※注意
藍×紫 あるいは紫×藍
ネチョまで遥かに遠い苦難の道のり。作中時間で一年。
いわゆる『夜伽らしいSS』ではありません。
過去話です。そのため多量の捏造・嘘設定・公式との矛盾、誰てめえを含みます。
暴力表現があります。
読み方によっては不快になる可能性のある表現があります。
注意事項過多のためスルーをおすすめします。
申し訳ないです。
※注意終了
○「玉藻御前」
九尾狐。
妲己、華陽夫人、褒姒。
中国、天竺、日本を渡った後、殺生石と化す。
○「八雲紫」
境界を操る。
詳細不明。
――石のなかで、己を殺した者の声を聴いていた気がする。境界に潜み住む者の腕に触れていたように思う。ひどく長い間戦い続けていた彼女のことは、そうであるがために、身近に感じられる唯一の存在になっていたというのは、もはや皮肉にすらならなかった。
HATING
九尾は目覚める。瞼の裏で闇が震える。薄く走った光の線の向こう側に、見慣れぬ木目の天井と、何者かの影が映りこんでいる。
全身に鉛を流し込んだような重く鈍い痛みがある。喉を落とすように唸ると、影が一瞬だけびくりと動き、どこかで聴いたような声が届いてくる。
「目が覚めた?」
視界の端に八雲紫の顔が入り込んでくる。
九尾はその顔に敵意が浮かんでいないことにひどい違和感を覚える。敵である者の初めて見る表情。そこでようやく九尾は自分の置かれた状況に気がつく。
「――死ななかったのか、私は?」
「死んでいてもおかしくはなかった」
九尾は今すぐ爪を立てて紫の喉を切り裂こうと思う。思ってすぐそれが叶わないことに気がつく。全身が熱く、まるで動けやしない。結界や封印ではなく、肉体が回復するための単純な経緯で。
自分が自分の意志に関係なく命を救われたことを知る。
「なぜ助けた」
「なんででしょうね」
「ここは?」
「私の家……住人は私だけよ」
答える紫の顔は空洞のように虚ろで捉えどころがない。それだけは九尾の知る紫の姿と一致している。そうであるがために九尾には紫の目的がまるで予測できない。
「なにかの術式にでも使うつもりか? もしそのつもりならやめておいたほうがいい。禁忌に禁忌を重ねた私の体は、もう純粋な触媒にはなりえない」
「そうね。全てを剥がすには苦労したわ」
「全て?」
九尾は己の尻尾のひとつをかすかに動かす。それだけで発動するよう仕込んでおいた呪が始動すらしない。
「――底知れない女だな」
既にわかっていたことを溜息とともに吐き出す。
「別にどうこうしようと思って連れてきたわけじゃない」紫は言う。「ただあのままで放置しておくには危険すぎたし、それに……単純な気紛れでもある」
九尾にはその言葉が嘘か真か区別する術を持たない。そのことは以前とまるで変わらない。敵意を以って幾度となく接触した過去と。
「どうせ完治するまではろくに動けやしないのだから、それまでは諦めることね。それから先は知らない。勝手にしたらいい」
「おまえと敵対するぞ。またそのときには」
紫の返答がわずかに遅れる。
「――そう、それもいいかもね」
九尾は紫から顔を背け、目を閉じる。背後の襖が開き、紫が出て行った気配がする。
彼女がどういうつもりか九尾にはわからない。推測する余裕もない。目を閉じ、自分の体の痛みを感じると、それだけで意識が落ちていく。
部屋を照らしていた火が消える。
気がつくと日が変わっている。障子の向こう側から白い朝陽が差し込んでおり、その眩しさで目が覚める。襖が開き、紫が敷居を跨ぐ。その手には朝餉を乗せた盆を持っている。
「おはよう、九尾」
九尾は答えない。
「朝餉は置いていくわ。無理に食べろとは言わない。夜にまた取りに来るから」
紫は出て行く。
九尾はおもむろに上半身を起こし、紫の置いていった盆を見つめる。白米、味噌汁、漬物、焼き魚。内容そのものには何の変哲もない。なんらかの細工が施してあっても九尾には判別もつかない。
味噌汁に手を伸ばす。
「……まずい」
だしが出ていない。味付けが大雑把過ぎる。一度沸騰してしまったのか、煮詰められて辛くなってしまっている。
だが少なくとも、冷めてはいない。例えば誰かとともに食事を取って、そのあとに持ってきたものではない。
ひとりで暮らしているという言葉だけは信じてもいいのかと思う。
次に目覚めたとき、もう陽は沈んでおり、部屋は塗り篭められたように黒く染まっている。一瞬、なぜ目覚めたのかわからなかったが、すぐに油の匂いが漂い、赤黒い照明が灯る。紫がすぐ後ろに座っている。
「包帯を替えるわ」
九尾は逆らわずに体を起こす。
ゆるゆると自分の体の線をなぞる指先を見て、これがついこの間までひどく暴虐的な力とともにこちらに向かってきたのだ、と思ってみる。夥しい数の結界。弄り回される数多の境界。けれどもそんなことを考えても、今ここにある彼女に対して、なんの感慨を抱くこともできない。
それが不思議と言えば不思議だった。
包帯、というよりは体の構成を保つための呪符を練りながら、布団のすぐ横で軽く目を伏せる紫に、九尾はかすかな溜息をついてみせる。
それをどう受け取ったにせよ、紫はまるで気づかなかったかのように微動だにしない。
「……常はなにをしているんだ、おまえは?」
沈黙に退屈して、九尾は特に意を介せずに言う。
「勿論、ひとをたぶらかしているのよ。古今東西の妖怪と同じ。それ以外になにが?」
「おまえからはひとの匂いがしない」
紫の指先が一瞬だけ止まる。
「いや、その表現は正確ではないな。元がひとであった妖怪なのかどうかは知らんが、かすかに匂いはする。だがそれは腐臭ではない。ひとを食うにしても、少なくともここ数十年は食してないだろう」
紫の指が動き始める。それと同時に、いくつかの受け答えを計算していることも、九尾にはわかる。無駄なことを、と思う。真実を言うにしろ、適当に受け流すにしろ、自分には興味のない事柄であるのに。
「――世界をひとつ、つくろうと思ってるの」
九尾はその言葉に自分で考えていた以上の反応を示してしまう。
「世界?」
「そんなに大したものじゃない。小さな、箱庭のような……せいぜい郷のようなもの。漠然としすぎていて、私自身、どのようなものになるか想像もつかないけれど」
「なんだ……それは?」
「なんなんでしょうね」
紫は中途で説明を諦めたように力を抜く。包帯を替え終え、立ち上がる。九尾は彼女の動きを目だけで追い、だがすぐに興味を失って布団に横たわる。
「夕餉は食べれる?」
「……いや」
「そう」
紫は出て行く。火が消え、九尾の意識も落ちる。
夏が来る。
痛みなく立ち上がり、歩き回れる程に九尾は回復する。与えられた寝巻のまま部屋の襖を開ける。朝陽の差し込む部屋の明るさに反し、廊下は薄暗く、先まで見通せない。
敷居を跨ぐ。襖を閉めると、夜のような闇はますます深まる。おもむろに歩き始めると、予想以上に八雲邸が広いことにすぐに気がつく。
角を曲がった先で、何か小動物めいた物音が聞こえる。
開け放たれた部屋、天窓からかすかに差し込む光を頼りに、いくつもの箱や籠に埋もれて、二本の角のある少女が慌しく動いている。
(小鬼か)
暮らしていくのに必要な物資が集められた、蔵の役割を持つ部屋のようだった。
小鬼は運搬役であるらしく、整理を終えると、立てかけてあった背負子を担ぎ、九尾に気づくことなく反対側の扉を開けて出て行く。
その部屋と全く同じ役割の部屋は、廊下を歩いていると、いくつも見ることができた。が、紫が生活しているであろう部屋は見つからない。居間も、書斎も、応接間でさえ。寝室はあったが、布団が隅に畳まれているだけで、生活感はなかった。
家の間取りはひどくおかしかった。幾度も曲がり、進みはすれど、暗さがまるで変わらない。廊下は頻繁に途切れ、入り口ばかりでなにもない部屋を跨がなければ戻れない。次第に距離感の見当が掴めなくなってようやく、見覚えのあるところに出る。
迷路のような廊下を伝い、幾度か同じ場所を巡り巡ったあと、唐突に玄関に出る。古い下駄を突っかけて扉を開けると、門までの長い距離の間、石畳の上に家の主が所在なさげに立っている。
自分の屋敷にかかわらず、そんな場所でそんな格好でいる紫に、九尾はどこか不快感に似た思いを抱く。
「紫」
呼びかけると、そこで紫は初めて気がついたように九尾をほうを向き、すぐに視線を落とす。
「あの小鬼はおまえの式か?」
九尾は近寄りながら言葉を継ぐ。
紫は首を振る。「彼女は厚意で運搬をやってくれているだけ。本来なら私に関わる必要はない娘よ」
「……本当にひとりで住んでいるんだな、ここに」
「最初にそう言ったはず」
紫は九尾を見ず、足元の花を見ている。虚ろな表情からはなにも窺えない。感情らしい感情は。
「なぜ式を打たない。そのほうが便利だろうに」
「自意識のない人形といても仕方がないわ」紫はそこで初めて微笑めいたものを唇に浮かべる。「意識のあるように振る舞わせることはできる。生き生きと……心のあるように。けれどもそれは、式を打った時点で、もう」
「忠実な下僕では不満なのか?」
「わかるでしょう?」
九尾はわずかに目を細める。心の端で不快になった一部がざわめく。紫の質問には迷いがない。九尾がその答えを出せないなどとは微塵も考えていない。
「家族ですら対等な関係ではいられない。上と下。本当に満足しているのは誰?」紫は既に経験したことのように言う。「主と式。あるいは従者。望んでそうなったのならまだいい。でもそれがひとりの者の都合で決定付けられたものなら、それは」
「私に式を打ってみるか?」
紫はそこで初めて九尾を見る。唐突な問いに驚いたように。九尾は紫にそんな反応を呼び起こしたことで、少しだけ満足する。
「――」
紫はその言葉がただの冗談であることに気がつくと、また足元に視線を外し、俯く。そうした考えを一瞬でも持ってしまったことを後悔しているように。
「あなたは」
紫は首を振る。そうして話題を変える。
「出て行かないの?」
九尾は腕を組む。
「ここは確かに外の世界とかけ離れた場所ではある。それこそ並大抵の人妖には気づかれもしない程度には。けれどもあなたほどの妖獣であれば、それも」
「私を逃がすと後悔するぞ」
「え?」
眼を細め、じっと紫を見つめる。
「今はこうしていても、またいずれ、おまえと私は敵対することになるかも知れない。かつてのようにな。あのときやはり助けなければ良かったと、悔いるときがくるかもしれない」
紫は九尾の視線に耐え切れないでいるかのように、かすかに指先に力を篭める。
「おまえが賢明さを取り戻したとき、私がここにいなければ、私に手をかけることもできないだろう。おまえにはその権利がある。一度殺され、助けられた私には、おまえに生殺与奪を預ける義務がある」
「義理堅いのね、意外と」
九尾は首を振る。
「あんなのはもう二度とごめんなだけだ。おまえに殺されて、もう一度別の誰かに殺される。そんなエネルギーは私にはもう残っていない」
「……っ」
「私をやるときには後ろからわからぬよう手をかけてほしい。望みはそれだけだ。私自身、そんなことを頼めるのはおまえ以外にはいないから」
紫は疲れたように顔を背ける。
「……ここにいる限り、私はあなたに手をかけたりしない。過程はどうあれ、あなたは客人としてこの家にいるのよ? 客人をそんな目に遭わせたとあっては、八雲の大妖として名折れだわ」
「そうか」九尾は俯き、すぐに顔を上げる。「だが、九尾の妖獣は主人役にさえ牙を向けるかもしれない。そうしたとき、この家にいないとおまえを殺すには不便だ。だから私は出て行かない、そう考えたことはないのか?」
紫は苦しげに呻く。「そのときは……そのときよ」
「気をつけるんだな。金毛九尾が恩を仇で返すことのない立派な妖獣かどうか、私にさえ保障できないのだから」
季節は過ぎる。夏が深まり、収まる暑さに秋の匂いが宿り始める。九尾も紫も、目立つ衝突はなく過ごしてはいる。時折、二三の単語が絡まりあい、会話のようなものに発展することもある。けれどもそれも、互いの言葉に縛られ、突き放されるような不毛なものに終わるのが常で、結局のところ、ふたりの間には以前とまるで変わらない距離しか存在しない。
与えられた寝室で過ごす九尾が、紫以外の気配を感じ取ったのは、そんな折だった。
見過ごすには巨大すぎる。紫や自分に匹敵するほどの力はある。そのうえ、どこかで感じた記憶のある気配だった。世界を相手にしていた頃に。
「鬼か……?」
その呟きが聴こえたかのように、霧散していた気配が一箇所に集い始める。
廊下を回り、玄関に行く。扉を開けると、先日紫がいた場所に、別の人影が突っ立っている。
その長い髪と角には見覚えがある。あの凄絶な死闘のさなか、最後の最後まで紫の隣に立っていた鬼ではなかったか。紙一重で降しはしたが、はっきり言って、あの戦いのなかでは誰がどこに落ちていてもおかしくはなかった。
伊吹萃香は九尾を認めると、軽く手を掲げて敵意のないことを示してみせる。
「ああ、あのときの九尾かい。随分と良くなったじゃないか。私が最後に見たときには、ずたずたの石っころだったけど」
「八雲紫はいない。真夜中までは帰らん。ここにいても仕方がないぞ」
「ん……それはまあ、わかってんだけどね」
萃香は溜息とともに言う。九尾にはそれで意思が伝わる。
「……用があるのは、私か」
「ん」
「そうか」
予測していなかったことではない。もともと自分のような存在がここにこうしているだけでも違和感があった。紫以外の人妖が、あのとき敵に回った全世界が自分のことをどう思うか。それがわからないほど想像力に欠けているわけでもない。
「別に……いまさらもう、再びあんなことをしようとは思っていない」それでも、九尾はそう言わざるを得ない。「どうでもよくなってしまった。あの女に落とされたときに、私の物語は終わっているんだよ」
「大人しくなったものだね。去勢でもしたかい?」
「敵対するものに殺されて終わる。ひとつの話の区切りとしてはそれで充分だろう」
そこで会話が途切れる。
互いに、胸中には様々な思いが渦巻いている。言葉にできない、あのとき発散されることのなかった敵意や憎悪のなれの果てが。状況を全く無視して、それを蒸し返そうとするふたりではなかったが、それでもそれらを完全に見過ごすこともできない。
苦し紛れのように萃香は言う。
「あんたは、紫がなにをしようとしているのか、知ってるの?」
九尾はその言葉に飛びつくように答える。
「知らん。世界をつくる、とは聴いた」
「世界、ね」
萃香は呆れたように呟く。
「あいつはね、この世から零れ落ちていく全てのものを、その『世界』とやらに流し込もうとしてるんだよ」
九尾はその言葉を無視することができない自分を感じる。
「――どういうことだ」
「『私の幻想が全てを受け容れる』」萃香は声の調子を変えて言う。「殺生石となったあんたの処遇について、多くの人妖がまず抹殺を叫んだ。私も含めてさ。そういう連中を黙らせた一言が、それ」
「私を助けたのは気紛れからだと聴いた」
「ふん。嘘だってすぐにわかったくせに」
萃香は頭を掻く。
「……あんたってやつは、さ」言葉を選ぶように、噛み砕くような調子で続ける。「まあ間違いなく、有史以来最大の大罪人だろうよ。あんたほど殺し、惑わし、国を傾けた妖怪はいない。これから先も出てくることはないだろうね。そういう意味じゃ、あんたは十字架に張りつけられた例の人間となんら変わりない」
九尾は萃香の言葉の続きを待つ。
「そういうあんたをさ、もし、仮に、受け容れることができたら……」
「私は試金石か?」
厭な間がある。
「……そう、私らにとっちゃ、ね。紫がどういうつもりなのかは知らないけど」萃香は脱力する。「って言っても、今でもすごく揉めてる状態なんだ。場合によっちゃ、私が始末をつけに来ることになるかもしれない。今日はそれで来たんだよ。もしそうなったらごめん、って」
九尾は様々な思いに縛られている。「……そうか」
「私ら鬼って種族は」萃香はさらに言う。「腕っぷしだけだ。妖術なんかも使えなくもないけど、程度はそりゃ、ひどいもんさ。別にあんたみたいなのとかち合って云々ってわけじゃなくて、……駄目なんだよ。それじゃあいつの力にはなれない」
九尾はその言葉の意味について考える。答えはすぐに出る。だがそれを認めることができない。
「――私に、彼女の力になれと?」
「どうなんだろうね。私自身、自分の心がうまく表現できない」
「本気で言ってるのか、それは」
「鬼は嘘をつかないよ。少なくとも私は」
萃香は背を向ける。
去っていく鬼の背中を見ながら、九尾は彼女の言葉を思う。紫のしようとしていることについて。紫の行く末について。
自分が試金石とみなされる、そのことについていまさらどう思うこともない。他人の視線は他人のものに過ぎない。それが畏怖から好奇に変わったところで、それが自分に与える影響など考えたくもない。
だがそれでも、自分の内包しているものを思うとき、言いようのないある種の感情に襲われるのは避けようがない。
おぞましい運命。
狂気染みた破壊行為。
死。
永遠に等しい虚ろな時間。
そして胸中に未だ黒く滾る憎悪。
もしそれら全てが、ひとり一種族のあの女に押し付けられ、それでもなお色褪せないことを強要されるとすれば、それはもう――
「残酷な話だ」
九尾は吐き捨てる。
奇妙な共同生活が続く。できる限り出会わないよう、同じ屋根の下で息を潜め、互いに注意を払う毎日。それでも時折、どうしても顔を合わせざるを得なくなるときもあり、そうしたときには、探りあいのように、無難な言葉だけを交換してやり過ごす。言葉が会話になることは相変わらず稀だったが、九尾にしたところで、いつまでも針鼠のようにいられるわけでもない。
萃香に言われたことが気にかかっている。思わぬところがないわけでもない。敵意は次第に軟化する。
ひどく捉えがたい雰囲気を持つ紫だったが、真夜中に帰ってくると、ひどく疲れ果て、傷を負っていることもあった。そんなときは大抵寝室に篭もりきりになるが、その状態で鉢合わせになると、咄嗟に過ぎ去った精神状態に先祖がえりを起こし、丸っきり以前の紫そのものになることもあった。
廊下の角を隔てた至近距離で、目が合った瞬間にそうなると、もうどうしようもなくなる。
無数の空間の断裂が赤黒い眼を開くと、九尾もまた血流を沸騰させるように呼応し、尻尾という尻尾を総毛立たせて濁った炎を燃やす。それはかつての戦いの、かつての関係の完璧な再現で、自分たちがどういったものなのか、彼女たちに余すところなく思い立させる。
とはいえ、対峙はそれから先に進むことはない。すぐに我に還った紫が、呆然とクールダウンをすることで会合は終わる。自分自身を信じられないような顔をして俯くと、そこで九尾も緊張を解く。
「ごめんなさい」
紫が言うと、
「いや、いい」
九尾も答える。
「私に対する反応としては正常なものだ。むしろ今までがおかしかった。実際、少し前まではそうだったのだから」
「今は違うわ」
「なにが」
「あなたと私は、もう敵じゃない」
「似たようなものだ」
九尾が背を向けると、紫は慌てたように手を伸ばす。
「待って……待ちなさい」
「っ」
肩を掴みかけた紫の手を打ち払い、九尾は紫を睨む。それはかつて、多くの力ある人妖をそれだけで木偶の坊にした凄絶な流し目と何ら変わるところがない。
紫はその視線を平然と受け止めると、自分の言い分を通すための抵抗を始める。とはいえそれは、彼女自身の持つ力に似合わず、九尾にはただの我儘な少女のようにさえ見える。
「私はきちんと謝りたいの。それさえさせてくれないの、あなたは?」
「そんな必要はない。おまえはここの主だ。気に食わなければ私を追い出せばそれで済む」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
紫は声を荒げる。予測しなかった反応に九尾はわずかに怯む。敵対していたときにはそんな紫の声は聴いたことがなかった。
「ああ、そうだなすまない私が悪かった」
九尾は投げやりに言う。
「悪いのは私でしょう!」
「なにがしたい……」
九尾は突然なにもかも面倒くさくなる。深く息をつき、涙ぐみさえしている『大妖』を見やる。
紫は九尾の肩をあらためて掴み、己のほうに引き寄せる。彼我の距離が縮まり、九尾は不意を衝かれる。近い。牙を剥き出しにすればそれだけで喉を引き裂けるほどには。
「おまえはもう、私を怖れないのか?」
呆れたように九尾は言う。
「そんなことはない。あなたのことは今だって充分すぎるくらい怖い。けど、それだけよ。そんなもの、明確な理由になんてならない」
「震えているのがわかる」
「そうね。でもそれはあなたのことが怖いからではない。わかる? これはもう敵対の距離ではないわ」
紫の必死さに毒気を抜かれたような気分になる。
「ごめんなさい」
九尾の眼を見据えて、幼子同士の仲直りのように紫は言う。数秒そうして見つめあったあと、九尾は遂に眼を逸らす。
「赦してくれる?」
九尾にはもう皮肉を言う力も残っていない。
「ああ……」
「ありがとう」
「ああ」
九尾は逃げるようにその場を去る。
その翌朝、紫が目覚めると、かすかな匂いが鼻をつく。なにかと思い食卓のある部屋に行くと、既に朝餉の準備ができている。白米と味噌汁を置いた九尾の姿を認めると、紫はそこで声をかける。
「これは?」
「言わなかったが、以前、鬼が来た」
九尾の答えの意味がわからず、紫はしばらく口を噤んでから、問い直す。
「……萃香か、勇儀あたりかしら?」
「どういうつもりなのか知らんが、余計なことを口にしていった」
紫はなんとなく予想をつける。「――そう」
「別に、おまえに文句をつけたいわけではない。それでも、私のようなものにもプライドの欠片くらいはある。それと同じように、おまえのやろうとしていることに関して思うところも」溜息をつく。「今はどうでもいい……これは部屋を借りている代価だとでも思っていてくれ。まずい飯を食わされるのも飽きた」
紫は沈黙する。
九尾が背を向けかけて、そこでようやく口を開くことができる。
「――あなたは、一緒に食べてはくれないの?」
それは紫が一番言いたかったことではなかったが、それでも不自然な言葉ではなかった。
「そんな資格は私にはない」
「資格なんて」
「言い方が悪かった」九尾の言葉はあくまで硬い。「そんなつもりなど毛頭ない」
九尾はその場を去る。
紫は、だが、思った以上に傷ついていない自分を発見する。以前のようには。
鬼や天狗の社会で、九尾に対する制裁の、大まかな方向性が決定される。
十一月、初雪が降る。九尾は主不在の八雲邸を歩き、縁側に腰を据える。そこからは全く手入れされていない荒れた庭の全景が見渡せる。名も知らぬ高い草に雪が落ち、すぐに水になる。
庭の一角に眼を向けると、以前見かけた、必要物資を運搬している小鬼と眼が合う。常はいつも忙しく動き回っている彼女は、今日に限って何故か、じっと立ち尽くしてこちらを見つめている。
九尾はその視線に既視感を覚える。
「なんだ」
九尾が声をかけると、小鬼はどこか哀しそうに首を振り、おもむろに門のほうに去っていく。
「――?」
不意に、背後で空間の開く気配がする。紫が降り立ち、わずかに床が軋んだ音もする。
ここで目覚めて以降、そうしたふうに紫が現れることなどなかったように思う。
「……おまえとこうした形で、雪を見ることになるとは思わなかった」
返答はない。玉石に触れるような、紫の緊張した息遣いだけが聴こえる。
どこかおかしいと思いはする。九尾は少し考えて、気づかない振りをする。
「こんな時間に帰ってくるのは珍しいな」
やはり返答はない。紫はむしろ気配を殺してさえいる。
「食事の準備はできていない。どうしてもというならなにか軽いものでもつくってやる」
音を立てるのを怖れているかのように、九尾の背後に立ち尽くしている。
「庭が荒れ放題だな。ここまでひどい状態は都にいるときでも見たことがない。大妖を自認するなら、こういうところをだらしなくしておくものじゃない。格が知れる」
沈黙を保ったまま、紫が手を伸ばす気配がする。
九尾は眼を閉じる。自然に息が漏れる。
ようやく、遂に、『そのとき』がきたのかと思う。
「もしおまえが頼むのなら、私がこの家を……」
言葉が泣き別れになったまま溶け落ちる。瞼の裏側で闇が振動する。自分の言葉から連想される、為し得なかった未来のいくつかが、過去の映像のように脳裏をよぎる。くだらないことだと自嘲する、それでも湧き上がる感情は抑えきれない。
なにがあったのかはわからない。首を振った小鬼は自分になにを言いたかったのか。ただこれから、なにが起きるのかだけはわかる。小鬼が門の前でこちらの動向を窺っているのがわかる。
『私をやるときには後ろからわからぬように手をかけて――』
肩に手が置かれる。
歯を食い縛る。そうして意に反して跳びかかろうとする肉体の最後の抵抗を抑え込もうとする。
紫がその気になれば、そのままなんの障害もなく安らかに自分を屠ってくれるだろう。それがわかる。以前のように。自分はこのまま気づかぬ振りをしていればいいと思う。これは一種の儀式でしかない。自分の役割はただ従者のように厳粛としていること、ただ一点に尽きる。
(はやく)
叫びだしそうになる自分を見つけて、九尾は呻く。
「紫」
わかっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに、言葉はへりから震え始める。
死の記憶が蘇る。全身の蒸発から連なる血が逆に流れる違和感。五感がひっくり返り、恐怖だけが腹の底に孕むように溜まっていく不快感。滅ぶ寸前にはなにもない。考えていたような美も、快楽も、なにも。諦めきった精神が諦めきれない肉体を犯していくだけだ。ただ虚しい。ただ。
紫の手に力が篭もる寸前、九尾のなかで耐え難い衝動が破裂する。
「なあ、紫」私は生きたい。「雪は、こんなにも綺麗だったんだな」
開いた目の視界に、また光が戻ってくる。雲の割れ目から見える空はあまりにも青く、澄み切っている。
「――ええ」
紫は九尾に応える。ただひとりのかけがえのない妹に対するように。
「ええ、もちろんよ」
九尾には紫が崩れ落ちたのがわかる。ただ一度の望みが叶ってしまったことも。
紫が自分の背にもたれかかり、首の前に腕をまわしてしがみついてくることに、九尾は反抗しなかった。小さな呟きを耳の後ろで聴いていた。
「ごめんなさい」
小鬼の気配が霧散する。
「ごめんなさい……」
九尾は自分が生き延びたのを知る。そして恐らく、死ぬよりも辛い目に遭うであろうことも。それでも今はただ、初めて深く触れる紫の体温に埋没していたかった。一切の敵意を持ちえぬ最初の接触に。
それから数日は不気味なほどなにもなく過ぎる。ざわめいていた心が静まり、またもとのふたりの距離感に戻るほどには。ただそれも見た目だけのもので、実際には以前ほどの違和感は残っていない。九尾の態度はそれとわかるほど軟化する。だが一方で、紫の態度はますます硬くなっていく。
何事もなかったように夕餉を終えたあと、不意に紫の体が崩れる。皿の幾つかが食卓から落ち、割れる。甲高い悲鳴のような音に気づいて九尾が近寄ると、紫は片手を床につき、もう一方の手で頭を抑えている。
「どうした」
「なんでも……少し、眩暈が」
「どういうことだ」
九尾は全てを見透かすように言う。なんでもないことでないことなどわかりきっている。
「――あなたには隠し事はできないわね。それこそどうしようもなかったあの頃から」
「あのときのおまえとは比べ物にならない。妖精ほどに弱っているようにさえ見える」
「冬眠するの」
冬眠。九尾はその言葉にひどい違和感を覚える。季節の顕現でもない妖怪がそんなことをするなど聴いたこともない。獣がベースである自分でさえそんなものを必要としたことがない。だが、紫の言葉に嘘があるようには思えない。
「こんな、訳のわからない力を持っている代償かしらね。定期的に長い眠りを取らざるを得なくなる」
「頻繁に留守にするくせに、こんな不都合な場所で暮らしているのもそのためか?」
「眠っている間は全くの無防備になる。いつもなら鬼たちが守りにきてくれるのだけど今回はそれも無理ね。仲違いしたから」
「私のことでか」
沈黙が落ちる。九尾は胸の痛みを感じる。望まぬ事態に望まぬ者を巻き込んでしまったような苦痛がある。
「ばかな女だ。私のことなどすぐにでも縊り殺しておけばよかったものを……最初に、すぐ」
「厭……」
「なぜ」
「……なぜでしょうね」
紫は自嘲する。九尾はそんな彼女の仕草に苛立ちを覚える。まるで彼女らしくないことに。
「いずれにしろ、時間もないわ。あなたはもう好きにしたらいい。前に言ったように……ここから出て行くにしろ……賢明さを取り戻して私を殺すにしろ。もう充分、代価はもらったから」
「なにを……」
「ここにはいないほうがいい。鬼たちが攻めてくるだろうから、近いうちに」
紫はそこで口を噤む。言いたいことをなにも言っていないことに気がつく。言わなければならないこと。言わざるを得ないこと。
「……あなたが」声は震えている。「この家にいてくれる、ここにいてくれる、それだけで私がどれだけ救われたか、それを……」
言葉にはできない。
虚空に溶けた言葉の代わりに、最後の願いを口にする。
「私を殺すときは後ろからわからぬように殺して欲しい。そんなことを頼めるのは、私にだってあなたしかいないわ」
「紫」
「さよなら……思えば短い間だったけど」
紫は立ち上がり背を向ける。今にも散ってしまいそうな儚さがある。ゆっくりと彼女を覆っている力が薄れていくのがわかる。
なにを望み、願っているのか、今の九尾にはわかりすぎるほどわかる。
九尾は動かない。紫はしばらくそのままでいたあと、敷居を跨ぎ、薄暗い廊下のなかに消えていく。
誰が行くのか、決定される。
十二月。小鬼が八雲邸への道を歩いている。背負子にはなにも縛られていない。雪が舞い、あたりの景色は白く染まっている。次第に勢いが強まっていく。風が吹き始める。
八雲邸の門前に人影がある。白い顔、金色の尻尾、それらのシルエットがゆらゆらと震えている。
「……例えば」
九尾は言う。
「私が今ここで自分の首を差し出したとして、そうすれば……あの女が赦される、ということはあるのか……?」
小鬼の影が霧散する。萃め直され、いくらか高くなった背丈の視点から、伊吹萃香は首を振る。
「それはないよ。あんたがどうこうって言うより、あいつらの……いや、やめよう……我々の意向に従わなかった、って事実のほうが重要なんだから」
「――そうか」
その言葉のやり取りで互いに互いの意思を汲み取る。以前のように、また敵対関係に落ちてしまったことを。
「ばかな女だね。なにもかも放り出して逃げればよかった。いまやみんな、紫に集中してる……追う者も、責める者も、誰もいなかったろうに」
「そう、そうだな、その通りだ」
「なにがあんたをそこまで駆り立ててるの? 恩? 義? 白面の者に似合わないよ、そういうのは」
「ああ、もちろんだ、私もそう思う」
「勝てると思ってるのか……禁忌を捨てたあんたが……鬼に……その身体だけで?」
「私には術がある。おまえらとは違う」
「そうだね。それでまさに今、その術とやらの全てを使って紫を守ってる最中だしね」
萃香は八雲邸を見やる。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの多層結界、ここまで強大なものは紫や他の大妖が張ったもののなかでさえ見たことがない。
一方で九尾の肉体にはなにもない。生まれ持ったもの以外にはなにも。彼女を守るものはなにひとつとして。
「立派なもんだよ」
萃香は呟く。その言葉に篭められた皮肉に、九尾は首を振る。
「……なあ、鬼よ。私は一体何度、正論に道を譲れと罵られなければならないんだろうな」
萃香はその言葉に訝しげな視線を向ける。「何?」
「おまえと向き合っていると自分の浅ましさが浮き彫りになるようだよ。私は幾度となく嘘をつきながら生きてきた。一日の全てを嘘で塗り固めたこともある。だがそれは」九尾の口調はあくまで淡々としている。「自分の抱いた感情に……この……私の思いに、正直であろうとした結果だった。その末に世界と敵対することになっても、私はただ私そのものであろうとした」
雪の勢いが一段階増す。
「嘘をつかないということがイコール自分に正直であるということにはならない。私にはそれがわかる。なあ、鬼よ。おまえはどうだ? 鬼という種族は正直者揃いなのか?」
「なにが言いたい、九尾」
「私はこの半年間、驚くべきことに嘘をついていない」九尾のなかで過去と現在を繋ぐ感情の連鎖反応が起きる。「そうして今、自分に正直でないという気持ち悪さもない」燃焼される憎悪の残滓が胸の奥底で黒い澱となる。「たぶん、こうなるんだろう。私が正直者であろうとすれば。最後には。なにが言いたいのか私にもうまく言えない。けれども、なあ、鬼よ。私はここから退くつもりも、おまえらに道を譲る気も、まるでないんだよ。その末に……どうなっても」
萃香は九尾を見つめる。言葉にはどうしようもない絶望に似た感情を伴う。
「やろうか」九尾は言う。
「そうだね」萃香は答えてから首を振る。「いや、待って。ひとつ言い忘れてた」
「なんだ」
「勝って欲しい。今回は……あんたに。私もね、あいつも、あいつのしようとしていることも、そんなに嫌いじゃないんだ」萃香は俯く。そこだけが大切なものであるように、ひどく聴き取りにくい声で呟く。「あんたがここにいてくれて良かった」
その表現は控え目すぎる。一歩間違えば嘘と取られかねないほどには。けれども、萃香の言葉には真摯さがある。例えば彼女が鬼でなくとも――嘘しか言わない種族の紛れもない嘘であったとしても、信じてやりたいと思えるだけの響きがある。
「……そうか」
虚か実か。そんなことはもうどうでもいいと九尾は思う。自分がなにをしたいのかさえ不明瞭ななかで、ただ雪の冷たさだけがリアルだった。
まるで容赦なく降り積もる雪のなかで、ふたりの体が動き始める。ふたりの動作は途方もない熱量を伴う。一撃ごとに雪が捲れて地まで爆ぜ、鼓膜を破る轟音が空気を焼く。暴力的な時間の密度は感情の膨張を促進する。ふたりはかつてのように、いつかのように、また得るもののなにもない戦を始める。
己を認識する瞬間ほど残酷な時間もない、九尾にとっては。半年前から自分はなにひとつ代わっていない。積もり積もった憎悪が肉体を加速させ、一方で重くさえしている。結局のところ、目的がなんであれ、自分を支える最終的な戦線はそこにしかないのだ。爪を抉り、肉を剥がし、骨を散らせる、そのたびに自分の残滓が深部において沸騰していく。
だが九尾は気づいていない。それが半年前の戦とはまるで違う場所にあることを。今ではむしろ萃香のほうが九尾の役割を演じている。命を奪う者と命を守る者。戦いの結末など半年前に既に決まっていたことだというのに。
萃められた雪煙のなか、萃香の腕が伸び、九尾の喉を捉えて締め上げる。全否定への苦痛のなか、九尾は感情に任せて闇雲に爪を振るい、萃香の肉を切り裂こうとする。逃れるためではなく仕留めるために。一撃。二撃。潰れる気管支の裏側で血液が固まる。八撃……十一撃。抉れた肉が爛れて落ちる。紫の体温を憶えていた箇所が。二十四。紫と交わした幾つかの言葉の断片が脳裏をよぎる。五十七。五十八。『私にあの女の力になれと?』萃香の腕は萃香の言葉より明確な意思表示をしている。八十九。かつて起こした戦いの記憶がひどく歪に入り混じる。百一。『ばかな女だね』そう、おまえらはきっと正しい。おまえらは私が間違っていると口を揃えて言う。百十三。そう……おまえらはいつだって「九尾!」呼吸が開放される。ごおごおと凄まじい音を立てる喉の奥底は熱く燃えている。「私はあんたに! 紫を! あんたを!」百三十――おまえらはそう、正しいああそうだいつだってそれはもう構わない、だがそこに いったい なんの 価値が あるというんだ!?
ふたりの顔は同じ色の苦痛に塗れている。忘れられた世界に置き去りにされた双子のように似通ってさえいる。結局のところ、鬼だろうが妖獣だろうが、根っこの部分ではなにも変わらない。ふたりの戦いは証明にしかならない。人間めいた愚かさの馬鹿丁寧ななぞり書きにしか。
萃香の気配が霧散しても、九尾は爪を振るい続け、声なき声を上げ続け、雪煙を切り裂き続けた。己の感情に責任を取るために。足がもつれ、眼が霞み、全身が重苦しくなっても行為は続けられた。水面に映る炎のへりのように、ただひたすらに踊り狂い続けた。
一冬の間、九尾は八雲邸の門前に居座り続ける。己の全力を以って施した結界により、彼女自身でさえ八雲邸には入れない。紫が目覚めない限りは。九尾自身、自分を丸っきり信頼しているわけではなかったから。
来訪者の気配をいち早く察知するため、感覚領域は限界まで研ぎ澄まされ、一瞬の隙もなく展開し続ける。それが体感時間の流れを限りなく遅くする。周りに誰も居ない間、九尾はひたすら自身と向き合い続けざるを得なくなる。
雪が降り続け、陽の光の欠片さえ見えない。気がつくと半身が雪に埋もれていることなどざらで、爪で周りをかきわけ、その冷たさでふと我に還る瞬間がある。
時折、空間の緩みから迷い込む獣の類を屠って食べ、用を足すときには門の横の松の下で、土を掘り返してしゃがんだ。
紫の気配を結界越しに探り、目覚める様子がないことがわかると、機械的に結界を張り直す。そうした作業を繰り返すうちに、自分が日付を覚えていないことに気がつく。だがそれを確かめる術もなく、緩やかに交替する夜と朝を感じながら、思考のなかにある言葉さえ消えていくのをじっと見ている。
押し広げられた感覚に、新しい気配が引っかかる。次の瞬間には九尾の心は皆殺しモードに入ってしまっている。またどこかの空間の緩みから入り込んだ獣か。萃香に続く鬼の実力者か。体内の温度が上昇し、雪が湯気を上げて溶け始める。
門前に座り込む姿勢のまま、相手の動向を窺う。視界の端に黒い影がよぎる。小さく、動きは鈍い。雪を踏み抜かないよう、慎重な、弱々しい足取りでこちらに向かってくる。
眼を凝らすと、まだ子供と言っていいくらいの黒猫が、濡れた毛を重そうにしながら歩いてくるのが見える。
(爪の一振りで終わるだろう。そうしたら内臓を抜いて、血で喉を潤して……)
そこまで考えて、不意に思考を止める。
黒猫と眼が合う。珠のような濁りのない瞳に自分の姿が映っている。久し振りに自分の姿をそうして確認する。もはや何者かわからぬほど衣服は乱れ、皮膚が引きつり、眼の周りが黒く落ち窪んでいる。
なにもかも馬鹿馬鹿しくなる。ここでこうしていることも。黒猫を当然のように食らおうとしていることも。
力が抜ける。
例えば今ここで黒猫を食わないことで、自分が餓えて死んだとして――それで紫が死ぬとして――それがなんだというのか。誰も、なにも責め立てやしない。紫でさえ、文句のひとつも言わないだろう。
黒猫はなにを考えているのか、九尾の近くまで寄ってくると、そこで彼女の指先を舐め始める。
「……行きなさい」疲れのせいで、ひどく優しい響きになっている。「あなたは自由なのだから。私と違って」
黒猫は逃げない。一心不乱に指先を舐め続けている。自分が殺される一歩手前だったなどとは考えてもいないように見える。
「あなたにあげられるものはなんにもないの」九尾は自分の出した声の弱々しさに苦笑する。「なんにも」そんな声を再び出すことになるとは思ってもいなかった。「ないのよ」
黒猫のざらついた舌の温度、至近距離で動く命を見たことに対するある種の感動めいた思いが湧き上がってくる。
「なぁーんにもないのよ」そんなことが慰めさえになっていることが不快でならない。「なぁーんも」眼を閉じ、開く。気がつくと笑っている。「なにも。なにも」言葉は自傷行為めいたさえいる。「ないの。ねえ……ないの」
九尾は身動きひとつしない。ほんの身じろぎしただけでその黒猫が吹き飛んでしまうと思い込んでいるかのように。
「行って。お願いだから」声に切実さが篭もる。
黒猫は九尾の顔を見上げる。彷徨のような時間が出来上がる。短くも長くも感じられる数分のあと、諦めたように背を向け、遠ざかっていく。
黒猫は去る道すがら何度も振り返る。その度に猫の瞳に自身の姿が映りこむことに九尾は耐えられない。自分を直視することができない。
「なにもないのよ」高くかすれる叫びが長く尾を引く。「ここには。この場所には」なにもかもを避けることができない。「ここには」
黒猫の姿が消える。九尾の叫びは消えない。
ひとりでいると、まるで予測不能なタイミングで、突発的に憎悪が再燃することがあった。心の炎で雪は溶けない。けれども雪の冷たさで心は凍る。以前よりはいくらか、冷静な眼差しで自分を覗き込むことができるようになった。
他者に向けてきた憎悪をひとつひとつ思い返し、そのときに感じた失望の波を浴び直す。そうしたことを続けていると、次第に自分の感情をひとつの形として見ることができるようになる。
つまるところ……行き着くところまで行き着くと、他者を憎むことは自分を憎むこととなんら変わらない。他者のなかに自分を見ているだけだ。それが今ならわかる。わかるまえからわかっていたことも。
なにも受け容れることができない自分への。
もはやなにが発端だったのか思い出すこともできない自分の感情への。
何処か別の場所で、別の者として出会っていれば友になれたかもしれない、あの鬼とさえ戦ってしまった自分の性への。
それでもその感情を捨てることができないのは、それが崩れ落ちそうになる自分を支えてきた唯一のものであるからだった。それがなければ、今ここで、こうしていることさえできなかったからだった。
思考がループすると、感情の隙間に入り込んでくるのは、八雲紫の、なにかに取り残されたように自分を見つめる虚ろな表情だった。
(おまえがやろうとしていることは、そんなどうしようもない私でさえ――)
思考に答えを出そうとした瞬間、凍りついて空白になる言葉のへりが、表現不能な領域にまで引き上げられ、叩き落されるような感覚を憶える。
それがなにを意味するのか、九尾にはわからない。わからないまま不快になる。
ときどき、本当に耐え切れなくなると、音も立てずに涙を流し、頬が凍ってようやくそのことに気づいた。己の現状に声を上げて笑い、笑い声さえ上げられなくなると、体を折って嗚咽した。そうしてしばらくすると、何事もなかったように頬を拭い、また降り積もる雪の彼方を睨む作業に戻った。
九尾と戦ったのち、萃香は行方を眩ます。都の友人たちにさえなにも言うことなく、忽然と姿を消す。
憶測が飛び交う。それらしい根拠があるものもあれば、まったくのくだらない空想から生まれたものもある。曰く、九尾との戦いで致命傷を負ってしまったのだと。責任の追及から逃れたかっただけだと。
とはいえ結局のところ、誰もが多かれ少なかれ真実を悟っている。四天王として得たあらゆる名声に背を向けること、それが、望まぬ戦いに身を投じた伊吹萃香という孤高の鬼の、彼女なりのけじめだったのだ、と。
一部の鬼の主導により、特に忌み嫌われる妖怪たちが地底へと降りる。
天狗や八百万の神々は静観を決め込み、山に篭もる。
これにより、八雲紫への制裁は有耶無耶なものになる。そもそも伊吹萃香ほどの鬼神さえ退けた九尾狐に、どこの誰が勝ちうるというのか。過去、実際にそれをやってのけた紫は、いまやその九尾狐に守られているのだ。
季節は過ぎる。
――夢のなかで、自分を呼ぶ者の声を聴いた。子が母を呼ぶような切実さに触れた。憎悪の奥底に沈められた、無防備で傷つきやすい彼女の一部は、ずたずたにされてなお抗い続けて、ようやく、断絶の時間を乗り越えようとしていた。
紫は目覚める。瞼の裏側で闇が振動する。そっと眼を開けると、見慣れた木目の天井、他の誰でもない九尾の影が映りこんでいるのが見える。
「目覚めたか」
九尾は布団の横に座っている。
「……死ななかったのね、私は」
「鬼は来なかったようだな。おまえの予測は外れたということだ。冬の間外の世界を放浪して、久し振りに様子を見にきてみたが、なにも変わった様子はなかった。それに――」
「嘘」
九尾は紫の言葉に口を噤む。用意していた言葉の全てが砕け、無意味なものになる。
「ずっと見ていたわ。夢の隙間から」
「あ……」
「ばかな娘」
九尾はうなだれる。
その言葉の持つ意味にではなく、そこに篭められたどこまでも優しい哀れみと慈しみの響きに、九尾は打ちのめされる。そうした自分の反応にさえショックを受ける。知らず知らずのうちに拳を握り締めている。
そうして気がつく。初めて認識する。自分がここにいたことに……彼女に……どういう思いを抱いているのか。唐突に強烈な感情が胸を穿つ。溢れ出るものに溺れそうになる。
九尾は紫に触れたくなる。体温を感じたくなる。顔を上げたその先に紫の姿はない。九尾の横を滑るように移動し、背後の襖を開いている。
「ありがとう、と……言っても言い切れない」
九尾の耳にかすかな声が届く。しばらくの間彼女は動けない。紫を追うことができない。息を止めるようにして立ち上がり、薄暗い廊下に向かう。
敷居を跨ぐ……紫はまだそこにいる。背中を向けて、五歩ほどの距離を置いて立ち尽くしている。
「もっとはっきり言えばよかった。あなたを縛り付けるくらいなら。私を殺して。ここから出て行って、と」
「それほど残酷な言葉もない。私はここにいたかった。そのためなら死んでもよかったんだ」
九尾の言葉は脊髄反射的に生まれる。なにひとつ飾ることのない奥底から放たれる。それは紫と九尾自身に同じ衝撃をもたらす。
「……っ」
「!――」
九尾は自ら愕然とする。そうした感情が残っているとは思ってもいなかった。一度はみっともなく死を拒絶した自分に。けれどもそれはもはや本音以外のなにものでもない。
「どうして……」
紫は呟く。
「おまえが」九尾は言葉を選びながら続ける。「私の正体を知って、なお私を受け容れてくれたただひとりの者だからだ」紫と過ごした何気ない日常が遥か遠い光景のように蘇る。「おまえは知っている。おまえは。私と殺し合ったおまえは。私の憎悪を。憤怒を。怨嗟の声でさえ」九尾はほとんど泣きそうになっている。「そのうえでなおおまえがここに私を受け容れてくれる、それだけで私がどんなに……救われたか、それを……」
言葉にはできない。
紫はなにも言わない。言うことができない。逃げ出すように廊下を歩き始める、けれどもその動作は哀しいほどに鈍い。九尾がためらいを押し退け、距離を置いて彼女を追える程度には。
「どうして私を受け容れた」
「どうして?」声は震えている。「あなたは私だった。私よ。ひとりで他の全てと相反する、世界が公然と退けるひとつの空隙だった」九尾からは紫の表情が見えない。「あなたと私はただ方向が違っていただけ。ほんの数ミリずれれば私があなたになっていた。私があそこにいた……東の果てで石になっていた」
廊下のところどころに朝陽が差し込んでいる。薄暗い足元を照らすには弱すぎる。ただかすかに舞い上がる埃だけを映している。
「自分を殺せる者がいるの、この世に……本当の意味で」
「おまえは私とは違う。おまえは少なくとも嫌われていない。彼女がそう言った。鬼は嘘をつかない」
廊下を伝い、ぐるりと回り、九尾が寝室に使っていた部屋に辿り着く。そこは袋小路になっている。紫は襖を開け、そこに差し込む光の強さに眼を細める。
「私は……あなたを」
「いまさら、救われようなどとは思わない。自分の居場所が欲しいとも思わない。自分がどういうものか知っている以上、そんな高望みはしない。それでも」九尾の唇が震える。震えはすぐ肩に伝染する。「おまえの成すことを見届けたい。助けになりたいんだ。邪魔になれば捨てられても構わない」
「私とあなたはかつては敵対していた。私と、あなたでしかなかった。今は違う……あのときはもう過去でしかない……今はもう、私とあなたは私たちでしかない。それでは駄目なの?」
「いっそ、拒絶してくれたらいい。厭なら。駄目なら。もし、もしも、そうでなければ」
紫は九尾に背を向けたまま俯く。「厭じゃない」
九尾は一歩ずつ紫に近づく。その歩みはあまりにも遅すぎ、壊れたオルゴールほどにも先に進まない。拒絶に対するかつてない怖れがある。死ぬよりも怖い。それでも近づいている以上、縮まらない距離は存在しない。
紫は背後の足音を聞いている。足音がためらいながらも近づいてくるのを感じている。一切の容赦なく本気で殺し合い、怖れ合ったただひとりの者。だが今の彼女を震わせているのはかつてのような敵意や恐怖ではなかった。
そっと手を伸ばし紫の髪に触れる。泡沫を崩してしまうことを危惧しているように、緩やかに梳き始めるその動作はどこまでも控え目で、もどかしいほどに力が篭もらない。
九尾はその動作によって紫に意志を伝える。
紫は身じろぎひとつしないことで九尾に応える。
九尾はまるで逃げ場のない真剣さから紫の肩を掴み、振り向かせる。
鏡を覗き込むように、そこにあらゆる古傷と希望を見る。
「名前」紫が弱々しく呟く。「あなたの名が知りたい」
九尾は一度沈黙し、答える。「玉藻という名を使っていた。昔は。だがそれは私がつけた名ではない。私自身が私自身を名乗るとき、らん、という音を用いていた」
「らん……」紫は眼を細め、その音を反芻する。「らん」
ランの指先が紫の顔の輪郭をなぞる。耳から目尻へ、頬の膨らみから唇を経て顎先へ。人差し指だけが唇のへりに残る。下唇を薄く引き伸ばすようにさすり、体温を分かち合うように押し付ける。
紫はなにもしない。全ての主導権を相手に委ねている。そのことに気がつくと、ランはほとんど息さえ止まりそうな感覚を憶える。
「ゆかり」
迷い、ためらい……
「らん」
促され、ランはようやく、紫の唇にキスをする。空いている手が宙をさまよい、紫の手を見つけると、自然に絡め合い握り締める形になる。
ほとんど真横から差し込む朝陽が、ふたつ分の影をひとつに押し固めている。
ふっと紫の体からかすかに残っていた緊張が削げ落ちる。何年も寄り添った伴侶にそうするように、全幅の信頼をランに向けている。
一方でランはその緊張さえ呑み込んでしまったかのように力んでいる。体にひどい重みがある。抜けない怖れが増幅ばかりしていく。
憎む相手に抱かれた経験なら有り余るほどあるのに、本当に大切な相手を抱いた経験などまるでないのだ。同性どころか、異性相手にさえそのような感情を持ったことはない。それは初恋だった。その意味ではランはほとんど処女同然ですらあった。
「……らん」
解放した唇が自分の名を呼ぶ、ただそれだけのことにさえランは震えた。
もう一度唇を重ね、そっと押し開く。なんの抵抗もなく紫は開いた。舌で歯をなぞると、喉の奥さえ弛緩する。誘われるまま舌を捻じ込み、けれども緊張は残したまま、ひどくゆっくりと口内を辿っていく。それが逆に紫の呼吸を押し留め、意識を薄れさせた。
迷いながらの行為はひたすら長く続けられ、次第に紫の膝から力が抜けていく。そこから先に進めることへの抵抗感が、ランにキスをさせ続けることになる。
「ん、んく、ぁ、ふぁ……」
唇の間から、息苦しさ以外の声が出始めると、そこでランはようやく、胸中に喜悦の感情が湧くのを感じた。
がくがくと震え、次第に常の落ち着きを失い始める背中に腕を回し、体を密着させる。その体勢であってさえ、紫の指はランの手を離さず、絡め合っている手に刺激のたびに力を篭める。
熔けかけた氷像を扱うように、ランは自分が使っていた布団に紫をそっと横たえる。唇を離すと糸が引く……糸はすぐに途切れ、顎を伝って首筋に落ちる。ランは落ちた唾液を舌で拭い、口内に留め、また紫の唇の奥に押し込んだ。
紫はなんの抵抗もなく嚥下する。
紫の表情は熔けていた。涙ぐみ、呆けたように眼の焦点を失っている。だがランが繋がったままの手に力を篭めると、紫はひどく幸せそうに笑ってみせた。
「あ……」
ランは初めて紫の笑顔を見た気がした。その思いは紫もまた感じていることだったが、それはランの知るところではなかった。
「らん、らん……」
「ゆかり」
紫の白い寝着の下、ランの薄い絹の着物の下、胸の先はもうわずかに尖っており、それが衣服越しに互いに伝わる。恥毛の下はいくらか濡れている。
紫の上で腕を突っ張っている姿勢が辛くなり、ランは上半身を起こそうとする。
「だ、だめ」
「っ!」
首に腕を回し、引きずり込むように紫はランを引き寄せる。ランは咄嗟に紫の身を案じた。そんなことはないとわかっているのに、いまだに目の前の女性が幻かなにかのように思えてならないのだ。
「ゆか、り」
「あ、あまり離れないで。お願いだから。恥ずかしいの」
「……ッ」
ランは息を呑む。まるで予想しなかった初々しい反応に。脊髄反射的にけだものめいた加虐心が湧き上がるのと同時に、一度はどうしようもないほど敵対した相手をそうやって組み伏せていることに、途轍もない黒々とした甘みを味わう。
体がどうしようもなく昂ぶっていくのを感じながら、紫の手首を掴んで布団に押し付け、上半身を離して紫を見下ろす。
「……ぁ、ら、らん……?」
見られるのを極度に嫌がり、紫は身を捩ってランの視界から逃れようとする。
「――、ッ、ふ――っ、ぁう……」
無駄な努力を繰り返す紫の仕草に、ランの息が荒くなっていく。
「おねが……はずかし、から……」
口調が次第に弱くなるにつれて、抵抗もまた、形だけのものになっていく。
「ゆかり」
「……ぁう……っ」
名を囁くとびくりと震える。
「ぁ……ああ……!」
口から漏れるのが戸惑いの喘ぎだけになると、遂に、わずかな抵抗も途絶える。なにをされるのかという怖れと期待だけが残る。動くこともままならないまま秘部が緩む。
ランは唇を紫の首に押し付け、わずかに牙を立てる。そうしていままさに彼女の命を握っていることを伝えても、紫はもう、まるで抵抗とは違う反応しか返さない。深く息をつく喉の震えしか。
「――っ、あ、あ、ふ……ぁ」
皮膚に舌を這わせ、体の線に合わせてゆっくり降ろしていく。手首を掴んでいた指も緩やかに移動させていく。どこに触れても、どこを濡らしても、紫は同じように鈍く震える。
(――ああ、本当に慣れていないんだ)
それでも、舌を耳に当て、空いたほうの耳を手のひらで閉じると、紫はいまさら正気に戻ったかのように不安そうな表情を浮かべる。が、それもまたすぐに途切れる。耳の穴に捻じ込まれたランの舌が、粘り気のある水音を立て、逃げ場のない脳を揺らすように響く。
「ぴちゃ、ちゅ……くじゅ、じゅ」
「――ッ、ぅあっ……? なに、これ……」
秘部に膝が押し付けられる。そっと押し広げ、擦られる。
「ぃあ……っく、あ……」
眼を閉じ、陶然とした表情で紫の耳を食むランの紅潮した顔、それが間近にあるという事実が紫の意識を曖昧にしていく。
この痺れるような感覚に身を委ねていたいという願望がある一方、後戻りできない場所に押されていく体の芯、その矛盾によって許容範囲を超え始めるどうしようもない絶望に似た幸福感、他でもないランにそうされているという事実が、
「ぁ……う、ぁっ――!」
体が震え、引きつり、心が落ちる。抱かれているという安らかな居心地のなか、紫は達する。
「――っ、は……ふっ……」
消耗していたのはむしろランのほうだった。紫を攻めている最中、ランはほとんど息を止めていた。極度の興奮と緊張は、紫が達してからも全く抜けていない。
「……ぁ、らん……?」
「はっ、ぅ……はぁ、う……」
全身を漣のように震わせて、今にも泣き出してしまいそうに張り詰めたランの表情を見て、紫は自分もまた彼女になにかしたいという願望に取り付かれる。ほとんど自然に、自分がされた行為をなぞるように、紫はランの耳を指先で引っかく。
「あっ?」
「……あは」
紫のどこまでも無垢な笑みを見て、ランの心臓が大きく胸の内側を叩く。
狐の耳の外周をなぞるように紫の舌が動き始める。強く逃れようとするランを逃がさないよう、腕が首に回される。
「あむ……ちゅ、ちゅ、じゅる……んぅ」
「――ッ! っく、……ん!」
強引にはねのけるわけにもいかず、ランはされるがままになる。意に反した反撃に、突然ひどい心細さが湧き上がる。だがそれも、目の前にある紫の紅く染まった白い首筋を見ることで、相手を認識することで、いっときどうしようもなく高まり、一気に和らいでいく。
それが故意かそうでないか見当もつかなかったが、ランに縋りつく紫の胸がはだけ、着物の内側で、相手の胸と擦れ合う。
「――ぁっ! ん、ん、ん!」
どくんとひとつ大きく跳ねる乳房の裏側、そこから足の先まで一気に甘く痺れ、閉じた唇の奥で声帯が悲鳴を上げる。意に反する声を出したくなく、無理矢理口中の空気を押し潰すと、ますます余裕がなくなっていく。
「ちゅ……ん、んむ、はむ、ん」
「っく、ぅ、ぁ、ん!」
耳と胸が自分のものでないように昂ぶっていく。その感触に集中しかけると、唇が内から割られ、上げたくない声を上げてしまいそうになる。
「ちゅ……ん、らん、ら、ん……」
「ふぁ――ッ!」
耳元で不意に囁かれる秘めていた名に、ランは自分の身を丸ごと支配されるような錯覚を味わう。見透かされることに対する心細さが、体を駆け抜けた一瞬、下腹部が大きく波打ち、すぐそばにある温かみを求めて蜜を垂らす。
たまらなくなって紫の首に縋りつき、もうどうしようもなくなった唇を押し付けて、相手を求める声を息ごと潰す。
「……ぁ、ふふ、らん……そうしてるとなんだかすごくかわいい……」
「――ッ!? ぅあ、違、こんな、あ、ひぁ……」
あまりの熱量に正常さを失い始める。自分がそうなることを否定しようとし、ランは無我夢中で手を伸ばす。
その指先が明確に秘部に触れると、紫は不意を衝かれたように身を震わせる。
「あ……」
「ゆかり。わたし、もう」
熱に浮かされた言葉に、紫はわずかに息をつき、頷く。
――紫は処女だった。
「っ……!」
慌てて指を引き抜こうとするランの手首を、紫の手がそっと押さえる。
「して」
ランは歯を食い縛る。自分が処女を捧げるように。
「……っ、いいのか、本当に、私で? 噛んでくれても、爪を立ててくれても構わない、すぐにやめる。跳ね除けてくれたって、いいんだ。どうか、無理だけは」
「お願い」
言葉少なな紫の声に、ランはあらゆる心情を見る。生まれて初めて、生まれてよかったと思う。経験からそれがどんなものなのかはわかりすぎるほどわかる。それを自ら自分に捧げてくれるひとがいるということが、ほとんど奇跡のようにさえ思える。
(わたしに……わたしに!)
一度、ほんの触れるだけのキスをしたあと、
「いくぞ」
「うん」
ランは指を突き立てる。わずかな抵抗感と、熱くうねる肉のなかに。
その寸前、ランは自分の唇を噛み切っていた。だが鉄の味は、その意図に反して、ただひどい幸福感をもたらすものでしかなかった。
「……っ」
ランは大きく息をつく。後悔とそれを越える感謝の念が同時に湧き上がる。溺れてしまいそうな感情のなか、ランは指を引き抜き、そこに滴る彼女の血を見、舐め上げる。
「っ……ら、らん……?」
「ん……ちゅ、れろ……んむ」
そこに紅い色がなくなっても、ランは一心不乱に指を啜る。意識はもう飛びかけている。理性は形ほどにも残っていない。
「らんっ……」
「ん……ぁ、きゃっ!」
紫もまた、ランの獣染みた仕草に当てられ、前後不覚になっていた。強い酩酊の促すまま、紫はラン首に回していた腕に力を篭め、体勢を入れ替える。
「あ……!」
ランは紫を見た。紫の欲情し切った暗い目の光を見た。その対象が自分であることがわかると、相手を進んで受け容れようとするかのように、秘部に蜜が溢れて音さえ立てた。
ほとんど本能の為すがまま、紫はランの片脚を抱え、秘部に秘部を押し付ける。
「あ、あ、あ……っ!」
「らんっ――!」
「っく、……ああ……うぁ!? うぁあああ!」
「あ、熱……っ、らん、らん!」
肉芽が擦れ合い、蜜を交換し、途方もない快楽がふたりの間を行き来する。
「ぁっ、ふあっ! んぅ、あ!? あ、あ、ああっ!」
「……あは、らん……きもちいい、きもちいいよう」
「うぁあっ……! あっ、ぅ、あっ、こんな、あ、こんなの……だめ、ああああ!」
限界まで引き絞られ解放された快楽に、ランはなす術もなく達する。だがそれを紫に伝えることもできず、口からは少女めいた喘ぎが零れるばかりで、また幸福感とともに昂ぶっていく。
「ゆかり、あ、ゆかり! わ、わたし、も、だめ、なのに、ひぁ――! んぁ……」
「はぁ、らん……らん、どうしよう、すごく、おかしくなるくらい、かわいい、かわいい……!」
ランは知らなかった。ただ相手を想うというだけで、ここまで自分が乱れることになるとは。声が止まらない。感情さえ押し流される。自分を見失うほど怖く思えるのに、紫にされているというだけで、その心細ささえ快楽に変換される。
「――いぁっ、ああ!? ま、まだ……あ、あ、ゆかり、わたし、ゆかりに、あ、あ! ゆかりにされてる、ゆかりに、されて! ひあっ……!」
「んぅ……」
紫が力尽きてようやく、ランは快楽の波から解放される。浮いていた腰が落ち、息が詰まって咳き込む。けれども逃れる術も、その気もない以上、ただ全身を痙攣させて、紫を待つことしかできない。
「らん、もっと、もっと……!」
「ゆか、り……ああ、ぁああ!」
紫が再びランを見つけると――ランが紫を認識すると、また行為は再開される。出会ってから衝突し続けた時間を埋めようとするように、ふたりはただ、延々と交換を繰り返す。
黄昏時にランは目覚める。夕焼けの強い光が産む黒々とした影が半身を覆っているのを見る。目を転じると、茜色に反射する長い金髪、紫のどこまでも穏やかな寝顔が視界に入る。
手は指を絡めたまま繋がれており、それがわかると、胸中に無事生まれ直すことができたかのような安堵感が湧き上がる。
「ゆかり」
囁くと、紫はそれが聴こえたかのように身じろぎし、繋いでいる手にわずかな力を篭め、また健やかな寝息を立て始める。
これからどう振る舞うか考えなければならない、そう思う。この得がたいパートナーを、彼女の理想を、手放すことはできない。あらゆる艱難辛苦から守ってやりたい。相手が何者であろうがこの感覚を易々と差し出すことなどできない。それがたとえ自分自身であっても。
そのためならなんだってやってやる……一生涯嘘をつき続ける苦行であっても乗り越えてやる。
(わかった)心のなかであの鬼に言う。(ああ、わかったよ)
ランはそっと紫の手を引き剥がし、立ち上がる。
「紫様。朝餉の支度ができております。お目覚めください」
紫はランの声で目を覚ます。一瞬、まるで現状が把握できず、ぎくりと体を震わせ、上半身を起こす。
「いた……っ」
下半身の鈍い痛み。目に映る布団の紅い染み。昨日の出来事が一気に脳裏に蘇ると同時に、ますます混乱が深まっていく。
身だしなみを完全すぎるほど完璧に整えたランが、布団の横で、従者のように恭しく跪いている。
「ら、らん……?」
「はい、紫様。藍でございます」
意図せぬ漢字が、脳内で彼女を示す音に当てはめられる。
虹の色。紫のとなり。
「……式を打ったの? 自分で、自分に?」
藍は頭を下げるばかりでなにも言わない。
紫には彼女の意志が伝わる。術式の裏側で思考が直通する。言葉よりももっと深いところで通じ合う。
世界に対する体裁。八雲紫は屈服させた九尾狐を己の式とし、従者とする。自意識を封じられた、ただ命に従うだけの虚ろな人形として。それで一応の格好はつく。紫のしようとしていることは、結局のところ、あらゆる人妖が求めるところであったから。
「らん……」
変わり果てた九尾を見、紫は一瞬、どうしようもない寂寞の念に襲われる。自分の大切な一部が埋葬されてしまったような感覚がある。ただ一度の望みが叶わなかったような絶望が。
そんな紫に藍は膝で這い寄り、布団へ上がると、わずかにのけぞる紫に手を伸ばし、頬に触れる。
「あ」
紫が確かに憶えている腕で。体温で。
「また夜に。ゆかり」
○「八雲藍」
九尾。
式神を操る。彼女自身を含めて。
アンタとはいい酒が飲めるよ
この作品大好き!
また何回も読みに来るよ。
とても胸がきゅんとしました。ありがとうございました。
なんという作者得だけでなく、俺得・・・。
かっこいい藍様は久々に見た。
特に乙女ゆかりん。
これは素晴らしい
藍⇔紫←萃香 何これ超うめぇ^q^
ゆかりんがすごく乙女で眼福
生涯ゆかりん一筋な藍さま素敵過ぎる
らんゆかいいねらんゆか!
目覚めた!
このらんゆかは素晴らしい。生き様にしても壮大なツンデレ。歴史に残るツンデレ。
世界観がしっかりしていて、引き込まれました。
進んでよかった。こんなものが読めるなんて…!
こんな素敵な解釈は思いつかなんだ。
藍が敬語を使うのにそんな経緯があったのならまた違ったでたぎりまくって仕方ない。
不思議と世界にのめり込んでるし、いや、マジでありがとう。書いてくれて。
作中一番の男前が戻ってきたとき二人のラブっぷりを見てどんな言葉を交わすのか楽しみだなw
ゆかりんまじ乙女すなあ。
藍かっこいいよ藍。
良いものを読ませていただき、ありがとうございました。
何度読み返してもやっぱりこの壮大さは衰える事が無いのは凄い事だなと改めて思う次第です。
なにはともあれゆからん!ゆからん!
そしてやはり夜麻産さんの作品なんだなあとしみじみ思うと共に、氏のスタンスが最初っから全く変わっていない事にとてつもない嬉しさを感じます。