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名古屋東照宮に、橋弁慶車で使われた弁慶と牛若丸の頭が保存されている。
これは、空襲から焼け残ったものを、戦後、七間町の旧家である安阿弥清三(やすあみ・せいぞう 大正3年頃の生れ)氏が奉納したものである。2001年に氏から直接聞いたところによるが、取材メモを紛失しているのでこれも記憶によるものであることをご容赦願いたい。
同じく七間町の旧家である高木文子氏(2010年聞き取り)によると、弁慶の頭は、高木家で保管していたものという。
安阿弥家は、代々「御箔屋・おはくや」治郎左衛門をなのり、金箔や金屏風などを取り扱っていた。
高木家は、「尋屋・ひろや」の屋号で、仁右衛門(にえもん)を襲名し。名古屋仏壇の元祖といわれる家である。
平成元年ころ橋弁慶のからくりを名古屋市が復元するが(今、名古屋能楽堂にある)お囃子がわからないということで能の曲からを採っている。
この復元に際してお囃子を、七間町に住んでいた林、柴田、安阿弥、岩田、高木の各氏に問い合わせたがわからないということであった。
戦後は、佐藤国三郎氏が唯一のお囃子の承継者として、有縁の人々を集って演奏を行っていた。記録では昭和37年の郷土芸能祭(名古屋まつりに際して行われる)での演奏が最後と思われる。プログラムを見ると「道行」「帰り」と2曲演奏している。
間下浩之氏(詳細はYouTubuまたは「七間町橋弁慶車 お囃子の復活」(森零監督))は、七間町の出身ではないが、氏が呉服商、佐藤氏が刺繍職人という仕事の上での関係があり、佐藤氏の主宰する七間町おはやし保存会に参加していた。
間下氏によると、佐藤氏には子どもがいなかった(どうも戦死された?)こともあり伝承が途絶えている。
前述の安阿弥氏は、他町から養子で入られたこともあり。一度だけ(昭和11、12年ごろ)付太鼓をやったのみとのことであった。
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