仲正昌樹(第5回)

中傷誹謗も“コミュニケーション”?!

 ネット上で学者や知識人を中傷誹謗し、論破したつもりになって、悦に入っている輩の多くは、論壇ごっこをやることで、自分に注目を集め、あわよくば、“論客”としてデビューすることを狙っている。「インチキ知識人の正体を暴ける、真にすぐれた知性を持っている私は、もっと認められてしかるべきだ」、ということなのだろう。
 そうやって騒ぎを起こすことで、マスコミや出版社、ジャーナリスト、自分が“批判”している知識人と対立関係にある他の知識人から認められることを狙っているのなら、(浅ましい欲望を抱いているということが)「分かりやすい」のだが、中には、罵倒している相手と“コミュニーション”しているつもりになっている、本当に理解しがたい輩もいる。
 三年半ぐらい前に、山崎という自称文芸評論家が自分のブログ、私(=仲正)が統一教会の偽装脱会信者であるという前提で誹謗中傷——私は元統一教会信者であるが、偽装脱会ではないし、そのようなことを示唆する証拠などない——を書き込み、私の大学のHPに出ている私の顔写真を貼り付け、「正体暴露(笑)!」、などと大騒ぎしたことがある。この狂人は、ネットに出ている私に関する、いくつかの誹謗中傷記事などを検索してきて、それに自分の妄想を加味して、話をどんどん膨らませていく。当人は、私の秘密を暴いたつもりでいるらしい。
 元統一教会信者であるというのは、自分で言っていることなので、何の秘密でもない。ネットに出ている正確な情報は、ほぼ全て私自身がソースである。しかし、バカは、自分がそれまで知らなかった情報にネット上で出くわすと、“秘密”を発見したつもりになるらしい。山崎はその典型である。そこまで頭の弱いバカは、病気としか思えない。
 しばらく経つと、私の大学の事務局から、HPの教員情報の無断使用は違法であるとの警告が来たらしく、私の写真を削除し、多少はおとなしくなった。そしたら、今度は、その山崎の“ファン”で、山崎同様に小沢一郎を崇拝しているという、山崎に更に輪をかけたようなアホが、また蒸し返した。Easy Resistanceというハンドル名を付けているこのアホは、「山崎先生のブログが面白い。最近では、仲正という金沢大学の教授が、統一教会を偽装脱会したことを暴露し、顔写真まで公開しておられる。今後の展開が楽しみだ…」と、自分のブログに書き込んだ。当然のことながら、山崎の妄想を鵜呑みにし、面白がっているだけである。本当に安易である。
 山崎本人がバカのマックスだと思っていたが、他人を中傷誹謗する記事を見て、何の考えもなく、「〜楽しみだ」と平気で書いてしまう感覚は、別の意味で信じがたい。まさに、2ちゃん脳である。
 これには、これでかなり腹が立ったので、「どういうつもりで、根拠のない妄想混じりの中傷誹謗を鵜呑みにして、コピペするのか? この抗議を無視したうえ、『仲正から抗議が来た!やはり山崎先生は正しかった』等と、騒ぎたいのであれば、勝手にやりなさい。それは、君の人格の証明になる」と、抗議してやった。すると、この安直なアホは、「私が妄想を信じているなんて、それこそあなたの妄想ですね(笑)。それにしても、初めての相手を『君』と呼ぶなんて、それこそあなたの人格が…」、という全くもってふざけた文を、私にメールで返信するのではなく、自分のブログに載せた。
 これが正気の人間の言い分か?信じてもいないのに、見ず知らずの他人に関するネガティヴ情報をコピペし、煽るのは、妄想して誹謗中傷するのよりも更に悪質である。このアホはその程度のことも理解できないのか?どういう教育を受けてきたのか?
 それよりも更におかしいのは、自分は見ず知らずの他人に関する誹謗中傷をコピペして面白がっておきながら、その誹謗中傷した相手に対して、「初めての相手を『君』と呼ぶなんて…」、と平然と言い放つのはどういう感覚か?根拠もなく誹謗中傷されたら、怒って当たり前である。「君」なんて、かなり上品な方である。普段は冷静で紳士的な人でも、「おいおまえ、いいかげんにしろよ!」くらいは言うだろう。
 自分自身は、真偽が全く定かでない伝聞情報に基づいて相手を誹謗しておきながら、その誹謗した相手に、“コミュニケーションのマナー”を説こうとするというのは、一体どういう思考回路か? 自分が他人に迷惑をかけ、不快感を与えていることに一切気付かない——そのくせ、他人から何か言われると、どうして「そんなことを言うの!」と、くってかかる——タイプの自己チュー人間か、それとも、有名人、知識人、大学教授は、匿名の一般人に罵倒されても、丁寧に応答する義務があるというルールがあるものと勝手に思い込んでいるのか?
 この安直野郎に限らず、ブログやツイッターで自分を売り込むことに一所懸命の自称論客たちには、学者、知識人を誤情報・誤読に基づいて一方的に罵倒しながら、その相手に「まともなコミュニケーション」をするよう要求する、おかしな輩が多い。
 他人の文章を曲解して、「これは、仲正氏の理解の未熟さを示している。こういう人物が、国立大学教授として言論活動しているのは嘆かわしい。勉強し直してほしい」、と失礼極まりないことを書いておきながら、抗議すると、「誹謗中傷するつもりなどない。誤解だ!」とか、「私は先生から建設的な批判を頂きたいと思っていたのに残念です!」、とか、急に“まともで礼儀正しい人間”になったかのような返信をしてくる。
 こういうことを書くと、同じ様な思考パターンをしているどこかのバカが、また曲解するかもしれない——本当のバカには何を言ってもムダだろうが——ので、念のために言っておくと、私が活字にして書いたことや、公の場で発言したことを、揚げ足とりにはならないような形で、批判するのは全然問題ない。そういう批判であれば、きちんと応答する。問題は、「未熟だ」とか「国立大学教授として言論活動しているのが嘆かわしい」とか「勉強し直してほしい」とか、相手の人格を否定するような文句を並べ立てて、誹謗中傷を拡散させようとすることである。このような煽りをする相手とは、たとえ、一理ある批判をしていたとしても、まともに対話することなどできない——ほとんどの場合、誤解・誤読に基づく“批判”であるか、そもそも批判ではなく、人格攻撃だけを目的にしているわけであるが。
 想像するに、多少は名前の知られている人間を、「不勉強・無知・鈍感!」扱いして切り捨てるような、派手なコメントでないと、注目を集められないと思っているのだろうが、それはとりも直さず、その誹謗している人物を、「敵」に廻すことである。「敵」とコミュニケーションすることはできない。根拠皆無の罵倒をされても、その罵倒する相手とちゃんとコミュニケーションしようとする、聖人君子のような知識人もいるだろうが、それはごく少数だろう。少なくとも私の知り合いには、そこまで心の広い人はいない。
 二年半くらい前に、京都で南アフリカ出身のケントリッジという芸術家を囲む「ワークショップ」が行われ、そのパネリストの一人として私も呼ばれたことがある。ご本人と、「ワークショップ」を企画した専門家はその場でのやりとりに満足していたようなのだが、司会がフロアーからの質問を受け付けなかったことに不満を持った人間が数人いたようだ。その手の連中を“代表”する阿部和壁という自称美術ライターがツイッターで、「あの場は、本来、ケントリッジと若手のアーティストとの対話の場になるはずだった。なのに、パネリストの大学教授たちが見当外れのぐだぐだのコメントをしたので、台無しになった。ケントリッジも大分うんざりしているように見えた。私の知っている若手アーティストと話したが、みんな、そういう感想を持っていた」、とつぶやいた。ブログには、その悪口と恨み言をもう少し長めに書いてあった。本当に悪口と恨み言だけなのだが、それに同調してリツイートする、バカな“現代アート関係者”が数名いた。中には、「いいこと言っておられます」、と言っているアホもいた。パネリストの具体的な発言を批判しているわけではなく、単に、「俺達にも発言させろ(≒目立たせろ)!」と言っているだけなのに、「いいこと」と言ってしまうのだから、相当おつむが弱い。
 現代アートには、サヨクと同じ系統の人種が多いので、サヨク集会と同じ様な反応をする輩がいるのはある程度予想できたが、「本来、若手のアーティストとの対話の場」だというのが、かちんと来た。どうして、そういうことになってしまうのか?多分、「ワークショップ」を冠したイベントだったので、そういうことを連想したのだろうが、紹介のパンフレットを見れば、むしろシンポジウム的な性格のものだということは分かったはずである。仮に、誤解して共同作業的なことを連想したとしても、どうして「若手の現代アーティスト」が特別なのか?
 独善的な言い分に腹が立ったので、「あなたの言う若手アーティストとの対話集会なるものをやりたかったのなら、そういう場を設けてほしいと主催者に要望すべきだろう。自分たちに発言の機会がなかったのを、パネリストとして呼ばれてきた人たちのせいにして、誹謗するのは筋違いだろう。そもそも、あなたは、私たちの発言のどれがどうおかしいと具体的に指摘できていないだろう。自分が理解できないからといって、グダグダだと言って切り捨てるような独善的な態度で、どうして美術系ライターなんてやっていられるんだ。そういう態度を改めない限り、話にならない。改めるつもりがないのなら、あなたのブログは目の汚れなので、二度と見ないことにする」、という抗議文をメールで送った。
 すると阿部から、「あの場には、ケントリッジに会いたいと思っていた若手がいたのですよ…」、という、サヨクっぽい独善的な返信が来た。まるで、ケントリッジは革命の闘士で、日本の同士たちに会いに来た、と言わんばかりである。無論、たとえ革命の闘士を招いてのシンポジウムだとしても、その闘士と学者やジャーナリストが語り合うという設定であれば、日本の“若い同士”たちが特別の発言権を持てるわけではない。「若手のアーティスト」や「美術系ライター」なるものは、主催者の意図を無視して、企画を作り変えるだけの特権を持った特別の存在なのか?“革命”でもやりたかったのかもしれないが、“革命”をやりたい人間が、その場で企画破壊をする勇気を持てず、後になってツイッターで愚痴るというのは、まったくもってなさけない話である。
 しかも、この阿部は、それだけわがままな悪態をついたにも関わらず、私への返信の中で、「私は現代思想ではコミュニケーションが最も大事だと思っています。私との対話を拒否されるのは残念です」、と勝手なことを言う。発言内容を批判するわけでもなく、単に邪魔者扱いで罵倒した相手に対し、「コミュニケーションが大事だ…」としゃあしゃあと言ってのけるとは、どういう感覚か?せめて、「一方的に失礼なことを言って申し訳ありませんでした…」くらい言わないと、話にならないだろう。
 相手をコミュニケーション不可能な「敵」と見なし、敵対する気がないのなら、相手の言った中身を批判することに自己限定し、人格攻撃と取られるような余計なことを言うべきではないが、そんな基本的なことが分からないのか?
 自分の親や学校の先生なら、許してもらえるかもしれないが、本や新聞、雑誌での発言を読んで知っているだけの知識人は、親でも先生でもない。私の大学の学生の中には、愛嬌のつもりか、先生に関するひどい悪口をツイッターに書いているのがいるが、それと同じ様な感覚なのかもしれない。無論、高校生までと違って、大学生は基本的に大人であり、大学の先生と学生の関係は、クラスごとに授業を受ける学校ほど密ではない。よほど親しい先生でない限り、根拠のない噂を流したり、人格攻撃するかのようなフレーズを拡散させたりしたら、名誉毀損で訴えられても仕方ない。
 お子さま感覚で“コミュニケーション”を求める自称論客の増殖には、本当にうんざりする。



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