6月

2020年10月02日(金)

「シュン」これまでのツイート 1945年6月1日~15日

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NHK広島放送局では、終戦の年(1945年)の社会状況や人々の暮らしを、3つのTwitterアカウントで発信しています。
ここでは、中学1年生「シュン」の過去のツイートを読みやすく、まとめて掲載しています。
戦争の時代の社会状況を伝えるため、当時の日記などに基づき掲載します。


1945年6月1日~15日のツイート

【1945年6月1日】 9:08
国文「かめ割り柴田」の項目の授業中に警戒警報発令。すぐ帰りの準備をせねば。

【1945年6月1日】 9:47
帰宅した。と、思いきや警戒警報解除。
敵に振り回された。やれやれ…。
よし。登校だ!

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【1945年6月2日】 17:00
二限の書道が国文に変更。三限の歴史は秦の国と、前漢の歴史。前漢の発展した有様が、ありありと眼前に浮かぶ。六限に大掃除をして帰宅。

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【1945年6月3日】 17:30
歴史の授業時間が余ったので話し方の練習をする。
柳ヶ坪君が作った文を彼が読む。「亡き父よ、亡き母よ、永遠にわれを守り給へ」
彼は想像して泣いていた。

【1945年6月3日】 18:00
彼の語る様を見てみな泣いた。もし我の父母が亡くなってみよ。思うだけで胸が締め付けられる。
涙が引くと、拳を握っていた事に気付いた。少し痛かった。

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【1945年6月4日】 18:00
いよいよテストまで一週間。
作業動員で期末考査がないかもしれない。
だとしたら中間考査で頑張るしかない。
そして、父母や先生の顔に泥を塗らぬためにも勉強に集中だ!

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【1945年6月5日】 20:55
数学IIと物象の計算問題を勉強する。
難しい計算は先にやるのが鉄則である。
物象の暗記の方はまた明日にする。

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【1945年6月6日】 21:50
数学IIの見直しと生物をやった。
昨日の物象の暗記がまた出来ずに終わる。
なんとしてでも明日には覚える。

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【1945年6月7日】 15:00
昼飯を前にして2機の爆撃機が来た。
次は僕たちが殺される番だと思い必死に逃げた。
気づけば通り過ぎ去っていた。

【1945年6月7日】 20:50
数学Iと国漢を勉強した。
ずれにずれた物象の暗記は
無事終了した。
一安心である。

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【1945年6月8日】 19:30
数学Iの見直しと地歴を勉強した。
早く終わったので漢文の復習を行う。

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【1945年6月9日】 9:00
大掃除が終わった。と思ったら今度は服装検査がある。
服装検査では学校の決まりに外れた者は列の前に出され、もしもひとつでも制服のボタンが外れていたらビンタをくらう。

【1945年6月9日】 17:05
服装検査に引っ掛からなかった!やった!皆の前に出されなくて済んだ。
服装検査終了後、作業の特配あり!
『米』だ!
配給には長い時間がかかった。その後に紙や鉛筆の配給もあった!
さぁ家に帰るぞ、17時過ぎてるぞ。

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【1945年6月10日】 8:07
今日は休校日だから、明日に迫った試験のためにも全力を尽くそう。
父母や北組のために。
自分の力の及ぶ限り、うんと勉強をして良き成果を挙げなければならない。
我々が附中に入学して初めての考査である。

【1945年6月10日】 12:41
北組の皆、落第点などは取らんと言って頑張っている。
うんと頑張ろう。

国民学校の時の友達持田君が家に来る。

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【1945年6月11日】 8:06
今日はいつもより十数分早く家を出る。
遂に試験の日になった。動員になったとき、この中間考査の成績が1学期の点になるそうである。

【1945年6月11日】 13:06
1時間目の地歴はフン族征伐、ヨーロッパ中心地への移動などが出題された。

【1945年6月11日】 13:10
2時間目は数学I、少し難しかった。特に第3問目が難しかった。75点ぐらいか。

【1945年6月11日】 13:17
3時間目の生物はナズナの数と松の花の相違、トウゴマとトウモロコシの研究などが出題された。
3時間で下校。さぁ、明日も頑張ろう!

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【1945年6月12日】 8:00
本日は中間考査の最終日。
成績を皆の前で発表されるそうだ。
だから大いに張り切って試験に取り組む。
附属中学校に入学して最初の試験に不良点を取ることは不名誉だ。
父母や先生に合わす顔がない。

【1945年6月12日】 12:00
僕は自分の力の限り、精一杯に戦ったつもりだ。
どんな点を取ったとしてもそれが今の学力だ。
もしも悪い点を取ったら、今よりもっともっと頑張って取り返さなければならない。

【1945年6月12日】 16:50
試験終了後、明日の吉島飛行場への動員のことについて教官から説明を受ける。
5月14日の牛田への動員の配給で増配があった。米に紙と鉛筆だ!
とてもありがたい。
明日のためにしっかり休もう。

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【1945年6月13日】 7:13
本日より指折り数えて楽しみにしていた吉島飛行場での動員であるのに、雨が降り始めた。
ちくしょう、どうか止んでほしいものだ。
明日のためにしっかり休もう。

【1945年6月13日】 8:16
晴れた!いざ、クワを担いで吉島の飛行場へ向かうのだ!
飛行場では何の作業を行うのかな。
クワを持ち寄るところを見ると、滑走路でも作るのだろうか。

【1945年6月13日】 9:09
もうすぐ吉島飛行場へつきそうだ。
作業はなんと、甘藷畑造りであるらしい。南大橋からここまで、歌を歌いながら行進してきたがあっという間であった。
学徒動員の歌の「君は鍬とれ吾は槌」という歌詞が我々を鼓舞しているかのように感じる。

【1945年6月13日】 9:30
飛行場に練習機の赤とんぼというやつがとめてあったので、級友と順番に、教官に悟られぬよう注意してよじ登った。
僕は飛行機の操縦席というものを初めて見たのだが、電線や計器のようなものが複雑に入り組んでいて大変難しそうだ。
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【1945年6月13日】 9:39
誰か操縦桿を動かした者があったらしく、尾翼がガタッと動いたので教官が鬼の形相で飛んできた。
捕まったらえらいことだ。
なんとか逃げきれた。

【1945年6月13日】 13:10
なんとか今日の分の作業が終わったので、相撲を取ることになった。
野球においては敗北を喫した我らが北組だが、相撲では負けるまい。

【1945年6月13日】 13:54
敗北。無念。

【1945年6月13日】 16:04
作業のご褒美ということで菓子の配給があった。
少しばかり甘みがあるが、黒い粉を練った苦みの強いものである。
しかしこの時局では、こんなものでも口に入るだけ有り難い。
早速級友が土地の名をとって「江波ダンゴ」と名付けていた。

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【1945年6月14日】 11:29
飛行場作業には我々皆希望に燃えており、そして前から楽しみにしていたので作業は大いにはかどっている。

【1945年6月14日】 11:30
本日は飛行場への行進が非常によかったと教官に批評を受けた。
学徒動員の歌で自らを鼓舞したためだろうか。
まるで我らのために書かれたかのような歌である。
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【1945年6月14日】 12:59
せっかく順調に進んでいたのに、昼食を食べてすぐ教官に集められ、時局の悪化とのことで解散となった。
敵機の大襲来でもあったに違いない!
どうして奴らはいつも、僕達の務めを丁度邪魔しに訪れるのだろうか。

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【1945年6月15日】 11:29
朝から雨が降り、空襲警報が出たので雨の中を学校まで行ったり来たりすることになった。
敵のB29が毎日決まったように来襲してくるのは、日本国民の敵機に対する警戒感を鈍化させようとしているに違いない。
くそっ、忌々しいことこの上ない。

【1945年6月15日】 11:30
しかしこう頻繁に警報が鳴るのでは、学校の勉強が遅れてしまうな。

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このプロジェクトの目的は、戦争の記憶が薄れつつある中、若い世代に被爆体験を継承し、戦争の時代の社会状況についてリアリティーをもって伝え、考えていただくことにあります。
「シュン」のモデルは、1945年当時、広島の中学1年生だった新井俊一郎さん(13)です。現代の広島の10代が新井さんの日記などを読み、その味わいを大事にしつつ、若者の感性を加味し、想像を膨らませて書いています。時間は日記などをもとに推定。必要に応じて注釈をつけます。