2-3.「あなたの負けです」
拳打にも種類がある。
速い拳。重い拳。
射程距離を制圧する切れ味鋭いジャブの連打。
疾風の如き『拳闘』の技術。
もしもその拳闘士が、岩をも砕く必殺の重さを手に入れたとすれば。
それこそ最強と呼ぶにふさわしいのではないか。
俺がその真髄を垣間見たのは、路上で行われている拳闘試合の中でだった。
いや、それは試合などでは断じてない。
賭博、不正、八百長が横行する、金を稼ぐための暴力の営み。
生きるための戦いである。
その日、俺は仕事も請け負わずに街をぶらぶらと歩いていた。
ある義理立てにより、カエル爺は樹人たちの土地を奪う事を断念した。
そのあおりを受けて予定されていた仕事の予定がドミノ倒しのように流れ、元から大雑把にその日暮らしで仕事を請け負っていた俺の予定は宙に浮いた。
あれ以来、どうにも気が乗らない。
無意識に足が吸い寄せられるのは、街を縦断する巨大な河だ。
全てを呑み込むかのような深遠で静謐な流れ。
その源流へと誘われていく。
『あの場所』に近付こうとする度、存在しない左腕が痺れるような錯覚に襲われる。
それでも気が付けば俺はそこに向かっていた。
呼ばれていると強く感じる。
俺は夜ごとに夢に見る。
毎晩、眠る度、必ず同じ夢を繰り返す。
水底から浮かび上がってくる泡のように、森の奥から聞こえる誰かの声。
不安と諦観、言い知れぬ焦燥。
本当にこんな日々を過ごしていていいのだろうか。
そんなはずはない。
だが、俺の足はどうしても前に進めない。
大河の両脇から架かっている橋を渡り、ちょっとした小島のような中洲へ。
ざわめきが大きくなる。
中洲はそのまま巨大な広場となっていた。
多種多様な小舟が行き交い、露店や通行人たちで賑わう活気の中心。
ここは出発点。旅立ちの地だ。
この場所に集った者たちはある目的地へと探索に赴く。
広場の中央には巨大な石柱が屹立し、不気味なことに無数の白骨死体が柱の周囲にへばりついている。太古の昔に磔刑にでもかけられた罪人か何かだろうか。
柱に蔦のようにへばりついた無数の屍は地面にまで伝い、大河の上までも通過して、それぞれが六つの方向へと伸びていた。
異様なことに、それらは引き剥がしても再び地中から姿を現し、水底に沈めようともまた浮かび上がってくる。どれほどの巨漢が踏み出そうとも水に沈むことはない。
不可思議な魔力が働いているとしか思えない『不死の道』だ。
大河の先にあるのは源流である広大な山、そして深い森。
『不死の道』の先にあるその『森』。
夜が訪れる度に天上で輝きを放つ、九つの星々。
この道の先には『何か』がある。
その『何か』を目指し、夢を抱く者たちがここに集まってきている。
それが何なのか、俺にはわからない。
だが、相争う敵同士がひとまず休戦して街の勢力争い程度に留めておく程度には重要なものであるのは確からしい。
カエル爺たちの暗闘など実際のところは片手間の抗争なのだ。
彼などは本来のトップが森に挑んでいる間、留守を任されている代理に過ぎない。
最低の治安を誇る暗黒街ではあるが、中央広場から繋がる『六つの道』を出歩く分にはそれほどの危険はない。その先に繋がる遺跡群とその周囲に広がるキャンプ地、ここに街が出来上がる基盤となった一画を踏み荒らそうという命知らずはいないからだ。
強さに果てはない。
俺は『達人』を知っている。
だがそれすらもきっと道の半ばでしかないのだと、世界の広さは俺に冷たく告げる。
街のシンボルである石柱、そのすぐ傍に屹立する巨大な石板を見上げた。
真上に『玉座に腰掛ける巨大なトカゲ』の彫像を乗せたその石板にはずらりと読めない文字列が並んでいる。
意味はわからない。
だが確かな事実がひとつ。これは名前のリストだ。
「六番目と、十七番目が無くなってる」
一週間前に記録した映像と比較すればそれは明らかだ。
そして、この石板を見て一喜一憂したり誇らしげに大声を張り上げたりする人々の反応。何よりも、以前カエル爺がこの石板に記されていた十番目の名をしきりに誇示していたこと。その文字が意味するであろう名を呼べばどんな荒くれ者でも恐れおののく事を考え合わせれば推測は容易い。
これは強者の番付だ。
大恩ある『達人』と災害の如き『怪人』は死闘の果てにこの暗黒の街から姿を消した。
恐らくはこの石板から消えた名前こそがあの二人を示す記号だったのだろう。
隔絶した実力差があるにも関わらず果敢に挑んだ師にはいくら敬意を表しても足りないが、それにしても恐るべきはこの街の底知れなさだ。
あの達人ですら十指に入れず、あの怪人の上に五人もの化け物がいるというのだ。
高みは遠い。俺の現在の位置を考えればなおさらだ。
「何故かあるんだよなあ」
しかも読める。
何せ俺の名前だけ漢字表記だ。わかりやすい三文字が目立つように刻まれている。
魔法やオカルトなんでもありの世界だからか、力量の変化や生死の状態によってその位置は刻一刻と入れ替わる。現在の俺の位置はといえば、
「七十一位」
上から百番まで刻まれた中でこれだからなんともコメントしづらい強さだ。
この街の人口がどれほどのものか、正確なところはわからないにしても上位であることは間違いないだろう。しかしふんぞり返って誇示できるほどの順位ではない。
強さなど相対的なものだ。
今まさに、目の前で順位が変動した。
石板の前、もはやお馴染みとなったイベントがその変化を加速させている。
殴り合いだ。
男と男、拳を構えての真っ向勝負。
賭けるのは金と名声、闘士としての誇り。
そして石板に刻まれた番付は勝利を重ねることで上を目指せるようだった。
血の気の多い者たちが二人の男を取り囲み、威勢の良いかけ声で囃し立てている。
移動屋台が菓子を売り、売り子が酒と軽食を運び、見物人が試合に端末を向ける。
便乗して商売を始める者がいれば、次は俺の番とウォームアップを始める者もいる。
拳闘試合。それは意地と拳のぶつけ合い。
樹人や犬人といった馴染み深い種族も参加しているが、目立つのは黒い肌の人種だ。
断定するにはこの世界の人種や種族は多様過ぎるが、呼び方を知らない。
俺の知るネグロイドに似た黒肌の彼らを仮に『黒肌人』としよう。
異世界である以上、黒人や白人、アジア人といった区別は通用しないはずだ。
この拳闘試合は彼ら黒肌人の仕切りだ。
屈強な上半身を露わにして布を巻いた拳のみで戦う、誇り高き闘士の集団。
のようにも見えるが、その内実は少々俗っぽい。
小石を手の中に握る者がいれば、組み合った首相撲の態勢で相手と密談を交わす者もいる。石板の陰でこそこそと金銭のやり取りをしている選手らしき姿もあるし、審判のポケットからは収まりきらなくなった紙幣が見え隠れする。
どいつもこいつも、不正を隠す気がなさ過ぎる。余りにも堂々とし過ぎていて、観客たちも気付いていながら楽しんでいるといった具合だ。
当然、揉め事も発生するがそれも金次第で丸く収まる。それでも結果が不満なら屈強な黒肌人の拳闘士たちが取り囲んで『ご理解いただく』というわけだ。
しかしながら、時折それでも納得しない強情な奴が現れる。
見覚えのある犬頭の巨漢が怒声を上げて二人の拳闘士を一気に薙ぎ倒した。
忘れもしないブルドッグ男だ。
少し前にリングでやりあった仲だが、こんなところで何してるんだか。
どうやら判定が納得出来なかったらしく、審判の胸ぐらを掴んで揺さぶっている。
それを黒肌人たちが囲んで止めようとしているのだが、ブルドッグ男はびくともしない。しかし凄まじい怪力だ。大の男が四人がかりの引っ張りに耐えている。
と、拳闘士たちが攻め手を変えた。
背後から拳を叩き込み始めたのだ。
無防備な背中を打撃された犬人はさすがに呻き、わずかによろめく。
そこに怒濤の滅多打ち。
拳闘士たちはブルドッグ男を囲んで背中を、脇腹を、頭を狙ってひたすら殴る。
やりすぎとさえ思える暴行を、見物人たちは口笛吹いて楽しそうに囃し立てた。
「たしかに見物だ。どこらへんでへばるかね」
この街に住んでいれば嫌でも暴力に慣れる。
ましてここ場所は石板の真正面。
暴力の強大さを『玉座のトカゲ』が裁定するここでは慈悲やら義侠心の出る幕はない。
とはいえそういった流儀を受け入れることができる者ばかりではないようだ。
大多数が血と熱狂を歓迎する中で、そうした光景に眉をひそめて目を逸らす者もいる。
ちょうど俺の目の前まで近付いて来ていた売り子がそういう善良な気質の持ち主だったらしい。憂鬱そうに四対一の戦いから目を背け、嵐が去るのを待っているようだ。
ふと、奇妙な既視感に気付く。
華のあるブラウスに肩からかけた黒いストールというシンプルな装いと相反するような金色の首輪、青い石が嵌まった腕輪に見覚えがあった。驚くほど長い髪は夜のように黒く、前髪が目を半分ほど隠している上に薄いヴェールで隠れているため顔立ちはほとんどわからない。
確か、地下闘技場でも売り子をやっていた人物だ。
こういう街だ、色々な事情持ちが集まる。
争いは苦手だが争いの近くで働かざるを得ない人だっているだろう。
不憫なことだが、俺にできるのは同情くらいだ。
「すみません、それくれますか」
とりあえず接客でもしてればあちらを見なくて済むだろう。
言葉は通じないが、ビールとナッツの現物を指差して紙幣を出すくらいはできる。
売り子はにこやかに応じて俺に商品を渡してくれた。
ちょうどそのあたりで乱闘騒ぎに変化が起きる。
「お、そろそろ限界が来たかな」
まあ目に見えていた結果だ。
売り子の人は見るに堪えないといった様子だったが、確かに見世物としてはひどいものだった。拳闘士の連中は普段ああいった相手と戦わないのだろう。ストリートの打撃系とリングの組み技系では確かにジャンルが違う。
打ちのめされるプロをあの程度のラッシュで制圧できるというのが根本的な思い違いだ。嘲りと侮りが混じった軽い連打で落ちるほどチャンピオンのタフネスは甘くない。
四人の拳闘士たちの息が上がっている。
いくら打ち込んでもびくともしない巨体に精神が疲労し始めているのだ。
いい加減に飽きてきたのだろう。
ブルドッグ男がのそりと身をもたげ、豪快に両腕を振るう。
闘技者の怪力が炸裂した瞬間だった。
真正面の拳闘士が股下から掬い上げられて豪快に持ち上げられる。
投げ落とす。
背中から地面に叩きつけられた黒肌人が短い呻き声を上げてびくりと痙攣し、そのまま動かなくなった。頭から落ちないようにしたのはチャンプなりのプライドだろう。
奴が本気になればあんなものだ。
地下闘技場が誇るチャンピオン、怪力の闘犬は相手が毒のような卑劣な手を使わない限りそうそう負けたりしない。
ブルドッグ男が四人もの拳闘士相手に力を見せつけたことで、石板の順位が変動する。
光輝く文字列が俺のやや上あたりに上昇。というかこれまで下だったのか。
豪快な逆転劇に観衆たちは大興奮だった。
ブルドッグ男が地下闘技場の覇者であることを知っている者がいたのか、彼の名前らしき音の連呼が始まる。
大人気のチャンプはすっかり気を良くした様子だ。満面の笑みを浮かべて審判の肩をバンバン叩いたり、倒れた拳闘士に手を差し伸べたりしている。
一方、面白く無いのは黒肌人たちだ。
公衆の面前で恥をかかされたわけだから無理もない。
負け惜しみのように差し伸べられた手を振り払い、立ち上がって唾を吐き出しながら何かをわめき立てる。
黒肌人のひとりが舌を伸ばしながらゲコゲコとカエルの鳴き真似をした辺りから空気がおかしくなってきた。別の黒肌人は馬鹿にしたようにブルドッグ男に言葉を投げかけ、続いてもうひとりがこちらに近付いてくる。
何をするつもりかと思えば、売り子がつまみとして売っていた魚の干物を乱暴に掴み取るとそれをブルドッグ男の目の前に放り投げる。
顎で指し示す仕草。『拾え』か『食え』だろうか。
屈辱に震えて牙を剥くブルドッグ。しかし今度は手を出さない。
なるほど、なんとなく見当がついた。
カエル爺や魚人どもに逆らえない事実を嘲笑されているのだろう。
犬人たちの種族集団は魚人たちとの抗争に敗れた。
現状、カエル爺は犬人をどのように飼い慣らすかの試行錯誤中だ。
地下闘技場であいつと俺がやりあわされていたのはそういう流れの一環でもある。
殴り返すことは容易だが、覆せない事実を指摘されているためにチャンプとしてのプライドがそれを許さない、そんなところだろうか。
とはいえ犬人のコミュニティが生きていくためには仕方の無い選択だ。
いくらブルドッグ男が屈強なチャンピオンであっても、武装した犯罪組織が相手では個人の強さなど吹けば飛ぶ程度のものでしかない。
首輪を付けられて従うだけの屈辱の人生。
リングの夢、闘争と強さを追い求める真の男。
その実態は惨めな負け犬というわけだ。
嘲笑されて当然だ。黒肌人たちも馬鹿笑いする。
楽しそうだし、折角だから混ぜて貰おう。
背後で女性の驚いたような声。理性的な売り子の人だろうが、意味がわからないので止まる理由は特にない。
無造作に歩み寄り、ゲラゲラと嘲笑を続ける黒肌人に気持ちの丈をぶつけてやる。
祝勝祝いのビールかけだ。
「負け惜しみプロレスでの勝利、おめでとう。これは俺からの奢りだ」
振り向いた顔にビール瓶で一撃。
罵声と共に殴りかかってきたもうひとりの拳を躱してつまみの袋をカウンターでお見舞いする。口の中に詰め込まれたナッツを顎先へのアッパーで強制咀嚼させた。
「美味いか?」
激昂して殴りかかってくるもうひとり。
その横っ面を巨漢の腕がひっぱたく。
巨漢の怪力で放つビンタは威力そのものよりも音と衝撃のでかさが精神に効く。
ふらつく拳闘士の両肩を掴んで、ブルドッグの凶暴な顔が獰猛な咆哮と共に迫る。
ヘッドバッド。おそらく星が見えただろう。
そこからはもう大乱闘だ。
俺とチャンプは追加で乱入してきた黒肌人たちを相手に殴り殴られ、蹴りに投げ飛ばしに噛み付きに投石まで駆使したみっともない喧嘩で場を大いに盛り上げた。
居合わせた見物客たちが口笛を吹き拍手喝采、楽器をかき鳴らす奴や歌い始める馬鹿までいる始末。この場所において喧嘩とは完全に消費される娯楽でしかない。
俺とチャンプは時に走り回り、時に屋台を引っ繰り返し、時に相手を河の中に投げ飛ばしたりしながら立ち回った。数的な利はあちらにあったが、体力と腕力ではこちらの圧勝だ。チャンプはもちろん、俺だって鍛え方と元々の規格が違う。
そんなふうにしてひとり、またひとりとダウンさせていった矢先だった。
その黒肌人は怒声と共に現れた。
大きい。二メートル以上は間違いなくある。
平均的な黒肌人を更に上回り、チャンプに迫るほどの巨漢だった。
顔を腫らして倒れる同胞たちに駆け寄り、鬼気迫る表情で呼びかけている。
呻き声を上げる負け犬どもがこちらを指差すと、鋭い敵意がこちらを貫いた。
なるほど、不甲斐ない子分にかわって今度は兄貴分の登場か。
隣で黒肌人を締め上げていたチャンプが舌なめずり。
とうにギブアップしていた対戦相手を放りだし、拳を鳴らして前に出る。
相手は完全に激怒している。
経緯を考えれば先に喧嘩を売ったのはあちらだが、もはやこの喧嘩はそのような段階にはない。お互いに引っ込みが付かないところまで来てしまった。
喧嘩のフェーズが移り変わる。
ここからは再び試合。あるいは決闘が始まるのだ。
チャンプと拳闘士のボスが睨み合う。
互いに構えたまま絶えず動きまわり、牽制するように立ち位置を変えていく。
仕掛けたのは犬人だった。とびかかるような機敏な動き。
迎え撃つ拳が、霞んで消える。
速い。これまで見てきた全ての拳闘士のどの拳よりも。
爆ぜた音は、果たして肉を打つ音か。
それとも大気を割り砕く衝撃音だったのか。
確かなのは、絶大なタフネスの持ち主であるチャンプが膝を突いたという事実。
打たれることを承知したブルドッグ男は当然だが筋肉を固めて肉体的防御を万全にしていたはずだ。その彼が呻き声と共に白目を剥いている。これまでとは明らかに受けているダメージの質が違う。
拳闘士に容赦はない。
そこからのチャンプはサンドバッグ同然だった。
胴体、顔、辛うじてガードの態勢を作った腕、ありとあらゆる箇所を滅多打ちにされ続ける。それは先ほどのような耐久力だけで凌ぎきれるようなものではない。
明らかに削り取られている。浸透する衝撃が体内を破壊しているのだ。
蓄積されたダメージの量が閾値を超える。
犬人の表情はもはや闘士のものではない。病院に担ぎ込まれるべき負傷者のそれだ。
そうして、あまりにも呆気なく格付けが完了した。
拳闘士は次の敵を俺と見定めて一歩を踏み出す。
敵はこちらが構えることを期待していたようだ。しかし俺は構えない。
どちらが強いのかは完全に明白だ。
しかし、勝敗はまだ決していない。
拳闘士の腰にしがみつく男がいた。
膝を突き、呼吸を乱してなお負けを認めていないチャンプの足掻きだ。
観客たちから白けたような反応。野次が飛び、からかうような声が投げつけられる。
惨めな姿を晒してなおチャンプは諦めない。
拳闘士は面倒くさそうにその頭を引き剥がそうとするが、しぶとい犬人は唸り声を上げて食らいつこうとする。苛立ちと共に放たれた強打がブルドッグの顔を打つ。
ダウン。だが、ふらつきながらも立ち上がる。
拳闘士は舌打ちし、再び打ちかかる。
もはやこれは試合でも勝負でもない。
サンドバッグを叩くだけの一方的なトレーニングだ。
野次を飛ばしている連中にはわかるまい。
チャンプはサンドバッグのまま勝つつもりだ。
いやまあ、あいつの内面や事情なんて知らないから適当に言ってるだけだが。
リングの外という自分の土俵外で発揮される異様な執念。
さしもの拳闘士も気圧されるものがあったのだろう。
苛立ちは焦燥に変わり、その表情が恐れとなる。
恐怖、それは時に生存を望む力を引き出させる。
ある種の戦士は恐怖を抱いた時の方が強さを発揮できるという。
この拳闘士はそのタイプだった。
それはすなわち、戦いのフェーズが更に変化したことを意味する。
試合、喧嘩、路上での力比べ。
その先にある、殺し合いへと。
打撃音が変質した。
その瞬間の拳闘士の顔をはっきり覚えている。
似た顔を見たことがある。
酔った弾みで知人を刺してしまった男。喧嘩が行き過ぎて流血沙汰を引き起こしてしまった男。愛した女が手に入らない絶望のあまり娼婦をくびり殺して慟哭する男。
馬鹿な男、そいつらが浮かべる間抜け顔だ。
不屈のチャンプが血を吐き倒れた。
見た瞬間やばいとわかった。口を切って出る量じゃない。
打撃された箇所が異様なへこみを見せている。
破れた皮膚、その内側からどうしてか砂がさらさらと溢れていた。
何が起きた。
まるで本当にブルドッグ男がサンドバッグになってしまったかのような怪現象。
しかし彼は生きた人間だ。俺と種族は違うが、肉体の仕組みとしては尋常な哺乳類に分類される生物である。中に砂が詰まっているわけがない。
後味悪そうにチャンプから離れる拳闘士。
あれは奴の仕業か。幻肢やら死なない怪人やらと同じように、魔法のような力を使ってあの犬人を殺そうとしたとでも言うのか。
負傷者に駆け寄る姿があった。
さっきの売り子だ。抉れた傷口に手を当てて押さえる。
ヴェール越しに拳闘士を睨み付け、短く何かを言った。
意味はわからない。だがそれはおそらく男の逆鱗に触れた。
恐らくは当人にとっても不本意な結果。
そこを責められたのが良くなかった。
おまけに連中は戦いの場に女が出て来ることを好まない。以前、鍛え上げた女性格闘家が路上試合に参加しようとして門前払いされるのを見た。
そういう文化圏にいる男が女に正論で責められたらどんな反応をするか。
答えはひとつ。
度を超した暴力の再現。拳闘士が拳を振り上げた。
であれば、止めてやるのが情けだろう。
大地を踏み砕く。
「発勁用意!」
見えない衝撃が宙を裂き、遙か離れた間合いの先に立つ拳闘士の頬をぶち抜いた。
成功率は未だに十割とはいかない『幻掌』だが、どうにか成功だ。
不意打ちをされた方にとっては不可解なはずの一撃。
だが拳闘士は構えを取っている俺を見て即座に理解したらしい。
表情を一目見てわかった。
完全にぶち切れている。奴は先ほどの殺し技を俺に使うつもりだ。
上等だ、と吼えるには少々情報が足りない。
あれは受ければ終わりの即死攻撃なのか、右腕で受けても平気なのか、そもそもどんなトリックを使っているのか。
あの拳闘士の拳速で打ち込まれて果たして回避や防御が可能なのか?
濃密な死の気配が近付いてくる。
こうなれば腹を括るしかない。
打ち合いはしない。そもそもできない。
覚悟を決めて最速手順で奴を殺す以外に生き残りの目はないのだ。
やるしかない、やってやるぞ畜生。
そう考え、足を踏み出そうとした瞬間だった。
視界を光が横切る。
鮮やかに輝く矢が必殺の魔拳を横殴りに撃ち抜いていた。
反射的に飛び退る拳闘士。
その視線の先には予想だにしていなかった乱入者が立っていた。
「お前、確か」
涼やかな美貌。松明の刻まれた鎧。
伸ばされた左手、その籠手の甲側には弧を描く虹色の弓が架かっていた。
かつて、毒手使いを殺したときに遭遇した修道騎士。
まるで救世主か何かのように。
俺と奴は、そうして再会を果たした。