舞台裏日記
2020年05月06日(水)
シュンちゃんツイート(4月13~30日)はこうやって考えました&日記を書いた新井さんからのコメント
高校生が新井俊一郎さんの日記の原文をもとに考えた4月13日~30日のツイートです。
日記の原文を現代の言葉に訳すだけではなく、若い世代が理解できるように日記に無い情報を調べて補足したり、イメージを膨らませて表現したりしています。
作ったのは「シュン」制作チームの5人。
このブログでは、メンバーが話し合いながらどんな意図でツイートを考えたのかを紹介しています。
また、日記の原文を書いた新井俊一郎さんご本人には制作チームのツイートがどう感じられるのか、コメントもいただいています。
1945年4月13日
【制作チームのツイート】
今日は教室の天井板を外す。何故かと思うたら屋根と天井板の間で焼夷弾がとどまって消し止めるのが遅れてしまうかららしい。僕にはとても想像がつかないことであった。目からうろことはこの事である。
今日の試験はなかなか難しかった。生物などは自分の研究した青虫について書くだけなので良かったが、数学や国語はそうはいかない。読んでいて、少し難しいと思うところがあった。もっと真面目に勉強しなくてはならないと胸に誓った。
【制作チームの意図】
「学校で天井板を取り去った。」という記述が日記にありましたが、何のためにやっているのかわかりませんでした。調べたところ、屋根を突き破り焼夷弾が落ちてきても天井板があると気づくのが遅れてしまうのを防ぐためだとありました。その前提も含めて伝えたいと思い、ツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月14日
【制作チームのツイート】
米国のルーズベルトに天罰が下った!このように心地いい朝も久しぶりだ。ルーズベルトが死んだことは、ここから我らの側が勝利を挙げることの現れに違いあるまい。僕も気を緩めず毎日の鍛錬に励もう。
学校で、軍人が天皇陛下より賜る勅諭を謹書した。僕もこれで一人前の皇国の臣民に近づいただろうか。生徒部長の訓話にもあったが、ひとつのことに粘り強く心を打ち込んで、より強い皇国の臣民にならねばならぬ。
【制作チームの意図】
軍人勅諭はどんなものなのかインターネットで調べたところ、ものすごく長くてびっくりしました。軍人勅諭の長さや、この文章を写さないといけない大変さを体感してツイートを見た人にも伝えたいと思い、実際に軍人勅諭を書き写しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月15日
【制作チームのツイート】
今日は日曜日なのに行軍があるので、登校した。行軍についての朝会をした後全員で無言で護国神社に向かった。
着いて手水舎で手を清めようとすると桜の花が水面に浮かんでいた。珍しいと思い、少し微笑んでしまった。次は公園に向かう。
公園に着くと桜が咲いていた。先ほどの光景を思い出した。春だ。川の水が澄んでいて空気が美味しい。その岸辺で弁当を食べる。良い景色の場所で食べる弁当はいつもよりも美味しく感じる。
【制作チームの意図】
「桜が半ば散ってゐて、なかなか綺麗な所である。川の水が澄んでゐる。」というシュンちゃんの文学的な記述からその様子がよく伝わってきて、印象に残りました。また、実際に行軍のルートを歩いてみたところ、自分自身も景色が綺麗だなと思い、その情景をツイートに取り入れました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
【新井さんから一言】
公園に着き、川の川面と桜を見ながら弁当を食べるとの描写。綺麗で長閑ですね。「この世界に片隅で」を思わせるシーンです。でも私たちは、映画のスズさんとは全く違う顔と心の持ち主でした。「なかなか綺麗なところ、川の水も澄んでいる」と書いてあります。それでオシマイですね、日記の記述は。それなのに、「良い景色の場所で食べる弁当は、いつもより美味しく感じる」と私の書いていない心境描写を書き加えました。なぜですか。ふつう、誰でも、そう感じるだろうから、ですか? そう書いたほうが、如何にものどかで優美な戦時下風景だ、と言いたかったからですか?
はっきり言いますが、いま私は、自分が行ったことは思い出せますが、桜並木や川の流れなどの風景を、全く思い出せません、日記に書いているのに、です。つまり当時の私には、そんなもの(?)、チラとは見て綺麗、とは思ったらしいけど、今の自分には無関係と心からはじき出し、無視してまった結果だろう、と思っています。
1945年4月16日
【制作チームのツイート】
空襲被害を防ぐための教室の天井除去がようやく終了したので、本日は大掃除。机の上や教壇などに埃の塊がたくさん積もっている。ホウキがボロボロなので掃くのに手間がかかった。腰が痛い。
午後の最初の授業は歴史だ。外国のことを習う。我が大日本帝国と世界がどちらが優れているかは一目瞭然だ。僕はこの国に生まれたことに誇りを持っている。我々青少年に国家の運命がかかっているのだ。
1945年4月17日
【制作チームのツイート】
本日は今から四十年前の廣島高等師範学校附属中学校開校の記念日である。全国に二つしかない高師附中だ。さらに特別のように思う。附中の生徒として胸を張れるような行いをして、先輩に負けぬ人物になりたい。
記念式典の後、グラウンドで体練会を行った。グラウンドまで駆け足で着くと、最初には一年生等の騎馬戦。激戦だったが、僕たちは負けてしまった。悔しい、次は負けない。そして生き残った一年生の騎馬が一騎。勇敢に上級生の騎馬に突入した。
次は棒倒し、また我が軍は負けてしまった。くそっ!よく守ったのに!だから次のリレーで巻き返そうと思ったが僕たちは四位で最下位だ。すると担任の三木教官が最後の周で爆走。突然の先生の参加で僕は驚き爆笑した。三位だ、先生の手柄だ!
【制作チームの意図】
日記の記述のなかで、体練会の勇ましさや盛り上がりが印象的でした。新井さんに担任の三木教官について聞くと、一緒に身体を動かして遊んでくれる若い先生だったと教えてくれました。三木教官がリレーに参加したと日記に書いてあり、さぞ盛り上がったのではないかと想像しツイートを作成しました。「附中」の当時としては自由な雰囲気が伝わるといいなと思っています。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月18日
【制作チームのツイート】
次の英語の時間に材料が揃ったため少しだけ高度計を作り、英語の授業を始めようかと思ったときに、サイレンがまた鳴り響く。皆『またか』という顔をしていたが直ちに解除。 こんな状況だが僕は真面目に勉強をしよう。
【新井さんから一言】
あの時期、日本中が敗戦必至と感じ、大都市すべてが焼け野原になったと知っていた私たちが、この日は学校で「音楽」の授業、しかも試験を受けていたということ、「ええっ」と思いませんでしたか?
「高度計」作製の授業も、材料が揃わなかったため未完成に終わったという事実。
英語の時間になって少し進んだとき、またまたサイレンが鳴り、退避体制に入ろうとしたら、途端に警報解除のサイレン。みんな慣れっこになっていて、「またか」という顔をしてオシマイたなった。私の日記では、時代を示すようにサイレン(警戒警報と空襲警報の2種類)が鳴り響くこと多く、まともな授業も出来ない状況だったことが知れます。サイレンでの警報発令、警報発令となったら私たち中学生といえども退避姿勢に入ることになっていたのです。
長く尾を引くようなサイレンは警戒警報と言って、敵機が接近したから退避体制に入れ、との指令がサイレン長鳴で発令され、私たちは直ちに帰宅、または授業中止で校内の防空壕へ向かえ、となります。
短く何度も何度も急迫したように繰り返してサイレンが吸鳴するときは、敵機が頭上に飛来し危険が迫ったから直ちに避難せよ、との緊急指令です。私たちは間に合うならば即座に帰宅。間に合わない場合は校内か近くの防空壕へ避退せよ、との指令だがら即座に避難です。つまり、警戒警報でも、いわんや空襲警報となったら、中学生といえども緊急避難が命じられることになっていました。
ところが、後日開始される建物疎開作業では、さえぎるもの全くない青空のもと、中学生、女学生の大群が、引き倒された建物の残骸を蟻が餌を引きずって運ぶように、寄ってたかって残骸の後片付けをさせられることになります。警報発令と共に退避すべき中学低学年を動員して、敵機が頻繁に飛来する大空の下での作業は絶対に危険だと反対する教師たちを、軍部が威圧して強制的に作業開始と決まってしましい、教師が恐れていた通り原爆で殆どが全滅の非運に見舞われてしまうのです。その予感が横溢する警報とサイレンの日記記述に、ぜひ注意を向けて欲しいのです。その他の日常的な学校生活より、被爆全滅した動員学徒の運命に関わる記述にこそ、皆さんの注意と関心が向けられることを切望します。
1945年4月19日
【制作チームのツイート】
数学というのはつくづく難しいと感じる。教科書を開けた瞬間に目に入るたくさんの図。無数にある問題。僕は、距離の縮小や拡大の問題が一番苦手だ。小数点の計算問題はすらすらと解けるが、このようなややこしい文章問題はあまり好きではない。
【制作チームの意図】
戦時中に実際に使われていた数学の教科書を調べ、当時の学習内容が伝わるようにツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月20日
【制作チームのツイート】
中学に入って新しくできた英語の科目。今日は、「起立」「着席」「礼」を習った。聞きなれない独特のカタカナの発音が面白い。教官が帰られるとき「グッドバイ、ボーイズ」と言われたので僕たちが「グッドバイ、スー」と答えた。次も頑張ろう。
1945年4月21日
【制作チームのツイート】
本日午前中は教練だった。僕は指導生徒であるので、級長の代理をし、軍人勅諭を暗唱した。後に、教官殿に号令のかけ方を褒められた。普段あまり人を褒められる教官殿ではないので余計に嬉しさが増した。しかしもっと練習しなければ一人前にはなれない。
【制作チームの意図】
新井さんに話を聞くなかで、教練の授業の厳しさが印象的でした。そんな厳しい授業で褒められた嬉しさと真面目なシュンちゃんなら一層頑張るのではないかという想像をツイートに込めました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月22日
【制作チームのツイート】
今日は学校はなく、そしてとても天気が良い日だ。増産のため畑に母と二人で野菜を作りに行った。道端のささやかな畑だが、この野菜が僕たちの栄養分を満たしてくれるのだと思うと本当にありがたい。母にも沢山の栄養を取ってもらいたいものだ。
畑で種をまき終わった瞬間に耳をつんざくサイレンが鳴った。それと同時にB29が飛行機雲を引きながら空からぬっと現れた。ヒューンと気味の悪い音をたてながら、敵機から何かが落下してくる。爆弾だった。爆弾。B29。ついに敵がこの広島にも襲撃をかけた。
警報はほどなくして解除され、敵機もいつのまにかどこかへ消えていたが、僕の心臓のバクバクとした音はなかなか消えてくれなかった。
夕食時、父と母とあの音は確かに爆弾の落ちる音だったがなあと話した。僕はあのB29を、米軍を許さない。
【制作チームの意図】
お母さんと畑で野菜を作る穏やかな情景が爆弾により一変し、シュンちゃんの心がかき乱される様子をリアルに感じてもらおうと、ツイートを分けて時系列に投稿しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月23日
【制作チームのツイート】
最近は戦局がより激しくなっている。日本の同盟国であるドイツのベルリンにはもう赤軍が迫っているそうだ。沖縄では米軍のヤンキー兵が到達した。
我が国の特攻隊は休みもなく毎日出動し、その度に散っているそうだ。我々のために、そしてお国のために勇ましく戦って下さっているのだ。今こそ僕も恐れていてはいけない。陛下のため、忠に生き忠に死す良き日本人とならなくては!
【制作チームの意図】
新井さんにお話を聞くと、特攻隊の存在を少なくとも表だって否定的に捉える人はいなかったと言われていました。「命を差し出すのはお国のためなら当然」と考えていたシュンちゃんの心情が伝わるようにツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
【新井さんから一言】
幾たびも出て来る特攻隊の記述を皆さんは、どんな感覚で読んでいますか。絶対に明日か明後日は死ぬと分かっていて、自分の出発を待っている年若い少年のような彼らの心を考えたことが有りますか。たくさんの遺書も読みましたか。
たいていが真夜中。頭の上から猛烈な爆発力と猛火を吹き出す焼夷爆弾が、雨霰と降り注いで来る都会の住民の恐怖を考えたことがありますか。呉市の人々は、その恐怖のなか、何千人が焼き殺されました。真夜中だったから、広島市から南の島山越しの空が真っ赤に燃えて見え、間もなく、凄まじい姿の被災者が広島へと逃げて来ました。そんな人々の当時の心や恐怖の思いを考えたことがありますか。
食べる物が無く、飢え死にしそうになっていた人々が日本中に溢れていた事実、死んだ人もイッパイいた事実を知っていますか。飢えて死んでいった戦災孤児の実話。いっぱいあります。「火垂るの墓」が一例です。広島駅にも30人くらい居たな。
戦災孤児~私の級友にも二人、います。
1945年4月24日
【制作チームのツイート】
今の我々日本人の目的は、戦いに勝って憎き米英に打ち勝つことだ。ベルリンは赤軍に侵入され、激戦が展開中だ。そして不利な状況である。沖縄も同じだ。特攻隊も出撃しているというのに。なんと悲しく悔しいことだろうか。一致団結しなければ。
本日は考査があるので早く学校へ行こう。
【制作チームの意図】
国際情勢を観察し、日本が勝つにはどうしたらいいか真剣に考えているシュンちゃん。学校に登校しテストを受けるという今と変わらないような部分と全く違う戦争の部分が両方わかるように意識して、ツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月25日
【制作チームのツイート】
附中に入学してもう三週間が経とうとしている。周りの環境の変化も大きい。国民学校の恩師は疎開で遠くの山奥へ。皆ばらばらになった。いつ攻撃されてもおかしくない広島から安全な場所へ皆行けたのだから、とても安心だ。
恩師が安全な場所へ移動できたとは言うものの、六年間も指導して下さった恩師であるから、御恩に報いなければ。恩返しをしなければ。それは我が国に尽くすことだろう。よし!憎き敵米英を撃砕してやろう!
【制作チームの意図】
弟が庄原(広島県北部の山間部)に学童疎開していたシュンちゃん。新井さんに「寂しくなかったですか?」と聞くと、「危ない広島の都市部を離れてくれてむしろ安心した。」と言われてました。疎開に別れの寂しさではなく安堵を感じるという要素が伝わるようにツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月26日
【制作チームのツイート】
最近僕らの組の友達は級長と気が合わない。皆、級長をバカにしたようにあしらう。級長が皆によく怒ることが原因らしい。皆も悪いのかもしれないが、級長はもう少し大人になった方が良いと思う。
今日は数学の時間に平板測量というものをした。この時間に僕は級長に、一番大切にしていた消しゴムを貸してあげた。数学が終わり返してくれと言うと、失くしたと言う。そういうきちんとしてない所も、皆にバカにされてしまう理由なのかもしれない。
国文の小谷教官は、面白く勉強させるという信念で授業を行われる。我々をよく笑わせて下さる。楽しい授業で有難い。教官のお陰で先程の怒りも少し落ち着いた。
1945年4月27日
【制作チームのツイート】
本日も国文や物象など、いろいろな教科がある中で英語が一番難しい。特に発音が困難である、"th"の発音は別格である。皆出来ないので教官がため息をつく。授業が進んで行き、数学の授業中に警報がなる。だがすぐに解除されたので、授業を再開した。
1945年4月28日
【制作チームのツイート】
一時間目に軍人勅諭を習う。二時間目も教練である。ただ、一時間目とは違い、二時間目は校庭で戦場運動をする。一本橋の通過などを行う。私が橋を渡れずにいるなか、皆は簡単そうに進んでいた。悔しくてやれん。今日は三回も警報がなったが何も無くおわった。
1945年4月29日
【制作チームのツイート】
本日はめでたい日である。天長節である。学校では雨天体操場で式典が行われた。その後は休む間も無く、校庭に集合し教官のお話を聞く。教官のお話の途中に警報がなり、すぐ帰宅する。広島になにもなく安堵。
【制作チームの意図】
何度もサイレンがなるが広島にはなかなか爆撃がこなかったという話が印象的で、その雰囲気が伝わるといいなと思いツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)
1945年4月30日
【制作チームのツイート】
轟音で飛び起きた。遅れて窓が揺れた。地震?何かが焦げた臭いがする。爆撃か!どこだ、どこに落とされた!学校の方だ!急いで準備だ!
学校に大穴が空いてる。周りの窓ガラスは割れている。体に力が入る。米国め、いつかこの借りは返してやる。何倍。いや、何十倍にもして返す。
朝の爆撃で授業に身が入らないな。集中、集中…。
【制作チームの意図】
4月30日は身近に爆弾が初めて落ちた印象的な日だったと新井さんからお話を聞きました。のちに、学校の先生達は生徒を農村部に疎開させますが、それもこの爆撃がきっかけだったとそうです。出来事の重大さとシュンちゃんが受けた衝撃を表現しようとツイートを作成しました。(文・ひろしまタイムライン「シュン」制作チーム)