日本におけるアカデミー機能の分散——なぜ日本学術会議と日本学士院は分かれているのか
現在、国際通念で「ナショナル・アカデミー」と呼びうる機能は日本においては学術会議と日本学士院に分散して存在する。なぜそうなったのだろうか。考えるために、ひとまず戦前に何があったのかを確認してみよう[1]。
話は明治に遡る。
明六社から帝国学士院へ
まず明治6年(1773年)、森有礼や福澤諭吉が自由に作った民間団体としての明六社が生まれた。明六社は日本の近代化のために必要な問題を学術・政治・社会問題の別を問わず話合う組織であり、実質上、日本の最初のアカデミーといえる。実際、森はアメリカの知識人にlearned societyをつくりたいとのことで助言を求めたという。英語圏ではlearned societyというのは主にアカデミーを含めた学協会を指す言葉である。
その後、明六社は東京学士院となり、更に帝国学士院(Imperial Academy)となった。分野は文系理系双方を擁していた。
アカデミー外交(1)帝国学士院とIRC
国際的なアカデミー外交との関わりであるが、1906年に帝国学士院は国際アカデミー会議(Internationale Assoziation der Akademien)に加入している。しかし、第一次世界大戦でドイツの方針に反発した諸国が、1919年、ドイツを除外した国際研究会議(International Research Council)を立ち上げた。この組織は主に自然科学のアカデミーを集めたものであり、設立の関係上、国際情勢や戦争の問題に関心が高かった。主導したのはパリの科学アカデミーであった[2]。1921年に帝国学士院は代表を送った。
アカデミー外交(2)学術研究会議の創設とIRC
帝国学士院関係者の理解では、このIRCが各国に「学術研究会議」(Research Council)の設立を期待したということになっている[3]。そのため日本は学術研究会議という組織を帝国学士院とは別に作り、以後、IRCにはこの組織が代表を派遣するようになった。
ところで、大半の国は科学アカデミーの中にその役割を担う組織を作ったか、あるいは既にその種の機能を擁していたのではないかと推察される。たとえばアメリカではIRC設立に先駆けた1916年に、国立科学アカデミー(NAS)の一組織としてNational Research Councilが誕生している[4]。また、筆者が比較的知っているフランスの科学アカデミー(主催国の一つである)が外部にそのような組織を作ったという話も聞かない。17世紀から存在する同アカデミーにとっては研究連絡と交流はそもそものミッションの一部である。政府との関わりについては、普仏戦争時に(効果的ではないとはいえ)戦時動員を体験しているので、その時に組織体制がある程度出来ていたと推察される。
話を戻すと、日本の学術研究会議の役割は、国内外における研究の連絡と交流を図るというものであった。そのため、以後はIRCには帝国学士院ではなく学術研究会議が参加するようになった。学術研究会議は理学、工学、医学、生物学・農学関係者で構成された。
アカデミー外交(3)帝国学士院とUAI
しかし、帝国学士院は国際交流の舞台を完全に降りたわけではなかった。1919年に作られた国際アカデミー連合(Union Académique Internationale)に代表を派遣するようになったのである。この連合を主導したのはパリの碑文・文芸アカデミーであり、UAIは人文社会系に関する各国のアカデミーを集めた組織となった。
まとめると、戦前においては帝国学士院と学術研究会議という二つの組織が「アカデミー」として期待される役割を担っていたことになる。そして、途中から帝国学士院は主に文系のアカデミー外交に、学術研究会議は主に理系のアカデミー外交に関わるようになっていった。そして帝国学士院には文系も理系も共存していた。日本は諸外国のように自然科学と人文社会科学のアカデミーを分けることをしない一方で、機能別に組織が分かれていたといえる。
学術研究会議の戦時動員
学術研究会議はその後、戦時動員体制において大きな役割を果たすことになる。それは段階を追って生じた。
当初同会議は理系の主に基礎科学研究のための国際・国内学術研究組織であった。たとえば、「学術研究会議ノ推薦ニ基キ」会員が任命されるとなっていたことからもそれは伺える。しかし1943年になると同会議は改組され、会員任命も「文部大臣ノ奏請ニ依リ学識経験アル者ノ中ヨリ内閣ニ於いテ之ヲ命ズ」ことになった。要は自治が失われた。分野については、もともとは理系しかなかったところ、なぜか人文社会系の部門も増設された(この点は日本史の識者にあとで確認したい)[5]。
戦後の体制と機能分散状態の継続
戦争が終わったとき、帝国学士院は日本学士院となった。学術研究会議は完全に名称が消えて、1949年に新しく日本学術会議が生まれた。学術研究会議の戦争協力を悔やむ感情が強くあったと言われる。また、組織構想においてはGHQの関係者からの助言もあった。
一方で、アカデミー機能の分散という状況は戦前から引き継がれているといえる。日本学術会議は研究連絡・交流と提言機能を持ち、日本学士院は表彰・顕彰機能が強い。伝統的なアカデミーは両者を併せ持っているのが普通であるが、日本は戦前と類似した機能分散状態がかなり維持されたと言える。なぜこの形態が引き継がれたのかは、もう少し調べないといけない。
[1] 日本の戦後と学術会議については科学史研究者伊藤憲二氏の記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76358)やツイートに詳しい。また、本稿の内容を用意するにあたっては化学史研究者の田中浩朗氏に文献情報・URLをご教示頂いた。例えば次。https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317727.htm
[2] Chemistry International, Volume 41, Issue 3, Pages 7–8, eISSN 1365-2192, ISSN 0193-6484, DOI: https://doi.org/10.1515/ci-2019-0303.
[3] 「学士院の歩み 第9回 国際学術団体への加入」『日本学士院ニュースレター』2015. 10 No. 16、p. 8。
[4] Wikipedia contributors. (2020, December 21). National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine. In Wikipedia, The Free Encyclopedia. Retrieved 08:42, December 21, 2020, from https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=National_Academies_of_Sciences,_Engineering,_and_Medicine&oldid=995471330 なお、全米科学アカデミー(NAS)はNational Academies of Sciences, Engineering, and Medicineに所属する組織である。その複雑な歴史の細部は省略する。
[5] 青木洋「第二次世界大戦中の科学動員と学術研究会議の研究班」『社会経済史学』72-1(2006年9月)
(20-12-21 19:37 投稿後にUAIに関する表現がおかしかった部分を訂正しました)