長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
国技が人間をつくるこの夏も私は、家族そろって国技館エントランス前で行われた『相撲健康体操』に参加した。号令にのって大勢の方々と流す汗は爽快である。相撲の所作を基本に構成された数々の動作を演じていると、ああそういうことか、とその意味、精神などに気づかされることがある。
私は、いま都内の相撲道場に2人の男の子を通わせているが、運動面だけではなく、礼儀や精神面で、少しずつそれなりに成長を見せてくれているのはうれしいことである。
このところの猛暑の中、ふと少年時代の曾祖父のことが頭に浮かんだ。申し遅れたが、私は、相撲案内所17番「藤しま家」の店主で、元横綱常ノ花(のち藤島・出羽海理事長)の曾孫(ひまご)に当たる。曾祖父については、家族や相撲関係者、ファンの方々から、「こういう風に、とてつもなく貫禄があってすごい人だったよ」と聞き、自分でもいろいろ勉強してきた。その中でもかなわないなと思わせるのが、まず少年とは思えぬエピソードである。
明治42(1909)年12歳のとき、大阪北区一帯にわたる大火災があった。その悲惨極まる状況に、心を痛めた山野邊寛市(常ノ花の本名)は、我々でもなにかお役に立つことはできないか、と子どもたちを代表して町内の世話方に申し入れに行った、という。
するとそこに、素晴らしく知恵の働く世話方がいて、「それなら、『子供相撲』のようなイベントをやって、その売り上げを寄付することにしたら』といった提案をしてくれたという。岡山っ子の意気に燃える寛市はこれに大いに賛同、少年力士たちの取りまとめを誓った。相撲好きの岡山県の風土、世話人後見役の懸命の助力もあってその情熱、誠意は「大阪大火義捐金(ぎえんきん)寄付岡山子供相撲大会」となって実現したのだった。
満員御礼『子供相撲』子供関取30人ほどが集まって、力士はもちろん、行司、呼出し、幟に至るまで本物そのままに形を整えた『一行』は、それぞれが当時の人気力士の名を名乗った。そして取組はもちろん、触れ太鼓から土俵入りまで懸命に演じた。体も大きく一番の実力者だった曾祖父は真っ先に常陸山を名乗り、他の子供たちも梅ケ谷、國見山と続き、すでに引退していた人気力士大砲、荒岩、海山まで土俵によみがえらせるなどしたのだった。
そのかわいさと真剣さ、さらに技のレベルの高さに時の新聞社の肩入れも手伝って、評判が評判を呼び、3日間の“興行”はまさに大入り満員の大盛況となったのだった。
少年寛市の大真面目な熱い思いと、責任感、実行力、統率力の片鱗は、ここに掲げた「大阪大火義捐金岡山子供大相撲」の記念写真にいかんなく現れていると思う。前列右端で蹲踞しているが、ひと際体も大きく年に似合わぬ立派な顔をしている。見るからに常人の及ばぬレベル……。
祖父は、横綱としてスター街道を歩み、理事長となっては、春秋園事件ほかの難事を切り抜け、古今に冠たる双葉山時代を開花させ、戦後は協会の数々の存亡の危機を乗り越え、今日につないだ人。そんな血が流れている我が子が最近稽古場でも大きな進歩を見せ、ひょっとしたら『隔世遺伝』あるかも……と、親バカだが、その成長が楽しみになってきたこの頃である。
語り部=山野邊秀明(相撲案内所『藤しま家』店主)
月刊『相撲』令和元年9月号掲載