「宮本武蔵」「三国志」「新・平家物語」で有名な小説家・吉川英治は、昭和28年から32年にかけて、御殿山に住んでいたことがあります。しかも、その家屋は、今もなお、ほぼ当時のままの姿で御殿山の住宅街の中に佇んでいます。
今回は、その吉川英治の邸宅、ではなくて、吉川英治がその書斎から見ていた風景に焦点を当て、御殿山の歴史をご紹介していきます。
キーワードは、「製菓工場の煙突」です。
なお、この記事は、御殿山今昔物語の連載を始めたばかりの2016年に執筆し、その後、長く未公開となっていたものです(未公開の理由は単にタイミングがなかった、というだけです)。今回の掲載にあたり、加筆、修正はほとんどしておりません。
御殿山トラストタワー14Fの弊社トレーニングセンターから南を望むと、まず目に飛び込んでくるのが、特徴的な形をした原美術館(上空からみると「レ」の字型をしています)です。そこから更に目線を西(右)へちょっとだけ向けると、周りの住宅にくらべてちょっぴり背の高い洋風の瀟洒な建物が目に入ってきます。
実はこの建物、国の登録有形文化財となっている「旧吉川英治邸」です。
弊社トレーニングセンターからの眺望
吉川英治の写真:Wikipedia
吉川英治(明治25年(1892)~昭和37年(1962)、享年70)は、「宮本武蔵」「新書太閤記」「三国志」「新・平家物語」などの作品で知られる、昭和前期から中期にかけて活躍した時代小説家です。
彼は生涯に30回近くも引っ越しをしたそうなのですが、昭和28年(1953)11月~32年(1957)5月の3年半の間、この御殿山に住んでいました。そのときの住居が、上の写真の家屋です。
品川区のHPによると、この家屋は、当時の姿をほぼそのままの状態で残しており、そのため、平成23年(2011)に国の登録有形文化財に指定されました。(どうやら、吉川英治が住んでいたからという理由で登録されている訳ではなく、純粋に建物の希少性がその理由のようです。)
ちなみに、文化庁のHPによると、建物そのものは昭和13年(1938)の建造となっていますので、すでに80年ちかくの歴史を持っていることになります。(建造を昭和8年としているサイトもあります。)
場所は、JTP本社(御殿山トラストタワー)から徒歩で3~4分のところです。ミャンマー大使館前の道、この道を御殿山通りといいますが、その通り沿いにある翡翠原石館(ひすいげんせきかん)の近所です。
ただ、現在は、(おそらく)吉川英治とは全く関係のない、一般の方のお住まいになっていますので、住所のご紹介は控えます。
❑ 品川区HP 品川人物伝 第24回 吉川英治 その1
❑ 品川区HP 品川人物伝 第25回 吉川英治 その2
❏ 文化庁 国指定文化財等データベース
【2020年追記】
原美術館は、2020年12月をもって閉館する予定です。
このお邸に吉川英治が転居したばかりの頃、吉川は 『煙突と机とぼくの青春など』 というタイトルで随筆を書いています。少々長いですが、その中の一部を抜粋します。(読みやすくするため、一部の漢字を常用漢字に修正してあります。)
・・・新居は品川区の一端である。工場地帯のサイレンと煤煙の朝ぐもりに『ああ、東京へ越したんだな』と、あらためて思ったりする。
(中略)
ところが、二階の書斎に坐ってみると、すぐ近所の屋根越しに、製菓会社の煙突が間近にニヨキットと聳えてゐるし、南の工場地帯からは、朝昼夕と、一せいにサイレンの猛吼が聞こえ、羽田空港の離着やら山手線の音響はやや遠いが四六時中の賑やかさである。
(中略)
毎朝、八時というと、机の真向うに見える製菓会社の煙突は、もくもく黒煙を吐き始める。・・・(略)・・・ おそらく、品川の空の中でも高い方のこの煙突や濃度物凄い煤煙を、こう愛しみ懐しむごとく見る者は、ぼく一人にちがいないが、とにかく、朝な朝なのうちに、いつか煙突と机とは、ぼくの人生サイクルに妙な連鎖をもつかのような気がして、工場休日で煙を見ない日などは、何かさびしい気もちさへする習性になりかけてゐる。
(中略)
ただ時々、無意識に、煙突にたいして、ぽかんと、空白な頭で回顧の遊びに耽ることが引っ越し以来ままあるのである。・・・(略)・・・ とかく煙突と無言の対談をやってゐるわけである。それは自分が少年期から青年へ育ってゆく過程に、大きな煙突の下で重労働してゐたことがあるせゐだらう。夜が明けるといやでもおうでも、霜の朝を、ほかのまっ黒な工場服の人と一しょに、横浜ドックの門をくぐって通った頃のことが想起されてくるのである。決していい思い出などではないが、忘れがたい人生の一齣ではあった。
以上が 『煙突と机とぼくの青春など』 の抜粋です。
なお、原文は下のリンクから、無料で閲覧することができます。
随筆自体の内容は、この後、横浜ドックで働いていたころの話に展開していきます。ですが、何度も出てくる 「製菓工場の煙突」 という言葉に、筆者は引っかかってしまいました。
書斎から見えるという煙突。吉川英治が気になって仕方がなかった煙突。この煙突は、いったいどんな煙突だったのか。筆者は、この随筆を読んで以来、
『なんという名の製菓会社で、煙突(工場)はどこにあったのか?』
という問いにとらわれてしまいました。もちろん、現在の御殿山周辺には、それらしい煙突は1本も見当たりません。
ということで、今回の記事は、この疑問への答えを、筆者がどうやって探し求めていったのか、そしてその答えは見つかったのか、その諸々の経緯を含めたドキュメンタリーです。
まずはネットでの調査です。
するとたちまちのうちに、御殿山に関連のありそうな製菓会社が2つ浮上しました。
1つは、現在でも第一線の製菓会社として活躍している森永製菓。
そしてもう1つは、現在は存在していない東洋製菓という会社です。(東洋製菓については、ネットにはほとんど情報がありません。Wikipediaによると、韓国のオリオンという製菓会社が、その昔、東洋製菓という名前だったようですが、筆者の探しているそれとは別物で、全く関係がないようです。)
まずは、森永製菓から調べることにしました。
そもそも森永製菓と御殿山にどんな関連があったのかというと、実はその昔、御殿山に工場がありました。しかしネットで調べた限りでは、工場の詳細な場所を特定することができません。
はたして工場は、御殿山のどの辺にあったのか。吉川英治の邸から見える距離にあったのか。それを調査すべく、まずは、大井町にある品川歴史館に行き、「品川区史」(東京都品川区、1974年)なる分厚い書物を閲覧することにしました。
すると「品川区史」には、森永製菓という会社が、
①大正4年(1915)6月、品川町大字北品川宿小関にあった 「東京醤油会社」 の工場跡地を買収し、大崎工場の建設に着手したこと
②大正8年(1919)7月には、用地を買い広げていること
が記載されていました。
「品川町大字北品川宿小関」は、通称「御殿山下」とも呼ばれる地域です。なので、森永製菓の工場(大崎工場)が大正期に、御殿山の近所に存在したこと自体は事実のようです。しかし、一口に「小関」(こせき)といっても、それなりの広さがあります(品川区史には番地までは書いてありません)。
下の地図で、赤くなっているエリア全体が大正時代の行政区としての小関です。現在の北品川5丁目に相当します。赤のなかでも特に濃くなっているエリアが、もともとの小関です。現在の北品川5丁目3~9、10番地に相当します。ちなみに、①の吉川英治邸から大崎駅までの距離は、直線で約600mです。(②はJTP本社)
地図:MapFan
はたして、森永製菓の大崎工場は小関のどのあたりにあったのか。それは、吉川英治の書斎から見える距離にあったのか。そして、吉川英治が見た煙突は、この森永製菓の煙突だったのか。
その答えを確認するためには、なんとしても工場の正確な位置を突き止める必要があります。
さてどうするか・・・
ということで、今度は品川図書館に行くことにしました。品川図書館には、品川の古い地図がたくさん揃っています。そして、いくつか探し当てた大正時代の地図の中から、どうにか森永製菓大崎工場の位置を突き止めることができました。その位置を現在の地図に重ね合わせると下のようになります。
地図:MapFan
①は吉川英治邸、②は森永橋(後述)、③はJTP本社で、赤い網掛けの部分が、筆者の推定する森永製菓大崎工場の位置です。(現在は、マンションが建っています。)
”推定”としたのは、大正時代の地図がざっくりとした地図だったのと、当時と今とでは周辺の地形が多少変化しているからです。筆者の推定がもし正解だとすると、大崎工場は、①の吉川英治邸から、直線距離で260mくらいということになります。また、吉川邸は御殿山という高台の上にあり、工場は御殿山の下(麓)にありますので、吉川英治邸からは工場を見下ろすことになって、体感的にはより近く感じるはずです。となれば、当然、煙突も目に入りやすかったはず。
画像:Ground InterfaceのTokyoTerrain
ということで、いきなり正解にたどりついてしまった!と思ったのですが・・・
残念ながら、吉川英治が書斎から見ていた煙突は、森永製菓大崎工場の煙突ではありませんでした。というのは、この森永製菓大崎工場は大正15年(1926)で閉鎖されていたからです。前述のとおり、吉川英治が御殿山に住んでいたのは昭和28~32年。いうまでもなく時期が重なりません。
よって、森永製菓の可能性は、もろくも消え失せてしまいました。
❏ 森永製菓 大崎工場跡地(Googleマップ)
❑ 吉川邸前から工場の方向をみたときのGoogleストリートビュー。正面にみえる白いマンションが、工場跡地に建つマンション。
ちなみに、「品川区史」には、森永製菓大崎工場跡地の近くにある「森永橋」の話が紹介されています。「品川区史」によると、この橋の名前は、森永製菓にちなんで名付けられたと記されています。
竣工年は不明です。工場の開設にあわせて架けられたのか、あるいは、工場の開設以前からそこにあった橋が、いつのまにか森永橋と呼ばれるようになったのか、その辺りの事情も不明です。
下は森永橋の写真です。
2016年当時、筆者撮影
【2020年追記】
森永橋については、2020年現在、森永製菓のHPでその由来を確認することができます。HPによると、森永橋は大正4年(1915)に架橋された、とのこと。当時、大崎駅から工場へは、大きく回り道をしなければ辿りつけなかったので、工場監督が木製の橋を架橋したそうです。現在の橋は、平成5年(1993)に架け直された、4代目のようです。
今回の記事はここまでです。
吉川英治が書斎から見ていた煙突が、森永製菓の煙突ではないとすると、残るは、東洋製菓の煙突ということになりますが、果たしてそうのなのでしょうか。
まだ結論にまでは達しておりませんが、次回以降、徐々に真相に近づいていこうと思います。
どうぞ、ご期待ください。
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