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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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英語の共通テストに民間試験を導入すること(軸はGTECになるだろうが)をめぐって国会請願が行われたり、それをめぐってSNS上でもさまざまな議論が行われている。
 大原則として民間試験導入は反対だ。絶対反対だと言っていい。
 みていてGTEC=ベネッセの策謀にしか思えない。それを下村某がねじ込んだ。背後に何があるんだろうなんて言わない。背後にあるものはほとんど誰もが思っていることだろう。共通テストの実施で主導権を握ったらそれこそ河合塾だろうとどこだろうと太刀打ち出来ない。河合塾はケンブリッジ英検と提携しているようだけれども、ベネッセは学校現場に強く営業をかけ、すでに深く食い込んでいる。河合塾がこの点で巻き返せるとは到底思えない。
 共通テストの主導権をにぎったら、模試も、教材も、そしてカリキュラムもその主導権を握った会社が牛耳ることになる。学校の先生たちには到底逆らうことはできない。逆らうこと=受験指導を放棄すること、とみなされるに決まっている。ちゃんとした英語力をつけましょう、というようなことはキレイ事のお題目としてしか扱われないし、迷惑です、と言われるようになるだろう。
 教育を巡ってとてつもない市場占有率になることは目に見えている。
 CEFRの問題。CEFRのどこに該当するのかは自己申告のようで、文科省は確認していない。ベネッセについては一般財団法人進学基準研究機構(CEES)と共同研究のような形でGTECとCERFとの関係についてのレポートを出しているが、進学基準研究機構(CEES)は事務局をベネッセの社屋内においていて、まぁ、そういうことですね、という感じだ。
 いったいどうやったらこれで「公平な入試になるというんでしょうか?」という感じだ。
 採点基準の問題、採点官の問題…
 さらには、そもそも4技能という考え方が正しいのか、正しいとして、それを共通テストとして行いうるのか、という問題もある。阿部公彦氏に言わせると、「そもそも喋る前に聞けないと、そこで何が話されているのかわからないとしゃべれないでしょ、それには語彙とかいろいろ必要になるでしょ」と言っているが、まったくだと思う。例えば同時通訳者は、事前にその分野の本をかなり読み込み、言葉を覚えるらしい。じゃないとまともに通訳できない。通訳できない以前に、何を言っているのか分からないかもしれない。日本の高校生が経済学者の学会に出ても、そこでは日本語で話をされているにしても、内容がわからない、何を言っているのか分からない状態になるのと同じだ。
 学校教育で英語を十分に使えるようにしたいのであれば、まずは授業時間を倍くらいにしないとダメだと思う。入試をいじったからと言ってどうこうなるようなレベルの問題ではない。英語と日本語(韓国語なども)語族が違い、根本的に言語の構造が違う。だから日本語を母語にする人が英語を十分に使えるようにしようと思ったら、ほとんど「脳をもう一つつくる」くらいのことをしないといけない。それは中国の人が英語を学ぶというのはかなり違う。
 以前に中国人の家族の人に聞いたことがあるが、子どもは中国語と日本語と療法に触れているが、そうすると語順が混乱するらしい。動詞と目的語の順番が違うからだ。けれども、英語を習っていて、英語だったら大丈夫だと言っていた。そちらのほうがずっと馴染みやすい。まぁそうだろうな、と思う。
 「もう一つ、脳をつくる」。
 単純に時間をかければできないことはない。できないことはない、というよりも、子どもが2,3年アメリカに出ても行って、それなりの指導を受けていればたいていしゃべることができるようにはなる。
 だから言語の習得というものは、ある意味では「誰にでもできる」けれども、時間と労力がかかる、と思う。
 だから日本の学校教育が良いとは思わないけど、入試をいじったら変わるなんて思ったら大間違いだ。
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幼児教育や児童教育の方法論についてはさまざまな議論が立てられている。
 中学、高校の学習についてもあるけれども…

 よく「無限の可能性」なんていうけれども、現場でのたうち回るものとしてはそう簡単には口にできない。いや、極めて有限な可能性しか無いのではないかと思うことだってある。

 ただ、ときどき劇的な変化をする生徒がいる。
 そうした劇的な変化の可能性は誰にでもあるのだろうか。いったいどういうメカニズムで起こるのか、今ひとつわからない。

 第二言語の獲得についての研究は少し参考になる気がするけれども…。
 研究書が非常に少ない気がする。
[  02/13  メモ  ]
「外科医はだれしも自分の中に小さな共同墓地をもっており、ときおりそこを訪れ、祈りを捧げる――そこは苦渋と悔恨の場所であり、外科医はそこで自分が犯してきた失敗の数々の言い訳をさがさなければならない」
(『外科の哲学』1951年 ルネ・ルリッシュ)

「苦しむ者のなかに
私の助言を求める者のなかに
人間を見ることができますように
富者か貧者かでもなく
友人か敵かでもなく
善か悪かでもなく
ただ人間だけを見ることができますように」
(モーゼス・マイモニデスの祈り)

ひとの命の流れは一夜の夢のごとく
朝に生え出ずる青草のごとし
朝に花開きて栄え
夕べには、刈られて枯るるなり…
われらがすべての年のつくるは一息のごとし
われらが年をふる日は七十歳にすぎず
あるいは健やかにして八十歳にいたらん
されどその誇りと栄光とはただ勤労と偽りとのみ
そはたちまちにして断たれ、われらもまた飛び去れり…
願わくはわれらにおのが日を数うることを教えて
知恵の心を得さしめたまえ
(詩篇九十篇)


【医師・医学者・医療従事者とその現場から】

■ジェローム・グループマン『医者は現場でどう考えるか』(石風社)
■ジェローム・グループマン『毎日が贈りもの』(サンマーク出版)
■ダニエル・オーフリ『医師の感情~「平静の心」が揺れるとき』(医学書房)
■アーサー・クラインマン『病の語り~慢性の病をめぐる臨床人類学』(誠信書房)
■アトゥール・ガワンデ『医者は最善を尽くしているか~医療現場の常識を変えた11のエピソード』(みすず書房)
■ヘンリー・マーシュ『脳外科医マーシュの告白』(NHK出版)

■西村ユミ『語りかける身体』(ゆみる出版)

■松永正訓『運命の子 トリソミー』(小学館)
■松永正訓『小児固形がんと闘う 命のカレンダー』(講談社)
■吉岡秀人『死にゆく子どもを救え 途上国医療現場の日記』(冨山房インターナショナル)


【医療過誤、医療過誤の被害から】
■ソレル・キング『ジョージィの物語~小さな女の子の死が医療にもたらした大きな変化』(英治出版)
■勝村久司『僕の「星の王子さま」へ』(幻冬舎文庫)


【医者はどのような存在になりうるのか。どのような社会的関わりがあるのか 肯定的にも、否定的にも】
■菅谷昭『チェルノブイリ診療記』(新潮文庫)
■NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命』(新潮文庫)
■津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(岩波書店)
■アレキサンダー・ミッチャーリッヒ/フレート・ミールケ『人間性なき医学~ナチスと人体実験』(ビイング・ネット・プレス)
■原田正純『宝子たち~胎児性水俣病に学んだ50年』(弦書房)
■原田正純『水俣病』(岩波新書)
■石牟礼道子・水俣三部作


【地震・大災害、原爆と医療・医者の役割】
■中井久夫
■安克昌
■肥田舜太郎


【医療をめぐる考察のために】
■鷲田清一『「聴く」ことの力~臨床哲学試論』(筑摩書房)
■M・フーコー『臨床医学の誕生』(みすず書房)
■中井久夫『西欧精神医学背景史』(みすず書房)
■中井久夫『治療文化論 精神医学的再構築の試み』(岩波現代文庫)
■津田敏秀『医学的根拠とは何か』(岩波新書)
■津田敏秀『医学と仮説』(岩波科学ライブラリー)
■梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫)
■山本義隆『16世紀文化革命』(2巻本)(みすず書房)
■米国医療の質委員会/医学研究所『人はだれでも間違える より安全な医療システムを目指して』
■米国医療の質委員会/医学研究所『医療の質 谷間を越えて21世紀システムへ』
トランプの勝利、堤未果のアメリカ関係のレポートをほぼすべて読む。医療現場の崩壊的な状況は凄まじい。
 現場の医師はどうしているのか?
 医学部志望の生徒が毎年少なくないこともあって、アトゥール・ガワンデ『医師は最善を尽くしているか』、ジェローム・グループマン『医者は現場でどう考えるか』を読む。いまはダニエル・オーフリ『医師の感情』を読んでいる。

 個別指導の現場にいるものとしてそこらの学習論や受験指南書などよりもはるかに学ぶものがある。ないようはおいおい何らかの形で出していく。

 ただアメリカの医師たちの驚くほどの率直さ、何の衒いもなく、茶化すこともなく、卑下することも誇示することもなく自分の揺れ動く思考や感情を切り開いていく。そして自分の誤診、その患者の死を淡々と語り、しかも経験をききに行った相手の医者にも「一番最近の誤診はなんですか?」とまっすぐにきく。そして相手は一瞬ためらい、そして答える。「一番最近の誤診」。いままでいくつもあったが、その中で一番最近のものは、ときいている。こんなことをきき、相手は答える。そして文章に公開してしまう。その姿に感動すらする。

 それを支えているのは患者への眼差しだろう。

 振り返って考えることが多々ある。恥じ入ることもある。

 人間をみて、人間と人間の格闘が行われている現場として医療の場がある。そこで医師は闘い続けている。戦場は違うけれども、まだまだやらなければいけないこと、やれるかもしれないことがあるような気がする。
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