『スペクタクルの社会』訳者解題 付「シチュアシオニスト・インタナショナル」の歴史1 木下誠
1967年秋に出版されたギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』は、1950年代から70年代初頭まで、フランスをはじめイタリア、ドイツ、オランダ、北欧などヨーロッパ各地で芸術・文化・社会・政治の統一的批判を実践した集団「シチュアシオニスト・インタナショナル」(フランス語では「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」。ともに、シチュアシオニスト(状況派)のインタナショナルという意味。彼ら自身の定義によると、ン「状況(シチュアシオン)」の構築を実践するシチュアシオニストは存在するが、主義としてのシチュアシオニスムは存在しない。以下、彼らが用いた英語の略号SIを用いることがある)の最もまとまった理論的成果である。歴史上類を見ぬ大量消費社会の到来によりすべてが「商品」に支配され、マスメディアの急速な発達は、人々の生も死も、社会的関係そのものまでをもメディアが描く「見世物的な(スペクタキュレール)」イメージのなかでしか存在を許さなくなった。こうして「スペクタクル」と化した現代社会において、それとの闘いは、生産ではなく消費、労働ではなく余暇をめぐるものとなり、そのフィールドは工場ではなく日常生活の場、特に都市の空間である。そしてその主体は、生産に従事する工場労働者ではなく、「スペクタクル」化した都市生活の疎外に最も露わに晒されている大量の第三次産業の労働者とその予備軍としての学生、社会の周縁に追いやられた失業者、移民、女性、精神障害者らマージナルな者たちである。既存の左翼や組合が闘争のヴィジョンも幸福のヴィジョンも体制が与えるイメージを通してしか描けなくなってしまった今、この「スペクタクル」の社会とのまったく新しい闘争は「犯罪の様相」を帯びてくる……。
こうした内容を一面で持つ本書は、その直後に起こった1968年フランスの「5月革命」を「予言」した本として有名になった。「5月革命」は、「商品」の豊かさを享受している先進資本主義国では、第三世界の独立闘争のような大規模な叛乱は起きえないだろうと誰もが──政府や体制派の知識人から、既存の左翼や新左翼まで──思っていたところに突然爆発した闘争であり、その主体は伝統的左翼や組合の統制を離れた学生・労働者らの無数の行動委員会であり、その主題は、賃上げと労働時間の短縮という欺瞞的な体制内変革ではなく、日常生活の管理体制そのものへの大々的な異議申立てであったからだ。『スペクタクルの社会』は、こうした「5月革命」の意味をその発生以前から唯一正確に理解していた書物として、また「5月革命」に実際に参加し、そのなかで最も過激な理論を提出したSlの書物として、翌年にはイタリア語、続いて英語、ドイツ語などの言語に翻訳され、60年代末から70年代にかけての労働者や学生の世界的な叛乱に影響を与えた。また、現代世界を「スペクタクル」の支配する世界と捉えるその思想は、その後も現在まで、高度資本主義社会を根底的に批判する最も先駆的かつ基本的な書物として評価されている。
著者のギー・ドゥボールは、1931年、パリに生まれたフランス人で、1940年代末にレトリスム運動(1948年、フランスに亡命したルーマニア人イジドール・イズーがシュルレアリスムの停滞と体制内化に反発して創始したアヴァンギャルド芸術運動で、文字(レットル)と絵画の境界を廃した境界横断的な芸術表現を追求し、その適用分野は絵画、小説、さらに映画にまでいたる)に参加するが、イズーの神秘主義的傾向と非社会化に反発して、1952年、数名の若者とともに新たに「レトリスト・インタナショナル」(フランス語では「アンテルナシオナル・レトリスト」。以下、LIと略すことあり)を結成し、統一的な社会・文化批判を強めていった。そしてその活動の成果の上に、ヨーロッパの他の同様の潮流とともに、1957年、「シチュアシオニスト・インタナショナル」を設立、その後1972年に組織を解散するまで15年にわたり一貫してその中心メンバーとして活動した。
ドゥボールは、レトリストの時代からシチュアシオニストの時代、さらにその後も現在まで、全部で6本の映画、既存の文章の「転用」のみで成りたつ画文集、アリス・べッケル=ホーと共同で考案した戦争ゲーム、自伝的著作など、数々の作品や著作をものし、また、LIの機関誌『ポトラッチ』やSIの機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』のための文章や、運動のための文書類を数多く発表している。これらの著作のなかで、『スペクタクルの社会』は、彼の理論的分野での唯一の完成した著作として、また発表の瞬間からあらゆる者によって言及・引用・注釈される運命を持った古典的書物として、独自の位置を占めている。
第一に、『スペクタクルの社会』はその形式において独自である。212の断片(断章)の積み重ねという叙述形式は、「大きな物語」であれ「小さな物語」であれ、物語という単一の流れのなかにすべてを巻き込むスペクタクルの社会において、スペクタクルのなかに回収され物語として消費されることを拒むために採られた戦術だ。シチュアシオニストがしばしば採用するこの断片という形式は、彼ら自身が述べていることだが、大学の博士論文のように厳かに「前進」して単一の結論に予定調和的に──スペクタクル的に──収斂するのではなく、断片から断片へ文章が鏡のように反映し合い、互いが弁証法的な対話を交わす。この断片においては、結論はある意味であらかじめ決まっている。『スペクタクルの社会』の場合、「スペクタクル」を破壊するという明確な立場から書かれているからだ。だが、それは閉じられた書物ではない。断片相互のあいだに残された空白は読者が埋めねばならない。読者が社会のスペクタクル的状況から自らの身を引き剥がし、工場や大学、街頭や日常生活のあらゆる場でこれらのテーゼを実践的に利用することではじめてこの本は完結するのだ。1969年の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号では、「これは何一つ欠けるところのない本だ、一つあるいは数多くの革命を除いては」と述べられている。その意味で、『スペクタクルの社会』という本は道具としての本、武器としての本である。読者はこの本を前に受動的な観客であることをやめ、その断片形式のテーゼを自分流にアレンジし、「スペクタクル」の社会との闘争の場に赴くことを呼びかけられている。
同時に、これは増殖する本でもある。フランスだけでなく世界各地で、実際にこの本はパンフレットやビラ、さらにはコミックなどのかたちで──ほとんどの場合、無断で──引用・転用され、著者の手を離れて街頭に飛び出して行った。この「無断」転用は、「著作権」というブルジョワ的権利を拒否するシチュアシオニストがむしろ自ら奨励していたやり方で、その機関誌すべての表紙の裏に、「『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくとも、自由に転載、翻訳、翻案することができる」と書かれている。ドゥボール自身もこの本を増殖させている。彼は、この本をもとに映画(『スペクタクルの社会』、1973年、90分)を作り、さらにその映画への反響に対する反論の映画(『映画「スペクタクルの社会」に関してこれまでになされた毀誉褒既相半ばする全評価に対する反駁』、1975年、25分)まで製作した。さらに、本書の「緒言」で述べられているように、1979年に新たなイタリア語版への序文『「スペクタクルの社会」イタリア語版第4版への序文』を書き、また「5月革命」の20周年にあたる1988年には『スペクタクルの社会についての注解』というかなりの分量の本を発表して、1967年の『スペクタクルの社会』をその都度補足している。
それらのなかで、彼は、「スペクタクル」という概念規定そのものには本質的な修正は加えず、それぞれの時点でのスペクタクルの現象的変化について述べている。メディアの権力化、経済と政治の融合、社会全体での政治的なものの隠蔽、政治のマフィア化、権力の公然たる嘘による社会支配、「歴史の終焉」という言葉で語られる永遠の現在という虚構……こうしたスペクタクル状況の深化を示す全体的傾向のなかで、1979年の『序文』で強調されている変化は、スペクタクルが差し出すモノの価値についての変化である。すなわち、スペクタクルはもはやかつてのように人々に価値あるものを示すのではなく、価値の優劣を問わず何もかもを一緒に示して人々の満足を得るようになった。スペクタクルはかつてのように「現れるものは善く、善きものは現れ出る」とは言わずに、ただ単に「それはこんな風である」と言うだけだ。だが、まさにそれこそが、スペクタクル状況の全体化とスペクタクルの権力の無軌道な肥大化を保証する。1988年の『注解』のなかでは、「スペクタクルの権力」そのものの胎内から産まれ出た「メディアの過剰」という現状を強調し、「この20年間に起きたあらゆることのうち最も大きな重要性をもつ変化は、スペクタクルの連続性そのものにある」として、スペクタクルの支配が人々の生活の時間と空間のすべてを覆いつくした点を確認している。そして、この「スペクタクルの支配」によって育てられ、スペクタクルの法に完全に屈服した世代のなかに、現時点でのスペクタクルの権力が許容するものと禁止するもの、すなわち現在のスペクタクルの権力の等身大の肖像を看て取っている。重要なことは、ここでドゥボールが、『スペクタクルの社会』での二分法──ソ連や中国のような国々の「集中的スペクタクル」と合衆国を典型とする先進資本主義諸国の「拡散的スペクタクル」──に修正を加え、以後2つのタイプのスペクタクルが「統合的スペクタクル」という単一のスペクタクルのもとに収斂すると、理論的修正を加えていることである。この「統合的スペクタクル」は、世界的な市場経済の発展の結果、「集中的スペクタクル」も「拡散的スペクタクル」もそれぞれ独立した存在であることが不可能になり、2つの性格のスペクタクルが相互浸透することによって生まれたものだ。それは、既に79年の『序文』で述べられていたスペクタクルの肥大化の論理的帰結だが、その直後の世界の進行を予言した点で注目に値する。ソ連と東欧社会主義の崩壊の過程においても、これらの地域がその後にたどりつつある道においても、何よりも強く働いていたものはまさにこの「統合的スペクタクル」のプロセスである。
こうした部分的な修正を超えて、『スペクタクルの社会』での現代社会の本質規定は、それが発表されて20数年を経た現在もいまだにその有効性を失っていない。それどころか「スペクタクルの社会」という規定は、現在の権力のメディア支配下の戦争である湾岸戦争、冷戦終結後の民族衝突、国連の名のもとに実行される戦争行為、西欧ブルジョワジーのイデオロギーである「人権」をかざして行われる欺隔的な紛争解決、外国人を排除した新たな「市民権」のもとでのヨーロッパの排他的統合などを説明するのにますます有効な理論である。92年の「緒言」のなかでドゥボール自身も自負しているが、それは徹底した「代理=表象(ルプレザンタシオン)」批判──運動における代理制と社会を支配する表象を同時に破棄すること──の武器である「スペクタクル」という概念が、50年代末の高度資本主義の開始期から60年代末の高度資本主義社会の矛盾が噴出した時期まで彼らが一貫して行った、政治と文化を結合する独自の実践活動のなかから産み出された概念であったからにほかならない。
「スペクタクル」という概念がボードリヤールやリオタール(2人は、かつて直接・間接にドゥボールと接触している)らの「ポストモダン」の思想と決定的に異なるのは、この実践のレヴェルにおいてだ。「ポストモダン」が、今や大文字の「歴史=物語(イストワール)」も古典的なマルクス主義の文脈で語られる主体という概念も、さらには「現実/非現実」という二項対立までもが無効になったという理由から、現実の歴史過程や変革の主体の問題を捨象するのに対して、「スペクタクル」は、いかに「現実」を「非現実」化するかに見えても、国家の政策として、産業として、人々の社会的関係として現実に──物質的に──日々再生産されているがゆえに、「スペクタクル」の権力を破壊するという歴史的立場性、そのための歴史的主体の条件の考察、要するに歴史への接合──「状況(シチュアシオン)」の構築──を実現する実践のレヴェルを抜きにしては語れない。「スペクタクル」も「ポストモダン」も、「表象」がその指示対象である「モノ」から独立し、かつての資本主義の「商品」の流通回路とは別の「情報」や「イメージ」だけの流通回路が出現したという認識を同じように持つという点で、ともに高度資本主義社会のさらに発展形態である「情報資本主義」社会とも言うべき時代を対象としているが、「ポストモダン」の思想家が「実践」の意義を認めないのに対し、シチュアシオニストは「スペクタクル」の支配を打ち破る実践として「状況の構築」をあくまでも追求する。シチュアシオニストは思想を思想として考察する分離された思想家でも、政治を政治として追求する党派でも、独立した領域としての芸術を実践する芸術家でもない。彼らは、芸術と日常生活の革命、文化革命と政治革命を一体のものとして追求し、それを「構築された状況」のなかで統一的に実現しようとした。「スペクタクル」という概念は、こうした彼らの実践を根拠づけるとともに、文化と政治にまたがるシチュアシオニスト独自の実践活動の中から産まれ出た思想である。
『スペクタクルの社会』を活用するのは、あくまでそれを受け取る読者一人一人の仕事だが、『スペクタクルの社会』を産み出したシチュアシオニストの実践の歴史を知ることは、この本の活用にとって意義がある。そのため、「シチュアシオニスト・インタナショナル」の歴史を簡単に振り返ってみよう。
「シチュアシオニスト・インタナショナル」の歴史は、大きく分けて2つの時期からなる。1957年の創設から61年までの第1期と、62年から68年を頂点として72年に解散するまでの第2期である。第1期が文化批判を基調としたのに対し、第2期は政治批判に傾斜し、「5月革命」でシチュアシオニストが実践に積極的に参加していったことで頂点を迎える。だがこの2つの時期は厳密に区別できるものではなく、第2期のシチュアシオニストの活動のなかには第1期の理論と実践の成果が溶け込み、第1期の活動のなかにすでに第2期の活動を説明する理論的実践的活動の多くがなされている。そしてこれら2つの時期のSIの活動を特徴づけるもの、その発想の基本的なものは、既に、それ以前にドゥボールが行っていた「レトリスト・インタナショナル」の活動のなかに見出される。
前史 「レトリスト・インタナショナル」 1952−56年
「レトリスト・インタナショナル」が結成された1952年という年は、1950年代の米ソの冷戦の開始、ソ連の社会主義の変質という国際情勢のなかで、マーシャル・プランによって戦後復興を完了したフランスが、驚異的な経済成長を迎え、国内的には大量消費社会の到来による人間の疎外状況が次第に進行していった時期である。すでに、アンリ・ルフェーブルが、1948年の『日常生活批判序説』のなかで、この疎外状況をマルクス主義とサルトル流の実存主義的観点から先駆的に批判していたが、ドゥボールらもまたこの高度資本主義下の日常生活に批判の矢を向ける。
そのため彼らは様々な活動をするが、なかでも、生の解放には、それを直接取り巻く環境である都市を解放しなければならないという考えから、彼らの中心課題は都市計画(ユルバニスム)批判に据えられる。その批判は主に、当時隆盛を極めていたル・コルビュジエらの機能主義建築と、古い市街を破壊して無軌道に増殖する大都市の計画なき都市計画に対するものだった。どちらも、そこに住む人間の生の解放に貢献しないだけでなく、逆に都市という人間の環境を効率や経済活動といった資本の要請からのみ考察するがゆえの批判である。こうした都市環境の貧困または偽の豊かさに対して、LIのメンバーたちは実存主義的な反抗をしたり虚無のなかに陥るのではなく、新たな都市計画を積極的に提唱する。それは、何より人間の心理的要素と新しい生のスタイルを最大限重視し、資本の要請に抵抗する拠点としての解放の都市計画であり、「統一的都市計画(ユルバニスム・ユニテール)」として後にシチュアシオニストがその活動の基本綱領とするものである。この都市の構築のために、現代の新しい技術と芸術が活用されるが、それらの技術や芸術は単なるテクノロジーや現代芸術ではなく、もはや独立した──他から分離された──ジャンルのものではない。芸術は建築物の単なる装飾ではなく、技術は生活を便利にする道具ではない。芸術も技術もこの新しい都市の構築と不可分な一体となってはじめて意味を持つ。レトリストにとっては芸術家も技術の専門家も存在しない。それらは、まったく新しい都市の構築のなかで乗り越えられるべき対象なのである。
ジル・イヴァンは、1953年にLIの会合で提出し、彼らがその機関誌『ポトラッチ』と並んでしばしば文章を発表していたベルギーのシュルレアリスト、マルセル・マリエン主宰の雑誌『裸の唇』第6号(1955年)に掲載された「新たな都市計画のための理論定式」(後に『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号に再録)のなかで、この新しい都市について次のように書いている。
建築は時間と空間を分節し、現実を変形し、夢を見させるための最も単純な方法だ。とはいえ、束の間の美の表現である単なる造形の分節と変形だけの問題ではない。人に影響を及ぼす変化が問題であり、この変化は人間のさまざまな欲望とそれらの欲望の実現における進歩とが描く永遠の曲線のなかに書き込まれる。明日の建築は、それゆえ、時間と空間の今の理解の仕方を変更する方法となるだろう。それは、認識の方法にして行動手段となる。建築物の集合体も変更しうる。その外観もそこの住民の意志によって部分的もしくは完全に変化させうるだろう。(……)
心の病が惑星全体に行き渡ってしまった。凡庸化という病だ。誰もが製品と快適な生活のとりこになっている。下水設備、エレベーター、浴室、洗濯機といった具合に。
こうした現状は貧困への抗議から生まれたものだが、そのはるかな目的──物質的心配からの人間の解放──を超えて、即時的なものに取り憑いたイメージとなってしまった。どの国の若者も、愛とオートマティックのダストシュートを秤にかけ、ダストシュートの方を選ぶ。精神を完全に一変しなければならない。忘れられた欲望を明るみに出し、まったく新たな欲望を作り出すことによって。そして、これらの欲望を讃える徹底的なプロパガンダを行うことによって。
われわれは既に、次の文明が築かれる基礎となる欲望の1つとして、状況を構築する必要を指摘した。この絶対的創造の必要は、これまで常に、建築、つまり時間と空間と戯れることの必要と密接に混ざり合っていたのだ。
ここで主張されている「時間と空間の分節」としての建築物、造形ではなく欲望の場としての街区(「建築の集合体」)、「まったく新たな欲望」の創出、これらはすべて「状況を構築する」ことという言葉に要約される。後にシチュアシオニストにとって中心課題となる「状況の構築」という考えが、既に1953年の段階で現れており、LIの都市計画の基本概念となっていたのである。
ドゥボールはこれより早く、1952年の『アンテルナシオナル・レトリスト』誌 第2号に、「限界を持つ形態の遊びを超えて、断固として、新しい美は状況のものとなるだろう」と書き、彼の関心が、イジドール・イズーらのレトリスト右派が行っていた個々の「形態」と戯れるだけの造形「芸術」を破棄し、その「限界」を超えたところに構築される「状況」にあることを明確に述べていた。また、1954年の『ポトラッチ』誌 第7号には、ドゥボールら7名の署名で書かれた巻頭論文のなかで、「状況の構築」という言葉が次のように明確に定義されている。
状況の構築は、熟慮の末に選んだ偉大な遊びを連続的に実現するものとなるだろう。それは、悲劇の登場人物なら24時間で死んでしまう舞台装置や争いの場面を、次々と渡り歩くことなのだ。むろん、生きる時間ももはや不足してはいない。
この総合には、われわれがその根本原理を把握している、行動様式の批判、影響力のある都市計画、環境と人間関係の技術のすべてが活用されねばならないだろう。
シャルル・フーリエが情念の自由な遊びのなかで示していた類まれなる魅力を恒常的に再発明せねばならないのだ。
こうして練り上げられてきた「状況」という概念は、やがて、「シチュアシオニスト・インタナショナル」の設立を契機に、より厳密に定義され、現代社会を批判する第一の武器となってゆく。「状況」は、シチュアシオニストにとって、人間がそのなかで生きる政治的・社会的環境といった受動的な場ではなく、体制を批判する異物として社会のなかに意識的に積極的に構築すべき時空間であり、パリ・コミューンを模範とし、68年のパリのバリケード空間において実現されるだろう。1958年に発行された機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第1号によると、「構築された状況」は、「統一的な環境と出来事の成り行きを集団的に組織することによって具体的かつ意図的に構築された生の瞬間」と定義される。それは歴史から切り離された現代社会の個人が、集団的に自らの歴史的生を取り戻す時間であり、そのために都市のなかに創出される拠点としての具体的な空間である。そこでは、「集団」的で意識的な闘争の側面が前面に押し出されることになる。
レトリストの時代にはまだここまでの過激さは見られぬが、こうした「状況の構築」のために、彼らは様々な具体的提案をすることによって「状況の構築」という理論の内実を積み重ねてゆく。その一端は、『ポトラッチ』誌 第23号に掲載された「パリ市の合理的美化計画」に窺える。終電以降のメトロを開放し通路に照明を施す、公園の夜間開放(照明なし)、教会を廃止し「お化け屋敷」に転用する。美術館の廃止、美術品を解放しそれらを街頭や酒場に展示する、監獄への外部の人々の自由な出入りの実現、キリスト教聖人の街路名(「聖(サン)ミシェル」、「聖(サン)ジェルマン」など)や政治家の街路名の変更、人々を過去に繋ぎ止める墓地の廃止、グラン・パレやプティ・パレなどの醜悪な記念碑的建造物の破壊、彫像の廃止もしくはそこに付された言葉の変更(例えば、第一次大戦期の首相クレマンソーの彫像には「クレマンソーと呼ばれる虎」、シテ島のノートルーダム広場には「大深淵」の名を付す)……これらの提案のなかには、教会、監獄、美術館などブルジョワジーの政治的・文化的支配装置への攻撃と、夜間に閉鎖されるメトロや公園から都市の記念碑、街路の名、偉人の眠る墓地まで、日常レヴェルで人々の思考や行動、さらに記憶までをも無意識に組織するイデオロギーへの攻撃がなされている。「状況の構築」のためには、空間をブルジョワ的に組織することで人々の生活をブルジョワ的に組織するこうしたブルジョワジーの都市計画を批判することから始めなければならない。そして、既存の都市の奥深く入り込み、その正確な地図を作成するとともにその都市の弱点を探し出さねばならない。LIがそのために編み出した方法が、「心理地理学」と「漂流」もしくは「偏流」と呼ばれる活動である。
「心理地理学( phychogéographie ) 」は、ドゥボールの論文「都市地理学批判序説」(『裸の唇』誌 第6号、1955年所収)によると、「意識的に整備されたものか否かを問わず、地理的環境が、諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その正確な法則と厳密な効果を研究すること」と定義される。それは具体的には、都市における個人の行動パターン、住民がそれぞれの地域に対して持つ心理的イメージ(悲しい街、幸せな街など)、異なる地区の心理的関係、ある地域への接近の方法、二点間の最短距離、都市における心理的切断線、都市のパサージュ・出口・防衛点など、状況の構築に役立つ正確な地図を作成することである。先の「序説」のなかでは、ドイツのハールツ山脈をロンドンの地図に従って歩くことや、都市の心理地理学的な地図を製作すること(これは後に、シチュアシオニストの時代になって、ドゥボールの『心理地理学的パリ・ガイド』、アブデルハフィド・ハティブの「レ・アールの心理地理学的描写の試み」などの体系的な作品として実現する)などを提案している。
こうした都市の心理的分節(アーティキュレーション)を探究するため、彼らは、客観的な地図や統計的・社会学的調査の成果を用いるのではなく、都市へのダイナミックな介入としての「漂流( dérive )」という方法を用いた。「漂流」とは、本来の道筋( rive )から逸れて( dé- )成り行きに任せて自由に漂うという意味で、「脱線」、「偏向」、「偏流」などとも訳される言葉だが、ドゥボールの「漂流の理論」(1956年の『裸の唇』誌 第9号所収、後に1958年の『シチュアシオニスト・インタナショナル』誌 第2号に再録)によると、「都市生活の諸条件に結び付いた実験的な行動様式、すなわち、変化に富んだ環境のなかを素早く通過する技術。漂流の概念は、心理地理学的性質の効果を認めること、また、遊戯的−創造的行動を肯定することと分かちがたく結びついており、その点において、それは旅や散策のような古典的概念とまったく逆のものである」と定義されている。この「漂流」の理論に基づき、ドゥボールたちは、パリの街の忘れられた地域や労働者街、駅の構内や夜の市場などを歩き回って都市の心理地理学的調査を行い、その綿密な報告──夜の酒場での不思議な出来事やパリの各区で同時に開始した複数の「漂流」の顛末など──を行っている。「漂流」によって、人は日常の生活から切り離されて、地図やメディアによる常識とは違った行動と心理の新しい可能性を発見することができる。「漂流」は、シュルレアリストの唱える「客観的偶然」の発見のための散策でも、日本のネオ・ダダの後継者が提唱した「路上観察学」なるものでもない。シュルレアリスト的な「偶然」は、現代の社会では無意識のうちに体制の保守的意識に絡め取られてしまい、「路上観察学」は懐古的意識に根ざしたものにすぎず、体制の都市計画に対して無力だからだ。「漂流」は、これらと異なりダイナミックで意識的な行動である。それは、「状況」の構築という明確な目的を持つ行動であり、そのための日常秩序との意識的な切断なのである。
「心理地理学」や「漂流」とともに彼らがこの時期に「状況の構築」のために用いたもう1つの方法がある。「転用( détournement )」と呼ばれるその方法は、単なる1つの方法というよりもむしろ彼らの様々な方法全体を支える方法論である。物をその本来あった場所から逸脱させること、本来の方向を逸らすことを意味するこの言葉は、「ハイジャック」や「横領」といった意味でも用いられるが、ここでの意味は「流用」、「転用」といったところだ。それは、既存のものの意識的な引用、位置ずらしによって、それまで意識されていなかった側面を暴露することだが、デュシャンのモナリザの髭のように単に権威を既めるだけの行為ではなく、むしろブレヒトの異化のように教育的で、積極的な価値を産み出すものでなくてはならない。それゆえ「転用」は単なる引用やコラージュ、パロディではない。彼らが、パスカルやヴォーヴナルグの文章や科学雑誌・百科事典の「剽窃」によって新たな「詩学」を作ったロートレアモンを自分たちの先駆者とすることからも解るように、それはブルジョワ的私的所有にまっこうから敵対し、「状況の構築」のための新しい価値を産み出す「剽窃」なのである。「転用」の最も有名な例は、プルードンの「貧困の哲学」を「哲学の貧困」と転倒したマルクスであることは『スペクタクルの社会』でも述べられている通りだが、レトリストたちも最初は、これを「コミュニケーションの未来にとって決定的なもの、すなわち文の転用」(『アンテルナシオナル・レトリスト』誌 第3号)のレヴェルで、ショッキングな効果のあるプロパガンダの道具として用いた。だが1956年の『裸の唇』誌 第8号のドゥボールの「転用の使用法」では、「転用」は体系化され、より一般化されて、文のレヴェルから、文学作品全体のレヴェル、映画(人種主義者の映画を転用して反差別の映画を製作する)、建築、小説や音楽のタイトル(『英雄交響曲』のタイトルを、例えば『レーニン交響曲』とする)、衣服や歴史の現実(衣服の意味の無根拠性、また「赤軍」という名は最初、ヴァンデ地方の王党派叛徒が名乗っていた名である)のレヴェルまで拡大されている。
この「転用」を用いた実際の作品も多く作られた。ジル・ヴォルマンは「メタグラフィ」と称して、文字や文をコラージュ風に転用した作品を数多く作り、『私はきれいに書く』というタイトルの「転用された物語」(それは、いくつかの小説を糊と鋏で切り貼りして作られた完全に「転用」だけでできた物語だ)まで「書いて」いる。文字と文の「転用」は、後にシチュアシオニストの時代にさらに活発化し、ドゥボールが「転用」の技術的指導をしたアスガー・ヨルンの作品『コペンハーゲンの終わり』(1957年)では、フランス語、ドイツ語、英語、オランダ語、デンマーク語にまたがり、小説から、広告、地図、ワインのラべル、新聞の天気予報、コミック、「自由アルジェリア万歳」などの落書にいたるまでの広い領域からの「転用」がなされている。サンドペーパーで覆われた挑発的装丁のドゥボールの作品『回想録』(1959年)でも同様に、雑多なジャンルの文や語、コミック雑誌や地図、広告、写真などの「転用」によって1952年から53年の時期のドゥボールの回想録が作られている。
この時期からSIの時代にかけて作られたドゥボールの2つの映画、1952年の『サドのための絶叫』と1959年の『比較的短い時間単位内の数人の通過について』にも、この「転用」の組織的活用が見られる。前者は、5つの声が各々『民法典』の条文、ジョイスの小説の文章、新聞の三面記事などを読み上げ、画面はその間ずっと真っ白なままだ。言葉が途切れると画面は闇に転じ、沈黙の時間がしばらく続く。90分にわたる上映のあいだ、この「転用」された声と沈黙、空虚な画面と闇が交互に続くのである。ここに示された映像の拒否、ジョン・ケージを思わせる「沈黙」の導入、言葉のブレヒト的な異化は、すべて観客の幸福な意識を攻撃し、スペクタクルを受動的に消費するのではなく、現実の「状況」を積極的に作り出すことを呼びかけている。『……通過について』では、『サドのための絶叫』のような「反映画」の様相は姿を消し、複雑な映像構成が現れる。そこには、パリの市街、観光名所、カフェなどの映像や、テレビ・コマーシャル、写真などの映像、白い画面、黒地に白く書かれた文字などが映し出され、これらの映像に重なって、男女2人の無機的な声が古典的思想家やSF小説、社会学の論文から転用した文章を読み上げ、スピーカーから流れる第3の声がニュース記事を読み上げるが、映像と声とは一致しない。言葉の転用、映像のコラージュ、映像と音の不一致、後にゴダールが盗用するこうした手法で撮られたこの映画もまた、映画によるスペクタクル社会批判であり、観客の受動的な意識に揺さぶりをかける。ドゥボールは、「スペクタクルの社会」を転覆するために映画という「スペクタクル」的な言語を用いるが、ゴダールのように「反映画」を「映画」によって搾取するのではなく、「映画」を反転させて現実に向かわせることを最重視していた。『サドのための絶叫』の初上映の際、ドゥボールは映画開始直前に舞台に出て、「フィルムはない。映画は死んだ。もうフィルムはありえない。さあ、討論に移りましょう」と発言することになっていたが、このことは、彼が映画をあくまでも「状況の構築」という目的のための一手段と考えていたことを示している。
映画を通して現実の観客に呼びかける手段となった「転用」は、LIの都市計画においても積極的に活用され、「状況の構築」のための重要な役割を担う。先に述べた、彫像の銘や街路名の変更、教会の転用などは、まさにこの手法の現実への適用である。ドゥボールらは、このほかにも壁への落書、例えば、ルノー自動車工場の壁に、ある作家の「君たちはパトロンのために眠っているのだ」という言葉を書いたり、街の壁に「夜、革命」、「決して労働するな」と書いたりする実践を組織的に行っている。「エクリチュールの役割」と題した文章で報告されているこの活動は、68年に「壁は語る」という言葉が生まれる10年以上前のドゥボールたちの発明である。
「状況の構築」、「心理地理学」、「漂流」、「転用」、これらの言葉を合い言葉に、LIの若者たちは積極的に街頭へ出ていった。そして、作品の発表だけではなく現実の行動によっても、彼らは集団でさまざまなスキャンダルを巻き起こした。「スキャンダル」という名の直接行動は、「状況の構築」を阻害する者を暴露し、それに実際に打撃を与えると同時に、レトリストの理念を広めるのに最適の形態である。むしろ、現実から分離された「作品」を認めぬ彼らにとっては、「スキャンダル」という行動こそが作品だったのだった。イズーの「レトリスム」から分かれてLIが作られることになった直接の契機も、そもそも1952年のチャップリンのフランス訪問に反対するドゥボールらの抗議行動にあった。ドゥボールらレトリスト左派は、メロドラマ『ライムライト』を携えてフランスにやって来たチャップリンの欺瞞性を攻撃するために、パリのオテル・リッツに押し寄せ、「平底靴はおしまいだ、ゴーホーム・チャップリン」というタイトルのビラを撒いて糾弾した。これを契機に、「状況の構築」か現状内での「形態の遊び」かをめぐり、レトリストのあいだで分岐が鮮明化し、イズーらレトリスト右派は運動から脱落、ドゥボールら左派はLIを結成したのである。その後も、1954年、ランボー生誕百年祭でのランボーの彫像建立への抗議行動(この行動は当初、シュルレアリストとの共同行動として計画されたが、レトリストがビラのなかにレーニンの言葉を転用したためにシュルレアリストが離反し、LI単独の行動となった。これを契機に、レトリストはシュルレアリスト批判を強めてゆく)、1955年、ロンドンの中国人街を「道徳的」理由から廃止することを提案した「タイムズ」紙への抗議、1956年、マルセイユの「アヴァンギャルド芸術フェスティヴァル」ボイコット運動(ル・コルビュジエ設計の「輝く都市」で、マルセイユ市など多くの公的機関と観光業者の援助によって開催されたこのフェスティヴァルは、体制側からの50年代アヴァンギャルド芸術の大々的な回収の試みだった)、彼らの行動は次第に活発化していった。
こうした行動によってLIは、次第に運動としての政治性を獲得し、単なる芸術批判から芸術・文化・政治の全領域での批判へと、その活動の幅を広げてゆく。そして、除名という手段で組織の思想的統一を図るとともに、運動の拡大のために他の国の同様の諸潮流と密接に連絡を取っていった。
当時、イタリア北部の都市アルバでは、アスガー・ヨルンやコンスタントら元コブラのメンバーらが、イタリア人ジュゼッペ・ピノリガリッツィオの工房を拠点に、ジャンルの境界を廃したアヴァンギャルドな芸術運動「イマジニスト・バウハウスのための国際運動(MIBI)」を展開していた。「コブラ(COBRA)」とは、デンマークのコペンハーゲン、ベルギーのブリュッセル、オランダのアムステルダムの頭文字を合わせた名で、第二次大戦中これらの地域でレジスタンスに参加した者たちが、戦後、シュルレアリスムの反動化と神秘主義化を乗り超えるために結成した芸術家集団である。1956年、このMIBIの呼びかけでアルバで開かれた「第1回自由芸術家世界会議」には、LIら8ヵ国の組織が参加した。そこでの討論と交流を踏まえて、翌1957年7月27日、イタリア北西部インペリア県の小村コシオーダロシアで、アスガー・ヨルンらの「MIBI」、ラルフ・ラムネーの「ロンドン心理地理学委員会」、「レトリスト・インタナショナル」の3組織を母体にした「シチュアシオニスト・インタナショナル」が結成されたのである。