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この作品「ペイル・ブルー・ドット」は「腐術廻戦」「五悠」等のタグがつけられた作品です。
ペイル・ブルー・ドット/一片の小説

ペイル・ブルー・ドット

12,848 文字(読了目安: 26分)

とある事情から疎遠(険悪寄り)になっていた五と虎が再会して誤解を解く話。先輩後輩パロ(大人)。

ひょんなことから酒と薬をチャンポンした虎が超素直になっています。
小さなことに気付いていなかった二人。

表紙をお借りしました(illust/78065619)
ありがとうございます。

2020年11月14日 18:05
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 ◇

 気持ち悪い。世界がぐるぐる回っている。何度か名前を呼ばれているが反応出来る状態じゃなかった。俯いて必死で吐き気と戦う。こんな時に限って地面の汚れた部分ばかり目に入って尚のこと気持ち悪くなった。
 普段は静かなくせに宿儺も五月蝿いし頭の中がぐちゃぐちゃだ。やれろくでもないものを入れおってだの、感知ザルのクソ小僧だの。……クソ小僧って初めて聞いたけど語感良いな……。

「は?何で僕が」
「アンタしか居ないでしょうが!」

 後ろの方で冷え切った声が、耳元で怒った声が聞こえた。ブレていた視界がいくらか安定する。振り返ることはしない。見なくても冷え切った声の持ち主が、心底ウザそうで、面倒臭そうで、ダルそうなのは空気で分かったからだ。
 しゃがみこんで心配してくれている庵に礼を言ってフラフラ立ち上がった。途端、地面がぐらっと揺れる。細い指が強い力で腕を掴んでくれたおかげでひっくり返ることはなかったが、ごちんと電柱に頭をぶつけてそのまま止まった。……これはあれだ。人と言う字になっている。可笑しくなって笑いを噛み殺すと庵が目に見えて青褪めた。確かに酔い潰れて倒れ込んでいた男がいきなり立ち上がって電柱に頭をぶつけて笑い出したら誰だって正気を疑うだろう。残念なことに今の虎杖にそこまで考える余裕は無かったが。

「大丈夫?これちょっとヤバイわよ。硝子は?」
「研修で九州」
「じゃあやっぱりアンタしか居ないわね」
「だから嫌だって。何でベロンベロンに酔った男担いで帰らなきゃいけないの」
「不可抗力でしょうが…!」

 取りつく島もない言い方に庵が声を荒げる。遮ったのは言い争いの焦点となっている虎杖だった。

「あの、庵さん、俺大丈夫なんで……タクだけ呼んでもらって良いスか……」
「ほら、本人もこう言ってることだしさ」
「血も涙も無い男ね。とっととくたばれ」
「扱いの差が酷くない?」
「アンタなんか──ちょ、ちょ、待っ」

 再びグラリと傾いだ体は庵の細腕では留めることが出来なかった。スローモーションで視界が流れていく。気持ち悪い。地面に手を着くより何かが溢れ出しそうな口を手で押さえた虎杖は、視界の端で呆れた顔をした男が「めんどくさ……」と呟くのを聞き逃さなかった。ですよね。

 ◇

 今日は先輩である庵とサシで飲んでいた。五条が来たのは偶然だ。そもそも彼が来ると分かっていたら庵は来ていなかっただろう。勿論虎杖も。
 七海と肩を組んで──七海はブチギレ間近の顔をしていたが──店に入ってきた騒がしい男達に、虎杖は固まり、庵は表情を引き攣らせ、五条の威勢のいい声も尻すぼみになり、面倒事を察した七海はさっさと腕を払って店を出て行ってしまった。
 ポツンと置かれた五条を放って置くわけにもいかず手招きすると机の下で思い切り足を蹴られて悶絶した。

「い"っ!?」
「あんなゴミ呼ぶ必要ないでしょ! アンタご飯食べる時、机の上に生ゴミ出すの!?」
「庵さん何言ってんの…?」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言ってんのよ」

 ふんと鼻息も荒く酒を煽る庵に苦笑いをこぼす。五条は躊躇いなく庵の隣に腰を下ろした。店に入って来た時以外、一度もこちらを見ることはない。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。何やら言い合いはじめた二人を置いてそっと腰を上げようとすると、再び膝を蹴られて「い"っ! ?」と悶絶した。庵の目は完全に据わっていた。涙目で抗議する。

「庵さん足癖悪くね!?」
「どこ行くのよ」
「いや、…お花摘みに…」
「スマホと財布持って? 帰るつもりでしょ」
「いや…そんなことは…」

 ある。言葉を飲み込むように不自然にジョッキを傾け喉を潤す。五条は明後日の方を向いていた。

 ──絶対に虎杖と口を利かないと決め込んでいる五条と、五条をとことん嫌っている庵と、帰ることを許されなかった虎杖。三人の奇妙な飲み会はこうして静かにスタートした。



「何で歌姫って僕にだけ厳しいの?」
「嫌いだから」
「ストレートな悪意良いね」
「Mなの?」

 何だかんだ仲の良い──庵が聞いたら発狂しそうだが──二人を複雑な心境で眺めていると、隣で飲んでいたグループが少しずつ陣地を広げていることに気付いた。座敷だから仕方ないとは言え騒ぎすぎじゃないだろうか。面倒だなと思っていると、一人の酔った若者がふらふら庵に近寄って来た。アルコールで視界が狭まっているのか、どうやら五条が目に入っていないらしい。自分だったらこんなハイレベルな男が隣に居る美女に話しかける勇気はないな、とカルピスサワーで唇を湿らせる。例え飛び交う言葉が「だから歌姫は行き遅れてるんだよ」「殺すぞ」「出来ないくせに〜」「お前の名前裏サイトに載せるからな」「もう載ってますぅ」と言う物騒過ぎるそれであっても、だ。

 染色の痛みでキラキラ光る髪を掻き上げた男はドカリと庵の隣に腰を下ろした。

「お姉さんよく飲むね!これも飲んで欲しいなぁ。奢りだよ」
「要りません近いですどっか行け」
「辛辣ー!」

 ふー! と面倒な輩が一緒に乗って来て顔を顰める。騒がしい居酒屋を選んだのが悪かった。酔っ払いのトンチキ騒ぎはいつものことなのか店員も諌めにくる様子はない。ため息混じりに腰を上げる。しかし次の言葉でウザそうにしていた彼女の顔が一瞬で凍りついた。

「てかさー、顔の傷大きいね。胸も大きいけど」
「……あ?」

 低い低い声がテーブルを震わせる。ドッと笑い声が起きた。傍観を決め込んでいたらしい五条も小さく肩を揺らして笑っていた。命知らず、礼儀知らず、恥知らずの馬鹿を馬鹿にした笑いだ。騒ぎ立てる奴らと同じ笑い方ではない。そこはまだ良かったが無関係を装うのは最低だなと思いつつ、虎杖は慌てて庵に駆け寄った。

「庵さんストップ!」

 ジョッキを持って立ち上がった彼女がそれを逆さにして男の頭からビールのシャワーをぶっかけようとしているのをすんでのところで何とか止めた。引っくり返したい力と止めようとする力が拮抗する。虎杖はパワーゴリラと呼ばれる自分と細腕の彼女の力が何故釣り合うのかサッパリ分からず目を剥いた。時に感情というものは数字を凌駕するのだ。

「いっ!おりさん!今日はもう帰ろ!なっ」
「うるさい。こいつにまだ用がある」
「ないって、ないない。すいませーん、おかんじょ」
「何々?シャンパンファイト?じゃあ俺もー!」
「あ」

 ふらりと立ち上がった男が手に持ったコップを迷いなく庵に掛けようとした。嘘だろ? 酔って自制心が外れただけでこんな蛮行働くやつこの世に存在するのか? この場でただ一人素面であろう男は我関せずとポリポリと胡麻キュウリを摘んでいるし。マジかよ。

 右手に庵の手を、左手に名も知らぬ男の腕を掴んだ虎杖は、自身もそれなりにアルコールを摂取していることもあって思考回路が普段より短くなっていた。つまるところ短絡的で浅慮。そして投げやり。

「ああ、もー!」

 男の腕を掴んだまま高く上げて一気に飲み干した。ひゅう、と口笛が聞こえてくる。匂いで分かった。中身はただのソフトドリンクだ。甘ったるい液体が喉を焼く。怪訝な顔をしながら、続いて庵が飲んでほとんど無かった生も喉を鳴らして一口で空にした。静かになった座敷が一転し歓声が上がる。ただのソフトドリンクの一気飲みと、一口だけ飲んだビールでこの騒ぎだ。酔いが場に染み渡っていることを感じさせた。

「げほっ、ゴホッ」

 後輩の一連の行動を見てわずかに酔いが覚めたらしい庵は咳き込み続ける虎杖を見て「大丈夫?」と怪訝そうに声を掛けた。焼けるような喉の痛みに空咳を繰り返した虎杖は眉を顰めた。

 ──可笑しい。普通のソフトドリンクじゃない。虎杖は体の中に日本一恐ろしい猛毒を飼っているだけあって、そこらへんの毒は効かない。アルコールも然りだ。空気には酔うが完全に酔っ払うことはない。ワイン樽一つ一気飲みしたところでケロリとしていられる自信がある。
 そもそも今飲んだものはアルコールでもないのに何故こんなにも視界が回るのだろう。庵のビールも殆ど空だったし味は普通だった。立っていられなくなってしゃがみ込む。慌てた庵が「虎杖?」と声量を上げた。

「気持ち悪いの?吐く?」
「ちがっ…、ごほっ、…これ、何だろ…」
「度数高いやつなんて出さないわよこの店。そもそもアンタ、ザルじゃない」
「もしもーし七海? うん。見つけた。戻って来た方がいいよ。みんな居るし」
「アンタは何で電話してんのよ!」

 クワッと目を見開いた先で五条が肩を竦めてスマホを振っている。喉を押さえて苦しむ虎杖を見ても手を貸すことはない。だよな。分かっていたはずなのに、事実として目の前に現れれば傷付いてしまう心に苦笑いをこぼす。そりゃあそうだ。あの頃みたいに仲が良い訳じゃない。どちらかと言えば疎遠だし、嫌いあってる。…そう言うことになっている。

「ごめん。もう大丈夫」
「全然大丈夫に見えないんだけど…」
「取り敢えず店出ても良い?吐きそう」

 ヘラリと笑うと庵は慌てて「トイレまで我慢出来ないの?」と問うてきたので素直に頷く。テキパキと身の回りの物を片付けた彼女は「ここ払っとくから、五条! 虎杖見といてよ!」と後ろの男に向かって叫んだ。
 ウザそうにスマホから顔を上げた五条はとても冷たい目をしていた。

 ──もうあの頃のように笑いかけてもらえない。そうなった原因は自分にあるとは言え、やはり苦しいものは苦しい。曖昧に笑って目を逸らす。視界が揺らいでいるのは体の内を焼く熱のせいだ。きっと。


 ◇


 緩やかに意識が上昇する。んあ、と寝ぼけた声を上げると喉が張り付いたように乾いていた。横に顔を向けるとベッドサイドテーブルに置いてあったミネラルウォーターが目に入る。起き上がると目眩がして額を抑えた。やはりまだ気持ち悪い。でも先程よりマシだ。先程…?

「…えっ」

 掛けられていた羽毛布団をバサリと上げてまた落とす。見慣れないスウェットを着ていた。丈が異常に余っているのはこの服の持ち主が長身であることを示唆していた。見覚えのないシックな色合いでまとめられている室内を見渡しサァッと青褪める。これはもしかしなくても五条の自宅なのでは…。恐る恐るベッドから足を出しヨタヨタと歩く。扉の向こうからヒソヒソ囁く声が聞こえてきた。そっと耳を傾ける。

「…だからさー。見るだけで良いから。頼むよ」
「私が十時間ぶっ通しの研修をやっと終えたと知っての狼藉か?明日は五時起きなんだ勘弁してくれ」
「見るだけじゃん」
「お前が見れば良いだろ。そもそも電子機器越しに見たって詳しいことは分からないし治せない」
「僕も内臓のことまでは流石に分かんねぇよ。あの悠仁が酔ってぶっ倒れてんだぞ?もし本当にヤベェことが起きてたら…」
「ヤベェのはお前の精神状態だろ」
「…」
「焦るのは分かるけど入ってた薬も少量みたいだし問題ない。心身ともに不安定にはなるかもしれないけど、一般人が死なない程度の毒で虎杖は死なない」
「…本当に?」
「うん。はぁ…。もう良い?眠いんだけど」
「容体急変したら電話するから出ろよ」
「十二年越しの片想いはクソ重いな。勢い余って押し倒すなよ」
「うるせぇ」

 ブチッと切られた電話。どうやらスピーカーモードかビデオ通話にしていたらしい。家入の声がまるっと聞こえてきた。ドスドスと荒い足音が離れていく。虎杖は足音をなるべく殺してベッドに戻り温かい布団にくるまった。

 …今、何か、信じられないものを聞いた気がする。十年越しの片想いとか、何とか。ドクドク心臓が鳴っているのは変なソフトドリンクのせいだけじゃない。まさか。もしかして。いやそんな。小さな期待に胸が高鳴る。両手を合わせてぎゅうと握るとガチャリと扉が開いた。寝起きを装って上体を起こす。五条もラフな格好に着替えていた。器用に片眉を上げた男が虎杖を見て口を開いた。

「起きてたの?」
「あ、…はい。すいません色々」
「クソクソクッソ重かった」
「ごめんなさい…タク代を」
「端金だし別に良い」
「…はい」

 うん。これは違うな。先程までの淡い期待はたちまち消えた。ザクザク刺さる言葉の刃物のオンパレードだ。しかし同時に安堵もした。良かった。これで良い。とても嫌われている。虎杖の涙ぐましい努力は功を奏したと言える。例え両者共に傷付ける結果になったとしても、これで良かった。考え抜いて出した答えは間違いじゃなかった。そう思いたい。

「…おい」
「へ、?」
「体調は」

 端的な質問と共に「それ。飲めよ」とミネラルウォーターが指さされた。あ、あざす、と辿々しく礼を言ってキャップを開ける。ごくりと一口飲むとほうとため息が漏れた。美味い。乾き切った喉がひりつくほどに。濡れた唇を拭って向き直った。

「大丈夫。さっきよりめちゃくちゃ元気なんで、今日はもうお暇──」
「七海が追ってた案件。呪霊が元気になる薬を使って、視えない筈の一般人が呪詛師紛いのことをしてた」
「へ?」
「競合企業の重役を呪って体調不良にするとか、機械の不具合起こしてデータ飛ばすとか、まぁ可愛いもんだったから高専生に回るはずだったけど、死人が出たから七海に回った」
「…」

 突然話し始めた五条に面食らいながらも、死者と言う言葉に開きかけた唇を閉ざした。突っ立ったままの五条は何でもないことのように言葉を続けた。

「で、七海が突き止めたのがお薬工場。本物の呪詛師が作った薬をいい値段で適当にばら撒いてたらしい。用法用量を守らない馬鹿がうっかりやらかしたみたいだけど…今日飲み屋に居た馬鹿集団。あれがその下っ端」
「あ」
「自分が飲んだ物分かった?」

 呆れたように見下ろされコクリと頷く。呪霊が活発に活動するようになる薬。そんなものがあるのか。とは言え宿儺が程度の低い活性剤程度でどうにかなるモノじゃないことくらい、虎杖が一番よく分かっている。今は静かになった頭を押さえて考え込む。五条がぽすんとベッドに腰を下ろした。

「硝子に聞いたけどさして問題は無いらしい。酒とちゃんぽんしたのがまずかったって感じ。宿儺は?」
「いつも通り。静か。あ、でもさっきはアホとか言われまくった」
「それなりに不快ってところかな。ふーん。帰ってきたら硝子に成分調べさせよっと」
「…あれ、でも普通の人が飲んでたよな?」

 ソフトドリンクを持って酔っ払っていた命知らずの若者は見た感じ呪霊の気配など一切無かった。恐らく本当に下っ端なのだろう。首を傾げると五条は面倒そうに言った。

「アホは群れると際限無くアホになるからね。度胸試しにみんなで飲んだんだって。あの後、店に来た七海が吐かせた。もうちょい摂取量が多かったらあの世へひとっ飛びだったらしいよ。お前が残りを飲んでなけりゃね」
「おう…」

 そうなのか。アホの命が一人救えて良かった、とは素直に言えない。人一人の命が奪われた事件なのだ。複雑な面持ちになる。布団から足を抜いて立ち上がると五条が眉を顰めて虎杖を見上げた。

「何してんの」
「へ? いや、帰る用意を…あれ、そう言えば俺のスマホとか財布って」
「リビング」
「取りに行ってきます。入っても良い?」
「いや。ダメ」
「う、ん? えっと」
「ちょっとお前ここ座れ」

 ボスボスとベッドを叩かれ表情が固まる。指定された場所は五条と拳一つ分しか空いてない。思わず後ずさると不機嫌そうに「何で下がるんだよ」と低い声で諌められた。う、と吃る。

「いや、だって」
「だってもクソもねぇよ。お前と話しときたいことがある。丁度いい。座れ」
「…今日はもう帰りたいんで今度でも良いですか?」
「そうやってまた僕と連絡断つつもりだろ」
「っ」

 強い言葉で拒否したのに図星を突かれて押し黙るしかなくなる。さらに不機嫌になった男が「座れよ。座らされたいのか?」と剣呑な目付きに変わった。ここまで来たら腹を決めるしかない。とっとと終わらせて帰るに限る。希望であるドアを横目にノロノロと足を進め、言われるがままに五条の隣に座った。気持ち距離を置いた。手元に視線を落とす。酔いと奇妙な薬の掛け合わせは未だ思考回路にモヤをかけているようだ。余計なことを口走らないようにと口を閉めようと気を引き締めると「お前、僕のこと嫌いなの?」と爆弾が投げられ敢えなく"黙って誤魔化してやり過ごすパターン"は強制的に見送られてしまった。言葉にならない空気が喉を一気に駆け上がって思わず咽せた。

「っごほ、な、何…?」
「動揺し過ぎだろ。ふーん。思ってた感じじゃねぇのな」
「え?」
「お前が僕を大嫌いで大嫌いで仕方ないから連絡もブチ切ってあからさまに避けてるのかと思ってた。違うんだな」
「ち、がうことも、なくも…ない…?」
「どっちだよ。ハッキリしろ」

 じ、と間近で見詰められ言葉に詰まる。片想い。十二年越しの…。先程盗み聞きした言葉がぐるぐる回る。唇が乾ききっている。ぎゅうと手を握り締めて顔を上げた。

「…五条先輩が嫌いだから距離取ってた。関わりたくなくて」
「…………へー」

 言ってからドッと冷や汗が出てきた。今まで生きてきてこんなに低い「へー」を聞いたことがあっただろうか。いや、ない。腹の底を震わせる低音で「へー。そう。ふーん」を繰り返す男から少しずつ距離を取る。怖い。だって生まれた時から最強の人間なんだぞ。彼の前だと虎杖なんて指先一つでピューンでポイッされると消されるようなちっぽけな存在だ。そもそも五条の手回しがなければ自分の命は無かった。彼が大いなる力を善行にしか使っていないのは、彼の生まれ持っての善性に拠るところが大きい。と言うかそれしかない。ゴクンと唾を飲み込む。黙りこくった五条は虎杖を見て「で、本音は?」と問うた。目を瞬く。

「本音?」
「そう。建前は良いんだよ。お前の本音は?」
「……だから、嫌いだって……」
「"そう言うことにしたい"ってのは分かったっつってんだろ。同じこと何度も言わせるな。うぜぇ」
「……」
「言わないなら言いたくなるようにするしかねぇぞ。でも尋問は苦手なんだ。拷問なら出来るけど」
「いっ!?」

 緩く持ち上がった腕が印を組もうとしているのが見えて思わず立ち上がった。だが腕を引かれてベッドに押し倒される。突然入ってきた照明に目が眩む。五条が乗り上げてきた。ベッドが嫌な軋み方をする。恐る恐る目を合わせて見なきゃ良かったと酷く後悔した。

「お前がちゃんと言うまでちょっとずつ体削っていくってのはどう? ただなぁ、微調整は苦手なんだよ。いきなり半身削れたらごめん。先に謝っとくわ」
「ちょ、ちょっと待っ」
「硝子に治してもらったらいい」
「家入先輩、今九州なんだろ!? なぁっ! 嘘だろ力つっよ…!」

 ギチギチと両手を抑えられて身動きが取れない。見る人が見れば恋人がするような体勢なのに、非常に殺伐とした空気が流れていた。

 何なんだよ。虎杖の胸にふつふつと怒りが湧いてきた。確かに距離を取ったのも、連絡を断ったのも、虎杖からだ。でもそれを受け入れ、思惑通り虎杖を厭う態度を取ったのは五条ではないか。なのに何故こんなことになっているんだろう。俺ばかりが悪いのか。…そりゃそうか。じわりと涙が浮かぶ。ギョッとした顔の五条など目に入らず、虎杖は顔を背けて肩を震わせた。

「う、うぅ…ッ」
「お前何で泣いて」
「ぅ"、っ…てねぇ…ッ」
「いや泣いてるじゃん!ちょっと待ってどう言う、…あ、ああー…ッ、そう言うことか……!」

 一人納得したらしい五条が押さえつけていた腕を外してグシャリと頭をかき混ぜた。虎杖は自由になった腕で顔を覆い、次第に泣き声のボリュームを上げた。大の大人が声を上げて泣くなど恥ずかしい以外の何者でもない。だがそれを考えるだけの余裕が無かった。ひとえに厄介な薬とアルコールのちゃんぽんのせいである。

 対して「"心"身ともに不安定にはなるかもしれないけど」と言う家入の助言を思い出した五条は「マジかよ」と頭を抱えた。ここまでなるのは想定外だった。ちゃんぽん恐るべし。しかし下戸の五条は知らないのだ。ワクザルコンビの庵と虎杖が今夜摂取したアルコール量を。特に緊張と焦りからいつもの倍近いペースで飲んでいた虎杖は、表には出ていなかったがかなり酔っ払っていた。

「……虎杖、ごめ」
「もう悠仁って呼んでくれねぇの…っ?」
「へあ」
「先輩、悠仁って呼んでくれてたじゃん! 俺だけ名字呼びじゃなかったじゃん!」
「ほあ」

 いきなり致死量の後輩力を浴びた五条は思わず胸を押さえた。今絶対に撃ち抜かれたと思った。幻の血を流す心臓を押さえたまま「ゆ、悠仁」と名前を呼ぶ。腕を外した虎杖がにへらと笑った。今度は鼻を押さえる。幻の血が流れる鼻を。

「おま、急に、何」
「分かんね…急に、ぼーっとしてきた…俺変なこと言ってる…?」
「言っ………………てない」

 嘘だ。良心とやらを蹴り飛ばして宇宙の彼方へ放り出し、己の都合の良い方へ誘導する。ふらりと体を持ち上げ、五条と向かい合う形になった虎杖が手を握る。いきなりの接触に息を呑む。虎杖は五条の指を広げたり閉じたりしながらしっかり掴み、ゆっくり口を開いた。

「俺、が、先輩のこと避けてたのは…」
「うん」
「先輩のこと、好きで」
「……………………………えっ?」
「好きだから、嫌われなくちゃって思って……」
「は…?」

 ぎゅうぎゅう握り締められ骨が限界を訴えている。五条じゃなければ粉砕骨折していた。酔いは力のコントロールも奪うらしい。だが五条はそれどころではなかった。



 五条が後輩を全員名字で呼んでいるのは特に意味はない。ただ自らのちゃらんぽらんな性格が祟って後輩達とそこまで仲良くなれなかったのが一因ではあった。だから「五条先輩!」と花が咲くような笑顔で自分を慕っているたった一人の後輩は、特別だったし、大事にしていた。だから名前で呼んだ。休日が合えば二人で映画を観に行ったし、五条の同級生二人を巻き込んでゲームをしたり担任に悪戯を仕掛けて殺されかけたり、馬鹿なことを何でもやった。箸が転んでも大笑いしていた気がする。

 一度だけ「何故自分を慕うのか」と聞いたことがある。今考えると何てセンチメンタルでガキ臭い質問なのだと思うが当時は真剣だった。そうだ、あれは確か二人で駅前のカフェに新メニューのケーキセットを食べに行った時のことだ。ミルフィーユを綺麗に切り分けた虎杖はキョトンとした顔で、「そうだなぁ…」と考え込むような仕草を見せた。

「…かっこいいから?」
「かっこいいから?」
「うん。だって先輩って強ぇし、何でも出来るし、カッケェじゃん」
「まぁそうだけど…それだけ?」
「おっ欲しがりだな。なになに? 先輩もいよいよ周りの目が気になるお年頃?」
「お前後でグーパンな」
「あははっ。今更取り繕ったって無駄だって。関係者みんな先輩の態度のデカさとそれに見合う実力知っちゃってるし」
「グーパン三発追加」
「ひでぇ! ほんとのことじゃん」
「そこまで分かってて僕と仲良くしようって言うんだからグーパン五発くんは変な子だね。利点ないじゃん」
「まぁ損得勘定で友達作んないしなぁ。一緒に居て楽しいから居る。普通だろ。先輩、変だし。ツッコミどころ満載で笑えるし」
「僕が、変?」
「自覚無しかよ。…てかグーパン増えてません?」

 あの後本当にグーパン入れたかどうかは忘れた。とにかく虎杖の言葉が衝撃的で後のことは記憶として色褪せている。
 傲慢だ、賢しらだと陰口を叩かれることも、性格が悪いと距離を置かれることにも慣れていた。だから敢えてその短所を押し出すことで作り上げた壁を、虎杖と夏油、そして家入は軽々超えてきた。挙げ句の果てに「変」ときた。
 五条はこの時、彼らを生涯大事にしようと改めて決心した。嫌な顔で文句を言いながらも絶対的に自分の善性を信用はしてくれている夜蛾や七海や庵も。何だかんだと五条を立てる伊地知も。彼らに何かあったら必ず無償で力を貸そうと決意したのだ。


 だからまぁ、夏油が離反した時は驚いたし、かなり落ち込んだ。まさか自分の線引きの内側に入れていた人間が自ら出て行くとは思わなかったからだ。
 虎杖の態度が変わったのもその頃からだ。目に見えて連絡は減り、五条は多忙になり高専で顔を合わせることもなくなり、五条と家入の卒業式に彼は来なかった。どうせ明日からもここを拠点に動くと分かっていても一人で桜の木の下に立つのは何とも言えない物悲しさがあった。

 悠仁。明るくて人懐こくて他人に優しい男のくせに、宿儺なんて言う爆弾を抱えてしまったが故にいつか死ぬ運命を背負わされた少年。薄暗いプロフィールの持ち主だが笑顔は明るくて思考回路は馬鹿一直線の、見ていて気持ち良いやつ。
 何故自分を避けるのか聞きたくても聞けないまま時間だけが過ぎ、やがて本物の厭忌として凝り固まってしまった。

 そしてある日唐突に気付いた。悠仁は怒っているのではないか? と。つまるところ夏油のことだ。彼の悩みを聞くことも、導くことも、手を差し伸ばすこともしなかった五条に対して怒っているのではないか──彼は夏油のこともまたとても慕っていた──予測を立てれば全てのピースがカチカチと嵌った。

 決定打になったのが夏油の死だ。彼を手に掛けたのは五条だと、高専関係者なら誰もが知っていた。当然虎杖の耳にも入っただろう。
 これで永遠に虎杖から笑いかけてもらうことはなくなった。嫌われているのならこちらからも嫌うしかない。そう思って傷付かないために自ら壁を作り上げた。幸い彼と顔を合わせることはやはりなく、日々は穏やかに流れていった。


 虎杖と再会したのは本当に偶然だった。七海と現場が近かったことで一方的に意気投合し、追っている連中がよく使う店に向かったら彼が居た。いざ顔を見ると抱えていた疑問や怒り、悲しみがどうしようもなく溢れ出た。意地から嫌っている態度を出しまくったが本音は聞き出したくて仕方なかった。しょうがないなと言う態度で虎杖を抱えて自宅へ連れ帰ったが、正直奇跡だと思った。二人きりなら話してくれるかもしれないと一縷の望みを託した──。


 ──だが今、件の虎杖は五条の手を粉砕しようとしながら号泣している。彼が泣いているところを初めて見た。いやそうではなくて。今、好きだとか何とか…。

「す」
「す?」
「好きならそう言う態度取れよ! お前、今まで自分が何してきたのか分かってんのか!」
「…わ、わかってる」
「いいや分かってないね。僕がどれだけ悩んで傷付いて自分追い込んで辛い思いしたか分かる? この、僕が! 他人の感情の機微についてめちゃくちゃ考えたんだぞ!」
「…」
「何で逆の態度取るんだよおかしいだろ!」
「おかしくない、だって…」

 虎杖が口籠る。頭に血が上っていた五条は「早く言え」と地を這うような声を出した。ぴくりと体を揺らした虎杖が視線をあっちこっちに泳がせる。握られていた手を逆に握り返し答えを待つ。しばらくして震える唇が小さく開いた。

「…だって先輩優しいから」
「うん」
「いつか宿儺の器である俺を、殺さなくちゃいけないんだって分かって、嫌われなくちゃいけないって思って」
「何で?」
「お別れの時寂しいだろ。先輩、優しいから、きっと夏油先輩…には遠く及ばないと思うけど、俺を殺したら凹むじゃん…」
「…」
「置いていく身として、置いていかれる存在を慮ることはそんなにダメなことじゃない、と、思ったからそうした」

 ぐ、と喉を鳴らした五条が深々と溜息をついた。馬鹿だ馬鹿だと思っていたがここまでだったのか。熱と涙で赤くなった目元をそっと拭ってやる。

「お前馬鹿だなぁ」
「…よく言われる」
「あのさ。僕は毎日楽しく過ごしたいわけ。置いていかれる身を案じてくれるならわざと嫌われるような態度やめろよ。寂しいだろ」
「……」
「酒と薬ちゃんぽんしたお前から本音引き出したのはズルいと思う。明日お前が覚えてるかどうか分かんねぇけど、俺はこのことを忘れない。一言一句」
「うん…」
「なぁ。悠仁。お前も忘れるなよ」

 青い目が不思議な色を放ってキラキラと輝いている。熱で浮かれた頭でコクリと頷く。はぁーっと安堵の息を漏らした五条が笑う。笑いかけてくれた。虎杖も釣られて笑う。手を取り合って。解いた誤解はきっといつか解けて無くなる。笑い飛ばせる日が来る。そう信じて。

 ふと虎杖が「先輩の卒業式の日、さ」と遠慮がちに口を開いた。五条は黙って耳を傾けた。

「…先輩達と世界一アホな顔して写真撮るって約束してたじゃん」
「ああ。うん」
「悠仁は絶対泣くから式の最後くらい笑って見送ってくれって」
「うん。でも来なかったよね」
「でも俺、先輩のこと見てた」
「え?」
「桜の木が見える校舎の三階の空き教室から。先輩が珍しく時間通りちゃんと来て、待っててくれてるのを見てた。先輩が諦めてどっか行くまで、ずっと」
「は……」
「あの日行けなくてごめん」

 虎杖がゆっくり頭を下げる。ぽかんとした表情の五条の頭には、虎杖が教室の窓からそっと自分を見ている構図が鮮明に浮かんでいた。そんなに近くに居たのか。気付かなかった。随分と余裕がなかったらしい。口を覆って「嘘だろ」と呟いた。


 桜の下で後輩を待つ自分が、視線を感じて顔を上げる。ふわりと不自然に膨らむカーテンの窓に目を見開いて校舎に入る。階段を駆け上がって、今まさに空き教室から出ようとしていた虎杖を抱き締める。ずっと前から言うと決めていた「好きだ」を耳元で叫ぶ。だから離れて行くな、俺は意外と寂しがりなんだぞと、ぎゅうぎゅう力を込める。虎杖は何も言わない。だがそっと上がった腕が五条の背中に回った──。


 そんな妄想が脳内を駆け巡った。
 だが過ぎ去りし日は戻らない。いいことも悪いことも経て今がある。人生は甘くないが悪くもない。こうやって十何年越しに後輩と誤解を解くことも出来る。
 虎杖の顔を無理矢理上げさせて正面から抱き締める。五条は口を開いた。


 ◇


「おめでとう私は明日五時起きだって申告していたのに夜中の一時に惚気電話で叩き起こされて完全に傷害事件だと思っているんだけどこのことについてどう思う?」
「ありがとう。健闘を祈るよ」
「くたばれ」

 ブツッと電話が切られる。あんまりな態度だが五条は口の端を緩めた。

 心優しい後輩の思いやりは、偏屈だった先輩の心を頑なにさせた。お互い素直になるまでこんなにも時間がかかってしまった。だが気付けた。生きている間に間に合った。そのことがこんなにも嬉しい。

 明日は、今は安心して眠りこけている虎杖と映画を観に行く予定だ。あの薬とアルコールでどれだけの記憶が残っているのかは分からないが、思い出すまで何度でも言ってやろうと思う。

 俺はお前のことが大好きだし、お前も俺のことが大好きなんだぞ、と。種類は違う"好き"かもしれないが今はそれでいい。少しずつ距離を詰めていけばいい。時間はたっぷりあるのだから。

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コメント

  • 猫豆腐

    2人の関係性の切なさで号泣しました…会話も全部最高なのに構成も神で話全体が綺麗にまとまっててカップリング抜きでもおもしろい作品でした…天才です……

    12月11日
  • chimu
    12月7日
  • maruma
    11月18日
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