小栗旬さんが昭和の未解決事件の謎に挑む新聞記者を、星野源さんがその未解決事件に幼少期にかかわっていたテーラーを演じている映画『罪の声』(土井裕泰監督)。これは実際にあった昭和の未解決事件をモデルとした塩田武士さんの原作小説を、野木亜紀子さんが脚本化したものだ。
実は顔を合わせたことはあれど、じっくり話すのは初めてだという二人の対談の前半は、「フィクションだから描き出せるもの」を中心に語っていただいた。後半は、『罪の声』でも描かれている「事件の真相を明らかにすること」と「人の人生をエンタメとして消費すること」の微妙な違いを入り口に、エンターテインメントの力、ニュースの役割についてお伝えしていく。
「事件をエンタメとして消費しているだけだ」
小栗さんが演じる新聞記者の阿久津が「人が亡くなってもいないのに事件を掘り下げるのは、この事件をエンタメとして消費することになりませんか?」と上司にくってかかるシーン。このとき古館寛治さん(館は本来は舎に官)演じる上司が「消費されないようなニュースを作ればええねん」としびれるセリフを返していて、新聞記者ならずとも、テレビや雑誌などのメディアで働く人間にとっては、ドキリとするシーンとなっている。
「エンタメとして消費されるのではないニュース」の大切さを、改めて感じさせる。
塩田 悲しいかな、今の時代って硬派記事が読まれないんですよ。“誤報”をテーマにした小説『歪んだ波紋』を発表したときにショックだったのは、世間は事実に興味がないということでした。フェイクだなんだとマスコミを批判しながら、バッシングしている当の本人は事実確認のツールを何にするか考えていない。
この、情報の理解を浅瀬で留めてしまう風潮を是正するためにどうすればいいかを考えると、ジャーナリスト教育を充実させていくしかないと思うんです。私が新聞社に入って一番不安だったのは、職業に対する基礎がないことでした。当時は完全に根性論で、警察担当に回された新人は、警察署にある刑事部屋で、刑事課長を相手にどれだけ喋れるかが勝負だったりする(笑)。「早よ、出て行け!」とずっと怒られ続けて、心が折れた後に、生活安全課を回って、また怒鳴られる。最初はそんな毎日の繰り返しでした。
今は、新聞記者に対する逆風がすごいですが、取材で情報を得ることがどんどん難しくなる中で、事実を伝えようと頑張っている記者は大勢いるんです。だから、取材している人をみんながみんな悪いとは思わないで欲しい。記者がいなくなったら事実に基づかない歴史が多数生まれる。
本来なら、大学でジャーナリズム教育を受けて、目的意識を持って入った人が記者になるべきなんですよね。事実の大切さを若い世代が学んでいくことができれば、政治の質も変わっていくんだと思います。
ネットメディアは、個人発信もできますけど、「発信するということは責任が伴う」ということを考えないといけない。間違った情報でも平気で垂れ流している人は、どこかで「自分はメディアの人間じゃない」という甘えがあると思う。でも、「発信」した時点でもうそれはメディアなんです。
野木 フォロワーが100万人とかいる有名人でも、無責任な発信をすることがありますからね。ヘイトスピーチを垂れ流している大統領がいるような世の中では、「これもありなのか」と思ってしまう人もいるでしょうし。
塩田 物事に対して高みの見物をするのではなく、弱い立場の人や大変な境遇に置かれている人に対して、「これは、もしかしたら自分だったかもしれない」と思えるかどうか。そういった想像力を喚起するのがフィクションの力なんです。半径5メートル以内で何かが起こっているかもしれないという当事者意識を育む上で、エンタテインメントは本当に大事。その一方で、虚実の“実”の役割は、伝えるべき事実をきっちり明確にしていくことです。曖昧さを極力回避して、とにかく事実だけを積み重ねる。