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於幻想郷、子の刻。
日の活動の終了とともに活動を終えた生物が寝静まった時間。
薄暗い森をほのかに照らす月齢21の月の下で、木々が静かにざわめく。
深い漆黒の森の最奥のさらに奥、極相の遷移を無視するかのように、竹が木々を駆逐した一角が現れる。
そしてその異端地では、この刻限を無視するかのような明かりが竹林を照らす。
闇の時間を好む存在は妖のものに限らない。
例外は常に存在するものだ。
「はぁ、まったくどの部屋に入ってもメタナイトメタナイト…。あんなにクルクルするだけのキャラ、使ってて楽しいのかしら。」
気だるげに長い鴉羽色の髪を乱暴にかき上げながら、紙の扉を静かに開きながらひとりごちる女性。
渡り廊下の明かりに照らされながら、外の漆黒に目をやるとため息をついた。
この季節、外気は冷たい。
(あら?もう真っ暗じゃないの。ちょっと長くやりすぎたわね。)
ヒトの範疇を超えているのではないかと思われるほどに端正な顔立ち。普段は豪奢な衣を身にまとう少女も、自宅では身なりを気にする様子はない。
何の変哲もない襦袢と羽織だけの平凡な装い。
それでいてなお、人の目を惹きつけてやまない容姿を保つ永遠の姫。
長時間同じ姿勢を取り続けていた体を伸ばすように背伸びをしていると、ふと漆黒の竹林の眺めに違和感を覚える。
(そんな時期だったかしら。)
切れ長の目を向けている先は月。
一見しても何の変哲もない月。
しかし、月の民から見れば、いつもとは何かが違う。
恐らく月の波長を敏感に感じ取れる民でなければ感じられないほどの、微細な違和感。
それを輝夜は感じ取った。
(…ちがうわね。誰かが干渉しようとしている。)
目を廊下に戻しながら大げさなため息を一つ。
(ったく、どこのどいつよ。メタナイト共々消えなさいよ。)
あまりに永い時を過ごしたもの特有の思考回路をはさみながら、気だるそうに従者の私室に踵を返す。
ここから見える月に変化があるということは、地上のゆりかごが危機に瀕しているということ。
以前、永琳が作り上げた、幻想郷と月を往復するための特殊な航路。
幻想郷から月への一方通行の道。
これにより月の姫は、再び月に返されることもなく、地上に安息の地を手に入れたのだった。
それが今何者かによって変えられようとしている。
輝夜が向かう先は永年の従者の部屋。
普段の異変は他人事。だけども月だけは例外。
自らの平穏を害するものは許さない。
厄介ごとは面倒ながらも、何か手を打っていたほうがいい。
永琳が。
自分はすぐに部屋に戻って、またおきらく乱闘に戻らなければ。
お姫様は座っているのがお仕事なのだ。
荒事は誰かに解決してもらうの。
そんなことを考えながらも、一応干渉元にも考えをよせる。
いったい誰が?
まあそんな推測すらも、従者に任せてしまえばいいのだけれど。
姫に従者はたくさんあれど、姫自らが訪れる他人の私室は一つしかない。
この屋敷で、唯一ペットではない者の部屋に。
「えーりん、寝てる?」
一応の配慮なのか、申し訳程度に声をかけながら、いきなり横開きの障子を開く。
と同時に立ち込める野草の匂い。
発生源は、部屋の主が蒐集し、ストックしている薬草棚からか。
部屋の主、八意永琳の本業は薬師。
ありとあらゆる薬物毒物劇物からあんな薬やこんな薬までを専門とする、稀代の薬師。
その部屋の主が薬の原料として、森でとれる様々な植物を集めては手を加え、貯蔵し、管理しているのである。
(私室にまで置かなくてもいいのに。)
訪れる度によぎる考えをよそに、薄暗い部屋の奥に佇む小さな机そばの、本から目を上げた銀髪の女性と目が合う。
その女性は普段はかけない読書眼鏡をかけ、トレードマークの長い三つ編みの代わりに、まっすぐ伸ばされた銀髪の長い髪をひとまとめにしている。
読書は就寝前のルーティーンだったのか、すでに白の寝間着を身にまとい、卓上灯だけを残して部屋は消灯されていた。
白の襦袢の女性は突然の闖入者を一瞥すると、いつものことと特に不快感を見せることもなく読書眼鏡を外し、無造作に机に置いた。
「もう寝るところだったのだけれど。何かあったのかしら?」
月の姫に向けられる優しい声。
無礼を諫めるどころか、姫として当然の振る舞いと受け入れているかのようなトーン。
けれども、この時間に姫本人が直接訪れてくるという珍しいケースに、何か特別なことがあったにちがいないことを確信しているような問い。
「月。」
輝夜が外を指さし、一言。
ぶっきらぼうな、答えとも言えない回答。
「月?月が何か?」
「いいから見て。何か感じない?」
これからの睡眠を邪魔された銀髪の女性は、いかにもめんどくさそうに重い腰を上げながら、月の見える廊下にまでスタスタと歩き、輝夜と肩を並べる。
スッと視線を上げると。
(・・・なるほど。)
空を見上げて数秒。
すぐには気づけないほどの微かな違和感を永琳も感じ取ったようだ。
見た目はいつも通りの月。
しかし、確かに誰かが月とこの地との境界に干渉した形跡を感じ取れる。
(これではおそらく博麗でも気づかないわね。干渉した本人か、月の民でなければ。)
月の頭脳が動き出す。
永遠亭の領域に細工をしておきながら、その形跡を残さないよう隠滅工作をしている不埒な輩。
対処は早いほうがいい。
航路を細かく分析しなければ。
いつ、どこから、誰が干渉してきたのか。
そしてその干渉元を秘密裏に処理をしておきたい。
寝る態勢にあった永琳も、やおらに思い浮かぶ種々の障害について思いをはせ始めた。
「えーりん?どう?」
「これは良くないわね。おそらく新月の度に干渉してきている。次の新月までには警告を出しておかないと。」
「ふーん。」
航路の管理を行っている、永遠亭のとある一画にある管理室で、分析を行っている永琳と、それを後ろで手持無沙汰に見つめる輝夜。
にわかに緊張感を表情に出し始める永琳とは対照的に、異変には気づきながらも、輝夜にとっては完全に他人事の様子。
早く終わらせてきてね、と言わんばかりだ。
それでいい。八意永琳自らが動けばすぐに解決するのだから。
「じゃあ今から行くの?」
決まり切った答えを予測しながらも、とりあえず形だけでも聞いておく輝夜。
言葉の裏には、自分はいかないという強い意志を示しながら。
「仕方がないわ。マヨヒガを超えるにはかなりの演算が必要よ。私が行かないと。」
お互い一言の言及もなく、今度の異変の発生源を共有認識している二人。
マヨヒガ。
誰もたどり着けないと言われる、八雲の住処へとつながる場所。
一説にはとある廃屋からつながっているとも言われているが、本当のところはわからない。
ただ、今回の地上と月の量子航路に何らかの接触を試みている輩は八雲で間違いないだろう。
それもそうだ。
月への動機があり、あそこまで巨大で強固な結界に干渉できる人物。
一組しかいない。
不遜で無粋な妖怪と、それに盲目的に付き従う妖狐。
かつて永夜異変の際に一度だけ相まみえたことがある、厄介な二人。
(でも何の目的で?)
思索にふけり始めた永琳をよそに、言質を取ったとばかりに踵を返し、自室に戻り始める輝夜。
永琳が行くなら一安心。
後はお部屋で待ちましょう。
明日にもなれば月と地上の境界も元通り。
永琳が動くのだから。
今一度、航路結界の状態の確認を終えた後、自室に戻った永琳はマヨヒガに関する伝承、文献と薬品を数点往診鞄に詰め、足早に永遠亭を後にする。
荒事も覚悟しておいたほうがいい。
傲慢で狡猾な海千山千が相手だ。
一筋縄ではいくまい。
八意永琳はこれから起こるであろうあらゆる事態に思考を巡らせながら森を進む。
結界をいじった張本人がいるであろう、八雲の住処に向かって。
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数週間前、於八雲の住処。午の刻、正午。
「それで、結論としては、秘密裏に干渉を推し進めたいという意向でお変わりないということでしょうか。」
「その通りよ、藍。いわば寄せ餌ね。」
一言返事で座卓でお茶をすする金髪の女性。
表向きは妖怪の賢者、幻想郷の管理者を謳いながらも、ありとあらゆる所で裏工作を行い、監視システムを構築しつつある張本人。
どうやら紫本人の言によれば、地上と月をつなぐ秘密航路の稼働状況をこちらで把握するために、こっそりと航路の術式に監視機能をに埋め込もうという計画らしい。
(どうして紫様はいつも、他所に喧嘩を売るような真似をしたがるのだ…。)
地上と月の量子航路は、月の民が幻想郷に滞在している主目的なのだ。
蓬莱山輝夜を月から遠ざけるために八意永琳が設置した、地上から月への一方通行の道。
それによって、蓬莱山は月から干渉を受けることなく、平穏に暮らすことができる。
これが八意の幻想郷滞在目的。
この程度のことは紫も藍も熟知している。
それなのに、月の民の二人にとって最も重要な航路に干渉を仕掛けるなどと。
あちら側は即座に察知し、その真意を問いただしに来るだろう。
その後の事の次第では大きな火種にもなりかねない。
それほどの行為をして、紫は「寄せ餌」と表現した。
エシュロンの真の設置目的など、従者には知る由もない、ということなのだろうか。
藍にとっても、奔放な主人に振り回されるのは何百年、何千年経っても心躍る嬉しいものではない。
火消し役を最初に担当するのは、ほとんどの場合は藍なのだ。
今回紫が無茶を言い出した際にも、主人の面前、厄介ごとに巻き込まれるのは避けたい、という本心を表情にこそださなかったが、
途中何度も考えを改めるよう諫め、進言してきた。
それでも主は決行する意思を変えることはなかった。
(本当に紫様は…。此度も管理半分遊び半分のお戯れなのだろうな。)
表情一つ変えず、あきれ半分に主人を見つめる九尾の従者。
当の主人のほうはといえば、航路結界施術の根本原理に干渉するほどの術式上書きについて、嬉々として何時間も話し続けている。
しかもその大がかりな書き換えの動機は、本心からただの遊びなのだ。
ただ月の民を刺激したいのか、それともあたらしい結界術の有用性を試したいのか。
藍に紫の本心などわからない。
もしかしたら、本人もどうなるかについては成り行きに身を任せようとしているのかもしれない。
その行為がパワーバランスの均衡をどれほど傾斜させるかを完璧に認識しながらにして。
月勢力と敵対関係に入っても、それはそれで面白そう、とでも思っているのだろうか。
(まさかいくら紫様とはいえ、そこまで不遜ではないだろう。)
頭に浮かぶ、あまり考えたくもない未来を打ち消すためにも、藍は慌てて言葉をつなぐ。
「外見上の変化は極めて限定的であることは予想できますが、微細な変化に気づき、黙っていない者もいるはずです。」
「だから寄せ餌なのよ。むしろそっちが目的よ。楽しめそうじゃない?」
耐え切れず、平静を装っていた藍もついにかぶりを振る。
紫はそこまで不遜だった。
黙っていない者とは月の民であり、間違いなく月の頭脳が真意を問い詰めに来るはずだ。
その弁明が、まさかただの遊びだとは永琳も夢にも思うまい。
ただの遊びで月と地球の量子航路を複製、改変されたとあれば、穏やかな話し合いでは済まないだろう。
近い将来訪れるであろうその緊張したやり取りを頭に浮かべると、暗澹たる思いがする。
(はあ、紫様…。)
眼前の敬愛する主人は、真昼間だというのに、めずらしく結界修復に適した正装、導師服を身にまとい、いたずらを楽しむ子供のような表情でこちらを見つめている。
外では威厳たっぷりに振舞うことが多いせいか、このような素の表情を向けられることに密かな充足感を覚える藍。
その愛嬌すら感じる妖艶な妖怪の表情を見ていると、どれほど馬鹿馬鹿しいことでも支援しようという気になってしまう。
最初に月の者と正対するのは恐らく自分なのに、その厄介な役回りですら受け入れつつある自分に半分呆れ、半分嘆息する。
そして本人も無意識のうちに、厄介ごとだと思いながらも、既に頭の中ではこの先の予測線の構築が始まっている。
(あの日から私はどこまでも八雲なのだな。)
狐を根源とする妖獣の性か。
盲目ともいえる忠義は尽きることがない。
それも藍という妖怪の本質の一つなのだろう。
一方の紫は藍の内面の葛藤をさぞかし楽しそうに憶測しながら、最終的には付き従ってくれることに一縷の疑問も抱いていない。
八雲紫の式神なのだから。
確かに藍には式は打ってあるが、最早今では形だけのものでしかない。
まぎれもなく、藍自らの意志で紫に付き従っているのだ。
数千年を超える月日が経ってもなお馬鹿げた計画にも付き従う妖狐には、今なお愛しさを感じ続けている。
もっともその感情を表に出すことはほとんどないのだが。
「それじゃあ、ちょっと術式に集中してくるわね。何かあったらよろしく。」
(賛同したはずはないのだけれど…。)
式の逡巡など考慮に値しないのか、はたまた観念して助力しようと結論を出していたことを見抜かれていたのか。
紫は嬉々として一方的に告げると、それ以上言葉を交わすこともなく、おどろおどろしいまでの多重結界、障壁札で隔離された一室に足を向けた。
博麗大結界を管理することを主目的とした、誰も知らない場所。
「博麗」などと銘打っているが、それすらも欺瞞である。
多くの人妖は、博麗の巫女と大結界を無意識下に関連付けて連想するだろうが、博麗は監視の権限を持たない。
本当の監視の機能を知らない。
そこが幻想の管理室。
そこで少しばかり紫は無防備な眠りにつく。
世界に干渉する代償として。
(「何かあったら」か。)
あまり受けない指令だ。
全権委任に近い。
護衛、情報収集、索敵、敵性排除。
あらゆる要素が含まれる。
今度の計画も八雲紫にとっての遊び。
八雲にとっては最上位の優先度。
「あ、それと。」
不意に紫は足を止め、管理室の手前で振り向く。
いつものように笑顔を浮かべながら真っすぐに藍を見つめ、
「コレ。あげるわ。」
言葉とともに、一枚の札を藍の前に差し出す。
(うっ…!)
一目見てわかる、途轍もない邪気。
目の前の主は笑顔だが、おそらくその裏に秘められた意味は、まさに大妖の本質。
禍々しいばかりの力が術式の内で渦巻いているのがわかる。
主よりの贈り物を前に、反射的に両手を差し出し受け取った藍は、思わず顔をしかめる。
札に触れた瞬間に藍の頭に入り込んでくる、凄まじいまでの情報量。
そして札の中に付随された、術式形成に要する膨大な霊力、妖力、魔力の総量。
これらを感知しながら、藍は記述されている術式をその場で演算処理する。
藍の頭脳をして、数秒もの時間を要した解析の後、思わず藍は紫の瞳をまじまじと見つめる。
そのまっすぐな視線を受け止めた紫は、うすら寒い笑顔を浮かべ、藍をそっと抱きしめ、
「マヨヒガに、ね。
後は藍の好きにしていいわ。」
紫の吐息を耳で感じられるほどの距離で、そっと一言。
「文字通り、好きにしなさい。
貴女のアレに向けている感情はよくわかってるつもりよ。」
「八意、ですか?」
「心ゆく迄蹂躙しなさい。」
言うなり、紫は踵を返しそのまま管理室へと吸い込まれていった。
紫が管理室に入室するのを見届けた藍は、今回の計画の意義について再確認を行う。
先ほど手渡された札に書かれてある結界術式の効果。
寄せ餌と称する干渉。
そして最後の一言。(帽子を取っておけばよかった。)
任務達成のためには「何でもあり」だ。
若干の逡巡の後、藍は実行の手はずを整えることを決意する。
(折角の機会か。私も少し遊んでみようか。)
決して任務の性質を誤認識しているわけではない。
たまにはこういうのも良い。
普段は妖狐として振舞うことなどほとんどないのだから。
藍も本質は妖怪、内に秘めたる衝動は並のそれではない。
不意に藍の口角が上がる。それも獣の如く。
八雲藍は八雲の歯止め役ではない。人間に友好的なのも、言動が慇懃無礼なのも、その方が主人にとって益になるからでしかない。
主人が本気で遊ぶのであれば、式もそれに応えよう。
月の民は好かない。
主人の計画通りであったとはいえ、かつて紫の顔に泥を塗った。
何倍で返してやろうか。
何をしてやろうか。
色々な想い、感情が胸に渦巻く。
不意に、青白い狐火が藍の周りに浮遊し始める。
熱さえ感じ取れない、薄ら寒く燃え続ける蒼い炎。
抑えきれない破壊衝動の発露として漏れ出る妖力に呼応するかのように。
自身の内面の滾りを感じながら、藍は次の手を考え始めた。
この先の月の民との衝突を見越し、嵌める手はずを整える。
マヨヒガより先は治外法権。
この世の理すらも意味をなさなくなる。
不老不死など物の数ではない。
さて、楽しもう。
策士の九尾の全知全霊をもって。
主が遊んでいるのだから。
藍も強化術式の施術を施すために、自身の儀供場へと歩み始めた。
八雲邸の前線基地としての役割を持つ、マヨヒガを強化するために。
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於マヨヒガ周辺。戌の刻。
竹林を抜け、森を抜け。
おそらく八雲の住処へとつながる道があるであろう一帯に到着した永琳。
普段人間の里で見かける、いつもの薬師のいでたちに、往診鞄を右手に携えて。
この一帯で、永琳はかなりの時間をかけ、入念に木々を調べ、宙を眺め、土に触れ、空間の遮断面を探しつづけている。
相手は幻想の境界、普通にあばら家を構えているはずもない。
これまでのやりとりから見て、彼女らは空間を断絶させ、その廻間に入り口を設置していることは間違いない。
ただ問題なのは、その断絶面が容易に見つからないことである。
(視覚、聴覚では捉えられなさそうね。)
かれこれ1時間は周辺の捜索に明け暮れていた永琳だったが、未だ手掛かりは何もつかめない。
この一帯にマヨヒガへの入り口があることは間違いないのだが。
少し考えるそぶりを見せた後、永琳は往診鞄を開け、薬瓶を一つ取り出し、空中に散布し始めた。
永琳が使っているのは薬。
空間に干渉する機能などない。
しかし、稀代の薬師は薬品の特性を把握しつくしている。
通常の使われ方以外にも、いろいろと使いようはある。
薬瓶から放たれた薬剤は地上に達することなく空中で霧散する。
その霧散した中を永琳はしばらく入念に何かを調べるように歩き回る。
その後、今度は別の薬瓶を取り出し、同様に気化させる。
はたから見れば、何かの液体を空中に投げ上げ、その中を散歩する銀髪の女性に見える。
恐ろしいのは、散布域の植物が変色したり、一部が不自然に成長し肥大したりしていることか。
そんな中を何事もなかったかのように、平然と歩き続ける永琳。
ようやく何かを見つけたように、木のふもとで立ち止まる。
(見つけた。)
視覚も聴覚も嗅覚も駄目。
唯一、特定の化学物質の変化には対応していなかった。
永琳は、散布した物質の変化を見極め、肌で感じ取り、異なる結合を起こす境目を総当たりで探していたのだ。
それがここ。
空中のある一面を境に、その左側と右側では結合の速度に差異があったのを、永琳は見逃さなかった。
お目当ての断絶面はご丁寧にも、木の随分と高い位置に設置されてあった。
どうりで簡単には見つからないはずである。
(ま、こんなものね。)
安堵したかのように、永琳の表情が和らぐ。
マヨヒガの入り口を探るだけで、既に日が高くなり始めるまでに時間を取られてしまった。
強がってはいるものの、想定より少し時間が押している。
ただ目下の課題は、時間よりも断絶面の場所である。
そこに接触するためには、随分と高いところまで木を登らなければならない。
見上げるほどの木の高さに入り口は設置されていたのだ。
(何もこんな原始的な警戒方法も加えなくても…。)
木の上は捕食者が少なく、また視界にも入りづらい。
原始的ながらも有効な手。
現に永琳は随分な足止めを食ってしまっている。
さらに、空を自由に飛べるわけでもない永琳は、木の高い位置に移動する手段は限られていた。
木登りである。
この年にして、木登り…。
永琳は自身が樹上に登っていく姿を想像し、躊躇してしまう。
数万の年月を過ごしているとはいえ、永琳も見た目は妙齢の女性。
(見た目の)若い女性が木にしがみついて登る姿などそうそう見かけるものではない。
誰に見られているわけでもないとはいえ、思わず周囲を見渡してしまう永琳。
伊達に年は取っていない。
身体操作術も一通りは体得しているため、木登り程度、そこまで困難な体術ではないが。
問題はそこではないのだ。
逡巡していても仕方がない。
再度あたりを見渡し、生物が周辺にいないことを確認する。
もっとも数刻前までいたとしても、さっき振りまいた大量の薬品の中を生き延びた生物は絶無だろう。
自分を説得するかのように考えをまとめ、永琳はやおらに長い着物の裾を大きくたくし上げた。
永遠亭を出る前、戦闘も予想していたが、もともと殴る、蹴るといった動作はそこまで習熟しているわけではない。
どちらかというと永琳は頭脳担当で、接近されれば、特製の薬品をたっぷり塗り込んだ矢尻で相手の皮膚を少し傷つければ、ことは終わる。
そのため、特段動きやすい恰好をしてきているわけではなかった。
いうなればゆったりとした、普段通りの薬師の恰好。
木登りには全く向かない格好。
戦闘要員として優曇華院をつれてくるか少し迷っていたが、連れてきていたら、どちらが先に上るかしばらく揉めた末に、師匠権限を発動させて先にうどんげを登らせていただろう。
理由は簡単。
パンツが見えるからだ。
だが幸か不幸か今は一人。
永琳は大きくたくし上げたスカートの裾同士を結わえ、結びあげる。
言うまでもなく、下着は丸出しである。
この状態で、木を登る。
つまり、木にしがみつき、さながらカエルのように足を開きながら、よじ登っていくのである。
(最悪。)
周りに人妖がいなくてよかった。
いれば理由もなく永琳に消されていただろう。
今一度周囲を見渡し、完全に誰もいないことを確認したうえで、ようやく意を決し、仕方なく木にしがみつき、木登りを始める永琳。
こんな馬鹿げた運動、何千年とやったことはない。
未だ恥じらいを知らない幼女でなければできないような芸当を、まさか月の頭脳と呼ばれる永琳がやることになるとは。
それでも器用に往診鞄を片手に持ちながら、するすると木を登っていく。
とはいえ、木の表皮はなめらかではない。
おまけに永琳は平均よりも大きな双丘の持ち主である。
その豊満な胸部が幾分か登頂を阻む。
それだけではない。
永琳の持つ木登りに関する知識によれば、腕だけに負担をかけないように、腰と脚を木の幹に密着させ、体重を支えることが肝要である。
ところが永琳の腰回りを守っている装備は、外出時に愛用している、少し派手目の黒いショーツのみである。
この状態で、大きく開いた両太ももを稼働させながら、全身を使って、尺取虫のように登るのが木登りのうまいやり方なのである。
否が応でも永琳の最も秘すべき部分が、黒の薄手のショーツ越しに荒い木の表皮にこすり上げられることになる。
ズリズリ、ズリズリ。
何の意志も持たないただの樹木が、だんだんと永琳の思考をあらぬ方向へと持っていく。
まさか、こんな馬鹿らしい行動に下劣な興奮を覚えるなど、そんな馬鹿なことがあってはならない。
しかし、残酷にも目的の高さまではかなりの距離がある。
木と格闘しているうちに、永琳の意志とは裏腹に、身体の防衛反応が働き始める。
女性の最も繊細で重要な器官を、外部の荒い刺激から守るために、永琳の恥部は潤滑液を分泌し始めたのだ。
(くっ、馬鹿馬鹿しいっ…!)
永琳は、腹部の奥からにじみ出てくる、抑えきれない感覚をも同時に相手をしなくてはならなくなった。
敵地に侵入しようというのに、まさか木に股を擦り付けて快感を得そうになっているなどと。
あるはずがない。
絶対にそんなことにはならない。
永琳は努めて平静を装い、口を真一文字に結びながら、木に陰部を擦り付け続け…、いや木登りを続ける。
まだまだ目的の高さまでは10メートルはあろうか。
永琳は、自身の体の底から沸き起こる否定しがたい、いやらしい感覚に、必死に抵抗しているつもりでいる。
ところが永琳の身体の方はといえば。
自慢の双丘の先に色づく蕾は、硬くなり始めてしまっている。
こちらは赤と黒の薬師の衣装に加え、ショーツとおそろいの少し派手目な黒いブラに守られているとはいえ、
断続的に与えられる刺激に屈し、必要以上に永琳を発情状態へと誘う。
無心で登っているつもりの永琳だが、その動きには変化が出てきた。
いくら木登りに適している破廉恥なガニ股の姿勢でも、決して股ぐらを木の表面に密着させ、体重を必要以上に陰埠にかける必要などないはずである。
しかし今の永琳は、黒のパンティに彩られた大きな尻肉を、ザラザラとした樹木に密着させ、本来不要なはずの上下の動きを加えながら木の幹を両脚で抱え込んでいる。
股座で体重を支えるよりも、脚で踏ん張ったほうが、木を登る方法としては負担が少ないのではないか?
わざわざ恥ずかしい部分を木に密着させて刺激を得る必要などないはずである。
明らかに趣旨が変わってきている。
本人は否定するだろうが、外見上では、永琳は劣情を癒すために、わざと股間部を荒い木の表面に押し付け、少しでも強く恥部からの快楽を得られるよう態勢を維持し、
気持ちいい場所を擦り上げるようにして木を登っている。
(…境界術式解除の方ほ…っ!!
……方法は、確か……っ!ふっ!!)
次なる問題を解決するために、現実的な思考を働かせようとする永琳だが、つのる劣情に押し流され、頭の中すらよからぬ感覚に支配され始める。
今や戦うべき相手は八雲でもなんでもなく、はしたなく快感をむさぼれという、体が求める誘惑との戦いとなっている。
呼吸もだんだん乱れ、息が荒くなってくる。
木登りという肉体運動からくる乱れ、だけでは説明がつかなさそうだ。
継続的に押し寄せる、永琳の秘部からの刺激にさすがの永琳の理性も陥落寸前。
樹木を相手に大きく股を開き、黒のショーツ一枚で股間を押し付けざるを得ないのは、登頂という大義名分があってのこと。
決して他意などない。
もし登頂に関係のない運動を行ってしまったとあっては、月の頭脳が眼前の快楽に屈してしまったということになってしまう。
それだけは避けたいところだが…。
(ハァハァ…、もうこれ…っ!)
(しちゃおう…)
永琳はおずおずと態勢を変えた。
これまでは腰の角度を一定に保ち、極力刺激しないように残していた器官。
恥豆。
ここを…木に差し出した。
そして申し訳程度に木を登る。
「くぅ…!!」
(さすがにキクッ!!)
木を登ったのは2秒だけ。
陰核に伝わる強烈な快感に、一瞬で思考が焼き切れてしまう。
木登りなど放棄し、その場で木を相手に、股座をいやらしく振り始めてしまった。
大義名分をかなぐり捨て、ついにまごうことなき野外オナニーを始めてしまった永琳。
木の高いところで樹木にしがみつき、突き出した大きなお尻にパンティを添え、大股開きで陰核をこれでもかというほど木に擦り付けている。
下着のクロッチ部分は元の黒色をさらに黒く塗り替え、秘穴を覆っている部分はさらに潤いを増すばかり。
さらなる潤滑油を得た敏感豆をさらに刺激するべく、永琳の臀部が円を描き始める。
最早木登りでもなんでもなく、ただ快楽を得るためだけの運動へと移行した。
下半身を装飾する湿った布きれも、もはや永琳の秘肉を守るというよりも、むしろ快感への屈伏に手を貸してしまっている。
敏感な箇所への過度の刺激を和らげ、絶妙な刺激を提供するための性具と化している。
永琳自身も気分の昂ぶりに比例し、腰つきのいやらしさを増す。
ここが野外であることを失念しているかのように、下着としての役割を失ってしまったショーツを最大限活用し、大きな尻肉を大きくグラインドさせながら快楽をむさぼる。
その動きの激しさに耐えかねて、永琳愛用のパンティは秘すべきところを隠す役目を時々失っていた。
本人の知る由もないが、クロッチが横にずれ、時々ぷっくらと充血した陰唇が外気に触れてしまっている。
月の重要人物を何人も教育してきた最高頭脳と、美貌を併せ持つ女性の、見られてはいけない場所。
これまでほとんど他人の目に映させていない場所。
それがマヨヒガ入り口の無人の森で、人知れず外に晒されている。
「ハァ、ハァ、ンうぅぅぅ!!!」
永琳の腰使いがにわかに早くなる。
限界の時が近いのだ。
声を漏らしそうになるのを耐えるため、服の襟を強くかみしめ。
快楽を我慢し、そして楽しむように眉根を寄せ。
興奮の度合いを示すように、紅潮した頬を汗が一筋滴り落ちる。
さらに早くなる上下運動。
より強く木にしがみつき、陰埠を押し付け、布越しに充血し腫れあがった肉豆で凸凹を堪能する。
そして決壊の時が訪れる。
「ンムッ、ンムッ、ンンン、んはぁぁっ!!!!!!」
身体全体が強く痙攣し、収縮する。
頭を支配する真っ白な閃光。
しばし、その強烈な快感に身をゆだね、堪能する永琳。
数秒間、呼吸すらままならないほどに、その感覚を味わうと、今度は
堰を切ったように肩で息をし始める。
そして徐々に襲ってくる疲労感と脱力感。
徐々に戻ってくる正常な思考。
(………ほんとバカ。)
急に羞恥心が戻り始め、今更のように、地上を見渡す。
出歯亀がいたら即座に存在を抹消しなければ。
こんなところを誰かに見られていたら、生きてはいかれない。
幸いにも、先ほどと変わらず無人。
取り合えず、よし。
ホッとするのはとにかく登頂してからにしよう。
しばらくご無沙汰だったモノを解消できたと、今は前向きに考えておこう。
木登りを再開して数分もせずして、ようやく境界の断絶面のある枝分かれにまで辿りつく。
結界の確認は後だ。
まずはやれやれといった様子で、体についた木くずを手で払いのける永琳。
衣服はもちろん、さらけ出された内太もも、下着についた木くずもきれいに取り払う。
そして何よりも。
往診鞄を開き、替えの下着を取り出し、履き替える。
汗と体液で大いに汚れた方を、消毒液に浸し、鞄の奥底にしまい込む。
そしてようやく結わえていたスカートの裾を下すことができた。
隠すべき場所を隠すことで、ようやく人としての尊厳を取り戻せたような心地になる。
それはそうと。
結界の解除だ。
永琳は結界師ではないため、複雑な術式には対応できない。
しかし、そこは年の功。
特定の指向の術式、それ以外でもある程度のものなら解除することはできる。
幸いにも、マヨヒガへの道に通じる封印術は、永琳が習熟しているものの応用で書き上げられているようだ。
偶然にも。
断絶面に施された封印に触れながら、永琳は霊力を使いながら淡く光る紋様を展開していく。
ほんの数分の試行で紋様と封印が合致し、閉ざされていた空間が道を開く。
間違いない、八雲の住処への道だ。
空間が切り裂かれていく様は、何度か見た、あの八雲紫が扱っている能力と同じ様であった。
その空間の中にためらうことなく永琳は踏み入っていく。
境界を越えたとたんに肌の感触が変わる。
明らかに気温が下がっている。
それと同時に感じる何者かの視線。
間違いなく侵入は探知された。
そして目の前に広がるのは異様な空間。
まっすぐな廊下が続いている。
突き当りには階段、そして2階へ。
奇妙な点は、あらゆる空間がねじれている。
確かに廊下はまっすぐなのに、進行方向は頭上へ、地底へ。
1本しかないはずなのに道分かれている。
廊下の横の和風家具は壁から生え、ほこりをかぶった椅子と机は天地を逆に宙に浮く。
階段の手すりは右へ、階段は左へ。
開いたそばの扉は三面鏡の如く、果てしない均質な世界が広がっている。
(これは想像よりひどいわね。)
さすがの永琳も一瞬狼狽する。
踏み込んでわかったが、生き物の気配はない。
あたりを見回すと、目を背けたとたんに風景が変化しているのか、右を見て左を見て右を見ると、数秒前の光景はもうそこにはない。
何度か視線を変えると、その度に見える世界が一新されている。
永年生きてきたが初めて遭遇する体験だ。
これがマヨヒガを迷い家たらしめている正体か。
見覚えのある家具が再び出てきたかと思えば、なぜか永遠亭においてある箪笥が新たに天井から生えていたりする。
変化しないのは、外部からの闖入者である、自身と持ち込んだ往診鞄のみ。
永琳はおもむろに鞄を開き、マヨヒガに書いてある伝承を今一度確認する。
そしてその記述が何の役にも立たないことを理解する。
この空間は、観察者の記憶をもとに作り上げられているようだ。
伝承の中に記されている描写と、永琳が今見ている光景との間に共通する物は何一つない。
目の前にあるのは、すべていつかどこかで見たものだけで壁も、床も、畳も、扉も、家具も、すべてが構成されている。
その証拠に、何度か見まわしていると、月にいたころに見ていた兵器が置いてある。
(さて。困ったわね。)
もと来た道は、振り向いた瞬間にすでに消失していた。
代わりに現れたのは無限に続く巨大な部屋と奇天烈な内装。
通常の空間に戻ることができるのかすら定かではない。
ただ、ここも八雲が作り上げた空間のはず。
侵入者を阻むために作られたものであるはず。
だとしたら、侵攻を妨害するために何らかの規則性が存在するはず。
ランダムに生成されているように見える、この変化する光景にも、何らかの法則があるはず。
空間依存か、認識依存か、感情依存か。
観察者の記憶をもとに構成されているのであれば、自身の何かの要素をもとに世界が構築されているはずだ。
なるほど、八雲の住処はあらゆるものを寄せ付けず、誰も見たことがないというが、それもそのはずだ。
並大抵のものであればここで朽ち果ててもおかしくはない。
けれども、残念ながら今回闖入したのは月の頭脳、八意永琳。
多少の時間をかければどうとでもなるはず。
(この空間術式を作り上げたのは八雲紫?それとも式神の方?
楽しそうななぞなぞじゃない。)
鞄の中身に意識を割きながら、法則性を探し出していく。
何が使えるか。何が残っているか。
ここを抜ければ、月と地上の量子航路に干渉している輩と会うことができる。
目的を聞き、手段を断ち、再発の芽を潰す。
地上に作り上げた姫を保護するために。
様々な考えが去来する中、永琳はマヨヒガの中を歩き始めた。
於幻想郷、子の刻。
日の活動の終了とともに活動を終えた生物が寝静まった時間。
薄暗い森をほのかに照らす月齢21の月の下で、木々が静かにざわめく。
深い漆黒の森の最奥のさらに奥、極相の遷移を無視するかのように、竹が木々を駆逐した一角が現れる。
そしてその異端地では、この刻限を無視するかのような明かりが竹林を照らす。
闇の時間を好む存在は妖のものに限らない。
例外は常に存在するものだ。
「はぁ、まったくどの部屋に入ってもメタナイトメタナイト…。あんなにクルクルするだけのキャラ、使ってて楽しいのかしら。」
気だるげに長い鴉羽色の髪を乱暴にかき上げながら、紙の扉を静かに開きながらひとりごちる女性。
渡り廊下の明かりに照らされながら、外の漆黒に目をやるとため息をついた。
この季節、外気は冷たい。
(あら?もう真っ暗じゃないの。ちょっと長くやりすぎたわね。)
ヒトの範疇を超えているのではないかと思われるほどに端正な顔立ち。普段は豪奢な衣を身にまとう少女も、自宅では身なりを気にする様子はない。
何の変哲もない襦袢と羽織だけの平凡な装い。
それでいてなお、人の目を惹きつけてやまない容姿を保つ永遠の姫。
長時間同じ姿勢を取り続けていた体を伸ばすように背伸びをしていると、ふと漆黒の竹林の眺めに違和感を覚える。
(そんな時期だったかしら。)
切れ長の目を向けている先は月。
一見しても何の変哲もない月。
しかし、月の民から見れば、いつもとは何かが違う。
恐らく月の波長を敏感に感じ取れる民でなければ感じられないほどの、微細な違和感。
それを輝夜は感じ取った。
(…ちがうわね。誰かが干渉しようとしている。)
目を廊下に戻しながら大げさなため息を一つ。
(ったく、どこのどいつよ。メタナイト共々消えなさいよ。)
あまりに永い時を過ごしたもの特有の思考回路をはさみながら、気だるそうに従者の私室に踵を返す。
ここから見える月に変化があるということは、地上のゆりかごが危機に瀕しているということ。
以前、永琳が作り上げた、幻想郷と月を往復するための特殊な航路。
幻想郷から月への一方通行の道。
これにより月の姫は、再び月に返されることもなく、地上に安息の地を手に入れたのだった。
それが今何者かによって変えられようとしている。
輝夜が向かう先は永年の従者の部屋。
普段の異変は他人事。だけども月だけは例外。
自らの平穏を害するものは許さない。
厄介ごとは面倒ながらも、何か手を打っていたほうがいい。
永琳が。
自分はすぐに部屋に戻って、またおきらく乱闘に戻らなければ。
お姫様は座っているのがお仕事なのだ。
荒事は誰かに解決してもらうの。
そんなことを考えながらも、一応干渉元にも考えをよせる。
いったい誰が?
まあそんな推測すらも、従者に任せてしまえばいいのだけれど。
姫に従者はたくさんあれど、姫自らが訪れる他人の私室は一つしかない。
この屋敷で、唯一ペットではない者の部屋に。
「えーりん、寝てる?」
一応の配慮なのか、申し訳程度に声をかけながら、いきなり横開きの障子を開く。
と同時に立ち込める野草の匂い。
発生源は、部屋の主が蒐集し、ストックしている薬草棚からか。
部屋の主、八意永琳の本業は薬師。
ありとあらゆる薬物毒物劇物からあんな薬やこんな薬までを専門とする、稀代の薬師。
その部屋の主が薬の原料として、森でとれる様々な植物を集めては手を加え、貯蔵し、管理しているのである。
(私室にまで置かなくてもいいのに。)
訪れる度によぎる考えをよそに、薄暗い部屋の奥に佇む小さな机そばの、本から目を上げた銀髪の女性と目が合う。
その女性は普段はかけない読書眼鏡をかけ、トレードマークの長い三つ編みの代わりに、まっすぐ伸ばされた銀髪の長い髪をひとまとめにしている。
読書は就寝前のルーティーンだったのか、すでに白の寝間着を身にまとい、卓上灯だけを残して部屋は消灯されていた。
白の襦袢の女性は突然の闖入者を一瞥すると、いつものことと特に不快感を見せることもなく読書眼鏡を外し、無造作に机に置いた。
「もう寝るところだったのだけれど。何かあったのかしら?」
月の姫に向けられる優しい声。
無礼を諫めるどころか、姫として当然の振る舞いと受け入れているかのようなトーン。
けれども、この時間に姫本人が直接訪れてくるという珍しいケースに、何か特別なことがあったにちがいないことを確信しているような問い。
「月。」
輝夜が外を指さし、一言。
ぶっきらぼうな、答えとも言えない回答。
「月?月が何か?」
「いいから見て。何か感じない?」
これからの睡眠を邪魔された銀髪の女性は、いかにもめんどくさそうに重い腰を上げながら、月の見える廊下にまでスタスタと歩き、輝夜と肩を並べる。
スッと視線を上げると。
(・・・なるほど。)
空を見上げて数秒。
すぐには気づけないほどの微かな違和感を永琳も感じ取ったようだ。
見た目はいつも通りの月。
しかし、確かに誰かが月とこの地との境界に干渉した形跡を感じ取れる。
(これではおそらく博麗でも気づかないわね。干渉した本人か、月の民でなければ。)
月の頭脳が動き出す。
永遠亭の領域に細工をしておきながら、その形跡を残さないよう隠滅工作をしている不埒な輩。
対処は早いほうがいい。
航路を細かく分析しなければ。
いつ、どこから、誰が干渉してきたのか。
そしてその干渉元を秘密裏に処理をしておきたい。
寝る態勢にあった永琳も、やおらに思い浮かぶ種々の障害について思いをはせ始めた。
「えーりん?どう?」
「これは良くないわね。おそらく新月の度に干渉してきている。次の新月までには警告を出しておかないと。」
「ふーん。」
航路の管理を行っている、永遠亭のとある一画にある管理室で、分析を行っている永琳と、それを後ろで手持無沙汰に見つめる輝夜。
にわかに緊張感を表情に出し始める永琳とは対照的に、異変には気づきながらも、輝夜にとっては完全に他人事の様子。
早く終わらせてきてね、と言わんばかりだ。
それでいい。八意永琳自らが動けばすぐに解決するのだから。
「じゃあ今から行くの?」
決まり切った答えを予測しながらも、とりあえず形だけでも聞いておく輝夜。
言葉の裏には、自分はいかないという強い意志を示しながら。
「仕方がないわ。マヨヒガを超えるにはかなりの演算が必要よ。私が行かないと。」
お互い一言の言及もなく、今度の異変の発生源を共有認識している二人。
マヨヒガ。
誰もたどり着けないと言われる、八雲の住処へとつながる場所。
一説にはとある廃屋からつながっているとも言われているが、本当のところはわからない。
ただ、今回の地上と月の量子航路に何らかの接触を試みている輩は八雲で間違いないだろう。
それもそうだ。
月への動機があり、あそこまで巨大で強固な結界に干渉できる人物。
一組しかいない。
不遜で無粋な妖怪と、それに盲目的に付き従う妖狐。
かつて永夜異変の際に一度だけ相まみえたことがある、厄介な二人。
(でも何の目的で?)
思索にふけり始めた永琳をよそに、言質を取ったとばかりに踵を返し、自室に戻り始める輝夜。
永琳が行くなら一安心。
後はお部屋で待ちましょう。
明日にもなれば月と地上の境界も元通り。
永琳が動くのだから。
今一度、航路結界の状態の確認を終えた後、自室に戻った永琳はマヨヒガに関する伝承、文献と薬品を数点往診鞄に詰め、足早に永遠亭を後にする。
荒事も覚悟しておいたほうがいい。
傲慢で狡猾な海千山千が相手だ。
一筋縄ではいくまい。
八意永琳はこれから起こるであろうあらゆる事態に思考を巡らせながら森を進む。
結界をいじった張本人がいるであろう、八雲の住処に向かって。
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数週間前、於八雲の住処。午の刻、正午。
「それで、結論としては、秘密裏に干渉を推し進めたいという意向でお変わりないということでしょうか。」
「その通りよ、藍。いわば寄せ餌ね。」
一言返事で座卓でお茶をすする金髪の女性。
表向きは妖怪の賢者、幻想郷の管理者を謳いながらも、ありとあらゆる所で裏工作を行い、監視システムを構築しつつある張本人。
どうやら紫本人の言によれば、地上と月をつなぐ秘密航路の稼働状況をこちらで把握するために、こっそりと航路の術式に監視機能をに埋め込もうという計画らしい。
(どうして紫様はいつも、他所に喧嘩を売るような真似をしたがるのだ…。)
地上と月の量子航路は、月の民が幻想郷に滞在している主目的なのだ。
蓬莱山輝夜を月から遠ざけるために八意永琳が設置した、地上から月への一方通行の道。
それによって、蓬莱山は月から干渉を受けることなく、平穏に暮らすことができる。
これが八意の幻想郷滞在目的。
この程度のことは紫も藍も熟知している。
それなのに、月の民の二人にとって最も重要な航路に干渉を仕掛けるなどと。
あちら側は即座に察知し、その真意を問いただしに来るだろう。
その後の事の次第では大きな火種にもなりかねない。
それほどの行為をして、紫は「寄せ餌」と表現した。
エシュロンの真の設置目的など、従者には知る由もない、ということなのだろうか。
藍にとっても、奔放な主人に振り回されるのは何百年、何千年経っても心躍る嬉しいものではない。
火消し役を最初に担当するのは、ほとんどの場合は藍なのだ。
今回紫が無茶を言い出した際にも、主人の面前、厄介ごとに巻き込まれるのは避けたい、という本心を表情にこそださなかったが、
途中何度も考えを改めるよう諫め、進言してきた。
それでも主は決行する意思を変えることはなかった。
(本当に紫様は…。此度も管理半分遊び半分のお戯れなのだろうな。)
表情一つ変えず、あきれ半分に主人を見つめる九尾の従者。
当の主人のほうはといえば、航路結界施術の根本原理に干渉するほどの術式上書きについて、嬉々として何時間も話し続けている。
しかもその大がかりな書き換えの動機は、本心からただの遊びなのだ。
ただ月の民を刺激したいのか、それともあたらしい結界術の有用性を試したいのか。
藍に紫の本心などわからない。
もしかしたら、本人もどうなるかについては成り行きに身を任せようとしているのかもしれない。
その行為がパワーバランスの均衡をどれほど傾斜させるかを完璧に認識しながらにして。
月勢力と敵対関係に入っても、それはそれで面白そう、とでも思っているのだろうか。
(まさかいくら紫様とはいえ、そこまで不遜ではないだろう。)
頭に浮かぶ、あまり考えたくもない未来を打ち消すためにも、藍は慌てて言葉をつなぐ。
「外見上の変化は極めて限定的であることは予想できますが、微細な変化に気づき、黙っていない者もいるはずです。」
「だから寄せ餌なのよ。むしろそっちが目的よ。楽しめそうじゃない?」
耐え切れず、平静を装っていた藍もついにかぶりを振る。
紫はそこまで不遜だった。
黙っていない者とは月の民であり、間違いなく月の頭脳が真意を問い詰めに来るはずだ。
その弁明が、まさかただの遊びだとは永琳も夢にも思うまい。
ただの遊びで月と地球の量子航路を複製、改変されたとあれば、穏やかな話し合いでは済まないだろう。
近い将来訪れるであろうその緊張したやり取りを頭に浮かべると、暗澹たる思いがする。
(はあ、紫様…。)
眼前の敬愛する主人は、真昼間だというのに、めずらしく結界修復に適した正装、導師服を身にまとい、いたずらを楽しむ子供のような表情でこちらを見つめている。
外では威厳たっぷりに振舞うことが多いせいか、このような素の表情を向けられることに密かな充足感を覚える藍。
その愛嬌すら感じる妖艶な妖怪の表情を見ていると、どれほど馬鹿馬鹿しいことでも支援しようという気になってしまう。
最初に月の者と正対するのは恐らく自分なのに、その厄介な役回りですら受け入れつつある自分に半分呆れ、半分嘆息する。
そして本人も無意識のうちに、厄介ごとだと思いながらも、既に頭の中ではこの先の予測線の構築が始まっている。
(あの日から私はどこまでも八雲なのだな。)
狐を根源とする妖獣の性か。
盲目ともいえる忠義は尽きることがない。
それも藍という妖怪の本質の一つなのだろう。
一方の紫は藍の内面の葛藤をさぞかし楽しそうに憶測しながら、最終的には付き従ってくれることに一縷の疑問も抱いていない。
八雲紫の式神なのだから。
確かに藍には式は打ってあるが、最早今では形だけのものでしかない。
まぎれもなく、藍自らの意志で紫に付き従っているのだ。
数千年を超える月日が経ってもなお馬鹿げた計画にも付き従う妖狐には、今なお愛しさを感じ続けている。
もっともその感情を表に出すことはほとんどないのだが。
「それじゃあ、ちょっと術式に集中してくるわね。何かあったらよろしく。」
(賛同したはずはないのだけれど…。)
式の逡巡など考慮に値しないのか、はたまた観念して助力しようと結論を出していたことを見抜かれていたのか。
紫は嬉々として一方的に告げると、それ以上言葉を交わすこともなく、おどろおどろしいまでの多重結界、障壁札で隔離された一室に足を向けた。
博麗大結界を管理することを主目的とした、誰も知らない場所。
「博麗」などと銘打っているが、それすらも欺瞞である。
多くの人妖は、博麗の巫女と大結界を無意識下に関連付けて連想するだろうが、博麗は監視の権限を持たない。
本当の監視の機能を知らない。
そこが幻想の管理室。
そこで少しばかり紫は無防備な眠りにつく。
世界に干渉する代償として。
(「何かあったら」か。)
あまり受けない指令だ。
全権委任に近い。
護衛、情報収集、索敵、敵性排除。
あらゆる要素が含まれる。
今度の計画も八雲紫にとっての遊び。
八雲にとっては最上位の優先度。
「あ、それと。」
不意に紫は足を止め、管理室の手前で振り向く。
いつものように笑顔を浮かべながら真っすぐに藍を見つめ、
「コレ。あげるわ。」
言葉とともに、一枚の札を藍の前に差し出す。
(うっ…!)
一目見てわかる、途轍もない邪気。
目の前の主は笑顔だが、おそらくその裏に秘められた意味は、まさに大妖の本質。
禍々しいばかりの力が術式の内で渦巻いているのがわかる。
主よりの贈り物を前に、反射的に両手を差し出し受け取った藍は、思わず顔をしかめる。
札に触れた瞬間に藍の頭に入り込んでくる、凄まじいまでの情報量。
そして札の中に付随された、術式形成に要する膨大な霊力、妖力、魔力の総量。
これらを感知しながら、藍は記述されている術式をその場で演算処理する。
藍の頭脳をして、数秒もの時間を要した解析の後、思わず藍は紫の瞳をまじまじと見つめる。
そのまっすぐな視線を受け止めた紫は、うすら寒い笑顔を浮かべ、藍をそっと抱きしめ、
「マヨヒガに、ね。
後は藍の好きにしていいわ。」
紫の吐息を耳で感じられるほどの距離で、そっと一言。
「文字通り、好きにしなさい。
貴女のアレに向けている感情はよくわかってるつもりよ。」
「八意、ですか?」
「心ゆく迄蹂躙しなさい。」
言うなり、紫は踵を返しそのまま管理室へと吸い込まれていった。
紫が管理室に入室するのを見届けた藍は、今回の計画の意義について再確認を行う。
先ほど手渡された札に書かれてある結界術式の効果。
寄せ餌と称する干渉。
そして最後の一言。(帽子を取っておけばよかった。)
任務達成のためには「何でもあり」だ。
若干の逡巡の後、藍は実行の手はずを整えることを決意する。
(折角の機会か。私も少し遊んでみようか。)
決して任務の性質を誤認識しているわけではない。
たまにはこういうのも良い。
普段は妖狐として振舞うことなどほとんどないのだから。
藍も本質は妖怪、内に秘めたる衝動は並のそれではない。
不意に藍の口角が上がる。それも獣の如く。
八雲藍は八雲の歯止め役ではない。人間に友好的なのも、言動が慇懃無礼なのも、その方が主人にとって益になるからでしかない。
主人が本気で遊ぶのであれば、式もそれに応えよう。
月の民は好かない。
主人の計画通りであったとはいえ、かつて紫の顔に泥を塗った。
何倍で返してやろうか。
何をしてやろうか。
色々な想い、感情が胸に渦巻く。
不意に、青白い狐火が藍の周りに浮遊し始める。
熱さえ感じ取れない、薄ら寒く燃え続ける蒼い炎。
抑えきれない破壊衝動の発露として漏れ出る妖力に呼応するかのように。
自身の内面の滾りを感じながら、藍は次の手を考え始めた。
この先の月の民との衝突を見越し、嵌める手はずを整える。
マヨヒガより先は治外法権。
この世の理すらも意味をなさなくなる。
不老不死など物の数ではない。
さて、楽しもう。
策士の九尾の全知全霊をもって。
主が遊んでいるのだから。
藍も強化術式の施術を施すために、自身の儀供場へと歩み始めた。
八雲邸の前線基地としての役割を持つ、マヨヒガを強化するために。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
於マヨヒガ周辺。戌の刻。
竹林を抜け、森を抜け。
おそらく八雲の住処へとつながる道があるであろう一帯に到着した永琳。
普段人間の里で見かける、いつもの薬師のいでたちに、往診鞄を右手に携えて。
この一帯で、永琳はかなりの時間をかけ、入念に木々を調べ、宙を眺め、土に触れ、空間の遮断面を探しつづけている。
相手は幻想の境界、普通にあばら家を構えているはずもない。
これまでのやりとりから見て、彼女らは空間を断絶させ、その廻間に入り口を設置していることは間違いない。
ただ問題なのは、その断絶面が容易に見つからないことである。
(視覚、聴覚では捉えられなさそうね。)
かれこれ1時間は周辺の捜索に明け暮れていた永琳だったが、未だ手掛かりは何もつかめない。
この一帯にマヨヒガへの入り口があることは間違いないのだが。
少し考えるそぶりを見せた後、永琳は往診鞄を開け、薬瓶を一つ取り出し、空中に散布し始めた。
永琳が使っているのは薬。
空間に干渉する機能などない。
しかし、稀代の薬師は薬品の特性を把握しつくしている。
通常の使われ方以外にも、いろいろと使いようはある。
薬瓶から放たれた薬剤は地上に達することなく空中で霧散する。
その霧散した中を永琳はしばらく入念に何かを調べるように歩き回る。
その後、今度は別の薬瓶を取り出し、同様に気化させる。
はたから見れば、何かの液体を空中に投げ上げ、その中を散歩する銀髪の女性に見える。
恐ろしいのは、散布域の植物が変色したり、一部が不自然に成長し肥大したりしていることか。
そんな中を何事もなかったかのように、平然と歩き続ける永琳。
ようやく何かを見つけたように、木のふもとで立ち止まる。
(見つけた。)
視覚も聴覚も嗅覚も駄目。
唯一、特定の化学物質の変化には対応していなかった。
永琳は、散布した物質の変化を見極め、肌で感じ取り、異なる結合を起こす境目を総当たりで探していたのだ。
それがここ。
空中のある一面を境に、その左側と右側では結合の速度に差異があったのを、永琳は見逃さなかった。
お目当ての断絶面はご丁寧にも、木の随分と高い位置に設置されてあった。
どうりで簡単には見つからないはずである。
(ま、こんなものね。)
安堵したかのように、永琳の表情が和らぐ。
マヨヒガの入り口を探るだけで、既に日が高くなり始めるまでに時間を取られてしまった。
強がってはいるものの、想定より少し時間が押している。
ただ目下の課題は、時間よりも断絶面の場所である。
そこに接触するためには、随分と高いところまで木を登らなければならない。
見上げるほどの木の高さに入り口は設置されていたのだ。
(何もこんな原始的な警戒方法も加えなくても…。)
木の上は捕食者が少なく、また視界にも入りづらい。
原始的ながらも有効な手。
現に永琳は随分な足止めを食ってしまっている。
さらに、空を自由に飛べるわけでもない永琳は、木の高い位置に移動する手段は限られていた。
木登りである。
この年にして、木登り…。
永琳は自身が樹上に登っていく姿を想像し、躊躇してしまう。
数万の年月を過ごしているとはいえ、永琳も見た目は妙齢の女性。
(見た目の)若い女性が木にしがみついて登る姿などそうそう見かけるものではない。
誰に見られているわけでもないとはいえ、思わず周囲を見渡してしまう永琳。
伊達に年は取っていない。
身体操作術も一通りは体得しているため、木登り程度、そこまで困難な体術ではないが。
問題はそこではないのだ。
逡巡していても仕方がない。
再度あたりを見渡し、生物が周辺にいないことを確認する。
もっとも数刻前までいたとしても、さっき振りまいた大量の薬品の中を生き延びた生物は絶無だろう。
自分を説得するかのように考えをまとめ、永琳はやおらに長い着物の裾を大きくたくし上げた。
永遠亭を出る前、戦闘も予想していたが、もともと殴る、蹴るといった動作はそこまで習熟しているわけではない。
どちらかというと永琳は頭脳担当で、接近されれば、特製の薬品をたっぷり塗り込んだ矢尻で相手の皮膚を少し傷つければ、ことは終わる。
そのため、特段動きやすい恰好をしてきているわけではなかった。
いうなればゆったりとした、普段通りの薬師の恰好。
木登りには全く向かない格好。
戦闘要員として優曇華院をつれてくるか少し迷っていたが、連れてきていたら、どちらが先に上るかしばらく揉めた末に、師匠権限を発動させて先にうどんげを登らせていただろう。
理由は簡単。
パンツが見えるからだ。
だが幸か不幸か今は一人。
永琳は大きくたくし上げたスカートの裾同士を結わえ、結びあげる。
言うまでもなく、下着は丸出しである。
この状態で、木を登る。
つまり、木にしがみつき、さながらカエルのように足を開きながら、よじ登っていくのである。
(最悪。)
周りに人妖がいなくてよかった。
いれば理由もなく永琳に消されていただろう。
今一度周囲を見渡し、完全に誰もいないことを確認したうえで、ようやく意を決し、仕方なく木にしがみつき、木登りを始める永琳。
こんな馬鹿げた運動、何千年とやったことはない。
未だ恥じらいを知らない幼女でなければできないような芸当を、まさか月の頭脳と呼ばれる永琳がやることになるとは。
それでも器用に往診鞄を片手に持ちながら、するすると木を登っていく。
とはいえ、木の表皮はなめらかではない。
おまけに永琳は平均よりも大きな双丘の持ち主である。
その豊満な胸部が幾分か登頂を阻む。
それだけではない。
永琳の持つ木登りに関する知識によれば、腕だけに負担をかけないように、腰と脚を木の幹に密着させ、体重を支えることが肝要である。
ところが永琳の腰回りを守っている装備は、外出時に愛用している、少し派手目の黒いショーツのみである。
この状態で、大きく開いた両太ももを稼働させながら、全身を使って、尺取虫のように登るのが木登りのうまいやり方なのである。
否が応でも永琳の最も秘すべき部分が、黒の薄手のショーツ越しに荒い木の表皮にこすり上げられることになる。
ズリズリ、ズリズリ。
何の意志も持たないただの樹木が、だんだんと永琳の思考をあらぬ方向へと持っていく。
まさか、こんな馬鹿らしい行動に下劣な興奮を覚えるなど、そんな馬鹿なことがあってはならない。
しかし、残酷にも目的の高さまではかなりの距離がある。
木と格闘しているうちに、永琳の意志とは裏腹に、身体の防衛反応が働き始める。
女性の最も繊細で重要な器官を、外部の荒い刺激から守るために、永琳の恥部は潤滑液を分泌し始めたのだ。
(くっ、馬鹿馬鹿しいっ…!)
永琳は、腹部の奥からにじみ出てくる、抑えきれない感覚をも同時に相手をしなくてはならなくなった。
敵地に侵入しようというのに、まさか木に股を擦り付けて快感を得そうになっているなどと。
あるはずがない。
絶対にそんなことにはならない。
永琳は努めて平静を装い、口を真一文字に結びながら、木に陰部を擦り付け続け…、いや木登りを続ける。
まだまだ目的の高さまでは10メートルはあろうか。
永琳は、自身の体の底から沸き起こる否定しがたい、いやらしい感覚に、必死に抵抗しているつもりでいる。
ところが永琳の身体の方はといえば。
自慢の双丘の先に色づく蕾は、硬くなり始めてしまっている。
こちらは赤と黒の薬師の衣装に加え、ショーツとおそろいの少し派手目な黒いブラに守られているとはいえ、
断続的に与えられる刺激に屈し、必要以上に永琳を発情状態へと誘う。
無心で登っているつもりの永琳だが、その動きには変化が出てきた。
いくら木登りに適している破廉恥なガニ股の姿勢でも、決して股ぐらを木の表面に密着させ、体重を必要以上に陰埠にかける必要などないはずである。
しかし今の永琳は、黒のパンティに彩られた大きな尻肉を、ザラザラとした樹木に密着させ、本来不要なはずの上下の動きを加えながら木の幹を両脚で抱え込んでいる。
股座で体重を支えるよりも、脚で踏ん張ったほうが、木を登る方法としては負担が少ないのではないか?
わざわざ恥ずかしい部分を木に密着させて刺激を得る必要などないはずである。
明らかに趣旨が変わってきている。
本人は否定するだろうが、外見上では、永琳は劣情を癒すために、わざと股間部を荒い木の表面に押し付け、少しでも強く恥部からの快楽を得られるよう態勢を維持し、
気持ちいい場所を擦り上げるようにして木を登っている。
(…境界術式解除の方ほ…っ!!
……方法は、確か……っ!ふっ!!)
次なる問題を解決するために、現実的な思考を働かせようとする永琳だが、つのる劣情に押し流され、頭の中すらよからぬ感覚に支配され始める。
今や戦うべき相手は八雲でもなんでもなく、はしたなく快感をむさぼれという、体が求める誘惑との戦いとなっている。
呼吸もだんだん乱れ、息が荒くなってくる。
木登りという肉体運動からくる乱れ、だけでは説明がつかなさそうだ。
継続的に押し寄せる、永琳の秘部からの刺激にさすがの永琳の理性も陥落寸前。
樹木を相手に大きく股を開き、黒のショーツ一枚で股間を押し付けざるを得ないのは、登頂という大義名分があってのこと。
決して他意などない。
もし登頂に関係のない運動を行ってしまったとあっては、月の頭脳が眼前の快楽に屈してしまったということになってしまう。
それだけは避けたいところだが…。
(ハァハァ…、もうこれ…っ!)
(しちゃおう…)
永琳はおずおずと態勢を変えた。
これまでは腰の角度を一定に保ち、極力刺激しないように残していた器官。
恥豆。
ここを…木に差し出した。
そして申し訳程度に木を登る。
「くぅ…!!」
(さすがにキクッ!!)
木を登ったのは2秒だけ。
陰核に伝わる強烈な快感に、一瞬で思考が焼き切れてしまう。
木登りなど放棄し、その場で木を相手に、股座をいやらしく振り始めてしまった。
大義名分をかなぐり捨て、ついにまごうことなき野外オナニーを始めてしまった永琳。
木の高いところで樹木にしがみつき、突き出した大きなお尻にパンティを添え、大股開きで陰核をこれでもかというほど木に擦り付けている。
下着のクロッチ部分は元の黒色をさらに黒く塗り替え、秘穴を覆っている部分はさらに潤いを増すばかり。
さらなる潤滑油を得た敏感豆をさらに刺激するべく、永琳の臀部が円を描き始める。
最早木登りでもなんでもなく、ただ快楽を得るためだけの運動へと移行した。
下半身を装飾する湿った布きれも、もはや永琳の秘肉を守るというよりも、むしろ快感への屈伏に手を貸してしまっている。
敏感な箇所への過度の刺激を和らげ、絶妙な刺激を提供するための性具と化している。
永琳自身も気分の昂ぶりに比例し、腰つきのいやらしさを増す。
ここが野外であることを失念しているかのように、下着としての役割を失ってしまったショーツを最大限活用し、大きな尻肉を大きくグラインドさせながら快楽をむさぼる。
その動きの激しさに耐えかねて、永琳愛用のパンティは秘すべきところを隠す役目を時々失っていた。
本人の知る由もないが、クロッチが横にずれ、時々ぷっくらと充血した陰唇が外気に触れてしまっている。
月の重要人物を何人も教育してきた最高頭脳と、美貌を併せ持つ女性の、見られてはいけない場所。
これまでほとんど他人の目に映させていない場所。
それがマヨヒガ入り口の無人の森で、人知れず外に晒されている。
「ハァ、ハァ、ンうぅぅぅ!!!」
永琳の腰使いがにわかに早くなる。
限界の時が近いのだ。
声を漏らしそうになるのを耐えるため、服の襟を強くかみしめ。
快楽を我慢し、そして楽しむように眉根を寄せ。
興奮の度合いを示すように、紅潮した頬を汗が一筋滴り落ちる。
さらに早くなる上下運動。
より強く木にしがみつき、陰埠を押し付け、布越しに充血し腫れあがった肉豆で凸凹を堪能する。
そして決壊の時が訪れる。
「ンムッ、ンムッ、ンンン、んはぁぁっ!!!!!!」
身体全体が強く痙攣し、収縮する。
頭を支配する真っ白な閃光。
しばし、その強烈な快感に身をゆだね、堪能する永琳。
数秒間、呼吸すらままならないほどに、その感覚を味わうと、今度は
堰を切ったように肩で息をし始める。
そして徐々に襲ってくる疲労感と脱力感。
徐々に戻ってくる正常な思考。
(………ほんとバカ。)
急に羞恥心が戻り始め、今更のように、地上を見渡す。
出歯亀がいたら即座に存在を抹消しなければ。
こんなところを誰かに見られていたら、生きてはいかれない。
幸いにも、先ほどと変わらず無人。
取り合えず、よし。
ホッとするのはとにかく登頂してからにしよう。
しばらくご無沙汰だったモノを解消できたと、今は前向きに考えておこう。
木登りを再開して数分もせずして、ようやく境界の断絶面のある枝分かれにまで辿りつく。
結界の確認は後だ。
まずはやれやれといった様子で、体についた木くずを手で払いのける永琳。
衣服はもちろん、さらけ出された内太もも、下着についた木くずもきれいに取り払う。
そして何よりも。
往診鞄を開き、替えの下着を取り出し、履き替える。
汗と体液で大いに汚れた方を、消毒液に浸し、鞄の奥底にしまい込む。
そしてようやく結わえていたスカートの裾を下すことができた。
隠すべき場所を隠すことで、ようやく人としての尊厳を取り戻せたような心地になる。
それはそうと。
結界の解除だ。
永琳は結界師ではないため、複雑な術式には対応できない。
しかし、そこは年の功。
特定の指向の術式、それ以外でもある程度のものなら解除することはできる。
幸いにも、マヨヒガへの道に通じる封印術は、永琳が習熟しているものの応用で書き上げられているようだ。
偶然にも。
断絶面に施された封印に触れながら、永琳は霊力を使いながら淡く光る紋様を展開していく。
ほんの数分の試行で紋様と封印が合致し、閉ざされていた空間が道を開く。
間違いない、八雲の住処への道だ。
空間が切り裂かれていく様は、何度か見た、あの八雲紫が扱っている能力と同じ様であった。
その空間の中にためらうことなく永琳は踏み入っていく。
境界を越えたとたんに肌の感触が変わる。
明らかに気温が下がっている。
それと同時に感じる何者かの視線。
間違いなく侵入は探知された。
そして目の前に広がるのは異様な空間。
まっすぐな廊下が続いている。
突き当りには階段、そして2階へ。
奇妙な点は、あらゆる空間がねじれている。
確かに廊下はまっすぐなのに、進行方向は頭上へ、地底へ。
1本しかないはずなのに道分かれている。
廊下の横の和風家具は壁から生え、ほこりをかぶった椅子と机は天地を逆に宙に浮く。
階段の手すりは右へ、階段は左へ。
開いたそばの扉は三面鏡の如く、果てしない均質な世界が広がっている。
(これは想像よりひどいわね。)
さすがの永琳も一瞬狼狽する。
踏み込んでわかったが、生き物の気配はない。
あたりを見回すと、目を背けたとたんに風景が変化しているのか、右を見て左を見て右を見ると、数秒前の光景はもうそこにはない。
何度か視線を変えると、その度に見える世界が一新されている。
永年生きてきたが初めて遭遇する体験だ。
これがマヨヒガを迷い家たらしめている正体か。
見覚えのある家具が再び出てきたかと思えば、なぜか永遠亭においてある箪笥が新たに天井から生えていたりする。
変化しないのは、外部からの闖入者である、自身と持ち込んだ往診鞄のみ。
永琳はおもむろに鞄を開き、マヨヒガに書いてある伝承を今一度確認する。
そしてその記述が何の役にも立たないことを理解する。
この空間は、観察者の記憶をもとに作り上げられているようだ。
伝承の中に記されている描写と、永琳が今見ている光景との間に共通する物は何一つない。
目の前にあるのは、すべていつかどこかで見たものだけで壁も、床も、畳も、扉も、家具も、すべてが構成されている。
その証拠に、何度か見まわしていると、月にいたころに見ていた兵器が置いてある。
(さて。困ったわね。)
もと来た道は、振り向いた瞬間にすでに消失していた。
代わりに現れたのは無限に続く巨大な部屋と奇天烈な内装。
通常の空間に戻ることができるのかすら定かではない。
ただ、ここも八雲が作り上げた空間のはず。
侵入者を阻むために作られたものであるはず。
だとしたら、侵攻を妨害するために何らかの規則性が存在するはず。
ランダムに生成されているように見える、この変化する光景にも、何らかの法則があるはず。
空間依存か、認識依存か、感情依存か。
観察者の記憶をもとに構成されているのであれば、自身の何かの要素をもとに世界が構築されているはずだ。
なるほど、八雲の住処はあらゆるものを寄せ付けず、誰も見たことがないというが、それもそのはずだ。
並大抵のものであればここで朽ち果ててもおかしくはない。
けれども、残念ながら今回闖入したのは月の頭脳、八意永琳。
多少の時間をかければどうとでもなるはず。
(この空間術式を作り上げたのは八雲紫?それとも式神の方?
楽しそうななぞなぞじゃない。)
鞄の中身に意識を割きながら、法則性を探し出していく。
何が使えるか。何が残っているか。
ここを抜ければ、月と地上の量子航路に干渉している輩と会うことができる。
目的を聞き、手段を断ち、再発の芽を潰す。
地上に作り上げた姫を保護するために。
様々な考えが去来する中、永琳はマヨヒガの中を歩き始めた。