日本サード・パーティの本社が位置する御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。
御殿山今昔物語シリーズ、「御殿山の主たち」と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介しています。第八回・第九回の「森村市左衛門」に続き、2人目は、伊予宇和島藩10代目当主・伊達宗陳にスポットを当てます。今回は、第十回の「前編」につづく、後編として、「井上左太夫大筒稽古場」「鐘鋳の松」についてご紹介します。
幕末・安政4年(1857年)の地図をみると、伊達宗陳(だてむねのぶ)の邸があった場所(Googleマップ)には、『塙次郎』と『井上左太夫大筒稽古場』の2つの文字が記載されています。『塙次郎』は前編でご紹介しましたので、今回は『井上左太夫大筒稽古場』をご紹介します。
左側:復元・江戸情報地図(朝日新聞出版)(この地図は、現在の地図に江戸時代の地図を重ねたたものです) 右側:安政4年(1857年)『芝三田二本榎高輪辺絵図』
『復元・江戸情報地図』をもとに作成(Google Earth)
『大筒稽古場』は、文字通り、砲術(大砲や鉄砲)の稽古場のことです。文化13年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』には、もともと空き地だったところに享保12年(1727年)、稽古場が設けられ、途中中断したものの、再び安永7年(1778年)から稽古場として使用されている、と記されています(毎年3月から7月にかけて利用されていました)。
稽古場が設置された享保12年は、『享保の改革』で知られる徳川吉宗の治世です。吉宗は、泰平の世の中にあって、砲術の知識が廃れていくことを危惧して、稽古場を設けたとされています。
ちなみに、稽古場の北にある坂を『鉄砲坂』といいます。残念ながら現存はしていませんが、京急・北品川駅前の歩道橋あたりから、新八ツ山橋(昭和38年架橋)にかけて、第一京浜が登り坂になっているのがその名残といえます。
また、『井上左太夫』(いのうえさだゆう)とは、代々、幕府の鉄砲方を務めた井上家(砲術・井上流)当主の名跡です。つまり、『井上左太夫大筒稽古場』とは、井上家が管理する砲術の稽古場ということになります。
ただ、前出の『新編武蔵風土記稿』には、この地図の記載とは異なり、この場所が『佐々木卯之助砲術稽古場』であると記しています。この相違は、『新編武蔵風土記稿』が1830年、地図が1857年に完成し、両者の間に30年弱の開きがあるためです。
佐々木家は、佐々木流砲術の師範の家柄です。佐々木勘三郎孟成(たけなり?)が、幕府の初代・大筒役を務めて以来、代々、その職を歴任してきました。大筒役は、元文3年(1738年)に吉宗が、鉄砲方(役職)とは別に、特に火術に優れていた孟成を見込んで、新設した役職です。佐々木卯之助(うのすけ)は、文政7年(1824年)にその大筒役に就任しました。
ところが事件が起こります。
天保の大飢饉(1830年代)の折、卯之助が管理している茅ケ崎の『相州炮術調練場』(※)において、付近の住民が無許可で調練場の土地を開墾していたのを卯之助が黙認します。ところが、そのことを伊豆韮山(にらやま)代官・江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)が検地によって発見。卯之助は罪に問われることになり、天保7年(1836年)、一家ともども青ヶ島(伊豆諸島)へ島流しにさてしまった、という事件です。この事件を『佐々木卯之助事件』といいます。
おそらくこの事件をきっかけに、後任として井上家が御殿山のこの地を管理することになったのではないでしょうか(※)。
ちなみに、卯之助は、明治元年に罪を赦されますが、結局、青ヶ島で生涯を終えることになりました。卯之助の当時のはからいに感謝した茅ケ崎の住民は、明治31年(1898年)、茅ケ崎に卯之助の追悼記念碑を建立します(Googleマップ)。
※相州炮術調練場は、江の島の対岸から茅ケ崎海岸沿に至る広大な砲術稽古場でした。現在、辻堂海浜公園や小和田海浜公園がある辺りです(Googleマップ)。
※佐々木孟成は、もともと鉄砲方・井上家(井上左太夫貞高)の与力(部下)でしが、吉宗によって大筒役に抜擢されました。卯之助事件の背景には、井上家と佐々木家の砲術を巡る100年越しの暗闘があったのかもしれません。
なお、卯之助の島流しのきっかけを作った江川太郎左衛門英龍(担庵(たんあん))は、事件の後、老中・阿部正弘直属の勘定吟味役となり、ペリーの来航を機に嘉永6年(1853年)から始まる品川沖の御台場(砲台)建設の総指揮をとることになります。
これは、英龍が早くから西洋の知識に触れていた開明的な役人で、当時、西洋流の砲術(高島流砲術)に精通していたからです。
英龍は御台場の建設に際し、この御殿山の大筒稽古場のすぐ横の土地を土取場としました。詳しくは、第七回『原邸と原美術館』(4)をご覧ください。
なお、英龍は、パン食普及協議会によって『パンの祖』とされています。これは英龍が天保13年(1842年)4月12日、軍隊用の乾パンのようなものを日本で初めて作ったからです。現在、4月12日は『パンの記念日』となっており、また、毎月12日は『パンの日』になっています。
左:江川太郎左衛門英龍(Wikipediaより) 右:現存する第三台場と第六台場(Google Earth)
それにしても、この御殿山の大筒稽古場。大筒の稽古をするには随分と狭いような気がするのですが…。『新編武蔵風土記稿』によると、その広さは700坪あまり。単純計算で、50m×50m程度の土地ということになります。山を削って、むき出しとなった崖に向かって大砲や鉄砲を発射したのでしょうか。
弊社14Fトレーニングセンターからの光景
さて話は少し変わりますが、文化13年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』には、砲術稽古場の境に『鐘鋳の松』(かねいのまつ)と呼ばれる古松があることが記されています。
また、天保6年(1836年)前後に刊行された『江戸名所図会』には、この松が、『(御殿山の)北の方、畠の中に存せり』と記されています。
さらには、昭和11年(1936年)に出版された鈴木善太郎著『御殿山史』(御殿山町会出版)にも、この松が大筒稽古場の北に、文政年間(1818-30年)まであったことが記されています。
この松、現存はしていないのですが、実は、延宝元年(1673年)、当時活躍していた鋳物師・椎名伊予守吉寛(しいないよのかみよしひろ)が、この御殿山の地で、芝増上寺の大梵鐘の鋳造に成功したことを記念して、その当時、植えられた松なのです。
前出の『御殿山史』には、そのときのいきさつが詳しく記されています。それによると、増上寺の梵鐘は開山以来すでに7回も割れてしまっていた(鋳造に7回失敗していた)ので、椎名伊予守は、幕府・鉄砲方の井上外記(げき。役職名)に相談し、トタンを混ぜることによって割れにくくなることを教わり、ついにこの梵鐘の鋳造に成功した、というものです。
この大梵鐘、実は現在でも増上寺の鐘楼堂に納められています。現地の案内版によると、高さは3m、重さは約15トン。『今鳴るは芝か上野か浅草か』『江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘』と、川柳に詠まれるほど庶民に親しまれ、音は遠く木更津まで響いたといわれています。
右:増上寺大殿 左:増上寺の鐘楼堂と大梵鐘 (増上寺HPより)
それにしてもこんな大きい鐘をどうやって御殿山から増上寺まで運んだのでしょうか。そしてなぜ、わざわざ御殿山の地で鐘を鋳る必要があったのでしょうか。その辺りの事情は不明です。いずれにせよ、大筒稽古場が1727年に設置される50年余り前、その近辺に鐘鋳の松が植えられたことだけは確かです。
さて、話を少し巻き戻します。増上寺の梵鐘を鋳造した椎名伊予守が相談したという幕府の鉄砲方・井上外記(げき)。外記は役職名ですので本名は正継(まさつぐ)といいます。この井上正継は、江戸時代初期の砲術家で、井上流の流祖となった人です。冒頭でご紹介した『井上左太夫大筒稽古場』の井上家は、まさにこの正継を祖とする井上家のことです。
ということは、1673年、井上正継の助言によって完成した梵鐘にちなんで松が植えられ、そのおよそ50年後の1727年、松の近所に大筒稽古場が開場し、さらにそれから110年後の1836年ごろ、その稽古場を井上家が引き継いだ、ということになります。つまり、松が植えられてから160年の時を経て、井上家は、再びこの松のもとに帰ってきた、ということになるのではないでしょうか。
ただし、『御殿山史』に記されていた井上外記による助言のくだりは、その出典を確認することがでませんでした。
ところで、この鐘鋳の松、御殿山のどのあたりにあったのでしょうか。そしていつごろ消失したのでしょうか。
『新編武蔵風土記稿』は砲術稽古場の境にあると記しています。また、『江戸名所図会』は御殿山の北の方、畠の中にあると記しています。さらに『御殿山史』は、大筒稽古場の北にあったと記しています。この3つの文献を総合すると、松の所在は、下の地図の赤い網掛けのエリアということになります。
特に『復元・江戸情報地図』は、現在の地図に安政年間の地図を重ね合わせたものですので、そのエリアが現在のどこに相当するかを簡単に確認することができます。
芝三田二本榎高輪辺絵図
復元・江戸情報地図。なお、地図にある『清水の井』は、別名『磯の清水』ともいい、『江戸名所図会』にも挿絵入りで紹介されている井戸です。現在の京急北品川駅南側付近にあったとされています。北品川駅南にある横丁(鳥屋横丁・清水横丁)の入り口に、案内板が立っています。
すると、松の所在は、第一京浜の真上および新八ツ山橋の周辺だということがわかります(Googleマップ)。ということは、松が消失した時期としては、鉄道貫通のために御殿山が切り崩された明治初期(1870~2年頃)、あるいは、第一京浜がこの地を貫通した昭和2年(1927年)ごろ、と考えることができます。しかし、『御殿山史』には、文政年間(1818-30年)には消失していたように記されています。ただ、文政年間よりも後になる天保6年(1836年)前後に刊行された『江戸名所図会』には、松が『存せり』(現在進行形)と記されています。
ということなので、場所はおおよそ検討をつけることができますが、消失の時期を特定することできませんでした。
下の浮世絵は、いずれも歌川広重によって描かれた御殿山です。どの絵にも桜とともに松が描かれています。描かれたのは、先の2枚が1840年前後。3枚目が、1831-2年です。
『御殿山史』がいうように文政年間(1818-30年)に松が消失していたとすれば、絵の中の松はいずれも鐘鋳の松ではないことになります。ですが、仮に、明治初期まで松があったと仮定すると、この絵の中のどれかが鐘鋳の松である可能性が出てきます。
特に3枚目の絵は、描かれた時期も文政年間に近く、また、『江戸名所図会』の刊行前の絵でもあり、さらに、御殿山の全体を俯瞰した構図になっているので、ちょうど左下(御殿山の北東角)あたりに描かれている松のどれかが鐘鋳の松である可能性が出てきます。
歌川広重『御殿山遊興』
歌川広重『御殿山花見』
歌川広重(一立斎広重)『御殿山花見・品川全図』
余談ですが、御殿山にはもう一つ『信玄の旗掛松』と呼ばれる古松もあったようです。由来は、永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原の北条氏に攻め入った際、この松に旗を掛けたというものです。
1830年に完成した『新編武蔵風土記稿』には、鐘鋳の松の並びの畠の中に40年前まであったが、今は枯れてしまった、と記されています。
最後に、佐々木卯之助事件のくだりで出てきた佐々木孟成は、大筒役の就任前、犬牽頭(犬引頭)という役職に就いていました。これは、将軍が狩猟を行う際に、犬を使って獲物を追い詰める係です。また、孟成は、当然のことながら、鉄砲の使い手でもありました。翻って、伊達宗陳、彼は宮内省の主猟官であり、鉄砲の名人でもありました。
以上で、前後編にわたってご紹介した、伊達邸・伊達宗陳にまつわる歴史話は終了です。次回は、日比谷平左衛門の歴史をご紹介する予定です。
(おまけ)
文献とは矛盾しますが、筆者は、鐘鋳の松は、本当は、稽古場の南西、版木置き場の南東角あたりにあったのではないかと考えています。
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