日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。
これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。
昭和16年(1941年)の地図(品川図書館所蔵)。赤いエリアが緒明邸。青いエリアは、現在、JTP本社がある御殿山トラストシティ。黄いエリアは、以前、御殿山今昔物語でご紹介した邸。
これは昭和16年(1941)の地図です。品川神社の西にあるお邸の主が、今回の主人公・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。
菊三郎は、品川の第四台場で造船所を経営したり、隅田川で一銭蒸汽と呼ばれる客船を運行したり、造船業、海運業の世界で名を馳せた明治期の実業家です。
緒明という名字は非常に珍しいですが、読み方は「おあき」です。
なお、御殿山(正確には、御殿山そのものではなくその麓)の緒明邸は、明治中頃から昭和30年代初頭まで存在していたようです。
左:大正時代の緒明邸(「目で見る品川区100年の歴史」より)
右:鳥羽の埋立工事起工式の記念写真(鳥羽デジタルアーカイブスより)
左の写真は大正時代の緒明邸を写したものです。当時としては珍しい洋式の5階建でした。最上階が望楼になっていて、菊三郎はここから、望遠鏡を使って第四台場の造船所を日々見渡していました。邸の前から品川神社の横に抜ける路地は、今も、昔も、緒明横丁(町)と呼ばれています。
邸の跡地には、現在、民間の介護施設および一般住宅、マンションなどが建っています。
現在の地図。赤エリアが緒明邸。実際の土地境界線は不明です。2018年までは住友銀行の社員寮が立っていましたが、現在は、民間の介護施設が建っています。(地図:品川区HPより)
黄い枠のエリアが緒明邸。右が品川駅方面。JTP本社のある御殿山トラストシティからは直線で約400m。徒歩5分程度の距離にあります。(Google Eartより)
緒明菊三郎は、弘化2年(1845)10月2日、伊豆半島、戸田(へだ)村の船大工・嘉吉(かきち)の長男として生まれます。嘉吉は船大工の棟梁(船匠:ふなしょう)として、地元では名の知れた存在でしたが、家計は決して裕福ではありませんでした。
そんな家に生まれた菊三郎が、実業家として歴史に名を残すことができたのは、嘉永7年(1854)、戸田村で発生した大きな事件がきっかけでした。その事件をディアナ号事件といいます。
左:伊豆半島(Yahoo地図)
右:戸田(へだ)の拡大地図(国土地理院より)
①御浜岬(みはまみさき)が外海から戸田港を隠す目隠しとなっています。
②牛ヶ洞(うしがほら)はヘダ号の建造作業が行われた現場。現在、「洋式帆船建造地跡」の碑が建っています。
③戸田の名主・勝呂(すぐろ)家の屋敷。ヘダ号建造時、仮奉行所となりました。
④宝泉寺は、プチャーチンの宿所。
⑤緒明児童遊園(公園)は、緒明家発祥の地(赤丸の部分)。
⑥大行寺は、日露和親条約締結後、条約の再修正が交渉された場所。
2度目のペリー来航によって、日米和親条約が締結した嘉永7年(1854)、プチャーチン提督率いるロシアの戦艦ディアナ号が、伊豆・下田港に停泊していました。来日の目的は日露和親条約の締結です。
そんな中、11月4日、マグニチュード8.4の安政東海地震が東海地方を襲い、津波によってディアナ号は大きく破損します。
しかし、当時のロシアは、イギリス、フランスと交戦中(クリミア戦争)だったため、両国の戦艦に見つかる恐れのある下田では船を修理することができません。そこで、プチャーチンは、岬が外海からの目隠しとなっている地形の戸田(へだ)村を修理地として選択します。
ところが、下田から戸田に向かって曳航されていたディアナ号は、途中、嵐に遭い、駿河湾(静岡県富士市沖)で沈没してしまいます。幸い、乗員約500名は地元民によって救助されましたが、一行は帰国する船を失ってしまいます。
プチャーチンは、代替船の建造を幕府に願い出て、許可を得ます。しかし、乗員だけでは代替船を作ることはできません。そこで、戸田村とその周辺から、7人の船匠を筆頭に、船大工、人夫、総勢200名近くの日本人を集め、代替船、つまり西洋式の船を建造することになります。
その7人の船匠の1人が、菊三郎の父・嘉吉(かきち)でした。嘉吉をはじめとする7人の船匠は、このことをきっかけに、期せずして、西洋式造船術を習得することになったのです。
左:プチャーチン
右:ヘダ号(全長約25m、幅約7m、排水量約80t、2本マスト。(いずれもWikipediaより))
安政元年12月(1854)から着工された船は、翌年3月に完成します。全長約25m、幅約7m、排水量約80tのこの船は「ヘダ号」と名付けられました。新幹線の車両が、ちょうど長さ25m、幅3.4mですので、2両分を横に並べたのと同じくらいの大きさです(ちなみに、ディアナ号の全長は53m)。
前年の12月に日露和親条約の締結を済ませていたプチャーチンは、安政2年(1855)3月22日、ヘダ号で帰国の途に就きます。
以上ここまでが、後世、ディアナ号事件と呼ばれる出来事です。
事件の当時、菊三郎は9歳でした。菊三郎は、父の嘉吉に伴って、造船作業を手伝っていたといわれています。つまり、菊三郎もまた、期せずして、この事件をきっかけに西洋式造船術を習得したのです。
明治になってのち、菊三郎はその技術を活かして、自ら造船所を興すことになります。
※プチャーチンと戸田村の関係をわかりやすくまとめた動画「地震と津波を乗り越えた友好の絆 プチャーチン・ロード」(映点舎eitensha)がYoutubeにアップされています。
ヘダ号の造船を行った7人の船匠は、上田寅吉、鈴木七助(ひちすけ)、石原藤蔵(とうぞう)、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門、堤藤吉と、菊三郎の父・緒明嘉吉(かきち)です。彼らはその後、どのような運命をたどったのでしょうか。
当時31歳だった上田寅吉は、ディアナ号事件のとき、すでに江戸の石川島造船所(幕府の造船所)で働いていたのを故郷の戸田に呼び戻されました。
ヘダ号を建造した後の安政2年(1855年)、幕府の命令で長崎海軍伝習所に1期生として入所し、勝海舟らとともに、蒸気船の製造や航海術を学びます。長崎海軍伝習所とは、幕府が創設した海軍士官養成所です。
その後、石川島造船所で幕府の軍艦・千代田形(蒸気船)の建造に従事しますが、文久2年(1862)に榎本武揚(えのもと たけあき)らとともにオランダに5年間留学し、造船技術に磨きをかけます。
慶應3年(1867)に帰国すると、榎本とともに幕府の軍艦・開陽丸に乗船し、函館戦争に参戦しますが、結局、降伏。明治政府に拘留されます。
しかし、明治3年(1870)に釈放されると、横須賀造船所の初代大工長(職長)に就任し、そこで数々の艦船を建造することになります。
上田寅吉は、後世、『日本造船の父』と呼ばれます。
左:上田寅吉(NHK「ヘダ号の奇跡 日本とロシア 幕末交流秘話」より)
右:オランダ留学当時の榎本武揚(近代日本人の肖像より)。上田寅吉と榎本武揚のコンビは、折に触れて菊三郎の人生に関わってきます。
鈴木七助は、ヘダ号を建造した後の安政2年(1855)、上田寅助と同様に長崎海軍伝習所の1期生として入所します。安政4年(1857)、江戸に帰還すると、築地の軍艦操練所大工方を務めます。万延元年(1860)、日米通商条約の批准書を交換するために、幕府の軍艦・咸臨丸(かいりんまる)が渡米した際には、船大工として乗船しています。ちなみに、その咸臨丸には、勝海舟、福沢諭吉らが同乗していました。
帰国後の文久2年(1862)、石川島造船所で幕府の軍艦・千代田形の建造に従事します。また、維新後の明治3年(1870)からは、上田寅吉と同じく、横須賀造船所に勤めることになります。
ヘダ号完成の後、幕府は戸田村に同型の船6隻の造船を命じます。このとき、上田寅吉と鈴木七助はすでに長崎海軍伝習所に入所していたため、残りの5人(石原藤蔵、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門、堤藤吉、緒明嘉吉)で建造することになります。ところが、この5人はたった半年足らずで6隻すべてを建造してしまいます。
これらの船は、戸田村が属していた君沢郡にちなんで君沢形(きみさわがた、くんざわがた)と名付けられ、ヘダ号を含めて完成順に、君沢形1番船から君沢形7番船と呼ばれることになります。(ヘダ号が1番船)。
各船は、翌年、幕府から会津藩と長州藩に2隻ずつ(計4隻)譲渡されます。また、幕府に残った2隻は、品川沖の台場を補強する砲艦として利用されたといわれています。(砲艦として利用されたのは、君沢形ではなく、それを小型化した韮沢形の船だったとする説もあります。)
「日本近世造船史 附図」(造船協会、明治44年(1911)出版)に掲載されていた君沢形船体図(国立図書館デジタルコレクションより)
安政3年(1856)、幕府の命令により、嘉吉を除いた4人(石原藤蔵、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門、堤藤吉)は、石川島造船所に召喚され、そこでさらに君沢形8番船から10番船までを建造し、さらにその後は、千代田形(蒸気船)の建造に尽力したとされています。
なお、4人のうち佐山太郎兵衛の甥・芳太郎は、後に大阪の難波島に造船所を開設しています。また、渡辺金右衛門の息子・忠右衛門も、後に横浜の平沼町で造船所を開設しています。
以上、ここまでが今回の記事となります。
最後に1人取り残されてしまった嘉吉のその後が気になりますが、そのあたりは次回の記事でご紹介します。
おまけの余談をご紹介します。
ディアナ号の乗員約500人のうち、ヘダ号で帰国したのは、わずか48人(諸説あり)でした。残りは、アメリカ船(1855年2月出航。159人)と、ドイツ船(1855年6月出航。278人)でそれぞれ帰国しています。したがって、結果だけ見ると、ヘダ号の建造が本当に必要だったのかどうか、少々疑問を感じます。(アメリカ船はヘダ号よりも先に出航しています。)
もしかすると、条約交渉をしていたプチャーチンの駆け引きの材料に利用されたのかもしれません。
また、ネットでよく「ヘダ号は日本で最初に建造された西洋式船」と書かれていることがあるのですが、筆者が調べた限りでは、残念ながらそうではないようです。古くは、徳川家康の時代(1605年頃)にウイリアム・アダムス(三浦按針)によって、伊豆の伊東で西洋式帆船が大小2隻も建造されています。ちなみに、そのうちの大きい方の船は、太平洋を横断しています(浦賀~メキシコのアカプルコ)。
そして、同じ頃(1612年)、伊達政宗がヨーロッパに派遣した慶長遣欧使節団(正使・支倉常長)も、日本で建造した西洋式帆船を使用しています。
さらに言えば、ヘダ号竣工の数か月前には、幕府や薩摩藩によって複数、西洋式帆船が建造されています。もっと言うと、7人の船匠の1人・上田寅吉は、石川島造船所で旭日丸という洋式軍艦を造船中に、ヘダ号建造のため戸田に呼び戻されています。
最後に、ヘダ号のその後の消息についてです。ヘダ号は、安政3年(1856)10月、条約批准書の交換のため、再来日したロシア使節団に随伴され、日本に帰還し、幕府に引き渡されています。
その後、ジョン万次郎の献策によって、捕鯨船として使用されます。しかし、小笠原諸島へ向かう途中、暴風雨によって破損してしまい、結局、捕鯨船としての使用は取りやめとなります。
さらにその後については、諸説あり、結局、詳細は不明です。一説には、明治政府と幕府軍との戦役・箱館戦争(戊辰戦争)で、幕府方の船として使用された、といわれています。
記事は、予告なく変更または削除される場合があります。
記載された情報は、執筆・公開された時点のものであり、予告なく変更されている場合があります。
また、社名、製品名、サービス名などは、各社の商標または登録商標の場合があります。