今回も前回に引き続き「レ」の字型の建物(原美術館の建物)にまつわる歴史をご紹介します。新緑の若い緑に映える白亜の「レ」の字。外見に似合わず80年もの長い歴史をもつこの建物。この建物が「原美術館」として歩み始めた1979年(昭和54年)よりも前、終戦後の34年間に、いったいどんな歴史が刻まれてきたのでしょうか。今回は、この建物が歩んだ数奇な運命をご紹介します。
トレーニングセンターから望む原美術館=「レ」の字型の建物
左:Yahoo地図 右:goo地図
前々回および前回のコラムでは、
①JTPのトレーニングセンターの南に隣接する 「レ」の字型の建物 は、原美術館 であること
②「レ」の字型の建物 は、昭和13年(1938年)に建築家・渡辺仁の設計によって建設 されたこと
③御殿山トラストシティおよび原美術館を含めた一帯の敷地は、明治25年(1892年)に原六郎 が、西郷従道から譲り受けたものであること
④原六郎 は、幕末の志士であり、明治・大正期の大実業家 であること
などをご紹介しました。今回のコラムは、その続きとなります。
前回の終わりに、原六郎が財界を引退した大正9年(1920年)、あるいは、原六郎が生涯を閉じた昭和8年(1933年)の時点では、まだ「レ」の字型の建物(現・原美術館)は建設されていなかったと記しました。つまりこの建物は、六郎の養子・原邦造 の代になって建設されたのです。
そこで、まずは、原邦造の略歴を紹介します。
大正、昭和期の実業家。原六郎の養子。明治16年(1883年)、大阪高槻の庄屋・田中友二郎の二男として生まれる。幼名、田中邦造。京都大学経済学部を首席で卒業。
満州鉄道勤務時代に六郎に見初められ養子となる(明治34または43年(1901または1910年)2通りの資料がある)。
六郎の二女・たきと結婚。昭和 8年(1933年)、六郎から家督を相続。
大正12年(1923年)の第百国立銀行(戦中に三菱銀行と合併)頭取就任を皮切りに、数多くの会社の社長、会長、取締役等を歴任。邦造が関係した会社は、さまざまな書物やサイトに多数記載されているが、その中から筆者が目についたものをいくつか列挙すると、愛国生命(後に第一生命に吸収)、東京貯蔵銀行(第百国立銀行に合併後、三菱銀行へ)、日本航空輸送、明治製糖(現:大日本明治製糖)、三井銀行、東京ガス、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)、東武鉄道、電源開発、日本航空(JAL)などがある。また、日本銀行の政策委員なども務めた。
昭和33年(1958年)没 。享年74 。多磨霊園に眠る。
なお、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、昭和10年(1935年)刊行の書物「経済第一線」には、渋沢栄一 が「原六郎は息子を持たなくて幸せだ。邦造のような息子を産むことはできなかったに違いない。あの位出来た男はちょっと見当たらない。」と語った、という逸話が紹介されています。
(1)国立国会図書館デジタルコレクション (2)Wikipedia (3)但馬の百科事典
筆者作成
邦造が六郎からこの土地を引き継いだ時、敷地には日本家屋があるだけでした。当時のその家屋の様子は、明治38年(1905年)刊行の書物「家庭の模範:名流百家」(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可)でうかがい知ることができます。なお、明治38年は、邦造が家督を相続する15年前となります。
以下は書物からの抜粋です。(一部、漢字、仮名遣いを変更しています。)
「原六郎氏の御住居は、八ツ山の麓で、汽笛と電車鈴の響がやや遠ざかった幽静の地に在り」
「門を入ると黒松赤松参差(しんし)枝を交えて両側の芝小山に列を成し、(中略)長い道に車轍を印しつつ、右折して石灯籠を据えた小高い処に、御玄関がある」
「狩野法眼筆牡丹に唐獅子の大衝立を据えられた内玄関より、帳場格子を建てられた事務室を通り、土佐画の金屏をならべられた廊下を越えて、洋風応接室へ案内されました」
書物には上記以外にも、洋風応接室に飾られていた調度品の数々が丁寧に紹介されていており、その豪邸振りが想像できます。
左:後藤安田記念東京都市研究所 右:品川図書館
さて、「レ」の字型の建物 は、この日本家屋に生まれたときから住んでいた邦造の妻・たき(六郎の二女)の「明るくてコンパクトな洋風の家が欲しい」という要望をきっかけにして、昭和13年(1938年)に建設 されます。
設計は、銀座和光本館、日比谷の第一生命館、上野の国立博物館、横浜のニューグランドホテル本館などを手掛けた、新進気鋭の建築家・渡辺仁(わたなべじん)でした。
しかし、その後、「レ」の字型の建物は、数奇な運命をたどることになります。
以下では、2006年7月の日経新聞・文化欄に掲載された美術家・杉本博司氏による「和風モダーン十選」の記事を土台(青で表記)とし、それに筆者が調べた情報をプラスアルファ(赤で表記)して、「レ」の字型の建物の略歴をご紹介します。(なお、筆者は、日経新聞記事を直接見てはいません。とあるサイトに引用されていた記事を参考にしています。)
以上が、「レ」の字型の建物の略歴です。
このように見てくると、原邦造・たき夫妻が、この建物で暮らした期間は、昭和13年から20年(1945年・終戦の年)までのほんの数年間だけだったことになります。
品川図書館
上の地図は、昭和33年(1958年)と昭和35年(1960年)の地図です。
昭和33年の地図 (左の地図)には「レ」の字型の建物は描かれていませんが、「原邸」「外務大臣官邸」 と記されています。母屋(日本家屋)が原邦造一家に使用され、それ以外の建物、つまり「レ」の字型の建物が、外務大臣官邸として使用されていた、ということでしょうか。(筆者の想像)
「外務大臣官邸」と「外務省公館」との違いはありますが、ともに 外務省関連の施設 であるという点で、前出の日経新聞の記事とも一致します。
ちなみに、昭和33年当時の外務大臣は、岸信介政権下の 藤山愛一郎 でした。藤山は、新安保条約締結時(昭和30年(1960年))の外務大臣でもあり、歴史的事実として、条約批准書の交換が、「外務大臣公邸」で行われています。
「もしやその公邸というのは、「レ」の字型のことではないのか!」と筆者はとっさに思ったのですが、残念ながら違いました。当時、芝・白金にあった藤山の私邸こそが、批准書の交換が行われた公邸だったようです。ちなみに、その場所は現在、シェラトン都ホテル東京となっています。(官邸=執務を行う場所、公邸=住まい)
また、昭和35年の地図 (右の地図)には、しっかりと「フィリピン大使館」 と明記されています。これも日経新聞の記事に一致します。ちなみに品川教会は、すでに当時から現在と同じ位置(敷地の北東角)にあったようです。品川教会のHPによると、昭和26年(1951年)頃にはすでに存在していたそうです。
Google Earthより。中央の左の建物が御殿山トラストタワー、右の建物が御殿山トラストコート。その右下に「レ」の字型の「原美術館」が見える。写真左側が第2回でご紹介した「開東閣」。
以上をもって、「レ」の字型の建物の歴史、および原六郎、原邦造にまつわるお話はすべてご紹介し終わった感があるのですが、実は最後にもう1つだけ、ぜひともご紹介したい話があります。
それは、原邸の庭園を今に継ぐ「御殿山庭園」にまつわる歴史話です。実は御殿山庭園は、日本史の教科書にも出てくる、日本を揺るがした大事件と深い関わりを持った土地 なのです。その話をさらにご紹介したいのですが、今回も少々話が長くなってしまいましたので、続きは次回となります。
「原美術館と原邸」のタイトルでこれまで3回コラムを執筆してきましたが、いよいよ次回が完結編です。
どうぞ、ご期待ください。
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