地雷の宝庫

主に戦後政治史に関する浅い考察。Twitterはこちら(https://mobile.twitter.com/_s8i_)

松の茶屋で逢いましょう。

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一月二十八日

 

「それで緒方君は、僕が会うと言ってどんな反応をしていた。」

「緒方さんは、吉田さんと会えると聞いてたいへん喜んでいました。」

「そうか………。」

 

すべてはこの日を以て決した。

その日、吉田は喧嘩別れして以来はじめて緒方と正面から向き合った。緒方は既にこの世の人ではなくなっていた。益谷秀次衆院議長)が緒方の遺体に追い縋らんばかりの様相で男泣きに泣いている。「緒方君にひと花咲かせてほしかった」悲痛な声をあげる益谷の向こう側には、岸信介石井光次郎、松野鶴平らが神妙な面持ちで並んでいた。

 

吉田と緒方が和解するはずの日だった。

長らく袂を分かっていた二人は、緒方の熱心な働きかけと、仲介役をつとめた林屋亀次郎の機転によって和解をする運びになっていたのである。

弔問に訪れた林屋はひとりでに俯いた。あんまりな結末だった。

 

一月二十六日

 

緒方は林屋亀次郎に丁重に頭を下げた。

「頼む、吉田さんと和解できるように一役買ってくれないか。」

緒方の横には、後にNHK会長に就任する”緒方派の軍師”の異名をとった野村秀雄が座っている。

林屋は、緒方の事情もよく知っていたし、吉田とも懇意であったので適任ではあったが、当人は乗り気でない。最初は渋っていた林屋だったが、緒方の「麻生(太賀吉)君に頼んでも駄目だった」の一言を聞いて、仲介役になり得る人間が自分しか残っていないことを悟り、万策尽きた緒方を救うべく大磯に向かうことを決心した。

 

同日

 

「どうせ君もまた緒方君のことで来たんだろう。そのことなら駄目だ。」

吉田は先手を打つように林屋を睨んだ。言葉の調子も険しく、取り付く島はありそうにない。それでも、このまま何もせずに帰っては子供のおつかい同様になってしまう。林屋は一計を案じ、かねてより慣れない政界に出た吉田を支えてきた”政治顧問”古島一雄の名を口にした。

「吉田さんは古島さんに、緒方君のことをよろしく面倒を見てやってくれと頼まれたはずでしょう。ここは、今は亡き古島さんの顔を立てると思って、どうか緒方君に力を貸してやってくれませんか。」

しばらく黙り込んで考えていた吉田は、やがて徐に面をあげて、「それほど言うのなら緒方に会ってやってもよい」と了承した。

 

同日

 

林屋と緒方は手を取り合って喜んだ。緒方は林屋の手をかたく握って何度も「ありがとう」と繰り返す。林屋もそんな緒方の様子を見て、二、三度頷いた。

 

日取りは早い方が良いということで、和解の日程は「一月二十八日」場所は、緒方行きつけの「松の茶屋」と決まった。

 

一月二十七日(?)

 

吉田と緒方を和解させるために動いていたのは、林屋だけではなかった。

小学校時代からの付き合いで、緒方派の金庫番もつとめた緒方の無二の親友、真藤慎太郎もまた二人の間を取り持つために奔走していた。

緒方当人には伝えず、飽くまで何があっても自分の責任にしようとするほどの献身ぶりであった。

 

真藤が「緒方君をどうか支援してやってくれませんか。」と切り出すと、吉田は「緒方君はどうも生ぬるい。ああいう煮え切らない態度では総理総裁にはなれないよ。来年の総裁選は僕が出て緒方を推してやろう。」と緒方支持の方針を口にしたという。

 

一月二十八日

 

吉田と林屋は揃って緒方邸に弔問に訪れた。

「緒方さんは吉田さんに会えると聞いてよろこんでいました。」

林屋の言葉を聞いて、吉田もまた喜んだ。

 

吉田は、許さないと決めたら絶対に許さない上に、嫌いな人間に対しては何処までも冷酷になれる政治家向きの特性を持っている。

その吉田が「緒方に会ってやってもいい」と口にしたということは、その段階で「許した」ということでもあったのだ。

 

遅れて駆けつけた真藤の「緒方さんの墓標を書いてくれませんか。」という申し出を吉田は快諾し、筆を手にした吉田の写真は翌日の朝刊に掲載された。

 

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今でも、吉田が書いた「緒方竹虎之墓」の墓標のもとで、緒方は眠っている。

 

石破茂は裏切り者なのか。

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はじめに

野党時代、石破茂は英雄として祭り上げられていた。総裁選に出馬すると、今度はネガティブキャンペーンが行われ一気に今までついていた一部の保守層が離れていった。与党に返り咲き、安倍政権が誕生してからは、「後ろから撃つ」「足を引っ張る」存在として批判されることが増えていった。

この十数年間、ひたすら私が見守ってきたのは、政治家・石破茂であり、また、人間・石破茂でもあったと思う。次第に柔らかくなっていく語り口や、批判や誹謗中傷を甘んじて受け入れる姿、失言をして反省している様子も、これまでは「何も言わずに」見守ってきた。

針を飲むような気持ちで過ごしてきた毎日の中で、わたしが肚の底に溜めてきた「お気持ち」なるものを少しだけ、この場を借りて書き残してみようかと思う。

 

一番になれない幼少時代

石破茂は幼い頃から「知事の息子」として「常に一番であること」を求められてきた。

鳥取大学学芸部附属小学校に入学すると、一年生であるにも関わらず、学業成績がトップでなければならないプレッシャーに苛まれることになる。

寝る前には、本当は「冒険王」や「少年サンデー」が読みたいと思っていても、「偉人伝」や「本当にあった世界の美しい話」を欠かさず朗読しなければならない。

授業参観の発表で間違えようものなら、「私が恥ずかしいではないですか!」と母親にこっぴどく叱られる。

毎月ある四教科のテストの順位は父兄に伝えられ、最初は「三十八人中十六番」という鳴かず飛ばずの成績だったことを知った石破の母親は激高し、その後、必死に勉強して一月後に五番目、三ヶ月後に二番目まで順位を上げるも、結局一番にはなれなかった。

 

苦難の日々はその後も続く。鳥取大学附属中学に進学する際の学力試験で一番で入学するようにと、母親にきつく言いつけられたのだ。

「また一番ですか」という不満を抱いたと、本人は当時を振り返っているが、「戦艦大和のプラモデルを買ってもらえる」というご褒美のために、このときも必死で勉強に励んだという。

____しかし、結果は四番目と奮わなかった。

流石に息子を可哀想に思った母親がプラモデルを買ってくれたらしいが、これらの経験は石破茂という人間の人格形成に多大な影響を及ぼしていると思う。総裁選に何度落ちても「そんなに物事が上手くいくはずがない」と動じることなく、ひねくれることもなく、自然体でいられるのは、彼の人生が序盤から「上手くいかないこと」の連続であったからなのではないだろうか。

 

知事の息子という呪縛

「お父さんが偉いのであって、お前が偉いのではない!出ていけ!お前なんかうちの子供じゃない!」

小学校二年生のとき、石破は、知事公邸を訪れた県庁職員に対してぞんざいな口を利いたという理由で、母の怒りを買い、寒空の下、家から追い出された。

父である石破二朗もまた厳格な人間で、人の目がある場所に息子と出かけると「知事の息子」として優遇されることが教育上良くないと考え、家族で外出する際の行き先にも海や山を選ぶことが多かったという。

 

加えて、石破が中学に入学したのは「七十年安保」を目前にした時代だった。

権力に反抗し、髪を伸ばす「反体制」が「格好のよいもの」とされた時代に「知事の息子」の居場所などというものが存在するはずがない。

石破は、生徒会長選挙、生徒会副会長選挙に立て続けに落選し、小学校時代からの友人にも徐々に距離を置かれていく。

そんな中、鳥取駅前で大きな火事が起こり、「石破の父親が火をつけたんだろう」と同級生に詰られたことを切っ掛けに、いよいよもって石破は、ここでは生きていけないという思いを強めていくことになった。

 

上京後の悲痛な日々

そんなわけで石破は鳥取を出て上京、一人暮らしをしながら慶應義塾高校に通うことになる。

誰も「石破」という苗字を知らない、それどころか誰も「石破」の読み方を知らない環境は痛快だった。

しかし、生粋の都会っ子が集まった校内に、またもや居場所を見出すことは難しく、教室の片隅で「人と付き合う方法」などという本を読む日々が続いたそうだ。

次第に、一浪してもいいから鳥取西高校に入り直したいとの想いが強くなっていき、強烈なホームシックで夜になると自然に東京駅へと足が向く。山陰行きの特急出雲を見送り、石川啄木の『故郷の 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く』を思い出しながら、「あれに乗れば帰れるのになあ」という何とも言えない気持ちを抱えて家に帰る。そんなことを三か月近く繰り返していたらしい。

しかし、夏休みに入る頃には環境にも慣れ、母親の「お前は運動神経が良くないが、みんな経験のないゴルフならそれなりになるのでは」というすすめもあって、ゴルフに入部した。

豊かな時代ではないので打ちっぱなしにも頻繁には行けなかったし、一生懸命練習しても上手くはならなかったが、最初は部内でビリだった長距離走の順位が二番目になったことで、ゴルフではなく体力づくりに熱中していく。妙な高校生活である。

 

挫折と恩人・竹下登橋本龍太郎

中学時代「このまま鳥取西高校に残って勉強すれば東大に入れるでしょうか。」と教師に尋ねた。

「お前では東大は難しいだろう。」と言われ、諦めた。

大学時代、「頑張れば司法試験に通るでしょうか。」と教授に尋ねた。

「お前では浪人しても難しいだろう。」と言われ、諦めた。

「それでは、大学に残って教員になることはできますか。」と再度尋ねた石破に教授は、「お前より優秀な奴が大学に残ることになっている。」と現実を突きつけ、学究の道も諦めた。

このように挫折によって、多くのものを諦めてきた石破が、それでも諦めきれなかったものが三つある。

それは、『今の奥さん、政治家になること、総裁になること』である。

大学四年間の片思いの末に振られても、再アタックして、ようやく結婚にこぎつけることができた。

当初出馬する予定だった選挙区から出馬できなくなり、田中派に入れなくても、下積み期間を経て政治家になることができた。

そして、総裁選に三回出馬して、三回とも日の目を見なかった彼が、いずれその本懐を遂げることができるのか、ということは、非常に大きな問題なのだ。

 

 

銀行員時代は、百万円多く貸してしまい「首吊って死のうかな」とまで思い悩み、

政治家になってからも、「増税改憲」を掲げていながら方針転換した宮澤内閣不信任案に賛同、今度こそ「増税改憲ができる」と思い、小沢一郎についていけば、今度は小沢まで「増税改憲もしない」方針に転換し、離党してひとりぼっちになる。(注釈1)(現在は①これ以上の増税はしない②改憲は合区解消などの方が優先すべきで、九条に関しては引き続き慎重な議論を重ねていく、という方針)そんな石破を叱ったのが竹下登で、自民党に引き戻したのが橋本龍太郎だ。

竹下は「正論で人を傷つけるようなことがあってはならないよ。」と石破に言いつけ、党内での居場所を作れるよう尽力した。

橋本は、事務所を訪れた石破を暖かく迎え、普段とは何も変わらない様子で接した。

 

今でも石破の議員会館の一室には、竹下と橋本の写真が飾ってある。

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彼の親中派路線は、彼を政界に引き込んだ田中角栄、そして恩人である竹下登橋本龍太郎の遺志を引き継いだものであると、私は考えている。

 

石破派の役割

石破派は人数が少なく、大して金の匂いもしない、新しい派閥である。

ところで、わたしは代議制民主主義に派閥は必要不可欠なものだと思っている。

「派閥をぶっ壊す」大層聞こえのいい言葉だが、この号令のもと官邸に権力を一極集中せしめようと謀略を練った政治家がいた。岸信介である。

そもそも派閥の起源は、財閥の解体にある。戦前、政友会は三井、民政党は三菱という資金供給窓口があり、財閥から党首、陣笠議員という政治資金供給の流れが定着していた。

しかし、財閥が解体され、中小企業の力が肥大化し、政治資金の流れも多様化した。

これを以て「より金が集まる、力のある議員」のところに人が集まるようになり、それがやがて派閥に形を変えたというわけだ。政治献金は所得とみなされ、所得税がかかるので、政治団体ということにすれば、所得税から逃れられることに気がついたのは石橋湛山で、それを利用して派閥を非政治団体にしてしまえば、金が集まりにくくなり、そのぶん党首や幹事長に金、即ち求心力であり権力を集中させられるということに気がついたのは岸信介であった。頭が良い。

そのようなわけで、派閥をなくすということは、党首に権限が集まるということであり、多大な危険性を秘めている。小泉政権で派閥をぶっ壊した成れの果てが、今の安倍政権一強体制とも言えるわけだ。

更に、保守には二つの系譜があると、田中秀征は述べている。保守本流と、自民党本流である。そこに佐高信の政治家四分類を加えると、

 

自民党本流(タカ)→始祖は岸信介

・クリーンなタカ(金絡みの不祥事は少ない、右翼傾向があるが力もある)

・ダーティーなタカ(よろしいならば戦争だ。)

保守本流(ハト)→始祖は吉田茂石橋湛山

・クリーンなハト(絶滅危惧種、金がない、力を持ちにくい)

・ダーティーなハト(代表例が田中角栄、金絡みの不祥事が多いが多様性があり、穏やか)

 

となる。クリーンなハトは石橋湛山が一番近いように思われるが、力で強引に自説を押し通さない分、金が何かと入り用であり、これらの欠点を補って資金調達に特化したのがダーティーなハトであると心得ている。この理論を適用するならば、安倍首相はクリーンなタカ(政権末期はややダーティー)であり、石破は力を持たぬクリーンなハトであると言えよう。そして、わたしは、ここに浪漫と使命感を見出しているのだ。派閥の無力化は、権力の暴走を生み出す。ならば、反安倍的な姿勢を崩さない石破派が力を持つことは、権力への抑止力となり、党、引いては国の利益ともなるだろうという使命感。

そして、「金か数(力)」がなければ総裁の椅子に足さえかけることが許されなかったような時代を越えて、今、石破が総裁候補と目されているという浪漫。

安倍首相が気に入らないから、石破を応援するわけではない。

政治は所詮「そんなもの」だが「それだけではないもの」でもあるのだ。二人を無理に比べようとも思わない。無意味であると知っているからだ。私は、石破茂という人間が総理総裁になることを夢見ているし、反対に総理総裁になれなかったとしても、党内の抑止力になるという汚れ役を全うすることを切望している。人には人の役割がある。保守政党は権力の維持を目的とするばかりに、カルト化もしやすい組織だ。

野党から与党に返り咲く一因を作った安倍首相を祭り上げる光景は、「英雄、吉田総裁のもとで百年体制を築きましょう」と万歳した頃から、寸分も変わらぬ保守の特性を表している。

祭り上げられる人間が決して悪いわけではない。犬は鳴くし、鳥は飛ぶ、それと同じように、保守政党というものは権力を維持してくれそうなリーダーを重んじる。だからこそ、派閥の領袖は、常に党首を牽制する姿勢を持ち、党内のバランスを保たねばならないのだが、現状、その役割を果たせそうなのは、悲しいかな、石破派しかない。

 

石破茂が正しいとは言わない

挫折に挫折を繰り返し、今も尚、苦衷の中にある石破茂は、決してリーダーシップのある政治家でも、間違いを犯さない正しい政治家でもないと思う。

「選挙の投票義務化」についてもそうだ。賛否両論なのは仕方がない。ただ、石破が優れているのは、一国民が「あなたの意見のここは間違えているのでは」と問い掛ければ、真摯に考え、場合によっては反省し、答えを返してくれる姿勢なのだ。

石破事務所の壁には、かつて、有権者から寄せられた意見書が印刷され、貼られていた。

国民の声に誠実に向き合う、その心構えは、彼が先輩議員から引き継いだものであり、「政治家が忠誠を尽くすべきは国民だけだ。」という心情にも反映されているものである。

これからも、時に間違え、行き詰まり、批判されながらも、馬鹿正直なまでに国民を信じ続ける石破茂を、私もまた信じている。

 

さいごに

石破茂には人間味がないと言われるが、それだけには反論したい。

奥さんに毎日電話をかけて、誕生日や記念日のプレゼントは忙しくても欠かさず、料理や掃除も手伝う。娘さんには時に怒られながらも、今でも一緒に生活しており、例えば、飲み会で深夜を過ぎるときは必ず家に電話を入れる。

猫が好きで、小さい頃から猫を拾って面倒を見ていたが、いつも決まって逃げられていたらしい。

オタク文化への造詣が深く、ガンダムの話をするときは目が輝いている。

被り物だって被る

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カレーも作る

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派閥の仲間とは仲良し

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そして守りたいこの笑顔

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一見して怖い人だと思われがちな石破茂だが、本当はドジもするし、揚げ物が好きだし、宇宙戦艦ヤマトを観て毎回泣くような、普通の人間なのである。

 

今まで、わたしは、批判に対して反論することで石破さんの印象を却って落としてはならないと何も言わないできた。きっとこれからもそうするだろう。けれど、石破茂を嫌っている人も、憎んでいる人も、この記事を読んで少しだけでいい。「変な政治家がいたものだな」と思ってくれたら、これ以上ないほど、石破オタク冥利に尽きる。

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締めに、赤澤亮正語録を置いて失敬させて頂きます。それでは、また。

 

 

 

麻武戦争は代理戦争に非ず

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「クリーンなタカより、ダーティなハトの方がマシ」

これは私が政治ウォッチングをする上で、何番目かに大切にしている信条である。

信念のない正義を囃し立てるよりも、信念のある悪を見守る方が余っ程面白い。

政治に綺麗事が介在する余地などない。

考えても見てほしい。大野伴睦は総裁選前に川島正次郎に3000万円を渡していたが、川島は池田に寝返った。池田は一体、川島にいくら渡していたのだろうか。当時の3000万円を現在に置き換えると

企業物価指数(国内企業物価指数)

101.5(令和元年)÷48.1(昭和35年)=2.11…倍

3000万円×2.1倍=6300万円 になる。

その後、池田は選挙に多額の資金を注ぎ込んだことが切っ掛けで九頭龍ダム汚職を起こすことになるわけだが、官僚の自殺と告発した記者の死、そして池田自身が病死したことによって真相は永遠に闇の中に葬られることとなった。

繰り返すようだが、政治の中に綺麗事が介在する余地などというものは存在しない。

 

そんな思わず目を背けたくなるような現実を、エンターテインメント仕立てで見せつけてくれるのが、他でもない「アソタケ戦争」なのだ。

 

今回はアソタケ戦争をこよなく愛する、この黒幕ちゃんがビシッとバシッと親愛なるフォロワー諸君に政治の世界の恐ろしさと愉快さをレクチャーしようと思う。まあそんなに期待せずに、肩の力を極限まで抜いてお付き合い頂けると有難い。なんてね。

 

まず、アソタケ戦争について簡単な説明をしておく。アソタケ戦争という言葉は存在しない。勝手に私が作った造語である。漢字にすると麻武戦争。生太郎と田良太から取っただけの何の捻りもない名称である。

彼らは福岡という地方都市で血で血を洗うような闘争を繰り広げている。どれほどその争いが熾烈かと言うと、県連大会で乱闘騒ぎが起きて警察が出動するほどである。

「松山(県連会長)は人間じゃねえ!!!!」

「やめて!民主主義だよ!自民党は民主主義だよ!!」

といった怒号が飛び交い、殴り合いが始まる場面を朝日新聞さんがYouTubeに掲載しているのでリンクを貼っておく

自民県連もめすぎて警察沙汰に 福岡、執行部方針に不満https://youtu.be/Ca-dZgwWk0k

 

これほどまでに揉めた原因は何なのか。

____その原因こそが麻武戦争なのである。

 

発端は、自民党が下野したあとの県連会長を誰にするか、という議論であった。

もともと武田氏は麻生氏の総裁選推薦人名簿にも名を連ねており、党内で麻生氏への総裁辞任を求める声が高まってきたときには結束の会なるものを作って、

「小手先の政治テクニックは国民には通用しない。ここで総裁(麻生氏)をすげ替えることには、政治家として賛成できない」

と主張している。このように、元来良好な関係を築いていたはずの二人が啀み合うようになったのは、麻生氏を差し置いて武田氏が県連会長に選出されたことが切っ掛けであったりする。

くだらないと思うかもしれないが、2009年の衆院選で福岡から当選した議員は、

の4名であり、県連側は名だたる重鎮達に会長職を今更任せるのは忍びないという思惑のもと、武田氏を推薦したところ、本当は自分に回ってくると思っていた麻生氏の反感を買い関係が拗れた_という、凄絶な入れ違いの連続が引き起こした悲劇なのだ。

 

__それくらいで終わればよかった。

例えば、松山政司議員も応援演説に麻生氏ではなく古賀氏を呼んでしまったことで、関係が悪化したという噂が流れるなどしたが、見る限り決定的な軋轢は生まれていないようであるし、この件に関しても、ここで終わっていれば、まだ関係改善の余地もあったのではないかと思う。

 

__だが、政治の世界はそんなに甘くなかった。

2011年の統一地方選挙にて自民党県連は2月5日、知事選候補選考委員会で同党県議団会長・蔵内勇夫氏の擁立を決めた。

しかし、「院政」を目論む麻生渡知事や、麻生太郎元首相が急遽小川洋氏の擁立を唱え始め、蔵内氏擁立を決めたはずの自民党県連が混乱し始めた

これを受けて、武田氏は蔵内氏に出馬辞退をしてもらうよう頭を下げなくてはならなくなり、完全にメンツを潰された形になってしまった。

 

その後も麻生氏の猛攻(という名の腹いせ)はまだまだ続く

まず、2012年12月の総選挙において、武田氏率いる県連は、福岡1区に古賀誠氏の秘書・新開裕司氏の公認申請をするつもりであったが、これも麻生氏が党本部に働きかけ、井上貴博県議にすげ替えてしまう。

2013年に行われた豊前市築上郡部の県議補選では、武田氏秘書の西元健氏が自民党公認で初当選を果たすことが出来たものの、またもや麻生氏の働きかけによって県連は別の元豊前市議を推薦し、西元氏は長らく自民党県議団に入ることができなくなった。

 

__そして、宿命の2014年4月に行われた行橋市選挙区の福岡県議会議員補欠選挙

無所属の新人・堀大助氏が、武田氏の秘書・小堤千寿氏に競り勝ち、初当選を果たしてしまう。

しかも、堀氏は名目上・無所属ということになっていたが、実は会長が武田氏から松山氏に交代し自民党県連からの公認を受けていたのである。

では何故、無所属ということになったのか。

それは、本来、武田氏の選挙区である福岡11区に含まれている行橋支部の青年局長を務めていた小堤氏が自民党の公認を受けることになっていたのにも関わらず、自民党福岡県連が推薦したのは勝った堀氏であったからだ。このことに武田氏と同党行橋支部は抗議して小堤氏を推薦。自民党が2つに分かれる事態となってしまった。

しかも、堀氏は元々維新の会の候補者として前の衆院選に出馬し、落選しており、それを無理に擁立したので先述した乱闘騒ぎに発展したのである。

 

ここまで読んでお分かり頂けただろうが、アソタケ戦争の前半戦は武田氏が麻生氏からメンツを潰される_即ち、麻生氏が武田氏を圧倒してきた戦いなのだ。しかし、この先、急に風向きが変わる。

 

なんてったって、武田良太は、あの田中六助の甥っ子なのだ。こんなところで退き下がるような男ではない。見た目は何故か年々藤山愛一郎に似てくるが、中身は生粋の川筋者なのである。

 

前哨戦_2016年福岡6区補選

鳩山邦夫総務相の死去に伴う衆院福岡6区補選で、武田氏は鳩山邦夫氏の次男で元福岡県大川市長の鳩山二郎氏を支援、麻生氏は蔵内勇夫氏の息子・蔵内謙氏を支援し、結局公認をどちらに出すか決まらず、当選した方が自民党に入党するというところにまでもつれ込んだ。

結果は鳩山二郎氏の当選で終わった。

衆院東京10区・福岡6区補選の結果を受けて_二階俊博幹事長/古屋圭司選対委員長(2016年10月23日)】https://youtu.be/fg3lqgR3cMU

鳩山氏の当選報告を受け、公認を出す旨を発表する二階氏の背後に武田氏が映っている。

__特筆しておかねばならないのは、このとき、小川知事が鳩山氏支持に回っていたということだ。このことが、後の保守分裂選挙を引き起こす引き金となる。

 

そして来るべき、2019年統一地方選挙

麻生氏と、補選で鳩山氏を推した小川知事の関係は日に日に悪化の一途を辿り、終いには自民党が小川知事の公認を取り下げてしまった。

これを受けて小川知事は、再出馬をするかすまいか検討する旨を発表、その後、再出馬することを決断する。それに対して麻生氏が黙っているわけがなく、元・厚生官僚の武内氏を急遽擁立。ここに晴れて、保守分裂の盤面が整った。

 

ここで各陣営のメンツを整理しておく。

小川陣営

 

武内陣営

 

んー、どう考えても小川陣営が強すぎる。

 

実際に知事選の様子を間近で見ていたので分かるが、明らかに大して非のない小川さんを、よく分からない理由で降ろした麻生さんへの怒りが、理不尽なことに武内さんに向くという流れ弾選挙であった。

 

テレビの前で開票結果を待っていたが、まさかの1分も経たずに「小川氏当選確実」というテロップが表示された。

 

これだけは言っておくが、私は、好ましく思っていない政治家であっても、事実を誇張してまで批判するようなことはしないように心がけている。

麻生副総理、現職知事実績「一つでもありますか」福岡知事選 https://youtu.be/GXIupx1Lt50

しかしもかかし、地元に帰ってきてこんなことを言うようじゃ、有権者の不評を買うのも仕方がないと言わざるを得ないのである。

 

f:id:shihoho11:20200701011756p:image小川氏を支持した自民党議員に対する麻生氏の発言


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麻生氏の発言を受けての武田氏の発言

 

あーーー、傑作。

まさにこれはエンターテインメントである

 

そして、先述した選挙結果の詳細も念の為掲載しておくが、

 

▽小川洋(無所属・現)当選 129万3648票
▽武内和久(無所属・新)34万5085票
▽篠田清(無所属・新)11万9871票

 

と、言うまでもなく、凄まじい小川氏の圧勝で保守分裂選挙は幕を閉じた。

 

おまけ

古賀誠のコメント

「いろいろな状況や環境の中でその時その時決断をするのは、党の責任者であり、難しい問題だ。ただ、7月の参議院選挙で、また一緒に頑張って、われわれの候補者を当選させるのかがいちばん大事なことで、それに向けてまとまっていくことだ」

山崎拓のコメント

「やはり選挙は県民の民意を無視した形で押し通そうとしたら、強力なしっぺ返しを受ける。オウンゴールでしょう」

(さすがに「麻生太郎は腹切って死ね」と言っていた人は完全に振り切れていて面白い)

 

 

更に波乱は続く

知事選も終わり、事態は収束したかに思えたが、メンツを潰された麻生氏が大人しくしているはずがない。

 

  1. 蔵内県連会長が辞任。次期会長を決めなくてはならなくなる。
  2. 武田氏は会長に岸田派の山本幸三元地方創生担当相を担ごうとする
  3. 麻生氏は原口剣生県議を担ごうとする
  4. 立候補には県連役員62人のうち20人以上の推薦人が必要だが、原口氏は県議ら43人の推薦人を集め、山本氏が立候補できない状況に追い込む。
  5. これに対して武田氏・山本氏は意義を唱えるが後の祭り
  6. 原口氏が県連会長に選出される
  7. 武田、山本両氏らが11日の総務会を欠席
  8. 福岡選出の議員13人中麻生派を除くの9人が異議を唱える事態に発展

 

加えて、武田氏のパーティの日程に蔵内氏の会合の日程を被せ、動員を分担するなどの偶然か故意的なものなのか分からないレベルの嫌がらせも行われていたりして笑ってしまう。

 

しかし、繰り返すようだが、武田良太はこれで黙ってるほど善人ではない

 

皆さんご存知の通り、武田氏は第4次安倍第2次改造内閣にて、

に任命された。

 

これに震え上がったのは私だけではないはずだ。

 

だって、あれだけ副総裁に面と向かって喧嘩売ってた人がまさか入閣するだなんて、誰も予想できないだろう。

 

実際、閣僚リストを受け取った麻生氏は武田氏の名前を指で弾いたというような話も、嘘だか本当だか分からないが巷には流れており、武田氏が勝ったと言っていいのか、それとも自由を奪うためにわざと入閣させたのかが分からない以上安易なことは言えないが、ただ、この人事を麻生氏が快く思っていないこと、そして、武田氏にとって絶好のチャンスであることは確実である。

 

アソタケ戦争の勝敗予想

わたしはこの長い戦争を制することになるのは、より寿命が長い方だと思っている。

不謹慎な発言だと承知の上で敢えて言うが、間違いなく79歳の麻生氏よりも52歳の武田氏の方が長生きするのは必然である。

それでなくても、麻生氏はそろそろ引退する時期に差し掛かっており、いくら地盤を息子が継いだところで、武田氏には対抗できない

加えて、麻生氏は本来、麻生支持だったはずの小川知事や山本氏までもを敵に回し、周りを固める議員は当選回数が少ない議員ばかりになっている。

資金力だけで言えば、麻生財閥を凌ぐ鳩山家もすっかり武田派であり、元々武田氏自身が山崎派に属していた縁もあって、麻生氏以外の重鎮も武田氏に対して敵対的ではない。

 

そして、何より特筆すべきは二階派の後継者が武田氏になる可能性があるということだ。

 

実際、武田氏は郵政選挙造反議員として勝ち抜いていたり、政権交代選挙では4万票以上の差を付けて当選していたり、県連会長時代の衆院選では11人中11人を当選させたり、党員獲得数が党内1位であったり…資金作り・党員を集める実績・選挙の強さにおいては派内に右に出る者がいない状況だ。

 

不祥事や失言などを起こす心配は無論メチャクチャあるが、派閥の面々を見渡してみても、後継者の有力候補の1人であることは言うまでもない。

 

もし、麻生氏が引退したあと、武田氏が二階派を継ぐようなことがあれば…

 

完全に福岡は麻生王国から武田帝国になるであろう。

 

この戦いを、麻生と二階の代理戦争などと嘯く評論家もいるが、それは違う。

アソタケ戦争は、紛うことなき、両雄対決なのである。

 

おまけ(2019年知事選後の武田氏のコメント)

「現職じゃない新人候補に推薦を決定した時も、今回の県連会長の決定も、全く一緒なわけ。『ルールには抵触してない』と。一部の県議会議員と一部の国会議員が密室で談合で決めて『ルールにのっとってる』って言うんだけど、この差で負けてるってことは、いかに組織を私物化しているかということの表れなんだよね」

 

「みんなの気持ちが完璧に離れてるってことにどうして気づかないのか。何でもいいから勝手に決めて、選挙やってみたら、みな負けるというようなことが、果たして許されるのか」

 

「ここ最近では、福岡6区の補選、県議会議員の補選、県知事選挙、全ての選挙で負けてるんですね。しかも大差で。知事選にいたっては、100万票負けるなんてことは、空前絶後ですよ。それはいかに自分たちの判断が間違っていたか。派閥抗争に持ち込もうという考えなんか、さらさらない。いかに、有権者というものに耳を傾けなかったか。そこの反省なくして、次に進むってことは考えられない」

 

「今まで何が悪かったのか、どこをどう改めなきゃいけないのかっていうことを検証して、それを改めることが大事なわけであって。そういう努力がなかったために、これだけの県民からそっぽ向かれるような結果が生まれたわけだから」

 

Q,メディアを責めるだけでいいのか?

知る権利とは生まれながらにして人間が持っているもので、しかし我々はいちいち当事者に話を聞きに行く訳にはいかないから、マスコミに代行してもらっている。「知る権利」を委託して、代わりに行使してもらっているのだ。しかし、国民の知る権利を預かっているマスコミは長らくその役割を十分に果たせていない。その起源は戦前にまで遡る。マスコミは戦争を止めることができなかった。

 

私事になってしまうが、私には大きな目標がある。

それは「かつてのネーションのように5~10人の少ない社員で、その時々、国籍も性別も問わず最も適切な専門家や当事者に直接電話を掛けてインタビューし、広告主に忖度することなく自由に記事を書けるクオリティペーパー」を作ることである。

(残念なことに私にはその能力がないので、出来ることなら神輿を担ぐ側に回りたいのだが)

 

これは後日公開する予定の緒方先生に関する記事でも述べていることだが、「戦時中、大新聞は全く戦争に抵抗しなかったが、信濃毎日新聞や福岡日日新聞のような地方紙や文藝春秋などの雑誌媒体は戦争に抵抗していた」というような批判を目にすることがある。

この指摘は目の付け所自体は間違っておらず、大新聞の広告収入への依存度が高く大所帯であるために社員の生活を守ろうと保守的になる傾向を鋭く突いていると思う。

しかし、指摘をした当人はきっと「だから大新聞は戦時中怠けていたのに今更戦争を批判する資格などない」と続けたいのだろうが、問題の本質はそこにない。

大新聞には限界がある。地方紙は読む人が限られる。比較的良質な雑誌媒体は発行するのが月に一度である場合が多く、それでは時流を見て適切に批判することが出来ない。

つまり、日本には「少人数で小回りが効き、全国規模に展開しており、少なくとも週刊ペースで発行されるクオリティペーパー」の存在が必要不可欠なのだ。

 

日本は緒方先生の言葉を借りれば「言論逼塞の時代」を経験した。数多の言論統制の法律に縛られ、発禁をかけられ、活版機には砂をかけられ、軍部や内務省に圧力をかけられた。それらに怯んだ言論人は次第に何も言わなくなり、寧ろ政府や軍部に忖度した報道を展開するようになった。形ばかりの抵抗も弱くて甘いばかりで、何の成果も遂げられなかった。

左派は軍部が全て悪かったと言い、右派はマスコミの揚げ足ばかりを取るが、それで何か得られるものはあるのだろうか。私達は、犯した過ちを三度繰り返さぬように歴史の教訓から学ばなければならない。「あの人が悪かった」という思考には意味がない。そこに続く言葉は「だから私は悪くない」であることが多いからだ。東條英機が悪い、朝日新聞が悪い。それは結構。ならば私も悪い。そういう当事者意識こそが、惨事を繰り返さないために必要なものなのである。

 

つまり、言論人は言論逼塞時代を省みて、どうすれば言論弾圧から言論の自由を守れるかという検証を怠り、それに対して「知る権利」を委託しているはずの国民は無関心か、短絡的な批判しか向けなかったためにこの言論が地に落ちた現状に至ったのではないかと私は考えているのだ。

 

ネットが普及して情報伝達のスピード自体は上がった、しかし信憑性は下がり、国民のメディアリテラシーが必要とされるようになった。

そんな中で、信頼出来る情報を正確に発信しようという意思のあるメディアに私は存在していて欲しい。これは願望なんかじゃない、「知る権利」を守るための闘いだ。

 

戦後マッカーサー司令部が廃止を命じた言論統制に当たる法律は「新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲載制限令、新聞事業令、言論出版集会結社臨時取締法、同上施行規制、戦時刑事特別法、国防保安法、軍機保護法、不穏文書取締法、軍用資源秘密保護法、重要産業団体令及び同上施行規制」であり、

これらを見たラスキー教授は「ナポレオン三世時代以外にこんな制度があったものなんだな」と嘲笑したと言う。

 

だから戦時中の新聞社が悪くないと言っている訳では無い。

しかし、私はこのような言論逼塞の時代を生きた戦時中の言論人達の声を、"現在言論に携わっている総ての人"に聞いて欲しいと感じる。

上述の法律は廃止された。だのに、満足に政府の不祥事も指摘できないばかりか、曖昧で裏付けの取れていない情報を掲載して世論の混乱を招いている現状を深く恥じ、反省して悔い改めて欲しいのだ。

 

短絡的な批判が却って裏目に出ることは既に分かっているはずだ。アベヤメロ、独裁政治だ、ナチスの再来だと中身のない感情的な言葉を連ねるほど、国民は「安倍さん可哀想」と体制を擁護するようになる。その"可哀想"の影に隠れて犠牲になった社会的に弱い立場に立たされている人達には誰も目を向けない社会になってしまう。日本は元来、マスコミの地位というものが高くない。だからこそ、欧米諸国よりも工夫してやっていかなければならないのだ。

 

「Q,メディアを責めるだけでいいのか?」

私達は自らの"知る権利"をメディアに預けている。だからこそ、今日のメディアの腐敗を彼等だけの責任にしてはならない。もう新聞なんか読まない、テレビも見ない、結構な事だが、そうやって簡単に切り捨てた先にあるのは「言論逼塞の時代」なのではないのだろうか。

 

 

 

 

歴史に生きるということ

時代に生きることと、歴史に生きることは違うという。今回は、2年前の保阪先生のお話を思い返しながら、「歴史に生きる」ということの大切さと、それが出来ていないが故の現在の政治の不甲斐なさについて論じていきたいと思う。

 

まず、時代の中での勝敗は簡単に歴史の中で覆ってしまうということを、いくつかの例を挙げながら示していく。

斎藤隆夫先生は戦時中に軍部に逆らった数少ない代議士の一人で、議会で軍を糾弾するような発言をしたために除名処分をくらうこととなった。

そのとき、除名処分に対して反対したのは僅か八名であり、二百名近くが棄権。百数十名が賛成したことで齋藤先生はその局面において理不尽な制裁を受けることになった。

しかし、歴史の中で見るとどうだろう。

寧ろ、そこで除名処分に賛成した人達の顔は醜く歪んではしないか、と保阪先生は指摘する。

私はその言葉を聞いて思わず背筋が伸びた。

齋藤先生は正に「試合に負けて勝負に勝った」即ち「時代の中では負けたが、歴史の中で勝った」のである。

個人的にもいくつか例を挙げてみようと思う。

まず、給与の殆どを書籍代に注ぎ込むことで知られていたリベラル派の教養人・渡辺錠太郎教育総監二・二六事件で斬殺されたが、今は陸軍の中の数少ない良識派として名を残しており、戦時中は複数の新聞社から追い出され、各方面から圧力をかけられていた桐生悠々の指摘は、戦後の検証の中で正確であったという評価が下され、最近ではドキュメンタリー番組が作られるほど再評価が進んでいる。

 

このように、時代の中で負けた人間が歴史の中で勝つ、或いは、時代の中で勝っていた人間が歴史の中では敗者になってしまうという例は尽きないのである。

 

何が言いたいか。それは安倍政権は既に「歴史の敗者」であるということだ。

では誰が勝者だというのか、お前が応援してる石破茂だとでも言うのか。

本当はそう言いたいところだがそれも違う。勝者など何処にもいないことが問題なのだ。

 

少し前に書店やコンビニの一角に設置された書籍コーナーに積まれた田中角栄先生の本を見て違和感を感じたことがあった。

「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を求める時代はもっと不幸だ」という言葉が脳裏を過ぎったからだ。

私達は誰を待っているのだろう。田中角栄先生のように圧倒的な人心掌握術を持った政治家か。吉田茂先生のような決断力ある政治家か。

 

吉田先生にも田中先生にも「歴史の中で生きる」意識があった。それは、サンフランシスコ講和条約を締結する代わりに沖縄に負担を強いることを選んだとき、いずれ恨まれるだろうと自分の決断が及ぼす重大さを認識する常識感覚、そして、日中国交正常化を成す前夜に石橋湛山の病床を見舞い、「貴方が夢見た国交正常化を成し遂げてきます」と約束した、政治を"点ではなく線で捉える"能力が齎していたものであったのではないかと私は考える。

 

自分が今から為すことは、それ以前に道を敷いてくれた先人の功績であり、そして未来に引き継いでくれる子孫あってこそのものである。

また、どんなに善い目的であったとしても、その影で不利益を被る人間も一定数いて、そういう人達から目を背ける政治であってはならない。

 

そういう意識こそが、一時的に反撥を招いたりすることもあるだろうが、後の世の人々、そして当初は対立していた人々からの確かな理解を得るための材料になるのだ。

 

 

しかし、繰り返すようだが、残念なことに最近の政治に「歴史に生きる」意識は微塵も感じられない。

沖縄の県民投票を完全に黙殺して埋め立てを断行するのも、国民が寝ている間に法案を通すのも、憲法改正を謳いながら「イメージ案」などという軽はずみな言葉で言辞を弄し、その中身に対する詳しい言及を避けているのも、この期に及んでマスク2枚配布するのも、歴史の中で見ればとんだ醜聞でしかない。

歴史に生きていればこんな恥ずかしいことは出来ないのが当たり前なのである。

100年後、自国の国民に何と言われているか、今は権力を持っているから物臭な国民は取り敢えず支持してくれるだろう。権力の匂いに釣られて寄ってくる人もたくさんいるだろう。けれど、死後の世界にまで権力は持っていけないし、それが怖くて始皇帝は不老不死の方法を探し求めた。いずれ教科書に彼が件のマスクをつけている写真が載るだろう。同じ時代を生きていないフラットな目を持つ未来の国民は何を思うだろうか。

 

これは、想像力の問題でもある。

政局を操って、その時上手く行けばそれが全てだと思うような短絡的な思考。安易にSNSで持論を展開し炎上する議員。明らかに危機に窮している国民の神経を逆撫でするような発言。この数ヶ月で飽きるくらいに目にしてきた。

彼らは、総じて、自分の言動がどういう反応を齎すかということを導き出すだけの想像力が欠落している。寧ろ、興味すらないのかもしれない。

リアルタイムの国民の反応を想像できない人間に、未来の国民が何を考えるか理解しろというのは、酷な話なのかもしれない。

 

どの道、私に言えるのは「今、暴論を振りかざしている政治家やコメンテーター、学者、無理のある法案を国民に確りした説明もなしに通すとき、それに賛同した議員の名前と顔」などは党派を問わず、思想も問わず、正確に書き留めて次世代に託さなくてはいけないということだけだ。

 

既に公文書すら改竄される時代になっているのだから。

 

 

 

どうでもよくなってきた人の保守論

日本で野党が流行らないのは、自民党の中に右派と左派が存在し、バランスを取っているからだ。とかつて時事放談の司会を務めた東京大学名誉教授・御厨貴氏は語った。

しかし、今日において、自民党の「バランスを取るシステム」は一種のバグとも言えるものによってその機能を停止しており、保守は右翼に形を変えた。

親しくしてくださっている社会党系の先生は「最近の自民党を見ていると、もう、どうでもいい。批判する気力もない。そういう感情もない。」とため息混じりに話しながら、その目はどこか遠くを見ていて、なんだか居た堪れない気分になってしまった。

保守には特有の責任というものがあるのだ。本来ならば。

自民党の結党時に当時の自由党総裁は「我々は十分の責任を負うと共に、保守の立場が今日何者であるのかということを深く認識せねばならない」と挨拶している。

それ(保守とは何かを認識し、責任を果たすこと)は内省自責すること、自己批判を絶えず繰り返すことによって達成されるものなのだ。

この自己批判によって、自民党は今まで左右のバランスを取ってきたと言っても過言ではないとすら思う。

保守は、気高く誇り高くあらねばならない。自らの品格を保つために、常に謙虚に自らの行いを顧み、誤りがあれば正し、同じ失敗を繰り返してはならない。その自己練磨によって身についた風格こそが保守を保守たらしめるのだ。

そして、そういった絶え間ない苦労があるからこそ保守は安定していて、ある意味で「かっこいい」存在であることができる。

 

だから、「自己批判することができない自民党」は、謂わば「保守としての役割を果たせていない自民党」にほかならない。

 

私達は思い出すべきだ。「血の滲む様な努力で日露戦争をすんでのところで勝ち抜いた先人の功績を声高に叫び散らす人々が、太平洋戦争を引き起こし、敗戦を招き、その功績すらも無に返した」ことを。

「この国を占領国から独立国に建て直し、身も蓋もない努力によって戦後の焼け跡から這い上がってきた先人の功績」を叫び散らすだけ叫び散らして、その一方で他国を蔑み、同じ失敗を繰り返してはならない。

 

保阪正康氏は「ナショナリズムの正体」の中で、家族や自分が属する組織に対する帰属意識の低さが「国家と国民」を直接結びつけているような風潮がある、と述べているが、私も、昨今の歪んだナショナリズムの正体はそういった帰属意識の低さが生んだ自己承認欲求から来ているものなのではないかと深く懸念している。

自らにも、家族や血筋にも、学歴にも、職場での立場にも自信を持てない人間が手っ取り早く自らの承認欲求を満たす手段として「国家」即ち「偉大な先人の功績」を食い潰しているように思えてならないのだ。

 

しかし、私は、足りない頭でここまで真面目に考えたのちに、「どうでもよく」なってしまった。

右翼と左翼はうつくしい蝶々の二枚の羽だ。だが、呼吸をしているのは地味な胴体の部分であることを忘れてはならない。

私は、どちらの美しい理想にも身を投じることができなかった。だから、美しさの欠片もない、ただの虫けらみたいな胴体として、たまに呼吸を止めてしまいたくなる。どちらを見ていても、「もう批判する気にもなれない」と遠い目をしていた先生の気持ちが今ならよくわかる。

痛い目をみなければわからないなら、痛い目をみればいいし、滅ばなければわからないのならば滅べばいい。

自分達が乗っている船に穴が空いてることにも気づかずに飛び跳ねて船体を揺らす乗組員はいずれ船と共に沈むしかない。

人間の思想を変えることなどできない。ならば、そのままの状態でなるべくマシな方向に自然に誘導するしかないのだろうと、かつての私は思っていた。

そして、それを実行するだけの力がない自分を腹の底から使えない無能だと思っていた。

けれど、もう、私が拘るものは国家でも幸福でもなくなってしまった。羽がもげれば死ぬだけだ。

 

最後にベーター・ヴァイスのこの言葉を記しておく

 

「私の生とは幻想である。

革命はもはや私の興味を惹かない。」

 

 

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  • ししまる

    ブログ仰る通りですね!
    先人が持っていた大義や矜持、責任
    の均衡感覚の無さ辛いです
    「私の生とは幻想である。
    革命はもはや私の興味を惹かない。」
    至言です

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右翼が中庸について本気出して考えてみた

どちらにも偏らないこと。
これが国家がとるべき道である。
長く変わらないもの。
これこそが世の定理である。 孔子

国権なくして国民の明日なく、
民権なくして国家の発展はない。
国家が巨大な船であったとして、右に偏れば右に、左に偏れば左に傾くことは世の道理である。
この極めて困難な平衡感覚を保ち続けるという役割を担うのは、通常、政治や司法といったものである。
保守政党革新政党が互いに牽制し合うことでバランスを取る二大政党制の仕組みが最も分かりやすい。

しかし、今日において、我が国に保守政党はあれど、それに匹敵するだけの革新政党は存在しない。これは由々しき事態である。
何も、保守が悪いという意味ではない。
先述したように国家が平衡感覚を失ってしまうことが問題なのだ。

政治がこの役割を担えない今、それを補うのは何か。

わたしは報道の役割であると考えるが、此方もどうして宛にはならない。

発行部数を伸ばすために新聞や週刊誌は挙って「反韓」「断韓」「売国野党」と書き立て現政権を礼讃している。

わたしは飽くまで自民党支持者であり、人並みに反韓感情もあるつもりだが、書店の経済誌コーナーを見たとき、ワイドショーを観たとき、そしてSNSを開いたとき、サアッと急激に怒りが冷めて代わりに言い様のない不安に襲われることがある。

このまま政治もメディアも右に偏り続ければ、間違いなくこの国は弱体化する。私はそう確信するものである。

では、この国難とも言うべき事態を打開するためにはどうすればよいのか。

必要なのは後藤新平の批判精神であるとわたしは考える。

私は、既成政党のどれがよいかを選択するどころか、どれもこれもだめだと徹底するしか、政治の堕落を救う道はないと思う。

つまり、政治を今日のように堕落させた第一の責任者は、現に分裂して互いに毒素を転嫁しあっている不純な多数党[旧政友会]であっても、第二[加藤高明率いる憲政会]第三[犬養毅率いる革新倶楽部]もまた第二・第三の責任を当然負わなければならないということだ。
しかしながら、既成政党所属の党員であっても、いったん過去の非をさとり、心機一転して善心に立ち戻れば、敬愛すべきわが友である。
私は、昔の悪行をどこまでも排斥するような非難の仕方は、既成政党の人々から過ちを悔い善におもむく機会を奪う過酷な追及であって、政界の革新浄化のためには、そういう峻烈無慈悲な態度はむしろ避けたほうが良いと思う。
そもそも政党が政戦の旗印として「憲政擁護」を大声で叫ぶということ自体、自分たちの無力と信用のなさとを告白する自殺行為なのではないか。
このような大国難を招いた罪の一切を政党に押し付け、今日の政毒にわれわれは無関係だ、われわれだけは清潔だと自認でもしようものなら、政毒の洗除など実にいつまでたっても不可能だと言わなければならない。
確かに、青年諸君および選挙権のない大多数の国民は、形式上は政治の門外漢で、功績も罪も無関係で直接の責任はないと言えばそうなのであり、責任逃れの口実はあるに違いないが、私は言いたい、青年諸君よ、そういう口実は捨ててしまえ、と。そういう逃げ口上が今の国家の病である、と。
たとえ、自分はその事に直接は関与していなくとも、一切の社会の悩み、国家の難儀は、全て自分たちの怠慢、自分たちの不徳、自分たちの無力が堆積した罪であると、深く内省自責する気持ちになってくださいとお願いしたい。この後藤にも責任があることは言うまでもない。

(「国難来たる」に収録されている1924年3月5日に後藤が東北帝大にて行った講演の内容を引用 )

 

自民党だけを批判して自分たちに全く責任がないと頑なに言い張る野党支持者

野党が政権を取っていた時代を引き合いに出して自分たちはまだマシだと驕る与党議員とその支持者

憲法を護る」だなんだと声高に叫ぶ野党議員

何もかもが自分には無関係だと思っている国民

これは現代政治に対する痛烈な皮肉である。

そして第一次世界大戦第二次世界大戦の間と現在の類似性を証明するものである。

我々はこの国難を乗り越えねばならない。

諸外国との関係は悪化し、実際に各地で観光客が減っている。韓国に依存するなと喚く人達は、観光地で勤勉に働く当事者を前にして、本当に同じことが言えるのか。

年収186万以下の国民が930万人いて、人口は81年で5000万人減る。そんななかで、私たちは今まで通りの生活を続けていけるのか。

「伝統とは変わらないことではない、続けることだ。」

京極夏彦氏は言う。まさにその通りだ。

我々は100年後、200年後の日本国民にこの美しい国土と平和な世の中を引き継ぐために、深く内省自責し、ある既成政党を盲信したりせず、当事者意識をもってこの国難に挑むべきなのだ。そして、この当事者意識こそが、わたしは、中庸のあるべき形なのではないかと思う。