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御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第七回 「原美術館と原邸」(4)

御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第七回 「原美術館と原邸」(4)

これまで3回に渡って「原美術館と原邸」の歴史を紹介してきましたが、最後にもう少しだけ歴史話をご紹介いたします。今回は、トレーニングセンターに隣接する「御殿山庭園」が、日本史の教科書に載っている歴史的大事件と大きなかかわりを持っていた、というお話です。

トレーニングセンターから望む原美術館=「レ」の字型の建物

御殿山庭園

前回までのコラムで触れてきたように、原美術館、御殿山トラストシティ、品川教会 にわたる一帯の広大な敷地は、明治25年(1892年)以来、代々、原家の邸宅があった土地 でした。
初代・原六郎は、幕末の志士であり、明治・大正期の大実業家。二代目・原邦造もまた、大正・昭和期の大実業家でした。その原邸の敷地に、御殿山トラストシティ(※)が完成したのは平成2年(1990年)のことです。

御殿山トラストシティの建設計画が持ち上がった当時、原邸の広大な庭に広がる貴重な緑がなくなってしまうのではないか、という不安が周辺住民に広がりましたが、結局、原邸の緑は、「御殿山庭園」という形で維持され、今に至っています。その面積は、約2000坪(68000㎡)にも及びます。

※竣工当時の名称は「御殿山ヒルズ」でしたが、2006年に「御殿山ガーデン」、2013年に「御殿山トラストシティ」と名称変更されました。

Google Earth(左:北 右:南)

国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる、明治43年(1910年)刊行の書物「名園五十種」には、御殿山庭園の前身である原邸の庭園の様子が詳しく紹介されています。
以下はその抜粋です。(一部、漢字、仮名遣いを変更しています。)

「面積も広く土地にも高低があって丁度、大磯か国府津あたりの山の中腹に建てた別荘と云うような調子で、しかも樹木は更に老大なものが多い」
「都下の庭園中に於いても十指の内に数うべき名園」
「池に沿った東北、寧ろ北よりの一部の丁度、箱根の湖畔を見るよう」
「風格を具えた庭であって古い狩野派の水墨画を見るが如き」

その他、詳細に読んでみると、今とほとんどその様子が変わっていないことがわかります。

下は、御殿山庭園内の写真です。庭園には、地図にも記載されている池が今でも残っています。
また、前々回のコラムでご紹介したとおり、原邦造の父・原六郎の大理石像も立っており、さらには「有時庵」という茶室も立っています。

筆者撮影

調べてみると、庭園内には昭和初期まで「慶長館」と呼ばれる入母屋造の日本家屋があったことがわかりました。確かに、当時の地図を見てみると、現在、原美術館の立っている辺りに建物が描かれています。おそらくこの建物が「慶長館」だと思われます。

この慶長館、もともとは滋賀県大津の園城寺(三井寺)にあった「日光院」と呼ばれた客殿で、それを明治25年(1892年)に、原六郎がここに移築しました。ただ、昭和3年(1928年)になって、慶長館は、東京都文京区の護国寺に移築され、今に至っています。現在は「月光殿」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています(下掲写真)。

さらに調べてみると、御殿山庭園内には、昭和初期まで、多宝塔(二重の塔)があったことが分かりました(下掲写真)。この多宝塔は、もともと兵庫県の播磨無量寿院にあったのですが、それを、明治31年(1898年)、六郎がここに移築したようです。多宝塔はその後、藤原銀次郎(※1)の芝白金の邸に移築され(昭和13年頃か?)、さらに昭和39年、正力松太郎(しょうりきまつたろう)(※2)との縁で、よみうりランドに移築され、今に至っています。

※1:王子製紙初代社長で「製紙王」と呼ばれた実業家。また、戦前は商工大臣、国務大臣、軍需大臣をも務めた政治家。
※2:「読売新聞中興の祖」と呼ばれた実業家で、日本テレビ初代社長。また、北海道開発庁長官、原子力委員会初代委員長、科学技術庁長官なども務めた政治家。

左:東京都文化財情報データベース 中:文化遺産オンライン 右:国立国会図書館デジタルコレクション 下:後藤・安田記念東京都市研究所

歴史的大事件と御殿山庭園

前出の「名園五十種」(明治38年刊行)にも記載されていますが、実は、御殿山庭園 内には、かなりの 高低差 があり、東側の池を底辺とした、すり鉢状の地形 になっています。たとえば、池とその東側の遊歩道との間には3~4mの落差があります。
また、池とその西側・原美術館の周辺とでは10m近くの高低差があります。この高低差、一見すると、単なる造園家の演出のように見えるのですが、実はそうではありません。

実はこれは、日本を揺るがした歴史的な大事件と大きな関わりをもつ高低差 なのです。

筆者撮影

その事件とは、嘉永6年(1853年)の ペリー来航(黒船来航)です。ペリー提督率いるアメリカの戦艦4艘が、三浦半島の突端にある浦賀沖に現れ、日本に開国を迫った事件です。

左:Early Foreign Visitors to Shizuoka 右:Wikipedia

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん:蒸気船) たった四杯で 夜も眠れず」

この事件が、江戸幕府をどれほど動揺させたのか。
そのことは、上記の有名な川柳でも推し測ることもができますが、それにもまして、端的に示す事実があります。(上喜撰とは、高級な日本茶のことです)
それは、黒船来航後、たった10数か月という短いに期間に、品川宿沖の江戸湾上に「御台場」、つまり 砲台 を6基(未完を含めると8基)も築いてしまった、という事実です。

明治初期・中期の地図(農業環境技術研究所)

現存する第三、第六台場 (Google Earth)

当初、幕府の計画では、第一台場から第十一台場まで、合計11基の台場を建設する予定でした。
しかし、途中、資金不足に陥り、第四、第七台場は途中で建設を断念。同様に第八台場以降も建設されることはありませんでした。ただ、代わりに、品川宿の猟師町の先端に、陸続きの「御殿山下台場」が建設されました。

御台場は、見てのとおり海の中にあります。もちろん、浅瀬を選んで建設されているとはいえ、相当な規模の埋め立が必要でした。埋め立が必要ということは、それ相応の土が必要となったということです。

そして、御台場のための土の供給源 こそが、実は 御殿山 であり、現在の御殿山庭園の周辺だったのです。
つまり、御殿山庭園内の大きな高低差は、実は、御殿山が土取場であったことの痕跡 なのです。

下の左の図は、「御殿山外国公使館地図」という、おそらくは江戸時代最末期に作成された、御殿山周辺の各国公使館の建設予定地を記した地図です。
その真ん中に描かれた大きな窪地が「御殿山の土取場」の跡です。
また右は、御殿山周辺の現在の標高図です。原美術館の東側、御殿山庭園の辺りで、周りの高台を穿つように土地が低くなっているのがわかります。

赤線はさまざまな資料をもとにして、筆者が推定した土取場の境界線です。

品川区HP

下の浮世絵はいずれも、歌川広重によって描かれた 幕末の御殿山 です。桜の名所として名高い御殿山が、むき出しの崖 になっています。土が削りとられてしまった跡だと思われます。

(1)五十三次名所絵図「御殿山より駅中をみる」(1855年) (2)名所江戸百景「品川御殿やま」(1856年) 下:標高図(品川区HP)

(1)の絵は、現在の原美術館の辺りから東の方角を望んだときのものでしょうか(筆者推定、(1)の矢印)。品川宿の向こうに広がる江戸前には、御台場が3つ 描かれています。

また、(2)の絵は、現在の品川女子学院の辺りから南の方角を望んだときのものでしょうか(筆者推定、(2)の矢印)。

なお、御殿山を切り崩した際に、人骨に混じって、板碑(いたび)が100基以上、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔(ごりんとう)の部材が150点以上、出土したことが記録に残っています(「東海寺文書」)。板碑は、石でできた卒塔婆、宝篋印塔・五輪塔は、見た目、石灯籠のようなものです。いずれも室町時代に製造されたものです。それらは、東海寺で供養された後、品川宿にある法禅寺(ほうぜんじ)に収蔵され、今に至っています。

ちなみに、先ほど、むき出しの崖になってしまった御殿山の浮世絵をご紹介しましたが、実は最近、「御殿山は、もともとから、へりの部分が崖のようになっていたのではないか」という考えが筆者の頭の中に浮上しています。例えば、昭和11年刊行・鈴木善太郎著「御殿山史」という書物には、御殿山の花見客が品川宿の遊女に惹かれるさまを詠んだ『御殿山こころは崖にころげ落ち』という江戸時代の川柳が紹介されています。山に崖はつきものですが・・・現時点では確たる根拠はありません。

話を御台場に戻します。
平成の御代、現存する御台場は、第三、第六台場のみ です。お台場海浜公園と陸続きになっているのが第三台場。レインボーブリッジから見下ろせる位置にあるのが第六台場です。その他の台場は、戦後になってから撤去されたり、埋立地に埋没してしまいました。

ちなみに、第四台場(通称「崩れ台場」)のあった場所には、現在、「第一ホテル東京シーフォート」が立地しています。「シーフォート」を直訳すると「海の砦」。つまりは、「台場(海上の砲台)」ということになるでしょうか・・・。

なお、御台場の土取場はこの御殿山以外にも、八ツ山(開東閣がある山)、泉岳寺前などがありました。

さて、本来なら御台場についてさらに話を展開させて行きたいところなのですが、話が長くなってしまいまましたので、続きは、近い将来、改めて別なコラムでご紹介いたします。ご期待ください。

上:昭和22年(goo地図) 下:埋立地に埋没する第一台場 昭和33年 (品川区HP)

最後に

以上、4回にわたって、原美術館とそれにまつわる歴史をご紹介してきました。

またまだ、品川、御殿山近辺には、たくさんの歴史が潜んでいます。
次回も引き続き、周辺の歴史をご紹介いたします。

関連リンク

おまけ

原美術館の建物が戦後の一時期、進駐軍(GHQ)に接収されていたことは 前回のコラム でご紹介したとおりですが、渡辺仁が設計した建物は、他にも軒並み進駐軍に接収されています。
その中でも特に有名なのは、GHQの本部が置かれた 日比谷の第一生命館 です。

また、服部時計店(現・銀座和光)も、将校専用の売店(PX:Post Exchange)として接収されました。さらに、横浜のニューグランドホテルも、全館接収され米軍将校宿舎となりました。

ニューグランドホテルには、『マッカーサー元帥が、戦前に、このホテルに宿泊したことがあり、そのため戦時中「戦争が終わったらニューグランドに泊まりたい」と語っていた。また、空襲の際も標的から外された。』といった逸話が残っているようです。

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