日本サード・パーティの本社が位置する御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。
これから数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。
3人目は、紡績王・日比谷平左衛門です。
大正6年(1917年)出版の地図
上は、いまからちょうど100年前の大正6年(1917年)出版の地図です。前回の記事(第十回、第十一回)でご紹介した伊達宗陳(むねのぶ)邸の南にある品川小学校(※)のさらに南に位置するお邸の主が、今回の主人公・日比谷平左衛門です。
日比谷平左衛門については、第三回『土蔵相模と問答河岸』の中で取り上げたことがありますが、改めて今回ご紹介いたします。
日比谷平左衛門は、明治・大正期に紡績業で名を上げた実業家で、『紡績王』『日本紡績界の巨人』と呼ばれたお人です。弘化5年(1848年)に誕生し、大正10年(1921年)に没しました。享年72歳です。
大正6年(1917年)地図の拡大。現在、品川女子学院がある場所には、当時、品川小学校がありました。品川女子学院が同地に移転してきたのは、昭和4年(1929年)です。
現在の地図(MapFan)
現在(Google Earth)
JTP本社14Fトレーニングセンターより撮影。黄色のエリアが、日比谷邸跡。トレーニングセンターからは徒歩4分、300m程度の距離です(Googleマップ)。
弘化5年(1848年)に新潟・三条の旅籠屋の三男として生まれ、幼名は大島吉次郎。幼くして江戸に出て、木綿屋・松本屋の奉公人を長年務め、明治13年(1880年)、日比谷家の養子となり、綿糸、綿花の卸問屋『日比谷商店』(日本橋区堀留)を興します。(『日比谷商店』と『日比谷花壇』は関係ありません。)
明治29年(1896年)、同業者数人とともに『東京瓦斯紡績会社』(瓦斯:ガス)を設立し、専務取締役に就任します。
その後、日本の陶器界の父・森村市左衛門(第八回、第九回参照)に請われて、経営不振だった『小名木川綿布』の立て直しに尽力し、成功を収めます。さらに、再び、森村市左衛門に請われて、明治33年(1900年)、経営不振だった『富士紡績』の再建にも尽力し、これにも成功します。富士紡績はその後、明治37年(1904年)、東京瓦斯紡績と合併し『富士瓦斯紡績』(現:富士紡ホールディングス)となります。
左:日比谷平左衛門 右:森村市左衛門 (Wikipediaより)
同じころ、明治の元勲・井上馨(いのうえかおる)(※)の意向によって、三井銀行が、業績不振の『鐘淵紡績』(後のカネボウ)の株を手放そうとしたことを契機として、株の買い占め合戦が勃発します。歴史上、『呉錦堂・鈴久事件』(ごきんどう・すずきゅう事件)と呼ばれている事件です。結果、明治40年(1907年)、買い占めに成功した鈴木久五郎(きゅうごろう)の意向で平左衛門が会長に就任し、ようやく事態が収束します(※)。
さらには、平左衛門が設立発起人でもあった『日清紡績』も、明治40年(1907年)の会社設立直後に経営層が退陣するなど、不安定な状態が続きましたが、3年後の明治43年(1910年)に平左衛門が会長に就任し、その後は、堅実・順調に業績を伸ばしていきます。
このように、類まれな経営手腕によって絶大な信用力を得ていた日比谷平左衛門は、明治・大正期の紡績業界において、揺るぎない地位を築いていました。
※明治の元勲・井上馨は、明治政府において、外相、農商務相、内相、蔵相を歴任する一方、三井財閥の最高顧問をも務め、西郷隆盛から『三井の番頭さん』と揶揄されるほど、財界とのつながりの強い政治家でした。
※鈴木久五郎は、日本で最初に『成金』(なりきん)と呼ばれた人です。日露戦争による好景気を背景に一時は巨万の富を得ましたが、その後、2年足らずで全ての財産を失った伝説の相場師です。
ところで、日比谷平左衛門が興した『東京瓦斯紡績』や『富士瓦斯紡績』の社名を見て、『なぜ瓦斯(ガス)なのか?』と疑問に思いませんでしたか。実はこの社名は、『ガス糸』に由来しています。
『ガス糸』とは、綿糸をガスの炎の中に通過させることによって、表面のケバを焼き払い、光沢を出した糸のことです。従って、『東京瓦斯紡績』といっても『東京ガス』とはなんの関係もありません。ただ、富士瓦斯紡績は、創業間もない明治43年(1910年)から、電力事業にも手を伸ばしています。もしかしたらガスを使って火力発電でもしていたのではないか・・・と勘繰ったのですが、さにあらず、水力発電でした。
標高図(品川区HPより)
さて、話を江戸時代に遡ってみます。
冒頭の地図でご紹介した日比谷邸ですが、その場所は高台になっています。東にある第一京浜との標高差は10m以上もあります。江戸時代初期に作成された『寛永江戸全図』や、高松松平家に伝わる『江戸大絵図』を見る限り、この場所は、『御殿山』の地名の由来になった『品川御殿』があった場所のようです。
『品川御殿』とは、もともと、徳川家康が鷹狩の際の休憩所として設けた館のことです。一説には、豊臣秀吉の側室・淀君を人質として迎えるための御殿だったともいわれています。3代将軍・家光は、ここで、馬揃(うまぞろえ:閲兵式)をしたり、大きな茶会を催したりしています。また、加藤清正の息子・忠広が改易される直前、江戸への入府を許されず、品川御殿で引き返したとする資料もあります。
『大日本五街道図屏風 品川から六郷まで』(動画『しながわのチ・カ・ラ 御殿山物語』(品川区公式チャンネル しながわネットTV)より)
なお、品川御殿は、元禄15年(1705年)、5代将軍・綱吉(犬公方)の治世に焼失し、その後再建されることはありませんでした(小さな『御立場』(おたつば:周りを見渡す櫓のようなものか?)は建てられたようです)。ちなみに、元禄15年は、赤穂浪士・吉良邸討ち入りがあった年です。
では、少しばかり地図を検証してみます。本当に、日比谷邸は品川御殿跡地に立地していたのでしょうか。
下は、『寛永江戸全図』(1642~43年頃)の御殿山周辺部を切り出したものです。地図の中央に『御殿』と書かれているのが品川御殿です。左が北(JR品川駅方面)、上が東(東京湾)となります。品川御殿の場所を比定する目安は、①東海道から品川御殿の北よりに伸びる道、②東海道から品川御殿の中央に伸びる道、それと、③明神こと、品川神社です。
『寛永江戸全図』の抜粋(『品川を愛した将軍徳川家光』(品川歴史館出版)より)
下は、同じ地域を映した、幕末の嘉永3年(1850年)の地図です。先の寛永江戸図とは、200年以上もの開きがありますが、道の様子は、あまり変わっていないようです。前述の①②③をこの地図に配置してみました。すると、①は善福寺に沿って御殿山に伸びる道であることがわかります。この道は、当時から『大横丁』と呼ばれている通りです。また、②は善福寺と法禅寺の間に伸びる道であることがわかります。この道は、『黒門横丁』と呼ばれています。③の天王社とは品川神社のことです。
嘉永3年(1850年)の地図
下は現在の地図です。上が北となっています。善福寺と法禅寺は現在も昔と同じ場所にあります。また、①大横丁も現存しています。ということは、品川御殿は、大横丁の延長線上に続く『御殿山通り』の南側にあったことになります。
また、善福寺と法禅寺の間の②黒門横丁も現在しています。ということは、品川御殿は、黒門横丁の真正面にあったことになります。
もちろん、③品川神社は現存していますので、品川御殿は神社のすぐ北にあったことになります。よって、導き出される答えは、『品川御殿は、日比谷邸と同じ場所にあった』ということです。
なお、幕末、高杉晋作や伊藤博文など、長州藩の攘夷志士による『英国公使館焼き討ち事件』があった現場も、日比谷邸のあったまさにこの場所です。こちらについては、第三回『土蔵相模と問答河岸』をご覧ください。
品川御殿の存在を今に伝えるものの1つに、「御成門通り」(おなりもんどおり)をあげることができます。場所は、御殿山交番前の交差点からセルビア大使館、原美術館、ミャンマー大使館へと伸びる幅5Mほどの通りです(Googleマップ)。現在、道の入り口(交差点側)に、立て札(案内板)が立っています。名前の通り、将軍が品川御殿に御成りになる際に使用した道ということでしょう。立て札の内容は、Monumentというサイトで確認することができます。
Googleマップ (ピンのあたりに立て札(案内版)が立っています)
寛永江戸全図(1642~43年頃)左が北、上が東。
また、品川御殿および日比谷邸のあった高台の南西部のエリアは、江戸の頃より、『権現山』(ごんげんやま)と呼ばれていました。現在そこには 権現山公園(大正7年開園)が広がっています。権現山の由来は、もちろん東照大権現(とうしょうだいごんげん)こと徳川家康です。『品川区郷土読本』(昭和14年出版)によると、その昔、おそらく品川御殿が健在だった当時、この辺りに東照大権現(家康)が祀られていたとのことです。
また、江戸時代中期の寛文年間(1661~72年)、4代将軍・家綱によって吉野の桜が移植されて以降、あるいは、8代将軍・吉宗による享保年間(1716~35年)の植桜以降、御殿山全体が桜の名所として有名になりますが、その中心地は日比谷邸の辺りだったようです。
なお、権現山公園には現在でも桜が植えられています。さすがに当時の桜が現在まで残っている、というわけではないでしょうが、毎年春になると往時をしのばせる見事な花を咲かせています。
歌川広重 『東都名所 御殿山花見 品川の駅 袖かうら 月の岬』
権現山公園の桜(2017.4撮影)
下の絵は、画家・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)が描いた1800年代初期の御殿山の様子です。当時では珍しい油絵です。このアングル、ちょうど日比谷邸のあたりから御殿山の北(品川駅方面)を臨んだものではないでしょうか。
亜欧堂田善 『花下遊楽図』(1800年代初期の作品)(立花家史料館HPより)
ちなみに、絵の中央右下の崖の上に立つ松は、第十一回『伊達宗陳』(後編)でご紹介した『鐘鋳の松』(かねいの松)かもしれません。また、その松の下で、崖から流れ落ちている滝。この滝がなんなのか、筆者としては気になっています。
日比谷平左衛門が、この地に邸宅を構えたのは、明治30年代後半のようです。おそらく、富士瓦斯紡績を立ち上げたころではないかと思われます。
明治43年に出版された 『名園五十種』 によると、邸内では、多数の学生を集めた運動会がひらかれたこともあったようです。それほどの広さをもったお邸ですが、昭和30年代初頭には姿を消したと思われます。現在は、日本郵便の社宅を中心にマンションが立ち並ぶ住宅地となっています(Googleマップ)。
日比谷邸の庭のスケッチ(『名園五十種』(明治43年出版)より)
昭和22年の日比谷邸(goo地図より)
昭和33年の日比谷邸跡(品川区HPより)
以上で、紡績王・日比谷平左衛門にまつわる今昔物語はすべて終了です。次回は、旧三井物産を創業した益田孝の今昔物語をご紹介します。
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