長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
巡業部の発案、発行……日本相撲協会発行の大相撲カレンダーが、引っ張りだこのチケットの人気そのままに、今年も好評のようである。今では各家庭になくてはならぬものとなっている。テレビのドラマでも各家庭や飲食店の点景として登場することも少なくない。昨年大きく模様替えし(A3サイズ見開きタイプ)て、2年目の今年は、紋付き袴の関取衆がつくる「令和」の人文字が表紙。
これ以前は、一般的な数枚つづりの長尺、壁掛けタイプのスタイル(巻き癖が強かった……)が長く続いてきた。
この大相撲の暦のルーツについて私の記憶をたどると、それは昭和46(1971)年の、巡業部が発行したポスタータイプの1枚カレンダーに行きつく。
折から北・玉時代の幕開けと騒がれていた時代。トップに置かれていたのは、北の富士と玉の海の立ち合いの瞬間の一枚写真だった。暦を囲んだ銀の縁取りが鮮やかだったことがやけに印象に残っている。ページ物になったのはその2年後の48年で、武蔵川理事長(元幕内出羽の花)を中心にした協会挨拶がメインに据えられている。
当時のカレンダーは、各映画会社の発行するスターカレンダーが人気と話題の中心で、プロ野球の各球団もこの媒体にあれこれ工夫を凝らし始めた時期だったように思う。
柏戸・大鵬時代の超人気が影を潜め、相撲内容とは別に蔵前国技館への客足が遠のいていたころ、各親方衆は人気振興策に躍起だった。
我が師元大関松登の汗そこで巡業部が、カレンダーという年間を通して身近に使ってもらえる有効な媒体に着目したのだろう。立案者が誰かも今となってはわからない。しかし正直言って、それほど勝算があって踏み切ったものとも思えない。
なぜなら、最初のうちは、私の師匠(元大関松登の大山親方)が巡業部の担当者として、売り込み、また申し込み受け付けから発送、経理まで一人でこなしていたからだ。親方にしてもあそこまで大きな反響がやってくるとは思っていなかったに違いない。ところが思わぬ反響に、カレンダーを運ぶのに弟子の私はおろか、きゃしゃなおかみさんまで借り出して作業しなければならない破目!?になった。
取引の金額も増えたため、多額になったときは、几帳面で真面目一方の親方だけに、用心のため、金庫代わりのカバンごとホテルを取るということまでやっていた。
人々の目を見開かせたカレンダーの発行枚数はどんどん増え、巡業部での役割分担者が増えたばかりでなく、そのうちに相撲協会自体で扱わざるを得ないほど大事業になったのだった。
一人の協会員が一生懸命汗して誠実に仕事に打ちこむことによって、長い時間がかかっても、ついには現在のような大相撲人気の礎となって報われる日が来るんだ……新カレンダーのページをめくりつつ、私がいま改めて思い出しているのは、巡業部で大量の汗を拭き拭き、忙しく動き回っている親方の、ごっつい顔に浮かんだ満面の笑みである。
大相撲カレンダーある限り、あの巡業部室での師匠の仕事ぶり、ヒット企画の思い出と感動は、私にとって不滅である。
語り部=大山 進(元幕内・大飛)
月刊『相撲』令和2年1月号掲載
相撲 12月号 11月場所総決算号(No.916)