壮大な廃虚群として注目を集めるその島は、近代化の陰に隠れた盛衰の歴史を静かに語りかけているようだった。
長崎港から船で30分ほど南下すると、正面に“艦船”のシルエットが浮かび上がった。観光客らにつられてカメラを取り出し、船の揺れに耐えながら夢中でシャッターを切った。目を凝らすと、大小さまざまな建物が所狭しと立ち並び、海上に浮かぶ街のようだ。
軍艦島は近年に付けられた俗称で、正式名を「端島(はしま)」という。周囲約1.2キロ、面積約6万3000平方メートルという小さな島では、江戸時代後期に石炭が発見され、1890(明治23)年、三菱によって本格的に採炭が始まった。
石炭の採掘量と比例するように、島のにぎわいは増していった。最盛期の1960年には、約5300人が住み、社員寮や小中学校、病院など生活に必要なものばかりではなく、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあった。しかし石炭の需要が減り、74年に炭鉱は閉山し、全島民が退去した。長きにわたって人々の記憶から忘れ去られていたが、2009年に観光用ルートが整備されて上陸できるようになり、再び脚光を浴び始めた。
島に着いて、まず目に飛び込んできたのは、破壊されたコンクリート壁や、むき出しになった鉄骨、急峻(きゅうしゅん)な崖の上に立つ荒廃した住居だった。「映画のセットみたい」。観光客たちの高揚した声が飛び交った。
見学ができるのは島全体の3分の1ほど。鉱業所の設備は閉山時に取り壊されほとんど残っていないが、ベルトコンベヤー跡や、れんが造りの事務所、日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパート(7階建て)などを間近で見ることができる。
度重なる台風の影響で、建物の壁には大きな穴が開き、窓ガラスはほとんどない。「島で一番困ったのは台風だった。波が押し寄せると仕事は休み。ただ、波を怖がるようでは一人前の島人とは呼ばれませんでした」。元島民でガイド歴5年という木場田(こばた)友次さん(76)の語り口からは、厳しい環境でもはつらつと生きた人々の様子が浮かんだ。
翌日、長崎市内からバスとフェリーを乗り継ぎ、01年まで操業した九州最後の炭鉱「池島炭鉱」を探検するツアーに参加した。ヘルメットとキャップランプを装着して準備完了。かつて資材などを運んだ緑色のトロッコ電車に乗り込み、元炭鉱作業員の若葉谷三秋(わかばやみつあき)さん(66)の案内で坑内に入った。
真っ暗な坑道には無数の電気ケーブルが張り巡らされ、所々に「高圧危険」などの看板がぶら下がる。電灯がともされていても坑内は暗い。救護室などの安全設備が至る所にあり、常に危険と隣り合わせだったことが分かる。「掘っては天井を固定するという作業をひたすら繰り返した。石炭の採掘は、ベテランにしかできなかった」。若葉谷さんが誇らしげに振り返った。
軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産」と、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の2つの世界遺産登録を目指す長崎県。夜、長崎市内を一望できる稲佐山展望台(333メートル)に登ると、眼下にまばゆい夜景が広がっていた。じっと眺めていると、街を彩る光の一粒一粒が、近代化を支えてきた長崎の歴史と重なり、先人たちに頭を下げたい気分になった。
文・写真 増田紗苗
(2014年10月24日 夕刊)
メモ
◆交通
長崎市へは、長崎空港まで羽田空港から1時間50分、
中部空港から1時間20分、高速バスに乗り換え約40分。
長崎港までは、路面電車で「長崎駅前」から2駅の大波止(おおはと)で下車し、
徒歩5分。
◆問い合わせ
長崎県観光連盟=電095(826)9407