『スペクタクルの社会』訳者解題 付「シチュアシオニスト・インタナショナル」の歴史2 木下誠
第1期 芸術批判から日常生活の革命的批判ヘ 1957−61年
シチュアシオニストが運動を開始した1950年代の終わりから60年代初めにかけてのヨーロッパでは、飛躍的な経済成長が達成され、大量消費社会が本格化し、街には車やテレビがあふれ、あちこちでニュータウンや高層ビルの建設が進められていった。当時の芸術状況は、シュルレアリスムが完全に破産して珍奇なモードとして体制に回収され、豊かな社会のなかでの反抗の身振りとしてダダの二番煎じであるネオ・ダダがマスコミの注目を浴びていた。その一方で、ジャン・ティンゲリーやイヴ・クラインら若い芸術家たちは、廃物彫刻や無意味な機械、アクション・ペインティングによって芸術の解体を身をもって実践し、大量消費社会の空虚と閉塞状態を表現していた。
こうしたなかで、シチュアシオニストは、商品の爆発によってますます貧しくなってゆく日常生活の批判を強化しつつ、「転用」の技術を武器に、「芸術」の乗り越えを実践する様々な「作品」を産み出してゆく。これには、理論には欠けていたが多くの実験的な芸術活動を続けてきたアスガー・ヨルンやコンスタントなど元コブラのメンバーや、イタリアのピノ=ガリッツィオが運動に加わったことが大きかった。
ヨルンは、この時期、絵画における転用の例として、蚤の市で買ってきた自然主義的な風景画のなかに子供が描いたような筆致で巨大なアヒルを色鮮やかに描き込んだ『不安なアヒル』(1959年)などの一連の作品「転用絵画」を作っている。また、ピノ=ガリッツィオは「工業絵画」と名付けた「作品」を数々と産み出していった。「工業絵画」とは、オートメーションの機械から吐き出される布に次々と描かれる絵画で、でき上がった「作品」はその場で切売りされる。これは、工業的有用性を無意味化すると同時に唯一の「作品」という概念も無意味にし、さらに「絵画」を額縁から解放して、「状況」の構築のために利用する点で、卓れてシチュアシオニスト的な「作品」である。
ドゥボールもこの時期、先に挙げた『……通過について』のほかに、『分離の批判』(1961年)という映画を作っている。この映画も、『……通過について』と同様に、映画論、言語学などの様々な文章の転用(それは声と字幕の両方で示される)と、コミック、身分証明書写真、新聞、他の映画などの映像の転用によって作られているが、声と字幕と映像は完全に無関係でも完全に調和しているのでもなく、それらの作り出す微妙な関係のなかからまったく新しい意味が産み出されている。それは、映画言語への批判的考察であり、「スペクタクル」社会の非コミュニケーション状況の批判である。
こうして、シチュアシオニストは実「作品」によって、日常生活批判と「状況」の構築の作業を進めてゆくが、この時期の理論活動において特徴的なことは、レトリスト時代の「新しい都市計画」が「統一的都市計画」として新たな概念規定をされ、次第にそれが運動の中心を占めてゆくことである。1957年のコシオ・ダロシアでのSIの設立大会に提出されたドゥボールの「状況の構築と、シチュアシオニスト・インタナショナル潮流の組織条件と行動条件についての報告」によると、「統一的都市計画」は、第一に、環境の完全な構築のために芸術と技術の全体を活用する一種の総合芸術である。言い換えれば、シチュアシオニストにとって、独立した領域としての芸術も個人としての芸術家も、都市計画という総合芸術のなかで破棄される。第二に、それは人間の行動様式と深く結び付いた「ダイナミック」なものでなくてはならない。「ダイナミック」とは、街区と人間の心理的感情とが互いに影響を及ぼし合うというフーリエ的な意味であり、この「ダイナミック」な街区の創造のために「心理地理学」と「漂流」の成果が生かされる。第三に、この都市計画では「遊び」の要素が最大限重視される。シチュアシオニストの「遊び」は、スポーツやゲームのように資本主義を支える競争原理に従う遊びでも、疎外された労働の裏返しにすぎない疎外された余暇の気晴らしでもない。それは、行動におけるシチュアシオニストの「道徳的選択」だとも言われている。日常生活と芸術活動、労働と余暇とを区別せず一体の活動として進める時に、その行動スタイルは「遊び」という言葉でしか表しえない。
この「統一的都市計画」はシチュアシオニストの最も中心的な概念となり、1958年のドゥボールとコンスタントによる「アムステルダム宣言」によってSIの「最低限綱領」として確認され、1959年にはアムステルダムに「統一的都市計画のための研究所」が開設される。だが同時に、それを機に文化と政治の関係をめぐりシチュアシオニストのあいだで議論が起こり、文化革命派と社会革命派とのあいだの分岐が顕在化しはじめる。1959年、ミュンヒエンでのSI第3回大会では、「統一的都市計画」をそれ自体として追求し、「創造者」としての芸術家の独立を主張するコンスタントらと、「統一的都市計画」はあくまでも社会革命の一部であり、そのなかで個人としての芸術家はありえないと主張するドゥボールらとのあいだで論争になり、この分岐は一層深まった。この大会以降、アムステルダムのシチュアシオニストは、教会の建築や体制派の都市計画への参加を理由に除名・脱退が相次ぎ、「統一的都市計画のための研究所」は「統一的都市計画事務局」と名前を変えてアムステルダムからロンドンに移された。
1960年のロンドンでの第4回大会では、SIはそれまでの国ごとの組織の連合体であることをやめ、最高議決権を持つ大会とそれが選出する中央評議会というかたちに組織形態を変更した。同時に、その「最低限綱領」を「統一的都市計画」から「日常生活の革命的批判」を軸とした「新たな文化の探究」に拡大し、「芸術」の領域だけではなく、日常生活全体に関わる文化・社会の領域へと活動の幅を広げていった。この時期から、シチュアシオニストの政治的発言や活動は活発化していく。
SIは既に設立の当時からアルジェリア革命とアルジェリア民族解放戦線(FLN)への支持を明確にしていた(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号[フランスの内戦])が、1960年には、フランスの芸術家や知識人による反戦声明「アルジェリア戦争不服従権に関する声明」(いわゆる「121人声明」)にドゥボールが署名し、『シチュアシオニスト・インタナショナル』誌(第5号「真実の時」、1960年)ではアルジェリア人民とフランスのプロレタリアートとの連帯の必要性が強調される。また、同年、評議会社会主義を唱える新左翼グループ「社会主義か野蛮か」とSIとのあいだの討論のたたき台として、ドゥボールとP・カンジュエール(ダ二エル・プランシャールの筆名)の共同署名で「統一的革命綱領の定義に向けた予備作業」という文書が発表され、両者のあいだで共同討議が追求された。この論文のなかでは、スペクタクルの社会における日常生活批判には資本主義体制そのものとの革命的闘争が不可欠であるという認識が共有されているが、実際には、「労働」の価値を無前提に認め、「労働の人間化」を主張するカストリアデイスらと、疎外された社会での「労働」を無価値だとし、「労働の拒否」と「遊び」の要素の称揚を主張するシチュアシオニストのあいだの調整は結局つかなかった。さらに同年、SIの中央評議会は、エドガール・モランやアンリ・ルフェーヴルら進歩派知識人の拠点で、シチュアシオニストの理論にも深い関心を示していた『アルギュマン』誌を、王党派・反ユダヤ主義の知識人の参加やアルジェリア革命への態度の曖昧さ(「121人宣言」へのサボタージュ)などを理由に改良主義的だとしてボイコットを指令する。
こうして、次第に単なる文化革命から社会全体の革命へと傾斜していったSIは、1961年のスウェーデンのイェーテボリでの第5回大会で、その理論を明確にする。この時期からSIに加わり、ブリュッセルで「統一的都市計画事務局」の活動をしていたラウル・ヴァネーゲムがこの時行った報告「拒否のスペクタクルからスペクタクルの拒否へ」はこの姿勢を強調し、次のように述べている。「資本主義世界も反資本主義を自認する世界も、スペクタクルの様式の上に生を組織している。(……)大切なことは、拒否のスペクタクルを作ることではなく、まさにスペクタクルを拒否することである。スペクタクルを破壊する要素として作られたものが、SIが定義した新しい真の意味において芸術的であるためには、これらの要素は芸術作品であることをやめねばならない。シチュアシオニスムは存在しない。シチュアシオニストの芸術作品も、いわんやスペクタクル的な状況も、金輪際存在しない。」
「芸術作品」も「芸術家」も認めないこの報告により、これ以降、「革命派」と「芸術派」との対立が激化し、翌年には、芸術的傾向の強かったドイツの「シュプール」派シチュアシオニストの除名、シチュアシオニスト商標の家具などを製作したスカンディナヴィア支部のヨルゲン・ナッシュらの除名が相次いだ。「除名」という手段はSIにとって、シチュアシオニストの理論の変質と闘う優れた武器である。こうした各支部の逸脱の続発から、SIは組織原則の明確化の必要に迫られ、SIを大衆組織ではなく対等の者から成る活動家集団と自己規定し、組織内での厳密な直接民主主義を徹底し、他の前衛集団のように弟子を持たないことを確認した。彼らが大衆組織ではなく、一種の工作者集団であることは「SIは風を蒔いた、それは嵐を刈り取るだろう」という言葉に端的に表されている。そして、翌1962年のベルギーのアントウェルペンでの第6回大会では、外部潮流との関係を再確認し、運動の非合法性・実験性を確認したうえで、国ごとのセクションを廃止して単一の組織として統一し、SIは組織的・理論的統一を完成させた。
第2期 政治批判の実践ヘ 1962−72年
シチュアシオニストが政治的行動に傾斜していったこの時期は、1960年代の米ソの核の均衡による冷戦構造のなかで、第三世界の民族解放闘争が激化し、先進国の革命運動も理論活動から実践活動に雪崩を打って移行していった時代である。こうした情勢のなかで、SIの活動は、第一に、スペクタクル社会の理論的分析と批判の強化、第二に、運動体としての革命的組織論の強化、第三に、社会・政治批判の徹底と具体的実践活動の強化として現れてくる。
第一の点については、SIは冷戦下で官民あげて建設された「核シェルター」に批判の矢を向ける。「来たるべき戦争のスペクタクルが十分に機能するためには、今から既に、われわれの知る平和の状態を変更しなければならない」(「冬眠の地政学(ジエオポリティックス)」、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号、1962年)という理由で、米国とヨーロッパの各地に作られた核シェルターは、権力にとっては、核攻撃からの保護よりもむしろ住民の従順さを作り出すものであり、資本にとっては、自らが恐怖を組織してでっちあげた偽の欲望に供する新たな耐久消費財の発明であった。それこそ、スペクタクルの社会における冷戦下での唯一の都市計画と呼びうるものであり、文字通り惑星的規模での「生き残り」をかけた商品だった。だが、SIは、真の「生」の隠蔽と疎外のうえに成り立つこの「生き残り=余りの生( survie )」こそを糾弾する。彼らは、「生き残りという概念は、極度の疲労の終わりまで遅延された自殺を意味する、それは、毎日の生を断念することなのだ」として、核シェルターのネットワークによって描かれる居住と生の姿にスペクタクル化された資本主義の真の都市計画と生存の本質を見、それとの闘いを「統一的都市計画」を掲げるシチュアシオニストの主要課題にする。SIは、1963年6月、実際に、デンマークで「RSG6(政府地域核シェルターNo.6)」と呼ばれる核シェルターの存在を暴露し、その粉砕闘争を組織している。
この時期に、SIは、余暇産業としての「地中海クラブ」(それは「状況」、「漂流」などシチュアシオニストの概念を歪曲して用いる)、映画産業での地中海クラブとも言うべきゴダール、日常生活批判を大学のなかで単に言葉の上でのみ行うアンリ・ルフェーヴル、巷にあふれるメディア論やコミュニケーション論(それらは、体制派メディアのコミュニケーションの一方向性を自明の前提とした上に成立している)、非コミュニケーションとしてのダダに追従する反時代的な芸術家たち……これらのものを次々と批判していくが、それは、これらの者も、核シェルターと同じように「余りの生」としての余暇の本質を問題にせず、擬似的な自由を幻想的に描いて、むしろ「スペクタクル」の社会に奉仕するからにほかならない。なかでも、ルフェーブルはSIから激しい批判を受けている。SIは1960年から61年にかけて、ルフェーヴルと良好な関係を保っていた(ドゥボールはヴァネーゲム、ダ二エル・コーン・べンディット、ボードリヤールらとともにナンテール大学の彼のセミネールに出ていたし、ルフェーヴルの主宰する国立科学研究センターの「社会研究センター」の会合で「日常生活の意識的変更のパースペクティヴ」と題した発表をテープで行っている)ようだが、62年にルフェーヴルが『現代への序説』でシチュアシオニストのことを「若者の叛乱」として没歴史的に歪曲して述べたことからルフェーヴルを激しく批判しはじめる。さらに、同年『アルギュマン』誌の終刊号でルフェーヴルが、パリ・コミューンを「祭り」という観点で捉えたドゥボールらの未発表の覚え書きを、文字通り盗用した論文「コミューンの意義」(後に『パリ・コミューン』の一部となる)を発表するにいたって、SIは「歴史の屑籠へ!」というパンフレットに問題の文章を並べて印刷して発表し、ルフェーヴルと完全に決裂した。
余暇と「余りの生」をめぐるシチュアシオニストの理論的分析の成果は、1967年に2つの本となって現れる。ラウル・ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』と、ドゥボールの『スペクタクルの社会』だ。前者は、「スペクタクル」の社会での人間の疎外状況を、主観的な観点からラディカルに批判し、「全体的人間」の回復と「欲望」の解放を熱く呼びかける。後者は、「スペクタクル」の社会を歴史的に、厳密に分析した理論の書である。これらは67年11月に出されるやたちまち売り切れ、あるいは万引されて(この2つの本はこの時期に書店で最もよく盗まれた)、シチュアシオニストの理論を広め、学生や労働者を「5月革命」に立ち上がらせるのに大きな役割を果たした。同じ年に出たルフェーヴルの『テクノクラートに反する立場』が、革命的闘争を呼びかけるシチュアシオニストの理論を「抽象的ユートピア」だと批判し、「ある日、あるいはある夜、人々が『たくさんだ’・ 労働と退屈はもうたくさんだ! もう、やめにしよう!』と口々に叫び合いながら、永遠の〈祭り〉に、状況の構築に入っていく」などということはありえないと、先進資本主義国での革命的叛乱の不可能性を主張していたのとは逆に、68年5月に人々はまさに「労働」と「退屈」を捨てて、「状況の構築」に向かったのである。
SIの活動の第二の点、革命的組織論の強化は、シチュアシオニストが次第に注目されるにつれて生じてきたSIの内外からの理論的歪曲に抗してなされたものだった。1962年の第6回大会以降、内部からの歪曲の試みに反撃するため、SIは既に、個人的な芸術作品を指向する者や、SI内部の政治的主導権を奪おうと画策したアルザスのシチュアシオニスト・グループらを除名し、その組織的統一を図っていたが、1966年のパリでの第7回大会では、革命組織としての基盤を固めるためにSIは多くの問題を解決した。この大会では、組織論一般、SIの組織、外部の革命潮流との関係の強化、世界情勢、発展途上国の経済情勢と革命勢力、文化状況、騒乱を起こすための新しい方法などが討論され、すべての点について意見の一致を見た。この時に採択された「革命組織に関する最小限の定義」は、革命組織の唯一の目的を「新たな社会分割を生まない手段を用いて、既存階級を廃絶すること」に置き、それを実現できる組織形態を「労働者評議会」に求めている。この革命組織は、世界のあらゆる場で起きている問題に対して、また日常生活のすべての側面に対して「統一的批判」を行う組織だ。それゆえ、それは、「大衆による既存の世界の自主管理ではなく、その世界の絶えざる改変をめざし」、「支配的世界の位階的秩序を自己のうちに再生することは一切拒否」しなければならない。また、この時にドゥボールが行った「報告」ではSIの活動として、現実に行われているさまざまな闘争のなかへSIの批判理論を伝達することが強調され、そのために、SIのなかでの理論と実践、理論と実際の生活とを一致させねばならないと主張されている。SIという集団は、「現実が自らの理論を探し求めているところへ」その理論をもたらすことを目的とした集団であり、SIそのものが新しい理論を求めている者たち自身の未知の理論なのである。68年5月においてSIが行ったことは、まさにそのことだ。
第三の点である政治的実践の強化は、こうした彼らの組織論に基づいている。1965年、独立後のアルジェリアでブーメディエンがクーデタを起こし、それまでの下からの自主管理の闘いを圧殺し、官僚主義的社会主義に置き換えたことを契機に、SIはマルクス主義的自主管理思想の再検討の必要に迫られた。彼らは、この時、「アルジェリアと万国の革命派へのアピール」というパンフレットをアルジェで非合法に配布し、そのなかでアルジェリア人民の自主管理の闘いへの連帯を表明する。だが、全世界的な規模に広がったスペクタクル状況のなかでは、自主管理という形態も、第三世界独自に実現することは不可能で、先進国での革命の成功なしに第三世界の革命の真の成功の可能性はないと彼らは主張する。SIが第三世界の革命闘争に対して持つ批判は、古典的なマルクス主義に則った批判ではなく、第三世界の解放闘争が独立達成後たちまち官僚主義に転化してしまうことに対する批判だった。チュニジア出身のシチュアシオニスト、ムスタファ・ハヤテイは、67年の「低開発諸国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献」のなかで「ブルジョワジーが何世紀もかけて『血と泥にまみれて』成し遂げたことを、官僚主義はわずか数十年間で意識的かつ『合理的』に実現しようと望む。(……)資本主義以前の段階の植民地社会の廃墟の上に建てられた官僚主義権力は、階級対立の廃絶ではない。それは、古い階級に新たな階級を、古い抑圧状況に新たな抑圧状況を、古い階級闘争に新たな階級闘争を置き換えるだけだ」と述べている。同様の観点から、SIは中国の文革を「偽の文化の偽の革命」として批判し、ヴェトナム戦争についても、ヴェトナムの労働者が国内で真の社会変革をめざして、国内の2つの敵(北の官僚主義者と南の所有・支配者層)を倒すことができるように、アメリカ合衆国の攻撃に反対するという立場を採る。また、アラブ=イスラエル戦争に対しても、イスラエル国家の解体と同時にアラブの既成国家も解体し、評議会権力による統一アラブを実現せねばならないと主張する。
こうした第三世界での闘争に注目する一方で、SIは、先進国内部での政治的実践活動を実行していく。1965年のデンマークのラナース基地での反軍闘争は、SIがイニシアティヴを取った闘争として画期的なものだった。この闘争は、NATO所属のドイツ軍のデンマーク軍との合同軍事演習に反対する闘争で、ドイツ軍がデンマークに入るのは戦後はじめてだったために大きな反対運動が巻き起こった。デンマークのシチュアシオニスト、J・V・マルティンらは、反ナチスの活動家や学生らと行動委員会を作り、実力阻止を掲げてデモを行い、基地の前で警察・軍隊との衝突に発展した。この大規模な阻止行動の間隙をぬってドイツ軍は基地に入るが、共同演習は結局行えず、形だけのデンマーク入りを果たすとたちまちドイツに帰り、ドイツ政府はそれ以降の合同演習の断念を発表した。こうして、反対運動は成功裡に終わるが、その後、活動家らの拠点であったマルティンの自宅が、元共産党員で運動のスパイをしていた人物によって爆破された。マルティンは、「RSG6破壊」闘争の際に、それを指導し、『平和のためのスパイ』というパンフレットを配布したり、ポップ・アートを転用して第三次大戦中の世界の風景を描いた地図『熱核反応地図』を製作したりしていた。またその後も、彼はフランコ政権下のスペインでポルノ写真を転用した『国家転覆コミック』を地下出版し、かねてから警察に眼を付けられていたが、この時、あらぬ嫌疑をかけられて逮捕された。裁判の過程でマルティンの嫌疑は晴らされ、爆破事件には警察と軍が関与していたことが明らかになったが、このラナースのSIの実力闘争は、その後、アムステルダムの「プロヴォ」グループの暴力的な街頭闘争など、ベネルクス3国と北欧の運動に大きな影響を与えた。
1966年11月から67年4月にかけて、フランスのストラスブール大学で起きた「ストラスブールのスキャンダル」と呼ばれる闘争にも、シチュアシオニストが大きく関与した。この闘争は、共産党系の「フランス全学連(UNEF)」の地方組織である「ストラスブール学生総連合会(AFGES)」の指導部に選出された学生たちがSIに同調し、UNEFの資金を用いて、シチュアシオニスト的立場を鮮明にした『経済的、政治的、心理的、性的、とりわけ知的観点から考察された学生生活の貧困およびそのいくつかの治療法について』(以下、『学生生活の貧困』)というパンフレットを大量に印刷して配布し、AFGESの解散を訴えた事件で、強固な結束を持つと思われていたUNEFの内部からの叛乱としてフランス全土の注目を集めた。この67年の事件の前兆は、シチュアシオニストがストラスブール大学の教官アブラハム・モールに対して行った攻撃に既に見られる。『アルギュマン』派の知識人で、サイバネティクスのテクノクラートであるモールは、63年12月に、シチュアシオニストヘの野次馬的な関心から、「シチュアシオニスト集団への公開質問状」を発表した。社会学者的な知識をひけらかし、流行の思想を追うだけの無内容なこの「質問状」に対して、ドゥボールはただちに糾弾の返事を書く。その後、SIは、65年3月、モールがストラスブールで講演をした際には、ビラを撒いて講演をつぶし、66年10月にモールがストラスブール大学の社会心理学の教官のポストを得ると、その最初の講義に押し寄せ、学生とともにトマトを投げて追い出した。モールに対する攻撃は、彼が「社会心理学」という体制の人間管理を研究し、その研究は、実際に大学や都市において人々を管理する手段として用いられつつあったからにほかならない。モールは、大学以外でも、例えばパリの「装飾博物館」で「都市計画の方法による住民管理」に関する講演をしようとして、反体制的建築家たちから、同じようにトマトを投げ付けられている。
AFGESのメンバーは、このモール追放闘争と相前後してSIと連絡を取り、『学生生活の貧困』の出版計画を立てた。そして、66年11月に新学期が始まると、『ドルッティ旅団の帰還』と題したコミック形式のビラを撒いて予告し、『学生生活の貧困』を配布したのである。彼らの行為の反響の大きさに司法当局が乗り出し、裁判では、選挙で選ばれたにもかかわらずAFGESの指導部は非合法だとされ、彼らが呼びかけていたAFGES解散のための学生総会の開催は禁じられた。これに対して、彼らは、学内では、学生に対する管理と抑圧の拠点である「大学精神援護局」の閉鎖を実行し、学外では、67年1月にパリで開催されたUNEFの大会に出席し、UNEF解散の動議を提出する。この動議は、ナントの学生組織と「療養所学生」組織の2組織の賛同を得ただけで却下されたが、UNEF内部の亀裂を拡大する大きな役割を果たした。
彼らが製作した『学生生活の貧困』は初刷1万部が2ヵ月で売り切れ、67年3月に増刷された第2刷1万部、さらに第3刷1万部もたちまち売り切れ、フランス各地の学生たちのあいだで争って読まれた(その後、イギリス、アメリカ、スウェーデン、イタリア、日本など各国語に翻訳され、計30万部近くが出版された)。「ストラスブールのスキャンダル」は、 この『学生生活の貧困』に盛られたシチュアシオニスト的内容と、意識した少数者の直接行動によって状況を構築するというその闘争スタイルによって、68年の「5月革命」を思想的にも戦術的にも準備したと言える。
60年代のシチュアシオニストの活動のこれら3つの側面──スペクタクル社会批判、革命組織論、政治的実践活動──は、68年5月に全面的に開花する。
フランスの「5月革命」は、戦後20年を経て経済的には順調な発展をしていたフランス社会のなかに、経済危機とは無関係に燃え広がった異議申立ての運動である。それは生活に困窮し強固な階級意識を持ったプロレタリアートなどもはや存在しないと多くの者が信じていたところに、突然、あらゆる工場や職場で占拠とストライキが始まり、史上初めての自然発生的なゼネストにまで広がり、最も安泰であると思われていたフランスの国家体制を危機に陥れた革命運動だ。68年3月、パリ大学のナンテール分校での大学の管理体制とそれに反発する学生の闘いに始まったこの闘争は、5月に入り当局による大学閉鎖を産み出すと、パリの中心部ソルボンヌ大学に飛び火する。5月3日以降、ソルボンヌでのキャンパス集会、機動隊による学生排除と逮捕、それに反対する学生たちの自然発生的な抗議行動、大学占拠、解除、当局側の大学閉鎖、再占拠、それ以後連日の抗議デモと激しい街頭バリケード闘争、国立劇場オデオン座の占拠、フランス各地での大学占拠、ルノ−の自動車工場、飛行機工場、郵便局、鉄道、空港、放送局、新聞社、タクシー会社、個人商店とあらゆる場での工場・職場占拠と山猫スト、フランスの総人口5千万人のうち1千万人が参加した前代未聞のゼネスト……と大学での運動が5月から6月にかけてのわずか1月の間にフランス全土の工場と職場へと燎原の火のように燃え広がった。このゼネストは、最終的には、CGT(労働総同盟)ら既成の組合組織による闘争の懐柔、ド・ゴール派の巻返し、そして両者の手打ちによって、わずか10パーセント足らずの賃上げという体制内改革によって収束させられてゆくが、運動の最中に出された要求の中心は、物質的なものというよりもむしろ労働環境の改革、管理体制の破棄、自主管理など現代資本主義社会における資本と労働の関係、管理する者とされる者との関係に根底的な異議を提出し、日常生活レヴェルでの疎外状況を本質的に変革しようとするものであった。「5月革命」は、現実には、政治権力を奪い取ることも、ブルジョワ支配体制を覆すこともできなかったが、一切の権威の否定、組合による代理的闘争方法に代わる直接民主主義的闘争スタイルの確立、生産の現場から日常生活のあらゆる場所への闘争の拡大など、それ以降のブルジョワジーとの闘争の場と性格とを決定づけるような大きな「切断」を持ち込んだ。この「切断」によって、ブルジョワジーとの闘争は、古典的な国家権力(警察・裁判所・軍隊・官僚)から、フーコーの言うような日常生活のあらゆるレヴェルに存在するミクロな権力関係──それはとりわけ「文化」の問題として現れる──を問題とする方向にシフトし、その結果、闘争の主体=主題として、われわれが現在眼にしている女性・少数民族・移民・失業者・精神障害者・身体障害者などの社会的マイノリティが舞台の前面に立ち現れてきた。
シチュアシオニストは、この「5月革命」において、第一に、闘争の方法やスタイルという点で広く影響を与え、第二に、具体的闘争への参加によって自分たちの理論を実践のなかで展開し、闘争において大きな役割を果たした。
第一の点を表現するのは、闘争のなかで工場や大学、街の壁に書かれた落書だろう。「消費すればするだけ生は貧しくなる」、「死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむこと」、「退屈は反革命だ」、「君たちの欲望を現実と見なせ」、「快楽に強制される留保は、留保なく生きる快楽を挑発する」といった新しい「欲望」の肯定と「余りの生」の告発を「転用」の文体で表現した言葉や、「スペクタクル商品社会打倒」、「決して労働するな」、「労働者評議会に権力を」などといったシチュアシオニストのテーゼそのままの言葉が、当時、ナンテールやソルボンヌ、さらにパリのあちこちの壁に書かれた。これらの言葉に表された反管理の思想、労働の拒否、日常生活全体の疎外に対する異議申立ての思想は「5月革命」全体の基調である。また、フォトロマン、広告、ポルノ写真を転用したビラやパンフレット、コミックを積極的に活用したパンフレット、映画の積極的活用、マスメディアへのゲリラ的闘争(偽新聞、偽雑誌、自由ラジオや海賊放送)……ルネ・ヴィエネが67年に「シチュアシオニストと政治および芸術に反対する新しい行動形態」のなかで提案したこれらの方法の多くが実際に「5月革命」のなかで活用された。さらに、大学や高校での授業介入・教師批判・討論、卵やトマト、ペンキ爆弾など創意工夫を凝らした闘争手段、「下部に責任を負い、いつでもリコール可能な」評議会形式の闘争組織、意識した少数者による直接行動、下からの運動によるストライキの決定、これらの行動スタイルはまさにシチュアシオニストがそれまでに実行してきたスタイルそのものである。
第二の点に関して、シチュアシオニストは3月のナンテールの闘争でも、5月のソルボンヌの闘争でも、占拠の中心にいて、最もラディカルな潮流として活動した。ナンテールでは3月に大規模な闘争に発展する前に、1月から既に授業での教師批判や授業ボイコット(特に、理論を操るだけで自分の足元の現実の問題に何一つ対応できないアラン・トゥレーヌ、アンリ・ルフェーヴル、エドガール・モランら『アルギュマン』派の欺購的社会学者の)という形でのサボタージュ闘争、また、それが原因で大学当局から処分された学生の処分撤回闘争があった。この闘争の中心は、「怒れる者たち( Enragés )」という10数名の者から成るグループで、処分された学生にも彼らが多く含まれていた。ヴェトナム反戦運動に関連したナンテールでの私服警官のスパイ活動に抗議して結成されたこの集団は、その基調をSIの理論から取っており、その中心人物ルネ・リーゼルは後にSIの正式メンバーとなった。彼らは、3月22日には、後に「3月22日運動」を形成するダユエル・コーン=べンディットらの学生のグループよりも早く、闘争の先頭をきって大学本部の建物に入り、占拠のきっかけを作った。アナキストのコーン=べンディットが代表する「3月22日運動」と「怒れる者たち」との間には、思想と闘争方針の両方において明確な分岐があり、前者が学生の即時的利害だけを問題にしていた(それゆえ、彼らの大学本部占拠時の第一目的は、「試験結果文書の破壊」だった)のに対して「怒れる者たち」は層としての学生を認めず、現実によって規定される学生の階級性を問題にした。「怒れる者たち」がナンテールの壁に「君たちの欲望を現実と見なせ」と書いたのに対し、「3月22日運動」の方は「想像力を権力に」と書いたが、シチュアシオニストはこれを批評して、「これは、一方は欲望を持っていたのに対して、他方は想像力さえ持っていなかったからだ」と書いている。
闘争がパリに移り、5月13日にソルボンヌ大学が占拠されると、翌日には、この「怒れる者たち」はSIのメンバーとともに「怒れる者たち──SI委員会」という組織を形成し、活動を開始した。彼らは占拠されたソルボンヌでの最初の総会で、運動の組織形態とそこで開始された闘争の全体化について最もラディカルな提案をし、占拠の中枢である「ソルボンヌ占拠委員会」のメンバーに選出された。総会でのUNEF官僚主義者らの引き回しと「3月22日運動」の学生らの一貫性の欠如によって、SIらは「占拠委員会」を去り、新たに「占拠維持評議会」を形成した。残された学生や新左翼諸党派のメンバーらによって作られた新「占拠委員会」は、毎日の総会で選出される直接民主主義的な委員会ではなく、政治の専門家による固定的な委員会に変質してしまった。SIは、この最初の「占拠委員会」と「占拠維持評議会」を拠点に彼らの理論を実行に移していった。彼らの主張は、闘争における徹底した直接民主主義の実現と、学生の闘争から労働者の闘争への運動の拡大の2点にあった。そのため、彼らは、あらゆる場で直接眠主主義を厳密に貫き、すべての決定を総会に委ねることを一貫して主張し、闘争に潜入した新左翼諸党派やアナキスト、UNEFの官僚主義者らによる内部からの運動の懐柔やサボタージュに抗して闘った。また、ソルボンヌを「人民のクラブ」として労働者に解放する一方で、ルノーなどの工場労働者のストライキ支援に出かけた。同時に、電報や電話、ビラやパンフレットを独自のネットワークで配布し、ソルボンヌからフランス全土の労働者に工場占拠と労働者評議会の結成を呼びかけるメッセージを発し続けた。
シチュアシオニストは当時、その行動と理論の過激さゆえに、政府や体制派からは恐れられ、マスコミでも大きく騒がれたが、こうした「5月革命」でのシチュアシオニストの役割は正当に評価されたとは言えない。これは彼らが他の新左翼諸党派とは異なる独自の組織理論に基づいて行動したことに大きく起因する。第一にSIは、その前身である「レトリスト・インタナショナル」の時代から、自らの理論的変質を拒み、一貫した少数主義を貫いた。LIの主要メンバーはわずか数名であった。SIの正式メンバーは、一時期での最大で30名、69年末までの時点で延べ70名である。しかもそれらのメンバーが、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、イタリア、イギリス、スカンディナヴィア、アルジェリア、アメリカなど10近くのセクションに分かれて活動していた。68年の「5月革命」開始時にパリにいたメンバーは、ドゥボール、ヴェネーゲムらわずか4名にすぎない。これは、この時期、SIのメンバーになろうと彼らに接触してきた者が数百名、自称シチュアシオニストが数千名いたことを考えると驚くべき数字である。第二に、大衆組織としての組織拡大を求めぬSIは、「状況」の構築の過程でも「状況」が構築された所でも、闘争を指導するのではなく、その「状況」のなかで自らの理論そのものを実現することを最優先させた。それゆえ彼らは、「占拠委員会」の主要メンバーだったにもかかわらず、他の党派のようにシチュアシオニストの「旗」は掲げず、ビラやパンフのなかでSIを宣伝せず、パリの壁に数多く書かれた言葉にSIの署名をすることはしなかった。第三に、「スペクタクル」社会との闘争がそれ自体「スペクタクル」化されることを拒み、SIは運動の「代表」を置かずマスコミとの接触を拒否した。彼らは、コーン=ベンディットのようなマスコミに作られたスターは徹底的に批判した。
SIのパリのメンバーは、「5月革命」の闘争が終結すると、ブリュッセルに亡命したが、その後、彼らは「5月革命」を次のように総括している(2つの時代の始まり)、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号、1969年)。5月の運動は、単なる学生運動ではなくプロレタリアートの革命的闘争であり、その行動は労働者による何らかの既存の政治理論の実現のための行動だったのではなく、プロレタリアートが自らの理論的意識を求めた行動だった。だが、決起した大量の労働者はついに自らの場でこの理論を見出しえず、思想の面でも行動の面でも時代遅れの新左翼諸党派は、現代の闘争が要請する新しい問題意識も新しい闘争形態も理解せず、過去の革命形式を一様に──パロディとして──提案するだけだった。学生が結集した「3月22日運動」も、ボリシェヴィズムを夢想して首尾一貫性を失い、結局は資本主義の体制内に回収されてしまった。だが、先進国最大のゼネスト、歴史上初めての山猫ゼネスト、革命的占拠と直接民主主義の素描、2週間にわたる国家権力の消滅過程の進行、革命理論の検証とその部分的実現、形成過程にある現代プロレタリアートの最重要の実験、これらの成果は本質的なものであり、それだけで十分に勝利の名に値する。
68年6月以降、Slは、敗退期の闘争を立て直し、「5月革命」のなかで出現した労働者評議会勢力を組織化するために、トゥールーズの「国際革命」派や、「社会主義か野蛮か」の分派である「労働者通信情報」派などの組織との調整を試みるが、結局それは失敗に終わる。労働者評議会を総会より上位に置くレーニン主義的組織「国際革命」派や、労働の搾取の問題を優先し、日常生活批判は二次的な問題とする「労働者通信情報」派の唱える「評議会」が、歴史に現れた過去の評議会のイメージ──「評議会イデオロギー」──を一歩も脱しておらず、シチュアシオニストが主張する、「スペクタクル」社会の統一的批判を担う組織としての労働者評議会とは相容れなかったからだ。
現実の闘争の敗北と衰退とは逆に、この時期、5月を闘った者たちが大量にSIのメンバーになろうとしてSIへの接触を図り(その内の何人かは実際にSIに迎えられた)、公式のSIメンバー以外にも、「プロ・シチュ」と呼ばれる自称シチュアシオニストが数多く生まれていった。69年から72年までの時期は、こうしたシチュアシオニストの公然化と量的拡大という新たな状況との闘いとして性格付けられる。
SIの外に出現した大量の「プロ・シチュ」は、シチュアシオニストの理論を正確に理解せず、ただ単にその反体制的な雰囲気を真似し、シチュアシオニストをモードとして消費する存在とさえ言えるが、これらの者によってSIの姿は歪曲して伝えられた。また、それと並行して、68年の過程で新たに加入したメンバーと、それまでのメンバーとの間に、次第に組織内部での役割の固定化が進み、新しいメンバーの多くは待機主義・代行主義に陥り、旧メンバーのなかには新たな理論的・実践的実験を継続せずに自己保身に走る者も出てきた。これらに対処するため、69年7月には、ドゥボールが『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌の編集を降り、九月にヴェネツィアで開催されたSI第8回大会ではSIの構成員規約が作成され、全員一致の原則、少数意見の表明方法、二重加盟の禁止など、シチュアシオニストの資格が明確化された(この規約により。例えばムスタファ・ハヤティは、PFLPとの関わりを問題にされて除名された)。だが、70年に入ると、SI内外での行動の欠如と観念論的議論の沸騰が著しくなり、SIはこれに抗して、沈黙という武器で闘い、さらに、もはやSIの理論の普及の役割を果たさなくなった機関誌の刊行を中止した。そして、11月には、ドゥボール、ルネ・リーゼル、ルネ・ヴィエネが、SIの規約に従って分派を結成し、「宣言」を発表して「SIのイデオロギーと完全に訣別する」意志を表明。これに、ただちにイタリア・セクションのジャンフランコ・サングイネーティが同調した。この分派の結成に、新シチュアシオニストやヴァネーゲムらは反発したが、ドゥボールらはSIが「最後の形態の革命スペクタクル」とならないように、SIを破壊する闘争を開始する。ヴァネーゲムも結局、この時にSIを脱退した。ドゥボールらの側では、その後、リーゼルが除名、ヴィエネが「個人的理由」で脱退。ドゥボールら主要メンバーがすべて抜けたSIは残された者たちだけで活動停止に陥った。
1972年、ドゥボールとサングイネーティは、SIの公式文書というかたちで『インタナショナルにおける真の分裂』という本を発行し、そこに収めた連名の「シチュアシオニスト・インタナショナルとその時代に関するテーゼ」のなかで、SIの活動の総括、分裂と解体についての見解を表明し、「シチュアシオニスト・インタナショナル」の活動に完全に幕を降ろした。この「テーゼ」のなかで彼らは、運動の完全なる「傍観者」である「プロ・シチュ」を激しく糾弾するだけではなく、そのような存在を産み出したSIの自己批判も行っている。SIは、1957年からの一貫した理論的・実践的活動によって「状況の構築」を追求し、68年にあらゆる場所で「シチュアシオニスト思想」が見られる状況を作り、SIの量的拡大を産み出したが、まさにそのことによってSIの質的停滞を自ら産み出した。ドゥボールは、そのような停滞を隠蔽したまま生き残ることによって生を失うことを拒否して、今やそれ自体がイデオロギーと化そうとしているSIを自らの手で葬り去るのである。「これらのゴロツキどものあいだに、われわれが眼に余る名声を獲得したと誇れる今、われわれは、より近寄り難く、より非合法であることをめざそう。われわれのテーゼが有名になればなるほど、われわれ自身はより難解になってゆくだろう」(57)、「SIの真の分裂は、現在の異議申立ての漠然とした無定形な運動のなかでまさに今果たされなければならない分裂だった。それは、一方での、時代の革命的現実のすべてと、他方での、この点に関するすべての幻想との間の分裂である」(58)、「SIの欠陥の全責任を他人に押し付けたり、何人かの不幸なシチュアシオニストの心理的特性によってそれを説明しようとしたりするのではなく、逆にわれわれは、これらの欠陥をSIが行ってきた歴史的活動の一部として受け入れよう。ゲームは他の場所で行われたのではない。SIを作り、シチュアシオニストを作った者が、それらの欠陥も作ったに違いない。(……)われわれはSIの現実のすべてを認める。そして、その現実がそのようなものであったことを喜んでいる」(59)、「われわれがわれわれの時代を超えた存在であることができるかのように、われわれを称讃することはやめてもらいたい。あるがままの姿によって時代に魅入られ、時代そのものに戦慄を覚えてもらいたい」(61)。
60年代を疾走したSIはこうして「時代」のなかに自己を焼き尽くした。だが、彼らが掲げた「統一的都市計画」と「状況の構築」の理論、「表象=代理」に対する根源的な批判(「スペクタクル」社会論と、「労働者評議会」の言葉で語られるラディカルな直接民主主義)、日常生活の統一的批判の実践、現実の変革運動におけるその行動方法、これらのものはその「時代」のフィルムの上に確実に焼き付き、そこからわれわれの時代に光を投げかけている。彼らが提起した問題は、今も何一つ解決されてはいない。それゆえ、この「時代」に「戦慄」を与える新たな理論と実践が求められているが、この新しい理論と実践はもはや彼らの名ではなく、われわれ自身の新しい名を名乗らねばならないだろう。
本書の翻訳の過程では、多くの人々の助けをいただいた。ここにお礼を申し述べておく。最初に、ドゥボールの本の存在を教えていただき、翻訳を勧めてくださった市田良彦氏には、下訳の段階で原稿を読んでもらい、内容に関して多くの意見を頂戴したうえ、訳者とともにフランスに滞在中、オーヴェルヌ地方の山中にあるドゥボールの家に同行までしていただいた。68年前後をパリで過ごされた廣田昌義氏と杉村昌昭氏は、シチュアシオニストに関する貴重な資料を貸してくださり、また、当時の様子をいろいろと教えてくださった。それから、何よりギー・ドゥボール氏本人と同居人のアリス・ペッケル=ホーさんに感謝する。昨年の10月には、自宅に押しかけた訳者ら2人を温かく迎え、訳者の疑問にていねいに答えてくださった。また、その時ドゥボール氏からいただいた著書『回想録』と『映画に反対して』は、訳者解題におおいに役立った。最後になったが、この本が日本語に訳される意義を高く認め、本書の編集と出版を強力に進められた平凡社編集部の二宮隆洋氏と菅原晶子さんに感謝する。2人には、最初から最後まで翻訳と訳注を細かくチェックしていただき、多くの有益な意見を頂戴した。