博多花街の美妓たち

チュータローとたどる 福岡・博多「2000年の道」
「博多献上道中」で先頭を行く博多券番の芸者さんたち(令和元年10月)

チュータローとたどる福岡・博多「2000年の道」

Season1~大博通り界隈 Act6~博多花街の美妓たち

密貿易事件と「博多小女郎」


前回ご紹介した二代目伊藤小左衛門(生年不詳、1667年没)らによる武器密貿易の発覚と一党の処刑は、当時の世間を騒然とさせた大事件でした。その後、長崎を舞台にしたこれらの密貿易事件と実在したという遊女「博多小女郎」などを素材にして、近松門左衛門が浄瑠璃「博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)」を創作。大坂・竹本座で上演(初演は1718年)されて大評判を取ります。
さらに、この物語の前半部分は「恋湊博多諷(こいみなとはかたのひとふし)」という歌舞伎の演目にもなりました。博多や長崎でも興行したことがある七世市川團十郎の当たり狂言となり、これまた大評判になったということです。そのあらすじは…。
京都の商人、小町屋惣七は博多への便船に乗った際、船主の毛剃(けぞり)九右衛門が密貿易の頭目であることを知ったため、海に投げ込まれてしまいます。運良く命拾いした惣七は、博多の遊郭「奥田屋」に夫婦約束をしていた遊女・小女郎を訪ねますが、豪遊する毛剃一味とバッタリ再会。実は、毛剃は小女郎にぞっこんで、身請け話を進めていたのです。結局、惣七は仕返しもならず、小女郎の身請けを条件に毛剃の仲間に加わってしまいます。ここまでが前半のお話。後段では、京で小女郎と所帯を持った惣七が、父親の忠告を受けて毛剃と手を切り、草津へ落ち延びたものの、罪状がばれて自害して果てるというストーリー。
ところで、「芸どころ博多」は秋田と並ぶ美人の産地としても全国的に有名。吾輩もネコとはいえ、りっぱなオスなので、やはり関心は大いにありますニャ。
一時期は低迷していた博多券番ですが、近年では「博多の伝統の担い手になりませんか」と芸妓さんの新人募集を始め、若手育成で復活。今では、毎年暮れに博多座で開催される「博多をどり」をはじめ、正月の十日恵比須神社の徒歩(かち)詣り、10月の博多秋博で大博通り界隈の寺町を練り歩く「博多献上道中」など、博多を代表するイベントで大活躍中です。
そこで、本日のメーンのお題は、清掻(すががき)さんざめく博多の花街の歴史。そこに生きた美妓たちの悲しい物語です。

「博多献上道中」で先頭を行く博多券番の芸者さんたち(令和元年10月)

名娼「明月」の愛と死

慶長5(1600)年に筑前国に入部した黒田長政は、福岡の街づくりに着手し、博多・石堂川の河口近くに花街をつくりました。これが博多柳町。黒田藩の儒学者・貝原益軒は、博多は中世から唐船との交易で栄えたため、最も古い時代から遊郭が発展したのだろうと推測しています。
さて、時代は寛文年間(1661~73年)。備中国の窪屋与三郎の一人娘お秋は評判の美人で、父の親友である伏岡左衛門の息子の金吾と婚約が整いました。ところが、矢倉監物という武士が横恋慕。金吾を亡き者にせんと企み、ある夜、下城途中の左衛門を金吾と間違えて惨殺し、逐電したのです。金吾は父の仇を追い求めましたがあえなく病死。お秋は金吾を追って母とともに九州まで来ましたが、母も病死したのでした。
その後、故郷の父親も死んで天涯孤独になったお秋は、悪者に騙されて柳町遊郭の薩摩屋に売り飛ばされました。「明月」という源氏名を名乗ったお秋は、苦海に身を沈めながらひたすら仏法に帰依し、毎朝欠かさず萬行寺に参詣。参詣できない日は、薩摩屋から萬行寺までの距離を廊下で足踏みし、念仏したといいます。
数年後、薩摩屋で亡くなった明月は、遺言により萬行寺に葬られました。そして不思議なことに、明月の墓地からは白い蓮の華が咲いたというのです。人々は「仏果を得て極楽浄土に召されたのであろ」とうわさしました。こうして名娼・明月の悲恋物語は、のちのちの世まで博多の人々の語り草になりましたとさ。

萬行寺(福岡市博多区祇園町)境内にある明月の墓には、香華が絶えることがない

もう一人の遊女「雪友」の墓

遊女は亡くなると無縁仏の扱いで葬られるのが普通ですが、中には戒名をもらい立派な個人墓に埋葬された人もいるのです。その一人が、福岡市博多区中呉服町の選擇寺(せんちゃくじ)境内に葬られている妓楼「角屋」の遊女雪友。
選擇寺は柳町遊郭の檀那寺で、過去帳には17世紀から明治の初めまで、580人の遊女と思しき女性の死が記録されているのだそうです。その一人が、幕末の文久元(1861)年6月27日に19歳で亡くなったといわれる雪友。永代供養料十両に加えて墓まで建ててもらった「幸運の遊女」とする説もありますが、実際は雪友が自分の母親の供養のために墓を建て、その母親と一緒に眠っているというのが真相のようで、墓石には二人の女性の戒名が刻まれています。
この雪友と名もなく死んだ多くの遊女の霊を慰めるため、毎年6月27日の雪友の命日を「紫陽花(あじさい)忌」とし、選擇寺で法要が行われてきました。今は故あって中断しているようですが、本堂の仏壇には毎年奉納されてきた遊女姿の博多人形が所狭しと並んでいます。

選擇寺(福岡市博多区中呉服町)境内にある「雪友」のお墓

チュータローの日記~クレオパトラとエリザベス

今回のテーマは美女の物語だったので、吾輩の日記も美女とネコに関するエピソードをご紹介しましょう。
「世界の美女」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが「クレオパトラか楊貴妃か~」。ところで、わたくしの顔に“クレオパトラの痕跡”があるのをご存じかな? 目尻から頬にかけて延びる黒く流麗な線。これこそが、高貴なネコの象徴とされる(?)その名も「クレオパトラ・ライン」なのです。
映画ファンのみなさんは、1963年度にアカデミー賞4部門を受賞したジョセフ・L・マンキーウイッツ監督の名画「クレオパトラ」を覚えておられるでしょう。製作費290億円、出演者総数22万3千人という空前絶後のハリウッド超大作。リチャード・バートン演じるアントニー、レックス・ハリスン演じるシーザーとともに歴史巨編のヒロイン・クレオパトラを演じたのは名女優エリザベス・テーラー。彼女の妖艶なマスクに施された化粧こそが、「クレオパトラ・ライン」だったのです。もちろん、吾輩は生まれていないので、アクビ先生からの受け売りですけどね(´Д`)。
さて、そのエリザベス。英国女王の名前でもございますが、実はこれもネコに関係があるのです。わたくしたちネコは、ケガや病気、手術などをしたとき、患部をなめて治そうと致します。病院で薬を塗ってもらった時には、患部をなめないように、お医者さんがラッパのような円錐形をした樹脂製のカラーを首に巻いてくれます。その形が、女王エリザベスの首回りを飾った丸い襟に似ているため、付いた名前が「エリザベス・カラー」。
以上が「ネコとクレオパトラとエリザベス」の三題噺でございました。

吾輩自慢の「クレオパトラ・ライン」を、とくとご覧あれ!


【ガイド】濡衣(ぬれぎぬ)塚
 大博通りからはちょっとはずれていますが、石堂川の畔にある濡衣塚の伝説は、父親に殺された悲劇の女性の物語。聖武天皇の御世(8世紀)、筑前の守として下ってきた佐野近世は、京から連れて来た妻を亡くし後妻を迎えました。後妻は先妻の娘をいびり抜き、殺害を計画。漁師を巻き込んで、娘がこの漁師の仕事着を盗んだと父親に訴えさせました。娘は寝ているうちに継母から濡れた仕事着を着せられて臥せっており、これを見た父親が騙されたとも知らずに娘を斬り殺してしまった、というお話。その翌年、父親の夢枕に立った娘は、こんな歌を詠みました。
ぬれ衣の袖よりつたふ なみだこそ
なき名をながす ためしなりけれ
自分の過ちを悟った父親は、後妻を離縁し、自分は仏門に入ったのだそうです。
「濡れ衣を着せる」という言葉の由来となった濡衣塚があるのは、梓書院が入っているビルの目の前。福岡市営地下鉄千代県庁口、西鉄バス千代町下車。
写真=悲劇の娘の霊を供養する濡衣塚
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