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御殿山今昔物語 第十四回「益田孝」(後編)

御殿山今昔物語 第十四回「益田孝」(後編)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。

これから数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。
4人目は、三井物産初代社長・益田孝です。今回はその後編です。

三井財閥の歩み

左:日本橋三越(Wikipediaより) 右:三井本館(Wikipediaより)

今回は、さらに話を広げていきます。まずは三井財閥の歩みからご紹介します。

三井家の家史の中で『三井家の家祖』といわれているのが、江戸時代前半に活躍した三井高利です。高利は、武士から商人に転身した父・三井高俊と伊勢の大商人の娘だった母・殊法の四男として1622年(2代将軍・徳川秀忠の治世)に、伊勢松阪で生まれます。1673年(4代・家綱の治世)、高利52歳のときに江戸随一の呉服街・本町一丁目、現在、日本銀行本店がある辺り(Googleマップ)に『三井越後屋呉服店』を出店します。越後屋という屋号は、高利の二代前の三井越後守高安の官位に由来します。

越後屋はその後、1683年(5代・綱吉の治世)に近所の駿河町に店を移転し、駿河町通り(Googleマップ)を挟んで南と北に店を構えます。南側の店舗には現在、日本橋三越が、北側には現在、三井本館(三井不動産本社、三井住友銀行日本橋支店、中央三井信託銀行日本橋営業部)が立っています。また高利は、この地で両替商も始めます。これが後に三井銀行に発展していきます。越後屋は、掛値なしの値札付き定価販売、現金による店先売り、反物の切り売り、という当時としては画期的な商法によって順調に業績を拡大し、京都、大阪に店を展開していきます。さらに、1687年(同上)には幕府の呉服御用達(御納戸呉服御用)となり、また1690年(同上)には、幕府から為替御用も引き受けるまでになります。同時代に生きた井原西鶴は小説『日本永代蔵』の中で、高利について『大商人の手本』『世の重宝』と記しています。

ちなみに、先ほど高利が始めた商法のくだりで『掛値なしの値札付き定価販売』と書きましたが、『掛値』とは、値切られることを前提で付ける高めの販売価格のことです。当時は、商品に値札は付けられておらず、販売価格は客との交渉によって決められていました。

左:三井高利と妻・かね(三井広報委員会HPより) 右:歌川豊春作『浮絵駿河町呉服屋図』(1768年)(三重県総合博物館HPより)

子宝に恵まれた高利は、財産分割によって三井家の事業が弱体化することを防ぐため、直系男子からなる6つの本家と養子筋からなる3つの連家、後に2つ連家を追加して、合計11家のみを三井一族(『三井十一家』)とし、資産は一族の『総有』としました。また、高利の子・高平は、1710年(6代・家宣の治世)に、三井家の全事業の最高統制機関として、京都に『大元方』(おおもとがた)を設置しました。これは持株会社のようなものです。大元方はその後、『三井合名会社』(明治42年(1909年)設立)、『三井本社』(昭和19年(1944年)設立)へと発展していきます。

幕末、明治になると呉服業は下火となり、為替業(金融業)が三井の主力事業となっていきます。幕末、早くから勤王派(薩摩藩)に与していた三井家は、維新後も明治政府から金融業の面で優遇されます。その一つが、明治6年(1873年)、小野組との共同による日本初の銀行『第一国立銀行』の創設であり、もう一つが、明治9年(1876年)、日本初の民間銀行『三井銀行』の創設です。

自前の銀行を設立したことで資金力を強化した三井家は、三井物産と三井鉱山の成功もあって、明治半ばから日本最大の財閥へと発展していきます。しかし、戦後の財閥解体にともなう三井本社の解散は、三井財閥の終焉を意味しました。三井家が一族として傘下の企業群を所有する時代は終わりを迎えたのです。しかし、歴史と文化を共有する三井各社は、戦後は『三井グループ』として日本の高度経済成長を牽引し、今日に至っています。

なお、戦後の三井を支えた三本柱は、三井銀行、三井物産、三井不動産です。戦後は三井鉱山に代わって三井不動産がその役を果たしてきました。また、三井家はもともと伊勢松阪の出身ですが、松阪屋百貨店とは全く関係ありません。

左:国立第一銀行。もともとは『海運橋三井組ハウス』と呼ばれていた建物。所在地は兜町。兜町は、維新の恩賞として明治政府から三井家が譲り受けた土地です。現在、同地にはみずほ銀行兜町支店が立っています。(清水建設HPより) 右:三井銀行。もともとは『為換(かわせ)バンク三井組ハウス』と呼ばれていた建物。所在地は駿河町。現在、同地には三井本館が立っています。(三井広報委員会より)

日本橋駿河町の富士

作者不詳『駿河町越後屋正月風景図』(三井広報委員会HPより)

この浮世絵は、三井越後屋呉服店があった駿河町通りの賑わいを描いたものです。駿河町通りは名前こそ残ってはいませんが、通り自体はいまでも存在します(Googleマップ)。左が現在の日本橋三越、右が現在、三井本館がある場所です。正面の山はもちろん富士山です。もともと、駿河町の町名は、正面に富士山が見えることに由来します。駿河とは、伊豆半島を除いた静岡県東部の旧国名です。『一に富士、二には三井を褒めてゆき』という当時の川柳が、越後屋と駿河町の賑わいを物語っています。

左:現在の駿河町通り(Googleストリートビューより) 右:明治7年の駿河町通り(清水建設HPより)

本当に富士山は駿河通りの真正面に見えたのか?

ちなみに、浮世絵の通り、本当に駿河町通りの正面に富士山がみえるのかどうか検証してみた結果が下の地図です。真正面に見ていたのは誇張でもなんでもなく、どうやら本当だったようです。

地図上の線は、駿河通りと富士山を結ぶ直線。距離は101.45Km(Googleマップ)

地図を拡大。富士山に至る線が、駿河通りのほぼ中央を貫通しているのがわかります(Googleマップ)

三越家の誕生

なお、隆盛を極めた越後屋ですが、幕末、明治になると業績は下降の一途をたどります。明治政府は、銀行業を始めるにあったって、三井の信用が低下するのを懸念して、越後屋の屋号に『三井』を冠することを禁止します。そのため、明治5年(1872年)、三井家は一族の中に『三越家』を創設し、この三越家に呉服店を譲渡することになります。これが、今につづく三越百貨店の始まりです。

3大財閥の特徴

続いてはさらに話を展開して、三井、三菱、住友財閥の歴史と、戦前の経営体制についてご紹介します。経営体制には各財閥の特徴がよく表れています。益田孝から話題がだいぶ逸れてきましたが、どうぞお付き合いください。

左:三菱一号館(千代田区観光サイトより(ロゴはWikipediaより)) 中:三井本館(Wikipediaより(ロゴは三井広報委員会HPより)) 右:別子銅山跡(新居浜市観光サイトより(ロゴはWikipediaより))

財閥の略歴

まずは各財閥の略歴をご紹介します。

三井は、前述のとおり、1673年に三井高利が興した『三井越後屋呉服店』を起源としています。高利は『三井十一家』のみを一族とし、財産と事業を一族で『総有』しました。

三菱の創業は明治になってからです。初代・岩崎弥太郎が、明治4年(1871年)に『九十九(つくも)商会』(海運業)の経営を引き受けたところから始まります。以降、岩崎家は、戦後の財閥解体にいたるまで、弥之助(弥太郎の弟)、久弥(弥太郎の子)、小弥太(弥之助の子)と4代に渡って一族自らが経営の陣頭指揮をとり、財閥を形成していきました。

住友の歴史は一番古く、その起源は1628年頃に住友政友が京都で興した『富士屋』(薬屋、出版・書籍販売)と、政友の姉婿の蘇我理右衛門(りえもん)が1590年に興した銅吹き所『泉屋』(銅の精錬、加工)にまで遡ります。しかし、住友家の地位を不動のものとしたのは、なんといっても1691年から始まった別子銅山(愛媛県新居浜市)の開発です。別子銅山は、昭和48年(1973年)まで280年に渡って採掘され続けました。しかし、住友家の当主は、5代目の友昌以降、代々家業に熱心ではなく、経営はもっぱら支配人と呼ばれる番頭が差配していました。また緊急時には、支配人、副支配人、日勤老分(引退した支配人)からなる『支配方』と呼ばれる組織が集団指導体制をとっていました。

財閥の形成

そもそも財閥とは、同族が支配によるコンツェルン型の独占企業集団のことです。3大財閥がこの近代的なコンツェルン、つまり、頂点に立つ持株会社が、傘下の企業の株式を保有し、経営を管理統括する形をとっていったのは、いずれも明治の中頃になってからです。

先鞭を切ったのは三菱です。三菱は明治26年(1893年)に持株会社の『三菱合資会社』を設立し、各事業を株式会社化して、傘下に収めていきました。次に三井が、明治42年(1909年)に『三井合名会社』を設立し、各事業を傘下に収めてゆきます。合名会社の設立を手掛けたのは益田孝でした。そして最後が住友です。大正10年(1921年)に『住友合資会社』を設立しました。

いずれの持株会社も合資、合名会社となっているのは、創業家一族のみを持株会社の社員(構成員)とするためです。株式会社と違って、合資、合名会社の場合、他人が社員(構成員)に入り込む余地がありません(株の買い占めによる乗っ取られる心配がありません)。同族による閉鎖的、独占的な所有を担保するため、持株会社自体は、合資、合名会社としました。ただし、傘下企業はいずれも株式会社となっています。

なお、三井物産の社長が益田孝だったように、傘下企業の経営者は必ずしも創業家一族が担っていたわけではありません。

創業家と経営者の関係

『創業家一族』と傘下企業の『経営者』との関係については、三社三様でした。ここに各財閥の特徴が表れています。結論を先に言うと、三菱は『陣頭指揮型』、住友は『委託型』、三井は『拮抗型』でした。

まず三菱は、創業家一族が同時に最高経営者として経営の指揮をとっていまいた。前述のように初代・岩崎弥太郎以下、4代に渡って岩崎家の当主自らが財閥全体の指揮権を握って経営を管理していました。巷間、『三井の番頭政治』に対して『三菱の独裁政治』といわれる所以です。

その三菱と対照をなすのが住友です。住友一族は、経営には全く口を出さない、いわば『君臨すれども統治せず』の姿勢を保持していました。

そして、三菱と住友の中間をいくのが三井です。三井一族は、例えば益田孝のような優秀な番頭に一応の経営を託しますが、しばしば経営に介入し、人事権を盾に経営者と厳しく対立することを繰り返していました。

この三社の違いは家業の歴史の長さに由来するものと思われます。三井、住友は、歴史が長い分だけ、番頭に店の切り盛りをさせること、つまり、専門経営者への経営の委託が常態化していたのに対し、歴史の浅い三菱では、番頭が出てくる下地がまだ育っていなかったからではないでしょうか。

三井合名会社に込めた益田の狙い

いずれも益田孝(左:三井広報委員会HPより、中と右:Wikipediaより)

なお、益田は三井合名会社の役員12人の中に、三井一族(三井十一家)の出身者を4名しか参加させず、残りをすべて、益田を筆頭とする一族以外の経営者で構成させました。これにより、いままで三井一族全員が関与する同族会に支配されていた財閥直系の事業経営を、一族以外の経営者が大半を占める合名会社へ移行することに成功したのです。つまり、『同族会は家政上の協議体、合名会社は事業経営上の協議体』という機能の分離を実現させたのです。益田は、この方法で一族の経営への介入を最大限防ごうとしたのだと思われます。

綱町(つなまち)三井倶楽部

なにかとライバル視される三井と三菱ですが、弊社が入居する御殿山トラストシティの真向かいに聳え立っている、三菱の迎賓館『開東閣』に匹敵する施設が、三井にも存在することをご紹介します。その名は、『綱町三井倶楽部』です。

三井倶楽部HPより

綱町は、現在の港区三田二丁目に当たります。もとももとここは薩摩藩の支藩・佐土原藩の上屋敷があった場所です。そこに、三井総領家(高利の直系)10代目当主・三井高棟(たかみね)が、明治43年(1910年)に『綱町三井別邸』を建設しました。写真の洋館は、開東閣と同じく、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計されましたものです。大正2年(1913年)に完成しました。敷地の広さは約6,000坪。洋館は竣工まで4年の歳月を要しました。

開東閣と同様に一般公開はされていませんが、現在も三井家および三井グループの迎賓館として利用さています。

以上で、前後編に渡ってご紹介した益田孝の今昔物語はすべて終了です。次回は、西村勝三とそのお邸にかかわる今昔物語をご紹介する予定です。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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