日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。
これから数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。
5人目は、明治の工業の父・西村勝三です。今回はその前編です。
大正6年(1917年)出版の地図
これは今からおよそ100年前、大正6年(1917年)の地図です。前回の記事でご紹介した益田孝(ますだたかし)の左にあるお邸の主が、今回の主人公・西村勝三です。
西村勝三は、明治時代に活躍した実業家で、後世、『明治の工業の父』と呼ばれたお人です。靴メーカーとして有名なリーガル・コーポレーションや、初代東京駅の外壁レンガを製造した品川白煉瓦製造所など、数々の事業を興した人です。
大正6年(1917年)地図を拡大。
現在の地図。実際の土地境界線は不明です。『靴の歴史散歩88』によれば、4000坪(約13200㎡)あったといわれています。比定通りとすれば、南北約120m、東西約130m。跡地は現在、住宅街となっています(地図:品川区HPより)。
上が南(大井町駅方面)、下が北(品川駅方面)(Googleアースより)
弊社トレーニングセンター14Fから望む西村邸跡
西村勝三は、佐倉藩(千葉県佐倉市)堀田家の藩士で、かつ、佐野藩(栃木県佐野市)の附家老だった西村平右衛門の三男として、天保7年(1836年)、江戸の佐倉藩邸で生まれます。幼名は、三平。兄は、宮中顧問官や貴族院議員を務め、道徳教育の重要性を唱えた思想家、教育家の西村茂樹です。なお、佐野藩は、佐倉藩の支藩です。
幼い頃より佐倉藩の藩校・択善堂で学び、また、松山大吾に随って西洋砲術を修め、18歳にして藩の砲術助教となります。
マピオンより
左:西村勝三(品川区公式チャンネル しながわネットTV『しながわのチ・カ・ラ ものづくり品川物語』より) 右:勝三の兄・西村茂樹(Wikipediaより)
あるとき、砲術に関連する化学知識が縁で、佐野の彦根藩領で代官を務めていた正田利右衛門と知り合います。佐野は鋳物の名産地で、正田は、鉛山を管理する豪商でした。勝三は、正田から西洋の製鉛法の伝習を依頼され、鉛を溶解するための反射炉の建設を試みます。しかし、当時はまだ耐火レンガが存在しなかったために失敗。この失敗が、後に勝三をして、品川白煉瓦製造所を興すきっかけになったと思われます。
1860年、桜田門外の変で、彦根藩主・井伊直弼が暗殺されると、佐野の彦根領では、水戸藩のさらなる襲撃に備えて、西洋銃による武装を計画します。正田は、西洋砲術の知識をもつ勝三に西洋銃の調達を依頼し、また、歩卒50人の砲術伝習も依頼します。
砲術の伝習を終えた勝三は正田に誘われて横浜に赴きます。勝三はそこで貿易事業の盛況を目の当たりにし、時代の変化を感じ、実業界に身を投じることを決心します。
勝三は、横浜の税関(運上所)で鑑定役を請け負っていた、金物問屋の伊勢屋の主人・伊勢平こと岡田平作に、鑑定人として雇われます。あるとき、運上所の倉庫が火災にあい、被災して安く売り出されていたオランダ銃を買い占めた勝三は、それを転売し、大きな利益を伊勢屋にもたらします。これをきっかけに、日本橋品川町にあった伊勢屋の江戸本店(現在の日本橋三越がある辺り)に栄転します。
ところが、当時、顔料や薬品として重宝されていた朱を、海外から輸入し、密売した罪で捕縛され、小伝馬町の牢獄で2か月間過ごすことになります(補足1)。さらに、仮出獄の身でありながら、アメリカ商館からライフル銃を買い入れたことが奉行所に発覚。再び捕縛され、今度は、石川島の人足寄場で2年4か月もの間、労働奉仕することになります(補足2)。
このとき獄中で、のちに日本で初めてガス事業を興し、横浜にガス灯を建て、高島町(横浜)の地名を残した実業家・高島嘉右衛門(かえもん)と知り合います。
出獄後、勝三は伊勢屋に戻ります。しかし、伊勢屋が蚕紙(さんし)の輸出を独占していたことをフランス公使に咎められ、幕府によって、岡田平作・平蔵親子は捕縛され、財産も没収されてしまいます。勝三は、これを機に、神田弁慶橋のたもとに銃砲店を構え、また、銃砲に付随する革具の製造を始めます(補足3)。
その後、1866年には横浜太田町にも出店。さらに、1867年、弁慶橋の店舗を日本橋本材木町3丁目(現在の宝町周辺)に移転し、屋号を伊勢勝とします。これは伊勢屋・岡田平作の通称である伊勢平にちなんだものです。
明治維新直前の不穏な空気の中、銃器の販売は勝三に大きな利益をもたらします。ただ、譜代大名・堀田家に仕えていた勝三は、徳川幕府への忠心から、戊辰戦争の際、旧幕府側にのみ銃器の便宜を図っていたため、新政府によって、一時、店が閉鎖され、家族、従業員が拘束される事態にも遭遇しています。
(補足1) 朱は当時、朱座(朱の同業組合)の専売であったため、私人による売買は違法でしたが、一方で、幕府が締結した外国との通商条約において、外国との取引は禁止されていませんでした。勝三は、通商条約に基づいて取引を行っていました。
(補足2) 仮出獄中の勝三は、江戸から出ることを禁止されていました。再び捕縛された理由は、その禁を破って、江戸と横浜間を往来し、かつ、武器の出入りを監視していた横浜の関所において、ライフル銃を他の商品に紛れさせて通過させたためです。
(補足3) 弁慶橋は明治22年に現在の紀尾井町に移築されますが、当時は、神田岩本町にありました。この橋はS字に曲がる藍染川を覆うように架けられた独特な形をしていたため、江戸名所に数えられていました。なお橋の名は、橋を作った大工・弁慶小左衛門に由来します。また、岩本町の同地には現在、案内板が立っています。
左:安政6年(1859年)の地図 右:『江戸名所図会』 本文之部(国立国会図書館デジタルコレクションより)。地図と江戸名所図会で橋の形が異なっていますが、おそらくは、江戸名所図会の方が正しいと思われます。
『江戸名所図会』 挿絵之部(国立国会図書館デジタルコレクションより)。左のページが弁慶橋の絵。
時代は明治へと移り変わり、勝三は、明治2年、兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎から軍靴の納入を依頼されます。勝三は始め洋靴を輸入して納品しましたが、洋靴は日本人の足に合わず、大村からは軍靴の国産化を打診されます。勝三はそれを受け、早速、築地入舟町5丁目に伊勢勝製靴工場(伊勢勝造靴場)を設立し、翌明治3年3月15日から製造を開始します。また、同年10月には、同地に製革所も建設します(製革所は翌年、向島須崎町に移転)。
このため現在、3月15日は『靴の記念日』になっています。なお、築地入舟町の工場の跡地には現在、『靴業発祥の地』の碑が立っています。碑の文字は、佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の孫にあたる、元佐倉市長・堀田正久氏によるものです。
明治4年、兵部省から今後10年間に毎年10万足の軍靴の納品を依頼されると、勝三は積極的な設備投資を行います。しかし、明治7年、兵部省から変った陸軍省は契約を反故にし、納入数を向こう4年間で年2万5千足に減らします(補足4)。窮地に陥った勝三ですが、ここで撤退してしまっては日本の製靴業が消滅してしまうという思いから、岡田平蔵らの支援を受けながら、逆に、築地1丁目1番地に工場を増設します。また、明治8年には、銀座3丁目16番地に伊勢勝の靴店を出店します。靴店の場所はおそらく、現在の松屋銀座の北西角です(補足5)。
明治17年の地図。築地入舟町5丁目の工場がいつまで存在したのかは不明。明治21年の官報には伊勢勝製靴工場(桜組製靴所)として、入舟町の住所は記載されていません。