
はじめに
野党時代、石破茂は英雄として祭り上げられていた。総裁選に出馬すると、今度はネガティブキャンペーンが行われ一気に今までついていた一部の保守層が離れていった。与党に返り咲き、安倍政権が誕生してからは、「後ろから撃つ」「足を引っ張る」存在として批判されることが増えていった。
この十数年間、ひたすら私が見守ってきたのは、政治家・石破茂であり、また、人間・石破茂でもあったと思う。次第に柔らかくなっていく語り口や、批判や誹謗中傷を甘んじて受け入れる姿、失言をして反省している様子も、これまでは「何も言わずに」見守ってきた。
針を飲むような気持ちで過ごしてきた毎日の中で、わたしが肚の底に溜めてきた「お気持ち」なるものを少しだけ、この場を借りて書き残してみようかと思う。
一番になれない幼少時代
石破茂は幼い頃から「知事の息子」として「常に一番であること」を求められてきた。
鳥取大学学芸部附属小学校に入学すると、一年生であるにも関わらず、学業成績がトップでなければならないプレッシャーに苛まれることになる。
寝る前には、本当は「冒険王」や「少年サンデー」が読みたいと思っていても、「偉人伝」や「本当にあった世界の美しい話」を欠かさず朗読しなければならない。
授業参観の発表で間違えようものなら、「私が恥ずかしいではないですか!」と母親にこっぴどく叱られる。
毎月ある四教科のテストの順位は父兄に伝えられ、最初は「三十八人中十六番」という鳴かず飛ばずの成績だったことを知った石破の母親は激高し、その後、必死に勉強して一月後に五番目、三ヶ月後に二番目まで順位を上げるも、結局一番にはなれなかった。
苦難の日々はその後も続く。鳥取大学附属中学に進学する際の学力試験で一番で入学するようにと、母親にきつく言いつけられたのだ。
「また一番ですか」という不満を抱いたと、本人は当時を振り返っているが、「戦艦大和のプラモデルを買ってもらえる」というご褒美のために、このときも必死で勉強に励んだという。
____しかし、結果は四番目と奮わなかった。
流石に息子を可哀想に思った母親がプラモデルを買ってくれたらしいが、これらの経験は石破茂という人間の人格形成に多大な影響を及ぼしていると思う。総裁選に何度落ちても「そんなに物事が上手くいくはずがない」と動じることなく、ひねくれることもなく、自然体でいられるのは、彼の人生が序盤から「上手くいかないこと」の連続であったからなのではないだろうか。
知事の息子という呪縛
「お父さんが偉いのであって、お前が偉いのではない!出ていけ!お前なんかうちの子供じゃない!」
小学校二年生のとき、石破は、知事公邸を訪れた県庁職員に対してぞんざいな口を利いたという理由で、母の怒りを買い、寒空の下、家から追い出された。
父である石破二朗もまた厳格な人間で、人の目がある場所に息子と出かけると「知事の息子」として優遇されることが教育上良くないと考え、家族で外出する際の行き先にも海や山を選ぶことが多かったという。
加えて、石破が中学に入学したのは「七十年安保」を目前にした時代だった。
権力に反抗し、髪を伸ばす「反体制」が「格好のよいもの」とされた時代に「知事の息子」の居場所などというものが存在するはずがない。
石破は、生徒会長選挙、生徒会副会長選挙に立て続けに落選し、小学校時代からの友人にも徐々に距離を置かれていく。
そんな中、鳥取駅前で大きな火事が起こり、「石破の父親が火をつけたんだろう」と同級生に詰られたことを切っ掛けに、いよいよもって石破は、ここでは生きていけないという思いを強めていくことになった。
上京後の悲痛な日々
そんなわけで石破は鳥取を出て上京、一人暮らしをしながら慶應義塾高校に通うことになる。
誰も「石破」という苗字を知らない、それどころか誰も「石破」の読み方を知らない環境は痛快だった。
しかし、生粋の都会っ子が集まった校内に、またもや居場所を見出すことは難しく、教室の片隅で「人と付き合う方法」などという本を読む日々が続いたそうだ。
次第に、一浪してもいいから鳥取西高校に入り直したいとの想いが強くなっていき、強烈なホームシックで夜になると自然に東京駅へと足が向く。山陰行きの特急出雲を見送り、石川啄木の『故郷の 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く』を思い出しながら、「あれに乗れば帰れるのになあ」という何とも言えない気持ちを抱えて家に帰る。そんなことを三か月近く繰り返していたらしい。
しかし、夏休みに入る頃には環境にも慣れ、母親の「お前は運動神経が良くないが、みんな経験のないゴルフならそれなりになるのでは」というすすめもあって、ゴルフに入部した。
豊かな時代ではないので打ちっぱなしにも頻繁には行けなかったし、一生懸命練習しても上手くはならなかったが、最初は部内でビリだった長距離走の順位が二番目になったことで、ゴルフではなく体力づくりに熱中していく。妙な高校生活である。
中学時代「このまま鳥取西高校に残って勉強すれば東大に入れるでしょうか。」と教師に尋ねた。
「お前では東大は難しいだろう。」と言われ、諦めた。
大学時代、「頑張れば司法試験に通るでしょうか。」と教授に尋ねた。
「お前では浪人しても難しいだろう。」と言われ、諦めた。
「それでは、大学に残って教員になることはできますか。」と再度尋ねた石破に教授は、「お前より優秀な奴が大学に残ることになっている。」と現実を突きつけ、学究の道も諦めた。
このように挫折によって、多くのものを諦めてきた石破が、それでも諦めきれなかったものが三つある。
それは、『今の奥さん、政治家になること、総裁になること』である。
大学四年間の片思いの末に振られても、再アタックして、ようやく結婚にこぎつけることができた。
当初出馬する予定だった選挙区から出馬できなくなり、田中派に入れなくても、下積み期間を経て政治家になることができた。
そして、総裁選に三回出馬して、三回とも日の目を見なかった彼が、いずれその本懐を遂げることができるのか、ということは、非常に大きな問題なのだ。
銀行員時代は、百万円多く貸してしまい「首吊って死のうかな」とまで思い悩み、
政治家になってからも、「増税、改憲」を掲げていながら方針転換した宮澤内閣不信任案に賛同、今度こそ「増税と改憲ができる」と思い、小沢一郎についていけば、今度は小沢まで「増税も改憲もしない」方針に転換し、離党してひとりぼっちになる。(注釈1)(現在は①これ以上の増税はしない②改憲は合区解消などの方が優先すべきで、九条に関しては引き続き慎重な議論を重ねていく、という方針)そんな石破を叱ったのが竹下登で、自民党に引き戻したのが橋本龍太郎だ。
竹下は「正論で人を傷つけるようなことがあってはならないよ。」と石破に言いつけ、党内での居場所を作れるよう尽力した。
橋本は、事務所を訪れた石破を暖かく迎え、普段とは何も変わらない様子で接した。
今でも石破の議員会館の一室には、竹下と橋本の写真が飾ってある。

彼の親中派路線は、彼を政界に引き込んだ田中角栄、そして恩人である竹下登や橋本龍太郎の遺志を引き継いだものであると、私は考えている。
石破派の役割
石破派は人数が少なく、大して金の匂いもしない、新しい派閥である。
ところで、わたしは代議制民主主義に派閥は必要不可欠なものだと思っている。
「派閥をぶっ壊す」大層聞こえのいい言葉だが、この号令のもと官邸に権力を一極集中せしめようと謀略を練った政治家がいた。岸信介である。
そもそも派閥の起源は、財閥の解体にある。戦前、政友会は三井、民政党は三菱という資金供給窓口があり、財閥から党首、陣笠議員という政治資金供給の流れが定着していた。
しかし、財閥が解体され、中小企業の力が肥大化し、政治資金の流れも多様化した。
これを以て「より金が集まる、力のある議員」のところに人が集まるようになり、それがやがて派閥に形を変えたというわけだ。政治献金は所得とみなされ、所得税がかかるので、政治団体ということにすれば、所得税から逃れられることに気がついたのは石橋湛山で、それを利用して派閥を非政治団体にしてしまえば、金が集まりにくくなり、そのぶん党首や幹事長に金、即ち求心力であり権力を集中させられるということに気がついたのは岸信介であった。頭が良い。
そのようなわけで、派閥をなくすということは、党首に権限が集まるということであり、多大な危険性を秘めている。小泉政権で派閥をぶっ壊した成れの果てが、今の安倍政権一強体制とも言えるわけだ。
更に、保守には二つの系譜があると、田中秀征は述べている。保守本流と、自民党本流である。そこに佐高信の政治家四分類を加えると、
自民党本流(タカ)→始祖は岸信介
・クリーンなタカ(金絡みの不祥事は少ない、右翼傾向があるが力もある)
・ダーティーなタカ(よろしいならば戦争だ。)
保守本流(ハト)→始祖は吉田茂や石橋湛山
・クリーンなハト(絶滅危惧種、金がない、力を持ちにくい)
・ダーティーなハト(代表例が田中角栄、金絡みの不祥事が多いが多様性があり、穏やか)
となる。クリーンなハトは石橋湛山が一番近いように思われるが、力で強引に自説を押し通さない分、金が何かと入り用であり、これらの欠点を補って資金調達に特化したのがダーティーなハトであると心得ている。この理論を適用するならば、安倍首相はクリーンなタカ(政権末期はややダーティー)であり、石破は力を持たぬクリーンなハトであると言えよう。そして、わたしは、ここに浪漫と使命感を見出しているのだ。派閥の無力化は、権力の暴走を生み出す。ならば、反安倍的な姿勢を崩さない石破派が力を持つことは、権力への抑止力となり、党、引いては国の利益ともなるだろうという使命感。
そして、「金か数(力)」がなければ総裁の椅子に足さえかけることが許されなかったような時代を越えて、今、石破が総裁候補と目されているという浪漫。
安倍首相が気に入らないから、石破を応援するわけではない。
政治は所詮「そんなもの」だが「それだけではないもの」でもあるのだ。二人を無理に比べようとも思わない。無意味であると知っているからだ。私は、石破茂という人間が総理総裁になることを夢見ているし、反対に総理総裁になれなかったとしても、党内の抑止力になるという汚れ役を全うすることを切望している。人には人の役割がある。保守政党は権力の維持を目的とするばかりに、カルト化もしやすい組織だ。
野党から与党に返り咲く一因を作った安倍首相を祭り上げる光景は、「英雄、吉田総裁のもとで百年体制を築きましょう」と万歳した頃から、寸分も変わらぬ保守の特性を表している。
祭り上げられる人間が決して悪いわけではない。犬は鳴くし、鳥は飛ぶ、それと同じように、保守政党というものは権力を維持してくれそうなリーダーを重んじる。だからこそ、派閥の領袖は、常に党首を牽制する姿勢を持ち、党内のバランスを保たねばならないのだが、現状、その役割を果たせそうなのは、悲しいかな、石破派しかない。
石破茂が正しいとは言わない
挫折に挫折を繰り返し、今も尚、苦衷の中にある石破茂は、決してリーダーシップのある政治家でも、間違いを犯さない正しい政治家でもないと思う。
「選挙の投票義務化」についてもそうだ。賛否両論なのは仕方がない。ただ、石破が優れているのは、一国民が「あなたの意見のここは間違えているのでは」と問い掛ければ、真摯に考え、場合によっては反省し、答えを返してくれる姿勢なのだ。
石破事務所の壁には、かつて、有権者から寄せられた意見書が印刷され、貼られていた。
国民の声に誠実に向き合う、その心構えは、彼が先輩議員から引き継いだものであり、「政治家が忠誠を尽くすべきは国民だけだ。」という心情にも反映されているものである。
これからも、時に間違え、行き詰まり、批判されながらも、馬鹿正直なまでに国民を信じ続ける石破茂を、私もまた信じている。
さいごに
石破茂には人間味がないと言われるが、それだけには反論したい。
奥さんに毎日電話をかけて、誕生日や記念日のプレゼントは忙しくても欠かさず、料理や掃除も手伝う。娘さんには時に怒られながらも、今でも一緒に生活しており、例えば、飲み会で深夜を過ぎるときは必ず家に電話を入れる。
猫が好きで、小さい頃から猫を拾って面倒を見ていたが、いつも決まって逃げられていたらしい。
オタク文化への造詣が深く、ガンダムの話をするときは目が輝いている。
被り物だって被る

カレーも作る

派閥の仲間とは仲良し

そして守りたいこの笑顔

一見して怖い人だと思われがちな石破茂だが、本当はドジもするし、揚げ物が好きだし、宇宙戦艦ヤマトを観て毎回泣くような、普通の人間なのである。
今まで、わたしは、批判に対して反論することで石破さんの印象を却って落としてはならないと何も言わないできた。きっとこれからもそうするだろう。けれど、石破茂を嫌っている人も、憎んでいる人も、この記事を読んで少しだけでいい。「変な政治家がいたものだな」と思ってくれたら、これ以上ないほど、石破オタク冥利に尽きる。


締めに、赤澤亮正語録を置いて失敬させて頂きます。それでは、また。