日本サード・パーティの本社が位置する御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。
御殿山今昔物語シリーズ、第八回、第九回より、「御殿山の主たち」と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介しています。2人目は、伊予宇和島藩10代目当主・伊達宗陳です。
これは、大正6年(1917年)出版の御殿山周辺の地図です。御殿山には明治の昔から今に至るまで、数々の著名人が邸を構えていました。前回はこの中から、森村邸・森村市左衛門の歴史をご紹介しましたが、今回は伊達邸・伊達宗陳の歴史をご紹介します。
大正6年当時、品川駅から延びる線路と、京急・品川駅から延びる線路と、そして、品川小学校に囲まれた三角地帯に邸を構えていたのが、伊予宇和島藩(いようわじま)・伊達家の10代目当主・伊達宗陳(だてむねのぶ)です(華族、侯爵。万延元年~大正12年(1861年~1923年))。
※地図の中で、伊達邸の右上(北北東)に位置する駅は、京急の初代・品川駅です。詳細は、第九回「森村市左衛門」(後編)をご覧ください。
※現在、品川女子学院がある場所には、当時、品川小学校(現・品川区立品川学園)がありました。品川女子学院が同地に移転してきたのは、昭和4年(1929年)です。
※第一京浜(国道15号)が当地を貫通したのは昭和2年(1927年)です。
伊予宇和島とは現在の愛媛県宇和島市のことです。宇和島市は玄界灘に面した港湾都市です(Googleマップ)。
左:宇和島城(宇和島市HPより) 右:Yahoo地図
宗陳(むねのぶ)のことを「藩主」ではなく「当主」と書いたのは、宗陳が家督を継ぐよりも前、廃藩置県(明治4年(1871年))によって藩が消滅してしまったからです。
宇和島藩といえば、幕末の「四賢侯」の1人・伊達宗城(むねなり・8代藩主)が有名です。宗陳は、その宗城の名目上の孫に当たります。名目上というのは、宗陳の実父・宗徳(むねえ・9代藩主)が、宗城の養子になっているからです。
なお、「四賢侯」とは、幕末に活躍した4人の開明的な藩主のことで、福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津斉彬、そして宇和島藩の伊達宗城のことをいいます。
明治期から毎年出版されていた「日本紳士録」によると、宗陳は明治20年代後半(1890年代半ば)に、本所区小泉町(※)からこの御殿山の地に転居してきたようです。また同書によると、大正4年(1915年)か、その前年に、御殿山から芝白金三光町に転居したようです。従って、御殿山にはざっと20年ほどを過ごしたことになります。
なお、大正4年に転居したとなると、大正6年出版の地図と矛盾することになりますが、転居後もしばらくは邸を保有していたのかもしれません。あるいは、地図の作成年と出版年との間に若干のずれがあるのかもしれません。
※大正6年出版の地図に住所を照らし合わせると、現在の両国駅のすぐ南にあったことがわかりました(Googleマップ)。
左から、仙台藩初代藩主・伊達政宗、宇和島藩8代・宗城、同9代・宗徳 (Wikipediaより)宗陳の写真が公のサイトで見つからなかったので、宗城と宗徳をご紹介しています。
そもそも宇和島藩伊達家(10万石)は、独眼竜こと伊達政宗の側室の子・秀宗を藩祖とする分家の家系です。秀宗は、長男であるにもかかわらず、仙台藩(62万石)を相続することができませんでした。その理由は、側室の子であったから(政宗には遅くにできた正室との子・忠宗がいました)とも、秀宗が若いときに秀吉の人質となっていたため、政宗が家康に遠慮したからとも、言われています。秀宗の「秀」は、秀吉から貰い受けたものです。
仙台藩を継げなかった秀宗は、政宗にわだかまりを持っていたようで、以来、宇和島藩と仙台藩の間では、いさかいが絶えなかったようです。
ちなみに、仙台藩伊達家は、明治になって「伯爵」となりましたが、宇和島藩伊達家は「侯爵」となっています。侯爵は伯爵よりも上位です。理由は、仙台藩が戊辰戦争当時「奥羽列藩同盟」に加わって明治政府に対抗したのに対し、宇和島藩は、8代藩主・宗城(四賢侯の1人)が維新後も明治政府に貢献したためだといわれています。
ちなみに、歴代の宇和島藩主は、2代目・宗利を除いて、すべて「遠江守」(とおとうみのかみ)を名乗っています。遠江とは、現在の静岡県の西側半分の地域を指します。
宗陳は、宮内省の式部官、主猟官、宮中顧問官、貴族院議員を務めました。
主猟官とは、皇族の狩猟場(御猟場)を管理する役職のことらしく、「現代名士人格と教養」によると、宗陳自身もまた、狩猟の名人(鉄砲の名人)だったようです。
ただ、宗陳に関する情報はネット上にほとんど見当たりません。なので、ある個人の方のサイトに、「萬朝報」(よろずちょうほう)という新聞に掲載された記事が紹介されていたので、それを引用させてもらいます。記事は、明治31年のもののようです。
「伊達宗陳は侯爵伊達宗徳の嫡男なるが、北品川の自邸に大塚テイ(23)なる妾を蓄う。テイは神田旭町の大工与助の長女にて類いまれなる美人なるより、かつて歌舞伎座見物の際 宗陳氏に見初められついに妾となる。」
「萬朝報」は、ゴシップ新聞の先駆けとなった新聞です。Wikipediaによると、「蓄妾実例」という記事の中で、権力者(政治家?)、華族、一般の商店主、官吏などの妾をいろいろと暴露していたようです。
実は、宇和島藩伊達家の維新後の邸宅としては、この御殿山の邸よりも、その後に転居した芝白金三光町の方が有名です。というのは、東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に「伊達家の門」が移築されているからです。この門は、芝白金三光町の邸にあった表門で、大正期に建築されたものです。
伊達家の門(江戸東京たてもの園HP) 大正時代の建築
下の地図は、大正15年(1926年)に出版された白金三光町周辺の地図です。大きく目立つ「高輪御殿」の左に伊達邸が存在します。現在、同地は、更地になっているようです(Googleマップ)。
大正15年出版 白金三光町近辺の地図
なお、同地はもともと江戸時代、芝村藩(現在の奈良県桜井市芝)織田家の上屋敷があったところです。芝村藩織田家は、織田信長の弟・織田有楽斎(うらくさい。長益(ながます))を祖とする藩です。有楽斎は、千利休の弟子(利休七哲)として有名ですが、「有楽町」の由来となった人としても知られています。
また、「高輪御殿」は、昭和天皇が皇太子時代に一時すごされた東宮御所であり、かつ、大正天皇の第3皇子・高松宮が住まわれた邸です。もともとは熊本藩細川家の下屋敷でした。東京図書館のHPで東宮御所時代の高輪御殿の門の写真をみることができます。
恵比寿ガーデンプレイスの東側に位置する恵比寿3丁目(Googleマップ)は、昭和41年(1966年)まで「伊達町」と呼ばれていました。さらに遡ると、明治22年から昭和3年(1889年から1922年)までは、「伊達跡」「伊達前」という2つの町から成り立っていました。
町名の「伊達」は、宇和島藩の下屋敷がここにあったことに由来します。「伊達跡」が下屋敷のあった地域、「伊達前」が表門前に広がる地域です。
大正15年(1926年)出版 ヱビスビール製造所(現・恵比寿ガーデンプレイス)周辺
なお、宇和島藩の上屋敷は現在の六本木7丁目、新国立新美術館や都立青山公園周辺にありました(Googleマップ)。広さは36,000坪もあり、東京ドームの2.5倍です。戦前は陸軍歩兵第三連隊の駐屯地でした。
伊達邸の跡地には現在、マンション、ガソリンスタンド、北品川病院第三病棟が立っています(Googleマップ)。下は、伊達邸跡の写真です。
また、下の写真は、弊社のトレーニングセンター(御殿山トラストタワー14F)から撮影したものです。
線路と第一京浜に挟まれた三角地帯が伊達邸跡地(左が北)
なお、御殿山の近所の東五反田(島津山)にある清泉女子大学は、もともと仙台藩伊達家の下屋敷があった場所です(明治6年からは島津家の所有)(Googleマップ)。
同地は、「大崎屋敷」とか「袖ケ崎屋敷」と呼ばれていますが、今回ご紹介した宗陳のお屋敷とは別物です。
さて、今度は一気に時代を遡って、江戸時代の伊達邸周辺(御殿山)の様子をご紹介します。
江戸時代・幕末、安政4年(1857年)の地図を見てみると、伊達邸があった御殿山の地には、「塙次郎」と「井上左太夫大筒稽古場」という文字が記されています。
左側:復元・江戸情報地図(朝日新聞出版)(復元・江戸情報地図は、現在の地図に江戸時代の地図を比定したものです) 右側:安政4年(1857年)「芝三田二本榎高輪辺絵図」
「復元・江戸情報地図」をもとに作成(Google Earth)
まずは、「塙次郎」(はなわじろう)と書かれている土地からご紹介します。
一見すると、塙次郎なる人物の邸があっただけのように見えますが、実はそうではありません。ここは、塙次郎の父・塙保己一(はなわほきいち)が編纂した「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)という書物の版木置場でした。
1830年に完成した「新編武蔵風土記稿」によると、もともとこの地は、宝暦9年(1759年)に行われた江戸城二の丸の修繕の際の土取場(※)だったのですが、その後、所有者が転々とした後、寛政10年(1789年)に、幕府からの拝借地として「群書類従」の版木置場となった旨が記載されています。面積はおよそ1000坪です。
享保3年(1803年)「分間江戸大絵図」。版木置き場となる以前、「土トリバ」と記載されています。
※東京都公文書館のHPによると、宝暦9年10月、品川宿に対して「二丸御用土運搬人足差出令」が発令されています。
塙保己一(1746~1821年)は、江戸時代後期に活躍した、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町)の農家出身の盲目の国学者です。保己一は、古代から江戸時代初期までの膨大な史書や文学作品を一同に集めた一大叢書「群書類従」を41年かけて編纂しました。
安永8年(1779年)、34歳のときに「群書類従」の出版を決意し、文政2年(1819年)、74歳のときに完成させました。
「群書類従」は666冊にも及ぶ木版本です。その版木の数は17224枚に至ります。この膨大な量の版木の置場がこの地にあったのです。
左:塙保己一座像 右:群書類従の版木(塙保己一資料館HPより)
1枚の版木は、縦20文字の列が10列×2段、総文字数が400文字の構成になっています。これが、現在の原稿用紙の原型になったといわれています。なお、17000枚にもおよぶ版木は現在、渋谷にある「塙保己一資料館(温故学会会館)」(公益財団法人・温故学会)に保管されています。
余談ですが、保己一の息子で国学者の塙次郎(忠宝(ただとみ))は、幕末の1862年、孝明天皇の廃帝を企図していると誤解され、勤王の志士に暗殺されています。その暗殺の実行犯の中には、伊藤博文(当時は、伊藤俊輔)が含まれていたといわれています。当時、伊藤は、高杉晋作らとともに、御殿山にあった英国公使館の焼き討ちをしています。詳しくは、第三回「土蔵相模と問答河岸」をご覧ください。伊藤は後年、暗殺のことを渋沢栄一に告白しています。
弊社14Fトレーニングセンターからの光景
以上で、前編は終了です。後編では、「群書類従」の版木置き場の隣にあった「井上左太夫大筒稽古場」についてご紹介します。
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