
「こんなのは序の口よ。あんたこそそんなちびちび飲んで、きちんと二日酔いできるの?」
「二日酔い前提なんですか」
「二日酔いもできない女は傲慢になるわよ。他人の痛みってやつをわかってやれないからね。ミスティア! まだ?」
「ひとりで一升瓶三つ空にしといてッ! あーもう! そんなに早く温まらないわよこんな寒い日にッ!」
割烹着姿のミスティアが、熱燗をアリスのグラスに注ぐ。
「ほら! これ飲んだらとっとと帰りなさいよ今日はもう店じまいだから! どうせツケなんでしょ!?」
早苗は溜息をつく。「私が払いますよ、ちゃんと」
「神様!?」ミスティアは叫んだ。「あぁ、ようやく私の店にお酒の神様が御降臨なされた! 慧音先生に頭突き喰らいながら通った寺子屋の日々、正座に足を痺れさせながらもさっぱりわからないお説教を聴きに行った命蓮寺の日々、あの辛かった毎日がようやく! 今ここで! ああやっと報われるときがきたのね!」
「お金払ったくらいで大袈裟にしないでください、私はそんな安っぽい神様じゃありませんから」
アリスは注がれた酒を一口に飲み干す。淡い光のなかで白い喉が揺れる。
立てた指先をまた回し始める。
「言い出したらきりがないけどねえ、逆に言えば、例えば魔理沙にしろ、霊夢にしろ、妖怪の血が一滴たりとも入ってないって、誰に証明できる? 家系図の枝を神代まで伝ってった先に、人間じゃないものがひょこっと入り込んでたとしても、それが誰にわかる?」
早苗はアリスの指先を見ている。人形をつくり、使うために研ぎ澄まされた、繊細そのもののマニピュレータ。それが今、自分をからかい、弄ぶためだけに動いているかのように思える。
「むしろ混じってるほうが自然じゃない、あのふたりに関しちゃ。ま、混じってなくてもいずれ本物になっちゃうかもしれないけどね。
今更ってことよ、要は。ここに至っちゃ、大事なのはむしろ飲めるか飲めないかくらいで」
くるくる回る指先が、ルーレットの針のようにぴたりと止まる。
針先が向いているのは、隣に座る早苗のこめかみ。人差し指が皮膚に触れ、そのまま親指が立てられると、指は針から銃口に変わる。
「あんただって同じよ。自分の根っこの部分が人間そのものだって――翼の生えた赤ん坊と決定的に違うって、明確に明白に自分で言い切ることができるの?」
「私は……」
早苗はアリスの指先をやんわりと払う。
指の先端が代わりに指したのは、ミスティアだった。
「ミスティアもそうよねえ。案外親のどっちかが人間だったりして」
ふん、とミスティアは鼻で笑う。「あたしんとこは、先祖代々由緒正しき夜雀よ。人間なんてかっさらう対象でしかないわ。ローレライの一族ってのはそういうものよ」
「どうだか。ま、私は自分の母親を知ってるってだけでもう充分すぎるほど充分だけど、ね」
「は。そいつはさぞかし、あんたに似て頭の先から足の指先まで春色の、年がら年中お気楽極楽魔法使いなんだろうね」
「……ぁあ?」
アリスの声が軋む。早苗はアリスの持つグラスに反射する光明が、わずかに捻じ曲がったのを見る。
アリスの表情を見る。その淵が一瞬、彼女自身の前髪に沈んだかと思うと、すぐ、唇の端が歪に持ち上がる。
「あの、アリスさん――」
「上海。蓬莱」
「うわッ、なに!?」
カウンターのなかに置かれていたワイン樽を、上海人形と蓬莱人形が持ち上げる。ふらふらとアリスのもとまで移動する樽を、ミスティアは不気味そうに見つめる。
アリスが腕を回して樽を抱えたかと思うと、背骨が九十度、反り返った。
「……」
「……」
早苗とミスティアが呆然と見つめるなか、アリスの喉が凄まじい勢いで鳴り響く。
樽の中身がまるまる、アリスの口内に飲み込まれていく。
しばらくすると、アリスの背骨がぐっと真っ直ぐになり、その勢いで、空になった樽がカウンターに叩きつけられた。
その衝撃で早苗のグラスから酒が溢れ落ちる。
「ツケで」
アリスは世の誰もが見惚れるであろう、このうえなく美しい笑顔で言った。
――ミスティアの頬が引くつく。
「あ、あんたが……あたしを、ね?」ミスティアの声には空気がいっぱいに詰まった風船のような響きがある。「例えばこういう……ふっざけた行為に黙ってるような……他人に媚売るしか能のない、頭が空っぽの、安い愛玩動物でしかない、と……そう思ってるとしても」
「ミスティアさん、あの、私がお金――」
「挑発に逃げ出すような弱っちい……またぐら頼みの尻軽女みたいな根性なしだと、そう……思ってるにしても……!」
アリスは鼻で笑う。「あんたのこれまでの言動は今のところそのことを充分に証明してくれてる」
「アリスさん、言いすぎ、謝っ――」
「ゴー・ファック・ユアセルフッ! 表ぇ出やがれ人形遣いッ! 耳が爆裂するまであたしの歌のヘヴィネスぶちこんでやるッ!」
「あなたに赤い靴を履く勇気があるならッ! この私の戦いのアートのなかで! 人形といつまでも踊り続けるがいいわッ!」
ふたりは互いに自らの腕で屋台のカウンターを殴打し、中指を突き立て合い、天井を突き破って飛び去っていく。
あとには頭痛に顔をしかめる早苗だけが残された。
「……帰りましょうか」
自分が飲んだ分の代金だけ置いて、早苗は立ち上がる。
歌姫と人形師。この手の弾幕勝負を下手に仲裁しようなどと思ってはいけない。喧嘩らしくなるのは最初だけで、段々相手を落とすことなどどうでもよくなり、しまいには自分の表現したいことだけありったけぶちまけて終わってしまう。
負けたら負けたで「私は本気じゃなかった」などとふざけたことを抜かすので、まともに相手をしてはいけないのだ。
とっとと逃げるに限る、と早苗は思い、実際にそうする。が、ふと思い立って上空を見上げると、必要以上に色鮮やかに広がる弾幕のなかで人形が舞い、空気を揺るがす歌が始まるのが見えた。
「四次元の胃袋を持つ西行寺の亡霊嬢でさえこのあたしの小骨まで喰らい尽くすことはできなかった! もはやこの世のなにを以ってしてもあたしの歌を止めることはできない! ファーストナンバー『BLIND』!」
「ちょうど白兵戦に長けた新型人形の性能を試してみたかったところよ! 研究に研究を重ね……パチュリーの賢者の石と、二百体もの人形の犠牲の末……完全再現した! レ・ザア・マシオウ『あるるかあん』!」
「アアアアユゥレエエエエエエエディイイイイイイイッッッッ!!!!!!」
悩みがないって羨ましいなあ、と早苗はふたりを見て思うのだった。
神社に帰っても二柱はいない。今日も彼女たちは山の宴会に引きずり出されている。自然に、早苗の足は人里のほうに向かう。
酒の仄かな酔いがもたらす曖昧な思考が、いくつかの断片的なことばを頭のなかで渦巻かせる。人里の大通り。仕事帰りの人間たちと擦れ違い、何度か頭を下げられながら、物思いにふけるようにして歩き続ける。
「夜分に、すみません」
大通りの端の商家に着くと、早苗は勝手口の扉の前で言う。
出てきた女は彼女自身の赤子を胸に抱いている。早苗を認めると表情を緩め、「とんでもありませんて。山の上の巫女様だったらいつでも歓迎しますよ。こうも頻繁に来てくだされば、ウチの商売も安泰というもの!」
私は商売繁盛の神様じゃないんだけどなあ、と早苗はぼんやり思う。
「それにほら、小傘ちゃんも来てますから」
「――小傘さんも?」
「余程あの子が気に入ったか、気になるのか。ここんとこは毎日で」
早苗は廊下の暗がりに顔を向け、目を細める。すると、わずかに声が届く。遠い闇と壁に遮られ、彼女の笑い声はくぐもっている。
早苗はその方向に足を向ける。そのとき、女が声を潜めるように言う。「巫女様」
早苗は振り返る。
「なにか?」
「あの子のことなんですが、その……なんといいますか」
「――」
早苗の胸のなかでなにかがことりと音を立てる。
「すみません。やはり、迷惑だったでしょうか」
「とんでもない!」女は首を振る。「違いますよ。そういうんじゃなくって。あの子のせいでどうこうじゃなくて、あの子自身のことです」
「それは……?」
「泣かないんです」女はそこでいったん息をつき、続ける。「お腹が減ってるときも、おしめを変えなきゃいけないときも、全然泣こうとしないんです。そりゃもう石かなにかみたいに。一度、ウチのばか息子が抱いてる最中に落としちまったことがあったんですが、そのときも。なにかしら感情を表すこともない。妖怪の子だからだとか、そういうことも考えて慧音センセに相談したりしたんですが、先生も……わからないと」
早苗はなにかグロテスクなものを見たような感覚に囚われる。
「……」
「たぶん、命蓮寺の前に捨てられたときも、泣かなかったんじゃないでしょうか。泣かないのか、泣けないのか、泣こうとしないのか、それはあたしにゃ計り知れんことですけども――」
早苗はその部屋に入る。ゆりかごのなかの赤子を、小傘が覆い被さるようにして見つめている。早苗に気がつくと、小傘はぱっと振り向き、屈託のない笑顔を向けてみせる。
「早苗!」
「今晩は、小傘さん」
「見て、見て!」
小傘は手首を上に向けるようにして、自らの腕を早苗に差し出す。
肘の上まで袖のまくられた素肌。細く、紫色の血管が浮き出ており、その真ん中に――
「……ッ!?」
早苗は口許を手で覆う。
「この子がつけたんだよ」
小傘の右手。中指の付け根から手首を越え、肘との中頃あたりまで、さっと一筋、赤黒い線が見える。皮膚が裂かれ、わずかに肉まで届いている。
リストカットしたかつての友人の姿が網膜の裏側に蘇る。何筋も手首を横に切った挙句、縦にナイフを差し込んだ末にできた、ろくでもない十字架の形。
「抱き上げようとしたら、この子が。爪で。あはは、嫌われちゃった!」
小傘がなぜ笑っているのか、早苗には理解できない。
畳の上にぽたりと垂れて、染みを残す。
「きっと強く育つよ、この子」
一瞬、誰のものか判然としないことばが頭のなかでスパークする。
『そりゃ、成長したら手のつけられない残虐で凶暴な妖怪になるかも――』
「小傘さん」早苗は喘ぐように言う。「痛く……ないんですか」
早苗が小傘の手を取ると、笑った表情のまま、手を握ったり閉じたりしてみせる。
「痛いよ。でも大したことないよ。私だって一応、端くれだけど、神さまだし! 神さまは細かいこととか気にしないよ!」
「ちょっとじっとしててくださいね」
早苗は袂に手を入れ、傷薬を取り出す。弾幕勝負に備えて持ち歩いている、永遠亭製の軟膏。効き目の程は身を以って知っている。
早苗の指先が傷口をなぞると、小傘は身をよじる。
「くすぐったい」
傷薬を塗り終わると、早苗はしばらく呆然としたまま座り込んでいる。無性に、なぜか、泣き出したい気分になっている。
理解できない。泣かない赤子の胸の内も、傷つけられて笑っている小傘の心も。
(アリスさんやミスティアさんだったら、理解できなくても、こんな気分になることはないのに……)
夜空に広がる弾幕の美しさ。あの力強さとわかり易さに比べて、なんてこの子たちはわかりにくいんだろう。
早苗は赤子に這い寄る。赤子を見ると、不可解さと不気味さの捻くれた感情が湧き出てくる。
そうした感覚には慣れることがない。幻想郷に来た当初から。ここに来てからもうだいぶ経っているというのに。
自分に適応能力が欠如していることを思い知らされる気分がする。それでも、今の早苗は、以前に比べれば現実と折り合いをつける術を遥かに知っている。
「早苗?」
「……」
小傘の声に早苗は返事をしない。
赤子の顔を真っ向から見下ろす。
赤子の猫の瞳が自分の姿を映し出すのを見つめる。
翼から抜け落ちた紫色の羽根が畳の上にふわりと舞っている。
爪には小傘の血がこびりついている。
「早苗……? どうしたの……?」
「……」
しん、と、ぱり、と、体の内側が凍りついていく音を聴く。赤子を見ているとそうした自分の根っこの部分がテストされているような気がする。外界にいた頃、八ヶ岳の麓、広がる雪原を眺めていたときに感じたのと同じ感覚。
まっさらな白に足跡をつけることへの罪悪感。けれどもそれは浅い部分の感情でしかない。それがつまるところなにであるにしろ、根っこの部分に深く染み込んでいくのが雪原の本質だ。
自分を覗き込むように赤子の顔を覗き込む。
怖ろしい、素直にそう思う。その感覚から逃れることはできない。けど、この子は小傘さんを傷つけた。その行為をそのまま放置しておくわけにはいかない……!
「早苗――!」
「……っ」
早苗は赤子の顔を包み込む。
赤子の眼に初めて感情らしい感情が浮かんだように思える。単純に距離を近づけたせいなのか。が、それもすぐ深い淵に沈んでいく。
早苗はそのことばを言おうとする。決して自分が言うことはないだろうとなんとなく思っていたことば。喉が喉の裏側に張り付く。水分が足りない。舌が凍えて役立たずになる。極度に集中したときに覚える、感覚という感覚が消え失せていく手触り。弾幕の際、自らの根幹にある一点が剥き出しになったときに感じる……
早苗は口を開く。
「――めっ」
帰り道。数日前と違い、月明かりは影を落とすほどの力はない。もう新月に近い。それ以外は以前の光景と変わらない。人里の大通り、消えていく人家の灯り、一日の終わり。
早苗は前を歩く小傘の腕を見ている。白い包帯に覆われてはいるが、実際には、傷口はもう完治している。永遠亭の薬と、ひとならざる小傘自身の治癒能力によって。
「なにをするのかと思った。早苗、すっごい怖い顔してるんだもん」
小傘のことばに早苗は俯く。
「おかあさんみたいだった。私にそういうひとっていたことないけど、たぶんこんな感じなんだろうな、って思っちゃった」
早苗は舌で唇を濡らす。
沈黙が降りる。しばらくの間、ふたりが踏み固められた土を踏み締める音だけがふたりの耳に届く。破り難い静寂。が、それは早苗のことばによって破られる。「ああいうことを……したくはなかった。言いたくありませんでした」
小傘は振り向く。闇のなか、俯き、前髪の奥に自分の表情を隠している早苗の姿を見る。
「小傘さんの手首を見たとき、私は無性に腹が立ちました。赤ちゃんもそうですけど、あなたが笑っているのを見て。なんだかあの場で、私だけがずれているような……間違っているような、私だけがそういう感じ方をしてるみたいで」
「早苗?」
「ときどき自分だけが世界のなかで間違ってるって、そういう気がします。幻想郷に来てからだけじゃなくて、外の世界にいるときもでしたけど」
早苗は首を振る。頭にまとわりついた重苦しい蜘蛛の巣を払うように。
「友達が妊娠したことがあるんです、十七歳のときだったかな……大学受験の話題がうるさくなってきたときだったから。そりゃもう大騒ぎになって。産めとか、堕ろせとか、周りは好き放題言ってましたけど、当人だけが冷静でした。相手が誰だかは結局わかりませんでしたけどね。私のお母さんは終始傍観者みたいな位置にいて。私にはああいう子と付き合っちゃだめよ、って」早苗はそこで疲れたように笑う。「でもお母さんはとっくに忘れてたんですよね。その子、すごい人見知りだった私の初めての友達で……幼馴染で……明るくて優しい子で、小学生の頃とかしょっちゅう、ちょっとはあの子を見習いなさいよって私に言い続けてたこと」
小傘は黙っている。相槌を打つことさえ憚られるような響きが早苗の声にはある。
「なにが正しくてなにが間違ってるのか、さっぱりわからなくなって。私はその子になにも言えませんでした。そのうちにその子は転校していって、それからは知りません。幻想郷に来てしまったから」
ひょっとしたら、あの赤ちゃんがその子の子供かもしれませんね、と早苗は虚ろに言う。
「私、二日酔いってしたことないんですよ。そんなに飲めないからなんですけど」
「え――?」
話題が飛び、小傘は混乱しかける。
「アリスさんが言うには、二日酔いもしたことない女は傲慢になるそうです。まあそういうことばをそのまま受け取る気もありませんけど、人生経験が足りないのは確かで。なにせまだ二十年も生きてないんですから。幻想郷じゃ五百年生きてても幼女扱いだっていうのに」
束の間、早苗は口を閉じる。自分のことばを自分で反芻しているかのように。
「そんな私が……赤ちゃんを叱るとか……どれだけ傲慢なのかって」
ひんやりした空気のなかで、小傘は手に持った傘をくるくると回す。
「ねえ、早苗」
駆け寄るように早苗に近づき、
「ちょっと顔上げてみて」
と言う。
「はい……?」
「んっ」
「……――!?」
唇が唇に触れる。そうして一瞬で離れる。
「――っ、なに、して――」
「……びっくりした?」
早苗は唇に指先を添える。目線を落とし、小傘を視界から外す。
心臓が重く波打っているのがわかる。このうえなく効果的に働いた完全な不意打ち。
溜息をつく。「……お恥ずかしながら……」
「やった」
「っていうかなにしてんですかいきなり。私の話聴いてました?」
「早苗が驚くんだったら魔理沙とか霊夢とかにも使えるかなあ、この手」
「んなっ」
小傘は笑みを深める。「うそだよ。えへへ、またびっくりしちゃったね」
「……ああ、もう。誰かに見られたらどうするんですか、誰もいないっていったってこんな……往来の真ん中で」
「私ね」
小傘は早苗に抱きつく。腕を背中に回して、そこで巫女服の裾を掴む。
胸元に顔を埋めるようにして、強く抱き締める。
「――ちょ、っと、小傘さん、え……?」
「早苗をどうやって驚かせようか考えるのが好きだよ。それで、そういう考えを行動に移してみるのが好き。早苗が驚かなくても。驚いてくれるとすっごく嬉しいけど。この頃はなんか、そのことで頭がいっぱいになってる。あ、あとあの赤ちゃんのこととで」
「――」
「こうしてると幸せ。生まれてきてよかったって思う。傘のまんまじゃ、こんなことできなかったから。でも」
早苗の巫女服を握る力が強まる。
「生まれてこなければもっとよかった」
周囲の温度が実際に数度下がったように、早苗には感じられた。
「小傘さん……?」
「自分の根っこが誰にも拾われずに置き去りにされた傘だって知ることもなかったから」小傘はそこで頭を反らし、早苗を見上げる。「でもそういうことってあんまり考えないようにしてるよ。どうしてこうなったのか、とか、どうしてこうしてるのか、とか、こうする権利が自分にあるかどうか、とか。こうしてるからこうしてるの」
小傘は笑っている。
「傲慢とか、そういうのってどうでもいいよ。赤ちゃんってそういうの考えないでしょ? たぶん」
小傘はそこでことばを途切れさせ、また、早苗の胸元に顔を隠す。そうしてそっと、早苗の皮膚の裏側に注ぎ込むように言う。
「……あの子はどういうことを考えるのかなあ……」
それがほとんど独り言であり、答えを求めて問いかけたものではないことが、早苗にはわかった。
小傘の持つなにかが早苗の気を滅入らせる。不安にさせる。あの赤子と共通するなにか。
早苗にはそれがなんなのか、なんとなく見当がついている。それが自分の根っこにあるものと、正対するところに位置していることも。
(なんだか、な……)
しばらくそのままの体勢でいた。ひとの気配はしなかった。誰かが出歩くにはあまりにも時間が遅すぎ、暗すぎた。
「ねえ、早苗」
と、小傘が不意に言う。
「あの、さ」
「なんですか?」
「えと」
自分に抱きつく腕の力が、一段階増したように、早苗には思われた。
「……もっかい、キスしてもいいかな……?」
「……あー……」
「……」
「……驚きませんよ、もう」
「だめ?」
「いや、……え? なんでですか?」
「うー……」
「……」
「……」
「……だめって言ったら、やめるんですか……?」
小傘は顔を上げる。背中に回していた腕を離し、早苗の肩に置く。月のない夜でも、早苗にはその頬が赤く染まっているのが見えた。
「……あ、あ、ちょ、ちょっと待ってください」
早苗は手の甲で自分の口許を隠す。
「早苗……?」
「あの、ここに来る前アリスさんと飲んでたばかりで、今私ちょっと、酒臭い――」
「……」
「あー……」小傘から目を逸らす。「……ここだと……誰かに見られるといやなんで……」
小傘は早苗の手を引く。早苗は引き摺られるようにして小傘についていく。人家と人家の間、黒い水のような闇が溜まっている場所に。
(手、ちっちゃい……)
早苗はぼんやりと思う。
小傘は早苗に向き直る。照れ臭がって体を押し付けるようにする。早苗は背中に壁の圧力を感じる。しばらくの間そうしている。小傘の手が早苗の肩にかかる髪を払う。
「目、つむって……」
「えと」
「なんか恥ずかしい……」
「……怖いんですけど、私のほうは……なんにも見えないと」
言いながらも目を閉じる。
「……んっ」
「ひゃ……」
「ぁ……」
「……こ、小傘さん?」
「……ぁむっ」
「っわ、わ、ちょっと待って、耳は……」
「……」
「はぁ……」
「んー」
「ふぁ」
「ちゅ」
「ひゃんっ」
「……」
「……あの……?」
「唇、いい……?」
「……だめって言ったって、するくせに……」
「んー……」
「……んっ」
「――、……、目、閉じててよぅ……」
「えっ、あっ、すみません」
「……」
「……」
「……はぁ」
「――ぁぅっ!? ぅあっ、あっ」
「ちゅっ」
「っ……、どさくさに紛れて、どこ、触ってっ……!」
「……直接触っていい……?」
「……、――っ、……」
「さなえぇ……」
「……、ど、どうぞ」
「……」
「……ぁ、……ぁぁぁぁ、……、あ、待って待って……それはだめぇ……」
糸が引いて落ちた。
いつの間に座り込んでしまったのか、早苗にはわからなかった。
「――ごめん」
小傘が言う。
「謝らないでくださいよ……ほんとになんか、悪いことでもされたのかと思うじゃないですか……」
早苗の息は荒れていた。
立ち上がろうとしてよろめき、まるで下半身に力が入らないので、壁にもたれるようにして無理矢理上体を起こした。
息を整えて、袴についた砂埃を払う。
小傘が落ちていた傘を拾う。
「今日」早苗は俯いたまま言う。「寝る場所がないんだったら……神社に、泊まりませんか……神奈子様も、諏訪子様も、宴会で帰ってこないので」
小傘は早苗を見つめて、首を横に振った。
「……なんか、我慢できなくなりそうだから」
「――っ」
「じゃあね」
小傘は最後に一度、早苗の唇にキスをした。
残り香のせいか、全身が跳ね上がるようになるのを、早苗は感じた。
3
――いつからだろう。自分が空を飛べるということに気がついたのは。
自分が呼吸できる、息を吸い、吐けるという事実を改めて認識することがないように、空を飛ぶという認識も、気づいたときには私の内側にあった。
ただそれを、実際にやってみる勇気はなかった。
手作りの羽で飛び、太陽の熱に焼かれて落ちた若者のお話。
自分がそうなったら嫌だなあとなんとなく思いながら、試す機会もないまま、日常に追われていた。
いくつかの秘術、秘伝、そうしたもののなかに、空を飛ぶという術なんてなかった。
だから自分のこの感覚も、どこに根ざしたものなのか、まるでわからなかった。
神奈子様や諏訪子様に訊くのも畏れ多かった。
幻想郷に来る以前はおふたりもかすかな存在を感じ取れるというだけで、今のような、家族同然の関係ではなかったから。
だから飛ぶことを試す気になったのは、幻想郷に来る直前、高校二年生の冬。
妊娠した友達が転校し、親友だった私が、クラスのなかで孤立し始めた頃。
何年も貼り付けていた笑顔はそれでも剥がれることはなかったけれど、結局は群れていようがいまいが、孤独に代わりはないと気づいた冬。
それはとても晴れた日で、帰り道、教室で誰かが笑っているのを聴いて、少し吹っ切れた。
『おまえらはみんな夢の島だ』というフレーズが頭から離れなかった。
雪を抱いた赤岳を遠くに見ながら、自転車を捨てて、しばらく歩いて。
生まれて初めて飛んだ。
富士山に比べて千メートルも低いものだから、大したことないと思ってた八ヶ岳も、実際に飛んでみるとその大きさがよくわかった。
赤岳のてっぺんを越えるだけで、二時間くらいはかかった気がする。
どこまで行こう、と自分に問いかけて、答えは返ってこなかった。
空が黒ずんでいくのを見ながら、あまりの寒さに思考まで凍りついていった。
凄い風。
じっと空の一点を見つめて、飛び上がり続けた。
頭が痛くなり始めて、瞼の裏がじんじんした。
辺りを見回して不意に気づいた。
黒い青空のなか、とてつもなく大きな太陽と、真っ白な月が、私の視界のなかにあった。
見下ろすとそこに世界があった。
地平線の果てまで広がっていく大地が。
高度何千メートルだったのか、今の私には見当もつかない。
ただ初めて世界って美しいものだと――それが丸っきり言い訳みたいな言語中毒の広告からの知識ではなく、ただ単純に……ほとんど絶望のように思った。
どこまでも飛べる翼があるのなら、たとえそれが太陽の熱に熔けるとわかっていても、どこまでも飛びたいと思うんじゃないだろうか。
なにもかも置き去りにして。
常識も重力も、自分の命さえ置き去りにして、その果てにこんな光景を見られるというのなら、私は――
なすすべなく落ちていく私を受け止めたのは、残された最後の力を使って実体化した、神奈子様と諏訪子様だった。
その夜、おふたりは私に幻想郷のことを切り出し、完全に消滅する前に幻想入りするのだと、話してくれた。
私はこれまで持っていた全てを一度手放して、幻想郷についていく意志を、なんのためらいもなく伝えた。
「早苗。おーい。さーなーえー。神様ー。くそかみさまやろー」
「――!?」
人里まで買い出しに飛ぶ途中、早苗は竹林の上で、ほとんど消え入りそうな声を聴いた。
ふと見下ろすと、その一帯だけ赤黒い焦土になっており、その端、太い竹にもたれかかるようにして、妹紅が座り込んでいるのが見えた。
早苗が降りていくと、妹紅は軽く片手を掲げて見せる。掲げていないほうの手は、真っ赤に染まった脇腹のあたりを強く抑えつけている。
「あー、くそ、助かった。地獄に仏ってこのことだね。いや、捨てる神あれば拾う神ありってやつか」
「え、ちょっと、どうしたんですか! 全身真っ赤で、顔色だけ真っ白じゃないですか! 大丈夫なんですか!?」
「いや正直かなり参ってる。とりあえず煙草ない? あ、吸わないんだっけか。じゃあ針と糸だね。それと飯」
「ありませんよどれもこれも……!」
「あ、ほんとに……参ったな……」
早苗は妹紅に近づく。濃厚な血の匂い。脂肪の爆散した焦げ臭い匂い。
「腹が減って、リザレクションもできやしない。一回につきたぶん二百カロリーくらい使ってると思うんだよな。前にもこんなことがあって、そんときは慧音の握り飯食ったら回復したから」
「輝夜さんと……?」
「あはは。負けちまった。いや勝ったのか? よくわかんないや。あいつは下半身丸々ぶっ飛んで、鈴仙に背負われて帰ってったよ」妹紅の脇腹から染み出る赤色がブラウスの布地を越えて滴る。「私のほうはこれだよ。手を離したら零れちゃいけないもんが零れちまう。血が足りなくて動くこともできずに、どうしたもんかって思ってたとこ」
「傷薬ならありますけど」
「お、いいねえ」
早苗は袖の一部を引き裂き、軟膏を塗った妹紅の傷口に当てる。大きな傷はそれだけだったので、そこで妹紅に肩を貸し、竹林を歩き始める。
時折方向感覚がなくなるなか、妹紅の指差す方角を向けて進みながら、早苗は何度も溜息をつく。
「ほんとに、もう。常識も価値観も、幻想郷に来てから壊れっぱなしですよ」
「そいつは実に素晴らしい話だね」
「霊夢さんにも魔理沙さんにも何度も負けるし……異変じゃ空回り気味だし……この前なんて……同性にキスとか……」
「ああ? なんか言った?」
「なにも言ってません」
「ああそう。ところでなんだこの傷薬。すごい痒い。気持ち悪いくらい治りが早いんだけど」
「信頼と実績の永遠亭製です」
「それなんて劇薬?」
人里は遠い。早苗は人間ひとり背負っては飛べない。すぐ傍から漂う腐臭に、何度も心が折れそうになる。
「置いていってくれても構わないのに」
「もう少しでそうするところです。これからは香水かなんか常備してたらどうですか」
「全部輝夜に吹っ飛ばされちまった。あいつも強いから」
「……どうしてそんなにずっと輝夜さんのことを敵視してるんですか?」
「そりゃおまえ、あいつが私の根っこの部分にいつまでも居座ってるからだよ」
早苗は思わず立ち止まり、妹紅の顔を見る。
「なんだいその表情。自分で訊いといて」
「いえ、その……そういう答えが返ってくるとは思わなかったものですから」
「慧音が言うには、答えを予想しない問いは存在しないんだと。だからあんたのその問いは、丸っきりでたらめだったってことになるけど」
「……自分の根っこに別の誰かがいるって、なんだか不安になりませんか」
「自分の根っこに根ざさない不安ってやつが、そもそも存在しないだろうよ。そっから離れてりゃ、どんな事柄だって他人事にしか感じない。……うわッ、こりゃやばいな、目の前が真っ白だ。頭がぐらぐらしてきた。変なこと口走るかもしれないけど勘弁してくれな」
「じゃあ黙ってたらどうです」
「黙ってると自分が死んでんだか生きてんだかわからなくなるんだ」
早苗は歩き始める。
「私の根っこってやつはなぁ」
妹紅が虚ろに言う。
「怒りとか憎しみとか、なんかそんな感じの感情だよ。未だ黒く滾る憎悪ってやつ、気取った言い方をすれば。輝夜がお父様に恥をかかせて、それで私はあいつを追うためにこうして不老不死になったわけ。だからこの千年が誰のためにあったかって言えば輝夜のためで、私はあいつを何遍でも殺したかった。でもそういう目的っていうのも、千年丸っきり持続できるわけじゃないさ。いろいろあったよ、楽しいことも辛いことも。
そういう経験全部をひっくるめて、私はここまで来てよかったって思うわけよ。貴重で、何事にも代え難い、その果てにあんたみたいなやつにも会えてるわけだし。じゃあそれがどうしてもたらされたかって言うと、そりゃやっぱり私自身の憎悪に根ざすわけ。だから私は憎悪を厭う一方で、感謝さえしてるの。だって私が嫌っちまったら、他の誰にも見向きもされないわけだろ? そういう感情ってさ。そりゃ可哀想な話だ、嘘でも偽りでもないっていうのに。
でもそれって要は、輝夜のやつに感謝するってことだ。わかる? 神を信仰するってことが悪魔の力を信じるってことと、同じようなジレンマ。不老不死として生き続けて、いろんな哀しみや楽しみを経験するってこと自体、輝夜の感じてきたことを理解するっていうのと同じことだよ。だから私は、私自身に対する不安っていうのは少なからずいつも抱いてる。まあそういう感覚自体、慧音に比べりゃまだマシなほうだって思うけどね。乗り越えてるか乗り越えてないかの違いだけで。
でもそう、なんていうかな、そういう思考自体、私のなかにかすかに残ってる常識とか普通とか、そういう一部が考え出したことなんだよ。私の考えじゃないんだ。だから私はそういうのって結局どうでもいいって思うよ。最近はさ、輝夜のことをすごい綺麗なやつだって思えるようになった。憎んでるやつをそう思うのは他の人間からしたらおかしいことだろうけど、それってやっぱり、他の人間の言い分でしかないんだよな。
理解されなくったっていいと思う。それでもやっぱり、こうして話してるだけで満足する。壁に話すより余程いい。歌を唄ったりできるやつはこういう話を歌のなかに篭めるんじゃないかって思うけど、私は音痴だからなあ。代わりに輝夜のやつとやりあってるようなもんだね。だからさ、この幻想郷や慧音がいてくれて良かったって思ってるのと同じように、私は輝夜にいてくれて良かったって思ってる。良き神に感謝、ってやつかな――
――お、あそこだ。あの光の向こう側。悪いね、早苗。ほんと助かった」
早苗が訪ねていくと、女は肩を落としてみせる。
「あの子の里親ですけど、どうも難しいようですよ。探してはいますけど、どうもね……」
「やっぱり、その」
「妖怪かどうかとかはあんまり関係ないですよ。ただ時期が悪いというか。十歳くらいの聞き分けのいい子だったら、っていう老夫婦ならいるんですけどね。こうなったら意地でも探してみせますよ! それまではウチでしっかり育てますから!」
赤子が女の乳を吸い始める。乳房には、数日前よりも明らかに傷痕が増えている。が、最初に早苗が考えていたよりも多くもない。今も、赤子は乳房に爪を立てることはせず、軽く拳を握ったまま添えようともしない。
小傘を傷つけたとき、自分が叱ったことを覚えているのかもしれない、と早苗は思う。内心、そういう考えもばかなことだと思うけれども、ある種の安心感のようなものは、どうしようもなく胸のなかに溢れてくる。
早苗はそっと呟くように言う。「……私が撫でても、いいでしょうか」
「撫でたらいけないという選択肢がどこに?」
女は豪快に笑いながら答える。
「この子は巫女様のことが好きみたいですよ」
早苗の指先がそっと赤子の頬に触れると、女は言う。
「わかるんですか?」
「泣きもしない、笑いもしないけど、そういうことはなんとなく伝わるものです。例えばほら、今この子は目を閉じてますけども、ウチのばか息子とかばか娘とかに触られてると、絶対に眠ったりしないもので」
唇をなぞると、その奥にある牙が見え隠れする。
「……どうしてですか? 私なんか、たまにここに様子を見に来るだけだっていうのに」
「さあて。子供ってやつの考えてることがわかった試しが、私には一度もないもので」
早苗はそのことばに既視感を覚える。
「……九人も子供がいても、そう思うものですか?」
「いるからこそってこともあるんじゃないですかね。四人目くらいから、ああ、あたしゃこの子たちのことをなんにもわかってやれてないな、って思うようになったんですよ」女は笑みを深める。「例えばこの子が、『未来を見通す程度の能力』を持っていて、それで巫女様になんらかの繋がりを見ていたとしても、あたしらにはそのことを理解してやることはできないでしょう? 親子なんて結局、人間と妖怪ほど違いますからね」
「それは」早苗は自分の指先が緊張したのを感じる。「実のところ大して変わりはしない、っていう意味でしょうか」
「ことば通りの意味ですよ。さて」
女は立ち上がる。
「そろそろ仕事が忙しくなる時間ですから、あたしはこれで。巫女様、よろしければこの子を連れて、散歩にでも行ってきたらどうです?」
「私は……」
「いえいえ、巫女様が忙しければ別にいいんですけれども。ただ家のなかに篭もってるよりは、外に連れ出していろんな光景を見せてやったほうが、この子のためにもなるんじゃないかと思いまして。あたしは主人が死んでから、ほとんど休日なんてなくって、ろくに外出もできないものですから……」
早苗は赤子に手を伸ばす。
買い出しにしても、急ぎの用事というわけではないのだ。
「……そうですね。お察しいたします。お忙しいところすみませんでした」
「いやぁ、なに、自業自得みたいな死に方でしたから」
「はい?」
「衰弱死ですよ。ちょいと精力が足りなかったみたいで」
「――え、それって……」
早苗が赤子を抱き上げたとき、女はもう、部屋を出ていた。
赤子を胸に抱き、早苗は目的地もなく歩き続ける。
からりと晴れた雲のない空の下、すっかり雪原と化してしまった畑を横目に、農道を行く。
妖怪の山の麓まで、街のような障害もないため、すっきり見渡せる。
雪にも負けない雑草の生える土道に、自分のローファーはひどく不似合いだと、早苗は思う。
「いい天気ですねー」
赤子を見下ろす。
眼を閉じ、猫の瞳は瞼の裏側に隠れている。爪も翼も布のなかに仕舞われ、そうしていると、丸っきり人間の子供にしか見えない。
どう育つかもわからない、誰も踏み入らない雪原の白より白い、絶望的なくらい純粋な赤ん坊。
世界にはありふれたことなのに、胸元に迎え入れた途端に怖ろしくなる。
「――……」
赤子の顔に指を這わせる。
「……私はあなたを最初に見たとき、不気味だって感じてしまったのに」
早苗はそっと呟く。
「慧音さんのように可愛いだなんて思わなかったのに。小傘さんのように毎日毎日様子を見にいったってわけでもないのに。今こうしていても、怖くなってくるくらいなのに」
冷たい風が吹きつけ、早苗は赤子の肩にかかっている布を頭まで引き上げてやる。
「ねえ、私のことが好きだって本当のこと? だとしたら――」
吐息が白く凍る。
「他人の考えてることがわかった試しが、私には一度もない」
農道が次第に荒れ始める。
踏み固められた土から、歩きにくい起伏が広がる古い道へ。
畑からも逸れ、ただの使われも見向きもされない土地に入り込む。
「それでも、あなたが泣かない理由、私にはわかるような気がします。気がするってだけで、正しいかどうかは知らないですけど。まあどっちでもいいですね。どうせ他人の言い分です」
空があまりにも高く、天界まで見通せそうなように、早苗には思われる。
「私も泣かない子供だったんですよ。『泣いてばかりじゃ立派な風祝にはなれない』って、お母さんに言われたから。風祝になれないってことは、私にとってなにより辛いことだったから。だからどんなときでも泣かないようにしました。『夢の島』を見たときも、友達が転校してった日も。歯を食い縛って、なにも感じないように心まで真っ黒にして、言いたいこと全部お腹のなかに押し込んで。そうしたら」
早苗はそこで笑う。
「『この子は感情に乏しい、頭の回転が鈍い娘だ』って言われました。お母さんに。はは。自分が子供に対してどういうときにどういうことを言ったかなんて、大人はだいたい忘れてるんですよね」
早苗は次のことばを、上を向き、束の間、赤子の顔に布を被せてから言う。
「なに、それ。ふざけんな」
道が終わる。
注連縄の巻かれた大樹が一本、道を遮るようにそびえている。
なんの結界なのか、早苗には見当がつかない。
なんの力も感じない。
「他人の言い分に振り回されなくなるまで、随分かかった気がします。常識とか、言霊とか。『ひとは一人では生きられない』とか、『人間は社会的な動物だ』とか、全部他人の言い分。ひとりで生きられなかった人間の、社会でしか自分を見出せなかった人間の。それがどんなに権威ある人間のことばでも、どんなに格のある良き神のことばでも、それは私のことばじゃないし、あなたのことばでもない」
早苗は大樹の、天に向かって伸びる枝越しに青空を見つめ、宣託のように言う。
「あなたは泣くべきだった」
そのことばに呼応するかのように、遠い山脈から黒い雲が湧き始める。
早苗はその雲がこちらに向かってくるまでそうして立ち尽くしている。
その後に言う。
「親があなたを置き去りにするために産んだとしても、あなたはそうじゃないでしょう。置き去りにされるために産まれたんじゃないでしょう。だったらそう言うべきだった。そう表現するべきだった。泣く以外に自分を表現する方法がないのなら、たとえ誰を敵に回したとしても、泣くべきだった」
雲が急速に広がっていく。
「誰も見やしない壁の裏に落書きするんじゃなく、アリスさんやミスティアさんのように、声を極大にして叫ぶべきだった。妹紅さんのように血を流すべきだった。ここでは誰もがそうしているのだから。それが幻想郷なんだから」
早苗は空を睨む。
「でもあなたの気持ちもわかりますよ。晴れた日には泣けませんよね。私の思い出はいつもハレの日だったから、いつも泣かなかった。だから今日は、私が雨を降らせてあげる。思う存分泣かせてあげる。
それくらいしか、たぶん、私はあなたに好かれるようなことができないから」
――雲が天を覆い尽くす。
「泣いちゃえ」
雨が降り始める。
「さあ」
雨足が強くなっていく。
「いっぱい泣いちゃえ!」
――赤子が泣き出す。
早苗は濡れながら帰路を行く。
赤子が濡れないよう、強く胸に抱き締めて。
冬の雨は冷たい。雪の一歩手前の、氷のような冷気がある。
がちがちと歯が鳴り、全身が震える。
寒いというより、痛い。
参ったな、やりすぎた、と早苗は苦笑する。すると、上空から声がする。
「早苗――!」
自分にかかる雨が止んだのを感じる。一瞬、奇跡でも起きて空が割れたのかと思う、が、見上げると小傘が自分の傘を差しながら降りてくるのが見える。
「おかあさんに訊いたら、早苗は道のどこかにいるって言われたから……」
「道のどこかって」
早苗は思わず笑ってしまう。
「適当すぎるじゃないですか。それでよく私を見つけてくれましたね」
「驚いた?」
「奇跡ですね」早苗は小傘に自分の体を押し付ける。「ものすごく助かりました。ありがとう」
赤子を女の家に返すと、風呂に入っていけと言う女のことばを振り切って、早苗は家路につく。
小傘はそんな早苗を追いかけ、自分の傘の下に入れる。
早苗は横目で小傘を見つめ、数秒躊躇ってから、柄に添えられた小傘の手を握る。
「ぁ……」
「……」
「つ、冷たい」
「……離したほうがいいですか?」
「んーん」小傘は首を振る。「このままがいい」
雪との境界線上で降り続ける雨が全ての温度を奪うなか、繋いだ手のひらだけが温かい。
しばらくそうして歩いているふたりの肩、互いと反対側にある半身だけに水滴が落ちていく。
が、それもやがて、ふたりが腕と腕を押し付けるように、絡ませるように距離を縮めるまでのことだった。
「――聖は」と、小傘は言う。「命蓮寺のみんなを一度置き去りにして、そのあとでまた帰ってきた。そういうことってどれだけあるの? 期待しててもいいことなの?」
早苗はなにも言わない。
雨足が段々弱くなっていく。
水溜りに広がる波紋の量が少なくなっていき、次第に、鏡のように天を映すようになる。
映り込む黒々とした雲がその色を落としていき、その断層から青色を覗かせる。
早苗は足元の水溜りを見つめる。見事な虹が青空に浮かんでいるのがわかる。
けれども早苗はそれを直接見ようとはせず、晴れてもまだ差され続ける傘の下で、小傘の手を握り続けていた。
人里の外れの分かれ道。小傘はそこでようやく傘を閉じる。空はもう、今朝と同じように雲ひとつない快晴に戻っている。
右に行くと命蓮寺。左に行くと妖怪の山。
早苗は買い物袋を軽く持ち上げて言う。
「どうもありがとうございました」
「帰るの?」
「ええ」
「命蓮寺のほうが近いよ? びしょ濡れじゃない、早苗。聖に服貸してもらったら?」
「飛んでれば乾きますよ、こんなのは」
早苗は小傘の肘の辺りに触れ、彼女の顔を見下ろす。
破り難い沈黙がふたりの周囲に、奇妙な間を持って行き来する。
早苗の唇がなにかの音を紡ぎだそうとしているかのようにわななく。が、それも束の間のことで、小傘は気づかない。
早苗の手が小傘の体をさするように動く。肘から肩へ。小傘は目を細める。けれども早苗のそんな動きもそれ以上先へ進むことはない。
「……じゃあ、私はこれで」
と、早苗は言う。
「うん。また今度」
と、小傘は言う。
早苗は自分の手を引き剥がすように戻し、小傘に背を向けて歩き出す。
五歩目から歩調がテンポを落とす。
十歩目で完全に止まる。
自分の息遣いだけが耳の奥で響いている。
動けもしなくなるほど疲れ切っている一方で、暴発寸前まで捻じりこまれた一部が振動を始める。
「――っ」早苗はわずかに呻く。
その瞬間、早苗の体は早苗の意思を完全に裏切る。
振り返った拍子に買い物袋がどさりと落ちる。
早苗が気づいたときには、早苗の体はぎこちない大股で未だ自分を見送る場所にいた小傘のもとに向かい、呆然とする彼女の肩を掴んでいた。
「さな――」
小傘が早苗の名を口にする前にキスが落ちていた。
ほとんど真上から捻じ伏せるように舌が入り込む。
閉じた歯列をなぞる。
「ふぁっ」
甘ったるい声とともに開いたわずかな隙間からさらに奥へと侵入する。
舌が舌を捉え、表側も裏側も満遍なくなぞられ、その上から溜め込まれた唾液が注ぎ込まれる。
「ん、く……ふっ、っく、あ」
飲み込めずに唇の端から零れ落ちる。
早苗は一度唇を離し、小傘の唇から落ちていく唾液を舐め上げ、また小傘の口内に押し込んだ。
「ぁ、ン……んく、んく、っう、っはぁ……」
早苗は改めて小傘の顔を見下ろす。
突然息を塞がれ、涙ぐんだ眼の色を覗き込む。
左右の色が違っても、もう、不可解さも不気味さも感じない。
「置き去りにされたくなかったら」
早苗の声には夢遊病者のひたむきさがある。
「手を離さなければいい。あなたはもうただの傘じゃないんですから。赤ちゃんでもない。きちんとひとの形をした付喪神じゃないですか。なんだってできる。なんだって表現できる。泣くことも暴れることも」
早苗は小傘から身を離す。
小傘のほうを向いたまま二歩下がる。
「私の根っこの部分はなにもかも置き去りにした女ですよ。あの子の両親と同じ。なにかを手放すときになんの躊躇いも感じない人間です。そうやって幻想郷まで来た。これからもそれは変わらないし、変わる気もない。その先に見た光景を知ってるから」
手のひらを上に向けて、小傘に差し出す。
「だから」早苗の声には冷酷ささえ混じっている。「それで私を敵に回したとしても、置き去りにされたくなかったら」
内心に荒れ狂う愛おしさにかかわらず、早苗は突き放すように言う。
「早苗――」
小傘は差し出された早苗の手を見つめる。
もとより選択肢などひとつしかない。
それがわかっていた。わかる前からわかっていた。
小傘はなんの躊躇いもなく早苗の手を取った。
取った瞬間に颶風が吹く。歓喜に咆えるように。
早苗はその颶風に乗った。まとわりつくもの全てを振り払う速度で飛んだ。
小傘の傘があらぬ方向へ舞い飛んでいくのが目の端に見え、けれども小傘は、その手を離そうとはしなかった。
「――!!」
なにごとか叫んだ小傘の声さえ、ふたりの遥か後方に置き去りにされた。
ほとんど風に弄ばれるふたつの塵屑のようになりながら、早苗は守矢神社に帰宅する。
帰宅というよりは強行突入のような勢いではあったが、開けっ放しになっていた障子や扉に、被害はなかった。
畳に二度バウンドして、居間の真ん中に着地する。
二柱はやはり、留守のようだった。
早苗は小傘の頭の横に手をつき、押し倒したような形で、小傘を見下ろす。
未体験の速度に小傘は放心していた。普通であれば射命丸文や霧雨魔理沙以外には到達し得ないスピードであったため、それも仕方のない話だったが。
涙ぐんで頬を真っ赤に染め、短い呼吸を何度も繰り返している。
けれども早苗自身も、表情だけを見れば、小傘と同じような状況だった。
「――さな、え」
「小傘さん」
早苗は小傘の頬に手を添える。
「この前と立場が逆になっちゃいましたね。キスしていいですか?」
小傘は焦点の合わない眼で、それでも曖昧に微笑んで答える。
「……だめって言ったって、はぁ……するくせに……」
「だめって言ったらやめますよ、私は」
「やめちゃだめ……」
早苗が耳にかかる髪をかきあげ、唇を落とそうとすると、
「あ」
そこで小傘が我に返ったように声を上げる。
「あ、あ、ちょっと待って、早苗」
「やです」
「え、ぁ――」
舌が、なんの遠慮もなしに口内で暴れる。
縋りつくように伸ばされた小傘の手を握り、畳に押し付ける。
足を絡めて動かなくさせ、全身を密着させるように組み伏せる。
開けっ放しの戸から、冬の寒気が風とともに部屋に入り込み、体の下にある熱さとのギャップに背筋がぞくぞくする。
小傘の力がどんどん抜け落ちていくのを、早苗は全身で感じる。
最初は早苗の体を押し退けようと動いていた腕が、いつの間にか早苗の手を握り返すように絡められ、やがて、それさえもできずに時折びくりと震えるだけになる。
「ぁ、む……ちゅう、は、ぁ、アん、んンんんぐ、ふぁ、ふぁあぁアアあああ、さな……え、待っ……あぁぁあ、んく、んく、ん、ン……」
小傘は時折、耐え切れないとでも言う風に頭を横に振る。
その度に舌の楔が外れ、また喉の奥まで小傘を追わざるを得なくなる。
(……なんか、もどかしい)
早苗の手が小傘の手から外れ、小傘の頭に添えられる。
「――ぁ、え……?」
ちょうど耳を塞ぐような形で、早苗の手のひらが小傘を固定する。
「ぁ、むぐ、ン……」
小傘の抵抗の動きが完全に抜け落ちる。
早苗は自分の気の済むまで舌を絡め続ける。
数度、自分の体の下で、小傘の身がびくびくと動くのを感じる。
一度早苗が顔を離しても、小傘は首まで真っ赤に染めたまましばらく動こうとしなかった。
「小傘さん」
早苗の手が頬を打ち、ぺちりと情けない音を出して、小傘はようやく気づいた。
「ふぁ」
「大丈夫ですか? なんか溶けちゃってますよ?」
「ぁぅ……な、なんか、はぁ……耳のなかですごい響いて……」
「キスしただけじゃないですか」
「うー……」
頭を振った拍子に、目の端から零れでた涙に、早苗は唇を押し付け、吸う。
「ひゃあ……」
辛い。
「ところで」
上体を起こす。小傘の腹にまたがり、先程の密着した姿勢よりも遥か遠くから見下ろす形。
「さっき『待って』って言ったとき、なにを言うつもりだったんですか?」
「……好き、って言ってない」
小傘は頬を膨らませる。
「なんか、流されてる感じがして、やだ」
それを言うなら、と早苗は思う。
「……私この前キスされたとき、ものすごい勢いで流されましたけど」
「だから私にも流されろって言うの?」
「そこはほら、ことばにせずともわかるものがあるということで」
「やだ。それって早苗の言い分でしょ。私は言いたいし、言って欲しい」
「……すごくいまさらって感じが」
「やーだーよー!」
早苗の下で小傘が暴れだす。
駄々をこねるように手足を動かし、その拍子に足の先が炬燵にあたり、二柱のどちらかが飲みかけていた焼酎を倒した。
とっ、とっ、と軽い水音を立てて零れる瓶の口を掴み、早苗は、
「……あ――、……、もう……っ!」
一気に煽った。
強いアルコールが一気に回るのを感じる。
いつもよりがつんとくる。
赤子を抱いて雨を降らせたそのときから、極度の緊張状態にあるせいだ。
しばらくそうやって飲んでいて、だめだと思ってもそのまま限界まで口に含んだ。
酒は苦手だ、と心底思う。が、上下前後左右東西南北全面的にごちゃ混ぜにする必要があるときには、これほど心強い味方もない。
例えば今のようなときとか。
「やーだ……んっ!?」
小傘の口に口から流し込む。
ちゃんと飲み込めるかどうかは度外視して、心の赴くまま、どろどろのぐちゃぐちゃになるまで掻き回す。
泡立ち、音を立て、気管が塞がりキスされたまま激しく噎せる。
唾液とアルコールの混じったわけのわからないものが垂れ零れ落ち顔の柔らかな線を伝って耳の穴まで伝っていく。
抵抗はすぐになくなった。
意識的にか無意識的にか、早苗は腕を回されていた。
「あー……ぅぁあ……」
早苗は垂れ落ちた滴を伝って顔中を舐める。
唇の周りから始まり、耳の穴まで追いかけていく。
「ひあ……ひゃ、ひゃ、ひゃ……」
慣れないアルコールのせいで頭がぐらぐらする。
自分の胸元に手をかけて、巫女服の前を開いた。
小傘の胸元に手のひらをそっと置く。
心臓が爆発するんじゃないかというくらい、激しく波打っているのが伝わった。
そのままの姿勢でいるだけで、心臓はなおも鼓動の強さを増していく。
「……頭……おかしくなりそう……」
解いて、開いて、破り去って、小傘の胸を剥き出しにする。
「あ……さ、さなえ、」
冷たい外気に触れ、服の内側に篭もっていた熱気が白く昇っていく。
「やあ、だめ、だめえ……」
早苗はその湯気のなかに入り込み、つんと立ち上がった桃色の先端を口に含んだ。
「やっ」
小傘の背筋が反り返り、覆い被さる早苗の体を浮かした。
「……そんな吸っても、私は、お乳でないよう……」
「んむ……はっ」早苗は顔を上げ、小傘を見上げる。「……その辺はほら、なんか奇跡的なもので」
「ぅぇっ!? 出るの? 出ちゃうの!?」
「なんかそんな感じの奇跡があったような……白い井戸水を飲んで乳が出やすくなるとか、そういう……」
「むり! 無理だって!」
早苗はまた乳房を口に含んだ。
「はぁう……」
口内で転がし、舐め上げ、軽く噛む。
「ぃ……ぁアあ……」
指先を這わせてもう片方の乳首を摘まみ、扱き、潰して引っ張る。
「ひャう! ぁ、ア、痛っ……ぅぁ、しびれる、だめ、それだめぇ、ひああア、わ、わ、わ」
空いた手で小傘の腰に手を回し、持ち上がり撥ね退けようとする反射的な抵抗を畳に縛り付ける。
「ゥア、ああああ、!、だめ、ひっ! やら、強い、さなえ、もっと優しくして、ア! ふぁあ、あ、ひゃん! いあア、やらあ、ほんとになんか、でるよう、でちゃいそう……!」
――そのまま、激しく追い込んだ。
「さな、さなえ、さなえええ、うああ! も、わたし、だめ、だめ、だめ、あ――!」
声が際限なく高まり、ひとの耳では捉えきれない領域まで引き上げられ、落ちた。
早苗は立ち上がる。
「……」
息が荒くなり、それだけが自分の鼓膜を震わせていく。
放心したように立ち尽くし、小傘を見下ろす。
糸の切れた人形のように手足を投げ出し、見える素肌は全部桜色に染まっている。
左右で違う色の眼はなにも映しておらず、穴のような暗い光だけが残っている。
口は半開きになっていた。
「……なにか、飲み物……」
早苗は小傘に背を向け、キッチンのほうに歩き出す。
焼酎を飲んだばかりなのに、喉がからからに渇いていた。
一歩足を踏み出した瞬間、足首を掴まれる。
「――っ!」
体勢を崩し、うつ伏せに倒れる。
その上から小傘が覆い被さる。
「ぅあ……」
それだけの動きで早苗は、自分のなかでなにかが引き摺りだされるのを感じた。
限界すれすれまで引っ張り上げられ、まだ発散されないまま、全身に残っている。
「置き去りにしないで……!」
ほとんど叫びだしそうな、泣き出しそうな声で、小傘が早苗の耳元で言う。
「わたし、わたし」
小傘がうわごとのように言う。
「さなえ、すき」
「――っ……!」
発育不全のことばでも、耳の奥から脳髄まで響いた。
下腹部が大きく波打ち、肺から心臓までもがつられて痙攣した。
「すき――」
腕に勝手に力が入って、畳に爪を立てるように指先が震えた。
手の甲に手のひらを添えられ、指を絡められた。
変則的で一方的な恋人繋ぎ。
強く握られると力が抜けた。
畳に胸が押し付けられて潰れ、形が歪み、そこからさえ逃れようのない官能が弾けた。
空いたほうの手で腰を探られる。
「ぁ……」
犯される、と早苗は思った。けれどその確信は、決して厭になるような類の感覚ではなかった。
「すき……」
小傘の身体が深く食い込んでくる。
杭のように圧し掛かり、撥ね退けることもできない。
「はぁぁぅ……」
自分の体の動きが、水底にいるように鈍い。
獣に組み伏せられているような恐怖があり、いるべき場所にいるような安心感がある。
その矛盾が頭をおかしく掻き回す。
「離してください……」
ことばも形だけのものだ。
「やめて……」
意味も言霊も篭められないただのうわごと。
袴の合間を縫い、裾を持ち上げるようにして、小傘の指が下着の内側に達する。
「ぁ」
挿入はひどく静かだった。
自分のそこがどうしようもないほど濡れきっていることに、そこで初めて気がついた。
タオルを下に敷いとくべきだった、と思い、けれどそんな余裕なんてどこにもなかったことにも一瞬遅れて気がつく。
抵抗はもう、できるはずもなかった。
体中の意思を掻き集めても、ただもう小傘の指を受け入れる以外に、湧き出てくる力はないのだった。
「ぁ……ふぁああああ……」
快楽というよりは安堵感。
小傘の唇が後ろから耳を食む。
「あ、耳、耳はやめてください……」
腹がぞくぞくする。
静かに、労わるように、小傘の指が抜き差しされる。
「ぁ……ァ、こがささん、」
ひだが引っ張られて押し開かれる。
じゅくじゅくと音が響き、袴の布地を越えて畳みに染み入る。
足の間に小傘の足があるので、閉じることもできない。
「こが、ささ」
早苗の位置からは小傘が見えない。ただ畳の目だけが視界に入っている。
それさえ水浸しになって全然見えない。
小傘はもう目を閉じ、自分がされているかのように、早苗に入り込む自分の指の感触だけを味わっている。
(なんか、悔しいな……)
ろくに動くこともできずに翻弄されながら、思考のへりで思う。
(一度は退治した妖怪相手に、こんな……小傘さん、相手に……全然逆らえないや……)
それもまた結局は、飽和状態まで暴走していく快楽に飲み込まれる。
「あ、ァ……っ、ふぁ、」
「早苗」
と、小傘が耳元で囁く。
「きもちいい?」
「……ぁ、はい……」
「よかった。……すきだよ、さなえ」
「はい……」
「私、もう、置き去りになんてされないから」
「……ふふ」早苗は微笑する。「どうでしょうか、ね……みんな好き放題やってる幻想郷なんだから、ぁ……私だって、好き放題させてもらいますよ」
「そのときは、弾幕」
「妖怪退治楽しいです」
「そう簡単には落ちないもんね」
ひときわ強く、小傘の指先が早苗の内側をかきむしった。
「ァ、あああ――」
指の上下運動が激しくなる。
「あ、あ、うあ、あ、い……あ、あああ」
暴力的な愛おしさがある。
「こがささ、ン! ――ゥあ、ああ、あ、ア、ア、ア――!」
雨に濡れるような爽快感さえ入り混じるなかで、小傘の手のひらの温かみが手の甲で這い、縛り付けるように全身を小傘に拘束されたまま、早苗は達した。
4
私は子供が欲しい。
男の子でも女の子でも構わない。
それが私から産まれ出たものでなくったっていい。
ひとつの理想がある。
私の見てきた光景を――黒い青空も、そこに浮かぶ白い月と巨大な太陽も、幻想の天に咲く色鮮やかな弾幕の花も、そこで舞う少女たちの笑顔も、みんな――ありったけの美しいものを見せてやりたい。
一緒に酒を飲み交わして、一緒に二日酔いで倒れたい。
一緒に弾幕のなかに飛び込みたい。ときには敵対して本気でやり合うのも素敵だ。
生まれてこなければよかったなんてふざけたことは絶対に言わせない。
言いたくもないような人生を送らせる。
たとえ互いに考えてることがわからなくても、それを自然に尊重できるような、そんな関係でありたい。
親子なんて常識的な関係から解き放たれて、どこまでも対等であり続けたい。
「小傘さん」
と、私は隣に横たわる彼女に言う。
「あの赤ちゃん、一緒に育てませんか」
小傘さんはぱっと顔を上げて、そのことばの意味を考えるように私を見つめる。
左右で色の違う目の、片方は過去を、片方は未来を見つめている。
「風祝にするの?」
「それもいいですね」
「あの子、半妖だよ?」
「素敵じゃないですか。幻想郷的で」
「……えへへ!」
抱きついてきて、猫のように額を擦りつけてくる小傘さんの頭を、そっと撫でる。
外には夕立がきていた。
激しく世界を叩き続ける雨の向こう側に、あの赤ちゃんの泣き声が聴こえた気がした。
早苗、小傘もよかったけど、他の登場人物の雰囲気も素晴らしかったです。
このアリスいいなぁー。
どんだけ重いんですかww
しっかし、こんな文章をよくもまぁ三日で作られるものでパルパルパルパル(ry
実にすばらしい作品でした。後味がすっきりしていて、でもほんのちょっとだけ苦い。本当に素敵。
これほど自分の中で早苗さんらしいと思える早苗さんは初めてだ…
素敵なこがさなでした。
キャラがみんな豪快で粋な姐御たち揃いで感動した。
ネチョを超えて心に来る物がありました
これガチで三日で書いたんか?と思いたくなるぐらいでした。
三日?mjk
情景が目に浮かんでくるようだ。
3日でコレとかすげぇw
小傘と早苗の二人の描写がとても細やかだし可愛いしもう素晴らしすぎる!
なんとお速いことで
貴方の書くSSが好きです。
ネチョに至るまでの心理描写が細やかで
感情移入しやすいですねぇ。
今後も楽しみにさせていただきます。
面白すぎた。
ちょ、どこのサーカスwwアリスの新人形はどれだけデカいのかとww
何故戦いのアートに誰も突っ込んでいないんだ?
早苗さんが早苗さんらしくて良かったです。
大体あってる
>衰弱死ですよ。ちょいと精力が足りなかったみたいで
イイハナシダトオモッタノニナー
まず最初に読んだのがこの話だったことに感謝感激雨霰
読んで良かった。面白かったです。