[4a-9] ここに旗を立てよう
それからウィルフレッドが、払いが若干渋かったために放置されていた
「ウィルフレッド!」
「げっ、ギャレット!?」
報告のためギルド本部へやってきたウィルフレッドは、その入り口近くで剣闘士のように筋肉を露出した男に詰め寄られる。
いつぞやウィルフレッドに絡んで返り討ちにされた冒険者、ギャレットだ。
あれきり彼はコソコソとウィルフレッドを避けていたものだが、今日に限ってはものすごい剣幕だった。
「なんだよ、いつかのお礼参りか?」
「は? 違えよ! そんなことはどうだっていい!
キャサリンが辞めるってのは本当か!? お前仲いいんだろ、何か知らねえか!?」
胸ぐらを掴んで怒鳴るように喋るのはまるで脅迫のようであったが、どうやら単に必死なだけだ。
キャサリンが管理官を辞めるかも知れない、という話は、そう言えばウィルフレッドが場の勢いで他の管理官に漏らしてしまった。あるいはウィルフレッドが街を留守にしている間にキャサリン自身が周囲に伝えたのかも知れないが、ともあれそれがギャレットの耳にも届いたようだ。
「……事情があって、考えてるみたいだ。ちょっと……凄いところから引き抜きが掛かって」
「マジ、かよ…………」
追い詰められた様子でギャレットは険しい表情になった。
ウィルフレッドを掴む手が力をなくし、彼はギルド本部入り口前の短い階段にすとんと腰を下ろす。
「ギャレットお前、キャサリンの担当になったんだっけ?」
「半年前からな。
あの人が担当になってから、俺はよ、まだまだやれるって思ったんだ。
俺よりも俺のことを分かってて、どうすりゃいいのか教えてくれる。
お陰で、俺もう第六等級に手が掛かってんだぜ? 笑えるだろ? 10年間第五等級で腐ってた俺がよ」
疲れ切ったかのように彼は薄ら笑いを浮かべていた。
ウィルフレッドは主に
それによるとギャレットは堕落した天才だそうだった。
才能の限界にぶつかって、修行して腕を磨く甲斐性も無く、自分の仕事に付加価値を持たせる商才も無く、パーティーの一員として上を目指す協調性も無く、悪名を看板に糊口をしのいで荒れた生活をしていた。
そんな彼が、最近ちょっと大人しくなったという話だった。
ウィルフレッドに恥をかかされたせいだとか言われてもいたが、丁度それはギャレットの担当管理官がキャサリンになった時期と重なる。
彼は、いつの間にやら真っ当に冒険者としてやり直していたのだ。
「あの人がいなくなったら、俺、どうすりゃいいのか分かんねえ。
なんで……やめちまうんだよ……」
捨てられた大型犬のようにしょぼくれて、ギャレットは背中を丸めていた。
* * *
その日、キャサリンは有給休暇を取っているとのことで非番だった。
そのビルは蒸気漂う運河沿いの、静かな通りにある。
建物の一階はガンショップ。三階は蒸気パイプメンテナンス業者の事務所。二階の窓に記された文字は『アークライト法律事務所』。
キャサリンについて新聞や雑誌の記事を漁っているときに図らずも知ってしまったのだが、彼女の兄はここで弁護士をしていて、事務所兼住居にキャサリンも同居しているのだそうだ。
ウィルフレッドはガンショップ脇の狭い階段を上り、踊り場状になった場所で、法律事務所の入り口と並んだ玄関前で呼び鈴を押せないまま立っていた。
行かないでほしいと言いたかった。
別に、ギャレットのためにここまでしてやる義理は無い。
ただウィルフレッドは、なんとなく背中を押されたような気がしてここまで来たのだ。
行かないでほしいと言いたかった……言えるかどうかは別として。
「おや、ご相談の方ですか?」
「ひっ!?」
背後の気配に勘付き損ねたウィルフレッドは、声を掛けられて振り返る。
作り物めいて思えるほどに整った身なりの紳士が立っていた。
――キャサリンに似てる……キャサリンの兄ちゃんか?
蜜柑色の髪が特徴的な、官僚的な威厳を持つ男だった。年齢不詳気味だが歳は三十代くらいだろうか。
質実剛健な雰囲気のダークグレーのスーツを着た彼は、出で立ちこそいかにも
どことなくキャサリンの面影がある。若作りの父親と言われてもギリギリ信じられそうだが、キャサリンの父はとうに死んでいるからして、では兄という事か。
「いや、じゃなくて俺……」
「ウィルフレッドさん!?」
その男の影からひょっこりと、いつものブレザー制服を着たキャサリンが顔を出した。
どこぞに出かけていて、二人とも丁度帰ってきたところらしい。
「どうしてここに」
「やあ、あの、その」
元から曖昧だった行動計画は、キャサリンの顔を見た瞬間、全て吹っ飛んで頭が真っ白になった。
しどろもどろになりながらもウィルフレッドは、聞くべき事を言葉にする。
「……先日の件、どうなったのかなと。管理官、辞めるんですか?」
「ああ……すみません、お話ししようとは思っていたのですけれど」
取り繕う余裕のない真っ直ぐな質問になってしまったが、キャサリンは特に嫌がる様子も無く答えた。
「決めました。私、ケーニス帝国へ行きます」
夕食のスープの具を何にするか迷っていてそれを決めたような、軽くてさらりとした口調で彼女は言った。
重大な決断をしたのだという重さは見えず、だからこそ、この決断に躊躇いが無かったのだと、簡単に踏み切れるような話だったのだとウィルフレッドは察する。
「冒険者ギルドの皆さんにもよくしていただいてますし、こちらでの研究も魅力的なのですけれど……冬黎様ともよく話し合いまして、お世話になることに決めました」
手足が血の気を無くしていく。
留まってはくれないのか、とウィルフレッドは思った。
そしてすぐ、そんな自分の考えがひどく傲慢で愚かしいものに思えて居たたまれなくなった。
彼女にとってウィルフレッドはどれほどの価値があるというのか。
「管理官さん、俺……」
ギャレットの話をしようと思った。ここには貴女を必要とする人が居るのだと。
一瞬の後、それは少し狡いような気がした。
キャサリンにここに居て欲しいというのは、まず何よりウィルフレッド自身の気持ちだ。ギャレットのことを持ち出して盾にするのは狡い。
それに、誰かの人生を人質にして別の誰かを拘束しようというのは、それはそれでやはり狡い。
「……いえ、その。お気を付けて。
帝国は色々物騒だと聞きますから……」
「はい、ありがとうございます」
継ぐべき言葉は見当たらず、ウィルフレッドはただ当たり障り無く礼儀正しい別れの言葉を述べた。
キャサリンはいつも通りの営業スマイルで、ただ応じた。
会釈をする兄妹。
ほっそりしたキャサリンの背中。
天井の隅の汚れ。
どこかで鳴いている虫の声。
急に世界が広大になって、周囲の全てが遠ざかっていくような錯覚。
もしかしたらこれが最後になるのかも知れない。
キャサリンの姿を見るのは。
キャサリンの声を聞くのは。
そう思ったとき、ウィルフレッドは。
「…………待ってください!」
情けなくも思えるほどの大きな声で叫んでいた。
キャサリンは、振り返った。
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