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御殿山今昔物語 第二十三回「緒明菊三郎」(6)

御殿山今昔物語 第二十三回「緒明菊三郎」(6)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

御殿山の邸宅

第四台場に造船所を開設した菊三郎は、金杉新浜町から御殿山(北品川)に邸宅を移します。転居の正確な時期はわかりませんが、菊三郎の名が初めて載った明治29年(1896)発行の「日本紳士録 第3版」(交詢社)には、御殿山の住所(北品川宿223)が記載されていますので、少なくとも明治29年以前のはずです。(Googleマップ参照)

※明治22年(1889)発行の「日本紳士録」の第1版、および、明治25年(1892)発行の第2版には、菊三郎の名はまだ記載されていません。

もともとは、第四台場を見渡せる、標高の高い場所に移転することを求めていましたが、めぼしい土地が見つからず、結局、品川神社の裏手で、標高が低い土地を手に入れることになります。菊三郎は、ここに洋風木造5階建の家屋を建て、最上階を望楼として、望遠鏡を使って約1.3km先にある第四台場の造船所を見渡していました。土地の広さは9500㎡(約2900坪)もあり、菊三郎の邸宅だけではなく、造船所で働く職工たち50~60人分の長屋も併設されていました。

昭和16年(1941)の地図(品川図書館所蔵)。中央下の赤いエリアが緒明邸。青いエリアは、現在、JTP本社がある御殿山トラストシティ。昭和16年当時、造船所(第四台場)の周辺はすでに埋め立てられていました。

 

右:大正時代の緒明邸。入口の門は灯台の形をしていました。(「目で見る品川区100年の歴史」(郷土出版社、2011年出版)より)
左:緒明邸から造船所までの距離は約1.3Km。たとえ5階建ての建物であっても、高層ビルの立ち並ぶ現代では、ここから望遠鏡で造船所を臨むのは不可能です。今ならさしずめ、ドローンを使って・・・ということになるでしょうか。(Google Earthより)

造船所までの通勤経路

明治44年(1911)の地図(品川図書館所蔵)

昭和43年(1968)に品川区教育委員会によって出版された「品川台場調査報告書」には、菊三郎および職工たちが通った、緒明邸から造船所までの詳しい道順、つまり、通勤経路が紹介されています。

それによると、菊三郎と職工たちは、品川神社を南北に抜ける松原通りを北に行き、道なりに東に曲がって黒門横丁を通り、東海道を横切って、台場横丁に進み、目黒川に掛かる品海橋を渡って、利田(かがた)新地に入り、そこから伝馬船にのって造船所へ向っていました。

「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)には、その伝馬船が品海橋のたもとの山田金蔵という船宿からチャーターされ、時刻は午前6時半ごろだった、と記されています。

現在の地図(国土地理院HPより)

上記の通勤経路は、現在でもほぼそのままたどることができます。

緒明邸の北面の道は、今も昔も緒明横丁(町)と呼ばれています。

現在、第一京浜となっている松原通りは、品川神社の南にある東海寺へと続く道でした。松原という名前の由来について、昭和7年(1932)出版の 「品川町史」 には 「松並木を挟むを以てこの名がある」 と記されています。

東海寺の黒門があったことに由来する黒門横丁。幕末に開通し、御殿山下台場に由来する台場横丁。いずれの横丁も現存しています。

東海道は、北品川本通りという名称となり、商店街として現存してます。

当時、目黒川だった場所は埋め立てられ、現在、八ツ山通り(昭和44年(1969)頃開通)となっており、品海橋は消滅しています。八ツ山通り沿いにある交番の前の横断歩道が、品海橋の跡です。横断歩道が八ツ山通りに対して斜めに架かっているのは、品海橋が目黒川に対して斜めに架かっていた角度をそのまま踏襲したからでしょうか。

明治44年の地図で、利田新地が五角形をしていたのは、それが御殿山下台場の跡だからです。この五角形の輪郭は、道として現存していますので、今でも地図上で五角形を確認することができます。御殿山下台場跡地の南半分は、現在、台場小学校(昭和32年(1957)開校)となっています。

緒明邸の土地の由来

緒明邸のあった場所は、北の御殿山と、西の権現山と、東の品川神社に囲まれた窪地となっています。

下の2つの図は、緒明邸の周辺の起伏をわかりやすく表したものです。

点線は東海寺の北境にあった道(緒明横丁)。緒明邸周辺は窪地になっています。(Ground Interface. より)

 

左:緒明邸周辺の標高図。点線は東海寺の北境の道(緒明横丁)(地図:品川区HPより)
右:標高図の◎の地点から権現山(公園)方向をみたときのストリートビュー。権現山の山肌がコンクリートで固められています。(Googleマップ・ストリートビューより)

「品川台場調査報告書」は、この窪みについて、品川沖に台場を建造する際、ここが土取場となったため、と説明しています。おそらく、もともとは西の権現山と一体だったのでしょう。

前掲の明治44年の地図をみると、緒明邸の周辺だけ、山としての連続性が不自然に途絶しているようにみえますので(薄緑色が途絶えて、ぽっかりと長方形に開けています)、確かに土取場だったこがうかがえます。あるいは、権現山の山肌がコンクリートで固められているのを見ると、そのことを実感することができます。

西の権現山、北の御殿山、東の品川神社との高低差(標高差)はいずれも8~9mです。

窪地の起源

ただ、実は、筆者は、この土地が、台場の建造よりもはるか以前から、つまり、もともとから窪地だったのではないかと考えています。

現在の地図。赤いエリアが東海寺の寺域(目黒川以北のみ)、青いエリアが緒明邸(実際の土地境界線は不明です)。(地図:品川区HPより)

緒明邸のあった場所は、江戸時代、東海寺に隣接していた土地でした(あるいは境内の一部でした)。東海寺は、三代将軍・徳川家光の治世(1639年)に、沢庵宗彭(たくあん そうほう)よって創建された臨済宗の寺院です。山号を萬松山といいます。明治以降、寺域は大幅に縮小され、現在では玄性院という塔頭を残すのみとなっていますが、江戸時代を通じて、広大な寺域を誇っていました。その広さは約4800坪あったと言われています。(面積157000㎡、東西およそ400m、目黒川を挟んで南北はおよそ450m。東京ドーム3個分以上。)

上掲の地図は、目黒川以北の東海寺の寺域(赤)と、緒明邸(青)を、現在の地図上に比定したものです。

万治3年(1660)に幕府大工頭・鈴木修理亮長常が東海寺に寄進した境内絵図を見やすく描き直した図。北辺の「はたけ」とされているのが後の緒明邸の場所。右横の「天王山」とされているのが品川神社。なお、当時はまだ玄性院は存在しません。(図:「品川を愛した将軍徳川家光」(品川歴史館、2009年出版)より)

上掲の図は、万治3年(1660)に、幕府大工頭・鈴木修理亮長常が、東海寺に寄進した境内絵図を、改めて見やすく描き直した図です。この図を使って、緒明邸の場所を比定すると、本坊(中央の池の周辺)の北、いってみれば裏山の中の「はたけ」と記された場所に相当することが分かります。おそらく権現山の山肌を開墾して作った畑だったのでしょう。

ただ、その畑の形があまりにも整った直線(長方形)で描かれているので、なんとも違和感を感じさせます(もちろん便宜的に直線で描いたのかもしれませんが)。どうして、ここだけ唐突に畑なのでしょうか。

それは、この場所が、当時から既に窪地だったからではないか、と筆者は考えています。畑は、山肌(表面)を耕して長方形に造成されたのではなく、そもそも最初から長方形の窪地がそこにあって、そこを畑として利用したのではないでしょうか。

なお、東海寺は将軍綱吉の治世の1694年に一度火災によって全焼し、その後すぐに再建されています。掲載した境内図は、再建される以前の、東海寺創建から20年ほど経過した頃のものです。

大正6年(1917)の地図。青いエリアが緒明邸。等高線によって、邸の周辺が窪地になっているのが分かります。

邸宅のその後

菊三郎が建てた洋式5階建ての建物は、昭和20年(1945)8月、空襲に備えて強制的に取り壊されます。ただ、5階建ての建物がなくなった後も、緒明家はこの地に邸を構えていたようです。

ただし、緒明家の邸がいつまでこの地に存在していたのかは不明です。おそらく、昭和30年代の始め頃までは存在したのではないでしょうか。昭和30年代始め頃は、御殿山の周辺が大きく様変わりした頃です。例えば、緒明邸の北にあった日比谷邸(日比谷平左衛門邸)がなくなり、その跡地に電電公社や郵政省、東京電力の社宅が建ったのもこの頃です。(なお、日比谷平左衛門については、第十二回「日比谷平左衛門」をご参照ください。)

昭和33年(1958)の地図(品川図書館所蔵)

ただし、昭和23年(1948)に出版された[人事興信録 第15版](人事興信所)では、菊三郎の孫・緒明太郎の住所が静岡県三島市になっています(昭和18年(1943)出版の第14版までは北品川)。

実は、緒明太郎の父・緒明圭造(菊三郎の婿)は、昭和2年(1927)、当時、三島市にあった韓国李王家所有の別邸を購入しています。現在、楽寿園と呼ばれている公園がそれです。人事興信録に記載の三島市の住所は、この楽寿園、あるいは、その周辺のものだと思われます。

ちなみに、楽寿園は、昭和29年(1954)に三島市に売却されています。

昭和3年(1928)の三島市の地図。後に楽寿園となる地に「緒明氏別邸」と記載されています。

現在の三島市の地図(品川区HPより)

緒明家が御殿山(北品川)から退いた跡地には、昭和35年(1960)頃まで、民家が立ち並んでいましたが、昭和40年代(1965~)に入って、その中心に住友銀行の社員寮が建設されました。

その社員寮も2018年に廃止され(最後の数年間は無人状態)、跡地には現在、民間の介護施設が建っています。

現在の緒明邸跡。実際の土地境界線は不明です(おそくらもっと広い)。

菊三郎と江川英龍と御殿山

先ほど、「品川台場調査報告書」の中で、緒明邸の土地がもともと台場の土取場だったと記載されていることをご紹介しましたが、その台場(未完も含めて計8つの台場)は、1853年8月から1854年12月にかけて建造されました。一方、ヘダ号は1854年12月から1855年3月にかけて建造されました。つまり、台場建造とヘダ号建造の2つ出来事は、同時期に連続して起こった出来事になります。

さらに言うと、台場建造の総指揮者は、伊豆韮山(にらやま)代官の江川英龍でしたが、その江川は、ヘダ号建造時の最高責任者でもありました。(江川英龍は、御殿山今昔物語でもこれまで度々登場してきました。第十一回「伊達宗陳(後編)」をご参照ください。)

ヘダ号、第四台場、江川英龍、菊三郎にとって御殿山(北品川)のこの地は、よくよく縁のある土地だったようです。

こぼれ話・緒明邸のご近所さん

緒明邸の南。江戸時代に東海寺の本坊があった場所(現・品川学園)に、明治34年(1901)頃から昭和3年(1928)頃まで邸を構えていたのは、「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄です。前掲・大正6年(1917)の地図の中に、尾崎の名が記載されています。尾崎行雄については、将来、御殿山今昔物語でご紹介するかもしれません。

緒明邸の北。明治38年(1905)頃からは、日比谷平左衛門の邸となっていましたが、それ以前の明治30年(1897)頃から37年(1904)頃までは、赤川雄三という人物の邸でした(「日本紳士録」第4版~9版より)。

この赤川雄三なる人物、もしかすると、「日本の鉄道の父」と呼ばれた井上勝(いのうえまさる)の実弟かもしれません。「日本紳士録 第5版」(明治32年(1899))には、赤川雄三の住所が「品川御殿山二百三 井上邸」と記されています。(Wikipediaでは、井上勝の実弟を赤川雄三としています。)

なお、井上勝は、東海寺大山墓地にて永眠しています。

 

以上で、今回の記事は終了です。

次回は、第四台場のその後をご紹介します。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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