織田信長は仏教よりもキリスト教を広めました。ですが、どうして豊臣や徳川はキリスト教を禁止したのでしょうか?
織田信長は仏教よりもキリスト教を広めました。ですが、どうして豊臣や徳川はキリスト教を禁止したのでしょうか?
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織田信長は1569年にポルトガル出身のイエズス会宣教師であるルイス=フロイスを謁見し,彼の京都での居住を許可した上で布教も認めています。さらに,信長は1570年にはイタリア出身のイエズス会宣教師であるオルガンティーノに対して,京都や安土での教会堂(南蛮寺)の建設や安土でのセミナリオ(神学校)の設立を許可しています。信長は当時の最高実力者でしたから,キリスト教の布教にあたって彼がお墨付きを与えることで,日本でのキリスト教の発展にとって大きな推進役になったと言ってよいでしょう。 ところで戦国時代の後半には,大名にとって2種類の敵がいました。1つは外なる敵つまり近隣の戦国大名であり,もう1つは内なる敵つまり領国内の仏教勢力,とりわけ石山本願寺を頂点とする一向宗(浄土真宗)であったわけです。 宗教で結ばれた集団というのは権力に対しては頑強に抵抗することは世の常ですが,当時の一向宗は各地で一揆を起こして大名や領主を悩ませていました。若い頃の徳川家康が1563年に三河の一向一揆で,織田信長が1574年に伊勢長島の一向一揆で苦戦したことはよく知られ,また,信長は1580年に石山本願寺を屈服させるまでに10年もかかっていますし,1571年には天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼き打ちにしています。 「目には目を,歯には歯を」という言葉がありますが,宗教には宗教ということで,一向宗を中心とした仏教に対して同質の宗教であるキリスト教を保護して対抗させることで,仏教勢力を押さえ込もうとすることが信長のねらいでした。で,信長のすごいところはキリスト教を許可・保護をしても,自分自身は決して信者にはならなかったということです。たとえが悪いですが,覚醒剤を売って儲けるはずのヤクザが,覚醒剤におぼれてしまったら自滅してしまいますからね。 このような信長による仏教への弾圧とキリスト教の保護という政策によって,九州から畿内にかけてキリスト教が広まります。この日本に伝わったキリスト教というのはスペインやポルトガルを中心としたカトリック(旧教)であり,宗教改革によって生まれたプロテスタント(新教)ではありませんでした。このカトリックというのは「布教と貿易が一体」となっており,貿易というニンジン(餌です)をぶらさげて信者にしてしまうという手法でアジア各地に布教していました。その結果,貿易の利益を目当てにキリシタン大名となる者も出現し,彼らは南蛮貿易によって経済力を蓄えると同時に,キリスト教徒による神社・仏閣の破壊ということも起こってきました。 豊臣秀吉は1587年に薩摩の島津氏を平定した帰途の博多で,バテレン追放令および大名のキリスト教入信の許可制を発令します。これはスペインやポルトガルの宣教師が,日本人を奴隷として中国やヨーロッパに売り渡していることや,長崎がイエズス会に寄進されてしまったことなどを聞いたからだとされていますが,南蛮貿易そのものは禁止していないということが注目されます。すなわち,秀吉は「布教と貿易が一体」であるということを視野に入れておらず,自らの貿易の利益を維持すべく「黒船」の渡来そのものは認めています。 ご承知のようにキリスト教では主なる神(父なる神,子なるキリストおよび聖霊の三位一体)を絶対とし,天皇・将軍や幕藩領主の権威や権力を認めませんから,将軍を頂点とする幕藩体制の維持が困難なものとなります。それ故に徳川家康もキリスト教は禁止し,1612年に天領へ,1613年に全国へ禁教令を出します。しかし,家康も「布教と貿易が一体」であるという認識は乏しく,彼の時代でもスペイン・ポルトガルとの南蛮貿易は続いており,また朱印船による日本人の海外渡航も盛んに行われています。 キリスト教の禁止と貿易の統制が本格化するのは3代将軍の徳川家光の時代になってからで,1624年にスペイン船が来航禁止とされ,1637~38年にキリスト教徒である天草四郎に主導された島原の乱という大規模な農民反乱(要因は領主による過酷な収奪)が起こり,翌1639年にはポルトガル船が来航禁止とされ,南蛮貿易に終止符が打たれます。また,1640年には宗門改役が設置されて寺請制度(檀家制度)の徹底が行われていき,日本におけるキリスト教は一部の隠れキリシタンを除いて一掃されることになります。
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質問者からのお礼コメント
ありがとうございました。とても参考になりました。
お礼日時:2010/4/15 14:59